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2020年12月 1日 (火)

四谷の階段

『勝負の三週間』、『不要不急の外出自粛』、『3密回避』、『年寄りは寝てろ(誰が言った?)』と言われると、暇な年寄りの私は遠方の散歩に出にくいね。 今日は昼過ぎから、四谷の寺町を散策してきた。、、、、JR中央線の信濃町駅から、新宿区須賀町・若葉周辺の寺社を巡って四ツ谷駅まで、8千歩の散歩です。



● 空いてる電車に乗って、浅草橋駅から7駅目(所要15分)の信濃町駅で下車する。 北側の擁壁、南側の首都高に挟まれ、頭上は駅ビルに覆われたホームは昼間と言えども薄暗く、トンネルの中に降りるようだ。 ホーム頭上の駅ビル1階部分が改札口で、「外苑東通り」に出る。、、、、薄暗いホームの照明をミラーボールに変えたら、お客さんに喜ばれるかも?

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● 信濃町駅から「外苑東通り」を北へ歩き、左門町に入ると一本東側の裏道に日蓮宗の長照山陽運寺がある。 陽運寺は昭和初期に創建した。、、、、寺の向かい(左門町17)には、お岩さんの嫁ぎ先の田宮家があった。 そこで、陽運寺は昭和27年(1952)に「於岩稲荷立正殿」を建て、当時から現在に至り中央区新川にある「於岩稲荷」にあやかり、「於岩稲荷はこちらが本物」と盛んに信者を集めたそうだ。 今では、この寺が本家の様に見えるが、元々は、田宮家の向かいに寺があっただけのこと。、、、、商魂たくましく、境内にはカフェが作られ、軽食が食べられるようになっていた。 お守りなど、グッズも売っている。 

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● 陽運寺の前には、「四谷於岩稲荷田宮神社分社」がある。 この地にあった田宮神社は、江戸幕府の御家人田宮家の屋敷社であった。 稲荷は、貧乏所帯を切り盛りし、商家奉公で家を隆昌させ夫婦仲も良かった信心深い於岩(お岩さん)が信心してお参りしていたことから評判となり、寛永13年(1636)という於岩の死後、彼女の徳に肖ろうと善男善女がお参りするようになり、100年ほど後に於岩稲荷として田宮家の菩提寺妙行寺(若葉2)の境内に移して独立させた。 その後、妙行寺は明治42年(1909)に、現在の豊島区西巣鴨に移転し、於岩の墓もこちらにある。 於岩さんは貞女であった。、、、、江戸庶民に慕われ、信仰された実在の於岩さんを、貞女とは180度反対の幽霊にしたのは、江戸時代の文化文政期(1800年頃)の歌舞伎戯作者の鶴屋南北と歌舞伎役者の尾上菊五郎だ。 実在の人物の人気にあやかり、正反対の「東海道四谷怪談」を作り・演じたことで、「四谷怪談を上演すると必ず怪我人が出る。お岩の祟りだ」とのデマゴーグを喧伝し、他ならぬ商売上手な菊五郎による、芝居の宣伝のためだった。 南北と菊五郎はこれで相当儲かったはずである。、、、、明治5年頃、於岩稲荷を田宮稲荷と改称し、火災で移転(中央区新川の於岩稲荷田宮神社)した。 しかし、昭和27年(1952)、陽運寺の『於岩稲荷はこちら!』の掛け声を聞いて、田宮家が激怒し、再びこの地に分社を建立した。、、、、こちら、四谷於岩稲荷田宮神社分社には、東京都教育委員会の名による案内板がある。 都のお墨付きもある、幽霊ではなく貞女の於岩さんの本家本元である。

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● 陽運寺、四谷於岩稲荷田宮神社分社から東に100m程の処(新宿区須賀町5)に「須賀神社」がある。、、、、須賀神社は江戸百稲荷の一で、四谷18ヶ町の総鎮守。 祭神は建速須佐之男命と宇迦能御魂命。 元は稲荷だった。その稲荷社は、往古今の赤坂一ツ木村の鎮守で、清水谷にあったのを、寛永11年(1634)江戸城外堀普請のため、現在地を替地として遷座した。 須佐之男命の鎮座の儀は、寛永14年(1637)島原の乱の時に、日本橋大伝馬町の大名主馬込勘解由が、幕府の命に依り、兵站伝馬の用を勤め、その功績に依り、現在の四谷一円の地を拝領したのを機会に、同20年(1643)神田明神社内に祀ってあった日本橋伝馬町の守護神牛頭天王社(須佐之男命)を地元民の総発意で四谷に合祀し、「稲荷天王合社」となり、俗称「四谷天王社」と云い、明治維新まで親しまれて来た。 明治元年「須賀神社」に改称。、、、、須賀神社の名物は、拝殿内に掲げてる「三十六歌仙絵」である。 三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55cm、横37cmの絹地に彩色したもの。 当時画家として高名だった四谷大番町(現:大京町)の旗本大岡雲峰の絵と、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功の書により天保7年(1836)に完成、奉納されたものだ。

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・・・・・・・・・・・・四谷の高台にある須賀神社には、男坂・女坂と呼ばれる階段の参道がある。 一般に男坂は傾斜が急で、一直線で上る。 それに対し、女坂は傾斜が緩やかで、途中で休みやすいように折れながら上る。 ここ須賀神社では、主参道となる男坂と、平行する女坂は、ともに長さ25m、高低差も同じで段数は60段程、傾斜は変わらない。 違いは、一直線に上るのが男坂、途中でクランク状に曲がるのが女坂。、、、、両階段を上ってみたが、見た目、途中で休めそうな女坂の方が、私にはラクダ! 

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・・・・・・・・・・・・女坂の上り口の脇に、日蓮宗寺院の稲荷山妙行寺がある。 妙行寺の創建年代は不詳。 寛永11年(1634)に当地へ移転してきた。、、、、於岩稲荷が移転した同名の妙行寺とは異なる。

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● 須賀神社の南東100m程に、道幅の狭い戒行寺坂(かいぎょうじざか、新宿区須賀町)がある。 この坂は東に向かって、真っ直ぐ下る、長さ120mの急な坂。 坂上の戒行寺門前に標識があり、『戒行寺の南脇を東に下る坂である。 坂名はこの戒行寺にちなんでいる。 別名、「油揚坂」ともいわれ、それは昔坂の途中に豆腐屋があって、質のよい油揚をつくっていたからこう呼ばれたという』と、記されている。 現在は豆腐屋はない!、、、、この坂道沿いに、10か寺前後の寺院があるが、多くは麹町付近にあった寺院が、江戸城外堀建造に伴い寛永11年(1634)に当地へ移転してきたそうだ。 強制立ち退きによる、集団移転!


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・・・・・・・・・・・・坂の名となった「戒行寺」は、日蓮宗寺院で、妙典山と号します。 文禄4年(1595)麹町に戒行庵として創建、後に宮重作兵衛重次が開基となり戒行寺となりました。 江戸期には身延山末頭5ヶ寺の一つとして繁栄、塔頭数ヶ院を擁していた。、、、、境内には、池波正太郎の原作と中村吉右衛門のテレビ時代劇で日本国民に知られている「鬼平犯科帳」の主人公:火付盗賊改の鬼平こと長谷川平蔵の供養塔がある。(墓は明治末期に寺の墓地が杉並区に移転した際に整理合葬された)

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・・・・・・・・・・・・戒行寺坂上の曹洞宗の寺院、蟠龍山永心寺。 慶長9年、麹町清水谷に起立したが、此の辺の寺々と同じく、元地が収用されたので寛永11年に現在地に移転した。 中興は松平越後守の奥女中で、法名は長寿院安窓永心大姉、延宝7年(1679)に歿した。 この辺りの寺院としては、享保11年(1726)に建てられた方丈型の本堂は、風格がある貴重な建築物である。 山門は、江戸時代に建てられた薬医門。

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● 戒行寺坂を下ると、北側に観音坂がある。 今度は上りだ!、、、、観音坂は約85mの直線の急坂。 坂名は、坂下の真成院の潮踏観音にちなむ。
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● 観音坂を上り右に折れると、文禄2年(1593)麹町清水谷に、服部半蔵正成により開山された専称山西念寺がある。、、、、チョイト長い話だが、、、、徳川家康の重臣で、槍の名人:服部半蔵は、忍びの達人としてチャンバラ好きは知ってるはず。 家康には正妻:築山御前との間に武勇に勝れる長子信康がいた。 信康は織田信長に目を付けられ、信長の愛娘を妻とした。 しかし、信長は嘘か真実か信康の乱心を理由に、義父でありながら信康の切腹を家康に要求した。 家康は断腸の思いで天下人信長の非情な命令に従い、最愛の子:信康に切腹を命じた。 その介錯を任ぜられたのが服部半蔵である。 ところが、いかに主君家康の命とはいえ、ついにその手を下すことができなかった半蔵は、このことから世の無常を感じ、また信康の冥福を祈るため仏門に入った。 天正18年(1590)家康は江戸に入り江戸城を築き、幕府を置くことになった。 半蔵も主君に随伴したが、信康の霊を弔うため剃髪し、名を西念と号し麹町清水谷に庵居を設け、遠州以来捧持していた信康の遺髪をそこに埋めて専称念仏の日々を送った。 文禄2年(1593)半蔵は家康より、信康の霊および徳川家忠魂の冥福を祈念するため、一宇建立の内命を受け、金500両を賜ったと記録されてる。 しかし、寺院建立を果たさず、文禄4年(1595)11月14日、55歳で逝去した。 法名は「専称院殿易安誉西念大禅定門」。 その後、一宇の建立がなり、山号と寺号はこの法名から、「専称山安養院西念寺」とした。 寛永11年(1634)幕府の政策により、江戸城外堀の新設工事のため他の寺院と共に、現在地に移転した。 本堂は、昭和20年(1945)戦火で焼失したが、昭和36年(1961)に再建された。

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・・・・・・・・・・・・服部半蔵の墓と、半蔵が家康から拝領した槍(本堂の床の間に保存)

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・・・・・・・・・・・・岡崎三郎信康(徳川信康)供養塔

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● 四ツ谷駅に出て帰る!、、、、四ツ谷駅は明治27年(1894)10月9日、甲武鉄道の停車場として開業。 ホームは周囲の道路、駅舎よりも低い位置の外堀の中にあるので、ホームの上に新四谷見附橋(平成3年架け替え)が架かり「新宿通り」を通している。、、、、大正2年(1913)に架けられた以前の新四谷見附橋は、多摩ニュータウンに復元保存されている。

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