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2022年11月 3日 (木)

天王寺

先日は天台宗の大本山:寛永寺の子院である、上野の「護国院に行き、一昨日は真言宗豊山派大本山「護国寺に行ってきた。、、、、そこで疑問は、“院”と“寺”の違いとは? 調べてみたら・・・・寺の名前には、山号、院号、寺号があり、これら全てを持つ場合、このうちのいくつかを持つ場合など、寺によって様々である。 もともと“寺”とは客を宿泊させる場所を意味し、転じて僧侶が居住する建物を指すようになった。 一方、院は寺の一部の建物を指すことが多く、特に寺の中にあって人が居住することもできる施設のことでもあった。 さらに、院号は平等院鳳凰堂で有名な平等院などのように、貴人の建立した寺院の称号としてつけられる場合もあった。 山号は、昔、寺院を山中に建てることが多かったことから、寺のある山の名を別称としてつけたそうだ。、、、、山号+院号+寺号の例:浅草の浅草寺は金龍山伝法院浅草寺、山号+ 寺号の例:比叡山延暦寺、また法隆寺・興福寺・東大寺など奈良時代以前に建立された寺に山号はない。 要するに、山号、院号、寺号の適当な組み合わせで寺院名を表しているのだ!

ココまで調べたら、“護国”つながりで「護国山」と名乗る寺院があるか、チョイト調べてみたくなり、さらに調査。 結果は、ナント身近にあった。 しかも、以前に何回か訪れたことがある寺院だ! 私が住む“東京都台東区”、同じ区内で台東区谷中の天台宗寺院「護国山天王寺」・・・・と、言うことで、今日の散歩はJR日暮里駅に近い天王寺に行き、護国院経由で上野駅まで、7千歩の散歩。


● 日暮里駅で祝日の空いた電車から降りる。 今日は谷中の天王寺へ行くので、行先選定に悩むことなく「
日暮里駅南口」へ向かう。 南口は緑のトンガリ屋根の橋上駅舎が可愛らしい。 駅前の人道跨線橋は、西側(崖上)の紅葉坂と東側(崖下)の日暮里駅東口を繋ぐ利用度の高い歩道橋で、昭和3年頃に架設され、昭和45年(1970)に現在の幅に拡張された。

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・・・・・・・・・・ もみじばしに続く「紅葉坂」 坂の上は天王寺。 坂の名は、この辺りの紅葉の美しさから名付けられたそうだ、現在は坂の傍に樹木はないが、情緒ある景色だ。

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● 現在の台東区谷中7丁目は、江戸時代その大部分が天王寺の寺域であった。 谷中7丁目は、現:天王寺はもとより、都立谷中霊園の全域を含む広い町である。 言い換えると、現在の谷中霊園は天王寺のものであった。、、、、天王寺の歴史は、鎌倉時代後期、日蓮上人に帰依した土豪関長燿の草創にはじまる。 当時は「長耀山感応寺」と称した。 早くから日蓮宗不受不施派に属し、江戸幕府から弾圧された。 元禄11年(1698)には強制的に改宗させられ、以後天台宗寺院として、比叡山より毘沙門天像を迎え本尊とした。 元禄13年(1700)から江戸幕府公認の富くじが興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として賑わっていたが、天保13年(1842)には禁止される。 また、天保4年(1833)には、名称を「護国山天王寺」に改める。 明治元年(1868)彰義隊の兵火により本坊、五重塔以外は焼失となり、明治7年(1874)境内地の一部を東京府に移管され、これが現在の「都立谷中霊園」(園内には、寛永寺、天王寺の墓所が入り組んでる)となっている。

 

・・・・・・・・・・ 紅葉坂を上がると天王寺がある。 天王寺は、度々の火災で建物を焼失し、現在の本堂は昭和57年(1982)の再建である。、、、、山門は木造の古いものと、平成10年(1998)に新築のモダンな新山門がある。、、、、境内の樹々は秋の色に染まってきた!、、、、鉄筋コンクリート造の本堂だが、威圧感もなく、静かに迎えてくれる、、、、木造の毘沙門堂

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・・・・・・・・・・ 境内の
銅造釈迦如来坐像」は、像背面銘文によって、元禄3年(1690)に神田鍋町に住む太田久右衛門が鋳造したもの。 日蓮宗時代の鋳造である。 青銅を材料とし、割型の製法で鋳造されたもの。 大きさは像高2.96m。 この像ははじめ旧本堂の脇に建てられ、明治7年(1874)の谷中墓地開設のため、墓地西隅に残されていた。 さらに、昭和8年(1933)現在地に基壇を新築し、修理を加えて移され、基壇には納骨堂が設置されてる。

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・・・・・・・・・・ 天王寺山門の脇にある地蔵尊。 江戸時代には富みくじをしていたから、地蔵も一儲けできたかな?

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・・・・・・・・・ 山門前の「さくら通り」は、かつて天王寺詣りの参道であった、今は桜の名所として谷中霊園のメインストリート。、、、、この道を、道なりに800m程南に歩くと上野公園の東京藝術大学に至る。 東京藝術大学の隣りに「東叡山寛永寺 護国
」がある。 “護国山”と“護国院”を結ぶ道だ!

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・・・・・・・・・・ 天王寺山門とさくら通りを挟み向かいに天王寺墓地がある。 東西を都立谷中霊園に挟まれているが、一般人にはそれぞれの霊園の境界が判らない。、、、、今日は、天王寺霊園の敷地内にあると思われる、植物学者:牧野富太郎、彫刻家:朝倉文夫、浅草「神谷バー」の創設者でハチブドー酒を出荷した:神谷伝兵衛の墓 を紹介。 いずれも、立派な墓だ!

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・・・・・・・・・・ 天王寺墓地の区域に、ひときわ目立つ仏塔がある。 それは「東京大学医学部納骨堂」。 東京大学医学部で、解剖に供した遺体を弔う施設。

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・・・・・・・・・・ 谷中霊園内に残る天王寺の銅造釈迦如来坐像台座跡」 天王寺の銅造釈迦如来坐像は、はじめ旧本堂の左手に建てられ五重塔と向かい合っていた。 明治7年(1874)の谷中墓地開設のため、墓地西隅に残されていたところ、昭和8年(1933)現在地に基壇を新築、修理を加えて移された。、、、、移される前の台座跡は、虚しい状態で公営の墓地の中に残っている。

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・・・・・・・・・・ こちらは、谷中霊園内に残る「天王寺五重塔跡」、、、、谷中霊園の中央付近には、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルになった「
天王寺五重塔の跡」がある。 天王寺の最初の五重塔は、寛永21年(1644)に建立されたが、130年ほど後の明和9年(1772)目黒行人坂ぎょうにんさかの大火で焼失した。 罹災から19年後の寛政3年(1791)に再建された五重塔は、震災・戦災をくぐり抜け、長く谷中のランドマークになっていたが、昭和32年(1957)7月6日、残念ながら放火により焼失し、現在はその基礎部分のみが残されている。

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● 天王寺から、さくら通りを南に向かい、東京藝術大学の方へ歩く。、、、、「旧吉田屋酒店」(明治43年築)前を通り、藝大前の和菓子屋「桃林堂」に出る。

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・・・・・・・・・・ 桃林堂から、チョイト西へ100m「護国院」に来た! 護国山から護国院へ、ゴコクロ~サン、お疲れさん!

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