寄席発祥の地
3ヵ月ぶりに泌尿器科の定期検診で、上野の病院に行ってきた。 数年前に、前立腺肥大の兆候があり診てもらったのが縁で、以来、定期検診を受けている。、、、、私の住む浅草橋駅周辺は、泌尿器科の不毛地帯である。 『泌尿器科 浅草橋』でWeb検索すると、10件程出てくるが、紹介状が必要な大病院が数軒、その他は、スグ診てもらえるがチョイト不安な“何でも屋”(先生一人で、内科、小児科、外科、皮膚科、婦人科、精神科など、全てOK)の診療所ばかり。 “泌尿器科”専門・準専門の診療所が無い! 婦人科・産科・小児科・性病科も、同様に不毛地帯である。 “浅草橋”の住人は、『チンチンの病に罹らず、頑張っても子宝に恵まれぬ、丈夫な体をもち、欲はなく決して質の悪い性病に罹らず、いつも静かに笑ってる、一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ、みんなに“ヨ!旦那!”と呼ばれ、褒められもせず苦にもされず、そういうものに私はなりたい』と思っているのかな?

・・・・・・・・・我が家から、病院へ、その後東上野のお寺を歩いてきた。 8千歩
● 検診を受け病院を出ると下谷神社(東上野3)がある。 「浅草通り」に面して、大きな一の鳥居が迎えてくれる。 扁額の字は東郷平八郎の書と云われている。、、、、下谷神社は天平2年(730)上野の忍ヶ岡に創建され、寛永4年(1627)寛永寺建立のため山下(現:岩倉高校付近)に移された。 延宝8年(1680)に現在地の北西50m程の処に移る。 その頃、本社は下谷の鎮守として広く信仰を集め、「下谷稲荷社」などとよばれたそうだ。 稲荷町という地名も、本社に由来する。 江戸時代には開帳・人形芝居などがおこなわれ、祭礼の時には盛大な行列がみられた。 明治5年(1872)に「下谷神社」と改称。 関東大震災の後、昭和3年(1928)、区画整理により現在地に移転。、、、、境内では、“梯子乗り”の練習用と思われる梯子が固定されてる。 世の中も変わり、町内の鳶職も少なくなり、後継者不足では? 稀に、落下して救急搬送される人もいるようだ、皆さん注意して!




・・・・・・・・・・・・・・・・・寛政10年(1798)下谷稲荷社境内に於て、噺の会が初めて有料で催され、これが江戸の寄席の発祥と伝えられている。 子規の句碑「寄席はねて上野の鐘の夜長哉」と並んで「寄席発祥之地」の碑が建っている。

● 地下鉄稲荷町駅前の交番の隣り(東上野5)に、朝日山願成院永昌寺がある。 永昌寺は永禄元年(1558)下谷長者町にて開創、寛永14年(1637)現在地に移転した。 大正12年(1923)の大震災により当時の建物は焼失している。、、、、講道館柔道の祖である嘉納治五郎が明治15年(1882)境内に12畳の道場を建てたのが講道館の始まりである。 当時の境内は、現在よりも広く2000坪程あったそうだ。 今は面影なし!


● 永昌寺の北東(松が谷1)に日蓮宗寺院の妙音寺がある。 妙音寺は、安立院日雄聖人(元和5年(1619)寂)が開山、華光院日性霊(俗姓富田半七)が開基となり、慶長15年(1611)馬喰町(現:中央区)に創建、明暦の大火により当地へ移転したと云われてる。、、、、寺は、安産飯匙(しゃもじ)の祖師を祀り、厄除け、安産守りのご利益で信仰を集めている。 手入れの行き届いた境内には大きな池もあり、鯉も悠々と泳いでいる。


・・・・・・・・・・・・・・境内には、糸・衣の神様として「金色養蚕大明神」が、古くから祀られている。 この「金色養蚕大明神」は、伝説では、インド王姫として生まれた金色姫は、継母にいじめられ、それを不憫に思った王が姫を船に乗せて海に流した。船は常陸の国に流れ着き、漁師の権太夫夫婦に助けられる。併し、金色姫は間もなく亡くなり、その霊魂または死骸が蚕となり、日本で養蚕が始まったという。 現在は、糸問屋組合が祀る神様だ!

● 妙音寺の斜め向かい(東上野6)に、真宗大谷派の寺院「高龍山報恩寺」がある。 報恩寺は、親鸞聖人法脈第一の直弟で二十四輩の一人でもある性信上人が建保2年(1214)下総国横曽根に創建、慶長7年(1602)江戸に移転、坂東報恩寺と称されていた。 その後市中を三転し、文化3年(1806)当地へ移転した。、、、、この法恩寺には、正月の行事「俎開き」が約800年の永きにわたり続いている。 「俎開き」とは、多分ニュースなどで見たことがあると思うが、下総国岡田郡の飯沼天満宮から献上した目の下1尺許りの鯉二尾を、住職以下役僧が見守る中、烏帽子に大紋の装束を付けた料理人が、大俎の上で箸と包丁を使ってさばいていく儀式。

● 報恩寺の北200m(東上野6)に浄土宗寺院の五台山文殊院源空寺がある。 源空寺は、天正18年(1590)円誉上人が湯島に創建。 湯島では多くの信者を集めて、徳川家康も円誉に帰依し江戸城に召して法を聞いていたそうだ。 慶長9年(1604)に家康は、寺地と法然上人源空の名にちなんだ源空寺の号を円誉に与えた。 寛永11年(1634)には徳川家光より洪鐘の寄進を受けた。 明暦3年(1657)の大火で類焼し、現在地へ移転。、、、、本堂は鉄骨造で建て直された。

・・・・・・・・・・・・・・源空寺本堂とは道路を挟んで墓地がある。 墓地には、伊能忠敬(御存知、地図作りの名人)、高橋至時(伊能忠敬のお友達で天文学者)、谷文晁(水墨山水に妙を得た江戸時代の画家)、幡随院長兵衛(江戸初期の侠客)の各墓が並んでる。 (写真は、忠敬、至時、文晁、長兵衛の順)




● 上野学園の前で、タイミングよく浅草橋方面行きのコミニュティバスが来た!、、、、乗せておくれよ、運転手さん!

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