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2023年5月

2023年5月28日 (日)

西馬込から池上へ

朝食時に『これから歩いてくる』と言うと、妻が『どこへ?』 『西馬込から池上方面かな?』と応えると、年寄り二人の生活はする事がない“閑な生活”、運動不足が心配な妻は『私も行く!』、、、、と言うことで、夫婦で池上本門寺詣り、、、、帰りは日本橋のデパートでお買い物

都営浅草線の西馬込駅で下車し、本門寺に参り、池上線の池上駅まで、1万歩の散歩です、、、、このコースは以前歩いた処と全く同じなので、ブログの内容もチョイト省略する。 6年前のブログはコチラ!




● 都営浅草線の終点「西馬込駅」で下車し、国道1号(=第二京浜国道)を南へ歩く、、、、この付近、天下の“国道1号”なのに、歩道の幅が狭すぎる! 車椅子のすれ違いは要注意!

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● 駅から400m程歩くと、都営浅草線の馬込検車場(車庫)を跨ぐ、跨線橋「道々女木橋(どどめきばし)」がある。 車庫を橋の上から見るのは、嬉しい、楽しい一時だ!、、、、年寄り夫婦が橋の上から、嬉しそうに電車を眺める姿、人に見られて恥ずかしい!

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● お山を裏(北側)から上り日蓮宗大本山「池上本門寺」へ入る、、、、今日は日曜日だが特別な行事もなく、境内は空き空き、ガラガラ。 本殿・日蓮上人御廟所・大堂(祖師堂)・墓地など一通り参拝する。

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・・・・・・・・・・ 参拝済ませて帰りは石段を下り、総門から出る。、、、、【ところで、余談だが】 毎度思うことだが、都営浅草線の検車場(車庫)のある所に新駅を設置すると、本門寺に近く、参拝が楽になるのだが。 新駅から本門寺までは階段を上らず、エスカレーターで上れば、“全て良し!”

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● 東急池上線「池上駅」から電車に乗る

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2023年5月26日 (金)

ワクチン接種

長かったコロナ禍の日々は終わり、私も世間もウキウキ浮かれて『もうコロナは終わった!』 でも、念のためか『65歳以上の第6回ワクチン接種』のお知らせが先月、区役所から送られてきた。 私は5月初めにワクチン接種の予約をしたが、最短で取れた予約が“本日”だった。 今日は、新型コロナワクチン接種の日。 接種場所は浅草寺の境内にある浅草寺病院ということで、午後から夫婦で病院へ




● 接収会場の「浅草寺病院」は、私の住む浅草橋とは同じ台東区にあるが、我が家からは徒歩40分程の距離にある。、、、、その名の如く浅草寺直営(?)の病院。 金龍山浅草寺の御本尊:観世音菩薩の抜苦与楽のお誓いをいただき、浅草寺が始めた医療社会福祉事業である。 病院の歴史は、明治43年(1910)に浅草寺境内念仏堂において浅草寺診療所が設立されたのに始まる。 大正13年(1924)には病床36床で浅草寺病院が落成した。 さらに、昭和12年(1937)には病院の建物も新築された。 平成13年(2001)には現在の浅草寺病院の建物が落成した。 現在は内科、小児科など、7科を有する総合病院。、、、、お寺と病院、助かって良し、成仏して良し、どちらに転んでも安心できる組み合わせ!、、、、正面玄関部分のタイル張り外壁、左右の丸窓など、デザインは旧病院のデザインを踏襲したらしい。 旧病院を知る私には懐かしいね!

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・・・・・・・・・・ 浅草寺病院と浅草寺本堂は互いに背中合わせでたっている。 浅草寺本堂側から見る病院

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● ワクチン打たれ、15分休まされたが夫婦そろって異常なし、早々に病院を出る。 発熱するか、腕が痛むか、泡吹いて倒れるか、チョイト心配になる。 心配事は、神さま、仏さまに任せましょう!、、、、浅草寺境内の神仏に手を合わせて帰りましょう!

・・・・・・・・・・ まずは、本堂裏の西側に祀られてる「銭塚地蔵、、、、享保年間(1726~1735)摂津国有馬郡の山口某の妻が、庭先で寛永通宝がいっぱい入った壺を掘り当てたが、これに頼って働かずにいては家が滅びると思い、土中に埋め戻した。 この心掛けによって一家は繁栄したので、その壺の上に地蔵尊をまつったという。 銭塚地蔵尊は、その分身を勧請したもの。 ワクチンの副作用とは関係ないか!

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・・・・・・・・・・ 銭塚地蔵尊の脇に祀られてる「カンカン地蔵」にも手を合わせる。 この地蔵さま、姿は原型をほとんど残していない。 古来より参拝の方が、付随の小石で御身を軽く「たたき」祈願する。 石で軽く打ち祈ると「カンカン」という音が鳴るので俗にこのように称されてる。 私の願いは一つ『コロナで死ぬことがないように、南無阿弥陀仏!』

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・・・・・・・・・・ 次は浅草神社の裏にある、新門辰五郎が勧請した伏見稲荷。安政元年(1854)辰五郎の女房が重病で床に伏した時、山城の伏見稲荷社に祈願した。 その効果があって病気は全快、翌年お礼の意味を込めて勧請し、小社を創建して「被官稲荷社」と名付けたという。 被官は“出世”の意味だとか。 今や70歳を越えた我が身『出世は諦めた、健康をくれ!』

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・・・・・・・・・・ 先週、“三社祭り”で賑わった「浅草神社」、、、、明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命、桧前浜成命、桧前竹成命、東照宮である。 浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。 三神を祀る神社なので「三社様」と呼ばれた。 しかし鎮座年代は不詳。 東照宮は権現様すなわち“どうする家康”のことで、慶安2年(1649)に合祀された。 以来、三社大権現といい、明治元年(1868)三社明神、同6年浅草神社と改称した。、、、、御利益はなんでもありで『コロナに罹りませんように、ついでに宝くじ一等当選よろしく!』

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・・・・・・・・・・ そして最後は「浅草寺」、、、、『今日も賽銭を持ってきました、たまには宝くじ当選の御利益ください!』

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2023年5月22日 (月)

おいでませ山口へ 3

山口での三日目。 昨夜は長門湯本温泉に泊まり、今日は美祢線で厚狭まで行き、そこから新幹線で東京へ帰る予定で出発した。 美祢線で1時間揺られてる間に、ここまで来たらチョイト錦帯橋を見て帰ろうと気分が変わる。 厚狭から新幹線に乗り新岩国で下車し、錦帯橋、岩国城を巡り、再び新岩国に戻り、帰京した。




● 一夜の宿は、7年前故安倍前首相とプーチン大統領による日露首脳会談が行われた「大谷山荘」だった。 渓流に面した大きな建物で、従業員の接客が行き届いた宿とは感じたが、天皇陛下も泊まる宿だとか、そんなことまで知らなかった。、、、、また泊りに来たいが、チョイト遠い!

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● 10時4分に長門湯本に到着する厚狭行きの列車で、今日の二人旅を始める、、、、「長門湯本駅」は大正13年(1924)3月23日に美禰線(現:美祢線)於福駅 ~ 正明市駅(現:長門市駅)間延伸により同時開業した。 コロナ前の2018年の一日平均乗車人数は21人。上下線の列車本数は18本なので、一列車の平均乗車人数は1.2人。 ちなみに、コロナ禍の2020年の一日平均乗車人数は、さらに減って11人。、、、、駅自体は長門湯本温泉の温泉街から北へ約500メートル(徒歩で10分程度)のやや離れた所にあるため、駅周辺は温泉街の雰囲気が全く無い。 田舎の無人駅だ! 温泉街へは駅前から徒歩で行くか、もしくは迎えを頼む以外手段無し。 鉄道よりもマイカーや観光バスを利用する温泉客が多いうえ、鉄道利用でも新山口駅などから温泉旅館の送迎サービスなどを利用する旅客も多く、温泉客が長門湯本駅を利用することは少ないそうだ。、、、、わざわざ地元駅まで鉄道を利用してやって来た、私たち夫婦はナンジャイナ!

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● 黄砂で薄く霞む中、11時、美祢線を完全乗車して厚狭駅に到着。 新幹線に乗換え、新岩国へ向かう。

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● 「錦帯橋」に着いた。 私は40年ぶりぐらいか? 妻は初めて!、、、、錦帯橋は、錦川に架かる5連の木造アーチ橋、、、、『何だか見慣れた景色だ!』 『TVの旅番組でよく見る景色だからね!』

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・・・・・・・・・・ 錦帯橋の北西に城山があり、その山頂(標高200m)に岩国城がある。 錦帯橋を渡ると、岩国城のある山頂にまでロープウェーが運行されている。 『ここまで来たら、岩国城も見て行こう!』ということで、ロープウェーで登山。 

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・・・・・・・・・・ ロープウェーを降り、山頂尾根を歩くこと10分、「岩国城」に到着。、、、、岩国城は、初代岩国藩主吉川広家によって慶長13年(1608)に造られた山城で、眼下を流れる錦川を天然の外堀にし、標高約200メートルの城山に位置してる。 三層四階の桃山風南蛮造りでしたが、築城後7年で一国一城令により取り壊されました。現在の天守は、昭和37年(1962)に再建されたものです。 落城しにくい鉄筋コンクリート造の城。、、、、天守閣から城下が一望できる、、、、こんな山の上に城を作ったら、城下から通勤する家臣は登城するのが大変だ! 城に着いたら、帰るのが嫌になるだろう!

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・・・・・・・・・・ 城下の一画に「岩国徴古館」がある、、、、岩国徴古館は藩政時代の貴重な宝物・錦帯橋に関する資料・所蔵品を展示する岩国市立博物館。 本日は月曜日であいにくの休館日、残念!、、、、建物は、最後の岩国藩主吉川経健の弟の吉川重吉が「郷土に図書館と博物館を」という遺志を実現したものと伝えられ、太平洋戦争中の昭和17年(1942)に起工し、終戦直前の昭和20年(1945)に竣工した。 陸軍燃焼廠治療所、図書館として一時利用を経て、昭和25年(1950)に開館し、翌昭和26年に岩国市に寄贈された。 現在の山口県立岩国高等学校出身で、早稲田大学教授の佐藤武夫の設計。 フランスの新古典主義建築型で、戦争中は灯火管制があったため、天窓から自然光を採用した。 構造は、鉄筋が無い時代で、竹筋コンクリート造り。 平成10年(1998)に国の登録有形文化財に指定された。、、、、趣きある建物で、一見の価値あり!

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● “おいでませ山口へ”の言葉に乗って、三日間の山口県旅行も終わり、新岩国から帰京する。、、、、今日は1万1千歩、歩いた、疲れた!、、、、“また行きまっせ山口へ”

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2023年5月21日 (日)

おいでませ山口へ 2

山口の二日目は、旅立つ一週間前まで、萩から津和野に出て一泊し、三日目に東京へ帰るつもりでいた。 津和野のホテルを予約するにあたり、地図を見て気が変わった。 津和野に行かず、萩から西隣の長門に行きたくなったのだ。 理由は簡単、長門市駅から日本海に向かって伸びてる盲腸線の仙崎線と、長門市から山陽新幹線の厚狭駅までを結ぶ美祢線に乗りたくなった。 そこで、二日目の宿は長門湯本温泉に泊まることにした。、、、、ということで、二日目は午前中に婿どのお母さんの実家がある、藩の経済の中心地として栄えた「浜崎」の町を見て、午後に長門へ向かうことにした。




● 朝8時半に宿を出て、まずは「萩城跡」に向かう、、、、萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことに始まる。 明治7年(1874)に、天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部を残すのみとなった。 現在は指月公園として600本のソメイヨシノが咲く公園になってる。 今は「城(白)がなく ピンクで彩る 指月城」 、、、、綺麗に整備された公園だ! 

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・・・・・・・・・・ 城跡を見たら「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」も見て行こう!、、、、厚狭毛利家は、毛利元就の5男元秋を祖とし、毛利氏の萩移封後、厚狭(現山陽小野田市)に知行地を与えられたことから、このように呼称され、8371石余りを受領した。 萩屋敷は約15,500㎡の広大な敷地を誇っていたが、主屋などは明治維新後に解体され、安政3年(1856)に建てられたこの長屋のみが残っている。 梁間5m、桁行51.5mの長大な入母屋造り本瓦葺きの建物は、萩に現存する武家屋敷のなかでも最大の規模を誇り、国の重要文化財に指定されている。、、、、“長屋”と言っても、ここで居住したわけではなく、役人の詰所であったらしい。 冬は寒そうだ!

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・・・・・・・・・・ 天守閣から上級武家の城下町を抜けると「北の総門」がある、、、、上級武家の屋敷は、どの屋敷も長が~い塀が続き、広そうだ!(我家の敷地の何十倍もありそうだ!)、、、、北の総門は城下から三の丸に入る城門として設置された。 北の総門は城下町から萩城三の丸に入るために設けられた大手三つの門のひとつで,他の二つは中の総門、平安古の総門があります。 現在の門は、平成16年(2004)に「萩開府400年」を記念して復元されもの。

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● 江戸時代、港町として栄えた「浜崎」エリア。 江戸・明治・大正・昭和とと続いた伝統的建物が、一本の道沿いに約130棟残されている「浜崎伝統的建造物群保存地区」を見る。 家並みが続く通りは、ちょうど「浜崎伝建おたから博物館」と銘うって、まつりが開かれていた。、、、、街の入口近くにある網元であった婿どののお母さんの実家では、家の造り、家具、調度どれもこれも歴史ある貴重なものを拝見した。 ここで、婿どのの御一家、娘夫婦と別れ、私たち夫婦の二人旅となる。 

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● 浜崎エリアから夫婦二人旅となり、妻が見たい松陰神社・松下村塾と、私が見たい明倫学舎と萩駅舎へ向かう。

・・・・・・・・・・ 萩まで来たら、吉田松陰を祀った「松陰神社」と、境内にある「松下村塾」を見る。

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・・・・・・・・・・ 私好みの建物は、日本最大級の木造校舎「萩・明倫学舎本館」、、、、萩・明倫学舎本館は文化庁登録有形文化財山口県第1号である。 藩校明倫館跡地に昭和10年(1935)10月10日に建てられた木造2階建の小学校舎。 東西両端と中央玄関の棟に藩校明倫館の聖廟せいびうと同じように鴟尾しびが置かれ、外壁は1階部分は簓子下見板張ささらこしたみいたばり、2階部分は白漆喰しっくい塗りである。屋根のフランス瓦や連続する窓の意匠が特徴的だ! 平成29年(2017)に改修し「萩・明倫学舎」としてオープンした。、、、、木造校舎は平成に至るまで明倫小学校の校舎として使用されていたそうだ。 私の娘婿も、歴史のあるこの校舎で学ぶことのできたそうで、チョイトうらやましいね。 明倫小学校は昭和30年代に3000人を数える児童数がいたそうで、4棟の校舎から構成される大きな木造小学校であった。

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・・・・・・・・・・ 木造校舎の次は木造駅舎「萩駅」、、、、萩駅は、大正14年(1925)の現:山陰本線の開業に合わせ建てられた、現存する数少ない鉄道開通時の駅舎。 平成8年(1996)駅舎が登録有形文化財に登録された。 現在は無人駅で、白く美しい外観が目を引くレトロな萩駅舎の中には展示室が整備され、萩市出身で日本の「鉄道の父」と称される井上勝(駅舎前に銅像あり)に関する資料をはじめ、萩の美しい自然や歴史を紹介している。、、、、「萩駅」を名乗っているが、萩市役所へは隣の東萩駅のほうが近く、またかつてこの区間に運行されていた特急・急行列車も東萩駅に停車し、ごく一部の急行を除いて当駅は通過していた。 萩市の中心駅は、実質上、当駅ではなく東萩駅である。 ちなみに令和元年(2019)の両駅における一日当たりの平均乗車人員は、萩駅が50人、東萩駅が217人である。、、、、大正ロマンの香りたっぷり、ノスタルジックな郷愁を誘い、静かに佇む木造駅舎、いいね!

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● 東萩駅で、山陰本線の列車に乗り遅れ、バスで長門へ移動。 バスは長門市駅前、仙崎駅前を経由青海大橋行きだった。 私達は終点の青海大橋で下車し、仙崎駅まで歩くことにした。


・・・・・・・・・・ 私がバスの終点:青海大橋バス停まで来たのには理由がある。 バス停前の「海外引揚げ上陸跡地」を見たかったのだ、碑が立っているだけである。、、、、昭和20年8月15日、太平洋戦争は日本の降伏で終わった。 当時、外地にいた日本人は、600万人以上といわれ、これらの人々を帰国させるため、国は博多、下関、舞鶴など数ヶ所の引揚港を決めた。 ところが、下関港の場合、関門海峡に沈没船や米軍が投下した機雷が残っていて危険なため、これに代わる仙崎港が選ばれた。 引揚船としては、最初、関釜連絡線の興安丸(7079トン)が当てられた。 敗戦の翌月から、外地で悲惨な終戦をむかえた復員の軍人や一般の人々7千人が、第一次の引揚者として仙崎港に上陸した。 仙崎では、寺や学校が、引揚援護の事務所や救護所、宿泊所に当てられ、応急のバラック住宅も建てられたが対応しきれず、仙崎や正明市駅(現長門市駅)付近の民家にも多くの引揚者を泊めまたそうだ。 また一方、ここ仙崎港から故国朝鮮に帰る人々も多くいたそうだ。 昭和21年末、仙崎が引揚港の役割を終えるまで、この港に上陸した人々は約41万人、ここから朝鮮に帰った人々が約34万人。、、、、戦後の昭和21年生まれの私には、仙崎港の様子は知る由もなし。 しかし、遠く満州、シベリアから引き上げる人の情報を、当時数年間、毎日、ラジオで放送されていたのは子守歌を聞くように覚えてる。 『出身地〇〇の×××雄、×××子は〇月〇日、××丸にて〇〇港に上陸する』と言う内容を、毎日アナウンサーが読み上げるのだ、大勢の引揚者の情報が延々と読み上げられ忘れられない独特の放送であった。 私は20数年前から、この放送を再び聞きたくて録音されたものを探し歩いたが、“個人情報”に該当するので公開されていないらしい。 以来、引揚船のことに興味を持つことになった。

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・・・・・・・・・・ 青海大橋もバス停前から遠望できる。 橋の向こうは青海島

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・・・・・・・・・・ バス停から仙崎駅に向かう「みすず通り」を歩く。 通り名の“みすず”は、童謡詩人:金子みすゞに由来する。、、、、平成15年(2003)、みすゞが幼少期を過ごした仙崎の書店:金子文英堂跡地に「金子みすゞ記念館」がオープンした。 チョイトお立ち寄り。、、、、記念館は、みすゞ通りに面したおもてに金子文英堂の建物や庭を復元し、その奥の本館棟は、遺稿集や着物などの遺品を展示した常設展示室、パソコンによる資料の検索室、みすゞの詩の世界を音と光で体感できるみすゞギャラリーなどを備え、みすゞの生涯や生きてきた時代を偲ぶことができる。、、、、私の知る金子みすゞは、ドミノ倒しのコマーシャルで有名な非破壊検査株式会社のもう一つのコマーシャルで流れる詩「星とたんぽぽ」だけだ、不勉強で申し訳ない、ゴメン!

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● みすず通りの突き当りに仙崎線(=山陰本線支線)の「仙崎駅」がある、、、、仙崎駅(せんざきえき)は、昭和5年(1930)5月15日に鉄道省美禰線の貨物専用の支線として正明市駅(現:長門市駅)~仙崎駅間が開通した。 昭和8年(1933)2月、山陰本線全通に伴い、正明市駅 ~ 仙崎駅間が山陰本線支線に編入され、山陰本線支線の駅となり、さらに同年7月、旅客営業を開始する。、、、、列車はキハ120形気動車により1日6往復が運転されている。 仙崎駅 ~ 長門市駅間の1駅間(仙崎線として2.2㎞)運転の系統と、美祢線厚狭駅まで乗り入れる系統がある。 

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・・・・・・・・・・ 線路の先は雑草が茂る行き止まり

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・・・・・・・・・・ 私が乗ってる列車は長門市駅から美祢線に入り、終点の厚狭駅まで向かう。 私達夫婦は仙崎から3駅目の長門湯本駅で下車する。 長門湯本駅で降りた乗客は、たった2名、我が夫婦だけ!、、、、駅前にお宿の迎えの車が待っていた!

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● 今日の歩数は、1万5千歩!

2023年5月20日 (土)

おいでませ山口へ 1

じっと“我慢のコロナ”であったが、コロナ禍も終息に向かい、年が変わって一気に開放された。 私達夫婦も、20日から二泊三日の予定で、山口県萩の娘の嫁ぎ先の実家へご挨拶に伺うことにした。 旅の途中、秋吉台・長門・美祢線・錦帯橋と巡ってきた。




● 20日、8時過ぎの東京発に乗車し約4時間、12時過ぎに「新山口駅」に着いた。、、、、新山口駅は、明治33年(1900)12月3日、山陽鉄道の三田尻駅(現:防府駅)~厚狭駅間の開通と同時に、小郡駅(おごおりえき)として開業。 昭和50年(1975)には新幹線が開通。 平成15年(2003)に新山口駅に改称した。、、、、私は約50年前に出張をさぼり、新幹線で小郡駅に下車し秋吉台に行ったことがある。 その時の駅の面影は全く無く、モダンで綺麗な駅となってる。 驚いたね!

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・・・・・・・・・・ 瀬戸内海側の新山口駅から日本海側の萩市までは車で1時間ほどを要する。 定期バスもあるが、タクシーで萩市へ向かう。 運転手さんに一言『秋吉台に寄って行ってちょうだい!』

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・・・・・・・・・・ 【雑談】 県名を漢字で書くと一番簡単なのは? そうです、山口県の6画! 二番目は大分県で7画! では、三番目は? (答えは、自分で考えて!)




● 新山口駅と萩市の中間ぐらいに秋吉台がある。 展望台のある山の上でひと休み。 日本最大のカルスト台地「秋吉台(あきよしだい)」は、北東方向に約16 km、北西方向に約6 kmの広がりを有し、台地上の総面積54 ㎢、『広い、見渡す限り秋吉台だ!』、、、、ところで、私はカルスト台地を“秋吉台(あきよしだい)”、その地下にある鍾乳洞を“秋芳洞しゅうほうどう)”と覚えてきたが、道路標識には秋芳洞(あきよしどう)となっていた。 『アレ、鍾乳洞の呼び名が変わったのか?』 調べてみたら、鍾乳洞の正式名称は“あきよしどう”、慣用的に“しゅうほうどう”と呼ばれているそうだ、寛容ある使用法なり。 なお、漢字名は“秋洞”が正、“秋洞”は誤。

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● 婿どのの実家に伺うまで、チョイト時間があり、萩の城下町をブラブラ、、、、菊屋住宅、旧久保田家住宅、木戸孝允旧宅、高杉晋作誕生地などが、静かな町に続いてる。 『当時のにぎわい 足音が聞こえてきそうな 史跡、文化財の数々 歩きたくなる 歴史のまち』と観光案内に書いてあったが、その通り! 

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● 城下町のお宅に伺い、歓待を受ける。 楽しい、美味しい、一刻(詳細は極秘)を過ごした後、、、、 本日のお宿は、娘夫婦が予約してくれたこちら、、、、宿からは見える指月山(しづきやま)『絶景かな 絶景かな!』

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● 列車に、タクシーに乗り、本日の歩数はチョイト少な目の6千歩。

2023年5月16日 (火)

山王越え

三日続いた雨も上がり、今日はポカポカ陽気。 JR京浜東北線の大森駅から、山王の山を越えて都営浅草線西馬込駅まで、1万歩の散歩です。




● 久しぶりに山王の住宅地を歩いて見ようと思い、「大森駅」は西口に出る。、、、、大森駅の改札は山王口、中央口があり、それぞれ東口と西口の出口がある。 西口側は山王の丘陵が迫っているので駅前に広場がないが、東口側(海側)は広くて多数のバス停がある。 今日は中央口改札をとおり西口に出た。 駅ビルの前は「池上通り」で、飲食店が多い商店街。 朝から鰻を焼く、いい匂いがする店もある、朝食を満足に食べず家を出た人には残酷だ!

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● 大森駅西口前の急な石段を登ると「天祖神社」である。 天祖神社は、その名の通り祭神が天照大神。 草創の年代は明らかではない。、、、、八幡太郎義家が奥州征伐におもむく途中、この社で戦勝の祈願をした。 そのとき境内にあった松の木の枝に鎧を掛けたと言われる”鎧掛の松”の伝説がある。 この松の木は安藤広重の絵になって、八景坂とともに名勝として広く世間に知られていたが、残念ながら枯れてしまい、今は跡形もない。、、、、やぶ蚊に注意の貼り紙がある、チョイト危険な神社!

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● 山王の地に、木造二階建地下室付の住宅「塚崎邸」がある。 大谷石を多用し、深い水平軒を伸ばす。 外観は一階をスクラッチタイル、二階をハーフティンバーでまとめた洋風住宅。 建物に合わせたスクラッチタイル貼の塀もモダンなデザインだ! 大正13年(1924)築のこの建物は国の登録有形文化財

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● 山王にある「大森テニスクラブ」の駐車場の一角に「日本帝國小銃射的協會跡」の碑がある。、、、、ここのテニスクラブは明治21年(1888)頃~昭和12年(1937)の間、小銃の民間訓練場だった。 明治15年(1882)、西郷従道らが本郷向ヶ岡に射的場を創立し、東京共同射的会社と称した。 明治21年(1888)に大森に移転が決まり、翌年に完成した。 昭和12年(1937)頃になると、周辺に住宅が増えはじめ、射的場は鶴見に移転した。 現在跡地は、多面のコートを備えたテニスクラブに変わった。、、、、昔も今も、球を打つ(撃つ)ことに変わりなし!

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大田区山王2丁目の住宅地、、、、山王は、大正12年の関東大震災後、安全利便な郊外住宅地として人気を博し、各界の名士が移り住んだほか、大森停車所もあり外国人も多く住んでいた。 昭和初期には時代を代表する文学者が数多く集まり、馬込文士村の一角を形成した。 住宅は“お屋敷”と呼ばれる建物、洋館も多く、高級住宅地であった。 今は、広いお屋敷も遺産相続等により分割され、木造建物は劣化し、往時を偲ばせる建物は年々少なくなっている。 今は、建て替えが進み洒落たマンションも建ち並ぶ。、、、、『SECOM』のステッカーに違和感を感じさせない町だ!

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● 山王の山を下り環七通りを横断し南馬込の町に入り、馬込東中学校の西側を歩くと、天文年間(1532~1555)に創建された「北野神社」がある。、、、、松とイチョウの大木が境内を演出してる。

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・・・・・・・・・・ 北野神社の先(南馬込2-24)には、小さな庚申堂。 花も水も供えられ、今なを続く庚申信仰

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・・・・・・・・・・ 庚申堂の斜め向かいには、文政7年(1824)に馬込村を中心とするの富士講の人々が寄進した常夜灯「富士講燈籠」がある。 台石に刻まれた銘文から、品川と池上に至る道に、道標を兼ねて建てられたことが判る。

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● 南馬込の曹洞宗「萬福寺」に6年ぶりに立ち寄った、、、、萬福寺は慈眼山無量院と号す。 建久年間(1190~99)大井村丸山の地に密教寺院として創建された。 開基は梶原平三景時公と伝えられている。 元応2年(1320)火災にあい、第六代の梶原掃部助景嗣が居城とともに馬込へ移転した。 天文3年(1534)鎌倉の禅僧明堂文竜が曹洞宗に改め中興し、現在の萬福寺へと続いた。 本尊は阿弥陀三尊。

・・・・・・・・・・万福寺の山門は切妻造り茅葺きの山門で、小高い位置にあり、見上げる景色が印象的。

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・・・・・・・・・・ 本堂前では3名のお年寄が玉砂利を清掃中。 邪魔をしないように、合掌する

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・・・・・・・・・・ 境内から眺める南馬込

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● 「大田区立郷土博物館」にも立ち寄って、、、、大森貝塚に代表される古代遺跡が多く存在する区なので、展示品も関連する土器・石器などの遺物が多い。 また、馬込文士村に関連する遺品・書・原稿・本などもある。 3階建ての立派な区の施設だが、見学者は数名、しかも無料。 コスパは最高!

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● 帰りは都営浅草線の起点駅「西馬込駅」から、浅草橋まで乗り換えなしの30分。 

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2023年5月11日 (木)

多い大盛り

長いGWが終り平時の状態の戻ると、我が家では耳鼻科で検査だ!、内科で喉の薬もらうのだ!、眼科は定期診断だ!、整形外科で腰のリハビリだ!、銀行の営業が来る日だ!、ワクチン接種でつながりにくい電話予約だ!、さらに私は補聴器買うのだ!、妻は春の服を買うのだ!、旅行の宿を予約するのだ!、とここ数日大忙し。 今日は身も心も落ち着き、朝は4時16分に地震で起こされ、5時にベッドから立ち、6時にゴミ出し、6時半に朝食、そして7時に『散歩してくる!』と妻に言い、8時前には大井町駅に到着。 大井町駅から大森駅まで、チョイト少なめ9千歩の散歩です。




● 京浜東北線の「大井町駅」から散歩を始める。、、、、明治5年(1872)新橋~横浜間が開業し、4年後の明治9年(1876)大森駅が開業。 明治13年(1880)には品川~大森間の複線化完了。 大正3年(1914)東京~横浜高島町間が開通、京浜線(京浜東北線の前身)の電車運転が開始される。 この時、大井町駅も同時開業した。 大正14年(1925)上野と東京が繋がって山手線が環状線になると、同じ線路を走る京浜線も東京駅から上野駅まで延伸される。 東北線田端駅~赤羽駅間が電化された昭和3年(1928)には、京浜線が東北線に乗り入れて赤羽駅まで延伸され「京浜東北線」と呼ばれるようになった。 現在の大井町駅、大森駅は京浜東北線の駅である。、、、、東急の大井町線、東京臨海高速鉄道のりんかい線が乗り入れ、乗降客の多い(大井)駅だ。

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● 京浜東北線の西側を大森に向かって歩く、、、、京浜東北線、東海道線の列車がひっきりなしに走り去る。、、、、【蛇足】私は“江戸っ子”なので、“ひ”と“し”が区別できず発音は全て“し”となってしまう。 “あさししんぶん”である! “ひっきりなし”も“しっきりなし”だ。

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● 大井4丁目の住宅地に小さな社の「作守稲荷」がある。、、、、作守稲荷は、元薩州侯抱屋敷内に祀られていた稲荷社を、慶応年間(1865~1868)に平林九兵衛が譲り受け、その稲荷社を平林九兵衛が当地開拓に際して当地に勧請、作守稲荷と称したもので、社地は明治30年に平林氏が寄附したと言われてる。 作物を守る、ってことから「作守」となったのだろうか?、、、、「美化推進モデル地区」にある稲荷は、境内も綺麗に掃き清められ、ゴミがない!

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● 作守稲荷から南へ200m程、「西光寺」(品川区大井4)がある。 西光寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、栄松山と号し、もと麻布善福寺末である。 昨年も訪れたが、今日も門前を素通りするわけにはいかず、チョイト手を合わせてきた。

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・・・・・・・・・・ 本堂脇の奥に「石造地蔵菩薩供養塔」がある。 最前列の三基の供養塔は、寺の東にあった倉田地蔵堂の本尊だった。 左側の明暦元年(1655)のもので、おたつ・おこちよ・およめなど16名のご婦人が建立したもので、また右側の寛文9年(1669)の阿弥陀如来を刻んだ念仏供養塔もおいな・おむつ・おはななど12名の女性によって建立されたもの。 もう一基、中央の寛文13年(1673)大井村講中によって造立された阿弥陀如来立像を彫った「笠塔姿型庚申塔」がある。 いずれも、江戸初期に造立されたもので、石像美術品としても保存状態がよく貴重なものであるらしい。、、、、今の時代、女性の名も『美波、史緒里、珠美、楓、麗乃』などと、指名したくなる名前が多く石仏に刻むとモダンだね!

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● 京浜線複々線時代の橋台が使用されている、JRの「鹿島谷架道橋」をくぐりぬけ、品川区大井4から南大井5の町に入る。

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● 大森駅の北東に東京都住宅供給公社の「大森駅前住宅」がある。、、、、昭和45年(1970)に建てられた、13階建て、総戸数 759戸の集合住宅。、、、、築後50年が経過したが、建物は健在? 現在の売買価格は2LDK/55.31㎡で4000万円程、高い? 安い?

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● 大森駅東口駅前広場の一画に、明治45年(1912)に当時の鐵道院の命によって鋳造された、かつて大森駅の階段に使用された鉄柱が保存されている。 2本の鉄柱には、
「鉄道院」の銘と、製造元の「合資会社高田商会柳島製作所」の社名、「明治四十五年七月製造」の製造年月が鋳造されている。、、、、現在は公園のオブジェかな?

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● 「大森駅」は、鉄道開業4年後の明治9年(1876)にできた駅。 隣の蒲田駅の開業は明治37年(1904)なので、駅としてはかなり先輩格である。都内では、新橋駅、品川駅に次いで3番目に古い駅である。、、、、現在のホームは地上島式1面2線構造。 改札口は中央口と北口の2ヶ所で、それぞれ別々の橋上駅舎内にある。 中央口側の駅舎は駅ビルを併設するたいへん立派なものだ。、、、、ホームには、「日本考古学発祥の地」と書かれ、上に“深鉢式土器”の模型が載せられた碑がある。

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2023年5月 6日 (土)

八広から平井

GW中は、観光地に行かず家でじっとしていようと思ったが、天気がいいと歩きたくなるね! 今日も天気が良さそうなので、人混みを避け、京成押上線の八広駅から、JR中央・総武緩行線の平井駅まで、人影少ない下町を歩いてきた。 1万1千歩




● 「八広駅」の乗降人員は京成線全69駅中34位。 押上線の駅では最も少ない一日当たり約5000人。 23区内の駅だが、残念ながら影の薄い駅。 おそらく都内在住の人でも、駅の所在を知らない人もいる、下車したことがない人も多そうだ。 高架駅のホーム先端からは荒川がスグ目の前に流れてる。 高架下の出口の前は下町の裏道だ! 駅の周辺には人を集める施設もなく、万年、静かな駅。

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● 八広駅から南東へ200m程、木根川橋の西詰に「日枝神社」が鎮座する。 400年程前の慶長19年(1614)の創建といわれ、歴史は古いが詳しい由緒は判らない。、、、、境内には人気無し、静かなGW!

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・・・・・・・・・・ 日枝神社の境内に、もう一社「木下稲荷神社(きのしたいなりじんじゃ)」が鎮座する。 こちらは、慶長19年(1614)の鎮座で元木之下村宝蔵寺境内にあって、日枝神社の摂社として創立された。 明治初年の改正により木下村に移転され、さらに大正8年(1919)に荒川放水路(現:荒川)の用地に入ったために現在の場所に移転した。

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八広から東墨田の町をブラブラ

・・・・・・・・・・ 八広の裏通り、、、、東京スカイツリーのお膝元

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・・・・・・・・・・ 吾妻西公園の戦災殉難者之精霊供養塔、、、、太平洋戦争当時ここの公園は空地だったため、東京大空襲の犠牲者250名程が仮埋葬された。 昭和23年頃から改葬のために遺体は火葬されて東京都慰霊堂に合祀されたが、これらの犠牲者の冥福を祈り慰霊するために、平和地蔵尊と墓誌(慰霊碑)が建立された。

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・・・・・・・・・・ 荒川土手の下を歩く、、、、もちろん海抜0m以下 歩く人がいない!

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・・・・・・・・・・ 東墨田の革工場もGWで仕事は休み 人影がない!

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・・・・・・・・・・ 東墨田の連結送水管の専門企業にズラリと並んだ、“まっ赤なポルシェ”とはちょいと違うがまっ赤なポンプ車。 ポンプ車もGWでひと休み!

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● 葛飾区を北から南に流れ東墨田の東側で荒川と平行に流れ下る中川。 その中川が荒川でちょん切られ、下流側(墨田区側)が「旧中川岸辺公園」として江東区まで続く。、、、、煙突は「墨田清掃工場

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● 旧中川の南は江戸川区、江戸川区平井に「平井天祖神社」が鎮座。 平井天祖神社の創建年代は不詳だが、貞和4年(1349)に再興した旨の棟札が、江戸時代には残されていたそうだ。 江戸時代には中平井村の鎮守で、明治7年(1874)に村社に列格した。 祭神は天照皇大御神、合殿に布都主命、武甕槌命を祀る。、、、、ここも、人の姿が見えず、今日はGWだ!

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● 蔵前橋通りを越えるとJRの「平井駅」 今日の散歩はココまで!

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2023年5月 4日 (木)

部民の居住地

GWの真っ只中、若いカップルはデート、子持ち夫婦は家族旅行、熟年夫婦は温泉旅行、さてさて我が初老夫婦はどうする! 『何処に行っても混んでるから東京にいよう!』 『GW中は我が家でジットしてよう!』 『夫婦で東京の留守番だ!』、、、、と、話しながら二人静に朝食をとる。 TVのニュースでは今日の天気は気温25℃の行楽日和と話してる。 外出したくなってきた、人の少ない所へ行くか! 私が『今日は、千葉へ墓参りに行こう』と提案すると、妻は『行く、行く』の返事、即決(妻は、どこでもいいから外出したかったのだ!)

千葉には私の祖父母の墓があり、久しぶりの墓参である。 JR総武線西千葉駅で下車し、作草部の寺まで歩き、帰りは千葉駅から帰る。




● 浅草橋(我が家)から中央・総武緩行線(各駅停車)の電車に乗って、乗り換えなしの18駅目、所要45分で「西千葉駅」に到着。、、、、西千葉駅は昭和17年(1942)10月1日に国鉄の駅として開業。 開業当初は地上駅であったが、現在は1面2線の島式ホームを有する高架駅である。 駅付近では高架橋の高さが低く、駅出口は半地下となっている。、、、、駅の東側には千葉大学西千葉キャンパス、千葉経済大学などがあり、平日は学生の多い駅。 今日は連休でもあり、駅前はガラガラ。

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● 西千葉駅前のロータリーの脇に「西千葉稲荷大明神」が鎮座している。 大きな社ではなく極々小さなお稲荷さん。 この場所は駅前の一等地だ!、、、、ここらはその昔(江戸時代)佐倉藩の刑場跡だったそうだ。 大明神の由緒書きによると、『江戸時代に与助と言う20代の若者が、ウナギを卸しているとある年長の女将さんと恋仲になり、それが発覚して西千葉の刑場で処刑をされることが決まった。刑場への道中、歯の強い男が与助の縄を歯で噛み切って、与助は江戸へと逃亡を図り、その後与助は小さな旅館で真面目に働き、その店は良く繁盛した。その後家族にも恵まれていたのであるが、与助の頭には自分が逃亡してきた西千葉で、他の処刑された人々への思いが募り、ある日西千葉へ出向き、小さな石を積み上げて供養した』のがはじまり。

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● 西千葉駅前から「ゆりの木通り」を歩くと、千葉都市モノレールの「作草部駅(さくさべえき)」がある。 作草部駅の開業は平成3年(1991)6月12日。、、、、“作草部”は古くからある地名で、普通に読んだら“さく・くさ・べ”で、“く”の一音が無くなってる!

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● 作草部駅から東へ約500m、「作草部神社」がある、、、、神社の由緒書によると、作草部の地は、平安期に下総国千葉郡七郷の一つとして、福草部(三枝部)という部民の居住地があったことに由来するらしい。 鎌倉末期まで皇室領であった。 かなり、歴史ある土地のようだ。、、、、社殿は文久元年(1861)の建築で、御祭神の12神(大雷神・大山祇神・高龗神・伊邪那岐命・伊邪那美命・事解男命・高皇産霊命・猿田毘古命・應神天皇・菅原道眞・素戔嗚命・市寸島比売命)が祀られている。 狭い社殿に12神とは、すし詰め状態、チョイト可哀そうだ!

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● 作草部神社の近くには四基の馬頭観音がある。 写真右から、弘化元年(1844)、昭和4年(1929)、安政3年(1856)、天保13年(1842)の馬頭観世音、、、、200年近く、この地の住民に見守られてきた馬頭観音に合掌

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● 私の祖父母が眠る寺に来た。 静かだ、観光客はいない(あたりまえだ!)、線香を手向け、合掌!

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● 墓参りを済ませ、千葉駅に出て帰宅。 1万2千歩

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