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2021年1月

2021年1月31日 (日)

銅像を見ながら

体力維持のため、スリムな体型に戻すため、(本音は自粛生活に飽きたため)、今日は我が家(浅草橋)から皇居まで歩いてきた。 1万5千歩

 

● 浅草橋駅前から江戸通り(=国道6号)を日本橋室町方向に歩く。 日曜の朝7時半、歩く人もまばら、コロナ感染の心配なし!

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● 小伝馬町交差点から、チョイト裏道に入り「傳馬町牢屋敷跡」にお立ち寄り!、、、、伝馬町牢屋敷は慶長18年(1613)に常盤橋外より小伝馬町へ移転されたもので、明治8年(1875)に市ヶ谷囚獄へ移転までの江戸の牢獄であった。 面積は2600余坪で、現在の大安楽寺、身延別院、十思公園、十思小学校跡などを含む一帯である。 揚座敷、揚屋、大牢(庶民)、百姓牢、女牢などの獄舎や拷問蔵などがあったそうだ。 定員は350名程度だが、最大700名を収容できたといわれてる。 牢屋奉行には石出帯刀が世襲した。 安政の大獄(1859)では吉田松陰や橋本左内らが収容されていた。

・・・・・・・・・・・・大安楽寺、、、、高野山真言宗の大安楽寺は、明治15年、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かず、大倉喜八郎と安田善次郎が寄進して、受刑者を弔うために創建された。 

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・・・・・・・・・・・・身延別院、、、、明治16年(1883)身延山法主日薩上人が、現在:十思公園となっているところに願満祖師堂を創建し、身延山より日蓮上人木像を移して安置した。 関東大震災後、十思公園の向かいである現在地に、昭和3年(1928)現在の堂宇を建立した。 本堂の前左側には、名優:長谷川一夫が施主となり祀った、商売繁盛の願いを懸ける「油かけ大黒天」を安置した小堂がある。

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・・・・・・・・・・・・十思公園(じっしこうえん)、、、、明治になって牢屋敷跡を払い下げしようとしたが、祟りを恐れ買い手がつかなかった。 一部は、大安楽寺、身延別院となり、震災後、十思小学校が新築され、それに附属する公園として十思公園が開園した。、、、、園内には吉田松陰の終焉地として石碑がある、、、、「石町(こくちょう)時の鐘」として有名な、宝永8年(1711)に鋳造された鐘も残されている。

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・・・・・・・・・・・・旧十思小学校(じっししょうがっこう)、、、、旧十思小学校は明治11年(1878)に開校し、現存する建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎として建て替えられたものである。 表現主義と呼ばれる建築様式で、カーブさせた隅部、アーチ窓、半円形の円柱等の意匠に特徴がある。 正面玄関部分は特にカーブが大きく、全面に小広場があるなど建物の顔となっている。 平成2年(1990)3月の廃校後、改修工事を経て、平成13年(2001)からは区の複合施設「十思スクエア」として区民に利用されている。

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● 「江戸通り」と「昭和通り」が交差する「本町三丁目交差点」、、、、それぞれ道路の愛称名である「江戸通り」と「昭和通り」は、交差点で直交し判りやすいのだが、道路の路線番号はチョイと複雑である。 「国道4号」と「国道6号」は日本橋が起点で、室町三丁目交差点から本町三丁目交差点までの江戸通りの区間は重複している。 本町三丁目交差点から、昭和通りに入るのが「国道4号」、交差点から江戸通りを浅草方面に向かうのが「国道6号」である。 本町三丁目交差点を起点として、昭和通りを大森方面に向かうのが「都道316号」、、、、この説明を書いている自分も何が何だか、混乱してきた、アレレ???

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・・・・・・・・・・・・かつて、本町三丁目交差点の角に、小さな木造の喫茶店があった。 店前には、青地に黄色で鍵と“KEY COFFEE”と描かれた看板を出し、チョイト、ひと休みしたくなる雰囲気の店だった。 いつか珈琲を飲みに寄ろうと思っていたが、いつの間にか店は閉じ、更地となってる。 また、昭和の建物が消えていた!



● 三越前で、チョイト疑問が頭をよぎる。 『三越といえばライオン像』だが、『何でライオンなんだ?』 ライオン像の謂れを知る人は少ないのでは? 私も知らないので、興味が湧いてきた!、、、、日本橋三越本店玄関前のライオン像、後ろの壁に説明板が貼られている。 『ライオン像 三越の正面入口を守る一対のライオン像は、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔下のライオン像を模し鋳造されたものです。〝気品と勇気と度量〟の象徴として、また、ご来店のお客様の守護神として大正3年(1914年)本店のルネッサンス様式建築の本館ライオン口に設置されました。以来、東京名所の一つとして親しまれ、待ち合わせの場所としても有名です。このライオン像は、“必勝祈願の像”として誰にも見られずに背にまたがると念願がかなうと言い伝えられ、特に受験生の間に人気があります。』と記されている。、、、、知ってしまえば、あまり深い意味はなく、客寄せに設置したようだ! パンダでもよかったかも?

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● 三越の斜め向かい、日本橋室町2-3の室町三井ビル(コレド室町2)の裏通りに面した南西角に、ナント・ビックリ! 古河グループ(財閥)の創始者:古河市兵衛の住居跡があり、古河市兵衛胸像がある。、、、、古河市兵衛は天保3年(1832)京都岡崎で生まれる。 行商から身を興し、明治8年足尾銅山を開発して鉱山経営に着手、その強靭な気根と不撓の行動力により幾多の困難を乗り越え「鉱山王」と呼ばれた。 足尾銅山の発展を基盤として多角経営に進出、これが今日における古河グループ発展の基礎となる。 この地は古河が、明治10年住居兼古河本店とし、その後、20年間事業の拠点とした発祥の地である。、、、、三井の発祥地(三越)と古河の発祥地は、ほぼ向かい合わせにあったらしい。

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● 三越と三井本館の間を抜け、日本銀行前を行く。

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・・・・・・・・・・・・日本銀行の西側、日本橋川に東京最古の橋の常磐橋(ときわばし)がある。、、、、常磐橋は、天正18(1590)年の架橋と言われ東京では最も古い橋のひとつ。 常盤橋門の見附橋として活躍した。 現在の橋は明治10年(1877)に建造されたが、老朽化は激しく、東日本大震災以降は立ち入り禁止となり、改修工事が行われている。 歴史的に貴重な橋で、いろいろ調査しながら工事が進められている。 ほぼ、橋の工事は完了したようだが、まだ渡れない!

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・・・・・・・・・・・・常磐橋の下流に架かる、昭和元年に架けられた常磐橋を渡り千代田区大手町に入ると、今年の大河ドラマの主人公:渋沢栄一の像がある。 ここは、面積は僅か1420㎡の常磐橋公園の一角である。 江戸時代に枡形の城門である常盤橋門があったところで、明治8年に財団法人渋沢青淵翁記念会(渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われ、東京市の公園として公開された。 それ故、園内に渋沢栄一の銅像が建っている。 製作者は朝倉文夫。、、、、渋沢栄一については、NHKで麒麟が終わったら、「青天を衝け」を観てね!

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● 東京駅丸の内側、新丸ビル前の広場に「正二位勲一等子爵井上勝君像」がある。、、、、井上勝は天保14年(1843)生まれの長州藩士。 伊藤博文らと共にイギリスに密航し、ロンドン大学で鉱山、土木工学を学び、明治元年に帰国。 帰国後は鉄道敷設に貢献し、「鉄道の父」と呼ばれるようになった。、、、、銅像は大正3年(1914)に設置されたが、昭和19年(1944)に撤去された。 昭和34年(1959)には、没後50年を記念して二代目の銅像が建てられた。 ところが東京駅復元工事の為に平成19年(2007)に再び撤去され、平成29年(2017)、東京駅復元工事の完了とともに銅像も戻って来た。 駅前広場から東京駅舎と変わりゆく大手町のビル群を眺めながら、マスクを着けてコロナに怯え行き交う人々を見守っている。

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● 来ました、着きました、二重橋です! 観光客の人影は見えず、静かな皇居前広場

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2021年1月29日 (金)

見破られた!

昨日は、2ヵ月ぶりに循環器内科の定期診断を受けてきた。 医者は私の姿を見るなり『肥ったね!コロナ肥りかな?』 一目で見破られた。 先生自ら体重計を持ってきて『量ってみな』 表示された体重を見て『73㎏なら服の重さを引いて71㎏だね。 それほどでもないか、でも腹が出てるので、もう少し痩せなさい!』・・・・・と云われ『はい』と応えたが、簡単に痩せられるものではない! 少しずつ、散歩をはじめれば、そのうち以前のスリムな体型に戻るだろう! 

今日も体力を取り戻し、体型を戻すため、ご近所周辺を散歩しようと家を出た。 浅草橋駅前に来たら、地下鉄に乗りたくなり、そのまま四ツ木駅まで行って、京成立石駅まで歩いてきた。 約1時間、3km程の散歩。(不要不急の外出となってしまった! ゴメン!)

 

● サッカー漫画のキャプテン翼」にラッピングされた四ツ木駅で降りた。 久しぶりに“散歩の気分”になり、沿線の裏道を歩く。、、、、電柱脇の庚申塔に、体型が戻るよう手を合わせてきた。、、、、この庚申塔は「宝永三丙戌(1706)」の造立らしい。 江戸幕府、将軍綱吉の時代である。 庚申塔が造立された翌年には、富士山の大噴火があり、江戸でも数センチの降灰があったそうだ。 灰に埋もれることもなく、今日まで約300年、ここ四つ木に立っていた庚申塔、御利益ありそうだ!

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● 四ツ木駅から青砥駅までは、只今、高架による連続立体化工事が進められている。 一部仮線路も敷設され、着々と進んでいるようだ!、、、、しかし、“緊急事態宣言”により、工事現場は閉鎖され、誰一人いない。 寂しい現場!


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● 四ツ木駅と立石駅の中間に、区立「渋江公園」がある。、、、、公園は、1.6ヘクタール以上の面積を有し、テニスコート6面を備え、この付近では大きな公園である。 公園の敷地は、大正3年(1914)に設立した「千種セルロイド四ツ木工場」の跡地である。 公園は、昭和27年(1952)にセルロイド工場の跡に開園した。 園内には、三人の児童が腰かけている「葛飾区セルロイド工業発祥記念碑」がある。(三人の児童とセルロイド工業の関係は意味不明)、、、、セルロイド製の人形・筆箱などがあったが、プラスチックが出てセルロイドは見なくなった、今では懐かしの素材である! 

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● 半分以上の店はシャッターが下りている「立石仲見世」商店街を抜けて、立石駅から帰宅。、、、、駅は、高架駅建て替え工事に着手しており取り壊される。 仲見世は駅の高架化に伴い、再開発が予定されている。 立石駅周辺は、赤線時代名残の横丁・下町の下駄履き駅舎・飲み屋が並ぶ横丁など、全て取り壊されガラリと様相が変わるのも時間の問題だ!

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2021年1月27日 (水)

足がつった!

正月明けから昨日まで約3週間、不要不急の外出を避け、我が家でPCゲームとビデオ鑑賞、外に出ることもなく家に籠もっていた。 ところが昨日、置き時計の一つが壊れ、我が家から歩いて15分程の処にある秋葉原のヨドバシカメラに買いに行った。 久しぶりの外出であり、散歩を兼ねてのんびり歩きはじめたのだが、秋葉原の店の手前で、我が足がつった! 『アリャリャ、コリャリャ、コリャ大変、ふくらはぎが痛い!』、初めての体験である。 すれ違う人に変に思われないように、なにごともなかった振りをして、足を休め、もみほぐす。 どうにか、歩けるようになり、店で買い物をすませ、帰りも我が家まで歩いた。・・・・・これが、外出自粛で運動量の低下による『コロナフレイル』の入口かも? 体の諸機能が低下し、介護が必要な状態の一歩手前の状態を「フレイル」という、コロナの影響で「フレイル」になるいわば「コロナフレイル」が、今、広く懸念されている。
昨夜はさらに、昼間のゲームのやりすぎが祟り、激しい腰痛に悩まされ、我が身の衰えを切実に体感することができた。


今日は、体力を取り戻すため、浅草橋の我が家から、浅草寺を抜けて東浅草(かつての山谷付近)まで歩いてきた。

 

●浅草橋から江戸通りを歩き・・・・・“駒形どぜう”の前を雷門へ・・・・・美人に見惚れ・・・・・仲見世は半数休業、チョイ寂しい・・・・・今年最初の浅草寺参りはガラガラ・空き空き・・・・・賽銭泥棒もいない、人影少ない本堂・・・・・ここでは“三密”の心配は不要?

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● 本堂裏から北に向かうと、“お富士さんの植木市”でチョイト有名な「浅草富士浅間神社」(台東区浅草5)がある。 この神社は、創建年代は不詳だが、寛文11年(1671)以前に当地に勧請された。 元禄年間(1688~1703)に、静岡県富士市の浅間神社から分社した。、、、、ここ浅間神社の祭日には、植木市が浅草4、5丁目一帯で行われる。 昔からの祭日である5月31日、6月1日と、明治以降富士山の山開きが7月1日に変更になったことで加わった6月30日と7月1日の合計4日間の珍しい祭日となっている。 

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・・・・・・・・・・・・・・どこでも、浅間神社と云えば「富士塚」が必須アイテムである。 ココ、浅草富士浅間神社にも富士塚がある。、、、、一方通行、7段の大変登りやすい登山道が整備されている。 老若男女、誰でも登れる“富士さん”

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● 夕暮れとなり、明かりも灯り・・・・・お年寄りは、早速、銭湯に向かう・・・・・私はバスで帰る

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2021年1月 7日 (木)

しばらく、自粛します

ついに発出しました『緊急事態宣言』、、、、ココは、全ての国民が自覚し、行動すべきと理解しました。 

高齢(気持ちは30代)の雅万歩は、重大な基礎疾患(心の病)もあり、まだ早死にしたくないので、しばらく自粛することとしました。、、、、コロナに感染し、家族と別れ、一人だけの「GO TO 天国」旅行は勘弁して欲しい!、、、、自粛警察に気付かれないように散歩出来たら、その節はナイショで投稿しますので、よろしくお願いします。

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2021年1月 4日 (月)

浅草橋ナイナイないもの

雅万歩が住む“浅草橋周辺”(想定する地域はコチラを参照)には、『ナイ・ナイ・有るべきものが無い!』、、、、そうなんです、都心の町ではどこにでも普通に有るはずのものが無いのです。 そんなものを紹介します。、、、、(注:雅万歩は、只今、コロナの為、外出自粛中)

 

①「マック」が無い!・・・・・・江戸通りに面し、浅草橋駅の近くにあった「マクドナルド」が10年程前に撤退し、“浅草橋周辺”からは消え去った。 マクドナルドの店舗一覧を見ると、“浅草橋周辺”は完全な空白域となっている。 マクドナルドが撤退した跡には「バーガーキング」が入居し、『安くて、美味しいバーガー』で営業中。、、、、浅草橋駅周辺には、フライドポテトを入れる紙の容器が道端に捨てられていることもなく、マックは町の美化に貢献しているようだ!

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②「スタバ」が無い!・・・・・・こちらもマックと同様に店舗一覧を見ると、“浅草橋周辺”は完全な空白域。 さらに異様なことは、江戸通り(=国道6号)沿線に、銀行・店舗・ビジネスホテルが建ち並んでいるにもかかわらず、中央区室町の交差点から、東武浅草駅までの約3.5kmの区間には、店舗が一軒もないのだ!、、、、スタバでコーヒーを片手に休憩する“カッコイイ美人OL”が、見られないのは寂しいかぎり!、、、、ちなみに、「ドトールコーヒー」は、“浅草橋周辺”には都営浅草橋駅入口横(江戸通り)に1店舗あるのみ。 江戸通りには馬喰町・小伝馬町・蔵前にもある。

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③書店が無い!・・・・・・・“浅草橋周辺”から、書店が消えて久しい。 50年前は駅周辺だけでも5軒程あった。 今は本を買うには、秋葉原・浅草・錦糸町・日本橋と、いずれにしても電車で行かねばならない、書店から見放された町。、、、、江戸通りに面し、駅の隣りにあった書店は「マツモトキヨシ」に変わったが、その隣りには同業の「ココカラファイン」がある。 この両薬局は今年10月に経営統合すると云われてる。 さて、この2店舗は統合後どうなるのかな? 1店舗にして、書店が復活すると、私のように知識に飢えている読書家には嬉しいね!

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④泌尿器科が無い!・・・・・浅草橋の住人も高齢化し、尿漏れ・膀胱炎・前立腺癌など“泌尿器科”にお世話になる機会も増えてきたが、“浅草橋周辺”には泌尿器科の専門医院が無くなった。 ついでに、婦人科・産科も無くなった。 眼科、小児科の医院は各1軒だけ。 チョイト外れた総合病院に行けば、診てもらえるが、待ち時間・費用が大変だ!、、、、私も、数年前、排尿ができなくなり苦しみ、総合病院へ救急搬送してもらった経験がある。 先生曰く『家の近くの医院で、定期的に診てもらいなさい』 私『その近くの医院より、こちらの病院の方が近いのです。 普段診てもらえそうな医院は、こちらの病院より遠い処にしかありません』、、、、ちなみに、町の歯科医は15軒以上ある。 病院は「永寿総合病院 柳橋分院」(内科・整形外科が主)があるのみ。、、、、浅草橋は医療崩壊ではなく、医療アンバランスなのだ!

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⑤寺が無い!・・・・・・台東区は谷中・浅草と寺の多い区であるが、“浅草橋周辺”の地域内には一寺も無い。、、、、大正12年の関東大震災までは、浅草橋二丁目に華徳院と云う寺があったが被災し昭和4年に杉並区へ移転した。 この寺には、江戸三閻魔の一つがあった。 寺があった処には「閻魔堂跡」の碑がある。 華徳院の移転後、寺らしい寺は皆無となった!、、、、最近は、わけの判らない、〇〇教̻▢▢教会がポツ・ポツと生まれ、何やら怪しげな人が集まる処もある。 できることなら、閻魔さまに戻ってきて欲しいものだ!

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⑥タワマンが無い!・・・・・都心でも、郊外でも、再開発の目玉は超高層ビル、タワーマンション。 “浅草橋周辺”には30階以上の大きな建物が無い、土地の地盤が悪いわけではない、なぜだ?、、、、浅草橋5丁目に、30年前に建てられた「CSタワー」ビル(地上18階建て)は、今でも町のランドマークである。 蔵前1丁目の旧東京貯金事務センター跡地に建設中の建物は、23階建て(高さ91m)のタワーマンションと13階建て(高さ58m)の高層オフィスビル。 チョイト区域外だが浅草橋5丁目の向かい側(千代田区神田和泉町)に建設中の「日本通運本社ビル」は地上14階建て(高さ58m)。、、、、世間では30階を超える建物も珍しくなくなり、アチラ・コチラで、空に向かってニョキニョキと伸びている。 “浅草橋周辺”の住民は、私を含めて、皆、高所恐怖所なのかも?、、、、写真は順に、CSタワー、貯金事務センター跡地の再開発現場、日本通運本社ビル建設現場

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⑦その他、ありそうで無いのは・・・・・・公団(UR都市機構)の住宅団地が無いのは理解できるが、区営住宅・都営住宅など小規模公営住宅がない。、、、、ビジネスホテルはドンドン建設中だが、ラブホテルが無い、不便を感じる人は居ないようだ、皆、ジジイとババアになったのか?、、、、“〇〇商店街”が皆無となった。 終戦直後は、私が知るだけでも、駅前に2つの商店街があり、年末の“福引大売り出し”で賑わっていた。、、、、最後に、エスカレーターのあるビルが無い。 エスカレーターなんて、どこにでもありそうだが、“浅草橋周辺”域内のビルで、設置されているビルは私の記憶では皆無。(注:都営の浅草橋駅構内には設置されている。JRの浅草橋駅には設置されてない) 



我が家から、秋葉原までは徒歩20分、浅草雷門までは徒歩45分、日本橋までは徒歩45分、ナンダカンダと云っても、“浅草橋”は足を使えば便利なところである。、、、、高齢者施設に強制収容されるまでは、この地に住むつもりだ! 

 

2021年1月 1日 (金)

浅草橋七社巡り

明けましておめでとうございます・・・・今年も『雅万歩』をよろしく

大晦日、東京都の新型コロナ感染者数は、とうとう1000人を超えた! 我が家では、都内に住む娘二家族の全員が、時間をずらしてやって来た。 年始の会食は避け、用意していた三段重の“おせち料理”を、一段づつ持って帰ってもらい、それぞれ家族単位で正月を迎えることにした。 今日は、私達夫婦と97歳の母、三人でチョイト寂しいお正月。 

祝いの膳を済ませ、私:『今年は、“浅草橋七社巡り”に行こう!』 妻:『なに?それ!』 私:『誰云うとなく、神代の昔から言い伝えられた“浅草橋七社”を知らずして、ここに住めないぞ!』 妻:『じゃ~~、どこに住むの?』 私:『・・・・・?』、、、、「浅草橋七社」、こんな名所はガイドブックにも載ってない! これは雅万歩の好き勝手な命名である。

今日は浅草橋周辺にある全ての神社(七社)を巡ってきた。、、、、「浅草橋周辺」とは、東は隅田川、西は美倉橋通り、南は神田川、北は蔵前橋通り、で囲まれた、東西約1.0km、南北約0.6kmの矩形範囲が対象域。 この矩形の中には、台東区浅草橋と台東区柳橋の全域、北東の隅に台東区蔵前一丁目、南西には千代田区東神田三丁目が含まれる。 ちょうど矩形の中央に浅草橋二丁目の我が家が位置する(我が家が“浅草橋の中心だ!”、“天動説”の雅万歩) 浅草橋一丁目にはJR・都営の浅草橋駅、蔵前一丁目には蔵前警察署がある。

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● 浅草橋七社巡りの一番は、まず我が家の氏神様である「銀杏岡八幡神社(いちょうがおかはちまんじんじゃ)」、、、、浅草橋駅裏に静かに、誉田別命を祀る小さな神社。、、、、歴史は古く、平安時代後期、源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、小高い丘だった当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願した。 奥州平定の後、再び立ち寄ると銀杏の木は大きく成長していた、義家は神に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請した。 時は康平5年(1062)のことである。 江戸時代に入ると、現在のJR浅草橋駅の北側一帯は福井藩松平家屋敷地となり、神社も松平家の邸内社となる。 享保10年(1725)公収され町内(福井町)の産土神となった。 明治維新後には村社に列格した。、、、、毎年、6月と12月の大祓では、人型に家族の名を書き息を吹きかけ、半年の穢れを祓い清めてくれる、ありがたい神社。 今年も、我が家族の心身を、清く正しく美しくしてもらい、正月を迎えた。(残念なことに、容姿は美しくならないそうだ)

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● 二番は「須賀神社(すがじんじゃ)」、、、、神社は私の住む浅草橋二丁目にあり、江戸通り(国道6号)に面して鎮座する。、、、、神社の歴史は銀杏岡八幡神社よりさらに古く、推古天皇九辛酉年(601)に遡る。 このあたり(武蔵国豊島郡)に疫病(当時の新型コロナかも?)が流行した折、郷人が牛頭天王(素戔嗚尊の化身)に病難平癒を願ったところ、ことごとく快気を得たので、この所に祠をたてたのが創始とされている。 江戸期には祇園祠牛頭天王社と称していたが、明治元年に須賀神社と改称した。 その後、震災・戦災で被災し、昭和36年(1961)に社殿・社務所等の建物を全て完成。、、、、祭神は、もちろん素戔嗚尊。、、、、今日は、人類を代表して、“新型コロナの撲滅”を祈願する。

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・・・・・・・・・・・・・・須賀神社前の江戸通り(国道6号)も、今日は空いている!

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● 三番は柳橋一丁目の「篠塚稲荷神社(しのづかいなりじんじゃ)」、、、、祭神は、穀物・食物の神様である倉稲魂命。 神社は南北朝時代(室町時代)に、新田義貞の家臣篠塚重広(武勇に秀でた人物で、新田四天王の筆頭と言われた武将)が当地にあった稲荷社に祈願を続けていたことから、「篠塚稲荷」と称されるようになった。、、、、江戸時代には篠塚山玉蔵院宗林寺というお寺になったが、しかしその後、明治維新の神仏分離令により、廃寺となる。 その後は、大正時代に寺子屋として子供達の教育の場になるが、今度は廃校となってしまう。 そのような中、篠塚稲荷神社だけが残され、現在もこの地に鎮座しています。、、、、寺も学校も廃止となり、事業は失敗続き! 御利益期待できるのかチョイト心配だ? 一応、“金運上昇”、“一攫千金”の御利益を期待し、賽銭をはずんできた。

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● 四番は柳橋一丁目にある「石塚稲荷神社(いしづかいなりじんじゃ)」、、、、祭神は、こちらも倉稲魂命。 石塚稲荷神社の創建年代は不詳だが、浅草御蔵前元旅籠町(現:蔵前三丁目、江戸時代には隅田川岸に御蔵が並んでいた処)の人々は町内の安全と火除けを祈り、創建したと云われている、元禄元年(1688)には、御蔵の拡張により現在地へ移転した。、、、、戦後に柳橋料亭組合と柳橋芸妓組合などが寄進して再建した玉垣には、「亀清楼」「柳光亭」「柳水」「津久松」「はやし」「稲がき」など、隅田川沿いに建っていた料亭の名前が、当時の並び順に彫られている。、、、、私が知る戦後の柳橋では、神社は料亭街の中央に位置して、近くには銭湯・見番もあり、行き帰りにチョイト手を合わせることができた。 今日は、もしコロナで入院したら、柳橋芸者のような美人看護士に巡り合えることを祈願した。

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● 五番は蔵前一丁目の「榊神社(さかきじんじゃ)」、、、、榊皇大神を祀る榊神社は、浅草橋七社の中では、境内も広く最も参拝客の多い神社で、古くから「第六天神宮」と呼ばれてきたが、明治6年(1873)に社号を「榊神社」へ改称した。 笹塚稲荷神社・石塚稲荷神社は、こちら榊神社の兼勤社である。 、、、、第六天榊神社は、日本武尊が、景行天皇40年(110、日本書紀の時代だ!)に創建したと云われてる。 もと第六天神社と称し、森田町(現:蔵前三丁目)に鎮座していたが、享保4年(1719)浅草不唱小名(柳橋一丁目)へ遷座。 明治維新の廃仏毀釈により社号を「榊神社」へ改称。 現在の所在地(蔵前一)には、かつて官立の図書館浅草文庫があった。 浅草文庫は明治14年(1881)に閉館し、その後は東京職工学校(後に東京高等工業学校、現:東京工業大学)の校地となっていた。 関東大震災後に東京高等工業学校が目黒区大岡山へ移転したことから、昭和3年(1928)にはその跡地の一部(東京高等工業学校正門付近)に榊神社が移転し現在に至っている。、、、、頭が良くなりそうな神社なので、夫婦揃って“ボケ防止”を祈願してきたが、効果があるか疑問?

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● 六番は浅草橋三丁目の「加賀美久米森稲荷神社(かがみくめのもりいなりじんじゃ)」、、、、正月元日と云うのに、参拝する人は居ないのか? 浅草橋七社の中では、最も貧弱な神社。 祭神は倉稲魂命。、、、、その昔、加賀美太夫、条太夫という越後国猿屋村の猿曳が諸国漂泊の末、江戸にやってきた。やがて本業の芸と加持祈祷の評判が高まった。 そのころ、徳川将軍が不治の病にかかり、すぐれた祈祷師を天下に求めた。さっそく、彼らは城中に招かれ病気平癒の祈禱をした。すると、将軍の病はみるみる快癒にむかったので褒賞として、現在、神社のある土地に猿楽町の名を賜わって、永住することを許された。この両太夫の邸内に、それぞれ祀られたのが当稲荷社である。その後、小島屋西之助の持地となり合祀奉斎された。寛永7年(1630)にすでに猿屋町の町名が見られるため、そのころに勧請されたものと思われる。、、、、加賀美久米森稲荷神社は現在鳥越神社の境外末社となっている。(鳥越神社は我が家からも近い距離にあるが、今回の浅草橋周辺の定義域に入らないので除外)、、、、神社の大きさに比べ、やたら大きな鋼製の賽銭箱に、複数枚の硬貨を放り込んだら、ガラガラと大きな音を発し、正月の静かな町を目覚めさせた、恥ずかし~~い! 神社の規模から推定し、御利益は期待薄であるため、控えめに、年末はダメだったジャンボ宝くじ、『今年こそ一等当選しますように!』

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● 最後の七番は浅草橋三丁目の「甚内神社(じんないじんじゃ)」、、、、甚内神社は、「甚内霊神」を祭神とする。 伝承によれば、甚内は武田家の家臣高坂弾正の子で、主家滅亡後、祖父に伴われ諸国を行脚するうち宮本武蔵に見出されて剣を学び奥義を極めた。 武田家再興をはかり盗賊の首領となって、開府早々の江戸市中の治安を乱したため、瘧(マラリア)に苦しんでいたところを幕府に捕えられた。 鳥越の刑場で処刑されるとき「我瘧病にあらずば何を召し捕れん。我ながく魂魄を留、瘧に悩む人もし我を念ぜば平癒なさしめん」といったことから、病の治癒を祈る人々の信仰を集めたという。 “新型コロナ”で苦しむ人にも効くかも?、、、、ここは素直に“コロナ撲滅”を祈願した!

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● コロナ禍で、遠出は出来ず、地元の浅草橋七社巡りで、初詣とした。、、、、七社は、どの神社も社殿は戦後の建物(浅草橋周辺は関東大震災で被災し、昭和20年の空襲でも被災した)だが、歴史ある神社ばかりで、由緒を調べると面白いものである。、、、、七社巡りは4千歩の散歩でした。

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