江北橋通り踏破
江北橋通りの残りの区間(五反野~亀有)を歩いてきた。 1万3千歩
● 朝8時、東武伊勢崎線の「五反野駅」で下車した。 五反野駅は、大正13年(1924)10月1日に開業した駅だが、一日当たりの乗降客は36,000人程と少ない。 駅周辺には、区外から人を呼び込むほどの施設もなく、まさに“地域密着型の駅”。
● 駅から南東に歩き、「西之宮稲荷神社」(足立区足立3)に寄って行く。、、、、西之宮稲荷神社の創建年代は不詳だが、弥五郎新田村(五反野付近の旧地名)には東之宮稲荷、本田之宮稲荷、西之宮稲荷、氷川社があったと言われている。 この西之宮稲荷が当社に該当、明治時代初期には、東之宮稲荷、氷川社とともに本田之宮稲荷の境外社となっていたものの、本田之宮稲荷が荒川放水路河川敷として買収されたため、当社に本田之宮稲荷社を合祀、現在に至っているといいます。 昭和20年(1945)戦災により社殿焼失、同30年(1955)再建。 現在の社殿は平成12年(2000)の造営である。、、、、境内は広くはないが、立派な神社(?)
・・・・・・・・・・・・西之宮稲荷神社から50m程南に「江北橋通り」に出た、『今日は、この道を歩くぞ!』
・・・・・・・・・・・・江北橋通りが東武伊勢崎線と交差するガード脇に、比較的新しい六地蔵を彫った碑がある。 碑には「建碑の疏
」と彫られてる。、、、、謂れは?
● 江北橋通りを東へ歩き西綾瀬3丁目に入ると、江北橋通り沿いに素朴な感じで心和む寺がある。 新義真言宗の「長性寺」で真光山荘厳院と号す。 長性寺は、当地の名主である岡村紀宿元春を開基として寛永元年(1624)に創建した。 本尊は不動明王(立像)。 現在の本堂は大正13年(1924)に建てられた。
● 江北橋通りを通す「五兵衛新橋」で綾瀬川を渡る。 橋から綾瀬川を見ると、周辺の住宅より水面の方が高い! 氾濫すれば、一発でお陀仏、怖い!
・・・・・・・・・・・・長性寺の近くに立つ電柱。 上部の赤いテープ、判るかな?、、、、目の前には「最大5.0m 想定浸水深」の文字!
● 五兵衛新橋を渡り綾瀬4丁目に入ると、大地主のような門構えの住宅がある。 門前には足立区教育委員会の名で、「金子家文書」と記した案内板が立てられている。、、、、この金子家は金子五兵衛(橋名の由来となった人物)の家である。、、、、そして、金子文書とは、新撰組近藤勇が流山で捉えられる前、慶応4年(1868)3月14日から4月1日までの19日間、あの新撰組が、金子家や近くの観音寺に分宿していた。 総勢227人もの大集団で、世情柄精神的な負担や、その世話(経費)などで大層迷惑を蒙った上に、後日明治政府から、強い叱責があったという。 近藤勇らが五兵衛新田の金子家に滞在した事は、その賄方の記録として金子家文書に残っている。 現在近藤勇として一般に知られている袖内に腕組みした写真も、金子家が所蔵しているらしい。
● 江北橋通りを挟み向かい側の足立区綾瀬4丁目に、真言宗豊山派の「観音寺」がある。 観音寺は稲荷山蓮華院と号す。 観音寺は、賢智上人が開山、当地を開拓した金子五兵衛(法名開田院)が開基となり、17世紀初頭に創建された。 本尊は十一面観世音菩薩で江戸時代初期の作。 、、、、、慶応4年(1868)3月には江戸から退却する新撰組の一隊が金子家とこの寺院に宿泊した。、、、、山門は閉ざされており、横の勝手口から入って参拝してきた。 綾瀬駅に近いが静かで落ち着いた雰囲気の寺だ。 庭の手入れが行き届いていて美しく、石仏も多い。
● 江北橋通りに戻り、東へ東へ歩く、、、、綾瀬駅前、東京メトロ千代田線(北綾瀬支線)のガード、下河原公園の庚申塔、常磐線のガード、を通過。 これより、江北橋通りは常磐線の南側(葛飾区)を通ることになる。
● 西亀有3丁目の交差点手前で、江北橋通りに小菅方面からの旧水戸街道が合流する。 その地点には「旧水戸佐倉道」の碑が建てられている。、、、、葛飾区教育委員会が建てた石碑。 旧水戸街道のルートを明示して、“町歩き”、“街道巡り”の活性化につながるといいね。
● 江北橋通りと曳舟川親水公園通りが交差する「道上小学校東交差点」から、環七通りにぶつかるまでの約500mの間は、史跡・石像・モニュメントなどが並んでいる。
・・・・・・・・・・・・まずは、「曳舟古水上橋跡地」、、、、曳舟川親水公園の北端で、曳舟川の橋跡地です。 親水公園はここから四つ木方面へ約3㎞伸びている。
・・・・・・・・・・・・「旧水戸街道 亀有上宿石碑」(亀有1)、、、、亀有上宿町(現:亀有1・2・3丁目の複合域)の北部を西から東に貫いているのが「旧水戸街道」。 現在の江北橋通りである。
・・・・・・・・・・・・続いて「一里塚と水戸黄門」(亀有1)、、、、亀有の一里塚は、千住宿から1里、江戸日本橋から3里に位置する。一里塚は現在地から東へ10mほど先にあり、明治の末頃までは塚の跡が残っていた。 一里塚碑の隣には、助さん・格さんを従えた水戸黄門のモニュメントが建っている。
・・・・・・・・・・・・「上宿七福神」、、、、旧水戸街道(江北橋通り)が拡幅され西亀有から環七を越え、新宿へと続く道も昨年完成した。 沿線の上宿商店会はこれからの更なる発展へと動き出す中で、上宿を中心とした、亀有および葛飾地域のますますの発展を願い、守り神様として商店会内の7つの拠点に七福神を安置し祀ることとした。 亀有1~3丁目の商店の玄関先、植え込み、店の角などに、小さな七福神の石像が置かれている。 七福神を探し歩くと面白い。(私は、全てを見つけてきた!)
・・・・・・・・・・・・「こち亀銅像」は、亀有駅を中心に各所に建立されている、漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の登場人物の銅像群の総称。 駅周辺に15体の像がある。 江北橋通りには2体の像。
● 『ゴール!』 江北橋通りの東端「環七通り」と交わる「亀有二丁目交差点」に着いた。、、、、今日はココまで。
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