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2021年2月12日 (金)

梅は咲いたか!

今日は、チョイト上野へ行く用事ができたので、夫婦で湯島天神に寄ってきた。




● 蔵前橋通りを歩き、新妻恋坂の途中から「清水坂」を行く。、、、、湯島2丁目と湯島3丁目の境にある坂。 文京区教育委員会の案内板には次のように記されている。 『清水坂  江戸時代、この辺りに、名僧で名高い大超和尚の開いた霊山寺があった。明暦三年(1657)江戸の町の大半を焼きつくす大火がおこり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。この霊山寺の敷地は、妻恋坂から神田神社(神田明神)にかかる広大なものであった。嘉永六年(1853)の「江戸切絵図」を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正という旗本屋敷がある。明治になってその敷地は清水精機会社の所有となった。大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。そこで、町の人が、清水家の徳をたたえて「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。』 坂の途中には、大正13年(1924)に建てられた石柱が現存する。、、、、土地の一部として“坂”を寄附するとは、スゴイ! 私もマネしてみたいが、土地を寄附したら明日からホームレスになってしまう!

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● 清水坂から湯島天神に向かう途中、湯島3丁目20と21の間に、急な階段坂がある。 その名は「実盛坂(さねもりさか)」、、、、こちらも、文京区教育委員会の案内板では、『実盛坂  「江戸志」によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が「江戸砂子」や「改撰江戸志」にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。  実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。  斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。この話は「平家物語」や「源平盛衰記」に詳しく記されている。  湯島の「実盛塚」や「首洗いの井戸」の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。』と、記されている。、、、、上から見ると意外と怖い、下から見ると意外とキツイそう。

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● 実盛坂を下って、北隣にある「中坂」を上ると、清水坂から湯島天神に向かう道に戻る。、、、、中坂(なかさか)の名の由来は、江戸時代、妻恋坂と天神石坂(別名:男坂)の間に造られた坂であることに因む。 中間の坂。、、、、この付近は、江戸時代から、湯島天神の門前町として発達した盛り場で、かつては置屋・待合などが多かった。 昭和の頃は、料理屋、料亭、旅館、ラブホテルなどが多かったが、平成になると徐々にマンション、高齢者施設に変わっていった、現在もラブホテルが数軒残っている。 


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● ウメが咲いた湯島天神、、、、コロナに負けずウメが咲き、ウメを愛でに我も来た

・・・・・・・・・・・・まずは、天神さまにご挨拶。 子供も成長し「合格祈願」の対象が無くなったので、夫婦揃って「健康祈願」、私はもう一つ「宝くじ当選」もヨロシク!

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・・・・・・・・・・・・受験シーズン、「合格祈願」の絵馬に願いを託す受験生

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・・・・・・・・・・・・境内のウメにレンズを向ける人

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・・・・・・・・・・・・今月下旬が、一番の見頃かも? 

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