ちょっぴり旧日光街道
東武伊勢崎線梅島駅から北へ竹ノ塚駅まで、街道の面影が残っていない旧日光街道の“極一部分”を歩いて来た。 1万1千歩
● 前回の散歩の続きで東武伊勢崎線「梅島駅」で下車する、、、、梅島駅は大正13年(1924)10月1日に小菅・五反野両駅と共に、北千住駅と西新井駅の間に同時に追加開業した。 現在のホームは高架島式1面2線構造だが、やや特殊な構造をしており、ホーム中央から北側が下り線、南側が上り線で使用してる。 また、上下それぞれのホームで電車が停まる反対側は目くら壁となっている。 そのため、ホームの総延長は長く2編成分以上ある。
・・・・・・・・・・ 下り電車の先頭車両から降りると、最後尾車両の位置まで歩かないと階段がない、朝から疲れるね!
・・・・・・・・・・ 階段はホーム中央にあり、階段の先には上りホームが見える。 ホームで待つ人は上下線でそれぞれ反対側を向いている。
・・・・・・・・・・ 改札を出た駅前の道路は旧日光街道。 今日はこの道を旧街道の面影を探し、北へ向かって歩くことにした。
● 駅前の電柱、目立つように『旧日光街道』の標示。 江戸時代の大名はこの道を歩き日光へ参拝したのか?
・・・・・・・・・・ 梅島駅から50m程北に歩くと『梅島天満宮 入口』の立て看板が目に入る。 早速、“旧街道の名残”があった!、、、、と思いきや、「梅島天満宮」は、昭和23年(1948)に筑紫太宰府天満宮の宮司西高辻信氏により分霊遷宮して、梅島町会の鎮守神として梅島公園(梅島小学校地)に創建され、昭和41年当地に移転した。 旧街道とは無関係の、高架橋脇の小さなお社であった。
● 梅島三丁目交差点の角で、旧日光街道と交わる道路に「大正新道記念碑」がある。 故事来歴の説明はなく、ネットで調べても正体不明? 文字面からは、大正時代に造られた道を記念したものであろう。 チョイト大げさな記念碑だ!
● 環七通りを越え足立区島根の町に入ると、旧街道沿いに唐破風の「大和湯」がある。、、、、旧街道沿いの銭湯で、昭和10年から営業してるそうだ。 歴史ある銭湯だが、旧街道の時代までは遡れない。、、、、入浴料金大人500円也
● 島根4丁目の角、旧日光街道沿に「将軍家御成橋・御成道松並木跡」石標柱がある、、、、日光街道の西を流れる千住堀にかかっていた橋がかつてあった跡。 御成橋を渡ると葵の紋を許された国土安穏寺への松並木御成道となる。(現在、松並木はない)、、、、参道両側の題目塔には、「国土安穏寺」とあり同寺の参道入口を示している。、、、、やっと“旧街道”を忍ばせる遺構があった!
・・・・・・・・・・ 題目塔に従い参道を入ると、日蓮宗の古刹「天下長久山 国土安穏寺」がある。 創建は、応永17年(1410)、開山は日通聖人、開基は千葉太郎満胤である。、、、、 江戸時代に、将軍秀忠および家光が、当所巡遊の折の御善所となり、八世日芸聖人の大宇都宮釣天井予言の功により、寛永元年(1624)、現寺号を賜り、徳川家祈願所位牌安置所となる。 よって安穏寺は、葵の御紋の使用が許されている。、、、、 現在の諸堂は、鐘楼を除き、昭和以降の造営である。 本堂の左手前には家光お手植えの松がある。
● 続いて足立区島根4丁目に参道入口がある、昨年も訪れた「島根鷲神社」。 ここに、旧日光街道の名残はあるか?、、、、島根村は徳川将軍家の鷹狩場であったことから歴代将軍の参詣があった。 ここにも、3代将軍家光のお手植えの松があったが、天保年間(1830~1845)に惜しくも枯れてしまったそうだ、残念!、、、、【親切な注】社名の“鷲”は、「おおとり」ではなく「わし」と読む。 台東区千束の“鷲神社”は「おおとりじんじゃ」と読む。
● 再び旧日光街道に戻り歩くが、昔を語る遺構・遺跡・寺社は見つからない!
・・・・・・・・・・ 今日の散歩はココまで、高架化工事の進む竹ノ塚駅から帰宅!