銅像を見ながら
体力維持のため、スリムな体型に戻すため、(本音は自粛生活に飽きたため)、今日は我が家(浅草橋)から皇居まで歩いてきた。 1万5千歩
● 浅草橋駅前から江戸通り(=国道6号)を日本橋室町方向に歩く。 日曜の朝7時半、歩く人もまばら、コロナ感染の心配なし!
● 小伝馬町交差点から、チョイト裏道に入り「傳馬町牢屋敷跡」にお立ち寄り!、、、、伝馬町牢屋敷は慶長18年(1613)に常盤橋外より小伝馬町へ移転されたもので、明治8年(1875)に市ヶ谷囚獄へ移転までの江戸の牢獄であった。 面積は2600余坪で、現在の大安楽寺、身延別院、十思公園、十思小学校跡などを含む一帯である。 揚座敷、揚屋、大牢(庶民)、百姓牢、女牢などの獄舎や拷問蔵などがあったそうだ。 定員は350名程度だが、最大700名を収容できたといわれてる。 牢屋奉行には石出帯刀が世襲した。 安政の大獄(1859)では吉田松陰や橋本左内らが収容されていた。
・・・・・・・・・・・・身延別院、、、、明治16年(1883)身延山法主日薩上人が、現在:十思公園となっているところに願満祖師堂を創建し、身延山より日蓮上人木像を移して安置した。 関東大震災後、十思公園の向かいである現在地に、昭和3年(1928)現在の堂宇を建立した。 本堂の前左側には、名優:長谷川一夫が施主となり祀った、商売繁盛の願いを懸ける「油かけ大黒天」を安置した小堂がある。
・・・・・・・・・・・・十思公園(じっしこうえん)、、、、明治になって牢屋敷跡を払い下げしようとしたが、祟りを恐れ買い手がつかなかった。 一部は、大安楽寺、身延別院となり、震災後、十思小学校が新築され、それに附属する公園として十思公園が開園した。、、、、園内には吉田松陰の終焉地として石碑がある、、、、「石町(こくちょう)時の鐘」として有名な、宝永8年(1711)に鋳造された鐘も残されている。
・・・・・・・・・・・・旧十思小学校(じっししょうがっこう)、、、、旧十思小学校は明治11年(1878)に開校し、現存する建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎として建て替えられたものである。 表現主義と呼ばれる建築様式で、カーブさせた隅部、アーチ窓、半円形の円柱等の意匠に特徴がある。 正面玄関部分は特にカーブが大きく、全面に小広場があるなど建物の顔となっている。 平成2年(1990)3月の廃校後、改修工事を経て、平成13年(2001)からは区の複合施設「十思スクエア」として区民に利用されている。
● 「江戸通り」と「昭和通り」が交差する「本町三丁目交差点」、、、、それぞれ道路の愛称名である「江戸通り」と「昭和通り」は、交差点で直交し判りやすいのだが、道路の路線番号はチョイと複雑である。 「国道4号」と「国道6号」は日本橋が起点で、室町三丁目交差点から本町三丁目交差点までの江戸通りの区間は重複している。 本町三丁目交差点から、昭和通りに入るのが「国道4号」、交差点から江戸通りを浅草方面に向かうのが「国道6号」である。 本町三丁目交差点を起点として、昭和通りを大森方面に向かうのが「都道316号」、、、、この説明を書いている自分も何が何だか、混乱してきた、アレレ???
・・・・・・・・・・・・かつて、本町三丁目交差点の角に、小さな木造の喫茶店があった。 店前には、青地に黄色で鍵と“KEY COFFEE”と描かれた看板を出し、チョイト、ひと休みしたくなる雰囲気の店だった。 いつか珈琲を飲みに寄ろうと思っていたが、いつの間にか店は閉じ、更地となってる。 また、昭和の建物が消えていた!
● 三越前で、チョイト疑問が頭をよぎる。 『三越といえばライオン像』だが、『何でライオンなんだ?』 ライオン像の謂れを知る人は少ないのでは? 私も知らないので、興味が湧いてきた!、、、、日本橋三越本店玄関前のライオン像、後ろの壁に説明板が貼られている。 『ライオン像 三越の正面入口を守る一対のライオン像は、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔下のライオン像を模し鋳造されたものです。〝気品と勇気と度量〟の象徴として、また、ご来店のお客様の守護神として大正3年(1914年)本店のルネッサンス様式建築の本館ライオン口に設置されました。以来、東京名所の一つとして親しまれ、待ち合わせの場所としても有名です。このライオン像は、“必勝祈願の像”として誰にも見られずに背にまたがると念願がかなうと言い伝えられ、特に受験生の間に人気があります。』と記されている。、、、、知ってしまえば、あまり深い意味はなく、客寄せに設置したようだ! パンダでもよかったかも?
● 三越の斜め向かい、日本橋室町2-3の室町三井ビル(コレド室町2)の裏通りに面した南西角に、ナント・ビックリ! 古河グループ(財閥)の創始者:古河市兵衛の住居跡があり、古河市兵衛胸像がある。、、、、古河市兵衛は天保3年(1832)京都岡崎で生まれる。 行商から身を興し、明治8年足尾銅山を開発して鉱山経営に着手、その強靭な気根と不撓の行動力により幾多の困難を乗り越え「鉱山王」と呼ばれた。 足尾銅山の発展を基盤として多角経営に進出、これが今日における古河グループ発展の基礎となる。 この地は古河が、明治10年住居兼古河本店とし、その後、20年間事業の拠点とした発祥の地である。、、、、三井の発祥地(三越)と古河の発祥地は、ほぼ向かい合わせにあったらしい。
● 三越と三井本館の間を抜け、日本銀行前を行く。
・・・・・・・・・・・・日本銀行の西側、日本橋川に東京最古の橋の常磐橋(ときわばし)がある。、、、、常磐橋は、天正18(1590)年の架橋と言われ東京では最も古い橋のひとつ。 常盤橋門の見附橋として活躍した。 現在の橋は明治10年(1877)に建造されたが、老朽化は激しく、東日本大震災以降は立ち入り禁止となり、改修工事が行われている。 歴史的に貴重な橋で、いろいろ調査しながら工事が進められている。 ほぼ、橋の工事は完了したようだが、まだ渡れない!
・・・・・・・・・・・・常磐橋の下流に架かる、昭和元年に架けられた常磐橋を渡り千代田区大手町に入ると、今年の大河ドラマの主人公:渋沢栄一の像がある。 ここは、面積は僅か1420㎡の常磐橋公園の一角である。 江戸時代に枡形の城門である常盤橋門があったところで、明治8年に財団法人渋沢青淵翁記念会(渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われ、東京市の公園として公開された。 それ故、園内に渋沢栄一の銅像が建っている。 製作者は朝倉文夫。、、、、渋沢栄一については、NHKで麒麟が終わったら、「青天を衝け」を観てね!
● 東京駅丸の内側、新丸ビル前の広場に「正二位勲一等子爵井上勝君像」がある。、、、、井上勝は天保14年(1843)生まれの長州藩士。 伊藤博文らと共にイギリスに密航し、ロンドン大学で鉱山、土木工学を学び、明治元年に帰国。 帰国後は鉄道敷設に貢献し、「鉄道の父」と呼ばれるようになった。、、、、銅像は大正3年(1914)に設置されたが、昭和19年(1944)に撤去された。 昭和34年(1959)には、没後50年を記念して二代目の銅像が建てられた。 ところが東京駅復元工事の為に平成19年(2007)に再び撤去され、平成29年(2017)、東京駅復元工事の完了とともに銅像も戻って来た。 駅前広場から東京駅舎と変わりゆく大手町のビル群を眺めながら、マスクを着けてコロナに怯え行き交う人々を見守っている。
● 来ました、着きました、二重橋です! 観光客の人影は見えず、静かな皇居前広場。