チョッピリ木下街道
今朝、散歩に出るとJR総武線が動いていない。 浅草橋駅で動いているのは都営浅草線。 急遽予定を変更し、都営浅草線・京成押上線・京成本線・北総線で鎌ケ谷へ、新京成線に乗り換え鎌ヶ谷大仏へ。 鎌ヶ谷大仏から木下街道を歩いて東武野田線の馬込沢まで。 馬込沢から船橋に出て、JR総武線で浅草橋へ戻る。、、、、歩く楽しさと、7路線にまたがり電車に乗る楽しさも満喫した散歩です。 1万2千歩
・・・・・・・・・・・・木下街道(きおろしかいどう)は、江戸から下利根川方面への最短路として江戸時代に整備された街道。 街道の途中、行徳、八幡、鎌ヶ谷、白井、大森、木下の6か所に宿場がおかれた。 街道は、銚子方面から日本橋の魚市場へと鮮魚を送る道としても重宝された。、、、、今日の散歩は、その一部分、新京成線の鎌ヶ谷大仏駅から、東武野田線の馬込沢駅までを歩いた。
● 朝7時半過ぎ、キティちゃんをイメージさせるピンクと白の電車から「鎌ヶ谷大仏駅」に降り立つ。、、、、駅は昭和24年(1949)1月8日に開業した。 島式ホームを持つ地上駅で、現在は橋上駅舎を有する。 駅名はそのものズバリで、駅前に千葉県道59号市川印西線「木下街道」が走り、駅の近くには古くから鎌ヶ谷宿一帯のシンボルである鎌ヶ谷大仏がある。
・・・・・・・・・・・・駅前の木下街道は車がノロノロ、通勤通学客は駅へゾロゾロ、不慣れな私は車と人を避けオロオロ!
● 駅の斜め向かい側、木下街道に面する墓地の入口奥に、日本一小さいといわれる「鎌ヶ谷大仏」が座している。 鋳造青銅製で高さ1.80m、台座含めて2.30m。、、、、案内文では、『安永5年(1776年)鎌ヶ谷村の豪商福田文左衛門が先祖供養のため作らせました。 伝聞では開眼供養の時には街道約3町(327m)を50人以上の僧侶が音楽に合わせ練り歩き供養したと言われています。 近年奈良や鎌倉の大仏様を想像して来訪される方がその質素なサイズにレプリカと間違われたりしておりますが、駅前に安置されているそれが鎌ヶ谷大仏の本体です。 同墓地内に同じく指定文化財の官軍兵士の墓もあります。 ※現在鎌ヶ谷大仏は福田家個人所有で、大仏がある墓地は当山(延命寺)の管理となっております』
● 駅の北側には、寛永6年(1629)に創建された村社「鎌ヶ谷八幡神社」がある。 神社の長い参道と参道沿いにズラリ並んだ庚申塔が出迎えてくれる。 庚申塔は全部で100基あり、「百庚申」と呼ばれている。、、、、ところで、以前私がこの神社に訪れた時には、木々が鬱蒼と繁っていたが、平成29年(2017)に境内の樹木が伐採されたそうで、大木のない明るい境内となった。
・・・・・・・・・・・・境内の片隅に、庚申塔に道標を記した「庚申道標」がある。、、、、三基ある中央の庚申塔、正面に「青面金剛王」、右側面に「寛政七卯年(1795)」、左側面に「十一月吉日」と刻印され、台座左右にはそれぞれ「東さくら道」「西こがね道」ど書かれている。
● 鎌ヶ谷大仏駅から木下街道をチョイト江戸に向かって歩くと、鎌ヶ谷宿に明治時代に建てられたという「旧旅籠丸屋」が残されている。 鎌ヶ谷宿には、明治初年に旅籠屋が4軒あり、その内の一軒が丸屋。 当時の建物は火事で焼失し、明治30年頃に再建された丸屋。、、、、丸屋は、明治35年にはすでに旅籠としての利用を終え、明治末期に改修された後は、住居として使用され、さらに昭和31年にアパートとして改修され、現在の姿となっています。、、、、令和2年(2020)に国の登録有形文化財に指定された
● 鎌ヶ谷大仏駅から400m程歩くと、鎌ヶ谷大仏を管理するに日蓮宗寺院「延命寺」がある。 寛永年間(1624~1644:江戸時代)に市川中山法華経寺の末寺として建てられた日蓮宗の寺。
● 車の通行量は減ったが、幅の狭い歩きにくい歩道をスタコラサッサ!、、、、途中、戦後に建てられた馬頭観音もある
● 鎌ヶ谷大仏駅と馬込沢駅の中間ぐらい、木下街道から100mぐらい入ったアカシア児童遊園内(鎌ケ谷市東道野辺6)に数基の「鉄道聯隊の橋脚」が残っている。、、、、説明板に次のように記されている『史跡 鉄道連隊橋脚 この橋脚は、昭和初期に旧日本軍の鉄道大隊が、訓練や物資等の輸送のため、建設した鉄道の一部です。近代の戦争では、鉄道は人や物資の輸送のために重要な役割を担っていました。千葉県でも、鉄道大隊から独立した第1鉄道連隊が千葉町(現在の千葉市)に、第2鉄道連隊が津田沼町(現在の新京成新津田沼駅の辺り)に配備され、昭和20年(1945年)第2次世界大戦終了まで活躍しました。この橋脚は、第2鉄道連隊が、大戦中、鉄道を敷く訓練として津田沼~松戸間に設けた路線の一部でしたが、終戦後は放置されていたため、この部分を除くほとんどを京成電鉄が買い受けました。その後、昭和21年(1946年)に京成電鉄の出資により新京成電鉄が設立され、当路線の整備を行いました。しかし、この部分は整備から除かれ、この橋脚だけが残りました。現在の新京成電鉄の全線が、整備を終え開通したのは、昭和30年(1955年)のことでした。平成11年3月 鎌ヶ谷市教育委員会』、、、、戦後75年が過ぎたが、今も残る戦争遺跡、後世に語り継がれるよう祈る
・・・・・・・・・・・・旧陸軍の鉄道連隊橋脚がある公園の北側のマンション付近に、ここが陸軍の敷地である境界を示す「旧日本帝国陸軍の標柱」が残っている。 これも戦争の遺物。
● 木下街道沿い鎌ヶ谷新田郵便局の近くに「清長庵」(寺は山号・院号不明(?))なる小さな寺院がある。、、、、ココの境内に、市内最古の道標である「道標地蔵」がある。 道標を兼ねた地蔵。、、、、木下街道がかつては「かしま道」とも呼ばれていた頃。 この道標地蔵には、次のように各面に道案内が彫られている。 右側面「志゛ん本うみち」(神保道) 正面「ゐんざい見ち」(印西道) 「加志ま道奈里」(鹿島道なり) 左側面 「可ま加゛い道」(釜ケ谷道)、、、、彫が浅く読みづらいが、読める!
● 鎌ヶ谷市から船橋市に入ると馬込十字路交差点がある。 その交差点の手前に「戊辰戦争兵士の墓」(船橋市馬込町913)がある。、、、、慶応4年(1868)は途中の9月に明治に改元されるが、改元前の閏4月3日に、船橋地方は未曽有の大事件に巻き込まれた。 戊辰戦争の局地戦が船橋周辺で起こり、中心街の大半が兵火で焼失させられてしまった。 この戦闘は市川・船橋戦争と称され、4月11日の江戸城明け渡しと、5月15日の彰義隊の上野戦争との中間の時点で起こった。 現在では、戦争の遺跡はわずかに残る戦死者の墓のみで、船橋市では海神念仏堂・宮本了源寺・慈雲寺など7ヶ所にある。、、、、ここ馬込町の墓地もその内の1ヶ所、、、、“兵士”の墓で、有名人の墓ではないらしい、でも合掌。
・・・・・・・・・・・・木下街道の散歩はココまで、馬込十字路交差点から馬込沢駅に向かい裏道を歩く
● 東武野田線の「馬込沢駅」は大正12年(1923)12月27日に法典駅として開業した。 翌年、馬込沢駅に改称。、、、、駅は、相対式ホーム2面2線の地上駅だが、築堤上にホームがあり、その下に改札口がある。、、、、終点の船橋駅まではココから3駅。 東武野田線の中では乗降客の多い駅の一つ。(1日平均乗降客数は約27,000人) ただし、急行は全て通過し、普通のみ停車する。