浅草橋七社巡り
明けましておめでとうございます・・・・今年も『雅万歩』をよろしく
大晦日、東京都の新型コロナ感染者数は、とうとう1000人を超えた! 我が家では、都内に住む娘二家族の全員が、時間をずらしてやって来た。 年始の会食は避け、用意していた三段重の“おせち料理”を、一段づつ持って帰ってもらい、それぞれ家族単位で正月を迎えることにした。 今日は、私達夫婦と97歳の母、三人でチョイト寂しいお正月。
祝いの膳を済ませ、私:『今年は、“浅草橋七社巡り”に行こう!』 妻:『なに?それ!』 私:『誰云うとなく、神代の昔から言い伝えられた“浅草橋七社”を知らずして、ここに住めないぞ!』 妻:『じゃ~~、どこに住むの?』 私:『・・・・・?』、、、、「浅草橋七社」、こんな名所はガイドブックにも載ってない! これは雅万歩の好き勝手な命名である。
今日は浅草橋周辺にある全ての神社(七社)を巡ってきた。、、、、「浅草橋周辺」とは、東は隅田川、西は美倉橋通り、南は神田川、北は蔵前橋通り、で囲まれた、東西約1.0km、南北約0.6kmの矩形範囲が対象域。 この矩形の中には、台東区浅草橋と台東区柳橋の全域、北東の隅に台東区蔵前一丁目、南西には千代田区東神田三丁目が含まれる。 ちょうど矩形の中央に浅草橋二丁目の我が家が位置する(我が家が“浅草橋の中心だ!”、“天動説”の雅万歩) 浅草橋一丁目にはJR・都営の浅草橋駅、蔵前一丁目には蔵前警察署がある。
● 浅草橋七社巡りの一番は、まず我が家の氏神様である「銀杏岡八幡神社(いちょうがおかはちまんじんじゃ)」、、、、浅草橋駅裏に静かに、誉田別命を祀る小さな神社。、、、、歴史は古く、平安時代後期、源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、小高い丘だった当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願した。 奥州平定の後、再び立ち寄ると銀杏の木は大きく成長していた、義家は神に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請した。 時は康平5年(1062)のことである。 江戸時代に入ると、現在のJR浅草橋駅の北側一帯は福井藩松平家屋敷地となり、神社も松平家の邸内社となる。 享保10年(1725)公収され町内(福井町)の産土神となった。 明治維新後には村社に列格した。、、、、毎年、6月と12月の大祓では、人型に家族の名を書き息を吹きかけ、半年の穢れを祓い清めてくれる、ありがたい神社。 今年も、我が家族の心身を、清く正しく美しくしてもらい、正月を迎えた。(残念なことに、容姿は美しくならないそうだ)
● 二番は「須賀神社(すがじんじゃ)」、、、、神社は私の住む浅草橋二丁目にあり、江戸通り(国道6号)に面して鎮座する。、、、、神社の歴史は銀杏岡八幡神社よりさらに古く、推古天皇九辛酉年(601)に遡る。 このあたり(武蔵国豊島郡)に疫病(当時の新型コロナかも?)が流行した折、郷人が牛頭天王(素戔嗚尊の化身)に病難平癒を願ったところ、ことごとく快気を得たので、この所に祠をたてたのが創始とされている。 江戸期には祇園祠牛頭天王社と称していたが、明治元年に須賀神社と改称した。 その後、震災・戦災で被災し、昭和36年(1961)に社殿・社務所等の建物を全て完成。、、、、祭神は、もちろん素戔嗚尊。、、、、今日は、人類を代表して、“新型コロナの撲滅”を祈願する。
・・・・・・・・・・・・・・須賀神社前の江戸通り(国道6号)も、今日は空いている!
● 三番は柳橋一丁目の「篠塚稲荷神社(しのづかいなりじんじゃ)」、、、、祭神は、穀物・食物の神様である倉稲魂命。 神社は南北朝時代(室町時代)に、新田義貞の家臣篠塚重広(武勇に秀でた人物で、新田四天王の筆頭と言われた武将)が当地にあった稲荷社に祈願を続けていたことから、「篠塚稲荷」と称されるようになった。、、、、江戸時代には篠塚山玉蔵院宗林寺というお寺になったが、しかしその後、明治維新の神仏分離令により、廃寺となる。 その後は、大正時代に寺子屋として子供達の教育の場になるが、今度は廃校となってしまう。 そのような中、篠塚稲荷神社だけが残され、現在もこの地に鎮座しています。、、、、寺も学校も廃止となり、事業は失敗続き! 御利益期待できるのかチョイト心配だ? 一応、“金運上昇”、“一攫千金”の御利益を期待し、賽銭をはずんできた。
● 四番は柳橋一丁目にある「石塚稲荷神社(いしづかいなりじんじゃ)」、、、、祭神は、こちらも倉稲魂命。 石塚稲荷神社の創建年代は不詳だが、浅草御蔵前元旅籠町(現:蔵前三丁目、江戸時代には隅田川岸に御蔵が並んでいた処)の人々は町内の安全と火除けを祈り、創建したと云われている、元禄元年(1688)には、御蔵の拡張により現在地へ移転した。、、、、戦後に柳橋料亭組合と柳橋芸妓組合などが寄進して再建した玉垣には、「亀清楼」「柳光亭」「柳水」「津久松」「はやし」「稲がき」など、隅田川沿いに建っていた料亭の名前が、当時の並び順に彫られている。、、、、私が知る戦後の柳橋では、神社は料亭街の中央に位置して、近くには銭湯・見番もあり、行き帰りにチョイト手を合わせることができた。 今日は、もしコロナで入院したら、柳橋芸者のような美人看護士に巡り合えることを祈願した。
● 五番は蔵前一丁目の「榊神社(さかきじんじゃ)」、、、、榊皇大神を祀る榊神社は、浅草橋七社の中では、境内も広く最も参拝客の多い神社で、古くから「第六天神宮」と呼ばれてきたが、明治6年(1873)に社号を「榊神社」へ改称した。 笹塚稲荷神社・石塚稲荷神社は、こちら榊神社の兼勤社である。 、、、、第六天榊神社は、日本武尊が、景行天皇40年(110、日本書紀の時代だ!)に創建したと云われてる。 もと第六天神社と称し、森田町(現:蔵前三丁目)に鎮座していたが、享保4年(1719)浅草不唱小名(柳橋一丁目)へ遷座。 明治維新の廃仏毀釈により社号を「榊神社」へ改称。 現在の所在地(蔵前一)には、かつて官立の図書館浅草文庫があった。 浅草文庫は明治14年(1881)に閉館し、その後は東京職工学校(後に東京高等工業学校、現:東京工業大学)の校地となっていた。 関東大震災後に東京高等工業学校が目黒区大岡山へ移転したことから、昭和3年(1928)にはその跡地の一部(東京高等工業学校正門付近)に榊神社が移転し現在に至っている。、、、、頭が良くなりそうな神社なので、夫婦揃って“ボケ防止”を祈願してきたが、効果があるか疑問?
● 六番は浅草橋三丁目の「加賀美久米森稲荷神社(かがみくめのもりいなりじんじゃ)」、、、、正月元日と云うのに、参拝する人は居ないのか? 浅草橋七社の中では、最も貧弱な神社。 祭神は倉稲魂命。、、、、その昔、加賀美太夫、条太夫という越後国猿屋村の猿曳が諸国漂泊の末、江戸にやってきた。やがて本業の芸と加持祈祷の評判が高まった。 そのころ、徳川将軍が不治の病にかかり、すぐれた祈祷師を天下に求めた。さっそく、彼らは城中に招かれ病気平癒の祈禱をした。すると、将軍の病はみるみる快癒にむかったので褒賞として、現在、神社のある土地に猿楽町の名を賜わって、永住することを許された。この両太夫の邸内に、それぞれ祀られたのが当稲荷社である。その後、小島屋西之助の持地となり合祀奉斎された。寛永7年(1630)にすでに猿屋町の町名が見られるため、そのころに勧請されたものと思われる。、、、、加賀美久米森稲荷神社は現在鳥越神社の境外末社となっている。(鳥越神社は我が家からも近い距離にあるが、今回の浅草橋周辺の定義域に入らないので除外)、、、、神社の大きさに比べ、やたら大きな鋼製の賽銭箱に、複数枚の硬貨を放り込んだら、ガラガラと大きな音を発し、正月の静かな町を目覚めさせた、恥ずかし~~い! 神社の規模から推定し、御利益は期待薄であるため、控えめに、年末はダメだったジャンボ宝くじ、『今年こそ一等当選しますように!』
● 最後の七番は浅草橋三丁目の「甚内神社(じんないじんじゃ)」、、、、甚内神社は、「甚内霊神」を祭神とする。 伝承によれば、甚内は武田家の家臣高坂弾正の子で、主家滅亡後、祖父に伴われ諸国を行脚するうち宮本武蔵に見出されて剣を学び奥義を極めた。 武田家再興をはかり盗賊の首領となって、開府早々の江戸市中の治安を乱したため、瘧(マラリア)に苦しんでいたところを幕府に捕えられた。 鳥越の刑場で処刑されるとき「我瘧病にあらずば何を召し捕れん。我ながく魂魄を留、瘧に悩む人もし我を念ぜば平癒なさしめん」といったことから、病の治癒を祈る人々の信仰を集めたという。 “新型コロナ”で苦しむ人にも効くかも?、、、、ここは素直に“コロナ撲滅”を祈願した!
● コロナ禍で、遠出は出来ず、地元の浅草橋七社巡りで、初詣とした。、、、、七社は、どの神社も社殿は戦後の建物(浅草橋周辺は関東大震災で被災し、昭和20年の空襲でも被災した)だが、歴史ある神社ばかりで、由緒を調べると面白いものである。、、、、七社巡りは4千歩の散歩でした。
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