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2021年3月

2021年3月30日 (火)

ありゃ、こりゃ、庚申塔

東京では10年ぶりに黄砂が観測され、視界の悪い曇り空のような日となった。 今日は夫婦で、北総の「百庚申」を見ながら、北総線の千葉ニュータウン中央駅から隣りの小室駅まで歩いてきた。 1万3千歩、約7kmの散歩です。



【チョイト予備知識】・・・・・・・庚申信仰は、中国の道教「三尸(サンシ)説」に由来するもので人の体内に棲む三尸という虫が庚申の夜に人が熟睡している間に抜け出し、天帝にその人がした悪事などを告げて寿命を縮めてしまうので、その夜は村人が集まり飲食をしながら眠らずに夜を明かし、人々の無病息災や長寿などを祈願するもの。 室町時代ごろから庚申講が行われるようになり、その供養の証として庚申塔を建てるようになった。 この風習は江戸時代に各地に定着した。 千葉県北部の下総地区では、江戸時代前期から三猿、地蔵像、観音像、如来像などを彫った石塔が造られる。 中期に入ると、青面金剛像の石塔が主流となり、江戸時代後期に入ると「青面金剛」銘、「庚申塔」銘など文字塔が主流となる。 千葉県の北総では、青面金剛像の石塔が10基、その各石塔の間にそれぞれ9基づつ「庚申塔」銘の石塔を計90基配し、全部で100基の庚申塔を一度に造り並べる「百庚申」が江戸時代後期から明治時代まで流行したそうだ。 「百庚申」は、より多くの庚申塔を建てることにより、より多くの功徳を得たいという人々の気持ちの表れである。、、、、印西市、柏市、鎌ケ谷市などの北総では、現在でも各所に「百庚申」が残っている。 しかし、石塔は風化・破損したもの、地震などで倒壊し埋もれたものなどがあり、100基揃っているものは少ない。

 

 

 

● 北総線千葉ニュータウン駅で下車し、駅の南西側、東京電機大学千葉ニュータウンキャンパス(印西市武西1183-2)の前の武西学園台南街区公園内にある「武西の百庚申」を見に行く。 武西の百庚申は文久3年(1863)の造立で、刻像塔10基、文字塔90基から成り、当時の形態を最も良く残しています。、、、、ちなみに我が妻が100基あるか疑い、数えてみたら、間違いなく100基あった! 景観、壮観、奇観で、スバラシイ~~! 

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・・・・・・・・・・・・千葉ニュータウン駅の北側、印西市小倉鳥見神社にも数は少ないが庚申塔が並んでいる。 100基揃っているのは、鎌ケ谷大仏前の鎌ケ谷八幡神社こちらもパーフェクト!



● 駅前の住宅街を外れると、一気に田畑が広がる田舎の匂いがしてきた。 サクラはそろそろ散りはじめた。

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・・・・・・・・・・・・「神々廻・船尾街道(ししばふなおかいどう)」と称する道に出た処。 「武西観世音堂」という建物と小さな大師堂、月待塔・供養塔・庚申塔・出羽三山参拝記念碑などの数基の石塔が並んでいる。、、、、おそらく、昔から村の祠があった処であろう。

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・・・・・・・・・・・・観世音堂の前に広がる畑。 何を育てるのか、ジャガイモ? 落花生? ネギ? 

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・・・・・・・・・・・「神々廻・船尾街道」を、観世音堂から北東方向に300m程歩くと、8基の地蔵像が路傍に並んでいる(印西市武西954付近) 交通事故の地蔵か? 水子地蔵か? それとも餓死・水死・病死か? いずれにしても、南無阿弥陀仏。、、、、チョイト横に3基の石塔が、右端は庚申塔、中央は不明、左にナント!猫が彫られている、そして「明治二十四年」と刻まれている。 どうみても、猫だ、コリャ何だ!(私には判らない)


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・・・・・・・・・・・・再び「神々廻・船尾街道」を歩くと、印西市から白井市谷田の町に入る。 ここでも、路傍に20基ほどの庚申塔が基壇の上に並んでいた。、、、、写真3枚目の左端の庚申塔は「谷田の三猿庚申塔」と称し、寛文10年(1670)に造立されたもので、総高191cm、笠付角柱型で下部には三猿を彫出する三猿庚申塔。 白井市内には数多くの庚申塔があるが、この庚申塔は市内でも最古かつ最大のものである。 庚申信仰の歴史を理解する上で重要なものだそうだ。

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・・・・・・・・・・・・さて、ここでクエスチョンです。 歩いてきた「神々廻・船尾街道」の『神々廻』は何と読むのでしょうか? 地元の関係者以外で読める人は変人か、神様か、どちらにしても普通の人ではない!、、、、読みの正解は『ししば』で、北総線小室駅のある小室町(船橋市)の北側に隣接する町。 どうやら元禄14年(1702)には既に「神々廻」という言葉は存在していた。 江戸時代から明治22年(1889)までは「神々廻村」として、その後は複数の村と合併して「白井村」となってからは大字名として残ったそうだ。 また、地名「神々廻」の由来は諸説あり・ありで、本当のところは不明らしい!

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・・・・・・・・・・・・北総線を南から北に越えて、さらに「神々廻・船尾街道」を歩く。


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・・・・・・・・・・・・北総線を越え谷田地区の北側に天台宗の西福寺がある。 寺は無人らしい。、、、、境内に所在する、公孫樹(イチョウ)は子育て観音の「乳房公孫樹」と呼ばれ、『観音にすがり乳柱の一部を削って煎じ、これを愛飲すると忽ち乳が出る』とされ信仰を集め、近郷からも乳飲み子を抱えた母親の参詣で賑わったと云われてる。 特に第二次大戦前は東京からも人々が訪れたそうだ。 幹周り510センチメートルは市内でも最大級のもので、市内を代表する巨樹のひとつです。、、、、境内は苔むし、点在する石碑・石仏にも苔が生え、風情あり・ありの寺。

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・・・・・・・・・・・・西福寺から北西へ約300m、短い階段を上がると、創建が大同年間(806~809)といわれてる薬王寺がある。 天台宗の古刹である。 本尊は阿弥陀如来。、、、、平成13年(2001)に現本堂が新造された。境内には薬師堂もある。、、、、よく吠える犬がいて、静かに参拝できない寺!

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・・・・・・・・・・・・「神々廻・船尾街道」の歩きもここまで、白井市清戸の宗像神社に参る。 貞観18年(876)の創建と伝わる。慶長8年(1604)と天保2年(1831)に再建された。 印旛沼の北岸台地周辺に多くある宗像神社の総鎮守といわれていて、当地の宗像神社の中で最古の社といわれている。、、、、平成27年(2015)頃に、老朽化した本殿の解体修復を行い、境内の諸施設の整備、参道の拡幅・敷石の敷設替え事業が行われた。 境内には、鳥居右側に江戸時代中期の享保9年(1724)銘のある、両側面に童子像のある青面金剛像や、天明7年(1787)銘の仏像碑などがある。、、、、総鎮守と云う割には、境内も本殿も小さい、しかし本殿の彫刻は圧巻である。

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● 宗像神社本殿の後ろ奥に、「清戸の庚申塚」がある。、、、、並ぶ石塔の前の道路は只今工事中! 柵があり、チョイト離れて見る!

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● 田舎道を歩き北総線小室駅へ向かう。 スカット晴れていれば青空の下で気持ち良いのだが、黄砂の影響か視界不良なり、残念!

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・・・・・・・・・・・・小室駅到着。 北総線の駅では唯一船橋市にある駅であり、市内の駅としては最も北に位置する(JR船橋駅近くの海岸線から約14km離れている、あらためて船橋市の広さを実感できるね!)、、、、昭和54年(1979)3月8日に開業した、島式ホーム1面2線と単式ホーム1面1線の計2面3線の地上駅。 駅舎は橋上で、出入口は北口のみである。、、、、北総線内の駅では、乗客の少なさはワースト2!

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2021年3月27日 (土)

“密”より桜

“密”を避けるつもりで、朝、千鳥ヶ淵へ花見に行った。 行ってビックリ、見てドッキリ、赤ちゃんシャックリ、爺さんギックリ、千鳥ヶ淵は満員御礼。 春の陽気の下、一年ぶりの花見である。、、、、飯田橋駅から、千鳥ヶ淵、最高裁判所、国会議事堂をめぐり桜田門駅まで、1万2千歩の散歩です。




● 昨年7月、ホームを市ヶ谷寄りに移設し急カーブを解消した飯田橋駅は、西口(神楽坂側)の駅舎もモダンなデザインの橋上駅舎に新調した。、、、、黒を基調とした駅舎は、神楽坂の料亭のイメージかな?

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● 飯田橋駅斜め前の「日本基督教団 富士見町教会」、、、、、富士見町教会は、明治20年(1887)に創立され、120余年の歴史を持つ教会。 最初は麹町一番町にあったが、明治39年(1906)に富士見町に移転した。 移転後、建物は度々建替えられ、現在の教会は平成25年(2013)に竣工した。 祈りを捧げる人の手の形をイメージし、天を頂きとする三角形状が幾重にも重なるデザインの教会である。 ステキな教会です。

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・・・・・・・・・・・・教会前の早稲田通りを200m程南へ歩くと、いつ解体されてもおかしくないような、忘れ去られるような、地味な建物「共済ビル」がある。、、、、建築年代は不明だが、昭和初期の建物と思われる。 20~30年前までは、タイル張りの外塀であったが、剥がれ落ちるるのか、修復したようだ。、、、、ビル名の“共済”は、“国家公務員共済組合連盟”の関連かも?

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● 靖国神社の大鳥居前を通り、田安門付近にはカメラを持った人があちらにも、こちらにも! 時刻はまだ朝8時前だ!

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・・・・・・・・・・・・千鳥ヶ淵には既に大勢の人が、、、、アリャリャ、コレではコロナに感染するかも? 注意・注意と思えども、ソーシャルディスタンスは難しい。 2m離れると、間に割り込む人がいる!、、、、感染覚悟を決めて、花見を楽しむことにした。

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● 千鳥ヶ淵の南端の堤上に、第二次大戦中に皇居を護るために据えられたB29迎撃用の高射機関砲の台座跡が残っている。 台座は7基残っているが、今はちょうど丸いベンチとして、休憩用に使用されている。、、、、ここに据えた高射砲で、高々度を飛ぶB29を本当に撃ち落とせたのだろうか?


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● 千鳥ヶ淵から英国大使館前の半蔵濠に沿って歩く。

・・・・・・・・・・・・英国大使館は、昭和4年(1929)に建てられたもので、英国工務局設計によるもおの。 また、新館と呼ばれている、オフィス用の建物は昭和62年(1987)の建築である。 天皇の住いである吹上御所に、皇居外から最も近い位置にある建物。

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・・・・・・・・・・・・・・こちらもサクラが見事に咲いている。

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● 半蔵門から先は、久しぶりに皇居周辺の名所巡り・・・・・

・・・・・・・・・・・・皇族が日常出入りする半蔵門。 半蔵門から眺める警視庁(正面)方面。 緑が美しい!

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・・・・・・・・・・・・国立劇場、、、、劇場建物は敷地、諸元等が決定した後、昭和37年にコンペが開始され、翌38年竹中工務店のチームによる設計案が選ばれる。 鉄骨鉄筋コンクリート造、地上3階/地下2階、延床面積26,989㎡にて、昭和41年(1966)竣工。、、、、かれこれ、築60年になる低層の建物で、周辺の高層ビルが目障りになって来た!

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・・・・・・・・・・・・国立劇場のお隣には最高裁判所、、、、こちらもコンペが実施され、鹿島建設のチーム(岡田新一ほか16名)が当選した。 鉄骨鉄筋コンクリート造、地上5階/地下2階、延床面積59,671㎡にて、昭和49年(1974)竣工。

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・・・・・・・・・・・・最高裁判所の敷地東側の付近には、かつて三河田原藩の上屋敷があった。 江戸時代の文人画家・蘭学者であった渡辺崋山は、寛政5年(1793)この上屋敷内で誕生した。、、、、現在は三宅坂小公園となっている。

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・・・・・・・・・・・・次は憲政記念館、、、、国会議事堂前、永田町1丁目1番1号に建つている、尾崎行雄を記念する会館。 昭和47年(1972)に我が国の議会開設80年を記念して建てられた。 海老原一郎の設計、大成建設の施工。、、、、憲政記念館は、このたび取り壊されることとなり、新しく国立公文書館と合築して建設・移転することになった。、、、、お別れのため、内部をチョイト拝見!

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・・・・・・・・・・・・憲政記念館の隣り国会前庭園には、日本水準原点庫がある。、、、、都教育委員会の説明では、『日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治24年5月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。設計者は工部大学校第1期生の佐立七次郎。建物は石造で平屋建。建築面積は14.93㎡で、軒高3.75m、総高4.3m。 正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンターブラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフ装飾で特徴づけられる。日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。』と記されている。

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・・・・・・・・・・・・・・国会前庭園にもう一つ大事な基準点がある。 それは、巨大な鉛筆型の電子基準点「東京千代田」である。、、、、電子基準点「東京千代田」とは、『この電子基準点は、我が国の準天頂衛星システムや米国のGPSなどの星測位システムの信号を常時受信し、地球上の正確な三次元位置を計測・モニタリングする施設である。国土地理院は全国に電子基準点網を構築して、土地の測量や地図の調整に必要な位置の基準を提供するとともに、国土の地殻変動をモニタリングしている。また、受信した信号は高精度なリアルタイム位置情報サービスにも利用されている。電子基準点「東京千代田」は日本の基準となる日本水準点の近傍にあり、その標高を常時モニタリングする役割も担っている。』 なにやら、判ったような判らないような、チンプンカンプンの説明である。
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● 国会前庭園に来たら、本宅である国会議事堂を見て行かねば罰が当たる!!、、、、内部には入れてくれないので外からパチリ!、、、、現在の建物は昭和11年(1936)に帝国議会議事堂として建設された。 鉄骨鉄筋コンクリート造り地上3階(中央部分4階)、地下1階。

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● 今日の散歩は桜田門まで。 警視庁の地下から、地下鉄で逃走!
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2021年3月25日 (木)

三色の桃の花

北総線の矢切駅から、「じゅん采池緑地」の北東側の中国分の町を歩き下総国分寺へ、さらに京成本線の市川真間駅まで、1万3千歩の散歩です。




● 江戸川を越えて、矢切の渡しで有名な矢切駅から歩くことにした。 矢切駅は北総線では唯一の地下駅。 上下線に待避線のある2面4線の地下ホームは、人影は少ない(一日平均乗降客数は約8000人)

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● 今日は、これまで歩いたことがない「じゅん采池緑地」の北東側の住宅地を歩いてみることにした。・・・・・

・・・・・・・・・・・・まず、駅の東側にある「国際医療福祉大学 市川病院」の方へ歩く。 国際医療福祉大学市川病院のある敷地には、戦前から「化学療法研究所附属病院」(通称:化研病院)があった。 化研病院は、昭和14年(1939)、当時国民病といわれた結核の化学療法研究を目的に設立さた。 その社会的重要性から三井財閥の支援を受ける一方、明治天皇ゆかりの「恩賜館」を宮内省(当時)より下賜されるほど、結核の治療において多大なる貢献を果たしてきた。 戦後は結核患者減少に伴い一般病棟を建設し、地域の病院としても貢献してきた。 平成19年(2007)には、モダンな現在の国際医療福祉大学市川病院が建てられ、より広い医療領域で貢献している。

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・・・・・・・・・・・・・・国際医療福祉大学市川病院の敷地を回るように北へ歩くと、松戸市と市川市の市界の路傍に庚申塔(市川市国府台)がある。、、、、青面金剛像と三猿の組み合わせの庚申塔の、右側面には「右 市川道」「元文三戌午天(1738年)」と刻まれ、道標の役割も果たしている。 左側面は、何やら刻まれているようだが、私には判読できない。、、、、約300年、この地の歴史を見てきた庚申塔だ!

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・・・・・・・・・・・・庚申塔の脇をチョイト歩くと、市川病院の駐車場に向かい裏道がある。 その裏道の写真を見ると、中央奥に病院の建物が見え、左手前の住宅の後ろから道路を横切るように、草が生えた法面がある。 見えないけれど、この地下に北総線が走っているのだ!

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・・・・・・・・・・・・再び、病院の周囲を歩き、北側から東側に廻ると、国府台6丁目、北国分1丁目の町に入る。 この辺りは、北総台地の面影を残しているのか、住宅地はアップ・ダウンがキツイく、所々には雑木林の名残がある。

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・・・・・・・・・・・・中国分5丁目で、アレ? 一本の木に紅白の花、いやいやよく見ると赤・ピンク・白の三色だ! 『 サクラのようで サクラでない ウメのようで ウメでない それは何かと尋ねたら ゲンペイシダレモモ 源平枝垂れ桃 』 綺麗だ!お見事!
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・・・・・・・・・・・・【連想】梅・桜・桃の三つ揃うと思い出す都都逸の名作(?)、、、、『梅もきらいよ 桜もいやよ ももとももとの間(あい)が良い』 私も若い頃はモモが好きだった、年老いた今は・・・・・


・・・・・・・・・・・・中国分の町は綺麗で静かな住宅地である。 豪邸、屋敷と呼ぶような建物は無く、どの家も戦後の中産階級の住宅であるが、小さな庭のあるモダンなデザインの建物。

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・・・・・・・・・・・・中国分の住宅地を抜けると、「和洋国府台女子中学校」の前に出た。 校門前には守衛さんがいる、女学生狙いの変質者と間違えられるとヤバイので、チョイト、守衛さんを外してパチリ!

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● 和洋国府台女子中学校から先は、下総国分寺跡下総国分寺、宝珠院 と巡る。

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● 国分の台地の南端から眺める市川市。 右端に市川駅前のタワマン、左端に本八幡駅前のタワマン。 180度、視界良好! 

2021年3月22日 (月)

二寺の閻魔さま

緊急事態宣言が解除され、緩んだ気持ちがより緩み、『もうどうでもいいや!』の異常事態となった。 緩みっぱなしの気持ちで、今日は、中板橋に閻魔さまが居ると聞いたので、見に行くことにした。 東武東上線中板橋駅で下車し、専称院の閻魔さま、大山のおふく地蔵を見て、帰りは中山道仲宿の文殊院の閻魔さまにも挨拶し、都営三田線の板橋区役所前駅まで、1万1千歩の散歩です。




● 池袋駅から東武東上線で4駅目が「中板橋駅」である。 島式ホーム2面4線の地上駅には、「普通」しか停車しない。 「特急」、「急行」、「快速」、そして「準急」のいずれも、堂々と疾走し通過して行く。、、、、駅の由来は、付近に“中板橋村”があった訳じゃない。 昭和初期、この付近の子供は東上線の鉄橋を利用して石神井川に飛び込んで遊んでいた。 そこで、危険を感じた東武鉄道では、地元に鉄橋で遊ぶことは危ないので、他の遊び場を作るように申し入れ、地元では夏場の遊び場として「遊泉園」と云うプールをオープンさせた。 プールには遠方からも利用者が訪れるようになり、遊泉園では近くに駅の設置を申し入れ、昭和8年(1933)に新駅が開業することとなった。 この時、東武鉄道は駅名を何とするか地元に尋ね、地元では上板橋駅と下板橋駅の中間にあることから、単純に「中板橋」と回答した。 これが中板橋駅の生い立ちである! 判りやすい命名である!!

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● 中板橋駅から南へ300m程、今日の散歩の目的地:浄土宗寺院の「専称院(せんしょういん)」(板橋区仲町)がある。 専称院は、亀嶋山地蔵寺と号し、御本尊は阿弥陀如来。 寺はもと豊島の地(王子)に地蔵堂として創建された。 宝永年間(1704~1711)に祐天上人によって中興され現寺号に改称した。 昭和7年(1932)都市道路計画により王子の地を離れ、当地にあった乗蓮寺塔頭香林庵を合併して移転してきた。 香林庵は明治7年(1874)に区域で初めて公立の小学校が設置された場所である。 小さいながら厳かな雰囲気のお寺だ!

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・・・・・・・・・・・・専称院が豊島の地にあった頃、文化10年(1814)に境内に閻魔堂を合祀し、子育地蔵と共に世人に親しまれ信仰を集めた。 今は、本堂の右手前に閻魔堂を建て、渋みのある怖そうな閻魔大王が睨みをきかせている!

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・・・・・・・・・・・・豊島の地は、荒川沿いにあったため、寛政12年(1800)水害の溺死者の供養塔が建てられるなど、水難者の供養寺としても有名だったそうだ。

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● 東武東上線の中板橋駅と大山駅の間にある“板橋区仲町”周辺の小さな神社、石仏などをチョッピリ紹介・・・・・・
・・・・・・・・・・・・専称院の南100mに、倭建命を祀る「轡神社(くつわじんじゃ)」がある。 もと轡権現社と呼ばれていた。 名称の由来は、この地を訪れた徳川家康の乗馬のくつわを祀ったからとも、また馬蹄を祀ったからともいわれている。 江戸時代から「百日ぜき」に霊験がある神として広く信仰を集めていたそうだ。、、、、現在は、ツムラの漢方薬「麦門冬湯」などが効くらしい。 お試しあれ!

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・・・・・・・・・・・・轡神社から南東へ300m程、川越街道に出る手前(大山町)に、お地蔵さまを奉った祠「大山福地蔵尊」がある。、、、、今より150年前安政年間に鎌倉街道(日大交差点附近)では、いずれからかおふくさんという行者が来て街道筋の難病苦業を癒し大山宿の住民からは大変に慕われていた。 その後、大山に住み余生を衆生につくしたので、後に地元大山の人々からは、おふく地蔵としてまつられ現在に至っているそうだ。

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・・・・・・・・・・・・おふく地蔵の前の道「福地蔵尊通り」を北へ500m程歩き、「豊島病院通り」に入ると、東上線のガード(仲町)がある。 その東上線線路脇に庚申塔が祀られている。、、、、光背上部を欠いているが、読めるのは庚寅年十一月十四日だけで、造立年は確定できない。、、、、道路を挟んで向かいのお婆さんが、花・水を供え、掃き清めているらしい。

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● 中板橋駅と大山駅の中間を西に伸びる「豊島病院通り」を歩き、中山道に出る手前に「氷川神社」がある。 この氷川町の氷川神社は、現在、板橋宿の19の町を氏子区域とする。、、、、元久3年(1206)頃に、現在の所在地周辺を領有していた豊島氏の豊島左衛門尉経泰が、現在の埼玉県大宮市の氷川神社より、素盞男命、稲田姫命の分霊を奉じて社を建てたのが起源とされる。 石神井川畔の景勝の地ということで選ばれた。 豊島氏が没落した後も、地元民が板橋宿の鎮守として信仰してきた。 しかし、明治22年(1889)の火災で社は焼失し、起源を裏付ける史料も失われている。 火災の翌年に再建されたが、昭和20年(1945)の空襲で再び全焼した。 現在の社殿は、昭和33年(1958)9月に竣工した、鉄筋コンクリート、流造。、、、、中山道に沿って細長い参道の先に、石神井川を背にして社殿がある。 ナントナク寂れた感じをうける神社だ! コロナ禍で営業不振なのかも?

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● 氷川神社まで来たら、閻魔さまが居る、もう一寺に寄って行くことにした。 氷川神社から中山道を横断し旧中山道の商店街の近くに、真言宗豊山派の寺院「文殊院」がある。 文殊院は幡場山と号し、板橋宿本陣の飯田家の菩提寺として江戸時代初期に創建された。 開山は寛永2年(1625)に入寂の権大僧都慶恵と伝えられている。

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・・・・・・・・・・・・山門脇の閻魔堂には、閻魔大王・奪衣婆・懸衣翁の3像が安置されている。 懸衣翁が留まっている木は衣領樹と称し、奪衣婆が亡者から剥ぎ取った衣をこの枝に懸けて、垂れ具合で生前の罪の重さを計るのである。、、、、亡者が相撲取りだったら、回しを剥ぎ取るとスッポンポン! 猥褻物陳列罪で市中引き回しの後、所払いかも!

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● お帰りは、板橋区役所前駅から都営三田線に乗る。 昭和43年(1968)に、都営地下鉄6号線(現:三田線)開業に伴い開業。 相対式ホーム2面2線の地下駅。 駅名のごとく、区役所とは地下通路で結ばれている。、、、、ホーム・通路・改札など、全体的にゆとりが少なく手狭に感じる駅だ! 50年前に、工事費を削ったのか?


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2021年3月20日 (土)

彼岸の墓参り

今日は彼岸の中日。 緊急事態宣言はいよいよ明日解除されるが、“不要不急”の外出しても、墓参りぐらいは神も許したもう、仏は喜ぶだろうと、自問自答し、いざ行かん!、、、、昨日は、松戸の八柱霊園、今日は八王子の霊園と、連日の墓参りを済ませた。

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墓に来て思い出した

庶民的な俳人:小林一茶の句 ・・・・・ 『 墓からも 花桶からも 雲雀哉

青空の下、春の墓参りで、墓にたどり着くと、墓からもそして花桶からも、ひばりが飛び立つ、のどかな情景が目に浮かぶ。

 

墓参り済ませて

庶民的な凡人:雅万歩の句  ・・・・・ 『 墓からも 棺桶からも 招待状

仏に近い年齢になってきたが、恐怖の招待状は欲しくない! もう少し、この世で過ごさせて欲しいね!

2021年3月17日 (水)

松飛台から市川大野

春の陽気に誘われて、コロナ忘れたふりをして、のんきに歩くダメおやじ。 今日は、北総線の松飛台で下車し、南の武蔵野線市川大野駅まで、1万3千歩の散歩です。




● 我が家のある浅草橋駅(地下鉄)から、印旛日本医大行で乗り換えなしの約30分、北総線の「松飛台駅(まつひだいえき)」に到着、、、、平成3年(1991)3月31日に開業した、相対式ホーム2面2線の高架駅。 この駅は、松戸市紙敷と市川市大町の境界線上に駅舎とホームがある。 駅の北側(松戸市)には、なぜか東京都民が眠る都立八柱霊園がある。 この霊園付近には、戦時中、飛行場があった。 当時の誘導路西側の一部が、この八柱霊園の敷地の一部にあたるそうだ。 松戸にあり、飛行場があった処の台地と云うことで、「松飛台」の地名がつけられたと云われてる。、、、、松飛台駅の1日平均乗降人員(2018年度)は5,218人で、北総線15駅の中では秋山駅に次ぎ第11位。 下から4番目と乗降客は少ない!

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● 松飛台駅から南側の市川市を歩く。 駅周辺には、商店は少なく、戸建て住宅・マンション・アパートが並ぶ。 道の両側が梨園に変わる。 南へしばらく歩くと、国道464号(この付近では、愛称「大町梨街道」)に出る。、、、、梨のシーズンは秋、今は道路沿いの梨園もシャッターを下ろし休業中。 梨は“無し”!

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● 国道沿いに「日枝神社」(市川市大町)がある。 綺麗に掃き清められた境内は気持ち良い!、、、、由緒などの詳細は不明? 拝殿の後ろにまわると、本殿を囲む玉垣の横についてる扉が開かれており、本殿をより近くで拝見することができる。 また、境内には庚申塔・馬頭観音・帝釈天・妙法蓮華経題目などがある。、、、、木立に囲まれた清々しい空間の小さな神社。 

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● 大町梨街道から、再び梨園の中を南に歩く。、、、、大町4丁目の路傍に青面金剛が立っている。 梨泥棒を見張っているのか?、、、、人とすれ違うこともなく、コロナの心配も不要、マスクをはずして、青空の下を歩く。

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● 市川市大野町の小高い丘の上に、木立に囲まれて「駒形大神社」がある。、、、、境内の掲示では、『駒形大神社は経津主神を主神に、大野の地域に伝説として残っている。平将門を合祀した神社です。この、駒形大神社には、古くから五穀豊穣と村内安全を祈願する御奉謝の行事が伝えられています。かつては一月十九日、当番宿に集まった氏子たちによって、神社に飾る注連縄がつくられ、次に三臼の餅がつかれました。最初の一臼は供物の下に敷く、経五寸(15cm)ばかりの煎餅をつくり、二臼目は烏帽子型兜・擬宝珠型兜・皿頭型兜の型をした供物をつくります。三臼目の餅は集まった氏子たちが、互いに投げあう餅ぶつけに使います。餅に当たるとその歳の厄を払うといい、またこの餅は、風邪除けに効き目があるともいわれています。これで一日目の行事は終わりです。二十日は前日用意した供物・注連縄・酒肴等を捧げて神社に参拝、太鼓を打ち鳴らして題目を唱え、終わって御神酒を頂き、当番宿に引きあげます。このあと、宿では二組に分かれて行事役を中央に、両組から一人ずつ出て向い合い、互いににらみ合って行事役の合図をまち酒を呑みあいます。このとき笑った方が負けとなり、さらに大盃につがれた酒を呑むことになります。こうした行事のあるところから、俗に「にらめっこおびしゃ」の異名が付けられています。これらの行事は安政六年(1859)の記録を、明治十一年(1878)に書き写したものによって踏襲されてきましたが、太平洋戦争後は一月二十日の一日で、総ての行事を済ませるように改められ、毎年、神社の社務所で行われています。この行事は昭和四十年、市の民俗文化財に指定されています。  平成十六年九月  市川市教育委員会』と記されていた。、、、、酒飲みには都合のいい行事が残っている神社だが、飲めない私はどうしたものか?

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● 駒形大神社の南、市川大野駅の西、山号を「曽谷山」とする日蓮宗の寺院が4寺点在する。 曽谷山禮林寺、曽谷山法蓮寺、曽谷山圓行院、曽谷山充行院である。 今日は、曽谷山禮林寺と曽谷山法蓮寺に立ち寄ってきた。

・・・・・・・・・・・・禮林寺は、曽谷城主曽谷教信(法蓮阿闍梨日礼、1224~1291)の菩提を弔うため、娘の芝崎姫(妙林日貞法尼)が当地に創建したといわれてる。、、、、なぜか、信楽焼の狸が多いこと!

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・・・・・・・・・・・・法蓮寺は、日蓮聖人の高弟日礼上人(曾谷入道教信、正応4年(1291)寂)が創建。


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・・・・・・・・・・・・法蓮寺から見晴らしの良い坂を下ると、庚申塔などが数基並んでる。

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● 武蔵野線の「市川大野駅」に到着。 北隣りの駅は「東松戸」、松戸市と市川市が接していることを感じられる隣同士の駅である。、、、、これより、西船橋経由で浅草橋へ帰る。

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2021年3月14日 (日)

中山競馬場前駅

春の陽気に、ついついコロナはさておいて、散歩に出た! 京成本線の鬼越駅で下車し、中山法華経寺をグルリと大きくまわるように、北方・若宮・東中山の町を巡り、東中山駅までの1万歩の歩きです。

昨年2月に、鬼越駅~神明社~子之神社~法華経寺~京成中山駅のルートで散歩した。 今日は、鬼越駅~神明社~八幡神社~子之神社~奥之院(法華経寺奥之院)~若宮八幡神社~東中山駅と、歩いてきた。 



● 京成八幡駅の東隣の駅:「鬼越駅(おにごええき)」で下車。 鬼越駅は、昭和10年(1935)8月3日、中山鬼越駅として開業し、昭和18年(1943)に現在の鬼越駅に改称した。、、、、島式ホーム1面2線の地上駅で、駅舎は京成八幡寄りの踏切脇にあり、駅舎と島式ホームの間には構内踏切がある。 一日当たりの平均乗降客は5,696人(2018年度実績)で、京成線内69駅中第50位である。 下から数えると堂々の19位。 当駅には、全ての普通列車が停まるが、特急、快速などの全ての優等列車は通過する。 かつては田圃の中にあったと思われる雰囲気が残る駅だ。、、、、地名の「鬼越」は、かつて、このあたりに恐しい鬼が住んでいたといわれ「鬼子居(おにごい)」と呼ばれていたが、その後、鬼子居が「鬼越」となったそうだ。 明治2年(1869)の地名は、葛飾県葛飾郡鬼越村であった。

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● 駅の北側に鎮座する鬼越の鎮守様である「神明社」、、、、由緒書きによると、元和2年(1616)伊勢の皇大神宮より遷宮され、祭神は天照大神である。 現在の社殿は明治年間の造営で、一昨年(2019)台風の被害にあい、昨年修復された。 境内には耳の道祖神(耳の神様)、大神様(学問の神様)、お諏訪様(商売の神様)、与力様(力の神)、浅間神社(富士信仰)などが祭られている。 また、境内には松・楠などの大樹も多い。、、、、尋常小学唱歌「村祭」を思い出させる雰囲気の境内、ドンドンヒャララ ・ドンヒャララ

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● 神明社の北側に「市川市北方」の住宅地が広がる。 北方は静かな住宅地で、俳人、小説家などが好んで住んだ地である。 チョイト坂が多く、道が狭いのが、玉に瑕!

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・・・・・・・・・・・・北方の町にある「八幡神社」(北方3)は小高い処にある、地域のお社らしい。 急な階段を上るとスグにコンクリート造の社殿があるのみ。

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・・・・・・・・・・・・八幡神社の北にもう一社、「子之神社(ねのじんじゃ)」(北方3)がある。 こちらも小高い丘の上にあるが、急な階段を上ると市川市の北部を一望するような、素晴らしい眺望に出会う。

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● 中山法華経寺の北側の住宅地(中山2)を歩くと、法華経寺が所有する重要文化財64点を保管するために昭和6年(1931)に建てられた「法華経寺聖教殿」の頂部が木立の陰に見える。

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● 法華経寺の東側:若宮2丁目に入ると、法華経寺の奥之院の立て看板が見えた! 『チョイト、寄ってみよう!』、、、、奥之院は、日蓮聖人が文応元年(1260)富木常忍(中山法華経寺初世日常聖人)の館に逃れてきて、当地に建立した法華堂の地と云われてる。 法華堂は後に法華寺と改称、さらに中山の本妙寺と合寺して法華経寺となり、当地は奥之院と称されるようになった。、、、、当寺の弁財天は市川七福神の一つ。

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● 奥之院から南東へ150m程に「若宮 八幡神社」(若宮2)がある。 若宮八幡神社は、富木常忍(1216~1299)の館の鎮守社として創建され、中山法華経寺文書嘉暦4年(1329)の條にも記載されているそうだ。 日蓮聖人も八幡神社に参ったか?、、、、今は、盆踊りができそうな公園の片隅に鉄筋コンクリート造の社があるのみ。

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● 奥之院から南へ歩き、京成本線の「東中山駅」についた。 東中山駅は昭和10年(1935)10月4日、中山競馬場前駅という臨時駅として設置され、昭和28年(1953)に常設の東中山駅として開業した。 昭和53年(1978)に国鉄武蔵野線船橋法典駅が開業するまでは中山競馬場への最寄駅であった。 その頃は、特急(スカイライナーは除く)、快速など、全ての列車が停車する駅であった。 現在は、重賞レースが開催される日以外は、普通列車だけが停車する寂しい駅。、、、、島式ホーム2面4線の地上駅で、駅舎は只今リニューアル工事中の橋上駅舎。 チョッピリ、モダンな駅となる。

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2021年3月11日 (木)

中学が大学に変身!

東武伊勢崎線で乗降客の少なそうな駅へ行ってみた。 こうなると、何といっても、堀切駅である。 伊勢崎線の駅の中で、23区内で最も乗降客の少ない駅が「堀切駅」である。 今日の散歩は堀切で下車し、駅周辺の足立区千住曙町・柳原の町の裏通りを歩き回ってきた! 1万1千歩




● 浅草から東武伊勢崎線(愛称:東武スカイツリーライン)で5駅目、北千住駅の2駅手前、墨田区から足立区に足を踏み入れた処にある駅、荒川の土手にピッタリとくっついた駅。 それは、私の大好きな駅の一つでもある「堀切駅、、、、堀切駅は、明治35年(1902)4月1日の吾妻橋(現:とうきょうスカイツリー)~北千住間開業時にできた。 当時の堀切駅は今よりやや東の、ちょうど荒川のど真ん中付近にあった。当時はまだ現在の荒川がなかった頃である。 その後大正12年(1923)、荒川の開削工事に伴い、堀切駅は現在の位置(足立区千住曙町)に移転した。、、、、駅名となった「堀切」は、現在の荒川と綾瀬川を挟んだ対岸の葛飾区側の地名である。 かつては地続きであったが、荒川の掘削に伴い分断された。 葛飾区堀切にある京成本線の「堀切菖蒲園駅」とは、直線で約500m離れている。、、、、堀切駅の一日の平均乗降客数は令和元年(2019)で4498人である。 

・・・・・・・・・・・・堀切駅から、荒川とそこに架かる堀切橋を眺める。 橋を渡った先に、京成電鉄の堀切菖蒲園駅がある。

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・・・・・・・・・・・・堀切駅は上下線それぞれ別に駅舎がある。 北千住方面行きは可愛らしい西口駅舎。 浅草方面行きは荒川土手にへばりついた東口駅舎

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・・・・・・・・・・・・相対式ホーム2面2線の地上駅であるが、ホームはキツイ急カーブ上にある。

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● 堀切駅の隣り、平成19年(2007)に「東京未来大学」が開校した。 大学はこども心理学部とモチベーション行動科学部 の2部。 学生数は通学課程(1251名)と通信課程(1046名)があるそうで、堀切駅の乗降客の増加にも貢献しているようだ!、、、、校舎は、廃校となった旧足立区立第二中学校跡地と校舎を利用しているそうだ。 駅に近く、北千住、浅草へはスグ、バイトに、コンパに、便利な処?

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● 駅から西へ、細い通りを右に左に迷ったら、新義真言宗寺院の「西光院」があった。 寺は千葉山薬師寺と号し、千葉氏の庶流石出帯刀吉深が徳治2年(1307)に創建したと云われてる。 牛田薬師ととして知られているそうだ、私は知らなかった、ゴメン!、、、、現本堂は鉄筋コンクリート造。

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● 隅田川岸の千住大川端公園から見る「千住汐入大橋」と対岸の南千住の高層住宅群、、、、早咲きの桜が満開、ビューティフル!

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● 京成本線の盛土を背にして祀られている十一面観世音菩薩。 十一面観世音菩薩大呪『オンマカキャロ二キャソワカ』、、、???

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● 堀切駅の北側、北千住駅の東側、荒川岸の柳原の町。 北千住の大踏切から東に伸び、柳原の中央を貫く道は広いが、あとは狭い道が複雑に伸び迷路のようだ!、、、、シャッターの下りた商店が多い中、大人用の紙おむつ、トイレットペーパー、ティシュを売る店だけは繁盛しているようだ! 住人の必需品?

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2021年3月10日 (水)

遺跡の町や!

もうしばらくコロナで自粛。 でも、チョイトだけなら外出してもいいだろう(?) 気持ちは緩みっぱなし!、、、、今日も乗降客数の少なそうな駅から歩くことにした。 頭に浮かんだ駅名は京成本線の「新三河島」、ここから歩いて尾竹橋まで、1万歩の散歩です。




● JR日暮里駅で京成本線に取り換えて、一つ隣りの「新三河島駅」へ行く。、、、、新三河島駅で、下車したのは数名、乗車したのは十名ぐらい。 2019年度の1日平均乗降人員は6,031人で、京成線内69駅中、堂々の第48位である。 駅が開いている朝6時から、夜12時までの18時間で換算すると、1時間に平均335人が乗降する。 乗る人・降りる人が半々とすると168人が降りて、168人が乗ることになる。 上り・下りとも10分間隔で運転されていると仮定すると、1時間に20本の列車が運転されており、1本当たりの乗車員数は、168人÷20=8.9人 一列車が到着すると、約9人が降りて、約9人が乗る駅である。 都心の駅としてはチョイト寂しい駅だ!、、、、新三河島駅は昭和6年(1931)12月19日に隣の日暮里駅と共に開業した。 この時、既に国鉄の三河島駅が存在していたので、“新”を冠し「新三河島」と名付けられた。 また、「三河島」という地名の由来は3説あり。 中川、古利根川、荒川の3河川に囲まれた島状の地であるという説。 徳川家康とともに三河国から来た伊藤一族が住みついた地という説。 木戸三河守孝範の屋敷があった地という説。(お好きな説をどうぞ!)、、、、駅は島式ホーム1面2線の高架駅。 ホームの一部は明治通りの上まで伸びている。 出入口と改札口は明治通りに面し、高架下の一ヵ所のみ。 駅前には一軒のパチンコ屋しかなく寂しそうだ。

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● 新三河島駅から明治通りを西へ100m程行くと、「尾久の原 防災通り」がある。 またの名を「消防道路」、さらに「疎開道路」と云う。、、、、疎開道路(そかいどうろ)は、第二次世界大戦中に空襲による延焼防止を目的に建物を疎開させ敷設・拡幅された道路をいう。 東尾久と町屋・荒川を分ける約1360mの「尾久の原防災通り」は、疎開道路であったものを、戦後、消防のために整備され「消防道路」と称した。、、、、♪♪ 戦時中は 疎開道路と呼ばれたの 戦後は消防道路と名乗ったの 防災通りが整備されたその日から あなたがさがして くれるのを待つわ 昔の名前で出ています ♪♪

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● 防災通り東側の裏道(荒川5丁目・6丁目)を行く、、、、曲がりくねった道、消防車・救急車も入りづらい道、「雅万歩」はこういう道が大好きだ!、、、、「町屋二丁目」停留場前に出た!

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● 都電の停留場から50m程西へ、赤い派手な山門と鉄筋コンクリート造のモダンな本堂の浄土宗寺院「満光寺」(読みは小声で“Mankoji” )がある。 その創建は南北朝末か室町時代と伝えられている。 浄土宗寺院としての開山は、智天上人。 開祖は上野二葉村(現:台東区)名主二葉和泉守。 上野不忍池付近にあったものが、寛永寺の造営でこの地に移転してきたと言われている。 境内には、永和元(1378)年銘を始めとする板碑や庚申塔、二葉地蔵、二羽稲荷、二葉閻魔大王等が祀られている。 二葉閻魔大王は木造の閻魔坐像で、頭部の内側に「元禄十六年七月」の銘があるそうだ。 酒の飲み過ぎ(?)顔真っ赤!

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● 都電荒川線の北側、町屋4丁目に「町屋実揚(みあがり)町会」がある。 この町会の建物の前に「町屋四丁目実揚遺跡」の案内板があり、そこに『本遺跡名は現在の住居表示と旧小字名「実揚」を合わせて命名されたものである。700mほど北には隅田川が流れ、荒川低地の中の微高地上に位置する。 この辺りには、中世の板碑を所有している旧家が点在し、中近世から集落が形成されていたと考えられていた。 近年の発掘調査の成果により、この付近で弥生時代末から古墳時代前半を中心とした周溝・溝・井戸などの跡、土師器・須恵器などの遺物が見つかり、古くから人びとの暮らしが営まれてきたことが明らかになってきた。(以下略)』と記されている。、、、、つまり、この付近には地下に埋蔵文化財があるのだ! 土木・建築工事着手前には届出が義務付けられており、必要に応じ発掘調査が行われる町である。 大判・小判でも出てくればいいのだが、土器や鹿の骨や貝などではチョイトつまらないかも!

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● 新三河島駅から歩き、北東の隅田川に架かる「尾竹橋」に着いた。、、、、今日の散歩はココまで、都バスで帰ることにした。

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2021年3月 7日 (日)

若き日、思い出の地

緊急事態宣言解除は2週間延期された。 私はマイペースで、自粛生活を続けている。 今日は日曜日なので通勤時間帯の電車も空いていると思い、行先を決めずに浅草橋で京急の三崎口行きに乗車。 日本橋・銀座・新橋・品川の混雑地を通り抜け、京急蒲田の隣り駅:雑色で下車した。 駅から西へ歩き多摩川土手へ、若き日の思い出の地を訪れJR蒲田駅まで、“密”を避けながら1万2千歩の散歩。




● 浅草橋で特急:三崎口行きに乗り、『さて何処で降りようか?』 空いてる車中で思案すれども決まらず京急蒲田駅に到着、この先まで乗ってると川崎・横浜となり、隣りの県に入ることになる。 とりあえず京急蒲田で電車を降り、ホームのベンチで思案の続き、ふと駅名表示を見て隣り駅『雑色(ぞうしき)』の文字が眼に入る。 『決まり!雑色で下車しよう!』(雑色駅は普通のみ停車する駅で、感染リスクは低そうだ)、、、、雑色駅は明治34年(1901)に京浜電気鉄道の駅として開業。 平成22年(2010)に上りホームを、2年後には下りホームをそれぞれ高架にし、平成29年(2017)に高架化事業が完成した。 相対式ホーム2面2線の高架駅。、、、、京急のHPでは『駅名の由来は、当時の地名から名付けたもので、この地名も明治の末頃六郷村に編入され、現在は駅名にその名を残すのみとなっている。』と解説されている。 何か判ったような判らない解説だ! 辞書では、“雑色は、律令制における品部(しなべ)・雑戸(ざっこ)の総称”とのこと、つまり昔の下級役人のことらしい。 このあたりに、下級役人の官舎でも在ったのか?

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・・・・・・・・・・・・高架化の前(2013年2月)の雑色駅

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● 雑色駅前、アーケードのある雑色商店街(店舗数では大田区最大級?らしい)を西へ向かうと、JR東海道線の雑色踏切がある。 ここにも、“雑色”の名が残っていた。

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● 雑色踏切を越えて裏道に入ると、白山神社と別当寺であった薬王寺が隣同士で並んでる。

・・・・・・・・・・・・白山神社の創建年代は不詳。 正徳甲午年(1707)銘の手水石が残されていることや、別当寺の薬王寺が宥範法印(延宝5年(1677)寂)により創建されていることから、薬王寺と共に創建されたものと推定されている。、、、、境内社の赤い鳥居の「正善坊稲荷」はインスタ映えするのか?、地元では人気があるらしい。


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・・・・・・・・・・・・白山神社のお隣には、真言宗智山派寺院の東輝山薬王寺がある。 宥範法印(延宝5年(1677)寂)が開山したと伝えられている。 昭和20年(1945)の戦災で本堂・庫裡焼失、昭和35年(1960)現本堂を完成した。、、、、境内は綺麗に整備されており、緑豊かな落ち着いた感じ。

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● 薬王寺から、さらに西へ歩くと多摩川土手に出た。 独身時代の昭和45年(1970)、数カ月間暮した思い出多い懐かしの多摩川土手である。
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・・・・・・・・・・・・昭和45年頃、写真中央のマンションがある処に、某化学メーカの中央研究所があった。 私が働いていたゼネコンが、研究所の建物の新築・改築などを行っており、若手で独身の私は、会社の同僚と共に現場宿舎に寝泊まりしていた。 その頃の私は、朝食前に河川敷で早朝ゴルフ(下手だった)、夕食後はボーリング場(そこそこの成績)、そのあとは蒲田・川崎のキャバレー(ダンスが楽しい)に、同僚と仲良く思い出を作っていた。、、、、その後、研究所は千葉に移転し、跡地には14階建て、約400戸のマンション「多摩川芙蓉ハイツ」(飛島建設+大成建設の施工、昭和58年竣工)が建っている。

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● 若い頃を思い出し、寝泊まりしていた研究所跡地(多摩川芙蓉マンション)から、蒲田駅まで当時のコースで歩いてみることにした。

・・・・・・・・・・・・研究所跡から、東に向かう、、、、写真の道はJRの車輛基地と富士通の研究所に出る道。

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・・・・・・・・・・・・車両基地(現:太田運輸区、旧:蒲田電車区)の先端部に出た! 電車を見ながら基地の脇を歩く。 鉄道オタク(私もその一人)には嬉しい散歩道だ!

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・・・・・・・・・・・・車両基地の隣りには「富士通ソリューションスクエア」(旧:富士通システムラボラトリ―)がある。、、、、建物は10数年前に現在のモダンな建物に建て替えられた。 私が多摩川に居た頃は、旧:富士通システムラボラトリーが西松建設の施工で建設中であった。、、、、25年程前、ゼネコンを退職し、IT業界に移った私は、この建物にも通いシステム構築のお世話になった思い出もある。

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・・・・・・・・・・・・JR蒲田駅に到着、、、、今日の散歩では、“密”な場所もなく、人との会話もなく、新型コロナには感染していないと思う。 家に帰って、“うがい”、“手洗い”を済ませて、一安心!

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2021年3月 3日 (水)

葛飾の本家?

緊急事態宣言の解除判断に悩む首相官邸、私も“不要不急の外出”は避け家に籠っているつもりであったが、チョイと気が緩み歩きたくなった。 人混みを避けるように、総武線西船橋駅から山側(北側)を歩き下総中山駅まで、1万1千歩の散歩です。




西船橋駅は、JR東日本(総武線緩行・武蔵野線・京葉線)・東京メトロ(東西線)・東葉高速鉄道の3社5路線が乗り入れる駅である。 一日当たり乗降客数はJRが約27万人、東京メトロが約29万人、京葉高速鉄道が約12万人。 千葉県内の最大の乗降客数を誇るターミナル駅である。 最大のターミナル駅ではあるが、快速電車は停まらない、駅前にはデパートもない、お客はタダタダ乗り換えるだけの駅。、、、、昭和33年(1958)11月10日、国鉄総武本線の駅(旧駅舎)として開業。 昭和44年(1969)には東西線が乗り入れる。 昭和53年(1978)には武蔵野線が開業、平成8年(1996)には京葉高速鉄道が開業し、乗降客は激増した。、、、、開業時の西船橋駅は何もない田んぼの中の駅であった。 何もないその駅周辺にできたのが、ストリップ劇場(今はない)とラブホテル(今だ盛況)。 隣りの船橋のように、ショッピング、飲食、映画などを中心とした繁華街には成長しなかった町! 核となる商業・娯楽施設が無いから、今後も発展しそうにないね!!

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● 西船橋駅の北側に総武線と並行して千葉街道がある。 駅前から千葉街道に出ると、「印内春日神社」(船橋市印内町)の社が森の中の小高い処にある。 春日神社の創建年代等は不詳ながら、享保年間(1716~1736)には既に名前が残されていたらしい。 旧社殿は昭和38年(1963)に火災にて焼失し、昭和43年(1968)に現社殿が再建された。

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● 西船橋駅から北に400m程歩くと京成西船駅がある。 京成本線の「京成西船駅」(けいせいにしふなえき)は、大正5年(1916)12月30日 に葛飾駅として開業した。 昭和62年(1987)に京成西船駅に改称。 大正の開業当時、当駅周辺は東葛飾郡葛飾町(その前は葛飾村)であり、駅名を葛飾駅とした。 葛飾町は昭和12年(1937)の合併で船橋市の一部となり、その後周囲の地名が「葛飾町」から「西船」になったこと、また域外の客が東京都葛飾区(旧・南葛飾郡の一部)内の駅と間違えやすいことも要因となり、西船と改めた。、、、、「葛飾」は、かつて、下総国で船橋、柏から西を指す広域の地名であった、千葉県ができたときに半分近くを茨城、埼玉、東京に割譲した。 東京の葛飾区も、かつての葛飾の一部であった。 ここ西船は「葛飾」の本家である。、、、、駅は、相対式ホーム2面2線の地上駅。 上りホームに改札口がある。 青空駐車場が駅前まで迫り、駅前に車を横付けすることも出来ない。 かろうじて自転車は横付けできる。

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・・・・・・・・・・・・京成西船駅から見る、駅前の駐車場。 駐車場はフェンスで仕切られ、駅から入ることはできない。

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・・・・・・・・・・・・駅名を改称した後も、駅北側の「船橋市立葛飾小学校」や「船橋市立葛飾中学校」に「葛飾」の名が残っている。 JR西船橋駅は、駅開業の為移転した旧葛飾小学校の跡地にできたそうだ。 また、西船橋駅に隣接して、駅の南西部に「葛飾町」の町名が残っている。

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● 京成西船駅の北西300m程に、曹洞宗寺院「宝成寺」がある。 宝成寺は、僧智泉を開山として葛西茂春六郎が創建、領主成瀬之成が中興開基となり僧大譽(承応元年1652年寂)が中興開山、慶安元年(1648)年には徳川家光より寺領30石の御朱印状を拝領した。、、、、成瀬正成は幼少より徳川家康に仕え、家康の子の義直が尾張徳川家を創設した際、お付家老として後見した。 正成は当所、栗原郷に四千石を与えられ、やがて三万石余の犬山城主となった。 正成の跡は、長男正虎が犬山城主を継ぎ次男之成が栗原藩を継いだが、栗原藩は之成の子之虎が早逝して廃絶し、幕府直轄地となった。 当寺は江戸時代の初めに成瀬氏の江戸における菩提所の一つである。、、、、立派な堂と、多くの無縁墓を祀り、歴史を感じさせるお寺。

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・・・・・・・・・・・・墓地には成瀬氏の墓がある。 県内最大級の大きさ(高さ3.6m、幅90cm、厚さ40cm)を誇る、第7代犬山城主:成瀬正寿の墓を中心に、成瀬家の墓が並んでいる。

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● 宝成寺から北西方向に、マンション、社宅が建ち並ぶ住宅地を歩く。、、、、坂が多くアップ・ダウンがキツイ!、、、、住所は船橋市西船から船橋市東中山・市川市若宮・市川市中山と移り変わる。、、、、北風吹き抜く 寒い町 男一匹 どこへ行く! 

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● 出てきた処は、中山法華経寺の仁王門前、日蓮上人像の後ろ姿が見えた!

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・・・・・・・・・・・・ここまで来たら、中山法華経寺に挨拶して帰らねば罰が当たる。 祖師堂だけでも手を合わせて帰ろう! 桜も咲き始めた参道を抜け、祖師堂に参る。

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● 参道を真直ぐ下総中山駅に向かい、JRで帰宅・・・・・今日の散歩は、北風強く、寒かった!

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