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2021年10月

2021年10月30日 (土)

お役所巡り

一昨日の続きで、『皇居から歩いてみよう!』と家を出た。


● 東京駅へは、普段はJRを利用して行くのだが、今日は浅草橋駅前から、都バス「東京駅八重洲口行き」のバスで行く。

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・・・・・・・・・・・・バスは八重洲口の大屋根「グランルーフ下のバスターミナルに停まる、チョイト、ペデストリアンデッキの上から駅前を眺めてみる。 駅前再開発が進められており、私の知るビルはなくなり、超高層ビルを建築中!

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・・・・・・・・・・・・北口自由通路を歩き、八重洲口から丸の内口へ向かう。 時刻は7時半、人影も増えてきた!

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・・・・・・・・・・・・東京駅丸の内駅舎の正面から、
皇居前の和田倉門までまっすぐに伸びる全長約200m、幅約74mの大通りが「行幸通り」である。 行幸通りは、明治22年(1889)の中央停車場(現:東京駅)の位置決定に始まり、明治36年(1903)の市区改正の新設計により行幸通りの整備が決定され、これにより明治43年(1910)に行幸通りが整備された。、、、、整然とした綺麗な通りだ! 地下にはギャラリーがある。

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● 今日の散歩の出発地点:皇居前広場に到着。

・・・・・・・・・・・・皇居前広場から桜田門、日比谷公園方向を望む、、、、二重橋は右手奥

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・・・・・・・・・・・・ハ~イ、二重橋にやってきました、、、、手前の「正門石橋」と、奥に「正門鉄橋」(写真では石橋に隠れ見えない)、二つ合わせて「二重橋」、、、、二重橋の写真を見てると、古い田舎の家を思い出すね。 日露戦争に出征したお爺さんとお婆さんの写真の横に、明治天皇、昭和天皇の写真が並び、さらに隣に二重橋の写真もあった! どこの家も同じように飾ってた。

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・・・・・・・・・・・・皇居前広場を警備する懐かしい交番がある!、、、、「警視庁丸の内警察署 祝田町見張所」が正しい名前とおもわれる。 設計者不明。 交番の竣工は、正門石橋が明治21年(1888)ではないかという資料もあるから、それと同時期か後と考えられる。

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● 二重橋を見たら桜田門も、、、、皇居前の警視庁庁舎から来ると、まず簡素な「桜田門高麗門」がある、その奥に重厚な「桜田門櫓門」と続く。 二つの門は鍵の手に配され、二重の門となっている。


・・・・・・・・・・・・安政7年(1860)に、水戸藩浪士による大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きたのは、この桜田門高麗門の外側(警視庁側)である。

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・・・・・・・・・・・・高麗門から入ると右側に桜田門櫓門がある。

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・・・・・・・・・・・・この桜田門櫓門にも、私が探し訪ねる几号水準点がある。、、、、桜田櫓門を入り、左側の門の内側の石垣
にある。(写真赤〇の位置)

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● 桜田門、警視庁前から南の虎ノ門方面に伸びる道路が国道1号だ。 1号線の両側には官庁が並んでいる。 建物を見ながら虎ノ門へ向かう。

・・・・・・・・・・・・「警視庁本部庁舎」の建物を見ると、旧庁舎の空撮を背景にン~ン~ってハミングのテーマソングが流れる、TBSドラマ『七人の刑事』を思い出す。 建物は変わったが角地の尖がった形状は昔と同じ。 堀雄二の係長と、芦田伸介、美川洋一郎、佐藤英夫、城所英夫、菅原謙二、天田俊明の6人の刑事。 渋い役者ばかりのドラマで、忘れられない!、、、、現庁舎は昭和55年(1980)に竣工した。

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・・・・・・・・・・・・警視庁と向かい合わせに建っているは、重要文化財の「法務省旧本館 赤れんが棟」(=旧司法省)、、、、明治19年(1886)、明治政府はドイツの有名な建築家エンデとベックマンを日本に招き、近代国家への体制作りの一環として、ヨーロッパに劣らない官庁街を目指し、この二人の「お雇い外国人」に設計を依頼した。 そして、誕生したのが司法省と大審院(後の最高裁判所)である。、、、、司法省の着工は明治21年(1888)、その後7年をかけて竣工した堂々としたドイツのネオ・バロック様式の旧司法省である。 当時のドイツ国内においても同様式ではこれほど立派な建造物はなかったそうだ。、、、、そして、平成3年(1988)から明治の姿に復元・保存する本格的な工事が始められ、平成6年に竣工。

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・・・・・・・・・・・・国会議事堂から近く、すぐ見えるのが「外務省」で、建物は結構古い。 “口”字型に配された、北庁舎は昭和35年(1960)、中央・南庁舎は昭和45年(1970)、新庁舎は平成7年(1995)に竣工。 

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・・・・・・・・・・・・昭和9年(1934)に着工し、昭和14年(1939)に竣工した「財務省」(旧大蔵省)。 大蔵省営繕管財局の設計によるこの建物は、入り口のアーチを除けば、見事なほど簡素。 しかし、周囲の中央省庁の建物が次々と建て替えられる中、戦前から残る建物として今や貴重な存在となった。

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・・・・・・・・・・・・虎ノ門角に残る「文部科学省・文化庁」(旧文部省)、、、、建物は、昭和7年(1932)竣工の鉄骨鉄筋コンクリート造6階建、スクラッチタイル貼の戦前からの建物で、大蔵省営繕管財部の設計による。 しかし、現存するのは前面部分のみで、実質的には旧建物の背後に建つ高層ビルに内にオフィスがある。

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・・・・・・・・・・・・おまけでもう一軒、昭和40年(1965)に竣工した日本最初の超高層ビル「霞が関ビル」、、、、設計者:三井不動産、山下設計、施工:鹿島・三井建設共同企業体、地上36階(高さ147m)の超高層ビルで、当時は見学者も殺到するビルであった。 最上部には展望室もあった。、、、、いまは、話題になることも少なく、ひっそりと!

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● 虎ノ門交差点を過ぎ、愛宕山の西側崖下に浄土宗寺院の「久遠山栄閑院」がある。 栄閑院は、久蓮社俊誉園應和尚(寛永2年寂)が、天徳寺の塔頭として創建された。 寛永の頃に猿回しに扮した泥棒が、住職に改心させられた。 泥棒は猿を置いて諸国行脚に向かい、猿は寺の人気者になったことから「猿寺」と称されたそうだ。、、、、本堂脇には、蘭学者杉田玄白の墓がある。

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・・・・・・・・・・・・栄閑院の右隣に、浄土宗寺院の「知祖山興紹院」がある。 境内の閻魔堂には、天保9年(1838)刊行の『東都歳時記』に記載されている石造閻魔像が安置されている。 この閻魔は、眼病に霊験あらたかとして信仰され、祈願者の願いが成就した時には、そのお礼として「こんにゃく」を供えるならわしとなっていた。 現在その風習は失われているが、当時の民間信仰を知る貴重な像である。像高はおよそ1m、風化が進んでいるが、筍を持ち上方に開いた方形の冠をつけ、口を開いた忿怒の相であることは、僅かに窺い知ることができる。

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愛宕山のトンネルを抜け、芝公園から大門駅に出て都営浅草線で帰宅。、、、、1万3千歩の散歩

2021年10月29日 (金)

印西市の古刹

秋風がチョッピリ吹く昼下がり、北総線の印旛日本医大駅で下車し、のどかな農村風景の中で古刹二寺を巡ってきた。(本日は妻も同伴)




● 千葉ニュータウンの最東端の駅、北総線の終点駅(成田スカイアクセス線はさらに先の成田空港駅まで伸びている)、その名は「印旛日本医大駅」。 我が家のある都営浅草線の浅草橋駅からは、直通の電車で約1時間、片道1200円程(チョイト高いね)である。、、、、駅は平成12年(2000)7月22日に開業した。 千葉ニュータウン内をほぼ直線的にカットした掘割内に位置し、島式ホーム1面2線の地上駅で、展望台と言われてる塔のある橋上駅舎は、関東駅百選に選ばれている。 コンコースはドーム状で天井が高く明るい。、、、、駅名は、日本医科大学の付属である、近くの「日本医科大学千葉北総病院」に因み名付けられた。 副駅名として「松虫姫」と( )書きされている。 松虫姫は奈良時代に病の完治のためにこの地にやってきた不破内親王の別名。、、、、この駅の最大の欠点は、駅前にコンビニ、カラオケ、パチンコ屋、飲み屋、食堂など、一切の商店がないこと! ここから通うサラリーマンは、帰宅する楽しみがないね!

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● 駅からチョイト離れた、県道沿いのレストランで昼食を済ませ、これよりブラブラ田舎道を歩き、栄福寺を目指す。、、、、青空の下、ススキも揺れてる道を行く、、、、道端には庚申塔が並ぶ、、、、林の中も気持ちよい、、、、林を抜けると集落がある

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● 集落の奥(印西市角田)に、天台宗寺院「栄福寺」がある。、、、、
栄福寺は行基による開基と伝えられるが、その沿革は明らかではなく、今も熊野神社(平成16年改築)と同じ境内に共存し、かつては神仏習合の形態として、篤く信仰されていたことがうかがえる。

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・・・・・・・・・・・・室町時代後期(1472年)に建立されたといわれている「薬師堂」(国登録重要文化財)は、正面側面ともに3間の堂で、屋根は茅葺寄棟造である。 正面階段部分の向拝(ごはい)は、江戸時代中期に設けられたものである。 正面には桟唐戸が備えられ、側面の前1間は舞良戸(まいらど)、中の間は板戸、その他は縦板壁となっている。 内部は拝見できなかったが、鏡天井に極彩色で天女図を描き、内陣は来迎柱を立て、その前に極彩色で飾った須弥壇が設けられているそうだ。、、、、ここの薬師堂は県下最古の建造物である。 また、印西市小倉の宝珠院観音堂(光堂)と似ている。

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・・・・・・・・・・・・境内に並ぶ、薬師堂と熊野神社

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● 次は、栄福寺から直線で1.5㎞程南にある東祥寺へ向かう、、、、栄福寺から林の中を下る、、、、林の次は田んぼが広がる、、、、田んぼの縁をトンボと歩く、、、、イノシシ除けの電気柵があった、『触ってみたら』(妻の声)、、、、ぬかるんだ道を歩き再び林の中へ、、、、印西市鎌苅の集落に出た、、、、東祥寺参道脇に小さな鷲宮神社

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● 印西市鎌苅の曹洞宗寺院「東祥寺」は、550余年の歴史がある古刹。 大本山總持寺の直末の普蔵院、又末の龍門寺、孫末の長國寺、曾孫末の東祥寺と直列に続く由緒正しき寺。 東祥寺の開山は、了山分曉(りょうさんぶんぎょう)大和尚、開基は、渡邊信濃守と言われている。

・・・・・・・・・・・・東祥寺山門は、境内の建物で一番古く、明治7年(1874)の祝融で唯一残った建物。 万治元年以前の建築と言われている。 鐘楼堂と一体になった珍しい建物である。

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・・・・・・・・・・・・現本堂は、明治29年(1896)に再建され、修復を重ねた上で、現在に至っている。 本尊は、南無釈迦牟尼佛。

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● 東祥寺参道前のバス停で時刻表を見ると、2時間に1本。 『コリャだめだ! 待っているより歩いたほうが早い!』 東祥寺から日本医大千葉北総病院まで歩く。、、、、民家の庭から突き出した果樹を見て『コレ何だ!』 渋柿だ! 夏みかんだ! ユズだ! 干し柿だ! 知識のない者どうし、何を言っても正解!

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・・・・・・・・・・・・「日本医科大学千葉北総病院」が見えた! 大きな総合病院である。 ヘリポートにはドクターヘリもある。、、、、病院玄関前から無料の送迎バスが印旛日本医大駅まで出ている。 ナイショで便乗!

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・・・・・・・・・・・・今日は1万3千歩の散歩でした。

2021年10月28日 (木)

皇居までブラブラ

今日は、浅草橋の我が家から、神田、大手町、東京駅と歩いて、1万3千歩。




● 朝食を済ませ7時過ぎ、まだ昨夜の雨で濡れた道を、乗降客の少ない浅草橋駅西口神田川は左衛門橋で渡り、靖国通りに出る、ガードを抜けると神田駅北口交差点。、、、、この辺の散歩は、こっちを見てね!

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● 今まで歩いてきた通りは、神田駅前から「神田警察通り」と称し、名前は変わるが通りの雰囲気は変わらず。 西の一ツ橋方向に向かう。


・・・・・・・・・・・・ここ“神田”の表通りはオフィスが並ぶ商業地、いくら歩いても面白いものを発見できないね。、、、、「美土代町交差点」に出た! 「美土代町」は難読ではないと思うが読みは“みとしろちょう”。 現在の住居表示の町名は「千代田区神田美土代町」 神田美土代町の由来は、江戸時代、この辺りは重要な武家屋敷地であると同時に、新たな風俗・流行を生み出すこともできる江戸っ子の町だった。 そんな町に“美土代”という名がついたのは明治5年(1872)のことである。 かつて、この周辺に伊勢神宮にささげるための初穂を育てる水田「みとしろ」があった故事にちなんで生まれた名前でした。 ちなみに、“神田”という名前も同じ故事に従ってつけられた。 明治期の美土代町は、一丁目~四丁目まである広大な町域をもっていたが、その後、美土代と称する地域は縮小され昭和22年(1947)より神田美土代町となる。 令和3年(2021)10月1日現在の世帯数と人口は86世帯、128人。、、、、私が中学生の頃、この交差点には都電「美土代町」停留場があり、2系統(三田~白山曙町)が走っていた。 私は、中学校(指ヶ谷町)から、この都電で塾(芝園橋)通いしていた、思いである町だ! 当時は木造建築の中に、ポツリポツリと低層ビルが建っている商業地であった。(60年前の話)

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・・・・・・・・・・・・神田警察通りの一ツ橋寄りに、歴史ある学校が二校並んでいる。 「錦城学園」と「正則学園」である。 両校とも、創立は明治で、中学・高校の男子校として始まった。 田中角栄、椎名悦三郎、稲山嘉寛、赤堀四郎、島崎藤村、木村義男などは錦城学園の創業生。 石橋湛山、川島正次郎、十河信二、江戸英雄、石川啄木、斎藤茂吉、伴淳三郎などは正則学園の卒業生。 スゲ~、錚々たる著名人ばかり!、、、、写真手前の5階建て校舎が錦城学園、奥の7~8階建て(?)校舎が正則学園。

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● 神田警察通りから南に折れて「千代田通り」(別名:明大通り、=駿河台の明治大学の前から南下する)を歩き大手町へ向かう。

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・・・・・・・・・・・・日本橋川に架かる復興橋のひとつ「錦橋」がある。 昭和2年(1927)に震災復興事業の一環として、神田錦町と大手町を結び架けられた鉄筋コンクリートのアーチ橋である。 3連のアーチ橋であるが、中央径間部分が広くなっており、両脇のアーチは二分の一のアーチという、少し珍しい構造である。、、、、橋名は橋の北詰の町名「神田錦町」に由来する。 その「錦町」は町内に「一色家」が2軒あったから(いっしき×2=にしき)、と言うことらしい。 嘘か真か、どうでもよいか!、、、、ここも、頭上には首都高が走り、邪魔だ!

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・・・・・・・・・・・・錦橋を渡り大手町に入ると「気象庁前交差点」である。 その名のごとく、気象庁庁舎前の交差点であったが、気象庁は令和2年(2020)12月7日に虎ノ門に引っ越した。 写真は、左に鉄塔が乗っている旧気象庁、右の白い建物は東京消防庁、気象庁の建物の後ろ茶色い建物は現在、自衛隊によるコロナワクチン接種会場となっている。

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・・・・・・・・・・・・気象庁前交差点に「和気清麻呂像」が大手濠の外から皇居を眺めるように立っている。、、、、和気清麻呂は宇佐八幡から持ち帰った託宣により当時権勢を誇っていた道鏡の皇位簒奪を食い止める働きをした。 いわば現在まで続いている皇統を救った人物である。 昭和15年の皇紀2600年に際して、彫刻家:佐藤清蔵により作成された。、、、、皇統が途絶えることのないよう、見つめているのかも?

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皇居近く、大手町1丁目、大手町三井ホールビル脇の一角にある平将門の御首(みしるし)を祀っている「将門塚」、、、、最近の大手町開発事業により、将門塚も新調されモダンな塚となった。 いろいろと都市伝説がある有名な場所。 平将門は東国の英雄とうたわれる武将で、現在では神田明神の祭神でもある。 見てると、多くの出勤前のサラリーマンが手を合わせて行く。

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● 皇居の大手門前に来た。 『そうだ! 大手門には几号水準点がある、チョイト見ていこう』、、、、大手門の几号水準点は大手高麗門
扉外側で、右側石垣の最下段側面にある。(写真赤〇の中)、、、、門の中(二の丸庭園)に入らず、門の下にカメラを向けて何やら撮っている不思議な男、警備のお巡りさんに、チョイト怪しまれたかも?

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● 大手門周辺を見て、東京駅に向かう。

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2021年10月25日 (月)

奥浅草寺町通り

奥浅草」て知ってる?、、、、私は旧浅草区に生まれ住んで70余年、“奥山”なら知ってるが、“奥浅草”は問われても知らなかった。 どうやらここ数年の間に生まれた言葉のようだ、昔は「観音裏」と呼ばれていた、浅草寺の北側一帯の地域のこと。 “裏”という呼称はあまりよくないので、“奥”に変え「奥浅草」としたらしい。 奥浅草は、東に隅田川、西に国際通り、北に明治通り、南に言問通りで囲まれるほぼ四角い地域。、、、、奥浅草の中央東側に「奥浅草寺町通り」があると聞いた。 今日の散歩はここにしよう! 家を出る前に台東区の「道路通称名一覧」で調べてみた。 『起点:今戸2-39、終点:橋場1-2、路線番号:台第68号線』と書いてある。




● 奥浅草寺町通りの起点である今戸2-39に近い「東浅草」までバスで行く。 浅草に“寺町通り”なんてあったかな、車中でも疑心暗鬼?

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・・・・・・・・・・バスを降りると、スグ「奥浅草寺町通り」の名称が見つかった。 『ナンダ! ここは普段よく歩いている道だ! こんな名前だったかな?』、、、、“寺町通り”と言えば、普通、5、6ヵ所以上の寺院が、道の両脇に並んでいる通りをイメージするが、ここは道路に面する寺院は甘く数えて4ヵ寺のみ。 しかも、寺院らしい構えの寺はない。『だまされた!』

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・・・・・・・・・・・・散歩の後で調べてみたら、道路名は区で数年前に変更したそうだ。 旧名称は「今吉柳通り」、、、、変更理由は『地元町会から、現在の街路樹は「柳」から「ハナミズキ」に植え替えられており、道路通称名と一致していないこと、この沿道には、由緒あるお寺が多く、昔から「寺町」と言われていることなどの理由で変更して欲しいとの強い要望を受け、今回変更するものです(2017/12/13)』 




● せっかく奥浅草寺町通りに来たのだから、付近の寺院を巡ってみるか!、、、、台東区清川の町の寺院巡りをしてみたが、時刻は朝8時前、まだ開門していない寺院もある。 写真の順に、千松山本性寺(法華宗)、当麻山念仏院(浄土宗)、金智山宝蔵院(新義真言宗)、朝日山浄雲寺(浄土真宗本願寺派)、紫雲山通入寺(真宗大谷派)、明星山出山寺(曹洞宗)

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・・・・・・・・・・・・清川の町で「奥浅草ぶらり散策マップ」なるものが、商店の軒下に貼られていた。、、、、せっかくだから、妙亀塚、おばけ地蔵、平賀源内墓所も巡ってみるか!

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● 清川の東隣、隅田川沿いの町が「橋場」である。 橋場1丁目に「妙亀塚」と呼ばれる塚がある。、、、、妙亀塚は、平安時代、人買いにさらわれた吉田少将惟房の子梅若が当地付近で死去、梅若を探して当地付近にきた母が、梅若の死を知り剃髪して妙亀尼と称して庵を結んだと伝えられ、この梅若伝説に因んで妙亀塚と呼ばれている。 梅若に因む梅若塚は、隅田川対岸の木母寺(墨田区)にある。、、、、この妙亀塚のある地は、かつて浅茅ヶ原(あさじがはら)と呼ばれた荒涼とした原野で、近くを奥州街道が通じていたと言う。 今は、下町の中の小公園。

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● 妙亀塚から北へ120m程、「おばけ地蔵」が立っている。、、、、お化け地蔵のある右隣の民家風の松吟寺は、寛永2年に総泉寺の末として創建した。 境内には、もと総泉寺の「お化け地蔵」があり、総泉寺が昭和4年(1929)に板橋区に移転した時に、この寺に遺されたそうだ。「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、あるいは高さ3m余の並はずれて大きいからなど、いくつかの伝承がある。 お化け地蔵の台石によれば、この石仏は享保6年(1721)の建立。関東大震災で二つに折れたが、補修し現在にいたっており頭部も取りかえられている。常夜灯は、寛政2年(1790)に建てられた。 総泉寺は、板橋区へ移転した。「お化け地蔵」近くにある「元総泉寺境内諸仏供養の為」の碑は移転に際し建てられたものと思われる。、、、、おばけ地蔵の前に立つ小さな地蔵が普通のサイズ。 比べるとデカイ!

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● おばけ地蔵からさらに北へ200m、天才科学者「平賀源内の墓」、、、、平賀源内の菩提寺、総泉寺が昭和4年(1929)に板場区に移転した後の昭和5年(1930)に建立されたもの。 おばけ地蔵と同じ、置き去りにされた可哀そうな墓。、、、、平賀源内は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した発明家で、エレキテル(摩擦起電機)の復元製作や、火浣布(石綿の耐火布)の発明で著名です。 安永8年(1779)に殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で獄死、当地にあった総泉寺に葬られた。 総泉寺が移転した後も墓は当地に保存、昭和6年(1931)には松平頼壽(源内の出生地である旧高松藩当主)により築地塀が整備され、昭和18年に国史跡に指定された。

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● 源内の墓から東へ250m程、ナンダ・カンダ毎年訪れている「橋場不動尊」に寄って行く、、、、天台宗寺院の不動院は、砂尾山橋場寺と号す。 不動院は、天平宝字4年(760)に創建、寂法相宗昇和尚が宝亀4年(774)に当寺住職となり開山。 寛元年間に砂尾長者が開基となり、天台宗に改めた。、、、、明治末年の大火や関東大震災、戦炎などに、不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍を免がれたことから、「霊験あらたかな火伏せの橋場不動尊」として、信仰の的となっている。 現在の本堂は、弘化2年(1845)建立、小堂ながら江戸時代の建築様式を保ち、美しく簡素なたたずまいをしめしている。 画になる小堂だ!

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● 来月は酉の市」、鷲神社(千束3)も奥浅草にある。 コロナも終息の気配あり、またまた人出が多くなりそう!、、、、「奥浅草」は見どころが多い! 

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2021年10月23日 (土)

すっかり田舎者

私のカメラが修理から戻ってきた。 早速、今日はカメラを持って、JR四ツ谷駅から、赤坂・虎ノ門をとおり新橋駅まで、1万3千歩の散歩です。




● 久しぶりに「四ツ谷駅」の東側にある麹町口に出た。 この出口は、上智大学の斜め前にあるが、チョイト北側には名門女子校の「雙葉学園」(幼・小・中・高)がある。 東側には、こちらも女学生ばかりの「女子学院」(中・高)と、同じく女学生ばかりの「麹町学園」(中・高)がある。 今日土曜日の早朝、駅から吐き出されるのは女学生ばかり、駅前でマスクに帽子の助平そうなおやじが、カメラを持ってウロチョロすると完全に怪しまれる。 麹町警察署に引っ張られるのも嫌なので、足早に駅前から去る!

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● 上智大学隣にある「聖イグナチオ教会」に寄ってみた。 早朝の聖堂内に人影はない。、、、、聖イグナチオ教会(千代田区麹町6)は、イエズス会が運営するカトリック教会。 昭和24年(1949)に創立。 現聖堂は、旧聖堂の老朽化と狭隘化により改築が計画され、平成11年(1999)完成し、竣工式、献堂式が行なわれた。 建築設計は坂倉建築研究所、施工は清水建設・竹中工務店JVにより、RC造の地下1階 地上4階の建物である。 教会全体は中央の芝生の広場を囲むコの字型の配置で、祈りの空間としては、最大1000人規模のミサができる大聖堂、旧聖堂のステンドガラスを残した中聖堂、日本人が祈れる空間を和のデザインに求めた小聖堂などがある。 作品(建物)は、2001年度のBCS賞(建築業協会賞)を受賞した。 ドーム状の主聖堂内部はシンプルだが天井が大きな花弁を模したデザインで、暗さはなく明るく落ち着いた雰囲気の祈りの場である。

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● 四ツ谷駅からホテルニューオータニに向かって伸びる、外濠の土塁上の道を「ソフィア散歩みち」と呼ぶそうだ、おしゃれな名前で驚いた!  聖イグナチオ教会前から土塁上にあがると、桜や松の大樹が茂り、眼下には四ツ谷駅・迎賓館・上智大学のグランドなどが見える。 若い二人にはおススメの散歩道。

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● 外堀通りの
紀之国坂交差点から赤坂見附の方向に下る「紀之国坂(きのくにざか)」を歩く。 坂の東側は首都高と弁慶濠、西側は赤坂御用地。 長さ40m程の緩やかな坂で、坂の西側に江戸時代を通じて紀州徳川家の広大な屋敷があったことから名付けられた。 “赤坂”の起源とする説もある。、、、、この坂の下に、20数年前、私が痔の手術で入院した病院がある。 ベッドからは緑の奥にニューオータニ、プリンスの各ホテルが見える、最高の病室であった。 今度は、健康な時にのんびりと入院したいね(???)

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● 赤坂見附交差点から南に向かい、山王日枝神社本殿裏に至る稲荷参道を上る。 参道の階段を上ると山王日枝神社の末社「山王稲荷神社」に出る。 稲荷の大神は生成発展・商売繁盛の守り神として全国に祀られ、この地:永田馬場星が岡の地主神として松平主殿頭忠房の邸内に祀られ、特に火伏せの信仰が篤く、萬冶2年(1659)本社山王権現が麹町より移遷されるに至り、境内末社となった。、、、、

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・・・・・・・・・・・・稲荷の前から、「山王日枝神社」拝殿前に出た。、、、、山王日枝神社の創建の年代は不詳。 文明10年(1478)太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのに始まるという。 徳川家康が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした。 慶長9年(1604)からの徳川秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになった。 社地は家康により5石、元和3年(1617)に秀忠により100石、そして寛永12年(1635)に徳川家光からの寄付を加えて600石となった。 明暦3年(1657)の大火により社殿を焼失したため、万治2年(1659)将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地にあて、現在地に遷座した。 その後、明治15年(1882)に官幣中社になった。 大正元年(1912)には官幣大社に昇格した。 昭和20年(1945)の東京大空襲で社殿が焼失し、昭和33年(1958)に再建された。、、、、私の参拝中に、七五三参りが5組、お宮参りが2組、結婚式が1組、“おめでた”一杯の華やかな境内であった。 美しい女性を見るのも楽し!、、、、参拝済ませて神門前の男坂(階段)を下る。

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● 東京に生まれ、東京で育ち、大学で建築を学び、ゼネコンに就職し、勤務地は九段と赤坂と飯田橋、この経歴なら絶対的に東京の建築物をより多く知っているはずの私だが、今日歩いてみると“立派な田舎者”となっていた。 定年退職し20余年、東京都心はガラリと変わり、ビル名の判らないガラス張りのモダンな超高層建築ばかりとなった。、、、、そんな街を歩いて、溜池交差点に来ると角に、懐かしの「コマツビル」が残っている! 屋上にブルドーザーのオブジェが乗っていた(平成3年撤去)小松製作所の本社ビル、溜池交差点のシンボル的なビル。 今は周囲の建物に比べ、低い、色あせたビルとなったが、懐かしい!、、、、コマツビルの設計は中山克己建築設計事務所+増沢建築設計事務所、施工は鹿島建設+小松建設、地上10階/地下4階、竣工は昭和41年(1966)3月。

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・・・・・・・・・・・・コマツビルと似たような懐かしい印象がある「日本財団ビル」、、、、港区赤坂一丁目交差点角にあるこのビルは、昭和37年(1962)に吉村順三設計事務所の設計により日本NCRの本社ビルとして建設され、2000年に日本財団に譲渡された。 住宅を得意とした建築家:吉村順三が初めて手掛けたオフィスビルである。、、、、施工は竹中工務店、鉄骨鉄筋コンクリート構造/地下4階/地上8階。 昭和39年(1964)に第5回建築業協会賞(BCS賞)を受賞した建物。

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● 虎ノ門交差点の近くにある「虎ノ門金刀比羅宮」にもお立ち寄り。、、、、金刀比羅宮は、讃岐丸亀藩主の京極高和が自領・讃岐の金刀比羅大神を、万治3年(1660)に三田の江戸藩邸に邸内社として勧請、その後延宝7年(1679)に当地虎ノ門へ遷座した。、、、、社殿は権現造りで、第二次世界大戦により焼失したが、拝殿、幣殿の部分は昭和26年(1951)に再建された。ともに総尾州檜造り、銅板葺きである。日本最初の建築史家:伊東忠太の設計校閲による建物で、我が国古来の建築技法が随所に用いられている。、、、、社殿は26階建ての超高層ビルの敷地内にあり、まさにビルに埋もれた都会の神社。

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● 森ビルと言えば、だれもが知る、日本を代表する都市デベロッパーであり不動産会社。 今は、各地で超高層ビルを中心とした都市開発を推進しているが、昭和40年~50年代頃は“第〇〇森ビル”とナンバーリングしたオフィスビルのオーナーとして名を馳せた。、、、、創業家である森家は昭和30年(1955)に森ビルの前身である森不動産を設立、翌年4月に「西新橋2森ビル」を竣工した。 昭和32年(1957)11月に「西新橋1森ビル」(2が先で、1が後)を完成させ、以後、貸ビル業者として竣工順にナンバリングした“第〇〇森ビル”を順次建設する。、、、、その森ビルの、第1番目に竣工した記念すべき西新橋2森ビルが西新橋1丁目の裏通りに現存している。 森ビルの“記念館”にでもなるか(?)

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● JR新橋駅近く、外堀通りに面して建つ、渋い外観の「堀ビル」(登録有形文化財)、、、、このビルは錠前屋のビルとして昭和7年(1932)に建てられた。 以来90年近く新橋のランドマークとして多くの人に親しまれてきた。 現在は竹中工務店が「レガシー活用事業」の一つとして、一括借り受けてレンタルオフィスとして活用しているそうだ。

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● 南北コンコースが一体化され、ホーム大屋根が設置されたJR「新橋駅」に到着、、、、JR新橋駅から乗車するのは久しぶり(普段は都営地下鉄で浅草橋まで乗り換えなし)、ここでも“田舎者”で、構内をキョロキョロしながら改札を通る。 

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2021年10月18日 (月)

浅草橋~御茶ノ水

今朝5時の気温は12℃、寒い! 秋を飛び越して、冬が近づいてきた! 慌ててジャケットを取り出し、デジカメ持って散歩に出る。

浅草橋の我が家から、総武線の高架橋沿いに歩いて神田明神へ。 時刻は9時、チョイト早いが、98歳の我が母を医者へ連れていくため散歩はココまで。 今日は8千歩のミニ散歩。




● JR総武線浅草橋駅から高架橋沿いに、スタコラ歩くと隣の秋葉原駅までは20分程で着く。 秋葉原から神田明神までは10分程。 ナンダカンダ言っても、我が家から神田明神までは所要30分。、、、、今日は、朝の爽やかな空気の中を、1時間かけてのんびりと参拝した、、、、このルートは、今年の5月3日に歩いているので詳細はこちらで!



・・・・・・・・・・・・朝7時過ぎ、浅草橋駅西口(裏口?)は静かだ! まだご近所の通勤・通学客は家で朝食中?

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・・・・・・・・・・・・浅草橋駅~秋葉原駅間(正しくは、両国駅~御茶ノ水駅間)の高架橋は昭和7年(1932)に開通した。 90年の歴史を有する高架橋である。 東京駅周辺の煉瓦造の高架橋と比べると、鉄筋コンクリート造でデザイン的にもあまり特徴のない、面白みのないシンプルなものだ。、、、、高架橋は浅草橋から秋葉原に向かって徐々に高くなり、秋葉原駅手前では4階分くらいの高さとなっている、、、、昭和40年代頃までは、高架下に定住する家庭もあった。 私の同級生も高架下に住んでいて、家に泊めてもらったこともある。 慣れていないので、電車・汽車が通過すると眠れなかったことを思い出す。 今は、倉庫・事務所・駐車場・飲食店として利用され、住んでる人はいないようだ。 

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・・・・・・・・・・・・首都高1号線が頭上を通る昭和通り(=国道4号)に面し、高架下に出入口がある「秋葉原駅 昭和通り口」、、、、そろそろ8時、通勤・通学客の姿も多くなってきた!

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・・・・・・・・・・・・秋葉原駅昭和通り口の南側に、歩道を広くしたような「秋葉原公園」がある。、、、、秋葉原公園は、明治時代、神田川と秋葉原貨物駅の船溜まりを結ぶ運河の一部であった。 その後、運河は埋め立てられたが、公園の両側には、当寺の護岸の石垣が残されていた。 また、公園の南端には、運河に架かっていた佐久間橋の親柱が残されている。

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・・・・・・・・・・・・秋葉原駅の西側、中央通り付近の高架下は電機屋・パソコン屋などが並んでいる、、、、店が開いている時間帯は、この付近にメイド姿の若い娘を見ることが多い。 一度は入ってみたいね、メイド喫茶に!(70歳過ぎたら恥ずかしくて入れない)

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神田明神に到着!、、、、社務所を覗いてみたが、巫女さんはまだ出社前だ! 楽しみが半減したので、賽銭も半分にした! 

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聖橋からニコライ堂を眺め、御茶ノ水駅に到着!、、、、時刻は8時50分、そろそろ通勤ラッシュかな。 

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2021年10月16日 (土)

べったら市は中止

今日は、愛機(カメラ)が壊れ修理中、古いデジカメを持ち出し散歩に出た。 曇り空の中、浅草橋から東京駅方向に歩き始めたが、途中、日本橋三越付近にて雨となり、散歩はココまで! 6千歩。 




● 我が家の氏神さま銀杏岡八幡神社に朝のご挨拶にお立ち寄り。 神社は浅草橋駅の裏にある、知る人は『人形の久月』と江戸通りを挟み反対側、知らない人は『自分で探せ』、、、、銀杏岡八幡神社の由緒では、創建は源頼義・義家の奥州征伐にはじまり、江戸時代には松平家の邸内社となり、享保10年(1725)公収され町内(福井町、=雅万歩の出生地で現在は台東区浅草橋)の産土神となった。

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浅草橋駅(台東区)前をとおり、浅草橋(台東区と中央区の境、神田川に架かる)を渡り、浅草橋交差点(中央区)に出る。

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・・・・・・・・・・・・浅草橋交差点から江戸通りに平行する横山町の問屋街を抜ける。、、、、まだ8時前、どこの店も開いてない、静かな問屋街を歩く。、、、、江戸通りの両側は、衣料品の問屋が並ぶ横山町・馬喰町。 ところで「横山町」の由来は? 町名から察するところ、昔、『村の横に山があった』、『村から横長の山が見えた』などがもっともらしく思えるが、この辺りは扇状地で堆積地、山なんて無かった! 名の由来は、『横山さんが住んでいた』、これが正解。 北条家が支配していた頃、知行していたのが横山氏で、それにちなむ村名(町名)と考えられている。 江戸時代になると、馬喰町・横山町は地方から江戸に来る商人の為の旅籠として栄え、一大旅館街となる。 さらに町は商人の利便のため、呉服・瀬戸物・紙・小間物・塗物・荒物などなどの問屋が集中した。 明治末期あたりから旅館街は廃れはじめ、問屋街は隆盛し現在に至っている。

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● 大伝馬町の裏通りに「宝田恵比寿神社」がある。 社殿は小さな神社だが、毎年10月19日・20日は神社の周辺で開かれる「べったら市」は有名。、、、、江戸時代の中頃から、宝田恵比寿神社の門前で10月20日の夷講にお供えするため、前日の19日に市が立ち、魚や野菜、小宮(神棚)などが売られたのが始まり。 糀をべったりつけた浅漬け大根がよく売れたので「べったら市」と呼ばれているとのこと!、、、、でも、今年はコロナの為、中止と決定したようだ、残念!

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「江戸通り」と「昭和通り」が交差する「本町三丁目交差点、、、、ここまでは、曇り空の下を歩いてきたが、交差点を過ぎると、しっとり濡れてきた。

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● 昭和通りから日本橋三越に向かうと、雨粒が大きくなってきた。 “しっとり”から“びっしょり”に変わった! 「COREDO室町」の裏の「日本橋福徳神社」で雨宿りを期待したが、やすむ場所なし、残念!、、、、福徳神社の創建年代は不詳だが、貞観年間(清和夫皇・859~876)には鎮座していたといわれている。 福徳村と称されていた村の村名から社名を福徳神社と称したといい、源義家・太田道灌など武将からの尊崇も篤く、徳川家康・秀忠も参詣に訪れたそうだ。 明治7年(1874)村社に列格した。 主祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、、、、平成18年(2006)日本橋室町の再開発による建て替えに伴い、4度の遷座を行い。 平成26年(2014)に現在の新社殿が竣工した。 新しく綺麗な神社だが、チョイト雨宿りできる休憩スペースが備えられているとGood! そこでお茶のサービスがあると、なおよろし!

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● 雨は止みそうにない、三越前からバスで帰ることにした。、、、、時刻は8時半、しばらくライオン像の脇でバスを待つ、寂しいね!

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2021年10月15日 (金)

カメラがダウン!

散歩には必ず同行させる私の愛機(SONYα7Ⅲ)が先週末より調子が悪い。 ピント合わせを行うが、どうも調子が悪く、なかなか思うようにピントが合わない。 とうとう本日、メーカのサービスセンターに持っていくと、全治10日程の重傷で工場へ直送。 全快して戻ってくるまで写真は撮れず。、、、、当分の間、カメラなしで散歩を続けることにした。 私は文才乏しく、写真なしの文章は書けないので、しばらくの間「雅万歩」は手抜きをします。

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2021年10月 9日 (土)

復興小学校

23区で面積が最も大きいのは大田区の60.42㎢、最も小さいのは台東区の10.08㎢。 大田区は台東区の6倍の広さである。 今日は、その小さな区の南端の町浅草橋から、北端の町三ノ輪(地下鉄日比谷線三ノ輪駅)まで歩いてきた。 端から端まで直線でおよそ4kmの距離。 行ったり来たり、右へ左へ、ブラブラと、歩いた歩数は1万4千歩。




● コミュニティバスの始発もまだ運行していない朝7時、散歩に我が家を出る。 今日は北に向かって気ままに歩くことにした。

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● 我が家を出て北に向かうと、徒歩3分で、否が応でも蔵前橋通りに面した「鳥越神社」に出る。 チョイト、散歩前の御挨拶をしていくことにした。、、、、鳥居脇の神社名を記した石柱を見て、大発見! この神社名の石柱は、かつての文部大臣(その後第52・53・54代内閣総理大臣 )鳩山一郎の書で、昭和7年(1932)に建てられたことは、かなり以前から知っていた。 今日は何気なしに裏面を見てみた、この石柱を奉建したのは、近隣6校の尋常小学校の職員・生徒だった。、、、、調べてみると6校は氏子域内の小学校で、育英尋常小学校(浅草区猿屋町、明治32年)、柳北尋常小学校(浅草区向柳原町、明治9年)、新堀尋常小学校(浅草区北三筋町、明治34年)、小島尋常小学校(浅草区小島町、明治41年)、精華尋常小学校(浅草区北富坂町、明治7年)、練塀尋常小学校(下谷区二長町、明治11年) (  )内は昭和初期の所在地と創立年。、、、、なんと“ビックリ、驚き、徳利でヒャックリ”、6校全て明治期の創立である。 さらに、大正12年(1923)の関東大震災で校舎は被災し、6校全て昭和5年(1930)までに鉄筋コンクリート造の「震災復興小学校」として再建されたのだ。 復興後の校舎で建物が現存するのは、小島尋常小学校柳北尋常小学校。 また、育英尋常小学校と柳北尋常小学校と新堀尋常小学校は現在の台東育英小学校(台東区浅草橋2)に統合された。 小島尋常小学校と精華尋常小学校は蔵前小学校(台東区蔵前4)として統合。 残る練塀尋常小学校は御徒町小学校、竹町小学校と統合し平成小学校(台東区台東4)となる。 氏子域内に残ったのは、台東育英小学校と蔵前小学校の2校のみで、児童の数はおそらく昭和初期の2/6以下であろう。 23区で最も狭い台東区だが、戦前の人口は浅草区+下谷区で40万人を抱える人口No.1の区であった。

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● 復興小学校の一つ「小島小学校」の建物が現存する。、、、、明治41年6月に創立した小島小学校は、大正12年(1923)の関東大震災で総崩れした東京の建物を堅牢にすべく、鉄筋コンクリート造で建てられた円柱状の特徴的なデザインの震災復興小学校である。 竣工は昭和3年(1928)8月27日、外観の上部の縁取りや塔部分のアール、室内のアール面の多用など、全体的にアールデコの影響が感じられる建物、、、、、現在、小学校は閉校し、建物玄関にはTaito Designers Villageと書かれている。 創造的活動を行っている企業が入居したコミュニティと思われる。 校庭も駐車場に変わり、チョイト悲しいね!

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● 旧小島小学校西側に「如意輪観音」が祀られている。 かつて、この界隈に祀られていた石仏をここに集めたものかもしれないが、花が供えられ、線香・蝋燭が立てられ、水で清められ、ご近所に大切にお世話する人がいるようだ。、、、、しっかりと手を合わせてきた!

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● 地下鉄銀座線の中では、最も乗降客の少ない駅が「稲荷町駅」、一日の乗降客数は2万人に満たない。、、、、地上出口(もしかしたら入口かも?)はレトロなデザインで、昭和2年(1927)12月30日開業時のままらしい。、、、、方向別の出入口なので、浅草行きのホームから渋谷行きに乗ることはできない、逆も同じ。、、、、駅名の「稲荷町」は、駅開設当時の地名:下谷区南稲荷町に由来する。 その南稲荷町の“稲荷”は下谷神社に由来する。 つまり、この付近一帯は下谷神社の“縄張り”

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・・・・・・・・・・・・稲荷町駅の南側(台東区東上野3)に下谷神社がある。、、、、古くは下谷稲荷社、下谷稲荷明神社と呼ばれた都内最古の稲荷神社。 例大祭で近隣町内を渡御する本社神輿は台輪幅4尺1寸の千貫神輿といわれている。 毎年6月頃から、神田明神・下谷神社・鳥越神社・浅草神社(三社さま)と、大きな神輿の祭りが続く。

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・・・・・・・・・・・・下谷神社の地元で、最寄り駅は稲荷町、というわけでも無いのだろうが、この辺りは、お稲荷さんを祀る処が多い。 その一つ、下谷神社の南側に「地護稲荷神社」がある。、、、、訳の判らん由緒書きがあった、私の頭の中で・?・・?・・?

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● 国道4号(=日光街道、昭和通り)と言問通りが交差する入谷交差点にある、朝顔市で有名な入谷鬼子母神にお立ち寄り。、、、、鬼子母神は、法華宗本門流の仏立山真源寺のこと。 真源寺は、光長寺第20世高運院日融上人が開山となり、万治2年(1659)に創建した。、、、、太田蜀山人の狂歌の中で、『恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺、そうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様、嘘を築地のご門跡』と洒落ているのは有名だ!

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・・・・・・・・・・・・鬼子母神参りは適当に済ませ、隣の「旧 台東区立坂本小学校」へ寄る。 ここも、復興小学校の一つで、大正15年(1926)に竣工した。 当時の校名は「入谷尋常小学校」。 今日は校庭開放日(?)、中をチョイト拝見!

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● 下谷の2社1寺、法昌寺、小野照崎神社、三島神社に参る。(こちらを見て!)

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● 昭和通りと明治通りが交差する「大関横丁交差点」に到着。 交差点の地下は東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅」、、、、今日の散歩はココまで!

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2021年10月 7日 (木)

浅草橋へ戻る

今日の散歩は西大島駅から浅草橋の我が家まで、1万3千歩です。




● 都営新宿線「西大島駅」は、昭和53年(1978)12月21日、新宿線の最初の開業区間である岩本町~東大島間の開業時に設けられた駅である。、、、、西大島駅は、地下1階がコンコース・改札口、地下2階が島式ホーム1面2線の地下駅である。 一日の乗降者数は、コロナ禍の昨年実績で2万人強で多くはないが、来る電車は満員でここから通勤する人は座れないね!

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・・・・・・・・・・・・西大島駅出口前の植え込みに「五百羅漢跡」の石柱が建っている、、、、横断歩道脇の植込みに石柱が建っている。碑の両側面と裏面には、『元禄八年この付近に黄檗宗松雲禅師作の羅漢像五百体を安置する広壮な羅漢寺が創立せられ五百らかんという名所として知られてきたが羅漢寺は明治二十年に墨田区へさらに同四十二年目黒区へ移転したが、なお当時の羅漢像の多くを残している 昭和三十三年十月一日 江東区第18号』と記されている。、、、、ここは、目黒の羅漢寺があった処、五百羅漢像も目黒へ引っ越した!

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・・・・・・・・・・・・駅前の新大橋通りを挟み石柱の前に、オヤ!「羅漢禅寺」がある、、、、明治38年(1905)に都下氷川村に曹洞宗祥安寺として創立、昭和11年(1936)現在地(江東区大島3)に移転してきて、元あった羅漢寺を名乗ったもので、五百羅漢寺とは関係がない。 『チョイトお名前拝借か!』

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● 西大島駅前の「新大橋通り」を西へ歩く、、、、駅前で交差する明治通りを北へ歩けば亀戸駅に出る。

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・・・・・・・・・・・・越中島貨物線の「幹線29号架道橋」の下を西へ、、、、架道橋の設置年代は不明だが、貨物線の開通は昭和4年(1929)なのでその近辺か?

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・・・・・・・・・・・・ 「本村橋」は新大橋通りを通し、東詰めの江東区大島と西詰の江東区毛利・住吉を結び横十間川に架かる橋。 昭和4年に初代の本村橋が震災復興橋として架けられ、三代目の現橋は昭和52年(1977)に架替られた。、、、、橋の上からはスカイツリーが良く見える。

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●  本村橋の西側に広がる「猿江恩賜公園」の中をブラブラ、、、、猿江恩賜公園は、その名のごとく江東区猿江にある都立公園。 開園は昭和7年(1932 と古く、昔から貴重な緑地として周辺住民に知られていた。 元々この地は、江戸時代から続く徳川幕府による貯木場であった。 その後、明治政府御用達の貯木場になり、関東大震災後その一部が埋め立てられ「猿江恩賜公園」となった。 公園の北側の地区は、戦後しばらく貯木場として使用されていたが、貯木場は江東区潮見に移転し、昭和56年(1981)に追加開園した。、、、、広い公園で都会のオアシス! 今日はのんびりと公園を通り抜ける。

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● 猿江恩賜公園を抜けるとJR錦糸町駅までは600m程、近い!、、、、錦糸町駅・京葉道路の南側、場外馬券売り場の裏に、小さな寺、天台宗の五徳山江東寺がある。 江東寺は、昭和15年(1940)に坂東16番札所水澤観世音(伊香保町)の別院として創建された。 本尊は千手観世音で、境内には清昌稲荷、出世弁財天、水洗観音、地蔵尊、馬頭観音、戦災慰霊碑など、いろいろと祀られている。、、、、本堂は昭和55年(1980)に鉄筋コンクリート造で再建された。

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● 錦糸町駅前からは京葉道路(=国道14号)を歩く。 この道は、両国を通り浅草橋まで一直線。、、、、これより先は、歩く方向は逆さまだけど、こっち見て!

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● 両国橋を渡り、柳橋を渡ると台東区にはいる。 もう地元だ!

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・・・・・・・・・・・・地元でも、“知ってるようで 知らない 隣の家”、、、、柳橋の町に小さな古本屋「古書 みつけ」が、明日(10/8)オープンするようだ! 浅草橋(柳橋の隣り町)に生まれ育って70余年、柳橋に可愛らしい本屋ができるのは初めて、びっくりしたけど、多いに期待しよう!

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・・・・・・・・・・・・「浅草橋駅」に到着、、、、駅から我が家は300m、『ただいま!』

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2021年10月 5日 (火)

今はなき小名木川駅

東西線南砂町駅から明治通り沿いの裏道にチョコチョコ入り、北へ向かって都営新宿線西大島駅まで、1万3千歩の散歩です。




● 東西線「南砂町駅」は昭和44年(1969)に営団地下鉄東西線東陽町~西船橋間延伸時に開業した。、、、、当時、ホームがある位置には洲崎川という運河があり、南砂町駅は洲崎川の川底にトンネルを沈め、トンネル内にホームを造ることとなった。 トンネルは、陸上で13個に分割して作った鉄筋コンクリート製のトンネル筐体を川底に沈め、さらにトンネル筐体の下部を掘削して地中に沈め込む「ケーソン工法」にて建設された。 川底の軟弱地盤に造られた駅・ホームは狭い空間で、1面2線の島式ホーム両端に1か所ずつ改札口(出口)があるのみだった。、、、、開業後50年を経過した現在、乗降客も増え駅構内の混雑も激しく、ホームの拡張が求められてきた。 そこで、現在のホームの隣りに、島式ホームを増設し、2面3線の島式ホーム構造に改良することとなった。 現在のホーム前の壁の向こうでは新しいホームが造られているそうだ。 工事の完成はまだ数年先となるらしい。 (注:現在は洲崎川は埋め立てられ道路に変わっている)

・・・・・・・・・・・・朝、西船橋方面に向かう列車は空いている、都心に向かう列車は混んでいる。

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・・・・・・・・・・・・ホーム前の壁はコンクリートがむき出しとなり、その壁の向こう側では新ホームを増設中。

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・・・・・・・・・・・・3機の自動改札がある西側の改札口。 その先、地上への出口は1か所のみ。 出口を出ると、そこは工事現場の中!

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● 南砂町駅を出て、「永代通り」と「明治通り」が交差する「日曹橋交差点」から、明治通り沿いに北上する。

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・・・・・・・・・・・・明治通りの東側(南砂3)に7棟の集合住宅一列に並んだ、総戸数175戸の「都営南砂3丁目第2アパート」がある。 この向かい側に小ぢんまりしたお稲荷さん「仙気稲荷大明神」がある。、、、、仙気稲荷大明神は江戸百稲荷の一つで、江戸時代から「砂村疝気(せんき)稲荷」として名高く参詣者が多く繁栄していた。 砂村稲荷神社は、昭和20年(1945)の米軍の無差別空爆により全焼、その後仮社殿が建てられたものの、昭和42年に千葉県習志野市谷津に移転した。 神社の跡地には都営住宅が建てられ、その一隅に昔の名前を留める小祠が仙気稲荷大明神だ。、、、、大明神は文化文政の頃から、“疝気”という、大小腸・子宮などの下腹部が痛む病気に、霊験あらたかだった。 現代は、胃腸の痛みにはラッパのマークの『正露丸』(我が家の常備薬)

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● 仙気稲荷大明神から北へ約250m、「葛西橋通り」と「明治通り」が交差する「南砂四丁目交差点」を通過。

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・・・・・・・・・・・・南砂四丁目交差点からチョイトばかり北へ歩くと、明治通りが仙台堀川を越える処に「弾正橋跡」がある。、、、、「弾正橋」は大正時代に城東電機鉄道の鉄道橋として砂町運河に架設され、その後明治通りの道路整備に伴い、昭和5年に道路及び鉄道橋として鋼橋に生まれ変わった。 橋の名前の由来は、元々境川(葛西橋通り)に架っていた橋(境川交差点のところ)の名前だったが、大正13年(1924)からの震災復興事業のため境川が埋立てられて撤去されたことを惜しみつけられたもの。 今は、橋名板、レリーフを残すのみ。、、、、仙台堀川は「仙台堀川公園」として親水公園に生まれ変わってる。

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● 明治通りを北へ歩く、「清州橋通り」と交差する「境川交差点」に出る。

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・・・・・・・・・・・・交差点の近くに、「志演尊空神社(しのぶそんくうじんじゃ)」がある。、、、、志演神社は寛永元年(1624)に創建され、菅原道真の末裔の菅原長寛が稲荷神を勧請した。 その後、徳川綱吉が当社を参拝し「志演神社」と命名した。 その後、昭和31年(1956)になると、近くの尊空稲荷神社を合併し、社名は現在の志演尊空神社となる。、、、、歴史ある神社のようだ、しかし、歴史を感じさせるものが少ないね!

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・・・・・・・・・・・・志演尊空神社から一軒飛んで西隣に日蓮宗寺院「妙久寺」がある。、、、、妙久寺は天霊山と号す。 小湊誕生寺16世日領上人(慶安元年1648年寂)が寛永7年(1630)に創建したと伝えられている。、、、、こちらに、横綱:大鵬の墓があるそうだ。 手を合わせてきたかった!、、、、古くはないが木造の楼門が印象に残る寺。

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● 妙久寺の西側に「越中島貨物線」が通っている。 越中島貨物線は総武線小岩駅と越中島貨物駅を結ぶJR東日本の貨物支線である。 現在は平日に3往復の貨物列車が運行され、越中島の東京レールセンターにレールを運んでいる。、、、、妙久寺の北側にある複合商業施設「アリオ北砂」は、平成12年(2000)まで運営していたJR貨物の小名木川駅の跡地である。

・・・・・・・・・・・・妙久寺側から北を望む。、、、、写真右端のマンションの後ろに「アリオ北砂」がある。また手前の公園も小名木川駅の跡地である。 公園にはモニュメントとして小名木川駅の歴史を語る車輪が置かれている。 道路奥の線路が越中島貨物線。

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・・・・・・・・・・・・小名木川駅の建物が線路脇に残っている(写真中央) 現在は駅名を表示したものはなく、JR貨物の関係会社が使用中。 この建物は「小名木川駅統合詰所」であった。

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・・・・・・・・・・・・妙久寺の西側を越中島貨物線が通っているが、寺の横から南の越中島方面に線路に沿って「南砂線路公園」と名付けられた遊歩道がある。 運が良ければ一日3往復する貨物列車を見ることができるかも?

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● 越中島貨物線沿いに北へ向かうと小名木川に架かる「小名木川橋梁がある。、、、、小名木川橋梁は、可愛らしい白いトラス橋なのだが、今日は錆に汚れてチョイト可哀そう! 本橋梁は複線対応であるが、レール自体は単線のみの敷設されている。 鉄道省の設計、東京石川島造船所の橋桁製作により、昭和4年(1929)に竣工した。、、、、鉄道遺産でもあり、文化財に指定し保存してほしいね!

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● 再び明治通りを歩き、都営新宿線「西大島駅」に着いた。 今日の散歩はココまで! 帰ろ!

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2021年10月 3日 (日)

食用蛙供養塔?

長かった長かった、やっと解除です、待ちに待った緊急事態宣言が解除された! これで、自由になるかと思いきや、まだマスクを着用する、まだアクリル板越しに会食する、まだ他県への移動は自粛するなど、引き続きの感染対策が求められているのです。 でも、気持ちは緩み、行動もコロナ以前の状態に戻ってきたようだ!、、、、これから“秋”を堪能したいね!

今日は、都営新宿線一之江駅から東西線西葛西駅を目指して歩いたが、体力に余裕があり、葛西橋を渡り東西線南砂町駅まで歩いた。 1万6千歩。




● 日曜の早朝、ガラガラ電車で「一之江駅」に到着。 通勤・通学客もおらず、ホームも空き空き。、、、、今日は、一之江駅から南西方向に東西線の西葛西駅を目指し駅前を出発!

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● 一之江駅前の「環七通り」を南へ300m程歩くと「新大橋通り」との交差点がある。 この交差点から裏通りを西へしばらく歩く。

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・・・・・・・・・・・・二之江町で、地元のお年寄りによって、綺麗に清掃し整備された「一之江境川親水公園」に出た。 コイやカメが泳ぐ小川の両側が歩道となっている親水公園沿いに、南西に向かって歩く。

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● 一之江境川親水公園沿いの江戸川区船堀6丁目には、船堀日枝神社、光明寺、法龍寺の順に一社二寺が並んでいる。 チョイトお立ち寄り!

・・・・・・・・・・・・まずは「船堀日枝神社」に参拝。、、、、 旧船堀村東組の鎮守。 祭神は国常立尊、左右相殿に春日大明神と稲荷大明神を合祀している。 慶長19年(1614)、船堀新田開発の際に守護神として山王権現を祀ったのが始まりらしい。 別当寺は隣接の光明寺で、明治6年に日枝神社と改称しました。、、、、本殿脇には、旧船堀村の登山講の人たちが、明治25年(1892)に築いた、高さ約2mの「船堀の富士塚」がある。 この富士さんは誰れでも登山可能で、今だ遭難者はいないらしい!

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・・・・・・・・・・・・船堀日枝神社の隣りには、真言宗豊山派寺院の「光明寺」がある。、、、、光明寺は、稲香山横道院と号す。 光明寺は、覚仙上人が開山となり慶長19年(1614)に創建した。 当寺本尊の不動明王は、門前の道が横丁に入る通路となっていたことから、 「横道の不動様」とも呼ばれ、眼病に御利益があるといい、成田山へ向かう人も参詣したと言われているそうだ。(初めて聞いた!)

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・・・・・・・・・・・・光明寺の隣りは「法龍寺」、、、、浄土宗寺院の法龍寺は、幸雲山道観院と号す。 法龍寺は、幸蓮社雲誉道観法龍上人(元和2年1616年寂)が開山となり慶長年間に創建したという。、、、、古びた山門前には舟形の月日青面金剛三猿の庚申塔や、珍しい「食用蛙供養塔」(写真:右端)が建っていた。 食用蛙は昭和の初め頃から区内に生息し、蓮田や水田が多かったので、自然繁殖を続け、輸出するほど捕れたそうだ。 終戦後は蛙を捕え、加工業者に渡し、生計を保つものも現れ、供養塔は「東京都食用蛙組合」(こんな組合があったのか!)によって、昭和27年(1952)に建てられた大変珍しい供養塔。

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● 中川と旧江戸川を結ぶ人工河川(運河)の「新川(しんかわ)」を「新渡橋(しんわたりはし)」で越える。、、、、新川は桜の名所で、川沿いに「新川千本桜」が植えられている。 一度見てみたい!

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・・・・・・・・・・・・新川を渡ると「宇喜田町」に入る、、、、宇喜田町の町名が気になるね! そこで、チョイト由来を調べると、、、、“宇喜田”は、“田川兵衛新”を略したもので宇喜多秀家とは無縁である。 なお、江戸川区の隣り浦安市には、宇喜田姓が多くあり、浦安の宇喜田姓は、八丈島に流されていた秀家の子孫が、明治になって本土定住を許されて移り住んだ先だったそうだ!

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・・・・・・・・・・・・宇喜田町の南隣の北葛西に、都立宇喜田公園江戸川区立行船公園が広がっている。 どちらも広い敷地で、都立公園はスポーツ施設、区立公園は庭園と自然動物園を主体としており、コロナで疲れた若者、親子の多くが利用していた。

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・・・・・・・・・・・・公園を抜けると、西葛西駅までは約700m。 今日は、『まだ歩ける!』ので、予定変更し葛西橋を渡って南砂町駅まで歩くことにした!




葛西橋は荒川および中川にかかる橋で、都道10号東京浦安線と都道475号永代葛西橋線(葛西橋通り)を通す。、、、、旧葛西橋は昭和3年(1928)に架けられたが昭和25年(1950)に崩壊、その後、木製の橋が架けられたが、今の橋が出来ると解体された。、、、、現在の葛西橋は、橋長 727.4m、幅員15m、補剛ゲルバー桁(最大支間長142m)、総事業費は19億3200万円で昭和38年(1963)完成。

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● 葛西橋を渡ると、東西線「南砂町駅」は近い、、、、昭和44年(1969)3月29日に開業した、島式ホーム1面2線の地下駅。、、、、混雑度の高い東京メトロ東西線、その南砂町駅では、島式ホーム2面3線に改良する工事が進められている。 総事業費は300億円程が見込まれているそうだ。 完成すると、ホーム/線路が増え、朝の都心方面行の列車の運行がスムースにでき、混雑緩和、遅延防止が図られると言われている。、、、、まだ工事完了までの時間はかかるが、完成が待ち遠しい人も多いと思う!

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