島津藩菩提寺
京王線明大前駅から、築地本願寺和田堀廟所、永福寺、大圓寺と巡り地下鉄丸ノ内線方南町駅まで、1万1千歩の散歩。
● 朝8時前の京王線「明大前駅」、、、、これから都心へ出社のサラリーマン、多摩の方へ通う学生が電車に乗る時刻となった。 上りも下りも、ホームには人が並ぶ。 新宿と多摩方面を結ぶ京王本線、渋谷と吉祥寺を結ぶ京王井の頭線の乗り換え駅でもあり、駅構内を行き来する人も多い。、、、、明治大学学生の登校時間にはまだ早い! 8時半頃になると、明治の可愛い女子大生も登校してくるはずだが、待てない!
● 明大前駅は世田谷区、駅前の甲州街道を渡り明治大学は杉並区にある。 明大前駅が誕生した大正2年には「火薬庫前駅」という名であった。、、、、この“火薬庫”というのは、明治大学和泉キャンパスと大学の西隣にある築地本願寺和田堀廟所の敷地にあった、江戸幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)の跡のこと。 塩硝蔵は、当初、多摩郡上石原宿(調布市)にあったと伝えられ、宝暦年中(1750代)に「和泉新田御塩硝蔵」としてこの地に設置され、敷地はおよそ18,896坪(約62,000㎡)あり、御蔵地(貯蔵庫)は5棟・2町2反9畝5歩(約23,000㎡)の規模であったといわれている。 当時塩硝蔵は、御鉄砲玉薬方同心3人が年番で交代居住し、警備や雑用には付近の16ヶ村に対して、昼夜交代で3人づつの課役が徴せられていた。 明治維新の際、塩硝蔵は官軍に接収され、その弾薬は上野彰義隊や奥州諸藩の平定に使用され、その威力を発揮したといわれている。 その後兵部省管理を経て、陸軍省和泉新田火薬庫として再開され、中に当番官舎、衛兵所等が設けられ、麻布の歩兵連隊が警備を任されていたが、大正12年の軍縮で廃止された。、、、、現在は遺構らしきものもなく、大学のフェンスの前に説明版が設置されているだけ。
・・・・・・・・・・・・明治大学の西隣に浄土真宗築地本願寺の墓地「築地本願寺 和田堀廟所」がある。、、、、大蔵省から払い下げを受けた12,000坪の陸軍火薬庫跡地に京橋区内にあった檀家墓地を移し、富士が望める閑静な我国初の近代的公園式墓地(霊園)を作って一般から墓地の分譲を募集し霊園経営の新形式を作り、昭和11年(1936)に真宗寺を置いた。 入口直ぐの建物は光寿閣といい信徒会館。 正面の極楽橋を渡った先の建物は本堂。、、、、広い墓苑には多くの著名人が眠っている。 一世を風靡したお笑い芸人のレオナルド・熊、横綱吉葉山、内閣総理大臣佐藤栄作、明大マンドリン倶楽部創設者古賀政男、作家樋口一葉、青い山脈の服部良一、ブギの女王笠置シズ子、俳人中村汀女、などなど書ききれない!
● 和田堀廟所の西側、永福橋で神田川を越えて北へ300m程歩くと、町名「永福」、駅名「永福町」の由来元である、「万歳山永福寺」がある。、、、、万歳山永福寺は曹洞宗の寺。 本尊は十一面観音像で、脇侍の不動・毘沙門両像とともに、鎌倉期の仏師快慶の手になるものと伝えられている。 寺伝によれば、開創は大永2年(1522、室町時代)、、、、寺の歴史は古いが、昭和20年(1945)被災し建物は鉄筋コンクリート造にて昭和36年(1961)に再建された。
・・・・・・・・・・・・また寺の西門脇には正保3年(1646)・天和元年(1681)銘の庚申塔、元禄4年(1691)銘の地蔵石像が安置されている。、、、、400年余りこの地で祀られている像であるが、保存状態良好。 仏を大事にしましょう!
・・・・・・・・・・・・永福寺西門前には「永福稲荷神社」がある。 永福稲荷神社は、享禄3年(1530)に永福寺の開山秀天和尚が、永福寺境内の鎮守として創建した。
● 井の頭線永福町駅前を通過し、井の頭通りを横断し、北へ向かう。
● 永福町駅から北へ700m程、杉並区和泉3丁目の「泉谷山大圓寺」に立ち寄る。 この寺には2年ぶりだ。、、、、大圓寺(だいえんじ)は曹洞宗(禅宗)の寺院で、本尊は阿弥陀如来。 慶長8年(1603)赤坂溜池の辺りに徳川家康が開基となって建立され、開山は諦巌桂察和尚(武田信玄の弟)とされる。 寛永18年(1681)正月、江戸の大火に遭い伊皿子に移転。 その頃から大渕寺の寺名を大圓寺に改める。延宝元年(1632)薩摩藩主島津光久の嫡子綱久の葬儀を行って以来、島津家の江戸における菩提寺となり、福寿院・門能院の塔頭二院もそれぞれ大名保科・旗本五井・松平・本多・土方の諸家中、町人衆を檀家として隆盛を極めた。 明治41年に塔頭二院を併合して現在地(杉並区和泉)に移転した。、、、、今日も山門前の石像の仁王がお出迎え。 顔を見ていると、浅草仲見世で売っている人形焼きを思い出した。、、、、山門には徳川の葵紋、本堂にはさらに島津の十字紋、苔むした墓地には明治元年戊辰の役戦死者没者の墓、日向都城主島津筑後守の墓及び殉死者の墓、大刀八木八郎の墓(君命にて巨石を捧げ、死後墓石となす十九才)、赤﨑海門・鞍岡蘇山(共に儒学者)の墓、横山正太郎安武(政府に建白、自刃)の墓などがある、徳川家や島津家とも縁のある寺院である。 また、飯野藩保科家墓所もある。 しかし、いずれの墓も案内がなく、どれが誰の墓か、この墓は誰のか、この人はいずれの士か、いずれの姫か、さっぱり判らん! 教えて欲しいが、墓の数がありすぎて聞いても馬の耳に念仏かも?
● 大圓寺から東へ歩き、東京メトロ丸ノ内線の「方南町駅」から帰宅する。、、、、熱中症予防に歩きながら飲んだ、「ソルティーライチ」、「コカ・コーラ」の合計500㎖×2本=1000㎖が効きすぎて、熱中症の症状はなし。 でも、腹痛と尿意は限界に達する! 急げ!!
« ツリーの下の博物館 | トップページ | 大きな大聖堂! »
「散歩」カテゴリの記事
- 花卉の町:鹿骨(2025.03.11)
- 高砂から小岩(2025.03.07)
- 流鉄流山線(2025.02.16)
- 草加から見沼代親水公園へ(2025.02.14)
- 伝通院(2025.02.11)
「杉並区」カテゴリの記事
- 笹塚から東高円寺まで(2024.12.16)
- “代田”巡り(2024.04.26)
- 阿佐ヶ谷から都立家政(2024.04.08)
- お釜のお寺!(2023.03.15)
- 長い疲れる公園だ!(2023.03.12)