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2022年10月

2022年10月29日 (土)

寛永寺

先日、川越の喜多院へ行ってきたので、今日は、喜多院と縁のある上野の寛永寺まで歩いてきた。 浅草橋の我が家から、御徒町、動物園通り、清水坂、寛永寺、輪王寺と歩き、上野駅まで、1万3千歩の散歩です。



● 朝7時過ぎ、我が家に近いコミニティバス「浅草橋駅北」バス停前から歩きはじめる、、、、上野松坂屋前の交差点、人通りは少なく、来日50周年のパンダが見つめてる、、、、車も少ない、ABAB前の交差点(古い人は知っている「赤札堂前の交差点)、、、、上野の山と不忍池の間を抜ける、誰が名付けた「動物園通り」を行く、、、、行く道の右手を見上げれば、明治9年、上野に誕生、フランス料理の「精養軒」、、、、左手に、取り壊される「水月ホテル鴎外荘」(森鴎外旧居跡)、、、、かつて“花園町の白鷺城”といわれた「旧忍旅館」(昭和4年築 木造3階建て)

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● 引き続き、動物園通りから右に折れ、動物園に沿って上がるは「清水坂」(別名:暗闇坂)、、、、坂の上り口に残る煉瓦造りは「旧東京都電池之端変電所」、現在は動物園所有の倉庫、、、、坂を上がると、東隣は東京藝術大学美術学部、南隣は上野動物園ゴリラの檻で、勉強には恵まれた環境にある「東京都立上野高等学校」がある。 ここも都立の名門高校、昔は東大に受かる人がたくさんいたが、現在はチョイト減ってきた!

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● 都立上野高校の北側に隣接するのは、天台宗の「東叡山 寛永寺 護国院」 護国院は寛永寺の子院の一つで、現在の東京国立博物館の右手奥に寛永2年(1625)天海僧正により東叡山が開かれたのと同時に建立さた。 承応2年(1653)・延宝8年(1680)に寺地を西方へ移転し、さらに宝永6年(1709)現在地へ移転した。 本堂は釈迦堂(本尊は釈迦牟尼如来)とも呼ばれ、享保7年(1722)の再建。、、、、三代将軍家光から贈られたと伝えられる大黒天画像は谷中七福神の一つとなっている。 来る正月には「谷中七福神巡り」もいいかもね!

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・・・・・・・・・・ 庫裏の1階部分は、昭和2年(1927)の新築。 東京美術学校(東京藝術大学美術学部)教授岡田信一郎の設計で、昭和初期の住宅建築の風潮を良く伝えており、平成13年(2001)国登録有形文化財に指定された。 岡田信一郎は、旧鳩山一郎邸(大正13年竣工)・旧歌舞伎座(大正13年竣工)等を手がけ、和風建築の設計に手腕を発揮した人物である。

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・・・・・・・・・・ 護国院の玉垣の寄進者として、三遊亭金馬、一龍齋貞丈、三升屋小勝、長谷川一夫など著名芸能人の名が刻まれている。 芸能界とかたい縁があるのかも?

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● 護国院前の道を東に150m程歩くと、東叡山寛永寺の子院である「円珠院」がある。 寛永寺が徳川家によって創建されると、 有力大名は競って上野山内に、 将軍家の法要参列のための装束着替所としての寺院を建立。  これらの寺院は子院(宿坊)と呼ばれ、その数は三十六坊にもなった、円珠院もそのひとつで、承応元年(1652)に創建された。 ここも、護国院と同じように、現在の国立博物館の近くから移転してきた。 元禄10年(1697) に火災で全焼したが、 直ちに長州藩第4代藩主毛利吉廣によって復興した。 その後戊辰戦争の結果、 寛永寺境内が上地され、円珠院境内地も縮小され、 現在は350坪ほどとなった。 しかし山門である総欅造の薬医門はそのまま現在も残されている。

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● 円珠院前から北東へ約200m、寛永寺の正面に出る。 「東叡山 寛永寺」は天台宗関東総本山の寺院。 東叡山寛永寺円頓院と号す。 開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。 徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。(【おまけの説明】 東京芝の増上寺は家康・秀忠の代から菩提寺であったが、家光の代からは寛永寺と増上寺が交互に墓所を造営することとなった)、、、、17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇った。 江戸時代後期には、上野の山の全域が寛永寺であった。 当時の本坊は現在の東京国立博物館付近に、博物館前の大噴水の位置には根本中堂があった。 また36院の支院があった。 慶応4年(1868)の上野戦争で主要伽藍を焼失し、明治以降境内は縮小した。 現在の支院は19院。 現在の寛永寺は、かつて子院だった大慈院の地だ。 大慈院は最後の将軍慶喜が朝廷に恭順の意を表すために謹慎した場所としても知られている。 その部屋は現存しているそうだが、私は見たことがない、残念!

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・・・・・・・・・・ 現本堂「根本中堂」は、明治3年から12年にかけて、川越:喜多院の本地堂が移築されたものである。 寛永15年(1638)の建造といわれる。 間口・奥行ともに7間(17.4m)。 屋根は入母屋造、本瓦葺。 本尊は、伝教大師最澄上人の自刻とされる薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)を秘仏として祀ってる。 

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● 東京国立博物館の裏側(北側)に寛永寺の霊園がある。 そこに「徳川綱吉霊廟勅額門」を見ることができる。 宝永6年(1709)に建立された、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉公(「生類憐みの令」などを施行した迷将軍?)の霊廟の勅額門である。 勅額門とは天皇直筆の額を賜った門のことだが、この門の上には勅額は上がっていない。 額はいずこに?

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・・・・・・・・・・ もうひとつ、こちらは四代将軍「徳川家綱霊廟勅額門」、、、、家綱は、慶安4年(1651)、父:家光の死に伴って、わずか10歳で将軍の座につき、延宝8年(1680)に39歳で没した。 重要文化財、、、、こちらは、霊園から門の内側も見ることができた。 表も裏も変わらんね!

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● 東京国立博物館の周囲を北の寛永寺、東の霊園と回り、南の輪王寺に行く、、、、「輪王寺」は、天台宗寺院であり、山号は東叡山。(今流に言えば、東叡山企業グループ内の輪王寺) 本尊は阿弥陀如来。 一般には通称の「両大師」で知られる。この通称は天海(慈眼大師)と良源(慈恵大師、元三大師)を祀ることに由来する。、、、、輪王寺は東京で唯一の門跡寺院である。 後水尾天皇の第3皇子:一品守澄法親王は、承応3年(1654)に東叡山主の座につき、次いで、翌明暦元年には天台座主となり、東叡、比叡、日光の三山を兼帯した。 世に言う「三山管領宮」の始めである。 更に、翌明暦2年には、守澄法親王に対し、「輪王寺宮」の称号が勅賜された。 ただ、寺としては、江戸時代には輪王寺という寺は存在しない。 上野は寛永寺であり、日光は満願寺であって、その両山の山主が輪王寺宮という訳である。 言い換えれば、“輪王寺”は、宮様個人の称号であった。 しかし、戊辰戦争の結果、最後の輪王寺宮、十五世公現法親王が還俗されたため、輪王寺の称号は一時中絶の止むなきに至った。  やがて、これを惜しんだ、東叡、日光両山からの要請により、明治16年(1883)にこの両山に輪王寺という名の寺が再興され、二年後には門跡寺院としての再興を許された。、、、、寛永寺の開山:天海(慈眼大師、若き頃は川越の喜多院住職であった)は寛永20年(1643)に死去し、翌正保元年(1644)、現:輪王寺の地に天海を祀る開山堂が建てられた。 天海が崇敬する良源(慈恵大師、元三大師、平安時代の僧、天台宗座主)を併せ祀ったことから「両大師」と呼ばれるようになった。  開山堂は慶応4年(1868)の上野戦争では焼け残ったが、平成元年(1989)に火災で焼失した。 現在の本堂は平成5年(1993)に再建されたものである。

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・・・・・・・・・・ 輪王寺境内に「寛永寺旧本坊表門」がある。 切妻造り本瓦葺、潜門付きの薬医門である。通称・黒門。 現在の東京国立博物館の敷地はもと寛永寺本坊であり、その正面にあった門である。 明治15年(1882)東京国立博物館の前身である博物館が上野公園に移転・開館した際にその正門として使用された。 関東大震災の後、博物館改築に伴い現在地に移築された。 国指定重要文化財

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両大師橋を渡り、上野駅から帰る。

2022年10月26日 (水)

蔵造りの町 川越

昨日のニュースで“鰻重を食べる”シーンが放送された、その時私が『美味そうだ、食べたいね!』と一言発した。 一夜明け、朝食中に妻から『今日の昼食は川越?』と、やんわり誘いがかかる。 誘いに弱い私は『よし、食べに行こう!』、、、、と言うことで、今日の散歩は川越の町歩き。 1万7千歩

 

 

● 高田馬場から西武新宿線の特急「小江戸」に乗って、10時半に「本川越駅」に到着。、、、、西武鉄道の本川越駅、東武鉄道の川越市駅、JR東日本の川越駅、3駅とも比較的近い距離にあるが、蔵造りの街並み観光には本川越駅で下車するのが一番“楽”そうだ!、、、、本川越駅は明治28年(1895)3月21日に川越鉄道の川越駅として開業。 現在川越市の中心にある3駅(川越駅・川越市駅・本川越駅)の中では、最も古い駅である。 昭和15年(1940)には鉄道省川越線開業に伴い、駅名を本川越駅に改称した。 【注】川越鉄道は甲武鉄道の子会社であったが、大正11年(1922)に、鉄軌道事業が分離されて西武鉄道の路線となった。、、、、本川越駅は、ショッピングモール「ペペ」やプリンスホテルを併設し、巨大で綺麗で近代的だ、ビックリした。

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● 喜多院に向かう前に、喜多院の南側の一隅に祀られてる「仙波東照宮」へ行く。 徳川初代将軍家康公を祀る、日光・久能山とともに日本三大東照宮のひとつである神社。 現在の社殿(国指定重要文化財)は寛永17年(1640)に完成した。、、、、周囲を壕で囲む築山の上にこじんまりとした社殿がある。 階段上の拝殿前の門は閉められており、隙間からチョイトだけ拝見。、、、、“仙波”とは、この地の山の名“仙波山”に因む。

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● 川越の古刹「喜多院」に参る、、、、まずは、慈恵大師を祀っている「慈恵堂」(本堂)で手を合わせる。 慈恵大師とはこの寺の創始者、平安時代の僧良源です。 良源は今では全国的にはなったおみくじを始めた人といわれている。、、、、現本堂は、川越大火の翌年、寛永16年(1639)に大火以後、いち早く再建された。 堂内は静かで耳をすませば潮の音が聞こえると言われ、「潮音殿」とも呼ばれている。(耳の良い人が居たもんだ!)

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・・・・・・・・・・ 古墳を利用した小高い丘の上に、
慈眼大師天海をまつる御堂「慈眼堂」(国指定重要文化財)がある。 天海僧正は、寛永20年(1643)、寛永寺において入寂した。 正保2年(1645)に家光公の命により、この堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置された。 建物は、桁行3間、梁間3間の比較的小さな堂で、屋根は中央から四方の隅へ流れる宝行造り。、、、、厨子は見えるが、天海像は見えないゾ~~

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・・・・・・・・・・ 3代将軍家光誕生の間春日局化粧の間などが、江戸城から移築されてる。 見学できたが、撮影禁止のため写真なし。 


・・・・・・・・・・ 天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立された全部で538体の羅漢像が、境内の一隅に鎮座している。、、、、一体一体それぞれ動作、表情が異なり、自分に合った像を探すのは一苦労! でも、多くの参拝客は探して楽しんでいた。

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● 時刻は12時、喜多院をあとにして蔵造りの町の中心部に向かって歩くと、本日の散歩の目的地:鰻屋があった! 迷わず入店、迷わず注文、美味しく頂き大満足、幸せになって店を出る!

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● 「大正浪漫夢通り」と称する、蔵造りの町とは一味違う通りに出た! 約200mの通りの両側には、大正時代をイメージしたレトロな店舗がおよそ30軒並んでいる。 この通りはかつてアーケードのある「銀座商店街」であったが、平成13年(2001)頃にリニューアルした。 観光客も集まる通りに生まれ変わったそうだ!

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・・・・・・・・・・ 通りの北端には、ドーリア式の柱が並ぶ重厚な「旧武州銀行川越支店(現:川越商工会議所)」の建物もある。 建物は、高島屋日本橋店などを手掛けた前田健二郎の設計、清水組(現:清水建設)の施工で、昭和2年(1927)に建てられた。 国登録有形文化財、、、、玄関わきの赤いポストは“ワン・ポイント”

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● 蔵造りの街並みの中に、建築家:保岡勝也(やすおかかつや  明治10年~昭和17年)が設計した建物3棟が残っている。 保岡勝也は三菱の丸の内赤煉瓦オフィス街(三菱一号館など)を設計した。

・・・・・・・・・・ まずは、大正7年(1918)に保岡勝也が設計した「第八十五銀行本店(現:埼玉りそな銀行川越支店)」 ネオ・ルネサンス様式の建物で、青緑の塔屋が印象的な銀行建築。 国登録有形文化財、、、、建物は銀行の店舗で、チョイト中には入れない、外から眺めてハイ・ソレマデ~ヨ~

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・・・・・・・・・・ 川越の老舗菓子店「亀屋」の5代目山崎嘉七の隠居邸宅として、大正13年(1924)に上棟された「旧山崎家別邸」 旧山崎家別邸は、約2300㎡の敷地に、和洋折衷の建物と風情ある庭園が印象的だ。 国指定重要文化財、、、、入場料100円で建物内部も公開されており、当時の建築図面など貴重な工事資料も見ることができる。 川越に芋を食べに来たら、必見! 

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・・・・・・・・・・ 三つ目の作品は、蔵造り街並みの表通りに面して建つ「旧山吉デパート」(登録有形文化財)、、、、保岡勝也の設計により昭和11年(1936)に建築された。 昭和39年までは丸広百貨店が使用していた。 現在は保刈歯科醫院として利用されている。、、、、虫歯ができたら行ってみたい歯科だけど。 浅草橋から通うにはチョイト遠い!

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● 旧山崎家別邸から北へ50m程歩くと、大正2年(1913)に建てられたステキな洋風建築の「中成堂歯科医院」がある。 建物は薄緑の外壁でイギリス下見という方法で板を重ね合わせ暖かみを感じる。 敷地は煉瓦塀で囲まれ、チョイト、メルヘンチックだ。 ここは歯医者さん、なんだか安心して診てもらえそうだ!

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● 欽明天皇2年(540)に大宮氷川神社を勧請して分祀奉斎した、川越市役所の北側に位置する「川越氷川神社」に立ち寄った。、、、、神社は“七五三詣り”の家族連れで満員状態。 七五三は11月15日なのだが、最近は親の都合、子の都合、写真屋さんの都合などで、特に日にこだわらず適当に行ってるようだ。 社殿周辺には着飾った親子がお祓い待ちか?、、、、『コリャダメだ! 一般人の参拝はチョイト遠慮しよう!』 我が夫婦は、手を合わせ、早々に立ち去ることにした。(注意散漫、社殿の写真を撮り損ねた、失敗!)

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・・・・・・・・・・ 境内の入り口に大きくそびえ立つ大鳥居は、木製の鳥居としては日本一の大きさ、高さ約15m、平成の大典奉祝行事で建立した。 扁額の文字は勝海舟の筆。

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● 川越観光の目玉『蔵造りの街並み』を歩くため、御存じ蔵造りが並ぶ表通りを、北から南へ歩くことにした。 平日で人出は少ないが、若い人の割合が高い。 どの家も、“芋”を売る、民芸品を売る、漬物を売る、店舗と化した。、、、、女性が好みそうな店ばかり、我が妻もそろそろ出番で、ショッピングを開始!

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● 帰りも、本川越駅から「小江戸」で帰る。

2022年10月23日 (日)

大井の井

JR大森駅から北に歩き、東大井に入り、京急の立会川駅まで、9千歩の散歩です。



● 今年は鉄道開業150年。 京浜東北線の停車場:JR「大森駅」は、鉄道開業4年後の明治9年(1876)にできた駅。 都内では新橋駅、品川駅に次いで3番目に古い駅だ!、、、、島式ホーム1面2線の地上駅。 改札口は中央口と北口の2ヶ所で、それぞれ別々の橋上駅舎内にある。、、、、今日の散歩は大森駅西口から歩くことにした。 大森駅のホーム中央には「日本考古学発祥の地」の石碑がある。 石碑の側面には『E.S.モース発掘100周年記念建立』と書かれ、以下の説明文が続く、『 アメリカの動物学者モース博士が1877(明治10年)横浜より新橋に向かう汽車の窓から 大森貝塚を発見し, これが契機となって日本の考古学が発達しました。 このブロンズは当貝塚出土の土器を約2倍に拡大したものです。 1979年12月 東京大森ロータリークラブ 東京大森ライオンズクラブ 東京都大森貝塚保存会 』、、、、今年が発見から145年目である。

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● 大森駅西口から池上通りを北へ300m程歩くと、NTTデータのビルがある。 ビルの植え込みに、「大森貝墟」碑の約二分の一寸法のレプリカがある。、、、、大森貝墟」碑の実物は、NTTデータ敷地通路奥の階段を下りた先に鎮座する。 早朝の散歩であり、民有地の敷地内に勝手に入るとヤバイので実物はパス。 近くの、品川区立大森貝塚遺跡庭園公園は開園が9時であり、こちらもパス。

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● NTTデータのビルの向かいには「大森山王日枝神社」がある。、、、、大森山王日枝神社は、遠く古のころ、土地の豪族酒井氏が、近江の国比叡山麓にある日吉神社の祭神、山王権現を当地に勧進祭祀したものである。 その後、延宝5年(1677)、円能寺が別当し、明治初年まで同寺の管理下となった。 その頃は『山王権現』又は単に『山王さま』と呼ばれ、この地を山王村と称した。 現在の地名「大田区山王」の由来である。、、、、現在の社殿は昭和28年(1953)の建設。 只今、社殿屋根改修工事中につき、残念ながら足場で覆われてる。、、、、池上通りに面しているが、境内は静かで落ち着いた佇まい。

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・・・・・・・・・・・・大森山王日枝神社とは地続きで、かつて別当であった「成田山円能寺」がある。、、、、円能寺は真言宗智山派寺院で、天正年間(1573~1592)に開創。 現在は成田山新勝寺の末寺となっている。、、、、本堂、斜め前に幼稚園が併設されており、平日はチョイト参拝しにくい雰囲気だ!

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● 池上通りを品川区に入ると、鹿島神社がある。 「大井鹿島神社」(品川区大井6)は、安和2年(969)に常陸の鹿島明神を勧請し創建したと伝えられます。 古くからの祭礼として相撲が奉納されており、当社の相撲は、渋谷氷川神社、世田谷八幡宮とともに江戸郊外三大相撲の一つとされていたそうだ(知らなかった!)、、、、現在の社殿は、設計を日本建築界の権威である帝室技芸員:佐々木岩次郎に、施工を名古屋の名匠:伊藤平左衛門氏に命じ、総工費十数万円で昭和6年(1931)に竣工した。

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・・・・・・・・・・・・また、旧社殿は文久2年(1862)の造営で精巧を極めた鎌倉彫の彫刻が施されており、これを後世に伝えるため境内末社として移設し現存する。、、、、素晴らしい彫刻が残されている、必見!

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・・・・・・・・・・・・鹿島神社の隣りには、別当であった「来迎院」がある。、、、、天台宗寺院の来迎院は、鹿島山常林寺と号す。 安和2年(969)、南品川の常行三昧寺(現、常行寺)の僧により鹿島神社と共に当寺を創建した。

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・・・・・・・・・・・・来迎院の門前、道路を挟んで向かいに「来迎院石造念仏講供養塔」がある。 元来この場所は来迎院の境内であったが、道路建設により、現在のようになった。、、、、石造念仏講供養塔は、江戸時代に行われて念仏講の供養塔です。舟形の二基の塔は、明暦2年(1656)と万治2年(1659)の建立、笠塔婆型の塔は寛文7年(1667)で、いずれも江戸時代初期のものです。 全部で10基の石仏がある。

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● 来迎時の北200m程に、延暦元年(782)、天台宗神宮寺として開創されたと伝えられ、現在は浄土真宗の「光福寺」(品川区大井6)がある。、、、、境内には、幹の周り7.2m、高さ40m、樹齢約800年の大イチョウがある。 垂れた乳もデカイ! 触って撫でると御利益ありそうだ!!

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・・・・・・・・・・・・本堂裏手、墓地の中央に、地名「大井」の由来となった井戸がある。 縁起によれば、名僧了海上人誕生の際の産湯の井戸で、今なお水をたたえてる。

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● 光福寺から道なりに北へ約300m、浄土真宗本願寺派寺院の「西光寺」がある。 西光寺は、栄松山と号し、もと麻布善福寺末。 弘安9年(1268)栄順律師が開創し、後浄土真宗に改宗した。、、、、本堂の正面で枝を伸ばす兒桜(ちござくら)という名木があり江戸名所の一つになっていた。 春の開花が楽しみだ。

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● 東海道線・京浜東北線の下を抜け、大井4丁目と南大井5丁目を結ぶ、歩行者専用の「関道地下道」。 昭和42年(1967)の竣工。、、、、以前は地上に踏切があったと思われる、事故防止のため踏切をなくし地下道にしたのであろう。 車はもちろん、自転車も乗ったままでは通れない地下道。

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● 関道地下道を抜け、東大井3丁目の町に入ると「大福生寺」がある。 天台宗寺院の大福生寺は、明治14年(1881)に宇賀神寶海和尚が目黒不動瀧泉寺を退き、 隠居の寺として日本橋蛎殻町(水天宮の近所)に一寺を建立した。 昭和24年(1949)に現在地へ移転。 東海三十三観音霊場16番札所。、、、、寺か、神社か? 入口の三角形の山王鳥居をくぐると、小さな境内に聖天がある。 御本尊は、大聖歓喜天(聖天さま)で、その他大勢として、十一面観世音、聖観世音、福生稲荷、福生弁財天、福生地蔵尊、宝性地蔵などが勢揃い!

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● 国道15号(=第一京浜)を越えて、京浜急行「立会川駅」まで歩く。、、、、立会川駅は明治37年(1904)5月8日開業。 平成2年(1990)12月2日に上下線が高架駅となる。 ホームは高架相対式2面2線構造で、3階にある(2階は改札階)。 改札口は1所のみ。、、、、大井競馬場まで、徒歩10分。 行きは近いが、負けると遠い!

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2022年10月19日 (水)

上中里~町屋

京浜東北線の上中里駅で下車し、目的地なく気ままに歩き、東尾久の町を抜けて京成本線の町屋駅まで、1万歩の散歩です。



● 上野の方から来ると、田端駅で山手線と京浜東北線は別れ、京浜東北線の次のが「上中里駅」である。 地理的には都心の駅とは言い辛いが、準都心駅である。 しかし、上中里駅の一日平均乗降客数は、東京23区のJR駅としては越中島駅(4,404人/2021年実績)の最下位と競って、ワースト2位(6,157人)である。 今日も、一電車から降りるのは最寄りの女子高生と数人の通勤客、乗るのも10数人ほど、と寂しい。、、、、島式ホーム1面2線の地上駅で、橋上駅舎を有している。、、、、我が家の最寄り駅:浅草橋駅には、エスカレータが設置されてないが、ここ上中里駅にはエスカレータがある。 負けた!

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● 上中里駅は台地の斜面部に造られており、線路・ホームは台地の下、駅舎は台地の上にある。 上中里駅から直線距離で300m程歩き、滝野川女子学園の前から、東北新幹線の高架と京浜東北線の線路の間を抜ける跨線橋「車坂跨線橋」がある。 この跨線橋を渡り、台地を下りると、京浜東北線および東北新幹線と尾久駅を通る上野東京ライン(宇都宮線)に挟まれた上中里2丁目の町がある。 また、ここにはJR東日本尾久車両センター、田端操車場、新幹線車両センターなどがある。 まずは、尾久車両センターと田端操車場の間を歩くことにした。

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・・・・・・・・・・・・車両センターと田端操車場の間(北区上中里2-2付近)に「中里貝塚」がある(現在は埋め戻され、公園として利用されている)。、、、、縄文時代中期から後期(約4600~3900年前)の貝塚で、最大で厚さ4.5m以上の貝層が広がる、縄文時代の海浜低地に形成された巨大な貝塚である。、、、、大正15年(1926)、この地に操車場ができた時は「貝塚操車場」と称したそうだ。

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・・・・・・・・・・・・尾久車両センターと田端操車場を結ぶ「東北回送線 王子街道南亘り踏切

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・・・・・・・・・・・・踏切から50m南に「西新井弘法大師道」の道標がある。 道標に沿って大師道を東に向かうと「第三下田端踏切」を越えて、田端新町3丁目交差点(明治通り)に出た。

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● 荒川区西尾久1丁目に、江戸時代からの尾久の旧家に残る煉瓦造りの蔵がある。 この小柄な蔵は、明治中頃に建てられたそうだ。 震災・戦災を免れ、今日まで残った貴重な建物。、、、、荒川区尾久の隅田川沿いには、明治時代から多くの煉瓦工場があり、煉瓦は舟で東京市内に運ばれ近代化に貢献した。

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● 西尾久一丁目交差点から「尾久本町通り」を歩き「町屋二丁目停留場」の前に出る。、、、、所々に昭和の建物が残る、チョイト寂れた商店街を歩く

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● 「町屋二丁目停留場」から「町屋駅前停留場」までは都電通りを歩く。、、、、都電を見ながらのんびり歩く!

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● 京成本線「町屋駅」から帰宅する、、、、昭和6年(1931)12月19日、京成電気軌道(現・京成電鉄)の町屋駅が開業。 島式ホーム1面2線の高架駅。

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2022年10月15日 (土)

コキアの公園

季節が変わると、TVニュースで必ず放送されるのが、茨城県の国営ひたち海浜公園の花。 春には丘一面を水色に染めるネモフィラの花、秋には紅葉したモコモコのコキアと色とりどりのコスモス。 ニュースでは見慣れてしまった景色だが、一度は訪れてみたいと思っていた。、、、、天気予報では、今日はチョイト曇り空のようだが、今日がみにいくチャンスと思い、急に夫婦で行くことにした。

● 上野から特急「ひたち」で出発! 都内を過ぎた頃、携帯に私たち夫婦の友人(竹馬の友ならぬ、“つくば”の友)から着信。 『今どこ?』 『松戸の手前、江戸川を走る“ひたち”の車中』 『どこへ行くの?』 『夫婦で、ひたち海浜公園』 『俺も行っていい?』 『OK!』?・・・・と、言うことで、車で来る友人とは公園内で待ち合わせ、「国営ひたち海浜公園」に行った。 

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勝田駅では、乗客がゾロゾロ降りる。 おばさんの団体も! 『コリャみんな、公園に行く人かいな?』、、、、駅前のバス停には、臨時の切符売り場が設けられ、どこも行列。 臨時運行のバスがピストン輸送。、、、、バスを運行する「茨城交通」は、今日一日で今月の売り上げを達成すると思われるような利用状況!

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● 公園に到着した! バスから降りた乗客が一斉に入場券売り場、ゲートに向かう。 『思ったほどの混雑ではないね!』(後に判ったのだが、ゲートは公園の周囲に複数か所あるので、自家用車、鉄道(ひたちなか海浜鉄道)などを利用した来園者が分散されたようだ)

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● 入園し友人に電話すると、『もう入園してるよ。 今、大観覧車の前で待ってるよ!』(なんだ、私より早くついてるのか!) 『観覧車なんて見えないぞ!』(私には、広い園内で、観覧車が樹木に隠れ見えなかった)、、、、入場したゲートから観覧車を探し歩いて10分、やっとこさ友人と再会。、、、、まずは、人を探して広さを感じた!

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● 友人の提案で観覧車に乗って、眼下の太平洋を眺めながら、目的のコキアの丘を探す。 遠くに、赤く染まる丘を見つける。 『あそこまで行くのか、遠そうだな!』、、、、これまた、公園の広さを感じた。

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● この広い公園、さすがに“国営”だ! この園内、くまなく歩いたら足がもたない! 目的のコキアとコスモスに重点を置き園内を歩く。

・・・・・・・・・・まずは、コスモス。 園内にはなん十種ものコスモスが咲いているらしい。、、、、私が知ってるコスモスはピンクの一種類だけ。 あとは、山口百恵の秋桜(コスモス)だ! 

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・・・・・・・・・・これもコスモス。 シックな色、上品で理知的な花、なぜか私にピッタリ、気に入った!!

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・・・・・・・・・・「大草原」と名付けられた、芝生の広場を横切る。、、、、ここでも大草原の名にふさわしい広さを感じる。

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● コキアが赤く染まる「みはらしの丘」に到着。、、、、ニュースで見た、あのモヨモヨ感、コキアの毛(?)で腹をくすぐってみたくなるね!、、、、丘の上から眺めると、見渡す限り公園、改めて広さを実感、広い!、、、、丘のテッペンには多くの人が、満員ですね

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● 広い公園だ! 車で来た友人は、駐車場に戻るゲート名を忘れた。 大変だ!間違ってゲートを出ると、二度と入れない。 頼りになるのは、公園の係員、親切に駐車券を調べ、出口のゲート名を教えてくれて一件落着。

 


● 帰りは、友人の車で「つくば駅」まで送ってもらい、楽しく過ごせた礼を言い、帰宅。、、、、帰宅後、私の万歩計は1万8千歩、妻の万歩計は1万6千歩、約1割の差。 今日も、自分の足の短さを実感!

2022年10月11日 (火)

東急多摩川線

蒲田駅から東急多摩川線に沿って、終点駅の蒲田駅からスタートし、各駅に立ち寄りながら起点駅の多摩川駅まで歩いて来た。 久しぶりに1万6千歩の散歩。

東急多摩川線・・・・・起点の多摩川駅と終点の蒲田駅を結ぶ、5.6㎞、7駅(起終点駅を含む)の比較的短い路線。 線路は多摩川に沿い、全区間が大田区内に所在位する。、、、、東急多摩川線の歴史は、大正12年(1923)の目蒲線(目黒~蒲田間)開通に始まる。 平成12年(2000)に、多摩川~蒲田間を分離し、東急多摩川線に改称するまで、目蒲線として親しまれてきた。(目黒~多摩川駅間は目黒線となり、目蒲線は消滅した)

注・注・蛸かいな!、、、、「東急多摩川線」は正式な路線名である。 必ず“東急”を冠すること。 単に“多摩川線”と言うと、「西武多摩川線」と混同するから。 また、過去には「玉川線」、「新玉川線」が実在し、こちらとも区別するため。、、、、ただし、駅・車内などの東急電鉄内では“東急”をはずし、「多摩川線」と称することもある。



● 東急電鉄の「蒲田駅」はJR蒲田駅と直結し、乗換は便利である。、、、改札を入ると頭端式ホーム5面4線を有する高架駅である。 ホームは池上線と東急多摩川線がそれぞれ2線ずつ使用している。、、、、駅の歴史は、、、大正11(1922)10月6日、池上電気鉄道線(現:池上線)が蒲田~池上駅まで開通。大正12年(1923)11月1日 、目黒蒲田電鉄目蒲線(現:東急多摩川線)が蒲田~沼部駅まで開通。 昭和10年(1934)には目黒蒲田電鉄が池上電気鉄道を吸収合併したことに伴い、池上線から目蒲線への連絡線が設置される。 昭和43年(1968)東急の蒲田駅が高架化され、頭端式5面4線化され池上線・目蒲線ホームが現在の形になる。、、、、多摩川線の発着は概ね1時間に10本程度と、頻発してるので待ち時間でイライラすることは少なそうだ!

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・・・・・・・・・・駅の高架下は、居酒屋がしっかりとかため、約60軒の店舗の呑み屋街「東急駅前通り会」だ、通称「バーボンロード」。 暗くなると歩いて見たくなる横丁だ!  

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・・・・・・・・・・高架駅2階から地上に下って来る!(写真:右側2線が東急多摩川線、左側2線は池上線、正面は蒲田駅)

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・・・・・・・・・・地上に下った先で、池上線(写真右へ向かう2線)と東急多摩川線(左側を直進する2線)は別れる。

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・・・・・・・・・・東急多摩川線には主として7000系の車両が運用されている。 (池上線と共用)

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● 蒲田駅の次は「矢口渡駅(やぐちのわたしえき)」、、、、大正12年(1923)11月1日の目蒲線全通時に開業。 この時同時に開業した途中駅は次の武蔵新田駅だけで、鵜の木駅と下丸子駅は数ヶ月ほど遅れて開業した。 相対式ホーム2面2線の地上駅。 上下ホームは完全分離されていて、駅舎・改札も別々。、、、、駅名になっている「矢口の渡し」とは、昭和24年(1979)まで存在した多摩川の渡船だ。 ♪♪ 夕ぐれの雨が降る 矢切の渡し 親のこころに そむいてまでも 恋に生きたい 二人です ♪♪ の「矢切の渡し」は江戸川、間違いないで!

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・・・・・・・・・・東急多摩川線は国道1号(=第二京浜)を越える。 国道を過ぎると、線路は下り、再び地上に戻る。

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● 三番目の駅は「武蔵新田駅(むさしにったえき)」、、、、1923年(大正12年(1923)11月1日 、新田駅として開業し、翌年に武蔵新田駅に改称。、、、、駅の構造は矢口渡駅と似て、相対式ホーム2面2線の地上駅で、駅舎・改札も上下別々。、、、、駅名の“新田”は、ご近所の「新田神社」に由来する。 “武蔵”は東京(武蔵国)を示す。

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・・・・・・・・・・線路脇を歩く

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● 四番目は「下丸子駅(しもまるこえき)」、、、、東急多摩川線の中間駅の中では最大の乗降客数を誇る駅。 一日当たりの乗降客数は3万5千人を超える(駅から500m程の処にキャノン本社があり、電車通勤の社員が多いのかも?)、、、、駅は大正13年(1924)5月2日の開業。 相対式ホーム2面2線の地上駅。 ここも、上下線別々にホーム、駅舎、改札がある。 かつて下丸子駅には、構内踏切があり、改札は一か所であった。

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・・・・・・・・・・下丸子駅と次の鵜の木駅間は最も短い0.6㎞、駅間で最も長いのは蒲田駅~矢口渡駅間で1.3㎞。

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● 五番目の駅は「鵜の木駅(うのきえき)」、、、、下丸子駅に似たデザインの鵜の木駅は、相対式ホーム2面2線の地上駅で、こちらも上下線別々の改札となっている。、、、、大正13年(1924)2月28日に目蒲線の鵜ノ木駅として開業、、、、駅名の“鵜の木”は古くからの地名で、この付近一帯は昔、鵜が非常に多く住み着いており、豊かな森が広がっていたことから、「鵜ノ森」と呼ばれていた。 その「鵜ノ森」が「鵜ノ木」と変化したそうだ。

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・・・・・・・・・・鵜の木駅から次の沼部までは長い直線区間。 沼部駅の手前では、東海道新幹線・横須賀線の下を抜ける。

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● 六番目の駅は「沼部駅(ぬまべえき)」、、、、大正12年(1923)3月11日に目黒蒲田電鉄の丸子駅として開業。 翌大正13年(1924)、武蔵丸子駅に改称し、さらに大正15年(1926)、沼部駅に改称。 沼部駅も、これまでの駅と同様で、相対式ホーム2面2線の地上駅。 改札も上下線別々。、、、、“沼部”は駅所在地の旧字名

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・・・・・・・・・・駅の北側に真言宗智山派寺院の「東光院」がある。 有慶山と号す、、、、開創の年代は不明だが、文禄3年(1594)頃に創立されたと推察される。、、、、東光寺の山門脇から北西の国道2号(=中原街道)まで道路に沿って、江戸時代に灌漑用水路として造られた「六郷用水」が復元されている。 現在は親水公園のように整備され、水が流れ、コイが泳ぎ、亀が首を出している。

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● 東急多摩川線の起点駅「多摩川駅(たまがわえき)」に到着、、、、線路名称上で当駅に乗り入れているのは、東横線と東急多摩川線の2路線である。ただし東横線には、田園調布駅~日吉駅間の複々線を利用して、東横線の列車と目黒線の列車も乗り入れており、それぞれ別路線として案内されている。そのため、当駅は東横線・目黒線・東急多摩川線の3路線の接続駅として案内されている。  駅の歴史は、大正12年(1923)3月11日の目黒蒲田電鉄・目黒~丸子駅(現:沼部)間開通と同時に多摩川駅として開業した。 大正15年(1926)には、駅名を丸子多摩川駅に改称し、さらに昭和6年(1931)に近くにある「多摩川園遊園地」の名前を取って駅名を多摩川園前駅に改称。 まだまだ、昭和52年(1977)に駅名を多摩川園駅に改称。 そして、平成12年(2000)に、目蒲線が目黒線+東急多摩川線に分割されるとともに、駅名を再び「多摩川駅」に改称。、、、、東横線ホームの高架化、目蒲線ホームの地下化は平成8年(1996)に工事が完了。 現在は、東横線と目黒線が使用する1~4番線ホームは高架島式2面4線構造。 外側を東横線、内側を目黒線が使用する。 東急多摩川線は地下の5・6番線ホームを使用、島式1面2線構造である。

・・・・・・・・・・2階は東横線・目黒線、東急多摩川線は地下。

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・・・・・・・・・・東急多摩川線の田園調布寄りのホームに立つと、線路は地上に向かって伸びている、目黒線と東急多摩川線の線路はつながっているのだ! この部分を走る定期列車はないので、回送用の線路か?

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・・・・・・・・・・・・地下ホームから顔を出す東急多摩川線蒲田行き!

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2022年10月 8日 (土)

かっぱ橋道具まつり

この頃は、三連休になると空は雨模様。 今日は『つかの間の晴れ間』である。 玄関に花を活ける花瓶が欲しく、昼食後、夫婦でブラリ『かっぱ橋 道具まつり』に行ってみた。 まつりの情報はブログの読者の方から事前に頂いており、花瓶を安く買うことに期待し、今日の晴れ間がチャンスと飛び出した! 1万歩



● まずは、合羽橋道具街の入口脇にある「東本願寺」に寄って『いい花瓶を買えますように、阿弥陀さま、よろしく』。

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● 花瓶の他にも、敷き物、湯飲みなども求め、かっぱ橋道具街を歩く。、、、、どこの店も人・人・人!

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● 『かっぱ橋 道具まつり』は明後日(10/10)まで、皆さんも傘を持参し、行ってみよう!

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● 妻は気に入った花瓶には遭遇できず残念(しかし、その他の物はシッカリ購入)、「かっぱ橋道具街」と直交する「かっぱ橋本通り」を歩いて、浅草寺経由で帰宅。

2022年10月 1日 (土)

城下町 佐倉

青空の下、夫婦で城下町「佐倉」の町歩きをしてきた。 京成本線の京成佐倉駅で下車し、散策のスタート。 佐倉城址にたつ国立歴史民俗博物館、佐倉武家屋敷を見学。 佐倉の町を縦断して、佐倉順天堂記念館を見る。 佐倉藩主の邸宅である旧堀田邸にも立ち寄って、ゴールはJR佐倉駅。、、、、約5時間の町歩きです。



● 佐倉の城下町は、町の北側を走る京成本線と町の南側を走るJR総武本線に挟まれた、南北約1.8㎞の間にある。 今日の町歩きは「京成佐倉駅」からスタートする。、、、、大正15年(1926)12月9日、「佐倉駅」と称し開業。 昭和6年(1931)、「京成佐倉駅」に改称。 島式ホーム2面4線の地上駅で、橋上駅舎を有している。 佐倉市の玄関口となる駅だが、駅自体はさほど大きくはない。 駅前には広い大きなロータリーがあるが、周囲には大きな建物もなく閑散としている。、、、、城下町「佐倉」を大々的にうたい、駅前をもう少し整備して観光客を誘致すれば賑やかになるかも?

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・・・・・・・・・・・・京成佐倉駅の橋上駅舎から西を見ると、線路の先、緑の丘の上に何やらコンクリートの構造物(写真のど真ん中)が見える。 これぞ、われらの目的地:国立歴史民俗博物館。

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・・・・・・・・・・・・駅からの道すがら、民家の屋根の先に“歴博”の文字!

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・・・・・・・・・・・・国立歴史民俗博物館への道に面し、茅葺屋根の建物

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● 駅から歩いて15分、佐倉城址がある。 佐倉城は石垣のない城で、小高い丘の上にあり城の周囲には土塁が巧みに配されていた。 博物館はその丘の上の城跡に建てられている。 

国立歴史民俗博物館」は日本の歴史、民俗学、考古学を総合的に研究・展示する歴史博物館。 展示総件数は約9千件、収蔵資料件数は約22万件。、、、、明治時代から東京、京都、奈良の3か所に美術系の博物館である帝室博物館が存在したが、戦後、これらとは別に歴史系の国立博物館を設置すべきだとの意見があり、日本政府は昭和41年(1966)に「明治百年」記念事業の一環として歴史民俗博物館の設置を決定した。 国の機関としての国立歴史民俗博物館は昭和56年(1981)に発足した。、、、、博物館の設計は芦原建築設計事務所が行い、昭和55年(1980)10月竣工。 敷地面積129,496m2、延床面積35,548m2、建築面積17,124m2。周辺は佐倉城址公園として整備された。 建物はなにしろデカイ! しかも丘の上にあるため、建物の全体像が目に入らず、巨大な要塞に訪れた感じがする。 城址の下から坂を上がってきても、見えるのは建物の一部だけ!

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・・・・・・・・・・・・大人600円の入館料を払い中へ。 6室に別れた展示室を順に回る。 全室見るのに、早足で、展示物を横目で見て、つまらないのはパスしても、ナント2時間!(足が痛くなるね)  展示物が多すぎる! 入館料600円分は十分堪能、最高のコスパ! 入館者より館員の多いことにもビックリ!、、、、展示物の人形は気持ち悪くなるほどのリアルさ! 模型は大きく模型愛好者には大いに参考になる!

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● 佐倉城址公園と武家屋敷の間にある、竹林の中を歩く坂道。 「ひよどり坂」と称し、江戸時代に武士が登城する道だったらしく、「サムライ古径」とも呼ばれている。 竹林は手入れも良くされており、階段も歩きやすい! 階段を上がると武家屋敷がある。、、、、京都の竹林とは違い、観光客も少ないようで、ゆっくりのんびり歩ける。(ちなみに、我が夫婦以外には歩く人無し!)

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● ひよどり坂を上ると、江戸時代の数棟の「武家屋敷」が並んでいる。 並んで残っている三棟の武家屋敷は、いずれも2DKの間取り程で、質素な造り、江戸城の周囲に残る大名の武家屋敷とは月とスッポン、提灯に釣鐘、雲泥の差。 華美を排した佐倉の武士の心意気かも!

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● 佐倉の町のほぼ中央に残る「旧川崎銀行佐倉支店」(現:佐倉市立美術館)は、大正7年(1918)の建築。 昭和12年(1937)、この建物は佐倉町に売却され、佐倉町役場となった。、、、、現在は、佐倉市、房総地区ゆかりの作家の作品を集めた市立美術館の一部として活用してる。

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・・・・・・・・・・・・旧川崎銀行佐倉支店前の通りは旧成田街道。 旧街道沿いには歴史のありそうな建物も残っている。

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● 旧川崎銀行から東に1.5㎞程歩くと「佐倉順天堂記念館」がある。 佐倉順天堂は佐倉藩主堀田正睦の招きを受けた蘭医佐藤泰然が天保14年(1843)に開いた蘭医学の塾兼診療所。 西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ、佐藤尚中(後に、東京で順天堂医院を開く。順天堂大学の前身)をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出した。 現在、安政5年(1858)に建てられた建物の一部が残っています。 記念館では、当時の順天堂で用いられていた医学書や医療器具(骨を切るノコギリ、止血用の焼きごて)などを展示しています。、、、、ノコギリで切られ、焼きごてで止血される外科手術は痛そうだ! 私が患者なら、手術台を見て失禁し、手術台の上で失神し、手術終れば失敗だ! 

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・・・・・・・・・・・・記念館の隣りには「佐倉順天堂醫院」がある。、、、、順天堂の創始者である佐藤泰然先生の子孫の方が、ここで病院を経営しているそうだ。 佐藤家が“順天堂”を引き継ぎ、守っているのかも!

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● 順天堂記念館から南西に約1㎞、明治23年(1860)に竣工した最後の佐倉藩主:堀田正乱倫の邸宅であった「旧堀田邸」(国指定重要文化財)も見学。 明治期の旧大名の邸宅、伝統的和風建築である。 建設工事は明治22年(1889)着工、翌23年に竣工している。 、、、、木造平屋建て(一部二階建て)の建物5棟(玄関棟、座敷棟、居間棟、書斎棟・湯殿)が廊下で結ばれている大きな和風住宅。 私が数えると、「××の間」と呼ばれる部屋数だけでも20部屋程度、「雪隠」は6ヶ所もある。 往時の旧堀田邸は約3万坪の広さがあったそうだ、羨ましいね!

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● 疲れた足で、JR総武本線「佐倉駅」に到着。、、、、1894年(明治27年)7月20日:総武鉄道の市川駅 - 当駅間開業により開設。 1907年(明治40年)9月1日:総武鉄道が買収され、帝国鉄道庁の駅となる。 佐倉駅は、総武本線を建設した私鉄である総武鉄道により、明治27年(1894)7月20日に開設された。 高台の上にある市街地とは約1㎞離れた位置に駅があり、地元が鉄道建設に反対したためにやむなく隣村の根郷村六崎の田んぼの中に駅が建設されたそうだ。、、、、京成佐倉駅より駅舎は立派!

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● 今日の散策は1万9千歩であった。 同行した妻は1万7千歩。 同じ万歩計で計っているのに、私の歩数は妻の歩数より約1割アップ。 先日、桐生に出かけた時も同じ現象で、私の方が1割ほど多い。 妻の身長155㎝、私の身長165㎝。 身長の大きな私の方が、当然歩幅も大きいはず! 何か変だ?、、、、結論妻曰く『計測に誤りなし。 単に歩幅が短いだけ。』 私『身長が高く、歩幅が短ければ、短足ということか!』(残念だが、カッコ悪いね!) 

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