セルロイドの町
京成押上線の八広駅から荒川を渡り、立石駅前を通り青砥駅まで、1万2千歩の散歩です。
● 八広駅で電車から降り、ホームの端に立つと荒川に架かる押上線荒川橋梁に接していることが判る。 平成3年(1991)1月5日、桁の高さが低かった旧荒川橋梁にタンカーが衝突し、上下線とも数日間運休となる事故が発生した。 これを契機に、荒川橋梁の掛け替えおよび荒川を挟み両岸の四ツ木駅と八広駅間の高架化工事が開始され、平成11年(1999)工事が完成した。 また、平成6年(1994)には、荒川駅を八広駅に改称。、、、、現在の駅の構造は、ホームは3階にあり、1番線が片面、2・3番線が島式の2面3線構造。 2階は改札・コンコース。 高架下の1階は薄暗い出入口とその周囲は自転車置き場。 なんでこんな陰気な駅を造ったのか謎だ!?、、、、駅名の「八広」は地名から採用。 地名の「八広」は元々「吾嬬町」といい、昭和40年(1965)の住居表示実施に伴い寺島町六・八丁目、隅田町四丁目・吾嬬町西五・六・七・八・九丁目の8地区が合併して成立したため、「八」の字を採り、その字体から「末広がり」の縁起を担いで命名された。
● 平成11年(1999)に供用を開始した現在の押上線荒川橋梁であるが、旧橋の撤去や関連護岸工事などすべての事業が完了したのは平成14年(2002)である。 総事業費は398億円(内242億円(65%)は国庫負担)、、、、現橋は旧橋より3.7m嵩上げし、水面から8.3mの高さとなった。 橋長473mの単純トラス橋。
● 押上線荒川橋梁の上流側(北側)に、新四つ木橋、四つ木橋(国道6号)が架かっている。 四ツ木橋の旧橋は大正11年(1922)に、荒川放水路(現:荒川)開削に伴い木製の四ツ木橋が架橋された。 その位置は現在の国道6号ではなく、約500m下流の東京都道465号深川吾嬬線の延長上にあった。 大正12年(1923)9月、関東大震災の混乱に乗じ、この四ツ木橋の墨田区側のたもとで、朝鮮人・中国人虐殺が行われたといわれてる。 なおその規模は不詳である。、、、、押上線荒川橋梁から約100m下流側、都道465号が荒川にぶつかる際に、「関東大震災 朝鮮人殉職者追悼碑」がある。 この場所は、韓国・朝鮮人が殺害された場所の一つと言われている。 嘘か真か、詳細は不明。、、、、写真は荒川堤防上から撮影。
● 押上線荒川橋梁から100m程下流に架かる「木根川橋(きねがわばし)」は、墨田区八広と葛飾区東四つ木とを結ぶ美しいトラス橋である。、、、、全長531.4mの3径間下路カンチレバートラス橋 +4径間下路単純トラス橋で、着工は昭和42年(1967)、完成は昭和44年(1969)2月。 下部工の施工は大成建設。、、、、この橋は、さだまさしの歌「木根川橋」のモチーフとなった。 この歌を私は知らないが、木根川橋そのものは、何となく下町の匂いがするようで好きだ!
・・・・・・・・・・木根川橋から下流を眺める。 冬の太陽が昇ってる!
● 木根川橋を渡り葛飾区東四つ木の町に入る。 ここは細い曲がりくねった小路に、町工場、住宅が建ち並ぶ木造密集地区。、、、、下町の雰囲気が残っている、好きだ!
● 東四つ木の町の中に「渋江白髭神社」(四つ木白髭神社とは別)がある。 渋江白髭神社は、旧西葛西領澁江村(東京府南葛飾郡本田村字澁江)の鎮守で、江戸時代は「葛西の客人(まろうど) 大権現」と呼ばれ、吉原、深川、千住などの遊郭や水茶屋、花柳界の人々の崇敬を集めた。 創建年代は不詳ながら、旧別当寺の観正寺が延徳3年(1491)創建であることから、室町時代の創建と推定される。、、、、現在の社殿は嘉永元年(1848)の造営。、、、、当神社付近には、戦国時代に使用されたとされる渋江陣屋の跡があったそうだ。 遺構などは無いが、「渋江城跡」と言われてる。
・・・・・・・・・・ 社殿前の狛犬は安政3年(1856)に深川の油問屋から奉納された。 また、常夜燈は文政6年(1823)に日本橋葦屋町(現:人形町付近)からの奉納。
・・・・・・・・・・ 境内には、文政5年(1823)奉納の客人大権現の道標などが数基残っている。
● 渋江白髭神社から北東へ約500m、プールやテニスコートなどもあるチョイト大きな渋江公園(葛飾区東立石)がある。 この公園に、3人の子どもが階段に座る彫刻が花壇の中央に置かれた「葛飾区セルロイド工業発祥記念碑」が建っている。、、、、葛飾のセルロイド工業は、大正時代から昭和20年代にかけて旺盛だった。 大正3年(1914)「千種セルロイド工業」が、この地に創設されたことに始まる。 しかし皮肉にも千種セルロイド工業は、不況のために早くも大正9年(1920)に廃業してしまうが、セルロイド工業はこの地区に定着し発達していった。 戦後セルロイド製品は日本の輸出品の中で重要な役割を果たしたが、プラスチック技術の発展にともない急速に衰退した。 公園内の記念碑は、この地域が葛飾区の近代工業の発展を担ったことを表わしている。 昭和27年(1952)、渋江公園の造成に伴って建てられた。、、、、私も愛用したセルロイドの下敷き、筆箱、玩具など、現代のプラスチックに変わるまで、戦前戦後の重要な素材であった。 セルロイドは燃えやすい素材であるため、現在は国内で生産されていないそうだ。、、、、懐かしい匂いがする素材で、セルロイド製の樟脳船で遊んだことを思い出す。
● 高架化工事中の立石駅を通り、1,300席を有するクラシック音楽向けのホールを備える文化センター「かつしか シンフォニーヒルズ」前を抜けると青砥駅。