知らない浅草寺
三度目の時短要請で、いよいよ勝負の『三週間』に突入する。 何もすることのない年寄りは、『不要不急の外出は避け』家でジ~~ット我慢の子。・・・・・と云うことで、年寄りの一人である私も、家で“朝寝、朝風呂、朝御飯”と思ったが・・・・・『そうは問屋が卸さない』、妻の一声『ゴミ出して!』、もう一声『10時に〇〇(嫁いだ娘)が来るよ!』、ついでに一声『散歩に出るんでしょ!』、いつものパターンである。
今日は『三密』を避ける気持ちで、早朝の浅草寺まで歩いてきた。
● 朝の7時50分、雷門の前に七五三(?) いやいや違った、早朝から結婚記念写真か(?) プロらしきカメラマンがいる、メイクする人もいる。、、、、近くで拝見すると、美男・美女のカップルだ! 自分の若い時を思い出す(70歳過ぎた今は美爺・美婆のカップルとなった) 若い二人が羨ましい!


・・・・・・・・・・・・若いカップルの撮影はおわり、人影少ない朝の仲見世をバッチリ!パチリ!

・・・・・・・・・・・・普段は、建物を撮りたくても、美人に目がいき、ついついトリアージして美人優先。 今日は参拝客・観光客が少なく、今が撮影チャンスだ!




・・・・・・・・・・・・修復中の本堂天井画、中央の川端龍子の「龍之図」は修復中の足場に隠れ見ることができず、左右に描かれた堂本印象の「天人之図」を見ることができた。 ヤッパリ、“龍”より“美人”か!

● 今日は浅草寺境内にあるもので、見ても記憶に残らないもの、見ずに素通りしてしまうもの、幾つか紹介する。
・・・・・・・・・・・・まずは、仁王門の右横にある「久米平内堂」、、、、久米平内は江戸時代前期の人で、天和3年(1683)に没した。 その生涯については諸説あるが、剣の道にすぐれ、多くの人を殺めたので、その罪を償うために「仁王坐禅」の法を修行し禅に打ち込んだ。 そして、自らの坐禅の姿を石に刻ませ、犯した罪を償うため、人通りの多い仁王門の近くに埋めて「踏みつけ」させたという。 それが転じて「文付け」となり、のちには恋の仲立ち役の神さまとなって崇拝された。 現在でも、私を含め恋の仲立ちに期待し、願いをこめる人は多い。、、、、現在の堂は昭和53年(1978)に再建されたもの。

・・・・・・・・・・・・現在、五重塔は仁王門の左手(西側)に建立されているが、かつてはその反対側(東側)に位置していた。 現在は、「旧五重塔跡」と記された石柱が跡地に建っている。 浅草寺の五重塔は、天慶5年(942)平公雅による創建以後、いく度か炎上するもその都度再建されている。 昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により惜しくも焼失した国宝旧五重塔(高さ33m)は、江戸時代の慶安元年(1648)、第三代将軍徳川家光(1604~51)により建立された。、、、、塔のあったこの付近は、修学旅行、ツアー旅行の集合場所。 いつもは、団体さんがウロチョロしている。

・・・・・・・・・・・・・・お札所の裏側に「鳩ポッポの歌碑」がある。、、、、「鳩ポッポ」の歌は作詞:東くめ 作曲:滝廉太郎である。 東くめが明治34年(1901)に観音さまの境内にて鳩とたわむれている子供らの愛らしい姿をそのまま歌によまれたものだ。 歌碑の建立に際しては、彫刻家:朝倉文夫から鳩の像と題字が寄せられた。 作曲者滝廉太郎と同郷旧知の深いゆかりに依るものと云われている。 歌詞は御存じかな? ♪♪ 鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ ポッポポッポととんでこい お寺のやねからおりてこい 豆をやるから みなたべよ たべてもすぐに かえらずに ポッポ ポッポと ないてあそべ ♪♪ この歌はたちまち全国に広がった。、、、、しかし、10年後の明治44年(1911)、音楽の教科書「尋常小学唱歌」にて歌詞をチョイト変えた「鳩」が登場した。(作者:不明) ♪♪ ぽっ ぽっ ぽっ 鳩ぽっぽ 豆がほしいか そらやるぞ みんなで仲善く 食べに来い ぽっ ぽっ ぽっ 鳩ぽっぽ 豆はうまいか 食べたなら 一度にそろって 飛んで行け ♪♪ 「鳩」が「鳩ポッポ」を制覇をしてしまった。、、、、この歌碑を見ていて気がついた、境内で糞を落としていた大勢の鳩が、いつの間にか境内で見なくなった! 何処へ行った?

・・・・・・・・・・・・鳩ポッポの歌碑の隣りに、「迷子しるべ石」がある。、、、、昔、迷子が出た時には、この石碑でその旨を知らせた。 石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み、右側面に「志らする方」、左側面に「たづぬる方」とし、それぞれに用件を記した貼紙で情報を交換した。 情報未発達の時代には重宝され、江戸市内の繁華な地に建てられたものの一つ。 安政7年(1860)、新吉原の松田屋嘉兵衛が、仁王門(宝蔵門)前に造立したが、昭和20年(1945)の空襲で倒壊したため、昭和32年(1957)に再建された。、、、、“コロナ”の世では、右に求人情報、左に求職情報を貼って、マッチングさせたらどうだろう? 『Indeed』には負けるかも、前言却下!

・・・・・・・・・・・・・・浅草寺の北側(裏側)、浅草寺病院に隣接する一画に浅草寺の支院が並んでいる、ここを「浅草寺一山支院」と称する。、、、、ここは、関東大震災後に区画整理でつくられた1100坪の敷地に、浅草寺の21の支院が集められ住宅地を形成している。 建物は不燃化のため、鉄筋コンクリート造、2階建て(現在の3階部分は後の増築)とし、基本は2院で1棟とする(入口は正反対になる)形態で設計し、昭和7年(1932)に竣工している。、、、、この建物群の設計は、大阪市中央公会堂、鳩山会館、黒田記念館など多くの名建築を残している岡田信一郎である。、、、、浅草寺参りの観光客も、散歩する近所の住民も、この建物に関心を持たず、ペチャクチャお喋りに夢中で、通り過ぎていく。 『文化財級の建物だよ!』と、教えてあげたいが、住んでいる方の迷惑になっても困るので内緒にしておく。



・・・・・・・・・・・・本堂の裏は広い駐車場、去年までは中国人ツアーの観光バス、黄色のはとバスなどで、連日満車状態。 この駐車場の北側(浅草寺病院側)に老夫婦の胸像がある。 二人は、戦前は鉄鋼王、戦後はホテルニューオータニの創業者であった:大谷米太郎と妻の大谷さとである。 像は、宝蔵門の寄進建立をはじめ、浅草寺の復興に尽くされた夫妻讃仰のため昭和42年(1967)に造立。「功徳大宝海」の文字は清水谷恭順貫首の筆。 優しそうな大谷米太郎と物悲しげな妻の像に、なにか物語がありそうだ。 、、、、戦後の一時期は、菊池寛実(高萩炭鉱創業)、南俊二(相模鉄道社長)とともに『日本の三大億万長者』と称されたそうだ。 私も、一度でいいから『令和の大富豪』と云われてみたい!


・・・・・・・・・・・・本堂の西隣にある影向堂(ようごうどう)は、平成6年(1994)に現在地に落慶した、鉄筋コンクリート寄棟造の立派な建物。 その影向堂の西側に小さな「六角堂」がある。、、、、六角堂は、室町時代(16世紀頃)の建立で、木造単層六角型の造り。 都内最古の木造建築なり。、、、、本尊は日限地蔵尊で、日数を決めて祈るとその願いが叶うらしい。 本当に叶うなら、“三週間”の間、“コロナ撲滅”の願いを祈るのだが、信じられない!


・・・・・・・・・・・影向堂から南西方向に50m程の処(新奥山の碑群)に「瓜生岩子の像」がある。、、、、「瓜生岩子(うりゅういわこ)」とは? 文政12年(1829)岩代耶麻郡(現:福島県耶麻郡)熱塩村の渡辺家に生れたが、9才の時父を失い、母は岩子を連れて生家へ帰った。 そのため岩子は母方の姓瓜生を称えた。 14才の時会津若松の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を勤める山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引きの防止に関心を持つに至る。 17歳で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。 明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、同22年貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努め東京でも深川と根岸で孤児たちの救護所の設置、助産婦養成や失業救済のため水飴の製法伝習所を開設し無料で講習した。 その製品の売上金は慈善事業に役立てるなどして「仏の岩子」と呼ばれた。 さらに明治26年には「済生病院」を開設するなど社会福祉事業に尽くした功績が認められ、同29年女性では最初の「藍綬褒賞」を受賞したが、翌30年福島で没した。 享年69歳。 生涯を慈善事業に捧げた岩子の善行を賞揚し、同34年(1901)篤志家によって、浅草寺境内にこの銅像が造立された。 フックラ顔で真剣に見つめている像は、『日本のナイチンゲール』です。

・・・・・・・・・・・・最後は、火除け、盗難除けの狸! 浅草公会堂前(伝法院通り)の伝法院山門の左側に狸が居る鎮護堂がある。 チョイト控えめな山門は素通りしてしまうかも?、、、、明治16年(1883)浅草寺中興第17世貫首唯我韶舜大僧正が、夢告により境内に棲む狸を伝法院の守護としてまつったもので、鎮護堂は伝法院境内脇にある。 現在の堂舎は、大正2年(1913)建立。、、、、境内には、狸だけでなく、水子地蔵、加頭地蔵、幇間塚なども祀られている。



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