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2021年11月

2021年11月28日 (日)

入三通り

平和島駅からどちらに歩こうか? 地図を見てると、駅の北側から西に向かって「入三通り(いりさんとおり)」という道がある。 その道を道なりに西へ向かうと、東海道本線を越えて、大田区山王の善慶寺にぶつかる。 何やら超長い参道のような感じがするので、『決めた、この道を歩いてみよう!』

・・・・・ということで、今日の散歩は平和島駅から、入三通りを通り抜けて、善慶寺に参り、その後は山王3丁目を抜けて大森駅までの1万歩の歩きです。




● 日曜の朝、チョイ寒の「平和島駅」で下車する。、、、、寒い日は、コロナ予防のマスクが、北風除けとなり防寒に役立つ、重宝するね!

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● 平和島駅の北側、第一京浜(=国道15号)に面して「大森神社」(大田区大森北6)が鎮座する。 祭神の久久能智命(くくのちのみこと)は関東圏では珍しい木の神である。 チョックラ、手を合わせて行く!、、、、天正年間の創建と伝えられている。 当時この辺りは海辺であり、里人達は漁業をもって生活をしていた。 ある時黄金色に輝く像が岸辺に流れつき里人達は畏れて沖へ流すこと三度に及んだが元の場所に寄り来たるので社を建てて、この像を祀ったのが当社の起源といわれている。 そのため、この社を寄来神社と称したそうだ。 昭和7年に大森神社と改称した。 社殿は東京大空襲で焼失し、昭和38年(1963)に再建した。

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● 平和島駅から北へ約350m、第一京浜の大森スポーツセンター前交差点が「入三通り」の東端である。 入三通りの西端はJR東海道本線を越える山谷道踏切と思われる。 そして、入三通りは東端から西端までが現在の大田区大森北に属する。 その“大森北”の町は、昭和39年住居表示以前の“入新井”と“新井宿”の町を合わせたものである。 私の推定では、“入三”とは“入新井三丁目”の略称と思われる。、、、、今日は、東端の大森スポーツセンター前交差点から、西端のJR東海道線本線の山谷道踏切まで、入三通りをぶっ通して歩いてみた。

・・・・・・・・・・・・入三通りの東端:第一京浜の大森スポーツセンター前交差点。、、、、2枚目の写真の中央の狭い通りが「入三通り」

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・・・・・・・・・・・・入三通りは京浜急行本線のガードを抜ける、、、、人も車も写らない、交通量の少ない(?)道幅の狭い通り

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・・・・・・・・・・・・入三通り沿いに祀られている穀豊稲荷神社。 町会会館と併設され、綺麗な社となった稲荷。、、、、町会の名は「入新井二丁目北町会

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・・・・・・・・・・・・入三通りに面する「入新井第五小学校」、、、、地名では無くなった“入新井”だが、校名で残っていた。

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・・・・・・・・・・・・『ありました! “
銀座”です!』 ウインドショッピングしたくともウインドのない「入三銀座商店街

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・・・・・・・・・・・・入三通りは幹線道路の「沢田通り」を横切りさらに西へ伸びる。、、、、入三銀座商店街はココまで!、、、、この交差点名は「入三通り入口」 交差点の東西両側に“入三”の商店街がある、この“入口”はどちらの商店街の入口だ!

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・・・・・・・・・・・・沢田通りを越えると、「入三商店街」となる。 “銀座”が無くなった! ショッピングする店舗も無い!

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・・・・・・・・・・・・入三通りの西端と思われるJR東海道本線の山谷道踏切。、、、、入三商店街はココまで! 入三通りと称するのもココまでか?

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・・・・・・・・・・・・入三通りの先は無名の通りで、大森郵便局の脇で池上通りに出る。、、、、平和島からココまで、ほぼ西に向かって道なりに一直線! 

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● 大森郵便局前に「新井宿義民六人衆霊場参道」と書かれた灯篭に迎えられ、善慶寺山門に向かう通りが続く。

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・・・・・・・・・・・・日蓮宗寺院の「善慶寺」は、法光山と号し、天正年間(1573~1592)に開創した。 正応4年(1291)、当地の増田三郎右衛門が善慶寺を創建、以来身延山末であったが、12世日好の代に品川本光寺末となった。 現本堂は昭和5年(1930)に建立された。、、、、都内では珍しく寺にはほたるが自生しているとのこと、一般公開もしているらしい。 境内は綺麗に手入れされている。

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・・・・・・・・・・・・境内の墓地には「新井宿義民六人衆の墓」がある、、、、新井宿村の農民は、延宝年間(1673~1681)に領主木原氏の厳しい年貢の取立てに耐えかねて、村役人6人が直訴することを計画した。しかし事前に領主に知られ、延宝5年(1677)6人全員が斬罪に処せられた。 しかしその結果、年貢は半減され、6人は義民として当寺境内の墓所に葬られた。 

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・・・・・・・・・・・・善慶寺本堂脇に鳥居がある。 鳥居の後ろは裏山となっており、その上には「熊野神社」がある。 かつて善慶寺は熊野神社の別当であった。、、、、善慶寺の山門が熊野神社の表参道となっているのだ!、、、、現社殿は昭和44年(1969)に鉄筋コンクリート造で改築された。

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・・・・・・・・・・・・熊野神社は高台に位置し、神社裏手から
山王3丁目の住宅地を歩く。

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山王の住宅地を抜けて「大森駅西口」に出た。 今日の散歩はココまで!

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2021年11月27日 (土)

寺のない墓地

京浜急行雑色駅からスタートし、西糀谷、北糀谷の町を抜け、大森町駅へ。 まだ、体力が残っていたので、もう一駅、平和島駅まで、1万3千歩の散歩です。




● 朝7時半、京浜急行本線「雑色駅」に到着。 空気は冷たく、身体も冷える、そろそろ股引を穿くかな! 今日の散歩は、ここから糀谷駅付近で京急空港線を横切り、都心に向かい北の方角に歩いてみることにした。

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● 第一京浜(=国道15号)を横切り、東六郷の町に入る。 中小工場が点在する住宅地の中、裏通りを歩く。 

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・・・・・・・・・・・・『アッ、ここは七辻(ななつじ)だ!』 南蒲田2丁目30番10号・萩中1丁目1番19号・荻中1丁目14番31号・東六郷1丁目9番5号・東六郷1丁目10番7号・東六郷1丁目16番10号・南六郷1丁目1番4号の接する7差路。 言うまでもなく7本の道が1ヶ所で交差する珍しい処だ。 どの道も道幅は狭いが、それなりの交通量はある、しかも信号はない。、、、辻の角に、七辻の由来が書かれてる。 この辺りは、昔六郷村といって、田畑の中に畔道が通っていて、荷車が通れるような道は1本だけだった。 大正6年(1917)に始まった耕地整理で、畔道を残した上に幹道を作ったので、現在のような7差路となったそうだ。、、、、ここを通る人は、それぞれがゆずり合い信号は必要がないらしい。、、、、パノラマ写真で撮ってみたが、7本の道路判るかな?

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・・・・・・・・・・・・七辻から東に裏道を歩くと、糀谷商店街を過ぎた処に「新宿東児童公園(荻中2-4)」があり、そこに「白瀬中尉の旧居跡」の案内板がある。、、、、白瀬轟(1861~1946)陸軍中尉は秋田県で生まれ、明治時代に活躍した世界的な探険家、昭和初期の数年間、この地に在住した。 彼は最初、北極探検を志し、明治26年(1893)郡司成忠を隊長とする千島調査探検隊に参加したが、アメリカ人ピアリーが先に北極点に到達したため、目標を前人未踏の南極に変更した。 明治43年、白瀬隊長は26名の隊員とともに、開南丸で南極点をめざし、東京を出航した。 一度は氷にはばまれ挫折したが、明治45年(1912)1月、南極大陸上陸に成功した。 南極点到達は果たしえなかったが、彼らの命名した「大和雪原」「開南湾」などは、現在も世界の地図に用いられている。、、、、北極点がダメなら南極点とは、ものすごい目標変更だ!

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● 「白瀬中尉の旧居跡」がある公園の北側には環八通りが東西にとおり、さらにその北側には平行して京浜急行空港線(糀谷~大鳥居間)が走っている。、、、、線路の向こうには、「神明大神宮」なる宗教団体の本宮の建物がデーンと構えてる。

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● 踏切から、西糀谷の町を南北に貫くように北へ向かうと、呑川(のみかわ)にぶつかる。 呑川に架かる「八幡橋」を渡ると正面には「子安八幡神社」がある。、、、、呑川の北側は北糀谷である。

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● 子安八幡神社で手を合わせた後は、再び神社脇の裏通りに入り、北糀谷、大森中の町を北上し、第一京浜(=国道15号)の「森大町駅入口交差点」まで歩く。

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・・・・・・・・・・・・神社脇の通りに入ると、民家の裏(北糀谷1-23)の空き地に墓石が並んでいる。 この地“下袋(現:北糀谷一帯)”には六郷用水を開削した小泉次太夫吉次(1529~1623)の末孫が菩提寺とした日蓮宗の円龍寺があった。 しかし、同寺が幕府禁制の不受布施派に属したことから廃寺となり、その跡には小泉家の末孫たちの29基の供養碑が残るだけとなった。 なお、次太夫夫妻は川崎市川崎区宮前妙遠寺に葬られているそうだ。、、、、ここは「廃寺円龍寺墓地」である。 現在は誰が維持・管理しているのやら? 

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京浜急行「大森町に到着。 『まだ歩く体力が残っている! もうチョイ歩くか!』という気分で、隣の平和島駅まで高架沿いに歩いた。 “散歩のおまけ”だ!

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● 京浜急行「平和島駅」まで歩いた。 平和島駅は明治34年(1901)2月1日に沢田駅として開業。 開業後すぐ(時期不明)に学校裏駅に改称し、さらに昭和36年(1961)平和島駅に改称した。、、、、ビックファン平和島(レジャーランド平和島)の最寄り駅。 中高年には懐かしい「天然温泉平和島」もある。

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2021年11月23日 (火)

池上から雑色へ

池上線池上駅から多摩川線矢口渡駅をとおり、東海道本線を越えて、京浜急行雑色駅まで、1万1千歩の散歩です。




東急池上線「池上駅が今日の出発地。 駅前で『さて、本門寺に行こうか? 大森方面に歩くか? 多摩川の方に向かうか? それとも洗足池に戻ろうか?』 悩み悩んだ結果『ここからは歩いた記憶がない、多摩川方面に歩いてみよう!』

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・・・・・・・・・・・・池上駅脇の踏切で、緑一色にリバイバル塗装した1000系車両に遭遇、、、、懐かしさを感じる鉄道マニアも多いのだろう!

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・・・・・・・・・・・・踏切を渡ると「池上南口商店会」がある。 バス通りに、コンビニ、医院、塾、居酒屋、不動産屋など50店舗ほどが点在している。 日用雑貨、総菜、魚屋などは無く“商店”とは言えない、ここは“商店”だった!

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● 私の興味を引くような店もない商店会から裏道に入ると、白い建物の「池上ルーテル教会」(大田区池上6)があった。、、、、この聖堂は昭和64年(1989)に建て替えられたそうだ、純白のシンプルな建物で私の興味を引き付け、内部を拝見したくなった。 『ドアは施錠されてる!』時刻は8時、まだ牧師さんは熟睡中(?) 

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● 教会の次はお寺である、池上7丁目、曹洞宗の「大乗山曹禅寺」、、、、曹禅寺は、昭和7年(1932)、矢口町に教会を開設、牛込白銀町にあった盛高院の寺号を継いで昭和14年(1939)創建した。 昭和に創建した、新しい寺!

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● 15店舗程の小さな「安方商店街」を抜けると東急多摩川線「矢口渡駅やぐちのわたしえき )」に出る。

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・・・・・・・・・・・・矢口渡駅は東急多摩川線の停車場。 大正12年(1923)11月1日の目蒲線全通時に開業した。、、、、ホームは地上相対式2面2線で、上下ホームは完全分離されているため行き来ができない、また駅舎は上下線にそれぞれある。 三角屋根の木造駅舎は風情あるね!、、、、駅名は昭和24年(1949)まで当駅近くに存在した多摩川の渡し船の一つである「矢口の渡し」に由来する。 ♪♪ 夕暮れの 雨が降る 矢切の渡し ♪♪は葛飾区柴又の江戸川にある、間違えないように!

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● 矢口渡駅の蒲田寄りに踏切がある、この踏切の脇に一方通行の裏道があった。 多摩川に方面に歩くのを止めて、この裏道を歩いてみることにした。、、、、道の線形、道幅、両側の家並みを見ていると、かつての用水路を暗渠化した道路のようだ! 行ける処まで行ってみよう!、、、、大田区西六郷の「大田西六郷郵便局」の前で、バス通りに合流!

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・・・・・・・・・・・・途中で国旗を掲げる家を見る、『今日は勤労感謝の日、チョイト前までは新嘗祭、何だか国旗が懐かしいものに見える』 今、祝日に国旗を出す家は少なくなった、チョイト寂しいね!

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● 西六郷1丁目を右へ左へ歩き、JR東海道本線の「雑色踏切」に出る。、、、、東海道本線(上野東京ラインも)に京浜東北線、4本の線路に引っ切り無しに電車が通る。 爺さん婆さん渡るの怖い、自転車乗る人イライラ愚痴る、スマホ姉ちゃん知らん顔、電車に手を振る三歳児。

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・・・・・・・・・・・・雑色踏切を渡ると「雑色商店街」が京急雑色駅まで続く、、、、雑色商店街は戦後の昭和23年(1948)に設立した、現在でも個人商店が残る元気な下町商店街。

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● 京浜急行本線「雑色駅」から帰宅

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2021年11月20日 (土)

押上から四ツ木

押上駅から、京島、八広の町を抜け、木根川橋を渡り四ツ木駅まで、1万1千歩の散歩です。



● 東京スカイツリーの足下の地下にある「押上駅」は、京成電鉄と東京都交通局の共同使用駅。 駅は京成電鉄が管轄する、島式ホーム2面4線の地下駅である。、、、、かつては、京成電気鉄道の都心乗り入れを睨んだターミナル駅として、大正元年(1912)11月3日、に開業した(開業時は地上駅)。 昭和35年(1960)の都営地下鉄乗り入れに合わせ、地下駅となる。、、、、地上駅の跡地には京成電鉄本社が移転したが、平成25年(2013)に本社は京成八幡駅前に移転した。 現在跡地は複合ビルが建ち、リッチモンドホテルやスーパーのライフが入居。 また、跡地前の北十間川には「京成橋」か架けられてる。

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・・・・・・・・・・・・北十間川に架かる「京成橋は全長18.75m、幅27.9で東京都が管理している。 業平三丁目と押上一丁目を結ぶ橋で、この橋は昭和4年(1929)に架けられたが、現在の橋は昭和37年7月に架け替えられたものである。 

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● 押上駅から都道465号(=四ツ目通り)沿いの裏通りを歩き八広駅に向かう。

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・・・・・・・・・・・押上3丁目の裏道、、、、時刻は8時近く、近くの小学校へ通う児童を地域ボランティアの方が要所要所に立ち見守る! ご苦労様です、感謝!

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・・・・・・・・・・・・東武亀戸線の踏切を越えると、押上3丁目から京島2丁目となる。、、、、亀戸行きの白い車両が行き過ぎると、黄色いレトロ塗装の東武8000系電車が来た!

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・・・・・・・・・・・・踏切を渡り墨田区京島地区に入る。 京島地区は関東大震災、第二次世界大戦での被害が少なく、区画整理ができていない裏道に昭和初期の木造長屋などが密集して残っている。 略して“木蜜地域”と言われる“木造住宅密集地域”である。

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・・・・・・・・・・・・京島地区では、最近は住民の取り組みもあり、古い家屋は耐火構造の住宅に変わったり、取り壊した跡地は公園に変わったり、道路幅も広くなり、防災を意識した取り組みが進められている。、、、、明るく広々とした町に生まれ変わっていくようだ!

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● 明治通りを横断し墨田区八広の町に入る、、、、この町も裏道は細い道がクネクネと曲がり伸びている、そんな町に質屋がある。 しっかりした大谷石の蔵にぐるりと回った塀、看板には“質”の一字。 雰囲気出てる、いいね!、、、、一度、女房を質に入れたらどうなるか、聞いてみたいね!

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・・・・・・・・・・・・墨田区八広にあって「都立日本橋高等学校」とはこれ如何に? 千葉県浦安市にあって東京ディズニーリゾートと言うがごとし!、、、、都立日本橋高校は、校名のとおり元々東京都中央区の日本橋に所在していたが、平成21年(2009)に同所から墨田区八広への移転となっても名前をそのままとした普通科のみの都立高校である。、、、、校舎の建て替えなどによる短期の移転なら校名変更は必要ないが、恒久的な移転なら校名も変更してはと思うのだがね、余計なお世話かな! “八広高等学校”より“日本橋高等学校”の方がブランド力があるかも?

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・・・・・・・・・・・・都立日本橋高等学校の前から八広駅の方向に伸びる「南龍館通商栄会」という商店街(現在は寂れ、店はほとんどない)がある。 街路灯の電灯は無くなり、ポールだけが残されている。、、、、京成押上線の曳舟駅と八広駅の中間に、かつて向島駅(駅跡は不明)があった。 その駅の周辺に
昭和初期から昭和30年頃まで南龍館という映画館があった、また映画館の近くに南龍館通商栄会があった。、、、、街路灯はその当時のものらしい。

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● 八広の町の北端に京成押上線の「
八広駅」がある。 駅の出入口は大通りに面さず、荒川土手に向かい高架下の奥まった薄暗い処にある。 しかも、駅の高架化は平成9年(1997)に改良工事が完成した、比較的新しい駅である。 なぜ、こんな奥まった処に、わざわざ出入口を造ったのか、私には謎だ!

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● 「木根川橋」を渡り荒川を越える、、、、木根川橋は、墨田区八広と葛飾区東四つ木とを結ぶ、長さ466mの美しいトラス橋。 昭和44年(1969)完成。、、、、荒川と一体となって女性的な美しさを描いている橋。

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● 「四ツ木駅」に到着、ここから帰宅!

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2021年11月14日 (日)

荏原病院通り

池上線洗足池駅から荏原通りを歩いて上池上へ、上池上から呑川沿いに歩き国道1号(=第二京浜)に出て池上線池上駅まで、1万2千歩の散歩です。




● 朝7時50分、池上線「洗足池駅」で下車する。 日曜の朝なので乗降客は少ないようだ。 コロナの影響も薄れ、行楽姿の人もいる。、、、、電車を待つ客の中に『洗足池駅の真下にリニア中央新幹線が通るのを知ってる人は何人いるのかな?』と、一人で思う。 駅の西側200m程の処に、仮囲いがありそこがリニアの「第一首都圏トンネル:東雪谷非常口」の工事現場だ。 洗足池駅が陥没しないよう、工事の安全を祈るばかり。

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● 洗足池駅と西隣りの石川台駅の中間地点付近で、池上線に平行する中原街道(国道2号)から分岐する「荏原病院通り」がある。 その名のごとく、都立荏原病院前を南東に伸びて、「東雪谷五丁目交差点」で学研通りと合流する。、、、、この道を歩くことにした。

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・・・・・・・・・・・・中原街道から分岐する「荏原病院通り」、、、、写真を左右に横切るのが中原街道。 歩道橋の下から手前に伸びる通りが荏原病院通り。

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・・・・・・・・・・・・池上線は荏原病院通りの下を切通しで抜ける。、、、、ここの架かる橋が「笹丸橋」で、昭和2年(1927)に架けられた鋼製アーチ橋。 大田区が管理する最も古い橋である。 橋名の“笹丸”は、かつてのこの周辺の字名である。、、、、絵になる橋だ!

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・・・・・・・・・・・・笹丸橋から荏原病院前をとおり池雪小学校前あたりまでの「荏原病院通り」は、バスも救急車も通る尾根道となっており、通りの左右は下り坂となっている。 右へ下る坂の先には川崎(武蔵小杉?)のタワーマンションが見える。 左へ下る坂の先は何処だか判らないが、品川区戸越方面と思われる。

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・・・・・・・・・・・・荏原病院の手前、「
東中」バス停の前に、「北向庚申」とよばれる小堂があり、庚申塔と供養塔が祀られている。、、、、右側の題目供養塔は天和3年(1683)の造立。 舟形に釈迦如来像を陽刻し、雪谷村一結25人、読唱記念と書かれている。 釈迦如来像の脇には「南無妙法蓮華経南無釈迦如来」「奉唱満首題壱千部成就問題」とある。 左側の庚申塔は、駒型で享保14年(1729)の造立。 これが北向庚申である。、、、、この尾根道は中原街道から池上本門寺に至る主要道であることから、石仏も多く祀られていたらしい。

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・・・・・・・・・・・・大田区東雪谷にある「荏原病院」は、町のランドマークである。、、、、昭和9年(1934)現在地に東京市立荏原病院として診療開始。 昭和18年には東京都立荏原病院と改称。 昭和33年(1958)に総合病院となる。 現在は23の診療科、461の病床を有する総合病院。 只今、コロナで大活躍!

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・・・・・・・・・・・・荏原病院通りの尾根から下る途中に「池雪(ちせつ)小学校」がある。、、、、明治11年(1878)に公立池雪小学校として児童数98名をもって開校。 140年以上の歴史を有する学校だ!

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・・・・・・・・・・・・荏原病院通りが学研通りと一体になる「東雪谷5丁目交差点」の角に、日蓮宗寺院「
雪谷山 長慶寺」がある。 長慶寺は、十法院日親(慶長3年1598年寂)が開山となり碑文谷に創建、後に当地へ移転した。 池上本門寺の末寺。、、、、現在の本堂・庫裏は昭和31年(1956)に再建されたもの。、、、、庫裏の奥に庭園があるそうだが、見ることはできなかった、残念!

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・・・・・・・・・・・・「荏原病院通り」はここまで!




● 東雪谷2丁目交差点から100m程南に東海道新幹線のガードがある。 このガードを抜けると、東雪谷から仲池上の町となる。、、、、ガード下のバス停は「上池上」、上から読んでも下から読んでも上池上。、、、、“上池上”という地名は現存せず、大田区“上池台”となっている町の南側(新幹線側)を“上池上”と呼ぶそうだ。

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● 仲池上の子安八幡神社」、「林昌寺に立ち寄る。 子安八幡神社は社殿を新築中。 

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● 仲池上から呑川沿いに歩き池上線「池上駅」へ、、、、池上駅は大正11年(1922)10月6日、池上電気鉄道の開通とともに開業。 当時は主に池上本門寺への参拝客のための鉄道として運営していた。 令和2年(2020)には、新しく建て替えられた橋上駅舎が供用開始となり、翌令和3年(2021)の春から駅ビル:商業施設「etomo池上」がオープンした。、、、、相対式ホーム2面2線の地上駅であるが、駅ビル2階の改札から1階のホームに下りる。、、、さすが、今年オープンした駅ビルはピッカピッカ! 下町:帝釈天の柴又駅に似た雰囲気だった旧駅は完全に消え去り、山の手の雰囲気漂うオシャレナ駅に変わった。 駅ビルの中に、本門寺門前のくず餅屋があるか探してみたが無し。 ケーキ屋、コーヒーショップなどが店を構え、参拝客の駅から若者の駅に変身!

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2021年11月13日 (土)

國威宣揚

今月は、私が診てもらっている3ヶ所の総合病院・4か所の近所のかかりつけ医に行く予定があり、超ハードスケジュールである。 この他に、高齢の母に付き添い通う医院が2か所。 結局ナンダカンダ言って、月の内十二日は医者通い。 チョイト多すぎるね!

こんなに多いと、予約を忘れることもある、 今日は、先月の予約を行き忘れた中野の病院で、眼科の診察を受けてきた。 予約を忘れたため診察時間は9時半過ぎ、会計を済ませ病院を出たのは11時。、、、、診察を待つ間、受付嬢を見ていると、みんな美人だ! 眼が良くなってる?

 

今日の診察は9時半過ぎなので、朝7時に家を出て、丸ノ内線東高円寺駅で下車し、JR中野駅の北西にある病院まで歩いてきた。 7千歩



● 東京メトロ丸ノ内線の「東高円寺駅」は、昭和36年(1961)の荻窪線(現丸ノ内線)新中野~南阿佐ヶ谷間延伸開業時には設置されておらず、約3年後の昭和39年(1964)9月18日に追加開業した。 ホームは相対式2面2線で、青梅街道の地下1階にある。 各ホームを結ぶ連絡通路(地下2階)は、改札外にしかないので注意が必要。 改札口および出口は各ホーム毎に1ヶ所ずつあるのみ。、、、、荻窪方面行出口は「蚕糸の森公園(旧蚕糸試験場跡)」の一角にあり、広く明るい出口だ。

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● 東高円寺駅から北へ向かい裏道を歩く。

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・・・・・・・・・・・・高円寺南1丁目の「高円寺天祖神社」の前に出た。 当神社は、寛治元年(1087)に信仰心の強い山下久七なる人物が、伊勢神宮へ参拝し、御分霊を賜り、この地に仮に社殿を建てて奉納したことが始まりと言われている。、、、、現在の拝殿は天保2年(1831)、幣殿と本殿は明治21年(1888)に建てられたもの。 関東大震災を機に氏子の居住者が増えたのに伴い、大正15年(1926)に社殿の修築などを行った。、、、、静かな住宅地の奥にある、こじんまりとした神社。 大正10年(1921)に奉納された、子犬と戯れる狛犬が迎えてくれる。

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● 天祖神社から大久保通りを横断し、北に進むと「桃園川緑道」がある。 杉並区内では、JR中央線の高円寺駅南側の商店街と住宅地を、東西約1,600mにわたって連なる長い公園。 緑道の下は桃園川が流れていました。川の名称は近くにある高円寺の境内に昔桃の木があったことに由来します。この川は天沼三丁目にある弁天池を一つの源とする小川でしたが、底が浅いので大雨の度に洪水になっていました。そこで昭和40年(1965)に下水にして上に公園をつくった。、、、、桃園川緑道は中野区内にも連なり、東端はJR東中野駅の南で神田川にぶつかる。

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● 桃園川緑道の北側、杉並区と中野区の区界の住宅地を歩き北に向かう。 チョイト懐かしさを感じる服装店があった。 オーダーメイドの店なのか(?) ウインドの服は一時代前のデザインのようだ!

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・・・・・・・・・・・・坂の途中にはスペイン風の住宅、おしゃれな建物だ!

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・・・・・・・・・・・・裏通りの裏道に入ると「國威宣揚」と彫られた1m程の石碑「大詔奉戴紀念碑」に遭遇。 石碑には「昭和十八年十二月八日大詔奉戴記念日」「桃園子寶會建之」とある。 彫られた日付の2年前は、昭和16年(1941)12月8日は、トラトラトラの真珠湾攻撃によって第二次世界大戦が幕を開けた日。 天皇による宣戦布告(宣戦の詔勅)が発せられたことを受けて、戦時中は12月8日だけではなく毎月8日が大詔奉戴(たいしょうほうたい、=天皇の言葉をありがたく戴く)日と定められていた。、、、、これは戦争遺産か? 資源ごみ回収の旗架けか?

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● 中央線の線路脇(中野3)に出てきた、跨線橋を渡ると「明治大学」、「帝京平成大学」の中野キャンパスがある。 キャンパスの前は「中野四季の森公園」、さらに奥には私が通う「東京警察病院」、病院の隣りは野方警察署、警視庁野方庁舎など。 この広大な一帯は、かつての警察大学校の敷地跡

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● 病院に到着、、、、『眼は良くなっています、もうしばらく点眼薬を使用してください。 2月に予約を入れておきます』と言われて、検査料込みで『ハイ、1500円』

2021年11月11日 (木)

海舟のお気に入り

今日は、東急目黒線武蔵小山駅から歩き始める。 行きついた先は、東急池上線の洗足池駅。 ココまで、1万2千歩の散歩です。




● 目黒線の「武蔵小山駅」は、大正12年(1923)3月11日に、目黒蒲田電鉄が目黒~丸子(沼部駅)間を開業させた時に小山駅として同時開業した。 大正13年(1924)に武蔵小山駅に改称。 平成18年(2006)に地下化し、平成22年(2010)に駅ビルが開業。 島式ホーム2面4線を有する地下駅。、、、、駅名は地名に由来する。 近隣の小山八幡神社にちなんで、開業当初は「小山」だったが、同名駅がすでに東北本線に設置されていたため、旧国名“武蔵”を冠して「武蔵小山駅」となった。、、、、すれ違う通勤通学客を見ていると、下町の駅とは違う雰囲気を感じる。 特に女性は、チョイト、美しさを感じる!

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● 駅前のロータリーに出て、『さて、どっちに向かって歩こうか?』 とりあえず、人が流れて来る駅前の商店街を歩くことにした。、、、、駅の南側から南東方向に伸びる「武蔵小山商店街(パルム)」は、かつて「東洋一のアーケード街」と謳われたそうだ。 約800mのアーケードには約200軒の店舗が並び、日中は相当のにぎわいらしい。 今日は、まだ朝8時前、商店街を駅に向かって歩く人は多いが、開いている店は少なく、多くはシャッターが下りている。 見るべきものもない商店街は歩いていてもつまらない。 商店街中程から、横道にそれた。

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● 武蔵小山商店街から右(南西方向)に折れると「栄通り」の表示がある“商店街”とは言いづらい道があった。 こちらの通りの方が自分の性に合っている。 『ヨシ、この道を道なりに行けるとこまで行ってみよう!』、、、、品川区荏原の町を、4丁目、5丁目、6丁目と貫いている裏通り。 最後はチョイト旗の台1丁目に首を突っ込んで中原街道(都道2号)で終点となった。 「栄通り」の表示は4丁目部分だけであった。

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・・・・・・・・・・・・旗の台1丁目、中原街道(都道2号)に出る処(昭和大病院前交差点)に庚申供養塔と札場の跡がある。

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・・・・・・・・・・・・「旗の台一丁目石造庚申供養塔」は案内板によると、『中原街道から分かれて小山に至る旧道の分岐点にあり、寛文五年(1665)旧中延村の庚申講中が造立したもので、区内現存の庚申塔50基のうち3番目に古い。中央に「南無妙法蓮華経」の髭題目を彫り、その下に石塔を造立した7名の氏名が刻まれている。本塔は高さ92cm、板碑型で材質は安山岩、向かって右上部に一部欠損がみられるが、保存状態は概して良好である。日蓮宗の影響か、青面金剛、三猿、日月が彫られていない文字塔として特色がある。全村のほとんどが日蓮宗といわれる中延村に、日蓮宗の僧が指導したと思われる庚申講の存在を示す資料として貴重である。  平成13年3月30日  品川区教育委員会 』と記されている。

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・・・・・・・・・・・・庚申塔と旧道を挟み向かい側に、ズングリムックリした形の「札場の跡」がある。 ここは昔、高札場だったところで、石碑が据えられてる。 中原街道沿いの、この辺りは江戸時代から大正時代まで「札場」と呼ばれていた。 高札場は、江戸時代、幕府や領主が法度(法令・禁令)などを立て札に書いて掲示した場所だ。、、、、今は交通量の多い中原街道沿いに、ひっそりと静かに立つ石碑に、家康が行き来していた時代の歴史を感じる。

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● 中原街道を歩き「旗の台交差点」を過ぎ、坂を上がった右手に「日本聖公会三光教会」がある。 三光教会は、大正元年(1912)11月2日芝白金三光町の地で、聖ステパノ教会、聖十字教会、喜望教会の三つの教会が合同、一つの教会として誕生した。 「三光」という名前は「白金三光町で生まれた教会」という意味に加え、三つの教会が合同した教会ということにも由来しているそうだ。 昭和15年(1940)に現在の品川区旗の台に移った直後、戦火により礼拝堂は焼失した。 昭和29年(1954)に礼拝堂は再建。 平成22年(2010)に入口部分を残して建て替えが行われ、三廊式の礼拝堂として献堂された。 100年以上に至る歴史ある教会。、、、、教会の隣りには中高一貫の女学校「香蘭女学校」がある。 香蘭女学校は、英国聖公会主教により創られ、伝統をもつミッションスクール。 キリスト教信仰に基づいた女子教育を旨とし、三光教会とは親戚ともいえる学校です。、、、、残念ながら香蘭女学校には入れなかったが、教会には入れてもらえた。 厳粛だが、新しさっも感じることができる、歴史ある教会。

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● 中原街道を歩き、東急大井町線の「中原架道橋」をくぐり、環七通りと交差する「長原陸橋」をくぐると、品川区から大田区に入ったことになる。

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● 洗足池公園の一角に、勝海舟夫妻の墓所、南洲留魂詩碑、勝海舟記念館があるので、チョイトお立ち寄り。

・・・・・・・・・・・・洗足池公園は、大田区南千束にある洗足池を囲む区立公園。 洗足池は、 武蔵野台地の末端の湧水をせきとめた池で、 昔は灌漑用水としても利用された。 江戸時代には、初代広重の浮世絵「名所江戸百景」に描かれるなど、江戸近郊における景勝地として知られていたそうだ。 昭和3年(1928)に池上線が開通すると、公園として整備された。

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・・・・・・・・・・・・勝海舟は池上本門寺に本陣を置いた西郷隆盛をしばしば訪ね、国の将来などについて語り合ったそうだ。 その時の洗足池の風光が大層お気に入りとなり、池の畔に別荘を建て「洗足軒」と呼んだ。 さらに、この地を自身の埋葬地と定めたそうだ。 「勝海舟夫妻の墓」は海舟の遺言によって建てられた。、、、、勝海舟は明治32年1月19日に死去。

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・・・・・・・・・・・・海舟の墓の隣りには、西郷隆盛(南洲)を悼み、表面に西郷の作詩を、裏面に勝海舟の西郷への述懐が刻まれている石碑「南洲留魂詩碑」がある。 明治12年(1879)、勝海舟が自費で南葛飾群木下川の浄光寺に建立した石碑。 大正2年(1913)荒川放水路の開鑿工事があり、碑祠のある浄光寺が河川敷になるに及んで現在地に移した。、、、、風化したのか読みにくい!

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・・・・・・・・・・・・南洲留魂詩碑の隣りには、昭和12年(1937)に数名の有志が計画し、海舟を師と仰ぐ徳富蘇峰に詩を書いてもらい建立した「南洲海舟両雄詠嘆之詩碑」がある。、、、、こちらは、文字の判読はできたが、内容は? 漢詩は難しい!

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・・・・・・・・・・・・勝海舟の墓の近くには、海舟没後その海舟に関する資料などを収集・閲覧・講演する目的で、(財)清明会が昭和8年(1933)に建てた「清明文庫」の建物がある。 正面玄関から立ち上がる4本のネオゴシックスタイルの柱型やアール・デコ調の建具などに特色がある、国の登録文化財。、、、、大田区は鳳凰閣(旧清明文庫)を勝海舟記念館として整備し、公開している。 海舟ファンにとっては必見の場所!

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● 洗足池公園の前(南側)に中原街道を挟んで、東急池上線の洗足池駅がある。

・・・・・・・・・・・・洗足池駅に行く前に、チョイトお立ち寄り。 駅の横50m程の処に、東京で一番低い桁高(?)のガードがある。 車はもちろん通れない、人間は腰を曲げて頭を下げて通るだけ。 桁高は1.5~1.6mぐらいか。路面は砂利。

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・・・・・・・・・・・・「洗足池駅」は昭和2年(1927)8月、池上電気鉄道洗足池駅として開業。 ホームは高架相対式2面2線構造。、、、、昭和の匂いが残る駅。

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2021年11月 6日 (土)

寄生虫はまだ寝てる

JR目黒駅で降り、『さて、どっちへ歩こうか?』 考えた後の結論は、『久しぶりに、大鳥神社の先にある目黒寄生虫館に行ってみよう!』 目黒駅から、行人坂を下り、大鳥神社に参り、目黒寄生虫館へ、その後、目黒不動尊へ参り、東急目黒線武蔵小山駅まで、1万1千歩の散歩です。



● 土曜の朝、サラリーマンの多くは休み、目黒駅は近くの私立中学・高等学校に通う生徒でいっぱい。ただいま通学時間だ! 聞こえる会話は勉強の話ではなく、何かのゲームの話。 後ろから一人仲間に入らずついていく生徒もいる。 いろいろな生徒がいるが、みんな楽しそうに学校へ向かう。

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● 目黒駅から西の目黒雅叙園に向かって下る坂道がある。 その名は「行人坂(ぎょうにんざか)」、長さ210m程の急坂(平均斜度7度)だ。 坂上は品川区、坂下は目黒区になる。、、、、名前の謂れは、『行人坂  寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行人が、このあたりに大日如来堂を建立し修行を始めました。 次第に多くの行人が集まり住むようになったので、行人坂と呼ばれるようになったといわれています。』と、目黒区教育委員会名で案内板がある。

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・・・・・・・・・・・・行人坂の中程、大円寺の門の東脇の小堂に「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」がある、、、、案内板によると『小堂の中にある石造物は3段の台石を含め総高190㎝で、一番上は蓮華座の上で合掌し、右膝を立てて座る勢至菩薩像です。 小堂の前を通る行人坂を下りた先には目黒川がありますが、江戸時代中期の目黒川の架橋について台座石の前面と両側面に銘文が刻まれています。 銘文は宝永元年(1704)のもので、西蓮という僧が目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、往復の途中で人々から受けた寄進により、川の両岸に石壁を築き、雁歯橋を架けたということが書かれています。 目黒川架橋の歴史を示す、貴重な文化財です。 平成31年3月  目黒区教育委員会』、、、、可愛らしい顔の勢至菩薩である。

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● 行人坂の途中には、勢至菩薩の小堂に続き天台宗寺院「松林山 大圓寺」がある。、、、、大圓寺は、寛永年間(1624~1644)湯殿山修験道の行者大海が創建したと伝えられる。 明和9年(1772)2月に発生した大火(明和の大火・行人坂火事)の火元となった寺であることから、江戸幕府から再建の許可が得られなかった。 江戸時代後期の嘉永元年(1848)になって薩摩藩主島津斉興の帰依を得て、その菩提寺としてようやく再建された。 明治に入り隣接した明王院がこの寺に統合されている。、、、、大円寺の三面大黒天像は、山手七福神の大黒天となっている。

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・・・・・・・・・・・・山門をくぐり左手に、石像がズラリと並ぶ「大円寺石仏群」は圧巻!、、、、明和9年(1772)の大火で、火元と見られたのが大円寺であった。大円寺では焼死した人々を供養するために、天明頃(1781~1789)境内に五百羅漢像等を建立したと記録が残されている。 

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・・・・・・・・・・・・大圓寺は、八百屋お七の恋人・吉三(出家後は西運と改名)ゆかりのお寺でもあり、境内にはお七地蔵吉三のお墓もある。、、、、大圓寺隣の目黒雅叙園の入口には「お七の井戸」がある。 八百屋お七は、恋こがれた寺小姓吉三に会いたくて自宅に放火し、鈴ヶ森刑場所で火炙りの刑に処された。 吉三はお七の火刑後僧侶となり、名を西運と改め、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をなし遂げ、この井戸で水垢離を行ったと云われている。

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● 行人坂を下りると、南側(左に)は目黒雅叙園で、北側(右に)にレトロな感じの建物がある。 「東電下目黒変電所」だ、おそらく戦前の建物と思われるが、詳細は不明。

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● 行人坂を下り、目黒川を越えて、酉の市でも知られる「大鳥神社」(下目黒3)に来た、、、、言い伝えによると景行天皇の時代に当地に国常立尊を祀った社があり、日本武尊が東夷平定の折に、当社に立ち寄って祈願したと言われている。その後日本武尊の霊が白鳥として当地に舞い降り鳥明神として祀られ、大同元年(806)に社殿が完成したという。この年を大鳥神社では創建の年とした。 これは目黒区最古となっている。、、、、現在の社殿は昭和37年(1962)の竣工。、、、、3日後の11月9日は一の酉、境内では熊手を扱う店が軒を連ね準備中。 ブルーシートで隠しているが、すでに大きな熊手も搬入済みのようだ。

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● 大鳥神社から、目黒通りを西へ150m程歩くと「目黒寄生虫館」がある、、、、着いてビックリ、来てガッカリ、只今時刻は8時50分、開館は10時。 『まだ寝てます、開館まで、1時間お待ちください』 

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・・・・・・・・・・・・『1時間も待っておれるか、気が短いのだ!』入館は諦めた。 




● 寄生虫がダメなら、薩摩芋にしよう!、、、、寄生虫館から南東に約500m、目黒不動尊(瀧泉寺)の本堂裏手の道を歩き、瀧泉寺の墓地を目指す。 ここに江戸時代中期の、幕臣御家人で書物奉行で儒学者で蘭学者で、サツマイモ(甘藷)の普及を図り、甘藷先生と呼ばれた、青木昆陽の墓がある。、、、、青木昆陽は大鳥神社の近くに別邸を持っていた(これホントの話)そうだ、ここに妾を住まわせた(これ私の推測)かも?

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● ココまで来たら、目黒のお不動様にも寄って行かねばなるまい!、、、、ということで、目黒不動尊「瀧泉寺」でお参りを済ませ、武蔵小山駅まで歩く。

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2021年11月 4日 (木)

目黒通りに嫌われた

白金高輪駅から目黒通りを目黒駅方面に歩くと、沿道には見るべき施設が多い。 今日の散歩は、寄る処が多そうだと気持ちを弾ませ、白金高輪駅から目黒駅まで歩いてみた。




● 東京メトロの南北線と、都営地下鉄の三田線が乗り入れている「白金高輪駅」から散歩を始める。、、、、白金高輪駅から目黒方は、南北線と三田線の重複区間であり、当該区間は東京メトロが第一種鉄道事業者、東京都交通局が第二種鉄道事業者である。 そのため当駅と白金台駅は東京メトロと都交通局が共用する共同使用駅となっている。 ただし、駅の運営・管理は東京メトロが行っている。、、、、白金高輪駅は島式ホーム2面4線の地下駅で、外側2線を三田線、内側2線を南北線が使用し、方向別に配置されている。 平成12年(2000)9月26日開業。、、、、垢抜けした綺麗な駅だ!

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● 白金高輪駅の西側100m程の処に、法華宗陣門流の「智光山 立行寺」がある。、、、、立行寺(りゅうぎょうじ)は、日通聖人(延宝5年(1677)寂)が開山、旗本大久保彦左衛門(大久保忠教)が開基となり、寛永7年(1630)麻布六本木に創建、寛文8年(1668)当地に移転した。、、、、境内には大久保彦左衛門の立派な墓魚屋一心太助の墓がある。 一心太助は実在の人物か(?  架空の人物で墓が実在するのも珍しい!)

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● 白金高輪駅から南へ200m程歩くと、「清正公前交差点」がある。 ここは国道1号(桜田通り)と、ここを起点とする都道312号(目黒通り)の交差点。

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● 清正公前交差点の南側に、日蓮宗の寺院の最正山 覚林寺(かくりんじ)」、通称「清正公(せいしょうこう)」があるので、去年も参ったが今日も立ち寄ってい行く。、、、、覚林寺は弘化2年(1845)の大火で全焼し、山門は安政3年(1856)清正公堂は慶応元年(1865)に再建されたものです。 清正公堂は拝殿・幣殿・本殿からなる権現造形式です。拝殿は間口三間奥行三間、幣殿は間口一間奥行三間。本殿は土蔵造で明治中期頃の再建と考えられている。 三門は覚林寺の表門で、木造・銅板葺の薬医門である。

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● 目黒通りに入り、覚林寺の西隣には「シェラトン都ホテル東京」がある。、、、、ホテルは昭和54年(1979)7月7日、閑静な港区白金台の旧藤山愛一郎邸跡地に、「都ホテル東京」として開業。 建物の設計は、かつての世界貿易センタービルなどで知られるアメリカの建築家:ミノル・ヤマサキ、内装は日生劇場などで知られる建築家:村野藤吾の設計であった。 だが平成の改装により内部のデザインの大きく変わり、村野によるデザインは一部を残すのみである。、、、、今日の私は泊まる予定もなく(お金もなく)玄関前を素通りする。

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● シェラトン都ホテル東京前から南西に目黒通りを上る坂が「日吉坂(ひよしざか)」 300m程上ると「日吉坂上交差点」があり、ここまでである。、、、、坂の名は、能役者:日吉喜兵衛(? 知らん!)が付近に住んでいたことに由来するそうだ。 

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● 日吉坂を上がり、地下鉄「白金台」駅前に港区の複合施設として活用されている建物「旧公衆衛生院」がある。、、、、時刻はチョウド9時、開館時間だ、『寄って行こう!』、、、、この建物と向かい合わせに建つ「旧伝染病研究所」(現:東京大学医科学研究所)には、2年前にも来た!、、、、今日は内部をチョイト拝見し、帰りにはショップで『図説 港区の歴史』を購入(重たい本を買ってシマッタ!)

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● 地続きの隣りである、「東京大学医科学研究所」にも寄って行こうと思ったが、、、、コロナの為、厳重警戒中、関係者外立入禁止、守衛さんが怖そうな目でチェック、自分は正真正銘の関係者外、構内立入を諦め、残念!

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● 医科学研究所がダメなら、その先にある「国立博物館付属 自然教育園」に寄って行くか!、、、、『アリャリャ、コリャ、ガッカリ、休園だ!』 昨日は文化の日で開園したので、今日は休園。 ついてない!

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● ならば隣の「東京都庭園美術館」へ、いざ行かん!、、、、『開園している、ヨシ、入園するか!』、、、、門の前に『事前予約制』の貼り紙が、ガ~~ン! ココも駄目だ!、、、、今日は厄日か(?)

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● どこもかしこも入場できず、肩を落としてしょぼくれて、駅へ向かう。 駅の手前、下黒通りに面して「高福院」なる寺に遭遇。 コリャ、“幸福”になれるかも?(単純な思い) とりあえず手を合わせて帰ろう!、、、、高福院は、もと高野山金剛峰寺の塔頭として創建、弁財天の高福に因んで寺名が付けられたと言われてる。 江戸時代に入り、当地近くに松平讃岐守侯下屋敷が造営され、松平讃岐守侯が、讃岐の偉人弘法大師にゆかりのある寺建立を願い、高野山に招請し、高福院を当地へ引寺、慶安元年(1648)に阿闍梨頼順が開山、高野山東京在番所(高野山東京別院)の控寺だったといわれてる。、、、、現在の本堂は、天保15年(1844)に当時の和尚が天保の改革を断行した水野越前守忠邦侯から拝領して移築した堂。、、、、本堂正面のバカでかい石灯篭が気になるね!

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● 目黒駅は、明治18年(1885)3月16日に日本鉄道の駅として開業し、明治39年(1906)11月1日に国有化され、国有鉄道の駅となる。 開業後130余年、“駅”の老舗。 乗降客の多い、賑やかな駅だ!

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● 今日は、結局、目黒通りに嫌われて、歩数も少なく、9千歩。

2021年11月 2日 (火)

閻魔耳に懺悔

都営浅草線大門駅から増上寺を抜け、赤羽橋、中之橋、神明坂、日向坂、麻布通りを歩いて都営三田線白金高輪駅まで、1万2千歩の散歩です。



● 前回の散歩の続きで、我が家から都営浅草線に乗って15分程で大門駅に到着。、、、、「大門」を“だいもん”と読めば極楽浄土の増上寺、“おおもん”と読むと一夜の極楽吉原へ、、、、『ここは“だいもん”、まずは増上寺に参るか!』

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● 増上寺三解脱門前、日比谷通りを挟み正面の芝公園の松原内に「ペルリ提督の像」がある。、、、、嘉永6年(1853)と嘉永7年(1854)の2回、米国使節として艦隊を率いて日本へ来航し、開国を迫った東インド艦隊司令長官ペルリ(私のように古い人はペリーと教わった)の像。 昭和28年(1953)東京都が日本開国百年記念祭を開催した際、ペルリ提督の出身地であるロードアイランド州ニューポート市に石灯籠を贈り、その返礼として贈られた彫刻(フェリックス・ド・ウェルドン作、像の顔立ちは色男だ!)、、、、しかし、なぜこの場所に?、、、、どうやら、ペルリ提督が開国を迫った幕府(徳川家)の菩提寺である増上寺に向かい合うように建てたらしい。(嘘か真かは不明)

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・・・・・・・・・・・・ペルリ提督の像と向かい合うように「遣米使節記念碑」もある、、、、こちらは、万延元年(1860)、新見豊前守正興を正使とした使節団が、アメリカの軍艦ポーハタン号で太平洋を横断し、アメリカに渡って日米修好通商条約批准書を交換した。 この時、護衛の名目で咸臨丸が日本の軍艦として初めて太平洋を横断したことはよく知られている。 この碑は、それから100年を経過した昭和35年(1960)に、遣米使節を記念するため、日米修好通商百年記念行事運営会によって建てられた。、、、、こちらも、ここに建つ理由は不明。

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三解脱門をくぐり、増上寺本堂、、、、今日は本堂で手を合わせ、通り抜ける

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● 増上寺境内の南西の端、道路を挟んで浄土宗寺院「三縁山宝珠院」がある、、、、宝珠院は、増上寺第三十世貫主生譽靈玄大僧正が、閻魔王と共に白蓮池の辨才天女を勧請、別当寺として貞享2年(1685)に創建した。、、、、本堂は令和元年(2019)に改築され、現代的な設計で寺院というより、清楚な住宅かモダンなカフェという感じ。 “弁財天”の旗がなければ、寺と思わず素通りしているかも?

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・・・・・・・・・・・・宝珠院には貞享2年(1685)の作といわれる、高さ1.25mの木造「閻魔大王座像」がある。、、、、閻魔堂の側面の壁には「閻魔耳」というものがあり、懺悔できるようになっている。(浄財の投入口があるのが気に掛かる?)

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● 宝珠院から南へ200m程、赤羽橋の北詰に増上寺の「妙定院」がある、、、、妙定院は、徳川家重の導師を勤めた増上寺四十六世妙誉定月大僧正が、家重菩提のため宝暦13年(1763)に創建したと言われている。 スッキリ整った山門は美しい!

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・・・・・・・・・・・・また妙定院には、十代将軍家治公の尊牌も納められるなどその後の幕府の帰依も厚く、多くの什宝物が寄進された。『法然上人伝絵詞』など現在文化財に指定されているものも多く、「熊野堂」/「上土蔵」の二建造物は、国の登録有形文化財となっている。

・・・・・・・・・・・・「熊野堂」は寛政8年(1796)妙定院第3世定観上人により建立。 熊野三社権現を祀る鎮守。 平成18年(2006)に境内南奥より解体修理移築。

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・・・・・・・・・・・・「浄土蔵」は文化8年(1811)妙定院第4世宝観上人により建立。 妙定院の収蔵品を長く伝えてきた。 平成18年(2006)に境内南奥より解体修理移築。

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● 古川に架かる二橋について、、、、古川は新宿御苑の湧水を水源として、渋谷川として渋谷区内を流れ、天現寺橋から古川と名を変え港区内を流れ、新浜橋の下流で東京湾に注ぐ。

・・・・・・・・・・・・まずは芝公園の南西の端に位置する「赤羽橋」、、、、東麻布、三田、芝、芝公園の各町が接するところで、古川に架かる橋。 橋からは北側に東京タワーがよく見える。、、、、橋名の「赤羽」は赤埴(あかはに)で、赤い粘土質の土のこと。土器を作るのに最適な土だ。そのためこの辺りでは土器作りが盛んで、飯倉の交差点はかつては土器町(かわらけまち)といったものだ。、、、、現在の橋は昭和49年(1974)に造られたもの。 南詰には、明治、大正期のものと思われる重厚な親柱が残されている。

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・・・・・・・・・・・・つぎは、赤羽橋の上流に架かる「中之橋」、、、、橋の竣工は大正15年(1926)7月(ただし、上部は昭和60年(1985)3月に架替えられた) 橋の名は、当時、赤羽橋と一之橋の間にあったので中之橋と命名した(判りやすい名付け)、、、、橋の両端にある親柱は、付近の久留米藩有馬屋敷にあった、高さ三丈(約9m)の火の見櫓を模したものである。この火の見櫓は江戸名物の一つで、“日本一の火の見櫓”と言われたそうだ。

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● 中之橋から神明坂を上り、オーストラリア大使館前に出ると、大使館前に浄土宗寺院「永昌山龍原寺」がある、、、、寺は明暦の大火後の再建ということで、弘化3年(1847)に建てられた本堂は土蔵造り。 土壁の上に、腰壁までを洗い出し、上を漆喰で塗り込める仕上げとなっている。 その結果、独特の味わいが出ています。 向拝の龍の天井画は大変珍しい作品であるが、下から見上げただけでは画法・構図が判然としないね。

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● オーストラリア大使館前から日向坂を下ると、麻布通り(=都道415号)「二の橋交差点」にでる。、、、、広い通りは両側にビルばかり、見るべきものも少なく、楽しくない! 歩行リズムは単調に変わる。

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● 都営三田線(東京メトロ南北線)の「白金高輪駅」に到着。 今日はここまで、帰ることにした。

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