山王越え
三日続いた雨も上がり、今日はポカポカ陽気。 JR京浜東北線の大森駅から、山王の山を越えて都営浅草線西馬込駅まで、1万歩の散歩です。
● 久しぶりに山王の住宅地を歩いて見ようと思い、「大森駅」は西口に出る。、、、、大森駅の改札は山王口、中央口があり、それぞれ東口と西口の出口がある。 西口側は山王の丘陵が迫っているので駅前に広場がないが、東口側(海側)は広くて多数のバス停がある。 今日は中央口改札をとおり西口に出た。 駅ビルの前は「池上通り」で、飲食店が多い商店街。 朝から鰻を焼く、いい匂いがする店もある、朝食を満足に食べず家を出た人には残酷だ!
● 大森駅西口前の急な石段を登ると「天祖神社」である。 天祖神社は、その名の通り祭神が天照大神。 草創の年代は明らかではない。、、、、八幡太郎義家が奥州征伐におもむく途中、この社で戦勝の祈願をした。 そのとき境内にあった松の木の枝に鎧を掛けたと言われる”鎧掛の松”の伝説がある。 この松の木は安藤広重の絵になって、八景坂とともに名勝として広く世間に知られていたが、残念ながら枯れてしまい、今は跡形もない。、、、、やぶ蚊に注意の貼り紙がある、チョイト危険な神社!
● 山王の地に、木造二階建地下室付の住宅「塚崎邸」がある。 大谷石を多用し、深い水平軒を伸ばす。 外観は一階をスクラッチタイル、二階をハーフティンバーでまとめた洋風住宅。 建物に合わせたスクラッチタイル貼の塀もモダンなデザインだ! 大正13年(1924)築のこの建物は国の登録有形文化財
● 山王にある「大森テニスクラブ」の駐車場の一角に「日本帝國小銃射的協會跡」の碑がある。、、、、ここのテニスクラブは明治21年(1888)頃~昭和12年(1937)の間、小銃の民間訓練場だった。 明治15年(1882)、西郷従道らが本郷向ヶ岡に射的場を創立し、東京共同射的会社と称した。 明治21年(1888)に大森に移転が決まり、翌年に完成した。 昭和12年(1937)頃になると、周辺に住宅が増えはじめ、射的場は鶴見に移転した。 現在跡地は、多面のコートを備えたテニスクラブに変わった。、、、、昔も今も、球を打つ(撃つ)ことに変わりなし!
● 大田区山王2丁目の住宅地、、、、山王は、大正12年の関東大震災後、安全利便な郊外住宅地として人気を博し、各界の名士が移り住んだほか、大森停車所もあり外国人も多く住んでいた。 昭和初期には時代を代表する文学者が数多く集まり、馬込文士村の一角を形成した。 住宅は“お屋敷”と呼ばれる建物、洋館も多く、高級住宅地であった。 今は、広いお屋敷も遺産相続等により分割され、木造建物は劣化し、往時を偲ばせる建物は年々少なくなっている。 今は、建て替えが進み洒落たマンションも建ち並ぶ。、、、、『SECOM』のステッカーに違和感を感じさせない町だ!
● 山王の山を下り環七通りを横断し南馬込の町に入り、馬込東中学校の西側を歩くと、天文年間(1532~1555)に創建された「北野神社」がある。、、、、松とイチョウの大木が境内を演出してる。
・・・・・・・・・・ 北野神社の先(南馬込2-24)には、小さな庚申堂。 花も水も供えられ、今なを続く庚申信仰
・・・・・・・・・・ 庚申堂の斜め向かいには、文政7年(1824)に馬込村を中心とするの富士講の人々が寄進した常夜灯「富士講燈籠」がある。 台石に刻まれた銘文から、品川と池上に至る道に、道標を兼ねて建てられたことが判る。
● 南馬込の曹洞宗「萬福寺」に6年ぶりに立ち寄った、、、、萬福寺は慈眼山無量院と号す。 建久年間(1190~99)大井村丸山の地に密教寺院として創建された。 開基は梶原平三景時公と伝えられている。 元応2年(1320)火災にあい、第六代の梶原掃部助景嗣が居城とともに馬込へ移転した。 天文3年(1534)鎌倉の禅僧明堂文竜が曹洞宗に改め中興し、現在の萬福寺へと続いた。 本尊は阿弥陀三尊。
・・・・・・・・・・万福寺の山門は切妻造り茅葺きの山門で、小高い位置にあり、見上げる景色が印象的。
・・・・・・・・・・ 本堂前では3名のお年寄が玉砂利を清掃中。 邪魔をしないように、合掌する
・・・・・・・・・・ 境内から眺める南馬込
● 「大田区立郷土博物館」にも立ち寄って、、、、大森貝塚に代表される古代遺跡が多く存在する区なので、展示品も関連する土器・石器などの遺物が多い。 また、馬込文士村に関連する遺品・書・原稿・本などもある。 3階建ての立派な区の施設だが、見学者は数名、しかも無料。 コスパは最高!
● 帰りは都営浅草線の起点駅「西馬込駅」から、浅草橋まで乗り換えなしの30分。