遺跡の町や!
もうしばらくコロナで自粛。 でも、チョイトだけなら外出してもいいだろう(?) 気持ちは緩みっぱなし!、、、、今日も乗降客数の少なそうな駅から歩くことにした。 頭に浮かんだ駅名は京成本線の「新三河島」、ここから歩いて尾竹橋まで、1万歩の散歩です。
● JR日暮里駅で京成本線に取り換えて、一つ隣りの「新三河島駅」へ行く。、、、、新三河島駅で、下車したのは数名、乗車したのは十名ぐらい。 2019年度の1日平均乗降人員は6,031人で、京成線内69駅中、堂々の第48位である。 駅が開いている朝6時から、夜12時までの18時間で換算すると、1時間に平均335人が乗降する。 乗る人・降りる人が半々とすると168人が降りて、168人が乗ることになる。 上り・下りとも10分間隔で運転されていると仮定すると、1時間に20本の列車が運転されており、1本当たりの乗車員数は、168人÷20=8.9人 一列車が到着すると、約9人が降りて、約9人が乗る駅である。 都心の駅としてはチョイト寂しい駅だ!、、、、新三河島駅は昭和6年(1931)12月19日に隣の日暮里駅と共に開業した。 この時、既に国鉄の三河島駅が存在していたので、“新”を冠し「新三河島」と名付けられた。 また、「三河島」という地名の由来は3説あり。 中川、古利根川、荒川の3河川に囲まれた島状の地であるという説。 徳川家康とともに三河国から来た伊藤一族が住みついた地という説。 木戸三河守孝範の屋敷があった地という説。(お好きな説をどうぞ!)、、、、駅は島式ホーム1面2線の高架駅。 ホームの一部は明治通りの上まで伸びている。 出入口と改札口は明治通りに面し、高架下の一ヵ所のみ。 駅前には一軒のパチンコ屋しかなく寂しそうだ。
● 新三河島駅から明治通りを西へ100m程行くと、「尾久の原 防災通り」がある。 またの名を「消防道路」、さらに「疎開道路」と云う。、、、、疎開道路(そかいどうろ)は、第二次世界大戦中に空襲による延焼防止を目的に建物を疎開させ敷設・拡幅された道路をいう。 東尾久と町屋・荒川を分ける約1360mの「尾久の原防災通り」は、疎開道路であったものを、戦後、消防のために整備され「消防道路」と称した。、、、、♪♪ 戦時中は 疎開道路と呼ばれたの 戦後は消防道路と名乗ったの 防災通りが整備されたその日から あなたがさがして くれるのを待つわ 昔の名前で出ています ♪♪
● 防災通り東側の裏道(荒川5丁目・6丁目)を行く、、、、曲がりくねった道、消防車・救急車も入りづらい道、「雅万歩」はこういう道が大好きだ!、、、、「町屋二丁目」停留場前に出た!
● 都電の停留場から50m程西へ、赤い派手な山門と鉄筋コンクリート造のモダンな本堂の浄土宗寺院「満光寺」(読みは小声で“Mankoji” )がある。 その創建は南北朝末か室町時代と伝えられている。 浄土宗寺院としての開山は、智天上人。 開祖は上野二葉村(現:台東区)名主二葉和泉守。 上野不忍池付近にあったものが、寛永寺の造営でこの地に移転してきたと言われている。 境内には、永和元(1378)年銘を始めとする板碑や庚申塔、二葉地蔵、二羽稲荷、二葉閻魔大王等が祀られている。 二葉閻魔大王は木造の閻魔坐像で、頭部の内側に「元禄十六年七月」の銘があるそうだ。 酒の飲み過ぎ(?)顔真っ赤!
● 都電荒川線の北側、町屋4丁目に「町屋実揚(みあがり)町会」がある。 この町会の建物の前に「町屋四丁目実揚遺跡」の案内板があり、そこに『本遺跡名は現在の住居表示と旧小字名「実揚」を合わせて命名されたものである。700mほど北には隅田川が流れ、荒川低地の中の微高地上に位置する。 この辺りには、中世の板碑を所有している旧家が点在し、中近世から集落が形成されていたと考えられていた。 近年の発掘調査の成果により、この付近で弥生時代末から古墳時代前半を中心とした周溝・溝・井戸などの跡、土師器・須恵器などの遺物が見つかり、古くから人びとの暮らしが営まれてきたことが明らかになってきた。(以下略)』と記されている。、、、、つまり、この付近には地下に埋蔵文化財があるのだ! 土木・建築工事着手前には届出が義務付けられており、必要に応じ発掘調査が行われる町である。 大判・小判でも出てくればいいのだが、土器や鹿の骨や貝などではチョイトつまらないかも!