« 東京ジャーミイ | トップページ | 東海大と東大 »

2023年4月14日 (金)

川柳発祥の地

今日は上野の病院で泌尿器科の定期検診日。 浅草橋の我が家から北北西に進路をとって、徒歩40分程で病院に着く。 検査結果はもちろん“問題なし”。 親切な医者で、帰りにはいつも3ヵ月分の薬の処方箋をくれる。 こちらも『どうも有難うございます』と頭を下げて退出する。 帰宅し調剤薬局へ行くと、薬代は約5000円。 病院の診察代は約500円、薬代はその10倍、何だか、フトコロに悪い薬だ!

病院の帰りも、我が家まで元浅草経由でチョイトぶらりと歩いてきた。 往復1万2千歩



● 私が通う「永寿総合病院」は台東区の中核病院(400床)で、私が急患として運ばれたことは数回あり。 『毎度、毎度お世話になります』と、お得意様になってる病院。

2304141000060




● 病院の帰りに立ち寄ることが多い「下谷神社(東上野3)、、、、今日もチョイト祈願『一度でよいから、宝くじ一等当選しますように!』

2304141005460

2304141007320




● 元浅草2にある日蓮宗
寺院の「長遠寺(ちょうおんじ)」に参る。 長遠寺は安立山と号し、文禄3年(1594)に創建された。 池上本門寺堀ノ内妙法寺とならぶ江戸の三大祖師の一つで、土富店(どぶだな)の祖師(自開眼開運日蓮大菩薩)。 「どぶだな」とは浅草新寺町、現在の元浅草二丁目辺りの俗称だった。、、、、「自開眼開運日蓮大菩薩」は、弘長元年(1261)伊豆に配流されていた日蓮聖人を尋ねてきた普門禅師(南禅寺開山の大明国師)に、日蓮聖人が自ら刻んで与えたものと伝えられている。 禅師が遷化した後、要法寺に伝わったという。 日樹上人がこの像を奉じて江戸に下り、養珠院(徳川家康の側室・お萬の方)などの外護を受けて祖師堂を建立し、天拝妙符を授与した。 この天拝妙符は6月6日の開運会においてのみ授与される。 以来、土富店のお祖師様として広く信仰を集め、寺観も整い、江戸屈指の巨刹して繁栄したが、文化年間、火災のために焼失した。その後、ようやく再建された伽藍も関東大震災、さらに先の大戦の空襲により三度灰燼に帰した。 しかし、自開眼日蓮大菩薩の尊像は大火の中でも一指も損ずることなく現在に伝わるという。 、、、、ありがたそうな話だ、一度でいいから祖師像を見てみたい。

2304141020440

2304141023320



・・・・・・・・・・ 長遠寺山門前には、「二宮彦可墓碑跡」の案内板がある。、、、、“二宮彦可”(にのみやげんか)とはどんな人物だ? 私は知らなかった!、、、、説明文には、『二宮彦可墓碑跡  二宮彦可は江戸時代後期に活躍した医師。 宝暦四年(1754)三河国〈愛知県〉岡崎藩主の侍医で国学者でもある小篠敏の長男として、遠江国(静岡県)浜松近郊の又楽村に生まれる。名は献。字を彦可・齢順といい、号を印又米・擁鼻と称した。幼少時に乳母から梅毒が感染して、病弱のため廃嫡となるが、明和四年(1767)同藩の口中科医である二宮元員の養子となり家督を継いだ。 明和六年(1769)藩主の転封により石見国(島根県)浜田に移る。十九歳の頃から各地で医学を学び、口中科を山県良班(広島)、内科を忠美三自(広島)、眼科を三井玄猫(大坂)、産科を賀川玄五月(京都)、内科を山脇東門(京都)に学んだ。また赤松漁洲(赤穂)湯浅常山(岡山)、亀井南漠(福岡)を歴訪している。天明八年(1788)には長崎に留学して吉雄耕牛にオランダ外科を学び、さらに吉原杏陰境のもとで、収骨術の秘訣を伝えられた。 寛政三年(1791)帰国して浜田藩主の侍医を務め、同五年(1793)藩主に随行して江戸に赴き、木挽町五丁目(中央区銀座)に住居した。文化五年(1808)に『正骨範』二巻を出版したが、これは吉原書法陰支原に学んだ整骨術に改良を加え、中国・西洋の諸書を参考としてまとめたもので、骨術の古典として評価されている。 文政十年(1827)十月十一日没。七十四歳。浅草長遠寺に葬る。法号は従院了服目治居士。墓碑は大正12年の関東大震災などで焼失し、共同墓地に埋葬される。ほかに一族の墓碑の一部が残る。  平成18年3月  台東区教育委員会』、と書かれてる。、、、、口中科医とは、秘伝の治療法で公家や大名を治療する歯科医。 室町時代から存在したそうだ。 その歯科医が、内科、眼科、産科、外科の技術を学び活躍したのが“二宮彦可”、江戸時代のスーパードクターか?

2304141019230

2304141024260




● 長遠寺の東(元浅草2)に、真言宗智山派寺院の「吉祥院」がある。 吉祥院は、摩尼山隆全寺と号す。 創建年代は不詳だが、慶長16年(1611)に中野寺町に寺地を拝領、寛永21年(1644)当地へ移転したと伝えられている。 小さな寺であるが、手入れの行き届いた緑多い庭が、非常に落ち着いた雰囲気を醸し出し、街中とは思えない。、、、、都会の庭の竹林にタケノコが伸びていた、素晴らし~~い!

2304141033470

2304141035400




● 蔵前4丁目、三筋二丁目交差点の南東角に、「川柳発祥の地」の茶色の石碑がある。、、、、川柳は五七五の十七文字の定型で成り立つ短詩で、口語が主体。季語や「や、かな、けり」などの、所謂「切れ字」の制制約がない、詠む対象は社会諷刺や人間模様などが多い、などの点で俳句と趣を異にする。 本来七七の題(前句)に五七五の句を付ける遊び=「前句付」から七七を省略し、五七五として独立したとされ、江戸時代、柄井川柳が選んだ句から呉陵軒可有という人物が『誹風柳多留』にまとめて刊行したことにより盛んになった。 このことから「川柳」という名前で呼ばれるようになった。 この時代は前句付が非常に盛んで、川柳はその選者として活躍し、その選句の数は33年間に260万句という驚異的な数にのぼるという。 その柄井川柳の墓は、碑の近く、川柳横丁と書かれた裏道の龍宝寺にある。

2304141054220

2304141055250

2304141055460



・・・・・・・・・・ 熱心に 歩いているが 腹は出る

« 東京ジャーミイ | トップページ | 東海大と東大 »

散歩」カテゴリの記事

台東区」カテゴリの記事