護国寺
先日は天台宗の大本山「寛永寺」と子院の「護国院」に行ったので、今日は“院”を“寺”に変え、真言宗豊山派大本山「護国寺」へ行ってきた。 有楽町線護国寺駅で下車し、護国寺、雑司ケ谷霊園、雑司が谷旧宣教師館を巡り、有楽町線東池袋駅まで、墓場の中を探し歩いて1万歩の散歩。
● 朝8時、「護国寺駅」ホームに降りると、『アリャ、コリャ、ナンジャ? 男子学生がゾロゾロ、ゾロゾロ、怪尻ゾロ!』 後ろについて地上に出ると、駅の隣りの「日本大学豊山高等学校・中学校」(男子校)の建物へ吸い込まれて行く、納得! 皆さん勉強に励んでね!
・・・・・・・・・・ 東京メトロ有楽町線「護国寺駅」は、昭和49年(1974)10月30日、池袋~銀座一丁目間開業と同時に設けられた駅。 島式ホーム1面2線の地下駅。 駅名の護国寺はホーム端の真上に山門があり、線路は境内・墓地の地下を通り抜ける。、、、、お茶の水女子大も駅の近くにあるが、最寄りの出入口が違うのか? 女子大生の姿なし、残念!
● 真言宗豊山派大本山「護国寺」は、神齢山悉地院と号す。 護国寺は、5代将軍徳川綱吉の母、桂昌院の発願によって天和元年(1681)に創建された。 1200石の御朱印寺。 本尊は桂昌院念持仏の琥珀如意輪観音 (絶対秘仏)。 本堂(観音堂)本尊は堀田正虎の母・栄隆院尼寄附の如意輪観世音菩薩。 江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所である。 江戸時代には浅草寺、回向院に次いで出開帳の宿寺として人気があったそうだ。、、、、明治時代になると、護国寺は幕府の祈願寺で檀家を持っていなかったため、寺の後ろ盾がなく経済的に困窮した。 そこで、当時の境内地5万坪のうち、東側の2万5千坪を皇族墓地(現:豊島岡墓地)として手放した。 さらに、西側の5千坪は陸軍用墓地として、境内は2万坪ほどに縮小した。 現在、陸軍用墓地は護国寺墓地の一角に音羽陸軍埋葬地として整理されている。
・・・・・・・・・・ 地下鉄出口の後ろにド~~ンと構える「仁王門」、、、、八脚門、切妻造で丹塗。元禄期造営の本堂(観音堂)、薬師堂や大師堂などから成る徳川将軍の祈願寺としての伽藍の中で、重要な表門である。 建立の年代については、元禄10年(1697)造営の現本堂(観音堂)などよりやや時代が下がると考えられる。 正面の両脇に金剛力士像(右側阿形像・左側吽形像)、背面(北側)の両脇には、二天像(右側増長天・左側広目天)の仏法を守る仏像が安置されている。
・・・・・・・・・・ 石段下の左右にある手水舎。 そこには、手洗水盤が置かれている。 この水盤は唐銅蓮葉形手洗水盤1対2基で、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院から寄進されたものだ。 元禄10年(1697)頃に鋳造、江戸鋳物師椎名伊豫良寛の製作とされている。 貴重な水盤で手を清めるのはチョイトためらうね。
・・・・・・・・・・ 石段の上に「不老門」がある。 この門は、昭和13年(1938)の建立で、三尾邦三氏の寄進。 様式は京都の鞍馬寺の門を基本に設計され仁王門と本堂の中間に建立された。 扁額は徳川家達という。
・・・・・・・・・・ 不老門をくぐり右手に堂がある。 元禄14年(1701)に再営された旧薬師堂を、大正15年以降に大修理し現在の位置に移築して「大師堂」にしたものである。 装飾も少なく全体的に荘重、すっきりとした印象をつくっている。 真言宗伽藍における大師堂の格式の高さと、中世的な伝統を重んじた貴重な建造物である。
・・・・・・・・・・ 「鐘楼」の中では、伝統を重んじた格式の高い袴腰付重層入母屋造りの形式で江戸時代中期の建立である。 都内では同種のほとんどが失われている中で、貴重な文化財。 また梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたもので銘文には五代将軍綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられている。、、、、下から覗いただけでは、梵鐘の銘文がどこに書いてあるか見ることができず、読めない!
・・・・・・・・・・ 不老門をくぐり左手に「多宝塔」がある。 昭和13年(1938)の建立、塔は石山寺の多宝塔(国宝)の模写(パクリである)
・・・・・・・・・・ 国指定重要文化財である「月光殿」は、大津市(近江)の三井寺の塔頭日光院の客殿を昭和3年に、現在の場所に移築したもの。 桃山時代の建造で書院様式を伝えるものとして貴重な建物である。 残念ながら、内部は拝見できず。
・・・・・・・・・・ 現在の本堂「観音堂」は、元禄10年(1697)正月、観音堂新営の幕命があり、約半年余りの工事日数でこの大造営を完成し、同年8月落慶供養の式典が挙げられた。 また元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一のものと賞され、しかも震災・戦災と二度の大災害にも襲われながら姿も変えず、江戸の面影を今に伝え、訪れる人々に安らぎの場として親しまれている。 昭和25年(1950)に国の重要文化財に指定された。
・・・・・・・・・・ 観音堂の左手に「薬師堂」がある。 元禄4年(1691)の建立。 一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂として使用したもので、大きな特徴は、柱間に花頭窓を据えているなど、禅宗様建築の手法をとりいれていることで、小規模ながら元禄期の標準的な遺構として、価値ある建造物である。
・・・・・・・・・・ 薬師堂の裏にひっそりと一基の庚申塔がある。 「音羽講音羽講中庚申塔」と言うらしい。 こんな立派な庚申塔は見たことがない。 総高210㎝、塔身部52㎝、正面に「庚申」の文字。 三猿がその台座を支え、「天明五乙巳歳十一月吉祥日」と刻む。 その下の台座に精巧な龍の模様をあしらい、基壇部の正面に「音羽下町講中 総代弥太郎 音羽町九丁目伊豆屋太郎 願主金屋新八 武江小日向水道町石工安部勘助 細工人安富興兵衛」と刻まれてる。
・・・・・・・・・・ 護国寺の墓地には、明治・大正・昭和の名士がズラリ揃い踏み。 葉室光子(典侍、明治天皇の側室)、三条実美(公家、政治家)、安田善次郎(財閥創始者)、鳩山邦夫(政治家)など、私が知る名だけでも50名以上。、、、、全員の墓を見て回ると、墓地で一泊しないと帰れない。、、、、当記事では、大隈重信、山縣有朋、大倉喜八郎(伊東忠太の設計、昭和3年建立)の墓所を順に写真紹介する。
・・・・・・・・・・ 建築の世界に私もチョイト手を染めたので、ジョサイア・コンドルの墓を紹介。 説明板によると、『ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)は、1852年ロンドンに生まれ、大学で建築学を学び、のち、日本政府の要請により明治10年来日した。当時、我が国は文明開化改変の中で、各国より幾多の文化をとりいれたが、西洋建築に関しては手さぐりの状態であった。 彼は。工部大学校(東京大学工学部の前身)教授として学生を指導するかたわら、鹿鳴館、ニコライ聖堂、岩崎邸、旧古河邸等多くの建築物をつくり、我が国の近代建築の基礎形成に貢献した。また、辰野金吾、片山東熊、曽禰達蔵ら多くの俊才を育てた。一方、『日本の造園』『日本の華道』著すなど、日本研究の分野でも活躍し、我が国の文化、芸術を海外に紹介した。日本を愛したコンドルは、日本女性クメ夫人とともにこの地に永眠している。』
・・・・・・・・・・ ところで、ここ護国寺の墓地は、どの墓も広い区割りにあり、行き届いた整備もなされ、“高級住宅地”ならぬ“高級墓地”である。 ここの仏さまは、緑豊かな広い墓地で安らかに眠っている。、、、、使用料、管理料も高そうだ!
● 護国寺墓地の西の端にある「護国寺墓地門」から墓地を抜けると、道路を挟み斜め向かいに「東京都 雑司ヶ谷霊園」(豊島区南池袋)がある。、、、、雑司ヶ谷霊園は、明治7年(1874)9月1日に「雑司ヶ谷旭出町墓地」として開設した。 明治9年(1876)に東京会議所から東京府が霊園管理事務を引き継ぎ、明治22年(1889)に東京市の管轄となる。 昭和10年(1935)「雑司ヶ谷霊園」に名称変更。 現在は東京都公園協会が管理している。 こちらの霊園も広く大きいため、眠っている仏さまも多い 、、、、こちらは、都営のためか、通路と墓域の境も判らず草ボウボウ、空いた区画はぺんぺん草が伸び放題、大から小まで多種多様な墓が混在、使用料・管理料も安そうだ!
・・・・・・・・・・ ジョン万次郎、小泉八雲、島村抱月、竹久夢二、泉鏡花、東條英機、いずみたく、永井荷風、サトウハチロー、金田一京助など著名人の多くが眠っている。、、、、私好みの美人画の巨匠:東郷青児、文豪:夏目漱石、銭形平次の大川橋蔵の墓を順に写真紹介。
● 雑司ヶ谷霊園の南側に、明治40年(1907)に建てられた「旧マッケーレブ邸」(雑司ヶ谷旧宣教師館)がある。 帰りにチョイト寄って見た。、、、、旧マッケーレブ邸(雑司が谷旧宣教師館)は、明治40年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたもの。 マッケーレブは、昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間この家で生活をしていた。 建物は、豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、東京都内でも数少ない明治期の宣教師館として大変貴重である。、、、、現在は豊島区が所有し、一般公開している。
● 東京メトロ有楽町線の「東池袋駅」から電車に乗る。、、、、東池袋駅は昭和49年(1974)10月30日の有楽町線池袋~銀座一丁目間開業と同時に設けられた。 ホームは島式1面2線構造で地下2階にある。
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