北赤羽から赤羽北へ
一昨日中途半端に終わった「赤羽北」の町歩き、今日はその続き、、、、ということで、北赤羽駅からスタートし、赤羽北二丁目の残りと、赤羽北三丁目を歩き、赤羽駅まで1万3千歩の散歩。
● 今日からは、一都三県ともに「緊急事態宣言」下に入った。 しかし、私の気持ちは緩み、“ワクチン打ったしマスクしてるから大丈夫だ~~!”、、、、朝7時半、埼京線「北赤羽駅」に降り立つ。
● 『まずは赤羽北二丁目の町を制覇するぞ!』と、駅の南側「環八通り」沿いを往復する。
・・・・・・・・・・・・駅から、対岸(北区浮間)にマンションや団地が並ぶ、新河岸川堤防沿いに歩いてみる。 私が歩く赤羽北二丁目にも、URの「赤羽北二丁目ハイツ」(戸数245戸)が3棟並んでる。
・・・・・・・・・・・・赤羽北二丁目の南端、新河岸川の岸に浮間中央病院がある。 その病院の隣りに「袋村の水神宮」がある。 ここは新河岸川で袋河岸の跡。 昔、船主が水難事故から守って貰うために祀ったのだが、水害除けの水神宮へ変わったそうだ。、、、、“袋村(ふくろむら)”とは、現在の赤羽北一帯の旧村名。 “袋”の名は、地形が袋状にいり込んで窪になっていることに由来するそうだが、はて?何処が袋なのか? 現在、“袋”の名は、小学校、公園など、公共施設に残るのみ。
・・・・・・・・・・・・赤羽北二丁目の中央を東西に貫く環八通りを横断し、環八通りの南側を戻るように歩く。
・・・・・・・・・・・・“袋村”の名が残る北区立「袋小学校」、、、、全生徒数 約400名、、、、今日はプールの日か? 何人か登校してきた。
・・・・・・・・・・・・袋小学校を囲むようにたつ、総戸数521戸、URの「赤羽北二丁目団地」
・・・・・・・・・・・・諏訪神社のある崖下の道路傍(赤羽北2-11)、小さな墓地の囲塀の前に「旧秋田院薬師堂跡地」の標柱が建ててある。 標柱には真頂院(北区赤羽3-16-3)持とある。 後ろの墓地は、田舎ではよく見られる屋敷墓地、都内では珍しい。 崖の上の諏訪神社も別当は真頂院。、、、、、ここいら一帯を仕切っていた寺が真頂院かも? ところで、旧秋田院薬師堂とは何か? 調べてみたが、サッパリ判らん! 謎の名所旧跡?
● これより「赤羽北三丁目」を歩く。 赤羽北三丁目は二丁目の南側崖上に広がるっている。 三丁目の中央を「諏訪通り」が貫き、諏訪神社
から、西の志村坂上(板橋区:中山道)の方に伸びている。
・・・・・・・・・・・・まずは、崖下の赤羽北二丁目と崖上の赤羽北三丁目を結ぶ坂道6本を、一挙大公開! 北側から順に紹介
①大型車両も通れる諏訪神社前の「宮の坂」、、、、謂れは、坂の説明書きより、『坂の名前にある「宮」は、この地域の旧村名である袋村の鎮守、諏訪神社のことを指しており、坂道はこの神社の参道を経て赤羽方面へと抜けていきます』
②諏訪神社裏の住宅の脇から、赤羽北2-11へ下る階段坂。 名は無い!
③赤羽北3-6の老人ホーム「赤羽北さくら荘」の北側にある段々の坂道で、袋小学校の前に下る「殿山の坂」。 “殿山”は坂上の旧地名。
④「袋町公園」から下る階段坂。 ゴメン、名は知らない!、、、、公園前から、崖下の赤羽北二丁目を望める。
⑤「袋町公園」西端から下る坂、その名は「念仏坂」、、、、かつては、細い淋しい坂で、坂の上には真頂院持の墓地があったそうだ、坂の名はその故か。
⑥赤羽北三丁目と板橋区小豆沢四丁目の境を北東に下る坂。 坂名の「ふか坂」は、うっそうとした樹木におおわれて、谷深い中を蛇行している坂であったことによる。 坂を下って北へ行くと、かつての袋村河岸があった。 この坂は袋村河岸から中山道への通路にあり、馬坂とも呼ばれたそうだ。、、、、赤羽北二丁目側から上ってくると、左側には大型集合住宅「東京メガシティ」が威容を見せる。 5棟863戸が暮らす街。
● 宮の坂にある「諏訪神社」(赤羽北3-1)、、、、諏訪神社は、真頂院初世秀善和尚が信州諏訪大社を勧請して応永3年(1396)に創建、江戸期には袋村の鎮守社だった。
・・・・・・・・・・・・宮の坂を挟み、諏訪神社鳥居前に「袋村の庚申待供養塔群」がある。、、、、実は、この庚申塔群のある高台は、諏訪神社の参道の一部である。 庚申塔群のある位置と神社の鳥居を結ぶ位置にかつて参道があった。 しかし、宮の坂が拡張されたとき、参道を切通しで抜けることにより、坂の勾配を緩くしたそうだ。、、、、この参道には、最も右側にある塔を除いた計4基の青面金剛立 像庚申待供養塔がありますが、これらは元禄16年(1703)から天明5年(1785)までの間に造立されたものである。、、、、いずれも彫は深く、状態も良く、見ごたえある庚申塔。
・・・・・・・・・・・・諏訪神社社殿の脇に、几号水準点もどきがある。、、、、これは、内務省がそれまでに荒川筋に既設した水準点を補完する目的で、昭和5年(1930)に新に荒川筋に設置された15ヶ所の、水準点のひとつである。 諏訪神社境内の水準点標石のそれぞれの面には、「内務省」「昭和5年」「荒川」「不BM1」と刻まれている。 「不」の字に見えるマークは「几(き)号」といって、「不」の字の横棒が標高を表します。「B.M」 とは、水準点を表す英語「ベンチマーク」の頭文字で、その後の1は1号を表し、「荒川1号水準点」という意味になる。 記録によれば、諏訪神社境内の基準点を1号とし、荒川の上流方向に向かって水準点の設置が行われているそうだ。、、、、明治期に設置した几号水準点とは別物らしい?
● 諏訪神社から志村坂上方面に伸びる「諏訪通り」を歩き、JR赤羽駅へ向かう。
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