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2022年11月 9日 (水)

天王院

先日から「東叡山 寛永寺 護国院「神齢山 悉地院 護国寺護国山 天王寺」と巡り、今日は「護国山 天王寺」から“天王”つながりで「海福山 天王院 正圓寺(正円寺)」へ行くことにした。 「正円寺」は押上にある。 都営浅草線の押上駅で下車。 正円寺へ参り、その後は向島の弘福寺近辺を歩き、京成押上線の京成曳舟駅まで、1万2千歩の散歩です。



● 浅草橋駅から地下鉄で4駅目が押上駅、我が家の玄関から15分でスカイツリーの足下に立つ、近い!、、、、今日の散歩、スタート!!

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● 押上駅から北へ600m程行くと、下町の住宅地の中に「高木神社」(墨田区押上2)がある。 小さな神社だが、最近のアニメブームでチョイト有名になった神社らしい。(私はアニメに興味なく、知らなかった)、、、、高木神社は応仁2年(1468)第六天社として創建、旧寺島村大字新田の鎮守だった。 明治15年(1882)村社に列格した。 神社の祭神は高皇産霊神(たかむすびのかみ)で、社名の“高木”は高皇産霊神の別称が「高木の神」であることに由来する。、、、、現社殿は昭和42年(1967)の造営の、鉄筋コンクリート造。

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● 高木神社の境内と地続きで、隣に天台宗の「海福山 天王院 正圓寺(正円寺)」がある。 正円寺は高木神社の別当であった。 神社の裏手で、見落とされがちな小さな寺院である。 かつては境内の広さが2,400坪の大寺であったが、安政2年(1855)の安政大地震で崩落し、これまでの勢いを失って、現在に至っている。 応仁2年(1468)に常照法印により創建された。 浅草寺の末寺として五百年余の歴史を誇る古刹でありながら記録文献に乏しく寛永年間(1624~1644)以前の正確な歴史は不明。  、、、、境内は清浄に保たれた美しい寺。

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・・・・・・・・・・ 本堂前に石燈籠がある。 この石燈籠は、忠臣蔵の浅野内匠頭長矩の祖父:長直(赤穂藩祖)が、寛永寺の大猷院(徳川家光)廟所に寄進したものらしい。 廟所は享保5年(1720)に焼失し、その後再建されなかった。 燈籠はその後、明治期の上野山(寛永寺)の公園化の時に移されたものと思われる。

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● 【チョイト蛇足】今日の散歩にあたり、院号が“天王院”の寺院を探していたら、山号が“天王山”の寺院も見つかった。 次回の散歩は、ここにする。 乞う御期待!



● 正円寺から西に400~500m程歩くと都立本所高等学校(墨田区向島3)がある。 この校舎付近に二人の文豪の住居跡がある。

・・・・・・・・・・ まずは、校舎の東側:桜橋通りに面して「森鴎外住居跡」がある。 森鴎外の住居跡というと、出身地の津和野に生家、北九州小倉に旧居、都内台東区には鴎外の最初の結婚後に住んだ家が保存されている。 その他に、文京区千駄木、足立区北千住など、軍医時代も含め点々としたらしい。、、、、ここ向島の旧居跡(現在の本所高等学校の敷地内)には、学生時代の数年間、家族と共に暮らしたそうだ。、、、、高等学校前のバス停名は「森鴎外住居跡

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・・・・・・・・・・ 次は、本所高等学校の南側、墨田区すみだ福祉保健センター(向島3)の一角に「堀辰雄住居跡」がある。 明治43年(1910)から大正13年(1924)まで住み、その後、隅田公園東隣に移転した。 、、、、堀辰雄の名作は「風立ちぬ」、私の迷作「歯が立ちぬ」

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● 桜橋通りを歩き、国道6号(=水戸街道)を横断し、向島2丁目に入ると、「向嶋墨堤組合」の建物がある。 ここは、向島芸者の総まとめ「見番(けんばん)」だ!、、、、向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、現在、10軒の料亭が加盟し、120名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について日々修練しているそうだ。、、、、自分の若い頃は行ってみたかった芸者遊び、今は「役立たぬ」

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● 向嶋墨堤組合前の「見番通り」を北へ100m、黄檗宗の寺院「牛頭山 弘福寺」、、、、延宝元年(1673)黄檗宗の鉄牛和尚の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院。 江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。 関東大震災で罹災したが、昭和8年(1933)に、中国の黄檗寺にならって、本堂が大明式建築で再建された。 山門も、昭和8年の再建で、前に控柱が4本あり、門の中央部が2階建てとなっている。、、、、弘福寺には、明治の文筆家、淡島寒月が住んでいた。 寒月の住居跡は、弘福寺の隣りで「料亭 美家古」(国登録有形文化財)となっている。

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● 弘福寺の北隣には天台宗の寺院「長命寺」があるが、境内に幼稚園があるため、門前に住職・先生が出て不審者を監視中。、、、、子供が遊ぶ境内に、チョイト、カメラを持って近寄り難い、(私は、気が弱いので)今日は静かにパスする、女先生に睨まれていた!



● 長命寺の裏、墨堤通りに面して「長命寺 桜もち 山本や」がある。 300年続く桜もちは江戸の老舗の超名物、ぜひぜひ召上がれ!、、、、ここ「山本や」(当時は木造の建物)の二階に三カ月程借りて住んでいたのは、学生時代の正岡子規である。(正岡子規の仮寓

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● 向島5丁目と東向島1丁目の境は鳩の街(はとのまち)。 鳩の街はかつての赤線地帯。 地理的に私娼街「玉の井」と近く、1kmほどの距離である。 太平洋戦争末期に、東京大空襲で玉の井を焼け出された業者が何軒か、この地で開業したのが始まりという。終戦直後は、米軍兵士の慰安施設として出発したが、兵士が性病に感染することが多いため、昭和21年(1946)に米兵の立ち入りが禁止された。その後、日本人相手の特殊飲食店街(赤線)として発展した。 一時期には、娼家が108軒、接客する女性が298人いたという。、、、、久しぶりにチョイト歩いて見たら、激変、商店街の店はシッターを下ろし、営業している店は少ない。 裏道に残っていた娼家風の建物は、ほとんど取り壊され更地や新しい住宅に変わっている。 商店街裏の雑然とした住宅は壊され、大きなマンション用地が広がっている。 ここに、赤線があったとは思えない町となった!

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● 押上駅から向島に向かい、さらに東向島をブラついて、京成曳舟駅へ到着。 ここから、お帰りで~~す!

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