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2020年12月

2020年12月29日 (火)

浅草橋の三迷橋

コロナの感染者数は『我慢の三週間』から大幅に増え、英国製・南ア製の新型モデルも発表・渡来した。 『不要不急の外出自粛』、『三密の回避』など感染対策の徹底がより強く求められ、雅万歩も今まで以上に自重することにした。 しばらくの間、散歩は我が家の周辺をチマチマ歩くことにする。

雅万歩が住むのは台東区浅草橋。 今日は、地元「浅草橋駅」に近い柳橋・浅草橋・左衛門橋の三橋と、隣りの千代田区に架かる美倉橋の、四橋を歩いてきた。 1万歩には程遠い5千歩の散歩。

日本橋(東京)、錦帯橋(岩国)、眼鏡橋(長崎)の『日本三名橋』に対抗して、誰が言ったか『浅草橋の三迷橋』、、、、とは、誰も言ってない! 雅万歩が勝手に言った! その『浅草橋の三迷橋』は、神田川に架かる三橋のことで、隅田川に注ぐ最下流から、柳橋・浅草橋・左衛門橋である。 左衛門橋の上流に架かる美倉橋は、“付録”とする。




● まずは、神田川が隅田川に合流する手前に架かる「柳橋(やなぎばし)」、、、、現在の橋は、右岸の中央区東日本橋と左岸の台東区柳橋を結ぶ震災復興橋のひとつで、昭和4年(1929)に工事費12万1千円で完成した、長さ37.9m、幅11.0mの鋼製タイドアーチ橋。 永代橋をモデルにしたと言われる小型のアーチ橋で、全体的に緑色に塗られている。(たまたま、今月から来年3月まで、塗装の塗り替え工事中)、、、、初代の柳橋は、江戸時代後期に架設された木橋で、はじめは「川口出口の橋」と呼ばれたそうだ。 「柳橋」の名は、享保年間(1716~1735)の頃、土手の両岸に柳の木が植えられていたことに由来するようだ。、、、、江戸時代から今日まで、橋畔は船宿が並んでいる。 昔は日本堤の遊里、新吉原へはここから隅田川を舟で昇り今戸の山谷堀まで行った。 また、幕末・明治以降、昭和40年代頃までは、柳橋は花柳界として名を馳せた。 現在では、この付近の護岸は非常に高くカミソリ護岸となっているが、船宿に屋形船も繋留されていて、江戸情緒は残っている。、、、、私が知る、戦後の花柳界のあった頃は、暗くなると黒塗りの乗用車が並ぶ町で、芸者さんが人力車で行き交っていた。 路地裏の我が家の前にも、芸者さんを迎えに人力車が入って来た。 美人芸者がイッパイ、あの良き時代に戻りたいね!

・・・・・・・・・・・・塗装工事中の今日の柳橋

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● 柳橋の上流に架かるは「浅草橋(あさくさばし)」、、、、その名のごとく、浅草寺の門前橋であるが、浅草寺までは北へ約2km程ある。、、、、浅草橋は江戸36見附の一つで、浅草橋御門として寛永13年(1636)頃(詳細は不明)に架けられた。 奥州街道の起点となっていたため、徳川時代、神田川に架かる橋としては重要な位置づけを与えられていた。明治7年には見附門の石を利用して石造アーチ橋として架け替えられましたが、これは何故か長持ちせず、すぐに他の形式に架け替えられた。、、、、現在の橋は、これも震災復興橋として、昭和5年(1930)1月に開通した。 右岸は中央区日本橋馬喰町、左岸は台東区浅草橋。 工事費27万7千円、下部工は間組(現:安藤ハザマ)の施工による鋼製アーチヒンジ橋。 アーチ構造の橋ということだが、アーチ(円弧)の形状が緩やかなためか、水平の桁橋に近い印象を受けう極めて単純な橋で、面白味に欠ける。 親柱や欄干などは、お金をケチったのか貧弱で、センスも悪く印象が薄い、存在感が無いね!

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・・・・・・・・・・・・浅草橋南詰(中央区側)に開智日本橋学館中学高等学校がある。 その校舎の一角に、浅草橋御門の石垣の石が発掘され残されている。 貴重な石らしいが漬物石より大きく、一見しただけでは石垣の石には見えないね!

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● 次は「左衛門橋(さえもんばし)」、、、、左衛門橋の上流側は千代田区東神田、下流側右岸は中央区日本橋馬喰町、下流側左岸は台東区浅草橋、なんと三区を結ぶ橋。 さらに地名だけ読むと、“神田”、“日本橋”、“浅草”と、江戸っ子が喜びそうな地域を結ぶ橋。、、、、左衛門橋の北詰一帯(現:JR浅草橋駅西口周辺)に、慶長3年(1598)から明治維新までずっと、徳川譜代大名庄内藩酒井左衛門尉(さえもんのじょう)の下屋敷があった。 橋の由来は、後に、神田川に望むこの地を左衛門河岸と呼んだことにちなむ。、、、、左衛門橋の創架は、明治8年(1875)、東京府の認可を受けた賃取橋(有料橋)として、民間人により架けられたものである。 その後、明治34年(1901)、下路式プラットトラスの鉄橋に架替えられた。、、、、現在の橋は、昭和5年(1930)に、工事費13万5千円で、架けられた鋼製アーチ橋である。(平成12年大規模補修工事が行われた) 次の美倉橋と左衛門橋・浅草橋の三橋は、いずれも似た構造の鋼製アーチ橋で、震災復興橋でもある。、、、、30年ぐらい前の話だと思うが、高度成長期には汚れていた神田川が浄化され、隅田川からボラの大群が上ってきた。 その時は、我が家から最も近い左衛門橋から川を覗いて、水が清くなったことを実感した! いつだったか、クラゲの大群が上がってきたこともあったね!

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● 左衛門橋の上流には「美倉橋(みくらばし)」が架かっている。、、、、美倉橋は右岸の千代田区東神田と左岸の千代田区神田佐久間町に架かる橋。 現在の橋は、昭和4年(1929)2月の架設、長さ35.35m、幅23.31mの鋼製アーチ橋。 工事費は17万9千円也。、、、、神田美倉町はもと佐柄木町・本銀町・紺屋町の蔵地からなり三倉地と呼ばれ、橋の営繕は町の費用で行われていた。 明治2年(1869)に“三”を“美”に改め、町名及び橋名にした。 橋の南詰には、この命名に因んで、倉が三棟建っているが、実体は公衆便所で、男・女・車椅子の各用のトイレ。 味噌を処理する“味噌蔵”だ!

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2020年12月26日 (土)

日本の原点!

年末の土曜日、今日は都心に向かう電車も空いている。 都営浅草線に乗り大門駅で下車し、増上寺、東京タワーと通り、ロシア大使館のある港区麻布狸穴町の周辺を歩き、大江戸線麻布十番駅まで、1万歩の散歩です。




いつもは大勢の通勤客が乗降する「大門駅も、今日は人影まばら。 チョイト異様な感じだが、何はともあれ、“3密”の心配なく駅を出ることができた。

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● 大門駅の近く「芝神明宮(芝大神宮)」に寄って行く。、、、、芝神明宮は、天照大御神と豊受大神の二柱を主祭神とする。 鎮座は遠く平安時代、寛弘2年(1005)に創建された。 古くは飯倉の地にあって「飯倉神明宮」と称し、現在地に移って「芝神明宮」に変わった。 鎌倉時代は源頼朝の手篤い信仰の下で社地の寄贈を受け、江戸時代においては徳川幕府の篤い保護の下に、江戸の大産土神として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢様」として数多くの人々に崇敬されたそうだ。、、、、正月の準備、社殿では大掃除が始まっていた! 

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芝増上寺は本堂屋根瓦の総葺き替えで、フェイスシールドをした状態。 今日は手を合わせて、早々と境内を抜ける。、、、、時刻は午前8時半、東京タワーはオープン前。 下から見上げての撮影は、何やら助平っぽいね!

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● 今日の散歩の目的地、その一つ、東京タワー前にある『あの金地院崇伝の金地院』である。、、、、金地院崇伝とは、徳川家康の政治的ブレーンを務めた僧侶で、その絶大な権力によって「黒衣の宰相」とも称された人物。 家康の天下取りの総仕上げ「大坂の陣」のきっかけとなる、歴史上最大のいいがかり「方広寺鐘銘事件」を考えた頭の良い僧侶である。 そして家康の死後、崇伝はもう一人の「黒衣の宰相」天海と激突する。 徳川幕府の根幹となる武家諸法度・禁中並公家諸法度・寺院諸法度の制定にも関わった僧なんです。、、、、臨済宗南禅寺派寺院の金地院は、崇伝和尚が、元和5年(1619)江戸城北の丸内に創建、寛永16年(1639)芝の現在地へ移転した。 崇伝和尚は、福厳寺や禅興寺、建長寺、南禅寺の住職を務めた高僧で、京都南禅寺金地院と当芝の金地院を兼務、江戸幕府の幕政に深く関与し、寛永寺の天海大僧正と共に「黒衣の宰相」と称された。 寛永10年には寺領500石の御朱印状を拝領、元禄7年には更に200石の加増を受けている。(影の実力者は、今も昔も、実入りがいいね!)、、、、江戸時代の堂宇と本尊の如意輪観世音菩薩坐像は、東京大空襲で全て焼失した。 現在の八角形の本堂は昭和31年(1956)に再建され、白檀一木造の本尊:聖観世音菩薩立像が新刻された。 


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・・・・・・・・・・・・金地院へ来たのは、境内右墓地の手前にある閻魔堂の閻魔大王(石像)に会うためである。 江戸時代、大名「南部家」にあった閻魔大王を金地院に祀った。 増上寺の西の切通に金地院があったことから、通称「切通し閻魔」と呼ばれている。(江戸四十四閻魔の一番)、、、、江戸時代の作で50cm程の小さな像、見つめていると好々爺のようだ!

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● 東京タワー方面から飯倉交差点に下ってくると、ランドマークとして楕円形の「ノアビル」が見える。、、、、白井晟一(芸術院賞受賞者)の設計、竹中工務店の施工により、昭和49年(1974)に竣工した。 鉄骨鉄筋コンクリート造、地下2階・地上15階建ての事務所ビルである。、、、、50年経っても斬新で興味深い建物。

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● 今日の散歩の第二の目的地が、ロシア大使館の南側(裏側)にある「日本経緯度原点」である。、、、、日本の法令である「測量法施行令」によると、日本経緯度原点は「東京都港区麻布台二丁目18番1地内日本経緯度原点金属標の十字の交点」と定められている(第2条第1項第1号)。 さらに、基準数値を以下のように定めている。 経度: 東経139度44分28秒8869 緯度: 北緯35度39分29秒1572 原点方位角: 32度20分46秒209 以上の数値は2001年の測量法改正で採用された世界測地系にのっとり、最新の宇宙測地技術を用いて測定したものを、2011年の東北地方太平洋沖地震の影響により定義し直したものである。、、、、ここが、日本各地の位置を、北緯〇度、東経〇度と表現する、測量座標の原点である。
・・・・・・・・・・・・施行令が示す、麻布台の地がココである、、、、この場所には、明治7年(1874)から海軍の観象台が置かれていたが、明治21年(1888)になって赤坂区溜池葵町の内務省地理局天象台と合併し、東京帝国大学附属東京天文台が置かれた。 原点の位置は天文観測に用いられた機器である「子午環」の位置に当たります。 その後東京天文台は大正12年(1923)に三鷹に移転したが、子午環跡は国土地理院が日本経緯度原点として引継ぎ、現在もわが国の地図測量原点として利用されている。


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・・・・・・・・・・・・施行令が示す、原点金属標がコレである、、、、御影石の中央に直径10cm程の金属標が埋め込まれている。

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・・・・・・・・・・・・日本経緯度原点の前には、アフガニスタン大使館がある。 ヨーロッパ風の白い屋敷のようだ!


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● ここまで来たら、チョイト、ロシア大使館前の几号水準点を見て行こう!、、、、ロシア大使館の西角、狸穴坂の入口に警察の見張所(簡易の交番のような建物)があるが、その直下の歩道上に“不”の字に似た几号水準点がある。 見張りの警察官が立っている足下にあるため、悪い事していないのだが、写真を撮るのが恐かった。、、、、警察官(写真中央)に『これは何ですか』と尋ねられ、明治時代の水準測量のポイントであることを説明してきた。 短い時間の会話であったが、興味を示してくれたね。

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● ロシア大使館の西側から東麻布に下る、約250m程の急な「狸穴坂(まみあなざか)」がある。 坂の謂れは『まみ とは雌ダヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、むかし その穴が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。 』と、標識に描かれてる。、、、、今でも東麻布は窪地のようでもあり、タヌキが居たかも?

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・・・・・・・・・・・・狸穴坂の西側に「鼠坂」と、それに続く「植木坂」がある。 東麻布に下った私は、鼠坂、植木坂を上り麻布永坂町に出た。、、、、鼠坂の謂れは『細長く狭い道を江戸で ねずみ坂 と呼ぶふうがあったといわれる』、、、、植木坂の謂れは『この付近に植木屋があり、菊人形を始めたという』

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● 麻布永坂町から、またまた坂道を下り麻布十番駅に着いた。、、、、今日の散歩はココまで!

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2020年12月23日 (水)

瑞江の寺社

混んだ交通機関の利用は避けて、馬喰横山駅から都営新宿線に乗り、瑞江駅で下車する。 今日は、沿線の寺社に立ち寄りながら一之江駅まで、1万歩の散歩です。




● 都営新宿線の馬喰横山駅にて、コロナには感染しそうにないガラガラの本八幡行きに乗り、瑞江駅(みずええき)で下車する。 

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・・・・・・・・・・・・朝の瑞江駅は都心方面(岩本町・新宿方面)に向かう通勤客がゾロゾロ! コロナに注意しながらの通勤、神経を使いご苦労様!

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● 瑞江駅から南へ500m程、まずは豊田神社(江戸川区東瑞江)に参る。、、、、豊田神社は旧下鎌田村の鎮守である。 創建は不詳であるが、天照大御神と経津主命をまつり、もと神明社といった。 明治の初期に同地にあった別当の長寿院が廃寺となったので、その跡に社殿を建立して「豊田神社」と改称した。 境内には、神木の大きなケヤキがある。 樹齢200年ともいわれ(幹の径150cm、樹高23m)神木にふさわしい枝ぶりの樹形をなしている。 昔はこの神木のそばに池があったそうだが、今はその面影がない。、、、、神社名の“豊田”の謂れは不明。 車の“トヨタ”とは無関係と思うが?謎だ!

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● 東瑞江の裏道を歩いていると、泉福寺の西側の住宅地に小さな神社がある。 最近建てられたような新しい社殿である。 神社の名は「内手八幡宮」(東瑞江2)、、、、境内の手水鉢には、右側面に「内手若者中」、左側面に「宝暦四申戌天九月吉日」と刻まれている。 『チョイトまて!』、年号の割には新調したように見える手水鉢だ。 宝暦四年は西暦1754年、約260年前の年号。 昔の手水鉢を模して作ったのか?謎だ!、、、、神社名の「内手」とは、調べてみたが旧地名ではなさそう、これも謎だ!

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● 東瑞江2丁目の住宅地の中に浄土宗寺院の泉福寺がある。 泉福寺は、法器山智海院と号す。 創建年代は不詳。 京都東山の知恩院を総本山、東京芝の増上寺を大本山とする。 本尊は阿弥陀如来。 開基は天文20年(1551)で、室町後期、織田信長の父信秀が没した年。、、、、明治15年10月29日落雷により本堂・庫裡とも一瞬にして灰になったと記録にあるが、同17年には茅葺きの本堂を再建した。、、、、現在の堂宇は、開基450年記念事業として建設され、平成16年(2004)に竣工した。 木造のスッキリした本堂である。

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● 泉福寺から西へ150m程に、浄土宗で西方山報土院と号す「安養寺」(東瑞江2)がある。 永禄10年(1567)の開山と云われている。、、、、この寺には、「こんにゃく閻魔」と云われる、仏身45cmの閻魔像があり、昔は歯の病や眼疾の人々の信仰を集めたそうだ。 閻魔好きの私としては、この像を拝見したかったのだが、突然の訪問では無理だ!、、、、なお、「こんにゃく閻魔」は文京区の源覚寺にもある。

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● 小さな社殿の「山王神社」(江戸川区江戸川3)が、安養寺の南にある。 鳥居、狛犬、社殿、水盤などすべて最近新築したと思われる。、、、、神社の由緒がわからず、何だか、どうでもいいや!

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● 江戸川3丁目の浄興寺は、浄土宗の古刹で龍亀山清泰院と号し、もとは芝増上寺の末寺であった。 文永3年(1266)源清和尚が草庵を結んだのが始まりで、弘安年間(1278~1287)に記主禅師が鎌倉の光明寺から下総の光明寺に赴く途中この寺に一宿したとき住持が開山を願ったものといわれてる。 浄興寺の元末寺に、泉福寺、安養寺、他二寺がある。、、、、この辺りでは大きな寺である。 コロナ禍の大晦日、除夜の鐘を撞くのかな?

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● 上記の他に数寺・数社を巡り、今井街道が新中川を越える「瑞江大橋」に出た。、、、、瑞江大橋は、新中川掘削工事に伴い、昭和35年(1960)に架橋された。 橋長158.5mの、純プレートガーダー桁橋。、、、、昭和43年(1968)まではトロリーバス(上野公園~今井間)が走っていた、その懐かしい情景を思い出す人もいるでしょう!

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・・・・・・・・・・・・新中川の上流側には平成4年(1992)に架け替えられた明和橋が見える

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● 瑞江大橋を渡ると、都営新宿線の一之江駅。 ここから地下鉄で浅草橋(我が家)へ帰れば素直なのだが、根性曲がりの私は、亀戸行きのバスで亀戸に向かう。 所要時間35分、乗り応えあるね!

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2020年12月20日 (日)

客の少ない足立小台

近頃は連日、最悪の感染者数を記録している“コロナ”、高齢者に属する私も外出自粛を心がけている。 でも、内緒で、少しぐらい、密を避けて、の散歩なら許されるだろう! 今日は、日曜なので通勤通学客も少ないので、日暮里舎人ライナーの足立小台駅で下車し、尾竹橋経由で京成本線の町屋駅まで歩いてきた。 1万歩。




● 日暮里舎人ライナーの「足立小台駅(あだちおだいえき)」と聞いて、駅を思い出せる人は少ないと思う。 それもそのはず、足立小台駅は、北の荒川と南の隅田川に挟まれた狭い中洲状の土地に位置しており、駅から1km圏内には、戸建て住宅はほとんどなく、隅田川岸にマンションが数棟ある程度。 観光名所は飛んでも“無い” 駅の並びに、家電量販店の「ケーズデンキ」とホームセンター「島忠ホームズ」がある。 駅から西へ1km程歩くと、「小台」、「宮城」の住宅地となる。

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・・・・・・・・・・・・昨年春に公開された、東京都の駅別乗降客数(2018年 平成30年度)のデータによると、足立小台駅の一日当たりの乗降客数は3,938人。 JR、私鉄、三セク、都電、ケーブルカーなど都内の全749の駅・停留所を対象にした中で、下から数えて“堂々の54位”である。 54の中には、都電の停留場が27、ケーブルカーの駅が4含まれている。 実質的にはワースト20にランク入りできそうだ! ちなみに、下から60位前後には、小田急線の南新宿、多摩都市モノレールの万願寺、東武亀戸線の亀戸水神、東武伊勢崎線の堀切、東京モノレールの新整備場などの駅がランクインしている。

・・・・・・・・・・・・足立小台駅は平成20年(2008)3月30日に、日暮里舎人ライナーの開通と同時に開業した。 ホームは島式1面2線構造で3階にある。 出口は1ヶ所のみで、尾久橋(隅田川)と扇大橋(荒川)の間に出る。 駅前にはロータリーがあるが、このロータリーは堤防の最上部を走る道路面の高さである。 実はこの下に、旧来の道路面がある。

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・・・・・・・・・・・・駅前のロータリーから下の道路に下る階段、、、、川沿いの工場、事務所などは全て、この下の道路に面している。

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・・・・・・・・・・・・隅田川を渡る日暮里舎人ライナー、、、、後ろの尾久橋には都道が通っている

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・・・・・・・・・・・・荒川を渡る日暮里舎人ライナー、、、、並行するのは扇大橋

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・・・・・・・・・・・・足立小台駅から堤防上を東に向かい歩く、チョイト寒いね。、、、、写真:右側のマンションの後ろには隅田川が流れている。 左側は荒川。、、、、足立小台駅を利用するのは右側の住人と、工場などに勤める人ぐらい!

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・・・・・・・・・・・・マンション前を通り過ぎ、工場、倉庫がある辺り、堤防上から眺めると、、、、最上段の堤防上の道路に私がいる、その下にバス通りがある、さらに下にマンション・倉庫・工場が並び面する道路がある。、、、、三段腹の道路!

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・・・・・・・・・・・・二段目のバス道路から眺めると、上にも、下にも道路がある。(あたり前田のクラッカー!) 

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● 足立小台駅から堤防上を1km程歩き、下の道路を歩くと、UR都市機構の「リバーサイド桜木団地」がある。 昭和56年(1981)に完成した団地。、、、、隅田川と荒川に挟まれた団地は、気のせいか、寒い! ホットコーヒーを買うコンビニがない! 何やら、落ち着かない! このままだとズボンを濡らし、大変なことになる! 恥ずかしさをこらえ、通りがかりの主婦に聞いた『この辺にトイレありませんか?』 親切に公園を教えてくれた、これにて一件落着!!
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・・・・・・・・・・・・この先は、尾竹橋を渡り町屋駅まで歩く。、、、、尾竹橋を渡ると荒川区

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2020年12月17日 (木)

コロナ避けて平井まで

“3密”を避け、浅草橋の我が家から、歩く人も少ない「蔵前橋通り」を東へ歩きJR総武線の平井駅まで、1万4千歩の散歩です。

・・・・・・・・・・・・・「蔵前橋通り」は、文京区本郷の順天堂病院の北で国道17号(本郷通り)から東に伸び、末広町交差点、蔵前橋、亀戸天神の前を通り、旧中川、荒川を渡って、江戸川区西小岩1丁目で奥戸街道に接続する路線。 その先、奥戸街道をそのまま進むと、市川橋の手前で国道14号(千葉街道)に接続する。 今日、散歩した鳥越神社前から平井駅前まで(約5.5km)は、都道315号御徒町小岩線の一部である。




● 我が家から北に歩いて4分程で、蔵前橋通りに面する「鳥越神社」前に出る。 “道中の無事”と“コロナ撲滅”を願い手を合わせる。 どうも、“コロナ撲滅”の願いは、賽銭が少ないのか、いつまで経っても願いは叶わない!

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● 蔵前一丁目交差点で江戸通りを横断し、家を出発して25分経過、蔵前橋を渡り墨田区に入る。、、、、隅田川の空は晴天、風はなし、気温は寒し、私の懐も寒し!

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● 蔵前橋を渡ったら、チョイト、震災・戦災の犠牲者を悼む東京都慰霊堂にお立ち寄り。、、、、ついでに、厠にもお立ち寄り、冷えると回数も多くなるんです! いずれは、オムツのお世話になりそうだ!

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●東京都慰霊堂前の清澄通り、冷え冷えの寒さの中、小学生が集団登校する。 時刻は朝8時、20人程の元気な子供たちだ!

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● 蔵前橋通りは錦糸町の町の手前で、大横川に架かる法恩寺橋を越える。、、、、現在、大横川は暗渠化され川底は親水公園となっているが、大正14年(1925)に竣工した震災復興橋の法恩寺橋は健在である。、、、、橋長32.8mのアーチ型ラーメン橋台付き鋼桁橋

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・・・・・・・・・・・・法恩寺橋を渡ると、橋名となった日蓮宗の寺院「平河山法恩寺」がある。、、、、法恩寺は長禄2年(1458)大田道灌が江戸城を築城時、丑寅の方角に城内鎮護の祈願所として建立された。 境内には、大田道灌の墓や平河清水稲荷大明神、鐘楼三重塔などがある。 現住所の“太平”は、太田道灌と平河山法恩寺の頭文字から命名された。 蔵前橋通りから入る参道沿いには、4か寺の子院が並んでいる。、、、、本堂の後ろからは、日蓮上人に変わりスカイツリーが参拝人を見下ろしているような寺だ!

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● スカイツリーを正面に見る「タワービュー通り」、錦糸町駅前を通る「四ツ目通り」を過ぎ、横十間川に架かる「天神橋」(橋を渡ると江東区)を渡り、亀戸天神にも寄って行く。、、、、学問の神様:天神さまに、是が非でも年末ジャンボ一等当選が叶うよう手を合わせてきた。 これで、年明けには億万長者になっているかも? その折はブログ『雅万歩』は静かに終わり、私はヨーロッパ旅行で長期不在。

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● 「明治通り」との交差点を過ぎ、東武亀戸線の線路を越えると、旧中川に架かる「江東新橋」を渡る。 橋を渡れば江戸川区なり!、、、、江東新橋の下流250m程には、並行するJR総武線の橋梁が見える。

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● 江東新橋を渡ると平井駅は近い。 “3密”を避けて、鳥越神社前から歩いてきたが、「平井駅出口交差点」で蔵前橋通りから外れ、駅に向かう。、、、、駅も、電車も、空いている。 今日も、コロナに感染せずにすんだようだ!

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2020年12月14日 (月)

汐入公園

ガラガラ・空き好き電車に乗って、東武伊勢崎線の牛田駅で下車。 牛田駅から千住汐入大橋を渡り足立区から荒川区に入り、隅田川の右岸を歩いて石浜神社まで、9千歩の散歩です。




● 昭和7年(1932)9月1日に開業した、東武伊勢崎線の「牛田駅  牛田駅は足立区の南端部にある駅で、浅草~北千住間の全ての駅に停車する列車(つまり各駅停車)のみが停車する駅。 牛田駅前に京成本線の京成関屋駅があり、多数の乗換客が利用する。、、、、牛田駅と聞いて、イメージが浮かぶ人は、おそらく戦後生まれの牛田育ちか、乗換で当駅を利用する人であろう。 一日当たりの乗降客数は約22,000人、その内の半数ぐらいは乗換客と思われるので、実質の乗降客はかなり少なそうだ。、、、、北千住駅の隣り駅である「牛田」は、むかし牛田圦(うしだいり)と呼ばれた農業用水路が近くにあり、そこから駅名を頂戴したらしい。

・・・・・・・・・・・・空いている南栗橋行き区間準急(北千住まで各駅に停車)から降り、改札を出ると・・・・・

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・・・・・・・・・・・・京成関屋駅から、ゾロ・ゾロ・快傑ゾロと乗換客が牛田駅に向かってくる。

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・・・・・・・・・・・・『チョイト失礼します!』と京成関屋駅構内を通り抜けると、そこは都道461号(墨堤通り)である。

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● 墨堤通りを南へ250m程歩くと千住曙町交差点がある。 そこを、西へ曲がれば隅田川に架かる「千住汐入大橋」、、、、千住汐入大橋は隅田川に架かる橋の中でも新しく、平成18年(2006)2月19日に開通した。 その名のごとく、足立区千住地区と荒川区汐入地区を結ぶ、橋長158.6mの2径間連続鋼床鈑箱桁橋。 都道314号を通す。、、、、隅田川が大きく蛇行する処に架かり、対岸には汐入公園がある、景色はGood!


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● 隅田川を越えると元の荒川区南千住汐入(隅田川が弓のように大きく東側に張り出した処で、鉄道の貨物基地、工場などがあった)である。 現在は再開発により、工場は無くなり、貨物基地は縮小しJR貨物の隅田川駅となり、川沿いには都立汐入公園、その奥にはタワーマンションを含む高層住宅が建ち並んでいる。

・・・・・・・・・・・・面積13hrの汐入公園は冬支度。 芝の緑も落ち葉で黄彩に変る!

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・・・・・・・・・・・・公園内を縦断する都道314号は、胡録トンネル瑞光トンネルの2ヶ所で芝生の下を抜けて行く!、、、、荒川区にトンネルがあることを知らない人が多いかも?

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・・・・・・・・・・・・公園の中程にある水神大橋の北側に、「隅田川旧防潮堤」の一部がモニュメントとして残されている。、、、、隅田川の下流部一帯は海抜ゼロメートル以下の地域が広がっている、このため都では、高潮や洪水の対策として昭和32年(1957)から隅田川のコンクリート防潮堤建設に着手し、昭和50年(1975)に概成した。 その結果、高潮や洪水に対する危険は大幅に減少したが、カミソリ堤防によって隅田川と町は分断され、親しみある隅田川から都民を遠ざけることとなった。 そこで、高潮や洪水に対し、より安全性が高く、都民が河川と親しめる潤いのある水辺環境に配慮したスーパー堤防へと造り替えている。、、、、モニュメントを見ていると、コンクリートの味気ないカミソリ堤防が、川岸に延々と伸びていたのと、メタンガスが発生する汚れた昭和(高度成長期)の隅田川を思い出すね。

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・・・・・・・・・・・・汐入公園の中央から対岸の墨田区東白鬚公園に架かる「水神大橋」を見ながら、土手を行く。、、、、水神大橋は平成元年(1989)に竣工した、橋長157.0mの3径間連続ニールセンローゼ桁橋。

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● 汐入公園に続き「荒川区立瑞光橋公園」がある。 瑞光橋公園は、鉄道と貨物船を結ぶための運河跡地(入江)に造られた公園です。 隅田川のスーパー堤防と入江を利用した公園で、面積は約13,000㎡、平成18年(2006)に開園した。 入江に架かる瑞光橋に因む公園名とした。

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・・・・・・・・・・・・公園内に汐入水門跡がある。 この水門跡は、隅田川貨物駅(現:JR貨物隅田川駅)と隅田川を結びつける唯一の遺構である。、、、、隅田川貨物駅は明治30年(1897)に石炭の集散地として開設された駅である。 常磐線で運ばれてくる石炭を、隅田川の水運で東京市中へ配送するため、荷の揚げ下ろしをする運河が造られた。 元来この汐入地域は土地が低く、運河の護岸は荷物の揚げ下ろしの関係上、低く造られていたため、満潮時には付近に浸水し、さらに台風などの異常な高潮時には南千住ばかりでなく、浅草方面まで被害をこうむっていた。 水門は、この水害を防ぐために昭和28年(1953)に建造されたのである。 しかし貨物の輸送が船による河川輸送から鉄道 ・トラックによるコンテナ輸送に切り替わると、運河は不用となり昭和45年頃には全て埋め立てられ、水門もその役割を終えた。 現在は水門のゲートを支えていたコンクリート製の柱が2本、門柱のように残されている。 

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● 堤防の上を歩くと、球形のガスタンクが3基見える。 このガスタンクは明治26年(1893)から、この地(荒川区南千住3)に工場を建てた東京ガスのガスタンクだ。 終戦直後は円筒形のガスタンク3基であったが、昭和60年頃から球形のガスタンクに変わった。 形は変われども3基のガスタンクは、昔も今も、この南千住のランドマークである。、、、、北千住の「おばけ煙突」とランドマークを競ったのか?

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・・・・・・・・・・・・近づくと、ガスタンクの手前に社が見える、ここが「石浜神社」である。

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・・・・・・・・・・・・「石浜神社」は、神亀元年(724)聖武天皇の命により創建したと伝えられる古社です。 祭神は天照大御神・豊受大御神。 源頼朝が藤原泰衡討伐の折に当社に祈願、大勝したことから社殿を造営されたといいます。、、、、本殿は伊東忠太設計で、昭和12年(1937)落成の木造神明造り、拝殿は昭和63年(1988)落成の木造銅板葺神明造り。 以前は川岸寄りにあったが、昭和63年に護岸工事のため移転を余儀なくされ、現在地に移された。 本殿は曳家で移されたそうだ。、、、、境内の紅葉は今が最高!

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・・・・・・・・・・・・境内からガスタンクを見ると、『アレ? 御神体はガスタンク!』

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● 石浜神社前の明治通りから南側は私の住む台東区。 区内を循環するコミュニティーバスが、タイミングよく、やって来た。 100円で浅草橋の我が家まで、空いて座れて楽々帰宅!、、、、今日も“コロナ”に感染せずに、散歩ができたようだ!

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2020年12月12日 (土)

高砂からお花茶屋

『我慢の三週間』の三週目、家で“ウジウジ・グズグズ”、やっぱりストレスが溜まる。 今日は、“密”を避け、観光地とは縁遠い葛飾区高砂から葛飾区お花茶屋まで歩いてきた。 1万歩




● 「雅万歩」では、毎度おなじみの「京成高砂駅」、、、、土曜日の今日は通勤・通学客も少なく、すいた電車で朝8時に到着。 駅前の大通り沿いに青戸・白鳥方向に歩くことにした。、、、、この付近、人通りも少なく、マスクなしでも感染の恐れなし!

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● 京成高砂駅より西へ徒歩5分の地に鎮座する高砂天祖神社。 中世、当地が葛西御厨だった頃、領主が勧請したと伝えられている。、、、、現在の社殿は、昭和36年(1961)の造営である。 大きくはないが、総檜・神明造の拝殿は端正で整っている。

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・・・・・・・・・・・・境内には、東京23区では珍しくなった火の見櫓が残っている。 チャンと、半鐘もぶら下がっている。 東京では、見られなくなった懐かしい風景。、、、、高さ約14m、昭和初期の設置と思われる。

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● 中川に架かり、高砂と青戸を結ぶ「高砂橋」は、初代が昭和7年に架けられ、二代目の現橋は平成15年(2003)に架け替えられた。、、、、橋長186.5m、有効幅員15.8mの2径間連続鋼斜張橋。

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・・・・・・・・・・・・上流側には京成中川橋梁が架かっている。、、、、京成線の撮影スポットとして、いいね!

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● 環七通りを横断し青戸の町に入ると、総戸数1119戸の青戸第一団地(UR都市機構)がある。 京成の青砥駅が開設されたのは昭和3年(1928)である。 しかし、青戸が町として発展したのは戦後のことで、日本住宅公団が青戸団地の入居者を募集した昭和31年(1956)からだ。

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・・・・・・・・・・・・周辺には都営住宅も建ち並び、人口増加に伴い、住環境は整備されていった。

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● 青戸の団地を抜けると、国道6号(水戸街道)が走っている。 国道を横断すると葛飾区白鳥(しらとり)の町で、お花茶屋駅前の通りまで続く。

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・・・・・・・・・・・・「白鳥」の由来は、、、、大正ころまでお花茶屋駅の北方に沼地があり白鳥が群棲していた。 安永2年(1773)将軍家治が亀有の鶴狩のとき、沼の白鳥を捕らえようとしたところ何処からともなく白髪の老人が現れて目的を果たすことができなかった。 そこで四ツ木の白髭神社に願を掛けて再び挑むと今度は多くの白鳥を得る事ができた。 この霊験に驚いた鳥見役たちは、鷲が白鳥を咥えた構図1m四方の大絵馬(現存)を奉納してご利益に感謝した。 裏面に福島八左衛門ら11名の名が連ねてある。 以来人々はこの沼を「白鳥沼(しらとりぬま)」呼ぶようになった。 白鳥沼は埋め立てられて今はないが、2丁目の白鳥小学校・白鳥公園からお花茶屋駅の辺りにかけてあったようだ。 沼は市街地化によって次第に縮小し、大正の初め頃までに消滅したと云われている。 現在は、「白鳥」という綺麗な名のみが残っている。

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・・・・・・・・・・・・白鳥の町にある「東京博善四ツ木斎場」は民営の葬儀場。 現建物は平成28年(2016)にリニューアルオープンした超近代化した火葬場である。 最高クラスの火葬料金は一体28万円也。 ちなみに、一般の普通料金は5万8千円ぐらいらしい。、、、、値段違いは、施設の造りの違いだ。 けして、レア、ミディアム、ウエルダンなど、焼き方の違いではないよ!

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お花茶屋駅は、相対式ホーム2面2線の地上駅で、橋上駅舎を有している。 昭和6年(1931)12月19日に開業した、私の住む浅草橋駅より古い。 JR浅草橋駅は昭和7年(1932)の開業、負けた!

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● 帰りの電車もすいていたので、コロナには感染しなかったと思うね。

2020年12月 9日 (水)

西小山から碑文谷

この世に生を受け70余年、長い年月東京に住んでいるが、下車する機会の少なかった東急目黒線西小山駅で降りてみることにした。 降りたら『さて、どっち方面に歩こうか?』 駅で地図を見ると、“円融寺通り”の文字が眼に入る。 『あっ!以前来たことがある大きな寺だ! ヨシ、円融寺へ行ってみよう』 これで決まり。 円融寺へ参った後は、近くに「目黒サレジオ教会」があるので、こちらにも参り。 帰りは、都立大学駅へ向かうが、途中、環七通り付近で丁度来た目黒駅行きのバスに乗る。 9千歩の散歩です。




● 都営三田線に乗り、電車はそのまま東急目黒線に乗り入れる。 『何年ぶり、イヤ、何十年ぶりかもしれない』、下車した記憶がない東急目黒線の西小山駅で降りる。、、、、昭和3年(1928)8月1日、地上駅として開業。 平成18年(2006)7月2日に地下駅となる。 平成20年には駅ビルの完成する。、、、、ピンクのホームドアが明るい感じでいいね!

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● 駅前から西に向かって歩く・・・・・
・・・・・・・・・・・・西小山駅付近では、東急目黒線が品川区と目黒区のほぼ境となっている(駅を含め東急目黒線は品川区に属す) その西小山駅前に、二つの「西小山商店街」がある。 駅の改札を出て、すぐ左手(東側)見えるアーケードのある「西小山商店街」は品川区。 反対に右側(西側)の空が良く見える開放的な「西小山商店街」は目黒区。、、、、どちらも、活気ある元気な商店街らしい。、、、、私は、目黒区側の商店街を西へ歩く。

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・・・・・・・・・・・・西小山商店街を抜け、目黒区原町1丁目付近で、昭和36年(1961)に立会川を暗渠化し、その後造られた立会川緑道に出る。(立会川は、碑文谷・清水の両池を水源とし、目黒区・品川区を流れ東京湾に注ぐ川) この緑道は碑文谷八幡宮から始まり、円融寺山門前を通り、西小山駅付近まで続いてる。 春には嬉しい約1kmの桜並木である。、、、、ここを歩いて円融寺山門に向かう。

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● 碑文谷1丁目、立会川緑道から北側を見ると円融寺の山門が見える。 昨年の夏に寄った時は、緑豊かで森の中にあるような寺、今日は木の葉が散り晩秋の風情である。、、、、円融寺は、かつて、妙光山法服寺と称し、天台宗の寺院であった。 寺伝では仁寿3年(853)慈覚大師が法服寺を建立した。 弘安6年(1283)日蓮の弟子・日源により、日蓮宗に改宗し、妙光山法華寺と改称した。 中世から近世にかけては吉良氏や徳川氏の外護を受け、坊舎18、末寺75箇寺を数えた。 寛永7年(1630)身池対論には法華寺から日進が臨んでいる。 法華寺は不受不施派の寺院として江戸幕府の弾圧を受け、改宗を余儀なくされ、元禄11年(1698)再び天台宗の寺院となった。 天保5年(1834)経王山円融寺に改称する。、、、、広い境内に、堂宇がゆったりと配され、訪れた人には心地よい安らぎを与えると思う。

・・・・・・・・・・・・・山門は、昭和26年(1951)に品川御殿山の原邦造邸から移築されたもの。 天保4年(1833)、元播磨国の寺の山門として造られた。、、、、山門をくぐると参道が続く。

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・・・・・・・・・・・・・・参道を過ぎ、仁王門の右手に平成2年(1990)に新築された鐘楼がある。、、、、梵鐘は寛永20年(1643)の鋳造。

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・・・・・・・・・・・・・・参道の先には、簡素な造りの仁王門がある。 建立時期は不明だが、 唐風に和風を取り入れ、虹梁、蟇股、懸魚などにも様々な装飾が加えられている。、、、、両脇の仁王像は、永禄2年(1559)の作。(二重のガラス張りの中にあり、光が反射して仁王像の姿が見えない! どうにかして欲しいね)

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・・・・・・・・・・・・・・仁王門の先には、入母屋造の釈迦堂。 釈迦堂は室町初期の建立とされ、23区内最古の木造建築でる。 明治44年(1911)に関野貞博士による調査があり、国の古社寺保存法により国宝に指定された。 戦後は、昭和25年(1950)に国の重要文化財に指定されました。 本来の屋根は茅葺きでしたが、火災予防の見地から昭和27年(1952)に銅葺きに改められた。、、、、円融寺では山門、仁王門、釈迦堂、阿弥陀堂が一直線に並ぶ伽藍配置となっている。 優美な配置は、境内の奥行の深さを感じる。

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・・・・・・・・・・・・・・釈迦堂の後ろに阿弥陀堂(本堂)が控えている。 阿弥陀堂は、昭和50年(1975)の建立で、設計は佐々木嘉平、設計顧問に早稲田大学名誉教授工学博士・田辺泰をむかえ、平安朝阿弥陀堂様式に則って建設された。、、、、本尊の阿弥陀如来は、堂の扉が閉じられており姿は見えず!

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● 円融寺から西へ直線で250m程に、「カトリック碑文谷教会(目黒サレジオ教会)」がある。 過去に数回訪れているが、ここまで来たら、寄らねばなるまい。、、、、、この教会は、昭和22年(1967)にここ碑文谷に創設されたサレジオ修道会によって、同29年(1954)に建築された教会である。 ローマ・カトリック教会の男子修道会「サレジオ修道会」に所属するため「サレジオ教会」と呼ばれて親しまれている。聖堂はロマネスク式で、壮大と優美の点で日本1、2を争う。祭壇には十字架のキリスト像、ヨハネ・ドン・ボスコの木像、悲しみの聖母の絵などが祀られている。奥行き47m、幅16m、高さ36m。、、、、木彫りの美しい聖マリア像に、しばしの間、恋してしまった。

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● 教会から都立大学駅へ向かうが、環七通りの手前まで来ると、丁度バスが来た。、、、、乗車オーライ!

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2020年12月 7日 (月)

踏切が無くなる!

先月26日の共同通信社のニュースに、『 JR山手線に唯一残り「開かずの踏切」として知られる駒込―田端間の「第二中里踏切」(東京都北区)について、都が近くに陸橋を建設した後に廃止することで北区とJR東日本が合意したことが26日、関係者への取材で分かった。陸橋完成には約10年かかるもようだが、踏切が全廃されればJR東が目指す山手線の自動運転化へ前進となる。 第二中里踏切はピーク時の1時間当たりの遮断時間が40分を超す。国土交通省は2020年度中に改良計画を提出するよう、北区に求めていた。 陸橋の建設はJR東が担当する。工事は終電から始発の間しかできないため、完成には10年ほどかかるとみられる。』と書かれていた。、、、、大正14年(1925)に誕生し、今日まで残っていた、山手線最後の踏切がいよいよ無くなりそうだ。 現役の踏切を、チョイト見ておきたくなった。

田端駅で下車し、第二中里踏切、中里トンネルなどを見て上中里駅まで、8千歩の散歩です。




田端駅で降り、駅前の田端切り通しに架かる東台橋を渡り、田端高台通りを上中里方向に歩く。、、、、「田端切り通し」は昭和8年に、台地であった土地を整備し、20m程の深さで削り取って道を通している。法面には石垣が綺麗に積まれ、独特な雰囲気がある。 切り通しには、2つの橋が架けられ、駅側にある白い橋が「東台橋」、奥に架かるのは歩道橋です。 東台橋は、大きなアーチ状のパイプを橋桁にした構造で、デザイン性にとんでいます。 東台橋からから見る切り通しの深さには、一声『凄い!』

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・・・・・・・・・・・・東台橋と滝野川を結ぶ
田端高台通り

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・・・・・・・・・・・・田端駅前の田端大橋から見ると、写真左側(山側)に京浜東北線北行(赤羽方面行き)、山手線内回り(池袋方面行き)、山手線外回り(上野方面行き)、山手線電車の陰に京浜東北線南行(上野方面行き)の線路がある。、、、、京浜東北線北行(写真、水色の電車)の先に「田端トンネル」があるのだが、橋桁が邪魔して見えない!


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・・・・・・・・・・・・「田端トンネル」の赤羽側の坑門。 写真、坑門上の2線は山手線、その上に京浜東北線南行の電車が見える。、、、、京浜東北線北行はトンネルを出るとスグに山手線の下をくぐり、南行の線路により沿う。、、、、田端トンネルは大正15年(1926)1月に竣工。
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・・・・・・・・・・・・田端トンネルの脇を通った、山手線内回り電車は京浜東北線と離れ、切り通しを池袋方面に向かう。、、、、写真手前側が池袋方面。

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・・・・・・・・・・・・山手線は田端高台通りの富士見橋下を通過するが、この橋のある位置にかつて「道灌山トンネル」があった。 山手線内回り(池袋方面行き)の電車に乗ると、進行方向左側に煉瓦造のトンネル坑門の一部が見える。、、、、今はトンネルは埋められてしまったが、貴重な“鉄道遺産”として、坑門部分だけでも掘り起こして公開して欲しいね!

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・・・・・・・・・・・・道灌山トンネル跡(富士見橋)を過ぎると、山手線内回り電車は「道灌山跨線線路橋」を渡る。この橋の下は、「旧山手貨物線」である、現在の「湘南新宿ライン」が走ってる。 湘南新宿ラインは跨線線路橋の下をくぐると、スグ「中里トンネル」に入り赤羽方面に向かう。

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・・・・・・・・・・・・道灌山跨線線路橋を渡った山手線内回り電車は「第二中里踏切」を通過する。 山手線で唯一残る踏切である。 この踏切が無くなると、山手線の完全無人運転が可能となるそうだ! 踏切の手前には、湘南新宿ラインを跨ぐ道路橋の「中里橋」がある。 踏切が無くなると、この中里橋も無くなると思われる。 道幅の狭い踏切であるが、ここに跨線橋を架けるとなると、ケッコウ大がかりな工事となりそうだ。、、、、第二中里踏切を過ぎると、先の駒込駅はすぐソコ!

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● 第二中里踏切の横に、浄土宗の寺院「円勝寺」がある。寺は、僧信阿聖法(弘安9年(1286)寂)が開山、戦国時代末期には曲輪内龍ノ口付近にあったとらしい。、、、、当寺は、石州流茶道の流れをくむ伊佐家の墓所となっていた。、、、、踏切からも参道のイチョウ並木が見える。 また、本堂前の2本のヒマラヤスギは圧巻!

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● 湘南新宿ラインが通り抜ける中里トンネルの赤羽側の坑門も見てきた。、、、、【ボヤキ】最近撮り鉄のマナーが悪いせいなのか、JRは鉄道施設の周囲にフェンスを巡らせている。 今日、廻った処すべて、丈夫で、網の目の細かなフェンスで囲われ、フェンスが邪魔をして、なかなか思うような写真が撮れない! 困ったもんだ! 

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上中里駅から帰宅。

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2020年12月 6日 (日)

密を避け新宿へ

“密”を避け新宿周辺を歩いてきた!、、、、と云っても、新宿区の新宿でなく、葛飾区の新宿(にいじゅく)である。 京成本線高砂駅で下車し、高砂駅の西側を流れる中川に沿って北上し金町駅まで、1万3千歩の散歩です。




● 浅草橋から空いている印旛日本医大行きの電車に乗って、『さて、どこで降りるか?』、、、、“コロナ”は避けたいので、中川の土手上を歩けば感染の恐れなしと、自問自答し高砂駅から歩くことにした。、、、、今日は日曜の朝、通勤・通学の人影も少ない駅から散歩を始める。

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● 中川土手に出る手前に、新小岩と金町を結び、一日数本の貨物つ列車が走る貨物専用の「新金貨物線」がある。 この貨物線、最近、何だか騒々しくなってきた。 葛飾区は去年・今年と、新金貨物線旅客化の検討資料を公表した。 JRは旅客化について何も公表していないが、線路の整備・信号機の整備などを行ってるようだ。、、、、旅客化が実現するまでは早くても10年ぐらいはかかると思うのだが、下衆の勘繰りで何かざわついてるように思うね! ひょっとすると、10年後にはLRT(ライトレール)がここを走っているかも?

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● 新金貨物線の小松川街道踏切を越えると、「青龍神社」の石碑がある。、、、、青龍神社は、中川の土手のすぐ傍に鎮座する、創建年代不詳の小社。 神社の横には、「怪無沼(けなしぬま)」と云われる池があり、いつ来ても、スイレン、水草が青々と茂っている。 当社には、噂の類いのものが相当あり、境内の怪無沼の名の由来も、「この池でけが人が出ないことからの怪我無し池」、「若い女性が下の毛が生えないことに苦しみ池に身を投げてしまったことから毛無し池」など、諸説あるようだが、どれがホントか不明。 しかし、諸説の中でも、『ご利益として陰毛が生えてくる』と云う話もあるらしい。

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● 青龍神社の後ろから中川土手に出る。、、、、本日は晴天、風も無し、チョッピリ寒いが、男は我慢! コロナに感染する心配はない、マスクもはずして、しばらく歩く。 
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● 中川土手をしばらく行くと、国道6号(水戸街道)が走る、中川大橋がある。、、、、この橋の南側(高砂寄り)400m程のあたりから、住所は「葛飾区新宿(にいじゅく)」となる。 新宿の町は、中川左岸に沿いに常磐線を越え東京理科大学葛飾キャンパスの付近まで伸びてる。 もちろん、こちらの“新宿”には、ゴールデン街・花園通りに似た、夜の繁華街はないので、寂しい人も多いかも?

・・・・・・・・・・・・中川大橋は右岸の葛飾区青砥と左岸の同区新宿を結び中川に架かる橋。 昭和10年(1935)に初代の中川大橋が開通した。 現在の橋は昭和60年(1985)に着工し、平成元年(1988)に竣工した2代目の橋で、長さ134.4m、幅員30.8mの連続箱桁橋。

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・・・・・・・・・・・・中川大橋の東詰には、合掌形の破風を架した朱塗りの山王鳥居が出迎える、新宿の日枝神社がある。 永禄2年(1559)頃に創建された、江戸時代には新宿町の鎮守、明治5年には郷社に列格した。 現社殿は明治44年(1910)、幣殿は昭和11年(1936)、神楽殿は昭和6年(1931)の造営。

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・・・・・・・・・・・・日枝神社の北側には、浄土宗寺院の西念寺がある。 西念寺は
覚林山宝樹院と号します。 文安5年(1448)に開基、天文元年(1532)覚蓮社法誉が寺院として創建した。 境内は、よく掃き清められた綺麗な寺。、、、、本堂前の祠には、弘法大師が旅僧の姿でサバ1匹を請うたのに、商人または馬子が荷物のサバを与えなかったために罰せられたという伝説にちなんだ、小さな「鯖大師」の像がある。

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● 続いて、中川大橋の上流側に架かる「中川橋」、、、、この地には、新宿の渡しがあったが、明治17年(1884)に明治天皇の行幸に合わせて橋が完成した。 2代目の橋は、昭和8年(1933)に架設されたが、老朽化、交通量の増大に対応するため、車道の拡幅などを行う架替工事が、平成5年(1993)に着工され、事業費28億円をかけた末、平成20年(2008)3月10日開通した。 橋長 120.6m、幅員 15.0m。

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・・・・・・・・・・・・中川橋の東詰、上流側に日蓮宗寺院の長遠山立増寺がある。 日蓮聖人の大檀越だった駿河国松野の郷士松野六郎左衛門重正が開基、永正年間(1504~1521)に創建した。、、、、本堂は昭和43年の新築である。 デザイン的には、シンプルで飾り気のない昭和の雰囲気が出ている本堂だ。

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・・・・・・・・・・・・立増寺から北東へ200m程行くと、浄土宗寺院の慶円寺がある。 慶円寺は、当地の村民五郎右衛門夫婦が、飯沼弘経寺の住僧南誉雲念の下で出家した後、当地に創建したと云われてる。 飯沼弘経寺の南誉雲念は後に増上寺二十世となった僧で、彼を勧請開山とします。、、、、本堂前には枝ぶりの見事なクロマツが、歌舞伎の「見得」を演じてる、『ヨ!クロマツ屋!』


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● どこにでもあるような住宅地の「新宿」を歩き、再び新金貨物線を越えると、JR金町駅に出る。 今日の散歩はココまで!、、、、お帰りは、空いている京成金町駅から!

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2020年12月 2日 (水)

おばけ階段

イチョウの葉も舞い落ちる季節となり、東大本郷キャンパスへ黄葉を見に行った! 御茶ノ水駅から歩いてキャンパスへ向かう。 行ってガッカリ、大学構内に入れず! しかたなく、キャンパスの周りをグルリと歩いて根津へ。 オヤ!雨粒が落ちてきた、急ぎバスで御徒町駅へ戻り、帰宅する。 1万1千歩の散歩です。




JR御茶ノ水駅は、エスカレーター・エレベーター設置はもとより、ホーム上に3階建ての橋上駅舎の新設、聖橋口の拡張、中央快速線のグリーン車連結に対応し快速線ホームの延長、また同時にお茶の水橋の補強工事もあり、てんやわんやの大工事実施中。 見るたびに駅の姿はドンドン変わっていく。 今日、ホームに降りたら旧聖橋口に出る階段が無くなっていた、アリャアリャいつの間にか壊された!、、、、駅は全面工事中で狭い、しかも通勤時間帯で人の動きが多い、こんな処でのんびり写真を撮っていたら殺されるかも? 周りを見渡し、殺されないように、人が少ない時にパチリ!、、、、工事の完成は3年延期し、2023年度を予定しているそうだ。 まだまだ、あと3年!

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● 今日は、東大のイチョウ並木を見に来たのだが、赤門前に来ると『新型コロナウイルスの感染予防の観点から、関係者以外の構内への立入を禁止します。ご理解ご協力をよろしくお願いします。 東京大学』の立て札がたち、身分証明証などをチェックしていた。 アリャ!コリャ、ダメだ。 健康保険証を出しても入れてくれそうになく、諦めた。、、、、でも、『正門なら入れてくれるかも』と、正門に行ったが、こちらもダメ。、、、、ならば、農学部キャンパスに行けば、『内緒で入れてくれるかも』と、農学部正門に行くが、こちらもダメ。 さすが、天下の東大、警備が厳しく潜り込めない、本当に諦めた!、、、、こうなりゃ、コロナに感染して、救急車で東大病院に入るしか方法はなさそうだ!

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● 黄葉は諦め、東大周辺の建築を見てきた・・・・・

・・・・・・・・・・・・東大正門の南側、本郷通りに面するドイツ語関連図書の出版社「郁文堂社屋」。 この建物は、大正12年(1923)に建てられた「昼夜銀行本郷支店」で、典型的な銀行建築の建物。 震災、戦災の被害は軽微で、ほぼ建設当初の姿を見せている。、、、、私は、大学でドイツ語を履修したが、単位を落とすぐらい勉強したので、何も覚えてないね!

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・・・・・・・・・・・・東大前の本郷の町に佇む、築100年の旅館「鳳明館」、、、、建物は、本館、台町別館、森川別館の3カ所にある。 この内、本館は、木造2階建の近代和風建築。 明治30年代に、下宿屋として建設されたが、昭和初期に下宿屋兼旅館に改造し、さらに昭和20年に旅館建築に模様替えした。 各室毎に異なったつくりで、部屋の銘木に合わせた部屋名とする。 下宿・旅館が多かった本郷地区の歴史的な景観を伝える建物で、国の登録有形文化財に指定されている。 本館前の台町別館、本館からはチョイトはずれた森川別館も、本館と同じような佇まいの建築である。 

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・・・・・・・・・・・・鳳明館森川別館近くにある「求道会館」、、、、明治35年(1902)に欧州留学から帰国した真宗大谷派の僧近角常観が、青年らと信仰体験を語り継ぐ場としてここに求道学舎を開き、大正4年(1915)に信仰を説く施設としてこの館を建てた。 私はまだ内部を見たことがないが、内部は長椅子の並ぶ2層吹抜けのホールとなっているそうだ。 設計はアール・ヌーボを日本に紹介した建築家として知られる武田五一(1872~1938)で、京都市役所なども設計した。、、、、仏教の御本尊が安置されているそうだが、ホールでキリスト教の説教をしてみたら、チョイト変わって面白いかも。 仏の道も神の道も行きつく先は同じ。

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● 東大農学部グランド前にある浄土真宗本願寺派寺院の西教寺(向丘2)は、涅槃山究竟院と号す。 西教寺は、常陸國那珂郡松の濱に創建、寛永7年(1630)に湯島へ移転し中興、貞享5年(1688)現在地へ移転した。 西教寺の山門は、酒井雅楽頭の屋敷から明治7年(1874)移築したものである。

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・・・・・・・・・・・・西教寺の北側に、浄土宗寺院の既成山光明院願行寺がある。 この寺は、品川願行寺を開山した僧の孫弟子が明応3年(1494)に開山した。 しばらくは馬喰町にあったが、明暦大火の後に、現在地へ移転した。、、、、本堂には、本尊の木造阿弥陀如来坐像と、出世不動明王が祀られている。

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● 東大のキャンパスを回るように、東大地震研究所の角を曲がると、日本聖公会の小さな「東京聖テモテ教会」がある。、、、、落ち着いた、清々しい雰囲気の教会で、チョイト内部を拝見してきた。 現聖堂は吉田辰夫の設計で、昭和25年(1950)に献堂式を行っている。 スレート葺きの木造漆喰造り。 天井には
木造の小屋組みがむき出しで見え、素朴な感じの空間である。

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● 根津神社の鳥居前を通り、東大キャンパスに沿って裏道に入っていくと「おばけ階段」(根津1-20)がある。、、、、この階段、上りは40段で、下りは39段となるそうだ。 別に、上り下り専用階段あるわけではない。 私も試しに、数えながら一往復してみた。 なるほど!数え間違いしやすい構造になっているのだ、納得!

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・・・・・・・・・・・・数え間違いを起こす原因は、階段の一番下の段が道路面と同じ高さあることだ。 上るときは、最初の1段目に足を乗せ“一歩”をキチンと数えるが、下ってくると最下部の段部までは数えるが、最後にアスファルト(道路)部分にかかる“一歩”を数えないためである。

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・・・・・・・・・・・・この階段が「おばけ階段」と言われる要因としては、他に、階段が墓石で出来ているという話だ。 また段数の、40段、39段は、語呂合わせで『死十』、『三重苦』となるかららしい。、、、、私としては、幽霊などのお化けが出る話でもあれば、もっと面白いのだが、チョイト残念!



● おばけ階段を上がり、根津駅方面に歩いてると、小さな雨粒が落ちてきた。、、、、急ぎ、バスで御徒町駅に出て帰宅。

2020年12月 1日 (火)

四谷の階段

『勝負の三週間』、『不要不急の外出自粛』、『3密回避』、『年寄りは寝てろ(誰が言った?)』と言われると、暇な年寄りの私は遠方の散歩に出にくいね。 今日は昼過ぎから、四谷の寺町を散策してきた。、、、、JR中央線の信濃町駅から、新宿区須賀町・若葉周辺の寺社を巡って四ツ谷駅まで、8千歩の散歩です。



● 空いてる電車に乗って、浅草橋駅から7駅目(所要15分)の信濃町駅で下車する。 北側の擁壁、南側の首都高に挟まれ、頭上は駅ビルに覆われたホームは昼間と言えども薄暗く、トンネルの中に降りるようだ。 ホーム頭上の駅ビル1階部分が改札口で、「外苑東通り」に出る。、、、、薄暗いホームの照明をミラーボールに変えたら、お客さんに喜ばれるかも?

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● 信濃町駅から「外苑東通り」を北へ歩き、左門町に入ると一本東側の裏道に日蓮宗の長照山陽運寺がある。 陽運寺は昭和初期に創建した。、、、、寺の向かい(左門町17)には、お岩さんの嫁ぎ先の田宮家があった。 そこで、陽運寺は昭和27年(1952)に「於岩稲荷立正殿」を建て、当時から現在に至り中央区新川にある「於岩稲荷」にあやかり、「於岩稲荷はこちらが本物」と盛んに信者を集めたそうだ。 今では、この寺が本家の様に見えるが、元々は、田宮家の向かいに寺があっただけのこと。、、、、商魂たくましく、境内にはカフェが作られ、軽食が食べられるようになっていた。 お守りなど、グッズも売っている。 

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● 陽運寺の前には、「四谷於岩稲荷田宮神社分社」がある。 この地にあった田宮神社は、江戸幕府の御家人田宮家の屋敷社であった。 稲荷は、貧乏所帯を切り盛りし、商家奉公で家を隆昌させ夫婦仲も良かった信心深い於岩(お岩さん)が信心してお参りしていたことから評判となり、寛永13年(1636)という於岩の死後、彼女の徳に肖ろうと善男善女がお参りするようになり、100年ほど後に於岩稲荷として田宮家の菩提寺妙行寺(若葉2)の境内に移して独立させた。 その後、妙行寺は明治42年(1909)に、現在の豊島区西巣鴨に移転し、於岩の墓もこちらにある。 於岩さんは貞女であった。、、、、江戸庶民に慕われ、信仰された実在の於岩さんを、貞女とは180度反対の幽霊にしたのは、江戸時代の文化文政期(1800年頃)の歌舞伎戯作者の鶴屋南北と歌舞伎役者の尾上菊五郎だ。 実在の人物の人気にあやかり、正反対の「東海道四谷怪談」を作り・演じたことで、「四谷怪談を上演すると必ず怪我人が出る。お岩の祟りだ」とのデマゴーグを喧伝し、他ならぬ商売上手な菊五郎による、芝居の宣伝のためだった。 南北と菊五郎はこれで相当儲かったはずである。、、、、明治5年頃、於岩稲荷を田宮稲荷と改称し、火災で移転(中央区新川の於岩稲荷田宮神社)した。 しかし、昭和27年(1952)、陽運寺の『於岩稲荷はこちら!』の掛け声を聞いて、田宮家が激怒し、再びこの地に分社を建立した。、、、、こちら、四谷於岩稲荷田宮神社分社には、東京都教育委員会の名による案内板がある。 都のお墨付きもある、幽霊ではなく貞女の於岩さんの本家本元である。

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● 陽運寺、四谷於岩稲荷田宮神社分社から東に100m程の処(新宿区須賀町5)に「須賀神社」がある。、、、、須賀神社は江戸百稲荷の一で、四谷18ヶ町の総鎮守。 祭神は建速須佐之男命と宇迦能御魂命。 元は稲荷だった。その稲荷社は、往古今の赤坂一ツ木村の鎮守で、清水谷にあったのを、寛永11年(1634)江戸城外堀普請のため、現在地を替地として遷座した。 須佐之男命の鎮座の儀は、寛永14年(1637)島原の乱の時に、日本橋大伝馬町の大名主馬込勘解由が、幕府の命に依り、兵站伝馬の用を勤め、その功績に依り、現在の四谷一円の地を拝領したのを機会に、同20年(1643)神田明神社内に祀ってあった日本橋伝馬町の守護神牛頭天王社(須佐之男命)を地元民の総発意で四谷に合祀し、「稲荷天王合社」となり、俗称「四谷天王社」と云い、明治維新まで親しまれて来た。 明治元年「須賀神社」に改称。、、、、須賀神社の名物は、拝殿内に掲げてる「三十六歌仙絵」である。 三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55cm、横37cmの絹地に彩色したもの。 当時画家として高名だった四谷大番町(現:大京町)の旗本大岡雲峰の絵と、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功の書により天保7年(1836)に完成、奉納されたものだ。

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・・・・・・・・・・・・四谷の高台にある須賀神社には、男坂・女坂と呼ばれる階段の参道がある。 一般に男坂は傾斜が急で、一直線で上る。 それに対し、女坂は傾斜が緩やかで、途中で休みやすいように折れながら上る。 ここ須賀神社では、主参道となる男坂と、平行する女坂は、ともに長さ25m、高低差も同じで段数は60段程、傾斜は変わらない。 違いは、一直線に上るのが男坂、途中でクランク状に曲がるのが女坂。、、、、両階段を上ってみたが、見た目、途中で休めそうな女坂の方が、私にはラクダ! 

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・・・・・・・・・・・・女坂の上り口の脇に、日蓮宗寺院の稲荷山妙行寺がある。 妙行寺の創建年代は不詳。 寛永11年(1634)に当地へ移転してきた。、、、、於岩稲荷が移転した同名の妙行寺とは異なる。

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● 須賀神社の南東100m程に、道幅の狭い戒行寺坂(かいぎょうじざか、新宿区須賀町)がある。 この坂は東に向かって、真っ直ぐ下る、長さ120mの急な坂。 坂上の戒行寺門前に標識があり、『戒行寺の南脇を東に下る坂である。 坂名はこの戒行寺にちなんでいる。 別名、「油揚坂」ともいわれ、それは昔坂の途中に豆腐屋があって、質のよい油揚をつくっていたからこう呼ばれたという』と、記されている。 現在は豆腐屋はない!、、、、この坂道沿いに、10か寺前後の寺院があるが、多くは麹町付近にあった寺院が、江戸城外堀建造に伴い寛永11年(1634)に当地へ移転してきたそうだ。 強制立ち退きによる、集団移転!


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・・・・・・・・・・・・坂の名となった「戒行寺」は、日蓮宗寺院で、妙典山と号します。 文禄4年(1595)麹町に戒行庵として創建、後に宮重作兵衛重次が開基となり戒行寺となりました。 江戸期には身延山末頭5ヶ寺の一つとして繁栄、塔頭数ヶ院を擁していた。、、、、境内には、池波正太郎の原作と中村吉右衛門のテレビ時代劇で日本国民に知られている「鬼平犯科帳」の主人公:火付盗賊改の鬼平こと長谷川平蔵の供養塔がある。(墓は明治末期に寺の墓地が杉並区に移転した際に整理合葬された)

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・・・・・・・・・・・・戒行寺坂上の曹洞宗の寺院、蟠龍山永心寺。 慶長9年、麹町清水谷に起立したが、此の辺の寺々と同じく、元地が収用されたので寛永11年に現在地に移転した。 中興は松平越後守の奥女中で、法名は長寿院安窓永心大姉、延宝7年(1679)に歿した。 この辺りの寺院としては、享保11年(1726)に建てられた方丈型の本堂は、風格がある貴重な建築物である。 山門は、江戸時代に建てられた薬医門。

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● 戒行寺坂を下ると、北側に観音坂がある。 今度は上りだ!、、、、観音坂は約85mの直線の急坂。 坂名は、坂下の真成院の潮踏観音にちなむ。
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● 観音坂を上り右に折れると、文禄2年(1593)麹町清水谷に、服部半蔵正成により開山された専称山西念寺がある。、、、、チョイト長い話だが、、、、徳川家康の重臣で、槍の名人:服部半蔵は、忍びの達人としてチャンバラ好きは知ってるはず。 家康には正妻:築山御前との間に武勇に勝れる長子信康がいた。 信康は織田信長に目を付けられ、信長の愛娘を妻とした。 しかし、信長は嘘か真実か信康の乱心を理由に、義父でありながら信康の切腹を家康に要求した。 家康は断腸の思いで天下人信長の非情な命令に従い、最愛の子:信康に切腹を命じた。 その介錯を任ぜられたのが服部半蔵である。 ところが、いかに主君家康の命とはいえ、ついにその手を下すことができなかった半蔵は、このことから世の無常を感じ、また信康の冥福を祈るため仏門に入った。 天正18年(1590)家康は江戸に入り江戸城を築き、幕府を置くことになった。 半蔵も主君に随伴したが、信康の霊を弔うため剃髪し、名を西念と号し麹町清水谷に庵居を設け、遠州以来捧持していた信康の遺髪をそこに埋めて専称念仏の日々を送った。 文禄2年(1593)半蔵は家康より、信康の霊および徳川家忠魂の冥福を祈念するため、一宇建立の内命を受け、金500両を賜ったと記録されてる。 しかし、寺院建立を果たさず、文禄4年(1595)11月14日、55歳で逝去した。 法名は「専称院殿易安誉西念大禅定門」。 その後、一宇の建立がなり、山号と寺号はこの法名から、「専称山安養院西念寺」とした。 寛永11年(1634)幕府の政策により、江戸城外堀の新設工事のため他の寺院と共に、現在地に移転した。 本堂は、昭和20年(1945)戦火で焼失したが、昭和36年(1961)に再建された。

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・・・・・・・・・・・・服部半蔵の墓と、半蔵が家康から拝領した槍(本堂の床の間に保存)

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・・・・・・・・・・・・岡崎三郎信康(徳川信康)供養塔

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● 四ツ谷駅に出て帰る!、、、、四ツ谷駅は明治27年(1894)10月9日、甲武鉄道の停車場として開業。 ホームは周囲の道路、駅舎よりも低い位置の外堀の中にあるので、ホームの上に新四谷見附橋(平成3年架け替え)が架かり「新宿通り」を通している。、、、、大正2年(1913)に架けられた以前の新四谷見附橋は、多摩ニュータウンに復元保存されている。

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