綾瀬の五兵衛
今日の散歩は、北風がチョイト吹く寒い朝、綾瀬駅から北西へ、綾瀬川を越えて五反野駅をとおり梅島駅まで、1万歩の散歩。
● 「綾瀬駅」はJR常磐線と東京メトロ千代田線の駅。、、、、常磐線は昭和18年(1943)に追加開業した駅。 昭和46年(1971)には常磐線の複々線化とともに地下鉄千代田線が乗り入れ、以後は営団(現:東京メトロ)が管理する駅となった。 ホームは基本的に高架島式2面3線構造だが、3・4番線ホームの東寄りには北綾瀬支線が使用する欠き取りホームの0番線がある。 改札口は西出口と東出口の2ヶ所で、いずれも1階にある。、、、、コロナ前までは、JRと東京メトロ合わせて、一日当たり40万人程が乗降する駅。 都内で利用者の多い駅の一つだ!
● 綾瀬駅西口から北西に150m程入った裏通りに丁目に、庭の手入れが行き静かな真言宗豊山派の「観音寺」(足立区綾瀬4)がある。 観音寺は稲荷山蓮華院と号す。 観音寺は、賢智上人が開山、当地を開拓した金子五兵衛(法名開田院)が開基となり、17世紀初頭に創建された。 境内には五輪塔形式の金子五兵衛の墓がある。、、、、また、慶応4年(1868)3月には江戸から退却する新撰組の一隊(当時は甲陽鎮撫隊)が近くの金子家とこの観音寺に宿泊した。 新政府軍も伊藤谷橋まで進出し戦闘が始まろうとしたが、新撰組は流山に撤退した。
● 観音寺の北隣には「綾瀬稲荷神社」が鎮座する。 綾瀬稲荷神社の創建年代は不詳だが、金子五兵衛が開拓した五兵衛新田の鎮守社であったといい、明治7年(1874)に五兵衛神社と改称し、さらに昭和42年(1967)にはこの地の地名が“五兵衛町”から“綾瀬”に改称し、社名も綾瀬稲荷神社と改称した。、、、、昭和57年の建立の拝殿奥にある本殿は、天保14年(1843)築造の総欅造りの建物。
● 綾瀬稲荷神社の北側に、地元の名家「金子家」がある、、、、幕末の動乱期、金子家に新撰組の1隊の甲陽鎮撫隊が半月余りに渡って滞在していたと言われている。 新選組関連の資料が多く残されているそうだ。、、、、五兵衛新田の開拓者の1人、金子五兵衛の館
・・・・・・・・・・ オヤ? 近くに「金五建設」なる会社があった!、、、、こちらも、“金子五兵衛”に関係あるのか???
● 綾瀬川に架かる「五兵衛橋」を渡る、、、、橋名は、この辺を開拓した金子五兵衛に由来する。 江戸時代の初期、金子五兵衛は数人と共に武蔵国入間郡金子村(現埼玉県入間市)から転入して開拓をはじめ、一帯はその名をとって五兵衛新田村と呼ばれた。 寛永年間(1624~1644)に綾瀬川が現在の内匠橋から伊藤谷橋あたりまで新川として開削されたため村は東西に分断された。 幕府は、代償として長さ12間、幅9尺の土橋「五兵衛橋」を設置した。 その後、五兵衛橋は何度か架け替えられ、現在は平成10年(1998)に架けられた人道・自転車道専用の橋となっている。 (昭和61年(1986)、下流側に都道467号を通す「五兵衛新橋」が架かる)
・・・・・・・・・・ 五兵衛橋から綾瀬川を見ると、水面は周囲の住宅の床面よりかなり高い! 明らかに、“0メートル地帯”である!、、、、堤防が崩壊すると、怖いね!!
・・・・・・・・・・ 綾瀬川沿いの足立区立弘道小学校の校舎の外壁に、氾濫時の予測最高水位(青い線)4.2mが示されている。 予測どうりだと校舎の1階は完全に水没する! こんなものを見てると一層怖くなる!
・・・・・・・・・・ しばらく歩いて梅島駅近くの電柱が目に入る、目線の位置には『想定浸水深 最大5.0m 赤いテープの位置』の標示、その赤いテープは電柱の上、首を空に向けるとアッタ! 住宅の2階まで完全に水没、南無阿弥陀仏!
・・・・・・・・・・ 五反野駅(足立区足立3)付近では、『想定浸水深 最大5.5m 』、、、、平屋、2階建てに住む人は、死を覚悟、ア~メン!
● チョイト恐怖に怯えながら「五反野駅」前を通過、、、、歩きながら考える、、、、この駅もイザとなったら、改札は水没、泳いで高架ホーム辿り着けば助かるかも?
● 東武伊勢崎線の高架沿いに歩いて「梅島駅」に到着。 川が氾濫しないことを願いつつ帰宅する。
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