寛永寺
先日、川越の喜多院へ行ってきたので、今日は、喜多院と縁のある上野の寛永寺まで歩いてきた。 浅草橋の我が家から、御徒町、動物園通り、清水坂、寛永寺、輪王寺と歩き、上野駅まで、1万3千歩の散歩です。
● 朝7時過ぎ、我が家に近いコミニティバス「浅草橋駅北」バス停前から歩きはじめる、、、、上野松坂屋前の交差点、人通りは少なく、来日50周年のパンダが見つめてる、、、、車も少ない、ABAB前の交差点(古い人は知っている「赤札堂前」の交差点)、、、、上野の山と不忍池の間を抜ける、誰が名付けた「動物園通り」を行く、、、、行く道の右手を見上げれば、明治9年、上野に誕生、フランス料理の「精養軒」、、、、左手に、取り壊される「水月ホテル鴎外荘」(森鴎外旧居跡)、、、、かつて“花園町の白鷺城”といわれた「旧忍旅館」(昭和4年築 木造3階建て)
● 引き続き、動物園通りから右に折れ、動物園に沿って上がるは「清水坂」(別名:暗闇坂)、、、、坂の上り口に残る煉瓦造りは「旧東京都電池之端変電所」、現在は動物園所有の倉庫、、、、坂を上がると、東隣は東京藝術大学美術学部、南隣は上野動物園ゴリラの檻で、勉強には恵まれた環境にある「東京都立上野高等学校」がある。 ここも都立の名門高校、昔は東大に受かる人がたくさんいたが、現在はチョイト減ってきた!
● 都立上野高校の北側に隣接するのは、天台宗の「東叡山 寛永寺 護国院」 護国院は寛永寺の子院の一つで、現在の東京国立博物館の右手奥に寛永2年(1625)天海僧正により東叡山が開かれたのと同時に建立さた。 承応2年(1653)・延宝8年(1680)に寺地を西方へ移転し、さらに宝永6年(1709)現在地へ移転した。 本堂は釈迦堂(本尊は釈迦牟尼如来)とも呼ばれ、享保7年(1722)の再建。、、、、三代将軍家光から贈られたと伝えられる大黒天画像は谷中七福神の一つとなっている。 来る正月には「谷中七福神巡り」もいいかもね!
・・・・・・・・・・ 庫裏の1階部分は、昭和2年(1927)の新築。 東京美術学校(東京藝術大学美術学部)教授岡田信一郎の設計で、昭和初期の住宅建築の風潮を良く伝えており、平成13年(2001)国登録有形文化財に指定された。 岡田信一郎は、旧鳩山一郎邸(大正13年竣工)・旧歌舞伎座(大正13年竣工)等を手がけ、和風建築の設計に手腕を発揮した人物である。
・・・・・・・・・・ 護国院の玉垣の寄進者として、三遊亭金馬、一龍齋貞丈、三升屋小勝、長谷川一夫など著名芸能人の名が刻まれている。 芸能界とかたい縁があるのかも?
● 護国院前の道を東に150m程歩くと、東叡山寛永寺の子院である「円珠院」がある。 寛永寺が徳川家によって創建されると、 有力大名は競って上野山内に、 将軍家の法要参列のための装束着替所としての寺院を建立。 これらの寺院は子院(宿坊)と呼ばれ、その数は三十六坊にもなった、円珠院もそのひとつで、承応元年(1652)に創建された。 ここも、護国院と同じように、現在の国立博物館の近くから移転してきた。 元禄10年(1697) に火災で全焼したが、 直ちに長州藩第4代藩主毛利吉廣によって復興した。 その後戊辰戦争の結果、 寛永寺境内が上地され、円珠院境内地も縮小され、 現在は350坪ほどとなった。 しかし山門である総欅造の薬医門はそのまま現在も残されている。
● 円珠院前から北東へ約200m、寛永寺の正面に出る。 「東叡山 寛永寺」は天台宗関東総本山の寺院。 東叡山寛永寺円頓院と号す。 開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。 徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。(【おまけの説明】 東京芝の増上寺は家康・秀忠の代から菩提寺であったが、家光の代からは寛永寺と増上寺が交互に墓所を造営することとなった)、、、、17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇った。 江戸時代後期には、上野の山の全域が寛永寺であった。 当時の本坊は現在の東京国立博物館付近に、博物館前の大噴水の位置には根本中堂があった。 また36院の支院があった。 慶応4年(1868)の上野戦争で主要伽藍を焼失し、明治以降境内は縮小した。 現在の支院は19院。 現在の寛永寺は、かつて子院だった大慈院の地だ。 大慈院は最後の将軍慶喜が朝廷に恭順の意を表すために謹慎した場所としても知られている。 その部屋は現存しているそうだが、私は見たことがない、残念!
・・・・・・・・・・ 現本堂「根本中堂」は、明治3年から12年にかけて、川越:喜多院の本地堂が移築されたものである。 寛永15年(1638)の建造といわれる。 間口・奥行ともに7間(17.4m)。 屋根は入母屋造、本瓦葺。 本尊は、伝教大師最澄上人の自刻とされる薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)を秘仏として祀ってる。
● 東京国立博物館の裏側(北側)に寛永寺の霊園がある。 そこに「徳川綱吉霊廟勅額門」を見ることができる。 宝永6年(1709)に建立された、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉公(「生類憐みの令」などを施行した迷将軍?)の霊廟の勅額門である。 勅額門とは天皇直筆の額を賜った門のことだが、この門の上には勅額は上がっていない。 額はいずこに?
・・・・・・・・・・ もうひとつ、こちらは四代将軍「徳川家綱霊廟勅額門」、、、、家綱は、慶安4年(1651)、父:家光の死に伴って、わずか10歳で将軍の座につき、延宝8年(1680)に39歳で没した。 重要文化財、、、、こちらは、霊園から門の内側も見ることができた。 表も裏も変わらんね!
● 東京国立博物館の周囲を北の寛永寺、東の霊園と回り、南の輪王寺に行く、、、、「輪王寺」は、天台宗寺院であり、山号は東叡山。(今流に言えば、東叡山企業グループ内の輪王寺) 本尊は阿弥陀如来。 一般には通称の「両大師」で知られる。この通称は天海(慈眼大師)と良源(慈恵大師、元三大師)を祀ることに由来する。、、、、輪王寺は東京で唯一の門跡寺院である。 後水尾天皇の第3皇子:一品守澄法親王は、承応3年(1654)に東叡山主の座につき、次いで、翌明暦元年には天台座主となり、東叡、比叡、日光の三山を兼帯した。 世に言う「三山管領宮」の始めである。 更に、翌明暦2年には、守澄法親王に対し、「輪王寺宮」の称号が勅賜された。 ただ、寺としては、江戸時代には輪王寺という寺は存在しない。 上野は寛永寺であり、日光は満願寺であって、その両山の山主が輪王寺宮という訳である。 言い換えれば、“輪王寺”は、宮様個人の称号であった。 しかし、戊辰戦争の結果、最後の輪王寺宮、十五世公現法親王が還俗されたため、輪王寺の称号は一時中絶の止むなきに至った。 やがて、これを惜しんだ、東叡、日光両山からの要請により、明治16年(1883)にこの両山に輪王寺という名の寺が再興され、二年後には門跡寺院としての再興を許された。、、、、寛永寺の開山:天海(慈眼大師、若き頃は川越の喜多院住職であった)は寛永20年(1643)に死去し、翌正保元年(1644)、現:輪王寺の地に天海を祀る開山堂が建てられた。 天海が崇敬する良源(慈恵大師、元三大師、平安時代の僧、天台宗座主)を併せ祀ったことから「両大師」と呼ばれるようになった。 開山堂は慶応4年(1868)の上野戦争では焼け残ったが、平成元年(1989)に火災で焼失した。 現在の本堂は平成5年(1993)に再建されたものである。
・・・・・・・・・・ 輪王寺境内に「寛永寺旧本坊表門」がある。 切妻造り本瓦葺、潜門付きの薬医門である。通称・黒門。 現在の東京国立博物館の敷地はもと寛永寺本坊であり、その正面にあった門である。 明治15年(1882)東京国立博物館の前身である博物館が上野公園に移転・開館した際にその正門として使用された。 関東大震災の後、博物館改築に伴い現在地に移築された。 国指定重要文化財
● 両大師橋を渡り、上野駅から帰る。
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