寒い寒い!
伊豆から帰った翌日から、日本列島は大寒波に覆われ、連日、寒い!寒い!寒い日が続く。 東京は、雪は降らねど慣れない寒さ。 日中の気温は10℃以下。 散歩に出たくとも足は出ず、家に籠ってグダグダ過ごし、なんとなく今日も一日が終る。
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伊豆から帰った翌日から、日本列島は大寒波に覆われ、連日、寒い!寒い!寒い日が続く。 東京は、雪は降らねど慣れない寒さ。 日中の気温は10℃以下。 散歩に出たくとも足は出ず、家に籠ってグダグダ過ごし、なんとなく今日も一日が終る。
昨日・今日、一泊二日で妻と伊豆下田に行ってきた。 昨日は爪木崎の水仙を見て、今日は下田の町歩き。
● 私が最初に伊豆に行ったのは、昭和35年(1960)、中学校の課外旅行である。 当時はまだ伊豆急は運行しておらず、建設中であった。 伊東駅から観光バスに揺られ、下田、石廊崎まで回った。 伊豆半島の道路は、現在のように整備されておらず、海岸沿いの曲がりくねった細い凸凹道を揺られて行った。 この時の記憶は、風が吹き付ける寒い石廊崎と、上下左右に揺れるひどいバス旅だったことぐらい。、、、、伊豆急の路線は翌年の昭和36年(1961)12月10日に全線が開業した。 以来、伊豆が好きになり、度々訪れている。 今回見に来た爪木崎に群生する水仙を見るのも二度目である。
● 特急「踊り子号」で東京駅から3時間弱、伊豆急の終着駅「伊豆急下田駅」は、静岡県内の鉄道駅では最も南に位置する。、、、、頭端式ホーム2面3線が、終着駅の雰囲気を演出し、いいね!
● 下田駅から車で15分、爪木崎(つめきざき)に300万本の水仙が咲き誇る群生地がある。 本当に300万本あるのか、チョイト数えてみたくなるが、無理はせず!、、、、ところどころ、白いスイセンに混じって赤いアロエの花も咲いてる。 どうやら見ごろな時に訪れたようだ、“普段の行い”が良いのかな!
● スイセンを見ながら岬の先へ行くと、無人の「爪木崎灯台」がある。 昭和12年(1937)に初点灯した高さ17m(海面からは38m)の灯台。、、、、灯台の先は、冷たそうな冬の海。 夕食の膳に出てきた、アワビ、金目鯛は、この海で生活していたのか?可哀そうに!
●町歩きでは、高校の歴史で学んだ記憶はあるが、年代、登場人物、条約目など記憶が薄れた『黒船来航』時の、ゆかりの寺巡り。
・・・・・・・・・・ 「玉泉寺」(ぎょくせんじ)、、、、下田の町の中心からはチョイト外れた処にある、曹洞宗の寺院:玉泉寺。 山号は瑞龍山。 本尊は釈迦如来。 創建年代は不詳。、、、、幕末期にアメリカの総領事館として使用された寺で、初代総領事はハリス。 境内には「ハリス記念館」がある。、、、、【蛇足】年配の人なら知っている“ハリス・ガム”とは無関係!
・・・・・・・・・・ 「了仙寺」、、、、寛永12年(1635)下田奉公今村正長によって創建された日蓮宗の寺。 嘉年7年(1854)日米和親条約が締結され、下田が開港、了仙寺はペリーと日本全権の交渉場所となり、日米和親条約下田追加条約が締結された。、、、、私が、昔、来た頃は境内に“秘宝館”のような施設があった。 当時は、大変興味深く学んだ思い出がある。 あれもこれも、日蓮の教えだったのか?
・・・・・・・・・・ 「長楽寺」、、、、ペリーロードからチョイト脇の見晴らしの良さそうな小高い処にある大浦山長楽寺は、高野山真言宗の寺院。 創建は不詳だが、当初は薬師院長楽寺と号し、室町時代末期の弘治3年(1557)、真言宗の寺院として開山したそうだ。、、、、長楽寺は幕末の外交の舞台でもあり安政元年(1854)には権筒井政憲(旗本:目付、長崎奉行、南町奉行、大目付を歴任)・川路聖謨(旗本:佐渡奉行、普請奉行、公事方勘定奉行を歴任)とプチャーチン(ロシア使節海軍中将)との間で日露和親条約(日露通好条約)が締結され、安政2年(1855)には掛井戸対馬守等と米国使節アダムス中佐との間に日米和親条約批准書の交換が行われている。
・・・・・・・・・・ 「宝福寺」、、、、宝福寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、創建年代は不明である。 元々は真言宗の寺であったが、永禄2年(1559)に浄土真宗の寺となった。 嘉永7年(1854)に下田奉行が設置された際、当寺が一時奉行所庁舎となっている。 文久3年(1863)、土佐藩の元藩主山内容堂が当寺に滞在していた。 勝海舟は門人の坂本龍馬が犯した脱藩の罪の許しを乞うため容堂に面会、会談後に龍馬の罪は許されることになった。 寺には容堂に海舟が謁見したと言われてる部屋が残されている。、、、、総領事ハリスに仕え、のちに非業の死を遂げた本名:斎藤きち(唐人お吉)の墓があり、寺の「唐人お吉記念館」にはお吉所縁の品々を所蔵している。
● ペリー提督一行が了仙寺で日米和親条約付録下田条約締結のために行進したのがこの道「ペリーロード」。 かつて出船入船三千隻とうたわれた港町下田の花柳界の面影を残しており、平滑川(ひらなめがわ)沿いを石畳の道が続き、伊豆石やなまこ壁の家並み、柳並木が独特の風情を醸し出しています。 了仙寺のほか、日露和親条約締結場所である長楽寺、あじさい祭で有名な下田公園もこの地区に位置しており、特徴的なお店も多く、たくさんの観光客の皆さんが集まる下田の代表的な観光スポット。、、、、このペリーロードは平成6年度「静岡県都市景観賞最優秀賞」を受賞した。、、、、川に柳、情緒あるね! 横丁から芸者が姿を現しそうだ!
・・・・・・・・・・ 近くには、唐人お吉が晩年に料亭を営んでいた、なまこ壁の建物「安直楼」がある。 現在は中に入ることはできないが、今も残る風情あふれる佇まいは、幕末の下田を感じさせてくれる。
● 一夜のお宿「ホテル伊豆急」から眺めた白浜海岸、、、、綺麗な砂浜がいいね!
東武伊勢崎線梅島駅から北へ竹ノ塚駅まで、街道の面影が残っていない旧日光街道の“極一部分”を歩いて来た。 1万1千歩
● 前回の散歩の続きで東武伊勢崎線「梅島駅」で下車する、、、、梅島駅は大正13年(1924)10月1日に小菅・五反野両駅と共に、北千住駅と西新井駅の間に同時に追加開業した。 現在のホームは高架島式1面2線構造だが、やや特殊な構造をしており、ホーム中央から北側が下り線、南側が上り線で使用してる。 また、上下それぞれのホームで電車が停まる反対側は目くら壁となっている。 そのため、ホームの総延長は長く2編成分以上ある。
・・・・・・・・・・ 下り電車の先頭車両から降りると、最後尾車両の位置まで歩かないと階段がない、朝から疲れるね!
・・・・・・・・・・ 階段はホーム中央にあり、階段の先には上りホームが見える。 ホームで待つ人は上下線でそれぞれ反対側を向いている。
・・・・・・・・・・ 改札を出た駅前の道路は旧日光街道。 今日はこの道を旧街道の面影を探し、北へ向かって歩くことにした。
● 駅前の電柱、目立つように『旧日光街道』の標示。 江戸時代の大名はこの道を歩き日光へ参拝したのか?
・・・・・・・・・・ 梅島駅から50m程北に歩くと『梅島天満宮 入口』の立て看板が目に入る。 早速、“旧街道の名残”があった!、、、、と思いきや、「梅島天満宮」は、昭和23年(1948)に筑紫太宰府天満宮の宮司西高辻信氏により分霊遷宮して、梅島町会の鎮守神として梅島公園(梅島小学校地)に創建され、昭和41年当地に移転した。 旧街道とは無関係の、高架橋脇の小さなお社であった。
● 梅島三丁目交差点の角で、旧日光街道と交わる道路に「大正新道記念碑」がある。 故事来歴の説明はなく、ネットで調べても正体不明? 文字面からは、大正時代に造られた道を記念したものであろう。 チョイト大げさな記念碑だ!
● 環七通りを越え足立区島根の町に入ると、旧街道沿いに唐破風の「大和湯」がある。、、、、旧街道沿いの銭湯で、昭和10年から営業してるそうだ。 歴史ある銭湯だが、旧街道の時代までは遡れない。、、、、入浴料金大人500円也
● 島根4丁目の角、旧日光街道沿に「将軍家御成橋・御成道松並木跡」石標柱がある、、、、日光街道の西を流れる千住堀にかかっていた橋がかつてあった跡。 御成橋を渡ると葵の紋を許された国土安穏寺への松並木御成道となる。(現在、松並木はない)、、、、参道両側の題目塔には、「国土安穏寺」とあり同寺の参道入口を示している。、、、、やっと“旧街道”を忍ばせる遺構があった!
・・・・・・・・・・ 題目塔に従い参道を入ると、日蓮宗の古刹「天下長久山 国土安穏寺」がある。 創建は、応永17年(1410)、開山は日通聖人、開基は千葉太郎満胤である。、、、、 江戸時代に、将軍秀忠および家光が、当所巡遊の折の御善所となり、八世日芸聖人の大宇都宮釣天井予言の功により、寛永元年(1624)、現寺号を賜り、徳川家祈願所位牌安置所となる。 よって安穏寺は、葵の御紋の使用が許されている。、、、、 現在の諸堂は、鐘楼を除き、昭和以降の造営である。 本堂の左手前には家光お手植えの松がある。
● 続いて足立区島根4丁目に参道入口がある、昨年も訪れた「島根鷲神社」。 ここに、旧日光街道の名残はあるか?、、、、島根村は徳川将軍家の鷹狩場であったことから歴代将軍の参詣があった。 ここにも、3代将軍家光のお手植えの松があったが、天保年間(1830~1845)に惜しくも枯れてしまったそうだ、残念!、、、、【親切な注】社名の“鷲”は、「おおとり」ではなく「わし」と読む。 台東区千束の“鷲神社”は「おおとりじんじゃ」と読む。
● 再び旧日光街道に戻り歩くが、昔を語る遺構・遺跡・寺社は見つからない!
・・・・・・・・・・ 今日の散歩はココまで、高架化工事の進む竹ノ塚駅から帰宅!
今日の散歩は、北風がチョイト吹く寒い朝、綾瀬駅から北西へ、綾瀬川を越えて五反野駅をとおり梅島駅まで、1万歩の散歩。
● 「綾瀬駅」はJR常磐線と東京メトロ千代田線の駅。、、、、常磐線は昭和18年(1943)に追加開業した駅。 昭和46年(1971)には常磐線の複々線化とともに地下鉄千代田線が乗り入れ、以後は営団(現:東京メトロ)が管理する駅となった。 ホームは基本的に高架島式2面3線構造だが、3・4番線ホームの東寄りには北綾瀬支線が使用する欠き取りホームの0番線がある。 改札口は西出口と東出口の2ヶ所で、いずれも1階にある。、、、、コロナ前までは、JRと東京メトロ合わせて、一日当たり40万人程が乗降する駅。 都内で利用者の多い駅の一つだ!
● 綾瀬駅西口から北西に150m程入った裏通りに丁目に、庭の手入れが行き静かな真言宗豊山派の「観音寺」(足立区綾瀬4)がある。 観音寺は稲荷山蓮華院と号す。 観音寺は、賢智上人が開山、当地を開拓した金子五兵衛(法名開田院)が開基となり、17世紀初頭に創建された。 境内には五輪塔形式の金子五兵衛の墓がある。、、、、また、慶応4年(1868)3月には江戸から退却する新撰組の一隊(当時は甲陽鎮撫隊)が近くの金子家とこの観音寺に宿泊した。 新政府軍も伊藤谷橋まで進出し戦闘が始まろうとしたが、新撰組は流山に撤退した。
● 観音寺の北隣には「綾瀬稲荷神社」が鎮座する。 綾瀬稲荷神社の創建年代は不詳だが、金子五兵衛が開拓した五兵衛新田の鎮守社であったといい、明治7年(1874)に五兵衛神社と改称し、さらに昭和42年(1967)にはこの地の地名が“五兵衛町”から“綾瀬”に改称し、社名も綾瀬稲荷神社と改称した。、、、、昭和57年の建立の拝殿奥にある本殿は、天保14年(1843)築造の総欅造りの建物。
● 綾瀬稲荷神社の北側に、地元の名家「金子家」がある、、、、幕末の動乱期、金子家に新撰組の1隊の甲陽鎮撫隊が半月余りに渡って滞在していたと言われている。 新選組関連の資料が多く残されているそうだ。、、、、五兵衛新田の開拓者の1人、金子五兵衛の館
・・・・・・・・・・ オヤ? 近くに「金五建設」なる会社があった!、、、、こちらも、“金子五兵衛”に関係あるのか???
● 綾瀬川に架かる「五兵衛橋」を渡る、、、、橋名は、この辺を開拓した金子五兵衛に由来する。 江戸時代の初期、金子五兵衛は数人と共に武蔵国入間郡金子村(現埼玉県入間市)から転入して開拓をはじめ、一帯はその名をとって五兵衛新田村と呼ばれた。 寛永年間(1624~1644)に綾瀬川が現在の内匠橋から伊藤谷橋あたりまで新川として開削されたため村は東西に分断された。 幕府は、代償として長さ12間、幅9尺の土橋「五兵衛橋」を設置した。 その後、五兵衛橋は何度か架け替えられ、現在は平成10年(1998)に架けられた人道・自転車道専用の橋となっている。 (昭和61年(1986)、下流側に都道467号を通す「五兵衛新橋」が架かる)
・・・・・・・・・・ 五兵衛橋から綾瀬川を見ると、水面は周囲の住宅の床面よりかなり高い! 明らかに、“0メートル地帯”である!、、、、堤防が崩壊すると、怖いね!!
・・・・・・・・・・ 綾瀬川沿いの足立区立弘道小学校の校舎の外壁に、氾濫時の予測最高水位(青い線)4.2mが示されている。 予測どうりだと校舎の1階は完全に水没する! こんなものを見てると一層怖くなる!
・・・・・・・・・・ しばらく歩いて梅島駅近くの電柱が目に入る、目線の位置には『想定浸水深 最大5.0m 赤いテープの位置』の標示、その赤いテープは電柱の上、首を空に向けるとアッタ! 住宅の2階まで完全に水没、南無阿弥陀仏!
・・・・・・・・・・ 五反野駅(足立区足立3)付近では、『想定浸水深 最大5.5m 』、、、、平屋、2階建てに住む人は、死を覚悟、ア~メン!
● チョイト恐怖に怯えながら「五反野駅」前を通過、、、、歩きながら考える、、、、この駅もイザとなったら、改札は水没、泳いで高架ホーム辿り着けば助かるかも?
● 東武伊勢崎線の高架沿いに歩いて「梅島駅」に到着。 川が氾濫しないことを願いつつ帰宅する。
一昨日の散歩は青砥駅で終った。 今日の散歩は青砥駅からスタートすることにした。 青砥駅から東西南北いずれの方向に歩こうか(?)、Googleマップを見ながら悩んでいると、地図上に道路に『亀有新道』の文字がある。 よくよく見ると、一昨日歩いた東四つ木の荒川左岸から、立石駅の北側をとおり、かつしかシンフォニーヒルズ前を抜けて、青砥駅前までほぼ一直線に伸びた道路で、かって“水道道路”と言われたと記憶している道である。 この「亀有新道」が、青砥駅前で直角に曲がり北上して亀有駅前のロータリーまで伸びている。 今日まで私は『亀有新道』という道路名は知らなかった! 早速調べてみたが「亀有新道」の起点・終点、ルートなど一切不明。(葛飾区の区史にも見つからず) 水戸街道近くの都営住宅前に「亀有新道」というバス停があることは判った。 何だか手掛かりの少ない亀有新道、興味が湧いてきた。、、、、今日の散歩は、青砥駅前から、Googleマップに標された亀有新道を歩き亀有駅まで歩くことにした。 何か発見できるかも!
● まずは京成押上線「青砥駅」で下車、、、、平日の朝、都心に向かう2階ホームは通勤通学客が多いこと!
・・・・・・・・・・ 青砥駅の高架下を抜ける、この道路の先に亀有新道がある
● 「青砥駅北口」交差点、写真左の道が東四つ木に向かう亀有新道、亀有新道はこの交差点で直角に折れ、中央奥(北)へ向かうと亀有駅である。、、、、、私の推測では、この交差点から東四つ木までは直線の“水道道路”を利用し、ここから亀有駅までは一般道路を利用し、役所の誰かが「亀有新道」と名付けたと思われる。 今日の散歩は、ここから亀有新道を歩き亀有駅を目指す。
・・・・・・・・・・ 交差点近くのお弁当屋さん。 ナント、マア~!ワンコインでお弁当が2つ、安い! 何種類かあるようで、選べる弁当! 下町は物価が安いのか?
● 総戸数1119戸のUR賃貸住宅「青戸第一団地」、、、、日本住宅公団が、ここ青戸団地の入居者を募集したのは昭和31年(1956)7月である。その後、人口増加に伴い、住環境は整備された。 亀有新道はこの団地前をとおる。
● 亀有新道は青戸4丁目の「青戸平和公園」前を通る。 ここは昭和63年(1988)に、非核平和都市宣言5周年を記念し、旧青戸公園を改修して非核平和祈念塔を建設すると共に、噴水、せせらぎなどを作り、塔の前には被爆時の遺品が献花台が設置されている。 広島御幸橋の縁石、長崎で被爆のレンガ門柱などが展示してある。 「原爆犠牲者 慰霊碑」もある。、、、、平和を祈る場所が、なぜここかは、不明?
・・・・・・・・・・ この付近では、亀有新道は直線道路
● 青戸7丁目の「テクノプラザかつしか」前、、、、地場産業育成のための活動拠点。 産業関係者の交流や自主的活動の促進、経営・技術情報の提供、経営・下請相談などを行っている。、、、、葛飾区は昔からおもちゃの製造会社が多く、地場産業として強みを発揮してもらいたいね! そんなことを思って歩いていると、脇をリカちゃんのバスが通り過ぎて行く。
● 亀有新道と水戸街道(=国道6号)が交差する。
・・・・・・・・・・ 交差点の先にある両側のバス停の名が「亀有新道」、バス停前の公園は「新道口児童遊園」。 亀有新道を歩いて初めて見つけた“亀有新道”の文字、見ることが無かった道路の愛称を見つけ感動したね。(本日歩いて見つけた唯一の道路名)
● 亀有新道が亀有1丁目に入ると、脇道に寺の屋根が見えた、チョイトお立ち寄り!、、、、寺は、真宗大谷寺院派の「本多山 蓮光寺」。 創建年代は不詳だが、遠江国横須賀に創建、その後三河国安祥(安城)へ、慶長14年(1609)広闡庵了賢が江戸神田へ移転したと伝えられている。、、、、樹木多く手入れも良く、心休まる寺。 墓参りに行きたくなるほど緑が綺麗。
● 亀有新道と旧水戸街道の交差点には、「一里塚跡」の碑と水戸黄門御一行の石像がある。 一里塚跡は納得できるが、石像はチョイト気味が悪いね!
● 亀有新道は亀有駅前ロータリーにぶつかる。、、、、名を知る人は少ないと思われる「亀有新道」を歩き、本日の目標達成!
● 帰宅するつもりで亀有駅改札口まで行ったが、時刻は9時半、アリャ予定より早く着いた! もう少し歩くか! 隣の綾瀬駅まで歩こう!、、、、と云うことで、散歩のおまけで綾瀬駅まで歩いて来た。 本日は1万3千歩
京成押上線の八広駅から荒川を渡り、立石駅前を通り青砥駅まで、1万2千歩の散歩です。
● 八広駅で電車から降り、ホームの端に立つと荒川に架かる押上線荒川橋梁に接していることが判る。 平成3年(1991)1月5日、桁の高さが低かった旧荒川橋梁にタンカーが衝突し、上下線とも数日間運休となる事故が発生した。 これを契機に、荒川橋梁の掛け替えおよび荒川を挟み両岸の四ツ木駅と八広駅間の高架化工事が開始され、平成11年(1999)工事が完成した。 また、平成6年(1994)には、荒川駅を八広駅に改称。、、、、現在の駅の構造は、ホームは3階にあり、1番線が片面、2・3番線が島式の2面3線構造。 2階は改札・コンコース。 高架下の1階は薄暗い出入口とその周囲は自転車置き場。 なんでこんな陰気な駅を造ったのか謎だ!?、、、、駅名の「八広」は地名から採用。 地名の「八広」は元々「吾嬬町」といい、昭和40年(1965)の住居表示実施に伴い寺島町六・八丁目、隅田町四丁目・吾嬬町西五・六・七・八・九丁目の8地区が合併して成立したため、「八」の字を採り、その字体から「末広がり」の縁起を担いで命名された。
● 平成11年(1999)に供用を開始した現在の押上線荒川橋梁であるが、旧橋の撤去や関連護岸工事などすべての事業が完了したのは平成14年(2002)である。 総事業費は398億円(内242億円(65%)は国庫負担)、、、、現橋は旧橋より3.7m嵩上げし、水面から8.3mの高さとなった。 橋長473mの単純トラス橋。
● 押上線荒川橋梁の上流側(北側)に、新四つ木橋、四つ木橋(国道6号)が架かっている。 四ツ木橋の旧橋は大正11年(1922)に、荒川放水路(現:荒川)開削に伴い木製の四ツ木橋が架橋された。 その位置は現在の国道6号ではなく、約500m下流の東京都道465号深川吾嬬線の延長上にあった。 大正12年(1923)9月、関東大震災の混乱に乗じ、この四ツ木橋の墨田区側のたもとで、朝鮮人・中国人虐殺が行われたといわれてる。 なおその規模は不詳である。、、、、押上線荒川橋梁から約100m下流側、都道465号が荒川にぶつかる際に、「関東大震災 朝鮮人殉職者追悼碑」がある。 この場所は、韓国・朝鮮人が殺害された場所の一つと言われている。 嘘か真か、詳細は不明。、、、、写真は荒川堤防上から撮影。
● 押上線荒川橋梁から100m程下流に架かる「木根川橋(きねがわばし)」は、墨田区八広と葛飾区東四つ木とを結ぶ美しいトラス橋である。、、、、全長531.4mの3径間下路カンチレバートラス橋 +4径間下路単純トラス橋で、着工は昭和42年(1967)、完成は昭和44年(1969)2月。 下部工の施工は大成建設。、、、、この橋は、さだまさしの歌「木根川橋」のモチーフとなった。 この歌を私は知らないが、木根川橋そのものは、何となく下町の匂いがするようで好きだ!
・・・・・・・・・・木根川橋から下流を眺める。 冬の太陽が昇ってる!
● 木根川橋を渡り葛飾区東四つ木の町に入る。 ここは細い曲がりくねった小路に、町工場、住宅が建ち並ぶ木造密集地区。、、、、下町の雰囲気が残っている、好きだ!
● 東四つ木の町の中に「渋江白髭神社」(四つ木白髭神社とは別)がある。 渋江白髭神社は、旧西葛西領澁江村(東京府南葛飾郡本田村字澁江)の鎮守で、江戸時代は「葛西の客人(まろうど) 大権現」と呼ばれ、吉原、深川、千住などの遊郭や水茶屋、花柳界の人々の崇敬を集めた。 創建年代は不詳ながら、旧別当寺の観正寺が延徳3年(1491)創建であることから、室町時代の創建と推定される。、、、、現在の社殿は嘉永元年(1848)の造営。、、、、当神社付近には、戦国時代に使用されたとされる渋江陣屋の跡があったそうだ。 遺構などは無いが、「渋江城跡」と言われてる。
・・・・・・・・・・ 社殿前の狛犬は安政3年(1856)に深川の油問屋から奉納された。 また、常夜燈は文政6年(1823)に日本橋葦屋町(現:人形町付近)からの奉納。
・・・・・・・・・・ 境内には、文政5年(1823)奉納の客人大権現の道標などが数基残っている。
● 渋江白髭神社から北東へ約500m、プールやテニスコートなどもあるチョイト大きな渋江公園(葛飾区東立石)がある。 この公園に、3人の子どもが階段に座る彫刻が花壇の中央に置かれた「葛飾区セルロイド工業発祥記念碑」が建っている。、、、、葛飾のセルロイド工業は、大正時代から昭和20年代にかけて旺盛だった。 大正3年(1914)「千種セルロイド工業」が、この地に創設されたことに始まる。 しかし皮肉にも千種セルロイド工業は、不況のために早くも大正9年(1920)に廃業してしまうが、セルロイド工業はこの地区に定着し発達していった。 戦後セルロイド製品は日本の輸出品の中で重要な役割を果たしたが、プラスチック技術の発展にともない急速に衰退した。 公園内の記念碑は、この地域が葛飾区の近代工業の発展を担ったことを表わしている。 昭和27年(1952)、渋江公園の造成に伴って建てられた。、、、、私も愛用したセルロイドの下敷き、筆箱、玩具など、現代のプラスチックに変わるまで、戦前戦後の重要な素材であった。 セルロイドは燃えやすい素材であるため、現在は国内で生産されていないそうだ。、、、、懐かしい匂いがする素材で、セルロイド製の樟脳船で遊んだことを思い出す。
● 高架化工事中の立石駅を通り、1,300席を有するクラシック音楽向けのホールを備える文化センター「かつしか シンフォニーヒルズ」前を抜けると青砥駅。
今日は松の内の最後、明日から2023年の活動を開始する人もいるかも、私も今日から『雅万歩』を再開しようと思う。
年末はしばらくの間、家の中でうろちょろ、外であたふた、夜はよたよた、寝床に入ればぐうぐう。 歩く機会が少なかった、足が退化したかも? 今日は足慣らしで、浅草橋の我が家から京成押上線の八広駅まで歩いた。 1万3千歩
● まずは、我が家の氏神様にご挨拶、、、、浅草橋駅裏の「銀杏岡八幡神社」に詣でる、、、、我が家では、昨年春に私と妻の身内が続けて他界し仏事に追われ、夏から秋には遺品整理と相続手続きに追われ、年末はリホームで居場所を追われ、気の休まる日は無かった。 今年は、のんびりできることを願うのみ! お賽銭、チャリン・チャリン(100円硬貨2枚)
● 浅草橋駅前から江戸通りを北へ向かう、、、、通勤する人、配送するトラック、正月気分は抜け普段と変わらぬ景色。
● 駅から約400m、浅草橋3丁目のビル前にある「メタセコイア」の木。 見上げる高さで、25m(都内最大級)。 メタセコイアは常緑樹に似ているが、冬になるときれいな褐色に色づき落葉するのでメタ(超越した)セコイア(ヒノキ科の常緑針葉樹)と名付けられたそうだ。(知ってても、あまり役立たない知識)
● 江戸通りからそれて「厩橋」を渡り、対岸の墨田区に入る、、、、朝8時、冬空の下、静かに流れる隅田川
● 墨田区東駒形1丁目のビルの植え込みに「将棋名人 木村義雄誕生の地」の案内板が建てられてる、十数年前に建てられた案内板で文字がかすれ読みずらい。(墨田区教育委員会で作り直して!) 読めた部分を紹介すると、『将棋の十四世名人木村義雄は、明治38年(1905)に本所区表町39番地(当地?)に生まれ、明徳尋常小学校(現本所中学校)を卒業した。 子どもの頃から将棋や囲碁が強く、大正5年(1916)に十三世名人関根金次郎の下に入門し、頭角を現わしました。昭和13年(1938)に第一期実力制名人となり、その後4期連続で名人位を防衛しました。昭和22年(1947)に塚田八段に敗れたものの、昭和24年(1949)には再び名人位に就き、通算8期10年の間、その地位を守りました。 昭和27年(1952)に大山八段に敗れて以後、公式戦休場を表明し、十四世永世名人を襲位しました。』、、、、現在の藤井五冠と比べると、どっちが強い?
● 8時45分、北十間川に架かる「源森橋」を渡り隅田公園(墨田区)に向かう。、、、、長く伸びた人影が冬を感じさせる
● チョイト、隅田公園の一角に鎮座する「牛嶋神社」によって行く、、、、丑(うし)年はすでに遠く去り今年は卯年、でも御利益を期待し参拝する人は多そうだ! 私も12億円の宝くじに御利益を期待し、賽銭を入れる。
● 向島からは水戸街道(国道6号)沿いに歩く、、、、寒さ感じず、足は軽快、スタコラサ!
● 東向島の東武伊勢崎線ガード下には東武鉄道開業時の蒸気機関車(B1形6号蒸気機関車)が展示されてる。、、、、案内文は『6号機関車 東武鉄道記念物12号 明治32年(1899)の開業にさきだち、明治31年(1898)英国ピーコック社から輸入した機関車で、この6号機関車は、5号機関車とともに昭和40年(1965)まで伊勢崎線で活躍していました。 東武鉄道では昭和41年(1966)7月貨物全線の電気化が完成するまでは、多くの蒸気機関車が在籍。 貨物線の電化が進むに従って蒸気機関車は、次々と姿を消していきました。』、、、、動くように整備しSL大樹と共に鬼怒川線で走らせると楽しそうだ!
● 京成押上線が荒川を越える西詰、荒川土手に接して「八広駅」がある。、、、、八広駅は大正12年(1923)7月11日に荒川駅として開業。 平成3年(1991)1月5日に、旧荒川橋梁にタンカーが衝突し、上下線ともレールが折損するほどの事故が発生し、四ツ木~八広駅間が数日間運休となる。この事故を契機に、四ツ木~八広駅間の高架化工事が開始される。 平成6年(1994)駅名を八広駅に改称。、、、、単式ホームの1番線が上り線ホーム、島式ホームの2・3番線はそれぞれ下り線ホームと予備ホームの高架駅である。 コンコースも高架下の2階中央にあるが、駅出入口はバスが走る大通りから高架下の脇道をチョイト歩いた薄暗い奥にある。 夜は怖いかも?