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2022年11月

2022年11月27日 (日)

大雄院は住宅か?

「東叡山 寛永寺 護国院」→「神齢山 悉地院 護国寺」→「護国山 天王寺」→「海福山 天王院 正圓寺」→「天王山 淵富院 正光寺」→「瑠璃山 正光院」→「正光山 大雄寺」と、山院寺号のつながりで寺院巡りをしてきた。 今日は“大雄院”を探し、参拝することにした。、、、、“大雄院”は日本全国に6ヶ寺ある。 中でも、臨済宗大本山妙心寺塔頭の大雄院(京都市)、曹洞宗の天童山大雄院(茨木県日立)は有名処。 他には、群馬県桐生市に曹洞宗の大雄院が、福井県大野市に日蓮宗の大雄院が、大阪府吹田市に曹洞宗の大雄院があり、残る1ヶ寺は東京都港区愛宕にある真言宗の大雄寺。、、、、住所を調べ、地図で場所を確認すると、愛宕山の階段下だ! 『ヨシ、今日の散歩は大雄寺から、愛宕山の放送博物館へ行ってみよう』



● 
今日は日曜、夫婦で散歩。 浅草橋から都営浅草線で、7駅目、所要15分、「大門駅」で下車。、、、、ここから、大雄院に寄り、愛宕山へ向かう。

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● 大門駅からチョイト西へ歩くと「芝大神宮(芝神明宮)」、2年ぶりに手を合わせて行こう!、、、、芝大神宮の氏子域に江戸町火消し「め組」が含まれる。 文化2年(1805)、境内で起こった「め組の喧嘩」の舞台はココ。 今日は喧嘩も見られず、穏やかに参拝する。、、、、芝大神宮は伊勢神宮の祭神、天照大御神(内宮)と豊受大神(外宮)の二柱を主祭神とする。 平安時代の寛弘2年(1005)一条天皇の御代に創建された。 古くは飯倉の地にあって「飯倉神明宮」、現在地に移って「芝神明宮」と称す。 鎌倉時代は源頼朝の篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代においては徳川幕府の篤い保護の下に神社は賑わい、「関東のお伊勢様」として多くの庶民信仰を集めた。、、、、現在は狭い土地の有効利用のため、1階の駐車場の上に境内がある。 階段はキツイ!

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・・・・・・・・・・ 鳥居の左脇に「生姜塚」がある、、、、境内の井戸水が眼病に効くといわれ、眼の悪い人たちが、祭利の日に門前で参拝者に売ったことに始まるという。 この生姜は社殿鎮座当時、周辺に生姜畑があったところから神前に供えられもので、根が大きいので「根っかち生姜」とも呼ばれる。 「神社から出る生姜を食せぱ風邪を引かない」といわれている。 現在は、神社で「生姜飴」が売られてる。

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・・・・・・・・・・ 鳥居の右脇には「貯金塚」がある、、、、近隣地に現在のりそな銀行の前身の一行であった「不動貯蓄銀行」を設立し、貯金王と称された牧野元次郎の偉業を称え、昭和32年(1957)、貯金塚(碑文は武者小路実篤筆)が建立された。 以後、毎年、貯蓄・貯金の加護祈請を執行している。、、、、関東大震災の混乱時、どこの銀行も貯金を下ろさせなかった事態が起きていたが、ただ一軒「不動貯金銀行」だけが貯金の全額を払い戻し、多くの人々を助けたことは伝説となっている。 碑文には『倉は焼けても 貯金は焼けぬ 』(ごもっとも!)

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・・・・・・・・・・ 芝大神宮の北側には、昭和50年(1975)頃まで「芝神明花街」として三業地が存在していた。 大正時代には料亭40軒以上、芸妓120名以上で花街の全盛だったそうだ。、、、、今は、当時を語る建物もほとんど消えてしまった、残念だ!

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芝公園の紅葉を眺めながら、愛宕山へ向かう、、、、都心の紅葉は今が見ごろかも

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● 愛宕神社に到着。 赤い鳥居をくぐると、講談「寛永三馬術・曲垣平九郎」で有名な、男坂の石段「出世の階段」がある。 途中に踊り場なし、一気に上る86段の石段はチョイト怖い!、、、、愛宕山は正しくは桜田山。 愛宕神社が勧請されてから通称「愛宕山」と呼ばれるようになった。 山頂の愛宕神社境内には三角点があり、25m7㎝の標高が記録されている。 天然の山としては23区内最高峰。 山手台地より高い。 江戸時代から武士たちの間で篤く信仰され、山頂からの江戸市街の景観は素晴らしいものだったそうだ。

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・・・・・・・・・・ 出世の階段の上り口左際に住宅風の建物がある。 ここぞ本日の散歩の目的地「大雄院」 門柱には「道了大菩薩奉安所 真言宗 大雄院 大日本和合会」という表札がかかっている。 真言宗霊雲寺派の布教所らしい、宗教法人としての登録もなされており寺院である。 とりあえず、山院寺号つながりの「大雄院」を制覇した。、、、、誰に訊ねることもなく静かに写真を撮って去る

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・・・・・・・・・・ 階段を上り「愛宕神社」に参る、、、、多くの参拝客が並んでる。 皆さん出世の御利益を期待してか? 私は、年末ジャンボ10億円を期待して、夫婦で200円の賽銭を入れる。、、、、愛宕神社は京都の愛宕神社が総本社である。 防火・防災に霊験のある神社として知られる。 慶長8年(1603)、徳川家康の命により創建された。

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● 愛宕神社に参ったあとは、隣りの「NHK放送博物館」の見学。、、、、無料で楽しめる放送の歴史、懐かしくもあり、時を忘れる!

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● 愛宕山の下を抜ける「愛宕隧道」、、、、東京23区内で最も高い自然の山「愛宕山」を堀りぬいた23区内唯一の「山岳トンネル」である。 昭和5年(1930)竣工、90年を経た現在でも、ぼぼ竣工当時の姿をとどめている。、、、、愛宕隧道の全長はわずか76.6m、幅は9m。 歩道が両脇に2.5mずつあるので車道は4mしかなく、愛宕下通り側からの一方通行路になっている。

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● 新橋駅から帰宅。 8千歩の散歩でした。

2022年11月22日 (火)

三郷の正光山

「天王山 淵富院 正光寺」(北区岩淵町)の次は「瑠璃山 正光院」(港区元麻布)と続き、さてその次は“正光山”と言うことで・・・・・調べてみたら・・・・・東京23区内にはないが、隣の埼玉県にあった。 場所は、葛飾区の水元公園に近い三郷市高州に! 「正光山 大雄寺」というお寺があった。

今日の散歩は、あらかじめ地図で場所・ルートを確認し「正光山 大雄寺」へ行くことにした。 浅草橋の我が家からは、京成金町駅まで行って、駅からは旧水戸街道沿い(江戸川沿い)に大雄寺まで歩き、参る。 帰りは近くからバスで金町駅に出て帰宅。



● 浅草橋駅から、都営浅草線・京成線に乗り、薄っすらと朝霧の残る「京成金町駅」で下車。 今日の散歩は、ここからスタート!

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・・・・・・・・・・ 京成金町駅から東に歩き「旧水戸街道」に出る。 常磐線のガードをくぐり、旧水戸街道は江戸川土手に沿って北へ向かう。、、、、(2枚目の写真)幅の広い都道から、右に分岐する道が旧水戸街道。

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● 都道から細い旧道に入ると、江戸川に出る手前(葛飾区東金町)に「葛西神社」の鳥居がある、、、、、葛西神社は、平安末期の元暦2年(1185)に葛西清重が、上葛西・下葛西33郷の総鎮守として、香取神宮の分霊を勧請したと言われてる。 江戸時代には徳川家康から御朱印10石を賜った。 祭神は、経津主神、日本武尊、徳川家康命の三神。、、、、東京周辺の祭り囃子の祖とされる「葛西囃子」発祥の地と言うが、私は葛西囃子を知らないので、ゴメン!

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・・・・・・・・・・ 葛西神社前、旧水戸街道の路傍に庚申塔がある。 駒型・日月・青面金剛像・邪鬼・三猿の庚申塔。 私は判読不能だが「文政二己卯歳正月吉辰再興」の銘あり。、、、、街道の名残か?

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・・・・・・・・・・ なんとなく、旧街道らしい道を歩く

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● チョイト、脇に入ると浄土宗寺院の「摂取山 蓮池院 光増寺」がある。 光増寺は、貞応元年(1222)に草庵を起源とし、元仁元年(1224)親鸞聖人が立ちより、浄土真宗光増寺となった。 戦国時代の国府台合戦により堂宇を消失、天正15年(1587)、江戸増上寺の僧が浄土宗として中興した。 当地は旧水戸街道沿いにあたり、水戸徳川家の立ち寄り所となっていたことから、徳川家の紋所を使用している。 その後、数度の火災に遭い多くの寺宝と記録を失い、明治43年(1910)の再建を経て、昭和49年、現在の堂舎に改築された。、、、、境内は手入れが行き届き、気持ちよく参拝できる。

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・・・・・・・・・・ 旧水戸街道に戻り、江戸川土手の下の道を歩く、、、、昔の人は、土手の上をのんびり歩いていたのかも?

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● 歩く先には、東京外環自動車道(=外環道)が見える。、、、、外環道の下を抜けると、「都立水元公園」の東端に接し、都下水道局東金町ポンプ所の建物がある。 ポンプ所前に「金町関所跡之記」碑がある。、、、、関所の正確な位置はここではないらしい。 明治時代の河川改修と堤防の構築により旧態は残っておらず、もう正しい位置は判らなくなっているそうだ。 金町関所は「金町松戸関所」といい、慶長年間(1596~1614)水戸街道の要所として江戸防衛のため徳川幕府によって設置されたもので、水戸街道が江戸川を渡る地点に置かれた江戸の東の関門で、江戸川の渡船場を監視した関所だった。 関所の施設がある一帯は金町御番所町と呼ばれて、4名の関所番が、廃止となる明治2年2月までその任に当たっていた。、、、、碑の後ろの土手に上がると、対岸には松戸の街が広がっている。 旧水戸街道も対岸の松戸市へ続くそうだ。

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● ポンプ所の前から北へ300m程歩くと、東京都葛飾区と埼玉県三郷市の境である。 三郷市に入って200m程で今日の散歩の目的地「正光山 大雄寺」(三郷市高州)がある。、、、、日蓮宗寺院の大雄寺は、教學院日利が開山となり、文禄元年(1593)創建 、江戸川の河川改修に伴い江戸・大正・昭和時代と3度の移転を経て当地へ移転した。 三郷七福神「戸ケ崎めぐり」の大黒天を祀る、、、、 山門を入ると、すぐ左手に本堂。 想像していた通りの小さなお寺。 本堂に手を合わせ、ハイ、さようなら! 

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・・・・・・・・・・ これにて、「正光寺」、「正光院」、「正光山」の山院寺号を制覇、一人悦に入る!



・・・・・・・・・・ 大雄寺の隣りには、大雄寺より境内の広そうな「三福神社(三輪神社)」がある。、、、、三福神社(三輪神社)は、寛永16年(1639)の江戸川の氾濫の時、三輪野江(現吉川市)の三輪神社の神体が当地に流れ着き、これを村人が拾い上げて創祀、稲荷社・秋葉社とともに小向村の鎮守社となった。 明治43年(1910)には、大雄寺持ちの稲荷社を合祀した。、、、、 おらが村の鎮守さま!

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● 本日の散歩はココまで、「高州四丁目バス停」から金町駅へ戻る。、、、、金町駅からここまで1万歩、健康的な散歩だ!

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2022年11月18日 (金)

正光院

今日の散歩は、六本木駅から歩き、“正光”つながりで元麻布の瑠璃山正光院へ参る。 特に見るべきものもなく参拝後は元麻布をブラブラして、麻布十番駅から帰宅。 9千歩



● 久しぶりに東京メトロ日比谷線「六本木駅」で下車した。、、、、六本木駅は、昭和39年(1964)3月25日、帝都高速度交通営団(現:東京メトロ)日比谷線の霞ケ関駅~恵比寿駅間開通と同時に開業。 平成12年(2000)には、都営大江戸線の全線開業により同線の六本木駅が開業し、乗換駅となる。 日比谷線の六本木駅は、相対式ホーム2面2線の地下駅。 改札は地下1階、ホームは地下2階にある。 南側の出入口は「六本木ヒルズ」(地上54階建て)の足下。、、、、平成7年(1995)から数年間、私は六本木にあるオフィスに通い仕事をしていた。 当時は大江戸線の開通前で、私の通勤経路は浅草橋→(浅草線)→東銀座→(日比谷線)→六本木であった。 出勤時は地下鉄、帰宅は六本木から新橋・銀座方面に歩くことが多く、一日一万歩の体力づくりのきっかけとなった。 また、地下鉄サリン事件に私が遭遇したのも、日比谷線で当地に通っていた時の話だ。(もうすぐ30年前の出来事になる)

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● まずは、正光寺に続いて正光院を目指す。、、、、六本木ヒルズから南へ500m程歩くと、麻布税務署の正面に高野山真言宗「瑠璃山 正光院」がある。、、、、正光院は、筑前福岡藩・黒田家の祈願寺として、徳川三代将軍家光の時代(寛永7年)に高野山正智院の末寺として創建された。 開基は黒田藩主筑前守黒田忠之。 忠之の代に御家騒動が起こり藩の安泰を願っておこなった祈祷で、「子安薬師」の名がある瑠璃光薬師の効験があり、忠之の不審がとけた。 その薬師如来を正光院の本尊として寄進したという。(本尊薬師如来の姿を見ることはできず)、、、、正光院は元麻布の住宅街にひっそりと佇む小さなお寺であった!

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・・・・・・・・・・ 今日で、山院寺号巡りも正光寺・正光院と参った。 次は正光山だ! 



● 正光院をあとにして、元麻布の裏道を歩く。 

・・・・・・・・・・ 静かな高級住宅街の中に、国旗と、赤い地に白馬の騎士を配した紋章を掲げるは「リトアニア共和国大使館」、、、、と言われても、“リトアニア”の場所は何処(?) ソビエト連邦の崩壊に伴い独立したバルト三国で最も南に位置するのが“リトアニア”。 現在はNATOに参加し、ウクライナ紛争では国名が出てくる場面も多い。、、、、“騎士の紋章”とは、さすが歴史ある旧王国!

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・・・・・・・・・・ チョイト、脇道からは建設中の超高層ビルが並んで見える。 どんどん超高層ビルが建つ“港区”。 

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・・・・・・・・・・ 坂を下って谷底に辿り着いたら、今度は急な上り坂。 その名は「狸坂」、、、、港区元麻布2丁目と3丁目の間にある、雪でも降ったら滑り落ちるであろう、長さ150m程のかなり急な坂。 坂の名は、『この付近は人をばかす狸が出没したといわれてる』に由来する。

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・・・・・・・・・・ 狸坂を上りきると「旧阿部美樹志邸」がある、、、、“阿部美樹志”とは? 大正から昭和にかけ活躍した、日本の鉄筋コンクリート工学の大御所。 日比谷の有楽座、梅田の阪急百貨店、東京~万世橋間の高架橋、阪急三宮駅などを設計した。 竹中土木の初代社長。、、、、住宅は大正13年(1924)に自ら設計した自邸。 現在は、かなり劣化し、住んでる人はいないようだ。

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・・・・・・・・・・ 旧阿部美樹志邸の先に「一本松坂」がある。 坂の名となった「一本松」も健在だ!

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● 一本松坂から仙台坂に出て、「元麻布ヒルズ」、「氷川神社」、「安藤記念教会」、「善福寺」、「きみちゃんの像」、「麻布十番駅」と歩いて来た。、、、、このルートと歩いた順は逆だが、以前に歩いているのでこちらを見てね!

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2022年11月16日 (水)

お酉さま

今日は「二の酉」、夫婦でお酉さまに行ってきた。、、、、以前授与された、鷲神社の熊手型の「開運御守」、長国寺の纏型の「開運火除御守」を妻は持ち、いざ出発。 浅草橋から台東区のコミュニティバスで千束に向かい。 「お酉さま」の、鷲神社(おおとりじんじゃ)、長国寺(ちょうこくじ)に詣で、帰りは浅草六区、浅草寺に立ち寄って、浅草松屋でお買い物、蔵前を抜けて我が家まで歩く。 1万1千歩の歩き。



● 神社周辺に来ると警察車両が並んでる。 多くの人出で隣の国と同様の事故が起きないか、そんな予感でチョイト何だかワクワクしてくる(野次馬根性が出てきた)。 ところが、どっこい、今日は鳥居まで人が並んでいない、すんなり境内に入れた、拝殿前はチョイト混んでいたが、ほぼ順調に参拝で来た。(こんな人出の少ないお酉さまははじめてだ、拍子抜け。) 境内の情景は毎年同じで、写真撮影も手抜き。

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● 新しい御守りを授与され、境内を抜けると、道路の両側には屋台がズラリ! この景色も例年同じ!、、、懐かしい、カルメ焼きも売ってる!

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● コロナの影響か? 例年と比べ、人出の少ないお酉さまだった。 帰りは、浅草寺に詣で、我が家まで歩く。 疲れた!!

2022年11月12日 (土)

正光寺

今日の散歩は、JR赤羽駅の北700m程の処にある「天王山 淵富院 正光寺」に行くことを目標に出発! 赤羽駅で下車し、正光寺、岩淵水門とまわり鹿浜橋の西側にある新田稲荷神社まで、1万1千歩の散歩です。



● 土曜の朝、「JR赤羽駅」東口に出る。 乗降客は平日の半分ほどかな? 駅前のバス停も、並んでいる人は少ないようだ。

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● 赤羽駅から東へ約200m「カトリック 赤羽教会」がある。 チョイト、寄って行こう!、、、、昭和24年(1949)に赤羽教会は設立し、昭和26年(1951)11月に聖堂が落成した。 ゴシック調の教会で、その風格ある建物は、赤羽駅前の商業地の中にありながらも街にとけ込み、人々の心を癒す空間となっている。 聖堂正面上部のマリア像は高さ約1.5m、鉄鋳物製。、、、、早朝の光が差し込む聖堂内部は、ステンドグラスに演出された異空間。 祭壇中央には被昇天のマリア様の絵が掲げられている。、、、、ここで結婚式をする人、多いかも。 

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● 赤羽教会前の通り(東本通りと云うらしい)を北へ向かうと、本日の散歩の目的地、浄土宗寺院の「天王山 淵富院 正光寺」がある。、、、、浄土宗寺院の正光寺は、衰廃していた荒川のほとりにあった西光寺の名跡を継ぎ、慶長7年(1602)現在地に正光寺として創建した。 江戸期には梅翁庵(梅王寺)、十王堂(十王寺)を末寺に擁し、八雲神社の別当寺を勤めていた。 全国的な歴史ある名刹とは言えないが、地元密着型の古刹のようだ!、、、、昭和53年(1978)にホームレスにより本堂が焼失し、以後しばらく空き地状態で再建されなかったらしい。 平成23年(2011)に本堂その他が再建され、現在では本来の姿を取り戻しつつある。 本堂は日本最古の宮大工集団である金剛組の施工。、、、、本堂手前右側に明治3年(1870)建立、高さ3尺3寸(約10m)の岩淵大観音が立っている。

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● 正光寺の北(裏手)に、浄土宗寺院の「弘誓山 梅王寺」がある。、、、、梅王寺は、正光寺を中興開基した小田切将監(寛永元年1624年)の墓所として創建された。、、、、境内はさほど広くない、小さなお寺。

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● 梅王寺から北東へ約200m、新河岸川に架かる岩淵橋の南詰に「岩淵八雲神社」が鎮座する。、、、、八雲神社は、江戸時代の日光御成道の第一の宿場として栄えた岩淵宿の鎮守さま。 祭神には須佐之男尊が祀られ、創建年代不詳の古い神社だ。 かつて西光寺が八雲神社の別当を勤めた。、、、、八雲神社には「勝海舟の大幟 」という幟(のぼり)があるそうだ(私は見たことない)。 この幟は、明治になった頃、勝海舟が時々軍艦の大砲の製造のことで川口(埼玉県)に寄った折、荒川の氾濫により宿場である岩淵本宿に泊まって大変世話になった礼に書いたといわれている。 海舟は礼に文字を書いたが、雅万歩は文字を知らずに恥をかく!

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● 八幡神社の北側を流れる新河岸川、その北側に平行に流れる荒川、両川を隔てる土手を歩き岩淵水門へ向かう。

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・・・・・・・・・・ 旧岩淵水門(赤水門)とその下流に岩淵水門(青水門)がある。、、、、旧岩淵水門は荒川と隅田川を仕切る水門として大正時代に建設され昭和50年代にその役割を終えた。 今は下流に、ゲートを青く塗られた岩淵水門があり、水門の役目を引き継いでいる。  赤く塗られた旧岩淵水門は歴史的建造物として保存されている。 

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● 右に隅田川(岩淵水門の上流側が新河岸川、下流側が隅田川)、左に荒川が流れ、その間の土手を歩く。

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● 荒川に架かる鹿浜橋の西側に、「
新田稲荷神社」が鎮座する。 神社前が王子駅行きのバス停「新田一丁目」。 今日はココまで!

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● 【終わりに一言】上野谷中の天王寺、押上の天王院正円寺、そして今日は天王山淵富院正光寺と、山院寺号の“天王”つながりで巡ってきた、次は正光寺の“正光”つながりでまわってみよう!、、、、港区元麻布に「麻布高野山 正光院」があった!

2022年11月 9日 (水)

天王院

先日から「東叡山 寛永寺 護国院「神齢山 悉地院 護国寺護国山 天王寺」と巡り、今日は「護国山 天王寺」から“天王”つながりで「海福山 天王院 正圓寺(正円寺)」へ行くことにした。 「正円寺」は押上にある。 都営浅草線の押上駅で下車。 正円寺へ参り、その後は向島の弘福寺近辺を歩き、京成押上線の京成曳舟駅まで、1万2千歩の散歩です。



● 浅草橋駅から地下鉄で4駅目が押上駅、我が家の玄関から15分でスカイツリーの足下に立つ、近い!、、、、今日の散歩、スタート!!

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● 押上駅から北へ600m程行くと、下町の住宅地の中に「高木神社」(墨田区押上2)がある。 小さな神社だが、最近のアニメブームでチョイト有名になった神社らしい。(私はアニメに興味なく、知らなかった)、、、、高木神社は応仁2年(1468)第六天社として創建、旧寺島村大字新田の鎮守だった。 明治15年(1882)村社に列格した。 神社の祭神は高皇産霊神(たかむすびのかみ)で、社名の“高木”は高皇産霊神の別称が「高木の神」であることに由来する。、、、、現社殿は昭和42年(1967)の造営の、鉄筋コンクリート造。

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● 高木神社の境内と地続きで、隣に天台宗の「海福山 天王院 正圓寺(正円寺)」がある。 正円寺は高木神社の別当であった。 神社の裏手で、見落とされがちな小さな寺院である。 かつては境内の広さが2,400坪の大寺であったが、安政2年(1855)の安政大地震で崩落し、これまでの勢いを失って、現在に至っている。 応仁2年(1468)に常照法印により創建された。 浅草寺の末寺として五百年余の歴史を誇る古刹でありながら記録文献に乏しく寛永年間(1624~1644)以前の正確な歴史は不明。  、、、、境内は清浄に保たれた美しい寺。

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・・・・・・・・・・ 本堂前に石燈籠がある。 この石燈籠は、忠臣蔵の浅野内匠頭長矩の祖父:長直(赤穂藩祖)が、寛永寺の大猷院(徳川家光)廟所に寄進したものらしい。 廟所は享保5年(1720)に焼失し、その後再建されなかった。 燈籠はその後、明治期の上野山(寛永寺)の公園化の時に移されたものと思われる。

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● 【チョイト蛇足】今日の散歩にあたり、院号が“天王院”の寺院を探していたら、山号が“天王山”の寺院も見つかった。 次回の散歩は、ここにする。 乞う御期待!



● 正円寺から西に400~500m程歩くと都立本所高等学校(墨田区向島3)がある。 この校舎付近に二人の文豪の住居跡がある。

・・・・・・・・・・ まずは、校舎の東側:桜橋通りに面して「森鴎外住居跡」がある。 森鴎外の住居跡というと、出身地の津和野に生家、北九州小倉に旧居、都内台東区には鴎外の最初の結婚後に住んだ家が保存されている。 その他に、文京区千駄木、足立区北千住など、軍医時代も含め点々としたらしい。、、、、ここ向島の旧居跡(現在の本所高等学校の敷地内)には、学生時代の数年間、家族と共に暮らしたそうだ。、、、、高等学校前のバス停名は「森鴎外住居跡

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・・・・・・・・・・ 次は、本所高等学校の南側、墨田区すみだ福祉保健センター(向島3)の一角に「堀辰雄住居跡」がある。 明治43年(1910)から大正13年(1924)まで住み、その後、隅田公園東隣に移転した。 、、、、堀辰雄の名作は「風立ちぬ」、私の迷作「歯が立ちぬ」

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● 桜橋通りを歩き、国道6号(=水戸街道)を横断し、向島2丁目に入ると、「向嶋墨堤組合」の建物がある。 ここは、向島芸者の総まとめ「見番(けんばん)」だ!、、、、向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、現在、10軒の料亭が加盟し、120名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について日々修練しているそうだ。、、、、自分の若い頃は行ってみたかった芸者遊び、今は「役立たぬ」

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● 向嶋墨堤組合前の「見番通り」を北へ100m、黄檗宗の寺院「牛頭山 弘福寺」、、、、延宝元年(1673)黄檗宗の鉄牛和尚の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院。 江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。 関東大震災で罹災したが、昭和8年(1933)に、中国の黄檗寺にならって、本堂が大明式建築で再建された。 山門も、昭和8年の再建で、前に控柱が4本あり、門の中央部が2階建てとなっている。、、、、弘福寺には、明治の文筆家、淡島寒月が住んでいた。 寒月の住居跡は、弘福寺の隣りで「料亭 美家古」(国登録有形文化財)となっている。

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● 弘福寺の北隣には天台宗の寺院「長命寺」があるが、境内に幼稚園があるため、門前に住職・先生が出て不審者を監視中。、、、、子供が遊ぶ境内に、チョイト、カメラを持って近寄り難い、(私は、気が弱いので)今日は静かにパスする、女先生に睨まれていた!



● 長命寺の裏、墨堤通りに面して「長命寺 桜もち 山本や」がある。 300年続く桜もちは江戸の老舗の超名物、ぜひぜひ召上がれ!、、、、ここ「山本や」(当時は木造の建物)の二階に三カ月程借りて住んでいたのは、学生時代の正岡子規である。(正岡子規の仮寓

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● 向島5丁目と東向島1丁目の境は鳩の街(はとのまち)。 鳩の街はかつての赤線地帯。 地理的に私娼街「玉の井」と近く、1kmほどの距離である。 太平洋戦争末期に、東京大空襲で玉の井を焼け出された業者が何軒か、この地で開業したのが始まりという。終戦直後は、米軍兵士の慰安施設として出発したが、兵士が性病に感染することが多いため、昭和21年(1946)に米兵の立ち入りが禁止された。その後、日本人相手の特殊飲食店街(赤線)として発展した。 一時期には、娼家が108軒、接客する女性が298人いたという。、、、、久しぶりにチョイト歩いて見たら、激変、商店街の店はシッターを下ろし、営業している店は少ない。 裏道に残っていた娼家風の建物は、ほとんど取り壊され更地や新しい住宅に変わっている。 商店街裏の雑然とした住宅は壊され、大きなマンション用地が広がっている。 ここに、赤線があったとは思えない町となった!

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● 押上駅から向島に向かい、さらに東向島をブラついて、京成曳舟駅へ到着。 ここから、お帰りで~~す!

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2022年11月 6日 (日)

雲上のホテル

5日・6日と家族旅行(我が夫婦+娘家族5人)で美ヶ原にある雲上のホテルに行ってきた。



● 新宿発「8時ちょうどのあずさ5号」で松本へ向かう。、、、、♪♪ 8時ちょうどのあずさ2号で ♪♪ というフレーズで有名な、昭和52年(1977)の「狩人」のヒット曲『あずさ2号』を思い出す。 しかし、歌に出てくる新宿発8時の下り「あずさ2号」は、翌昭和53年には廃止となった。(上り「あずさ2号」は残る) この歌も古くなった、自分も古くなったもんだ、家族に連れられ松本へ。、、、、今宵の泊りは、美ヶ原の最高峰(標高2,034m)「王ヶ頭」(おうがとう)の山頂にあるホテル。(赤い矢印は、松本駅付近の車窓から見た王ヶ頭)

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・・・・・・・・・・ 10時40分、松本駅に到着、、、、「松本駅」はJR東日本の篠ノ井線と大糸線、アルピコ交通の上高地線が乗り入れている。 明治35年(1902)6月15日、国鉄篠ノ井線の松本~西条駅間の開通と同時に開業した古参駅。 平成19年(2007)現在の駅ビルが完成した。、、、、駅前は広々としてアルプスの玄関口にふさわしい。

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● ホテルの送迎バスが駅前に到着する時刻は1時45分。 まだ、3時間弱の余裕がある。 皆で、松本城見学!、、、、天守から東を眺めれば、王ヶ頭(写真:赤い矢印)がはるか遠くに見える、 『あそこまで、これから行くのか。 遠いいな!』

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● 13時40分、駅前に「王ヶ頭ホテル」の送迎バスが到着。 大型バス1台に満員となる宿泊客を乗せて、美ヶ原山頂の「王ヶ頭」(標高2,034m)まで出発!、、、、ホテルは山頂にあり、自然保護区でマイカーの乗り入れが規制されてるため、宿泊客の多くはこの送迎バスに乗つている。 バスの中は多くの中高年で、皆さん人気の宿泊を楽しみにしているようだ!(話では、連日満員で、来年のゴールデンウィーク明けまで予約が取れないらしい)、、、、バスは途中、美鈴湖経由で1時間半走り、山頂(写真:赤い矢印)を目指す。

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・・・・・・・・・・ 15時、ホテル前に到着

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● ホテルのある「美ヶ原」は、安山岩質の組成を持つ火山の浸食地形の台地らしい。 最高峰は、王ヶ頭(2,034m)。 他に、王ヶ鼻(2,008m)、茶臼山(2,006m)、牛伏山(1,990m)、鹿伏山(1,977m)、武石峰(1,973m)といったピークがある。 山頂付近は平坦な台地状の地形で、美ヶ原牧場と呼ばれる牛の放牧地となっている。 美ヶ原牧場には5月から10月まで約300頭の牛が放牧されているらしいが、この日は一頭も見ることはなかった。、、、、美ヶ原は、長野県のほぼ中央に位置し、県内の広範囲を見渡すことができる。 また、王ヶ頭は最高地であり、放送・通信の要衝となって、ホテルの周囲には多くの送信設備(鉄塔、アンテナ)が設置されていた。

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王ヶ頭ホテル」(ホテルの詳細はホームページを見て!)はコンビニも、みやげ屋もない山頂の一軒宿。 昭和35年(1960)に山頂まで道路が開通したそうだが、当時はまだ“山小屋”で美ヶ原高原荘と称していたらしい。 今は『標高2034m 天空のリゾート』と称し、『非日常の時空』、『天空の部屋』、『至福の瞬間(とき)』、『雲上の風呂』を売りにする“4つ星ホテル”。、、、、午後3時の到着から、翌日11時の出発まで、客を退屈させぬよう、各種趣向が凝らされていた。 夕食前に夕陽を見る、信州の食材を味わう夕食、星空を見る時間、日の出を見る、雲海を見る、夕食に負けない朝食、眼下を見下ろす山頂の風呂、お客をたっぷり楽しませてくれた。、、、、あまり褒めると、ホテルの回し者に間違えられるので、ここまで!

・・・・・・・・・・ 山頂の「御嶽神社

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・・・・・・・・・・ 人影が伸びる夕陽の山頂

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・・・・・・・・・・ 眠い目を擦り、防寒着を着て早朝の外気に触れる。 夜明けの山頂、富士山のシルエット、雲海も見えた!

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・・・・・・・・・・ ホテルの外で日の出を迎えた宿泊客

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・・・・・・・・・・ そろそろ、下山の時刻が近づいた。 みんな揃って、ハイ・チーズ!

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2022年11月 3日 (木)

天王寺

先日は天台宗の大本山:寛永寺の子院である、上野の「護国院に行き、一昨日は真言宗豊山派大本山「護国寺に行ってきた。、、、、そこで疑問は、“院”と“寺”の違いとは? 調べてみたら・・・・寺の名前には、山号、院号、寺号があり、これら全てを持つ場合、このうちのいくつかを持つ場合など、寺によって様々である。 もともと“寺”とは客を宿泊させる場所を意味し、転じて僧侶が居住する建物を指すようになった。 一方、院は寺の一部の建物を指すことが多く、特に寺の中にあって人が居住することもできる施設のことでもあった。 さらに、院号は平等院鳳凰堂で有名な平等院などのように、貴人の建立した寺院の称号としてつけられる場合もあった。 山号は、昔、寺院を山中に建てることが多かったことから、寺のある山の名を別称としてつけたそうだ。、、、、山号+院号+寺号の例:浅草の浅草寺は金龍山伝法院浅草寺、山号+ 寺号の例:比叡山延暦寺、また法隆寺・興福寺・東大寺など奈良時代以前に建立された寺に山号はない。 要するに、山号、院号、寺号の適当な組み合わせで寺院名を表しているのだ!

ココまで調べたら、“護国”つながりで「護国山」と名乗る寺院があるか、チョイト調べてみたくなり、さらに調査。 結果は、ナント身近にあった。 しかも、以前に何回か訪れたことがある寺院だ! 私が住む“東京都台東区”、同じ区内で台東区谷中の天台宗寺院「護国山天王寺」・・・・と、言うことで、今日の散歩はJR日暮里駅に近い天王寺に行き、護国院経由で上野駅まで、7千歩の散歩。


● 日暮里駅で祝日の空いた電車から降りる。 今日は谷中の天王寺へ行くので、行先選定に悩むことなく「
日暮里駅南口」へ向かう。 南口は緑のトンガリ屋根の橋上駅舎が可愛らしい。 駅前の人道跨線橋は、西側(崖上)の紅葉坂と東側(崖下)の日暮里駅東口を繋ぐ利用度の高い歩道橋で、昭和3年頃に架設され、昭和45年(1970)に現在の幅に拡張された。

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・・・・・・・・・・ もみじばしに続く「紅葉坂」 坂の上は天王寺。 坂の名は、この辺りの紅葉の美しさから名付けられたそうだ、現在は坂の傍に樹木はないが、情緒ある景色だ。

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● 現在の台東区谷中7丁目は、江戸時代その大部分が天王寺の寺域であった。 谷中7丁目は、現:天王寺はもとより、都立谷中霊園の全域を含む広い町である。 言い換えると、現在の谷中霊園は天王寺のものであった。、、、、天王寺の歴史は、鎌倉時代後期、日蓮上人に帰依した土豪関長燿の草創にはじまる。 当時は「長耀山感応寺」と称した。 早くから日蓮宗不受不施派に属し、江戸幕府から弾圧された。 元禄11年(1698)には強制的に改宗させられ、以後天台宗寺院として、比叡山より毘沙門天像を迎え本尊とした。 元禄13年(1700)から江戸幕府公認の富くじが興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として賑わっていたが、天保13年(1842)には禁止される。 また、天保4年(1833)には、名称を「護国山天王寺」に改める。 明治元年(1868)彰義隊の兵火により本坊、五重塔以外は焼失となり、明治7年(1874)境内地の一部を東京府に移管され、これが現在の「都立谷中霊園」(園内には、寛永寺、天王寺の墓所が入り組んでる)となっている。

 

・・・・・・・・・・ 紅葉坂を上がると天王寺がある。 天王寺は、度々の火災で建物を焼失し、現在の本堂は昭和57年(1982)の再建である。、、、、山門は木造の古いものと、平成10年(1998)に新築のモダンな新山門がある。、、、、境内の樹々は秋の色に染まってきた!、、、、鉄筋コンクリート造の本堂だが、威圧感もなく、静かに迎えてくれる、、、、木造の毘沙門堂

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・・・・・・・・・・ 境内の
銅造釈迦如来坐像」は、像背面銘文によって、元禄3年(1690)に神田鍋町に住む太田久右衛門が鋳造したもの。 日蓮宗時代の鋳造である。 青銅を材料とし、割型の製法で鋳造されたもの。 大きさは像高2.96m。 この像ははじめ旧本堂の脇に建てられ、明治7年(1874)の谷中墓地開設のため、墓地西隅に残されていた。 さらに、昭和8年(1933)現在地に基壇を新築し、修理を加えて移され、基壇には納骨堂が設置されてる。

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・・・・・・・・・・ 天王寺山門の脇にある地蔵尊。 江戸時代には富みくじをしていたから、地蔵も一儲けできたかな?

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・・・・・・・・・ 山門前の「さくら通り」は、かつて天王寺詣りの参道であった、今は桜の名所として谷中霊園のメインストリート。、、、、この道を、道なりに800m程南に歩くと上野公園の東京藝術大学に至る。 東京藝術大学の隣りに「東叡山寛永寺 護国
」がある。 “護国山”と“護国院”を結ぶ道だ!

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・・・・・・・・・・ 天王寺山門とさくら通りを挟み向かいに天王寺墓地がある。 東西を都立谷中霊園に挟まれているが、一般人にはそれぞれの霊園の境界が判らない。、、、、今日は、天王寺霊園の敷地内にあると思われる、植物学者:牧野富太郎、彫刻家:朝倉文夫、浅草「神谷バー」の創設者でハチブドー酒を出荷した:神谷伝兵衛の墓 を紹介。 いずれも、立派な墓だ!

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・・・・・・・・・・ 天王寺墓地の区域に、ひときわ目立つ仏塔がある。 それは「東京大学医学部納骨堂」。 東京大学医学部で、解剖に供した遺体を弔う施設。

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・・・・・・・・・・ 谷中霊園内に残る天王寺の銅造釈迦如来坐像台座跡」 天王寺の銅造釈迦如来坐像は、はじめ旧本堂の左手に建てられ五重塔と向かい合っていた。 明治7年(1874)の谷中墓地開設のため、墓地西隅に残されていたところ、昭和8年(1933)現在地に基壇を新築、修理を加えて移された。、、、、移される前の台座跡は、虚しい状態で公営の墓地の中に残っている。

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・・・・・・・・・・ こちらは、谷中霊園内に残る「天王寺五重塔跡」、、、、谷中霊園の中央付近には、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルになった「
天王寺五重塔の跡」がある。 天王寺の最初の五重塔は、寛永21年(1644)に建立されたが、130年ほど後の明和9年(1772)目黒行人坂ぎょうにんさかの大火で焼失した。 罹災から19年後の寛政3年(1791)に再建された五重塔は、震災・戦災をくぐり抜け、長く谷中のランドマークになっていたが、昭和32年(1957)7月6日、残念ながら放火により焼失し、現在はその基礎部分のみが残されている。

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● 天王寺から、さくら通りを南に向かい、東京藝術大学の方へ歩く。、、、、「旧吉田屋酒店」(明治43年築)前を通り、藝大前の和菓子屋「桃林堂」に出る。

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・・・・・・・・・・ 桃林堂から、チョイト西へ100m「護国院」に来た! 護国山から護国院へ、ゴコクロ~サン、お疲れさん!

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2022年11月 1日 (火)

護国寺

先日は天台宗の大本山「寛永寺」と子院の「護国院」に行ったので、今日は“院”を“寺”に変え、真言宗豊山派大本山「護国寺」へ行ってきた。 有楽町線護国寺駅で下車し、護国寺、雑司ケ谷霊園、雑司が谷旧宣教師館を巡り、有楽町線東池袋駅まで、墓場の中を探し歩いて1万歩の散歩。



● 朝8時、「護国寺駅」ホームに降りると、『アリャ、コリャ、ナンジャ? 男子学生がゾロゾロ、ゾロゾロ、怪尻ゾロ!』 後ろについて地上に出ると、駅の隣りの「日本大学豊山高等学校・中学校」(男子校)の建物へ吸い込まれて行く、納得! 皆さん勉強に励んでね!

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・・・・・・・・・・ 東京メトロ有楽町線「護国寺駅」は、昭和49年(1974)10月30日、池袋~銀座一丁目間開業と同時に設けられた駅。 島式ホーム1面2線の地下駅。 駅名の護国寺はホーム端の真上に山門があり、線路は境内・墓地の地下を通り抜ける。、、、、お茶の水女子大も駅の近くにあるが、最寄りの出入口が違うのか? 女子大生の姿なし、残念!




● 真言宗豊山派大本山「護国寺」は、神齢山悉地院と号す。 護国寺は、5代将軍徳川綱吉の母、桂昌院の発願によって天和元年(1681)に創建された。 1200石の御朱印寺。 本尊は桂昌院念持仏の琥珀如意輪観音 (絶対秘仏)。 本堂(観音堂)本尊は堀田正虎の母・栄隆院尼寄附の如意輪観世音菩薩。 江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所である。 江戸時代には浅草寺、回向院に次いで出開帳の宿寺として人気があったそうだ。、、、、明治時代になると、護国寺は幕府の祈願寺で檀家を持っていなかったため、寺の後ろ盾がなく経済的に困窮した。 そこで、当時の境内地5万坪のうち、東側の2万5千坪を皇族墓地(現:豊島岡墓地)として手放した。 さらに、西側の5千坪は陸軍用墓地として、境内は2万坪ほどに縮小した。 現在、陸軍用墓地は護国寺墓地の一角に音羽陸軍埋葬地として整理されている。 


・・・・・・・・・・ 地下鉄出口の後ろにド~~ンと構える「仁王門」、、、、八脚門、切妻造で丹塗。元禄期造営の本堂(観音堂)、薬師堂や大師堂などから成る徳川将軍の祈願寺としての伽藍の中で、重要な表門である。 建立の年代については、元禄10年(1697)造営の現本堂(観音堂)などよりやや時代が下がると考えられる。 正面の両脇に金剛力士像(右側阿形像・左側吽形像)、背面(北側)の両脇には、二天像(右側増長天・左側広目天)の仏法を守る仏像が安置されている。

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・・・・・・・・・・ 石段下の左右にある手水舎。 そこには、手洗水盤が置かれている。 この水盤は唐銅蓮葉形手洗水盤1対2基で、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院から寄進されたものだ。 元禄10年(1697)頃に鋳造、江戸鋳物師椎名伊豫良寛の製作とされている。 貴重な水盤で手を清めるのはチョイトためらうね。  

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・・・・・・・・・・ 石段の上に「不老門」がある。 この門は、昭和13年(1938)の建立で、三尾邦三氏の寄進。 様式は京都の鞍馬寺の門を基本に設計され仁王門と本堂の中間に建立された。 扁額は徳川家達という。

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・・・・・・・・・・ 不老門をくぐり右手に堂がある。 元禄14年(1701)に再営された旧薬師堂を、大正15年以降に大修理し現在の位置に移築して「大師堂」にしたものである。 装飾も少なく全体的に荘重、すっきりとした印象をつくっている。 真言宗伽藍における大師堂の格式の高さと、中世的な伝統を重んじた貴重な建造物である。

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・・・・・・・・・・ 「鐘楼」の中では、伝統を重んじた格式の高い袴腰付重層入母屋造りの形式で江戸時代中期の建立である。 都内では同種のほとんどが失われている中で、貴重な文化財。 また梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたもので銘文には五代将軍綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられている。、、、、下から覗いただけでは、梵鐘の銘文がどこに書いてあるか見ることができず、読めない! 

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・・・・・・・・・・ 不老門をくぐり左手に「多宝塔」がある。 昭和13年(1938)の建立、塔は石山寺の多宝塔(国宝)の模写(パクリである)

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・・・・・・・・・・ 国指定重要文化財である「月光殿」は、大津市(近江)の三井寺の塔頭日光院の客殿を昭和3年に、現在の場所に移築したもの。 桃山時代の建造で書院様式を伝えるものとして貴重な建物である。 残念ながら、内部は拝見できず。

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・・・・・・・・・・ 現在の本堂「観音堂」は、元禄10年(1697)正月、観音堂新営の幕命があり、約半年余りの工事日数でこの大造営を完成し、同年8月落慶供養の式典が挙げられた。 また元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一のものと賞され、しかも震災・戦災と二度の大災害にも襲われながら姿も変えず、江戸の面影を今に伝え、訪れる人々に安らぎの場として親しまれている。 昭和25年(1950)に国の重要文化財に指定された。

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・・・・・・・・・・ 観音堂の左手に「薬師堂」がある。 元禄4年(1691)の建立。 一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂として使用したもので、大きな特徴は、柱間に花頭窓を据えているなど、禅宗様建築の手法をとりいれていることで、小規模ながら元禄期の標準的な遺構として、価値ある建造物である。

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・・・・・・・・・・ 薬師堂の裏にひっそりと一基の庚申塔がある。 「音羽講音羽講中庚申塔」と言うらしい。 こんな立派な庚申塔は見たことがない。 総高210㎝、塔身部52㎝、正面に「庚申」の文字。 三猿がその台座を支え、「天明五乙巳歳十一月吉祥日」と刻む。 その下の台座に精巧な龍の模様をあしらい、基壇部の正面に「音羽下町講中 総代弥太郎 音羽町九丁目伊豆屋太郎 願主金屋新八 武江小日向水道町石工安部勘助 細工人安富興兵衛」と刻まれてる。

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・・・・・・・・・・ 護国寺の墓地には、明治・大正・昭和の名士がズラリ揃い踏み。 葉室光子(典侍、明治天皇の側室)、三条実美(公家、政治家)、安田善次郎(財閥創始者)、鳩山邦夫(政治家)など、私が知る名だけでも50名以上。、、、、全員の墓を見て回ると、墓地で一泊しないと帰れない。、、、、当記事では、大隈重信、山縣有朋、大倉喜八郎(伊東忠太の設計、昭和3年建立)の墓所を順に写真紹介する。

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・・・・・・・・・・ 建築の世界に私もチョイト手を染めたので、ジョサイア・コンドルの墓を紹介。 説明板によると、『ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)は、1852年ロンドンに生まれ、大学で建築学を学び、のち、日本政府の要請により明治10年来日した。当時、我が国は文明開化改変の中で、各国より幾多の文化をとりいれたが、西洋建築に関しては手さぐりの状態であった。 彼は。工部大学校(東京大学工学部の前身)教授として学生を指導するかたわら、鹿鳴館、ニコライ聖堂、岩崎邸、旧古河邸等多くの建築物をつくり、我が国の近代建築の基礎形成に貢献した。また、辰野金吾、片山東熊、曽禰達蔵ら多くの俊才を育てた。一方、『日本の造園』『日本の華道』著すなど、日本研究の分野でも活躍し、我が国の文化、芸術を海外に紹介した。日本を愛したコンドルは、日本女性クメ夫人とともにこの地に永眠している。』

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・・・・・・・・・・ ところで、ここ護国寺の墓地は、どの墓も広い区割りにあり、行き届いた整備もなされ、“高級住宅地”ならぬ“高級墓地”である。 ここの仏さまは、緑豊かな広い墓地で安らかに眠っている。、、、、使用料、管理料も高そうだ!

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● 護国寺墓地の西の端にある「護国寺墓地門」から墓地を抜けると、道路を挟み斜め向かいに「東京都 雑司ヶ谷霊園」(豊島区南池袋)がある。、、、、雑司ヶ谷霊園は、明治7年(1874)9月1日に「雑司ヶ谷旭出町墓地」として開設した。 明治9年(1876)に東京会議所から東京府が霊園管理事務を引き継ぎ、明治22年(1889)に東京市の管轄となる。 昭和10年(1935)「雑司ヶ谷霊園」に名称変更。 現在は東京都公園協会が管理している。 こちらの霊園も広く大きいため、眠っている仏さまも多い 、、、、こちらは、都営のためか、通路と墓域の境も判らず草ボウボウ、空いた区画はぺんぺん草が伸び放題、大から小まで多種多様な墓が混在、使用料・管理料も安そうだ!

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・・・・・・・・・・ ジョン万次郎、小泉八雲、島村抱月、竹久夢二、泉鏡花、東條英機、いずみたく、永井荷風、サトウハチロー、金田一京助など著名人の多くが眠っている。、、、、私好みの美人画の巨匠:東郷青児、文豪:夏目漱石、銭形平次の大川橋蔵の墓を順に写真紹介。

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● 雑司ヶ谷霊園の南側に、明治40年(1907)に建てられた旧マッケーレブ邸」(雑司ヶ谷旧宣教師館)がある。 帰りにチョイト寄って見た。、、、、旧マッケーレブ邸(雑司が谷旧宣教師館)は、明治40年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたもの。 マッケーレブは、昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間この家で生活をしていた。 建物は、豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、東京都内でも数少ない明治期の宣教師館として大変貴重である。、、、、現在は豊島区が所有し、一般公開している。

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● 東京メトロ有楽町線の「東池袋駅」から電車に乗る。、、、、東池袋駅は昭和49年(1974)10月30日の有楽町線池袋~銀座一丁目間開業と同時に設けられた。 ホームは島式1面2線構造で地下2階にある。

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