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2023年10月

2023年10月31日 (火)

ちょいと千葉街道

JR総武線西船橋駅から千葉街道に沿って西(東京方面)へ向かって本八幡駅まで、1万1千歩の散歩です。




● 我家の最寄り駅:浅草橋から行先未定で総武線に乗り、『さて、今日はどこで降りようか?』 考えても決まらない、乗車した電車は西船橋行き。 終点の西船橋から歩くことにした。、、、、西船橋駅(にしふなばしえき)は、3社5路線が乗り入れる、JR東日本(総武線、武蔵野線、京葉線)・東京メトロ(東西線)・東葉高速鉄道(東葉高速線)の駅である。 利用客数は、すべての路線を合計すると千葉県の駅では最も多く、県内最大のターミナル駅である。 最大のターミナルだが駅前の賑わいは“いま一つ”、隣の船橋駅の賑わいには負ける! 集客力の無い駅前のラブホテル街と乱立するマンションが邪魔をしてるのかも?

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● 西船橋駅から市川駅の西で江戸川を越えた処までは、千葉街道(=国道14号)がJR総武線(海側)と京成本線(山側)の間を平行してる。(千葉街道からJR、京成の線路までは約200m以内) 今日の散歩は千葉街道沿いに西(東京側)に歩くことにした。

・・・・・・・・・・ 西船橋駅前の千葉街道に出る。 脇には千葉街道を跨ぐJR武蔵野線のガードが見える。、、、、武蔵野線の新松戸駅~西船橋駅間(14.3km)が完工したのは昭和53年(1978)5月26日。 その年の10月2日から同区間の旅客営業が開始された。 このガードも同年に完成したものかも(?)

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・・・・・・・・・・ 西船橋駅から北に200m程、小高い森の中に印内町春日神社が鎮座する。 印内町春日神社の創建年代は不詳だが、享保年間(1716~1736)には既に名前が残されているそうだ。 

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・・・・・・・・・・ 西船橋駅から徒歩5分位、千葉街道から脇道を覗くとブロック塀の中に“庚申”の文字が見える。 庚申塔があった。、、、、庚申塔には、寛政12年(1800)の銘があり「是より かまがやみち」と記されてる。 この庚申塔は近くからここへ移されたらしい。、、、、庚申塔の横に御影石に「無線電信所道」と書かれた道標があった(スゴイものを発見した気持ち、ヤッター!) これは、千葉街道のこの地から、北(現:行田団地)にあった、旧海軍の無線電信施設への道を示しているものらしい。 この海軍無線電信施設から、太平洋戦争開戦時、真珠湾攻撃の開始を司令する「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が打電されたのである。 

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・・・・・・・・・・ 京成本線の西船駅近く、千葉街道に面して葛飾神社がある。 葛飾神社の創建年代等は不詳。 葛羅(かずら)の井戸の西側に鎮座し元惣社明神とも一郡総社葛飾大明神とも称していたが、大正5年(1916)当地にあった熊野権現社に合祀され、葛飾神社と改称した。、、、、本殿を囲む玉垣の中に聳え立つクロマツは、幹が二股に分かれて社殿を覆うように枝が笠状に伸長し、その姿は社殿と一体化した景色を演出している。 クロマツの樹高は13m、幹回り3.42m、葉張り16.5mで、市内では最も太いクロマツと言うことだ。、、、、【ついでの話】神社のある船橋市の西隣:市川市の“市の木”はクロマツ。 市川・本八幡・中山の付近では、クロマツが多くみられる。

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・・・・・・・・・・ 葛飾神社の西100m程の斜面に、庚申塔と薬師如来坐像が祀られている。 これは、薬師如来を主尊とする庚申塔だそうで珍しいものらしい。 薬師如来の顔がよく見えず、チョイト残念。

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・・・・・・・・・・ 千葉街道の「中山競馬場入口交差点」付近で見つけた「競馬場入口」バス停。 『アリャ・マー なんと一日1本の運行だ! しかも18時台だ!』 反対方向行きのバスは、朝6時台に1本のみ。、、、、朝6時台に乗って何処かへ行き、18時台に帰って来る人向けの運行ダイヤと思われる。 どんな人が、どんな用事で利用すのか気になるね!

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・・・・・・・・・・ 京成本線の東中山駅近くに来ると、千葉街道に2寺が続く。、、、、まずは、船橋市東中山にある浄土宗寺院の薬王山神将院東明寺。 東明寺は、弘治3年(1557)の創建。 古い寺らしいが、境内は狭く、建物は新しそうだ。

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・・・・・・・・・・ 続いて、日蓮宗寺院の多聞寺は、寳珠山と号す。 多聞寺は、永仁6年(1298)に創建した。、、、、こちらの寺も、建物は比較的新しい。

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・・・・・・・・・・ 多聞寺から100m程歩くと小栗原稲荷神社がある。 稲荷神社から多聞寺の裏山まで、かつては小栗原城があったそうだ。 小栗原城は標高20mほどの舌状台地先端部にあった城で、この稲荷神社が主郭と言われてるらしい。、、、、境内を綺麗に清掃されている方に出会いました。 本殿の床下を掃除しながら『本殿にシロアリが大量発生して困ったもんだ!』 拝殿前に来ると落ち葉を掻き集めながら『床下にホームレスが住み着いて、これまた困ったもんだ!』 シロアリもホームレスも、綺麗に清掃された社殿の床は住みやすいのかもね(?)

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・・・・・・・・・・ 船橋市から市川市に入り、中山法華経寺へ向かう参道入口を通過

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・・・・・・・・・・ 千葉街道から木下街道が分岐する地点(市川市鬼越2)に古い煉瓦作りの蔵のある中村家の建物がある。 中村家は、木下街道と千葉街道の交差点付近に位置することから、地の利を生かし、明治期においては陸軍御用達の馬糧商(ばりょうしょう)を営み、大正期になると味噌醸造業に転じた。 馬糧商時代の倉庫を転用するなどして、広大な味噌工場を有し、東京方面に出荷するほどの大規模醸造所であった。 敷地内の各建造物はおおむね明治後期のものらしい。 出桁造の主屋、煉瓦造りの蔵、石造風に化粧目地を施した洋風建築の事務所などが国の登録有形文化財に指定されている。

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・・・・・・・・・・ 京成本線鬼越駅の近くには日蓮宗寺院の塚原山常開寺がある。、、、、常開寺は、中山法華経寺の上人が応安7年(1374)に創建した。

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・・・・・・・・・・ 常開寺参道入口前で気になった床屋さん「アイカワ」 どうやら昭和レトロな雰囲気の床屋さん、赤青白のサインポールもグルグル回ってた、営業中だ!

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・・・・・・・・・・ 真間川を越えると市川市役所前に不知八幡森」、その先には「葛飾八幡宮」の参道がある。 本日の千葉街道の散歩はココまで、左に曲がれば本八幡駅だ。

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本八幡駅から帰る、我が家のある浅草橋駅までは、電車に揺られて8駅、20分。 

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2023年10月27日 (金)

新庄、良いとこ!

27日、鳴子温泉駅を10時10分発の列車で新庄(山形県)に向かう。 今日の観光の予定は定まっておらず、妻に『今日はどこへ行こうか?』 『天気が悪いかも、とりあえず新庄駅に行こうよ。それから考えましょう!』 『そうしょう!』   (26日の鳴子温泉はコチラ

 

 

鳴子温泉駅はチョイト薄曇りの天気(一雨降りそうで心配だった)、、、、昨日私達夫婦が乗ってきた列車が到着すると、今日も多くの観光客がゾロゾロと下車した。 入れ替わりに空いたガラガラ列車に乗る乗客は数人。 『これぞ、ローカル線だ!』 列車は陸羽東線を宮城県から山形県へ入り、のんびりゆったりガタゴトと新庄へ向かう。、、、、どこぞの旦那も、旅の記録をスマホでパチリ!

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● 11時頃新庄駅に到着、天気は晴れそうだ! 帰りの新幹線は17時過ぎの発車なので、約6時間余裕がある。 『さてさて、どうしよう?』 駅の観光案内所に相談すると、お姉さんが、観光プランを作成してくれた! 『時間が十分あるので、ちょっと遠い所ですがバスで金山町に行ってきたらいいですよ! バスの時間までは新庄城址、ふるさと歴史センターをみてきてください』 ありがたく、その提案に従うことにした。

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・・・・・・・・・・ 観光案内所のお姉さんは、私が鉄道好きと知ると、新庄駅構内に保存されている明治36年竣工の「旧新庄機関区 機関庫」(平成20年に近代化産業遺産に認定)が遠望できる場所まで案内してくれた。 『有難うございました、感謝です』、、、、まだ現役として使用されてるため、建物には近寄れないとのこと。

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● 新庄駅前の大通りを真直ぐ歩いて約20分、新庄城跡がある。、、、、新庄城は、新庄藩祖戸沢政盛が築いたもので、寛永2年(1625)に完成したそうだ。 本丸は東西52間、南北127間、正面奥に天守櫓がそびえ、周囲は堀と土居で囲まれ、三隅に櫓を有する平城であったと言われてる。 寛永13年(1636)に火災で天守櫓を焼失した。 その後、戊辰戦争では庄内勢に攻められ、市街地もろとも消失してしまった。 現在は戸澤神社などが祀られ、最上公園として市民に親しまれているらしい。、、、、石垣が高く積みあがった城跡ではないので迫力に欠けるね!、、、、戸澤神社は明治26年創建にかかり、翌27年(1894)に完成しました。 祭神は、戸沢家始祖衡盛と藩祖政盛、十一代正実を祀っている。

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● 戸澤神社の向かいに「新庄ふるさと歴史センター」がある。 次はコチラを見学。、、、、当センターは、260年の歴史をもつ新庄まつりの山車2台を展示するほか、新庄の歴史・民俗・観光・芸術文化など、いろいろ新庄自慢の史料や作品を展示している観光拠点施設。 2階は新庄の歴史を語る資料展示。 1階は新庄まつりの山車を展示。 そして、人間国宝の金工鍛金家「奥山峰石」の作品を展示。 地下には、雪国の暮らしぶりを伝える民俗資料が約1万点(?)展示されている。、、、、大人300円で十分楽しめる。(私の思いで、新庄にはこの施設以外に見るべきものなし!) 

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● 1時過ぎのバスで金山町へ向かう。、、、、金山町(かねやままち)は、新庄からバスで約40分、山形県の北東部にある町で、一部は秋田県に接してる。 町域の4分の3を占める森林からの金山杉と白壁を用いた「美しく古びる」を目指した金山型住宅、また石造りの大堰と呼ぶ農業用水路には錦鯉を放流するなど、景観施策に意欲的な町である(観光案内所のお姉さんが紹介してくれた理由がここの美しい町並みにある)、、、、金山町は、江戸時代には羽州街道に沿って金山宿と中田宿が置かれ、宿場町として栄えた。 金山宿から先は、秋田県まで金山峠(森合峠) - 主寝坂峠 - 雄勝峠と厳しい峠が続くため、参勤交代をする秋田・津軽の諸大名が必ず泊まる宿場であり、本陣・脇本陣が置かれていた。

・・・・・・・・・・ 古い宿場町の金山町は、昭和58年頃から“街並みづくり”のプロジェクトを立ち上げ、『自然(風景)と調和した美しい町並み』づくりに取り組んできたそうだ。 古くからの建物をそのまま残すことではなく、新しい素材で統一されたデザインポリシーの基に良質の建物が並ぶ町が造られてきた。、、、、国の重要伝統的建造物群保存地区に似た印象を受ける街並みで、石畳みの道、鯉がお泳ぐ堀、白壁の蔵などが散策を楽しませてくれる。 観光客は少なかったが、街のいたるところに休憩所・カフェなどがある。、、、、バスの終点「金山」から街並み地図に従って、バス停5か所分を妻と二人でブラブラ散策。 私と妻の『もう一度来たい町』に登録確定!

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● 新庄駅から山形新幹線で東京へ帰る、、、、チョイト疲れた!

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2023年10月26日 (木)

鳴子温泉

以前から一度は行ってみたかった、秋の鳴子峡に夫婦で行くことにした。 26日から一泊二日で、東北新幹線の古川から陸羽東線で鳴子温泉に行き、鳴子峡を見て鳴子温泉に泊まり、翌日は新庄に出て山形新幹線で帰る工程で出発進行!、、、、今回の旅では、陸羽東線に乗ること、紅葉の鳴子郷を見ること、鳴子ダムに行くことをの3つを目標とした。



● 東北新幹線古川駅に到着。 『たくさんの人が下車するね!』『ここからローカル線の陸羽東線に乗り換えだ。あわてず、ゆっくり行こう!』、、、、新幹線の高架ホームから1階の陸羽東線の地上ホームに降りたら、ナント!乗り換え客で人・人・人 『アリャリャ・コリャリャ、これでは乗れるが座れないぞ!』

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・・・・・・・・・・ 2両編成ワンマンカーの陸羽東線に乗れた、運良く座れた、しかし列車の乗車率は150%ほど、観光客が多く。 皆さま鳴子温泉を目指してる。、、、、ローカル線でのんびり夫婦二人旅は、妄想だった、、、、約45分、中国語・韓国語が聞える列車に揺られ、鳴子温泉駅に到着。 

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● 駅前から鳴子峡方面行きのバスが出てるが、1時間に1本程の運行で、『アリャ・またこちらも行列だ!』 1台のバスには乗客全員乗り切れず、バスも急遽増便した! 満員のバスに揺られて鳴子峡に着きました!

・・・・・・・・・・ 紅葉が始まった鳴子峡に感動、天気も上々、綺麗だ!、、、、展望台から下を見れば峡谷が見える

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・・・・・・・・・・ 鳴子峡のポスターに度々登場する「大深沢橋」は、鳴子峡に昭和36年(1961)に架橋された橋長約100mの橋。 平成10年(1998)からは、幅員を広げるなどの補強・補修工事も行われた。

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・・・・・・・・・・ 鳴子峡には陸羽東線の橋梁もある。 こちらはトンネルから出るとスグに峡谷に架かる橋梁を列車が通ることから、鉄道オタクの撮影スポットでもある。 私がココに到着した頃は、“時すでに遅し”列車が通過した後だ、次の列車までは3時間『撮影はあきらめよう!』

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・・・・・・・・・・ 鳴子峡レストハウスは観光客で“千客万来”、、、、ここでも、中国語、韓国語らしき言葉が聞える

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● 再びバスに揺られて鳴子温泉駅へ戻り、今度はここからタクシーで鳴子ダムを見に行く。、、、、鳴子ダムは、北上川水系江合川(級河川)に建設された国土交通省直轄ダム。、、、、高さ94.5mのアーチ式コンクリートダム、堤頂長は215 m、堤体積は180,000 m³、総貯水容量は50,000,000 m³。 洪水調節・不特定利水・発電を利用目的としている。 鹿島建設の施工で、昭和26年(1951)に着工、昭和33年(1958)に竣工した。 複雑なカルデラ地形の地に外国の技術者を招かずに日本の技術者だけで建設した、日本初の100m級アーチ式コンクリ-トダムであり、2016年度土木学会選奨土木遺産に認定された。、、、、ダム見学の人は少なくチラ・ホラ程度。 鳴子峡のような賑わいもなく、夫婦でのんびりと堤頂を歩く。 100mの堤頂から下を覗くと高所恐怖所の足がすくむ、恐る恐る顔を前に出し再び下を覗いて身体がブルブル。 でも最後は『来て良かった、見て良かった、ネ!』

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● 製造元でこけしを買って、温泉神社に立ち寄って、今日の泊りは、もちろん鳴子温泉。

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・・・・・・・・・・ 今宵の宿は、高台のホテル、見晴らしも良いね!

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明日は陸羽東線で新庄に向かう。 観光はお天気次第で、予定なし!

2023年10月23日 (月)

東尾久の町

JR山手線の西日暮里駅(にしにっぽりえき)から東尾久の町に入り、裏道を行ったり来たり迷ったり、京成本線の町屋駅まで、1万歩の散歩です。




JR西日暮里駅は道灌山下の窪地に、昭和46年(1971)4月20日に開業した駅(当時は国鉄の時代)。 開業2年前の昭和44年(1969)に、帝都高速度交通営団(現:東京メトロ)千代田線の西日暮里駅が開業している。 国鉄の西日暮里駅は、地下鉄千代田線との乗り換えのために設けられた駅で、日暮里駅からは500m程しか離れていない。 JR西日暮里駅は島式ホーム2面4線の高架駅、改札口は1ヶ所のみで1階にある。 駅前の道灌山通りの地下には千代田線のホームがあり、JRと千代田線を直接乗り換えるための中間改札が地下1階にある。(日暮里・舎人ライナーの西日暮里駅は少し離れている)、、、、乗り換え客重視の構造で、幅広の地下鉄連絡改札がホーム下中央に鎮座し、普通の改札はその横で狭く申し訳なさそうに設置されている。

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日暮里・舎人ライナーの西日暮里駅は、JRの西日暮里駅からはチョイト離れて、尾久橋通りの頭上にある。 平成20年(2008)3月30日に開業した。 JRに乗換えるなら隣の日暮里駅が便利、千代田線に乗換えるなら西日暮里駅が近い。 戦前は、至近距離に京成本線の道灌山通駅(昭和9年~昭和18年まで営業)があったそうだ。、、、、朝は日暮・里舎人ライナーからJR、千代田線に乗換える通勤客がゾロゾロと降りてくる。

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● 日暮里・舎人ライナー西日暮里駅の北側に、「冠新道(かんむりしんどう)」がある。 広い道幅の両脇には、昭和レトロの雰囲気を残す商店が立ち並ぶ商店街「冠新道商興会」だ。 春には桜も綺麗に咲く、全長約600mの商店街。 “冠”とは、新道の建設に際して土地を提供した地権者の名前を取ったものだとか。、、、、今朝8時、店は開いておらず、商店街を歩いてもつまらない! 途中から脇道に入る。

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・・・・・・・・・・ 脇道に入り、出たのは明治通り(=都道306号)。 道路を越えると東尾久の町。

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● 東尾久の町に入る。 東尾久の町は1丁目から8丁目まであり、広い! 今日は1丁目から3丁目まで、迷路のような裏道をウロウロ、クネクネと歩いて来た。 

・・・・・・・・・・ 東電荒川事務所尾久変電所横の路地を入ると、浄土真宗の金相寺がある。 石川県珠洲市金相寺の住職が昭和10年(1935)退隠後に上京し、浄土真宗系単立同念教会を当地に設立、昭和21年金相寺を設立したと言われてる。 歴史は浅い。 本堂は木造で前庭も狭い。

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・・・・・・・・・・ 下町の迷路のような裏道を行ったり来たり迷ったり!

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・・・・・・・・・・ 道に子供のチョーク絵を発見! 私も子供の頃、蝋石(ろうせき)で道に絵を描いて遊んだことを思い出した、懐かしいね!2310230831260



・・・・・・・・・・ 街角(東尾久2)で見つけた地蔵尊。 「腹祓地蔵尊」と書いてある、この地蔵のご利益は何だ!?、、、、どうやら、昔々、幼くしておなかの病によって亡くなった子が、自分のように苦しいでいる子供たちの痛みや病を癒したいので、ぜひ地蔵様として祀ってほしいと、家主にお告げをしたそうだ。 以来、家主は地蔵を彫り屋敷内に祀ったとのこと。、、、、ダイエットにご利益は期待できるかな?

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・・・・・・・・・・ 東尾久3丁目、天台宗寺院の二葉山尾久院満光寺の門前に出た。、、、、満光寺の創建は南北朝末か室町時代と伝えられている。 堂々とした赤い立派な山門とモダンな本堂が見える。 ここに来たのは、今日で3回目、二葉閻魔大王にも手を合わせる。

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● 都電通りに沿って京成本線町屋駅へ向かう。 いつ見ても飽きない都電の雄氏!

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京成本線の町屋駅から帰る。

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2023年10月20日 (金)

目の温泉

マイナンバーでもらったマイナポイントをJR東日本の“JRE POINT”に貯めておいた。 当然20000ポイン以上貯まっており使い方に迷っていたら、JR東日本の『どこかにビューン!』(乗車日の3週間前から、ランダムに選ばれた1つの新幹線停車駅を往復できるチケット)という新幹線の旅のチケットが一人6000ポイントでもらえると知り。 20日ほど前に、夫婦で東京~越後湯沢間の往復チケットが入手できた。 これまで越後湯沢には、夏も冬も幾度か訪れたこともあるが、今回は二人だけの旅(19日から一泊二日)なので秘湯の一軒宿「貝掛温泉」に行ってきた。




● 東京から約1時間、越後湯沢駅で降りる、、、、越後湯沢駅は、大正14年(1925)11月1日、現:上越線の前身である上越北線の塩沢駅~越後湯沢駅間開通時に開業した。 昭和6年(1931)には上越線が水上駅まで開通し、越後湯沢駅は中間駅となる。 昭和57年(1982)11月15日に上越新幹線が開通する。、、、、新幹線は中央に通過線2本を挟んだ島式ホーム2面4線の高架駅。 高架下には駅ビルがあり、土産物店、飲食店、観光案内所などが軒を連ね、駅前の商店に比べ活気がある。 駅前から空を見上げれば天気は上々、旅行日和だ!

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● 今宵の宿:貝掛温泉は、越後湯沢駅から苗場スキー場へ向かう国道17号の途中、ちょうど中間あたりで脇道に入った処にある。 時刻は午前11時、宿に行くにはだいぶ時間があるので、苗場(なえば)スキー場から“苗場ドラゴンドラ”で山頂の田代高原に上がり、続いて“田代ロープウェー”で下山することにした。

・・・・・・・・・・ 苗場プリンスホテルの北側に“苗場ドラゴンドラ”の山麓駅がある。 山麓駅から全長5,481mは日本最長のゴンドラで、片道約25分乗せられ揺られて、山頂の田代高原まで空中散歩をした。、、、、山肌に沿ってアップダウンの激しいゴンドラだが、高度が増すにつれ樹木は赤く色づき、高度恐怖症であることも忘れる25分間であった。 眼下には二居湖も見えた!

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・・・・・・・・・・ ゴンドラを降りると、そこには田代高原(標高1,413m)が広がってる。 山の上の湖:田代湖もある。、、、、あまり聞かない地名だが『田代高原なんて、どこにあるの?』 もともとは“かぐら・みつまたスキー場”と“かぐら・田代スキー場”という2つのスキー場だったが、平成18年(2006)に“かぐらスキー場”として合併、再発足したとのこと。 田代高原はかぐらスキー場の一地区の名称。

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・・・・・・・・・・ 田代高原からは“瞬間地上高日本一”と謳う「田代ロープウェー」で下山。 全長2,175m、瞬間地上高230mを、定員91名のロープウェーで片道約10分の絶景展望。、、、、通勤電車のようなロープウェーから二居湖二居ダムを見下ろす。

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● 『ここまで来たら、二居ダム(ふたいだむ)を見て行こう』と妻を誘い、二居ダム堤体下にダム見学施設のある「奥清津発電所」にお立ち寄り。

・・・・・・・・・・ 田代ロープウェー山麓駅から清津川を渡りトンネルを抜けると二居ダム洪水吐の下にでる。 目の前には電源開発株式会社の奥清津発電所がある。 大きな建物が二棟あり、奥清津発電所奥清津第二発電所だ。 この二つの発電所を合わせた最大出力は160万kwで、日本最大級の揚水式水力発電所。 内部もチョイト拝見!、、、、私達夫婦には発電所の規模・凄さが理解できず、只々『デカイ~~ スゴイ~~』の連発!、、、、ちなみに、私たちが訪れた10月19日、朝から14時までの見学者数は5組9名程だった。 多いか、少ないか?

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・・・・・・・・・・ 二居ダムの堤体上部には、時間の都合で上るのを断念、残念!、、、、ダム諸元は、河川名:信濃川水系清津川、型式:ロックフィルダム、堤高:87m、堤頂長:280m、総貯水容量:1,830万m3(東京ドーム約15杯分)、管理者:J-POWER、完成年:昭和53年(1978)、施工:大成建設、、、、ロープウェーからの写真と洪水吐の写真

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● 再びトンネルを歩いて、ロープウィー山麓駅のバス停へ、本日の宿“貝掛温泉”へ行くバスは17時過ぎまで無し! 『コリャ ダメだ!』 タクシーに来てもらい宿へ向かう、、、、貝掛温泉(かいかけ おんせん)は、苗場山の北東中腹の渓谷沿いにある一軒宿。 宿は鎌倉時代から700年の歴史があり、江戸時代からは『目の温泉』として遠路はるばる数多き人々が訪れているらしい。 泉温が37°C前後であり、ぬる湯として知られている。 ほとんどど無色透明で、チョイトしょっぱい味がした。 眼病に対する効能が高く、古くから姥子温泉(神奈川県箱根町)と微温湯温泉(福島県福島市)と共に「日本三大眼の温泉」の一つと言われてるそうで、湯で眼を洗うと良いらしい。 洗ってみたが、変化なし?、、、、眼病はともかく、宿は標高約800メートルの山中に、重厚な庄屋造の一軒宿:貝掛温泉が営まれている。 宿を経営する株式会社貝掛温泉は日本秘湯を守る会の発足会員の一つ。 清津川から支流に入ってすぐの渓谷にあり、両川の合流点にある貝掛橋を渡ると、その先には貝掛温泉と谷間の自然だけがある。、、、、“貝掛”はこの地の地名だそうだ、昔は“金掛”と呼ばれていたらしい。 “金掛”とは、この地が険しい処にあり、安全のため鎖を金(鎖)で打ち付けて、そこにつかまって道を通ったてきたので“金掛”と呼ばれたそうだ。 “金掛”転じて“貝掛”となる。

・・・・・・・・・・ 国道17号から、急な坂道を下り、昭和42年(1967)に竣工した貝掛橋を渡ると、趣きのある宿がある。

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・・・・・・・・・・ 温泉は撮影禁止でチョイト残念! 目に良いとされる食材を集めた薬膳玄米粥や川魚料理など、次々に運ばれてくる地元の素材にこだわったメニューは嬉しい限り。 もちろん地元産の“こしひかり”も美味しく頂き、御馳走さま!

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● 二日目(10/20)は、ゆったり・たっぷり・のんびりして宿を出発。 越後湯沢の温泉街から湯沢高原を結ぶ、全長1,303m、標高差500mの“湯沢高原ロープウェィ”に乗る。 世界最大級のロープウェイらしく、定員は166名、コレマタでっかいね! 湯沢の温泉街を眼下に一望する。

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・・・・・・・・・・ 湯沢高原でパチリ!

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● 午後から雨がパラパラ。 土産に“笹だんご”を買って越後湯沢から東京へ戻る。

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2023年10月17日 (火)

砂町は砂村町

東京メトロ東西線南砂町駅から北に向かって、JR総武線亀戸駅まで、1万2千歩の散歩です。




● 東京メトロ東西線の南砂町駅(全て音読みで“みなみ すな まち”です、訓読みにして“なん さ ちょう”とは読まないで!)は、昭和44年(1969)3月29日に開業した。 島式ホーム1面2線の地下駅。、、、、コロナ前の東西線は、千葉方面からのアクセスが良く、年々利用客が増加し、一時期一日利用者数が150万人近くに達し、朝の通勤ラッシュ時間帯の混雑率が200%前後となった。 そこで南砂町駅では、ホームを1面増やし2面3線構造とし、駅の混雑緩和をはかる改良工事に着手した。 ところがドッコイ、コロナで利用者が減り、着工前の段階では2020年度完成予定となっていた工事は、その後2027年度完成予定へ大きく変更された。

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・・・・・・・・・・ 南砂町駅に到着した都心方面に向かう三鷹行きの電車は満員、東西線の混雑緩和は急務だ!

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明治通り(=都道306号)に沿って北上する

・・・・・・・・・・ マンションの前にはゴミの山、、、、収集したゴミを焼却するのは大変な仕事だ!

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・・・・・・・・・・ 南砂の中心(?)、明治通りと葛西橋通りが交差する「南砂四丁目交差点

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・・・・・・・・・・ “砂町”という地名の謂れは、江戸時代「宝六島」と呼ばれていた地を砂村新左衛門一族が開拓したことにより「砂村」という地名が付き、大正10年(1921)7月の町制施行とともに「砂町」となった。 ところで、“砂村”は一族名で、“砂”の“村”ではない。 町制施行では、“砂村”に“町”を足して“砂村町”とするのが正しかった(?)。 砂町は現在の北砂、南砂、東砂、新砂にあたる。



・・・・・・・・・・ 仙台堀川公園(川の多くを埋め立てた親水公園)を横切る

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・・・・・・・・・・ 北砂2丁目の志演尊空神社(しのぶそんくうじんじゃ)に立ち寄る。、、、、志演尊空神社は、志演神社と、尊空神社が昭和22年(1947)に合併して志演尊空神社となった。 志演神社は、当地八右衛門新田村を開拓した際に菅原長寛が稲荷神を勧請して創建した。 後に、徳川綱吉が鷹狩りの際に志演神社と命名した。 尊空神社は、伏見宮家・守理法親王の御子で知恩院第三六世門主だった尊空親王を奉斎していた神社である。、、、、社号の“しのぶそんくう”は難読だ!

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・・・・・・・・・・ 数ある商店街の中で戸越銀座商店街と肩を並べて全国的に有名な商店街、その名は「砂町銀座」。、、、、戦前は30軒位の普通の商店街であった。 昭和7年10月1日、当時の商店会の記念式典で城東区選出の東京市会議員宇田川氏により『この通りが早く砂町銀座と呼ばれるような一大繁華街となられん事を望む云々』の祝辞を受け、その晩早速役員会を開き通りの名を砂町銀座にしてしまったそうだ。、、、、今日、立ち寄った時刻は9時前、店の多くは開店準備中。 商店街の途中から裏道に入る。

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・・・・・・・・・・ 砂町銀座の北側、100m程の距離で平行する裏通りに「こうづけ堀通り」の道路名。 名前の脇に「吉良上野介下屋敷堀跡」と記されてた。 周囲をキョロキョロ探すが、極々普通の裏通り、それらしき遺構もない。、、、、討ち入りしたのは、本所松坂町の吉良邸だ。

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● これより、小名木川、中央銀座商店街、大島6丁町目団地、昭和橋通りの順で、2020/8/2の散歩コースを逆さに歩いて亀戸駅へ到着。

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2023年10月14日 (土)

蔵の街 栃木

朝晩は少々肌寒くなってきたが日中は秋晴れ。 夫婦で“蔵の街 栃木”を歩いて来た。 東武鉄道の浅草駅から特急で70分程で、東武日光線の栃木駅に到着。 行きは栃木駅の隣り新栃木駅で下車し、帰りは栃木駅から浅草へ戻る、1万6千歩の街歩き。




● 栃木駅で特急から普通に乗換え、一つ先の新栃木駅で下車。 新栃木駅は、日光線と宇都宮線が乗り入れ、宇都宮線の起点駅である。 昭和4年(1929)4月1日、日光線開通と同時に開業。 昭和6年(1931)に宇都宮線が開業。 駅は単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の地上駅。、、、、日光線・宇都宮線の乗換駅で乗客も多いが、なぜかのどかな雰囲気が漂う駅。 駅前ロータリーに立って見回すが、飲食店、コンビニなどは無さそうだ、広い静かな駅前だ!

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● 新栃木駅前から伸びる県道(新栃木停車場線)を700m程歩くと、日光例幣使街道の一部で、重要伝統的建造物群保存地区の「嘉右衛門町」がある。、、、、栃木市中心部は天正19年(1591)に戦国大名・皆川広照が、この地に築城したが、わずか19年で廃城となってしまい、城下町だったこの町はその後宿場町・商人町に変化した。 中心部の旧栃木町は日光例幣使道の宿場町として、また、江戸からの舟運により、物資の集散地として栄えた町となる。 重要伝統的建造物群保存地区には、栃木宿の北側、日光例幣使街道に沿って約700m、江戸後期から昭和初期にかけて造られた、土蔵造りの“見世蔵”と“木造真壁出桁造”の建物が残されてる。、、、、観光バスツアーの姿もチラホラ見えるが、オーバーツーリズムの心配は不要だ!

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・・・・・・・・・・ 江戸時代創業の味噌屋「油伝味噌」、、、、自家製味噌の田楽を食することができるが、私たちが着いたのは営業時間前、残念だが田楽を食することはできなかった、妻がガッカリ!

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・・・・・・・・・・ 江戸時代は畠山家の陣屋となっていた岡田家、現在は「岡田記念館」、、、、建物の劣化がひどく一生懸命補修工事中、屋根が歪んだ建物が倒壊しないか心配だ!

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・・・・・・・・・・ 栃木で一番古い床屋、平成元年まで営業していたそうだ「岡田記念館 市村理髪館」、、、、店内全ての物が骨董品!

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・・・・・・・・・・ 天保5年に建てられた日本では3番目に古い見世蔵(土蔵造りの技術を用いて造られた店舗兼住宅)の「大貫家

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・・・・・・・・・・ 昭和7年に建てられた洋風建築「舘野家

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● 伝統的建造物群保存地区からチョイトはずれた所に大正2年(1913)に建てられた「栃木病院」がある。 建物は木造2階建て、屋根の形式は寄棟、切妻、入母屋、ドーマや尖塔屋根などいろいろミックス、さらには日本建築の千鳥破風なども見られる、大正時代の洋風建築の特徴を出している。平成10年(1998)に国登録有形文化財に指定された。、、、、現在は医院の名を変え診療を続けているようだ。

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● 栃木病院から西に歩くと栃木県立栃木高等学校がある。 学校は明治29年(1896)栃木県尋常中学校栃木分校として創立した。 ここには、3棟の国登録有形文化財がある。 3棟の内、2棟を見てきた。 1棟「記念館(御聖蹟)」は構内奥にあり、本日は何かの行事があり生徒の出入りも多くよそ者がウロウロすると怪しまれるので遠慮した。

・・・・・・・・・・ まずは正門脇に建つ「記念図書館(養正寮)」、、、、明治43年(1910)に東宮殿下(大正天皇)の来校を記念して、大正3年(1914)に建てられた建築物。 一階は図書室、二階は同窓会の集会室として使用されたが、昭和10年(1935)に階上の和室は「養正寮」と名付けられ、生徒の精神修養の場として、校長訓話、漢籍素読会などが行われた。 現在、一階は学習室、階上は囲碁将棋部の活動をはじめ、小集会場として活用されている。

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・・・・・・・・・・ 記念図書館と対峙して建っているのは「講堂」、、、、明治43年(1910)に落成し、その美観は現在も当時の面影を残している。 平成10年(1998)に記念図書館(養正寮)とともに、文部省により文化財登録された。

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● 開館1周年のモダンな栃木市立美術館と並んで、レトロな「栃木市立文学館」の建物がある。 文学館の建物は、大正10年(1921)に当時の栃木町役場庁舎として、堀井寅吉の設計で工事費87,452円04銭をかけて県庁跡地に建てられた。 建てられてから、平成26年(2014)まで約90年間にわたり町役場・市役所として使用されてきた。 建築当時の公共建築の特徴が残されていることなどが評価され、平成29年(2017)に市の有形文化財となった。、、、、現在は文学館として、令和4年に開館し、市ゆかりの作家である山本有三、吉屋信子、柴田トヨの3人を中心に、文学に関する展示や市史に足跡を遺した先人たちの紹介、旧栃木町役場庁舎に関する展示を行っている。、、、、建物の周囲は堀があり、澄んだ水が流れ、水鳥や鯉が悠々と泳いでいる。 

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巴波川(うずまがわ)沿いに、明治時代の豪商横山家の貴重な資料などを展示した「横山郷土館」に立ち寄る。、、、、横山家は店舗の右半分で麻問屋、左半分が銀行を営んでいました。 両袖切妻造と呼ばれる貴重な建物には、当時を偲ばせる帳場などが再現されています。 店舗兼住居、石蔵(麻蔵、文庫蔵)、裏庭の洋館は文化庁の登録有形文化財に登録されています。、、、、麻問屋や銀行を経営していた豪商の、貴重な資料、当時の小物など、たくさん展示されてるので、時間を忘れて楽しめる。 入館料の300円は安い!

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● 市内には、御当地生まれの作家:山本有三に関連する施設も多く残されている。、、、、山本有三は、明治20年(1887)7月27日生まれ、昭和49年(1974)1月11日没。 大正から昭和にかけて活躍した小説家、劇作家、政治家(貴族院議員~参議院議員)。 代表作には『路傍の石』、『女の一生』、『真実一路』などがある。、、、、呉服商の子として栃木市で生まれ、明治38年に東京に出て、正則英語学校、東京中学に通い、さらに東京府立一中、一高に入学、そして東京帝国大学文科大学独文学科に入る。 昭和11年(1936)には東京三鷹に住む。 昭和49年(1974)1月、国立熱海病院に入院し、1月11日肺炎による急性心不全を併発して死去。

・・・・・・・・・・ 山本有三の故郷である栃木市に平成9年(1997)に開館した「山本有三ふるさと記念館」 山本の遺品などを所蔵、展示している。 建物は明治初期の建築で、2階建ての2棟の見世蔵が南北に棟続きになって構成されている。 国登録有形文化財

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・・・・・・・・・・ 市立文学館の南角に、「山本有三文学碑」がある。 この碑は読みにくいが、小説『路傍の石』の一節が刻まれている。

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・・・・・・・・・・ 栃木市万町に、浄土宗の寺院の三級山天光院近龍寺がある。 近龍寺は案内板によると「当山は慶永18年(1421)良懐上人によって当初城内宿河原の創建され、其后天正16年(1588)に移された浄土宗の名刹で、中国の故事「鯉が三級の位に達すると龍になる」ことから三級山近龍寺と名付けられた。 近龍寺本堂は文化3年(1806)に建てられた。、、、、 境内には山本有三の墓があり、 1月11日には有三の一・一・一忌として墓前祭が行われてい。

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巴波川(うずまがわ)岸に沿って栃木駅に向かう。 散歩の最後に、カトリック栃木教会に寄って見たが、昭和27年(1952)に献堂式が行われた聖堂は、扉が閉ざされ内部を拝見できず、残念!

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栃木駅は、JR東日本両毛線と東武鉄道日光線の駅である。 明治21年(1888)5月22日、両毛鉄道の駅として開業し、明治30年(1897)1月1日に日本鉄道に譲渡された。 明治39年(1906)、日本鉄道国有化により官設鉄道に移管。 昭和4年(1929)4月1日、東武日光線の駅が開業。、、、、東武鉄道の栃木駅は、単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線を有する高架駅。 かつてはJR東日本に駅業務を委託していたが、高架化完成後は自社で業務を行っている。、、、、駅は広くてモダンな建物、周りにはオシャレな店舗や飲食店、土産屋が増えてきたらしい。 “蔵の街 栃木”の表玄関として頑張っているようだ!

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2023年10月11日 (水)

京成小岩

散歩の行先が未定のときは、とりあえず都営交通の全路線について乗り降り自由な敬老パスを利用して、都営浅草線に乗ることが多い。 車中で『どこで降りようか?』自問自答、今日は京成高砂行きに乗車したが車中で行先が決まらず終点の高砂に到着。 高砂駅から散歩する機会は多くチョイト飽きたので、電車を乗換え隣の京成小岩で下車することにした。、、、、京成本線の京成小岩駅からブラブラ歩いて京成高砂駅まで、1万歩の散歩です。




● かつては特急が停車し、始発電車もあった京成小岩駅、今は快速と普通だけが停まる、江戸川区最北端のチョイト寂しい駅だ!、、、、島式ホーム2面4線の地上駅で、橋上駅舎を有している。 駅の開業は昭和7年(1932)5月15日。 令和4年度(2022年度)の1日平均乗降人員は16,763人である。、、、、JR総武線の小岩駅は、京成小岩駅の南約500~600m程(徒歩で約20分)と離れており、わざわざ歩いて乗り換えるメリットはない。 もしJR総武線に乗換えたければ、成田側に5駅先の京成八幡駅での乗り換えをお薦めする。

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・・・・・・・・・・ “京成”が頭につく駅名を表示する際、“京成”を省略して表示することもあり、「京成小岩」は「小岩」と表示されている。

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・・・・・・・・・駅の住所は江戸川区北小岩にあるが、となりの葛飾区鎌倉とも至近で、この付近は住宅地が密集している。 駅北側には地域密着型の商店街「京成小岩商栄会」が伸びている。、、、、まだ8時半、どこの店もシャッターが下りてるね!

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・・・・・・・・・・ 線路沿いに少し歩いてみる

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● 葛飾区鎌倉の町に入ると、真言宗豊山派の輪福寺がある。 輪福寺は、正法山蓮蔵院と号す。 寛永2年(1625)の創建。 享保7年(1723年)徳川吉宗八代将軍が鷹狩の折休息した謂れある寺です。、、、、山門風の門は無く、小さな本堂が正面に見える、簡素な寺。

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・・・・・・・・・・ 門前には煉瓦造りの祠があり、地蔵菩薩像が祀られている。、、、、一見、シャレた犬小屋かと!(失礼しました)

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・・・・・・・・・・ なぜこの地が「鎌倉」に?、、、、相模国鎌倉郡から来た源左衛門という者がこの地を開拓して、村の鎮守として鎌倉の鶴岡八幡を勧請したことによる。 その八幡神社は、現在の鎌倉4丁目にある。(写真は2015/1/5撮影)

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● 京成本線の南側(葛飾区鎌倉2)都営鎌倉二丁目第三アパートの近くに、「小岩用水の沿革」という碑がある。、、、、この碑文によると、小岩用水は、小合溜井(現在の水元公園)を用水源とする、複数の灌漑用水の一つである。 江戸時代中期の享保14年(1729)、8代将軍徳川吉宗の幕府勘定方であった井沢弥惣兵衛が、利根川の旧河道を締め切って小合溜井を設け、現在の江戸川区に小岩用水などの灌漑用水を整備した。 江戸川区は用水の下流の地で、農作物の大消費地江戸を支える農村地帯として重要な役割を担ったそうだ。、、、、戦後は工場や家庭からの排水が流れ込む排水路となった。 その後下水道の完備とともに緑道として整備されて現在に至ってる。

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● 小岩用水の碑から、上流側(京成本線の北側)の踏切の角に「鼎(かなえ)地蔵」がある。 昔の民間信仰で、村民や旅人の安全を守るという道祖神です。 鼎地蔵の右隣りには、同じく道祖神の青面金剛が祀られていて、その側面に「右 江戸みち、左 矢切渡し」と書かれています。道しるべも兼ねていた。、、、、小さな敷地に、地蔵尊、庚申塔、石灯籠など多くが綺麗に整備されている。 小岩用水沿いに祀られていた石仏だったかも?

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● コンクリート板で覆われた小岩用水の跡(小岩用水緑道)を上流側に歩くと、左側に背の高いコンクリート塀が現れ、続く。 まるで刑務所の塀のようだ!、、、、ここは、京成電鉄の高砂車庫。 鉄道オタクが侵入しないよう、高い塀を造ったのか? チョイト私も覗いてみたく、金網の隙間からパチリ!

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● 高砂車庫沿いにあるいて京成高砂駅に到着。 今日の散歩はココまで!

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2023年10月 8日 (日)

竹ノ塚~西新井大師西

東武伊勢崎線の竹ノ塚駅から南西方向に歩き、日暮里舎人ライナーの西新井大師西駅まで、1万歩の散歩です。




● 開かずの踏切をなくすため、高架化工事が進められている竹ノ塚駅。 今日は、工事の進捗を確認したく竹ノ塚駅で下車した。、、、、高架の新駅舎は令和4年(2022)3月20日から供用された。 ホームに降り立つと天井の木組みのデザインが目をひく、ホームを覆う天井・壁端は開放的で明るい作りになっている。 ホーム下1階のトイレには休憩スペース・おむつ替えコーナーなどもあり、利用者に優しい設計。 今後は駅ビル、駅周辺等の整備もあり、まだまだ工事は続きそうだ!

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・・・・・・・・・・ 東口にある3階建ての駅ビルはまだ設計ができていないようで、壊されずに残っている。 どうなることか?

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・・・・・・・・・・ 西口側は駅前に大きな更地が現れた! こちらは、何ができるのだ?

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● 竹ノ塚駅から南西方向に向かって、裏通りを歩く・・・・・

・・・・・・・・・・ 都内で生徒数が最も多い中学校と聞いた足立区立第十四中学校。 チョイト調べてみたら、在籍生徒数は不明だが、令和5年度の入学者数は足立区の中では最も多く276名だった。 単純に全校生分を推計すると276名×3学年=828名 確かに多いね! 

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・・・・・・・・・・ チョイト奥まった処にある、平成初期に竣工した都営伊興三丁目アパート。 全戸数175戸の小さな団地。

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● 裏通りを右に、左に、好き勝手に歩いていたら、「七曲がり」の中程、六万部経塚(題目塚)の脇に出た! 

・・・・・・・・・・ 六万部とは、法華経二十八品を繰り返し6万回にわたり唱える意味で、六万部経塚の名の由来もここにある。この塚の南東にある寿福山長勝寺の聖人が宝永2年(1705)に平安と幸せを祈願して、小石に題目を書写してここに埋めたとされる。  右の古い小さな石柱が(宝永2年(1705))の経塚碑。

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・・・・・・・・・・ 六万部経塚から七曲がりを西へ向かうと真言宗豊山派寺院の実相院がある。 今日は門前を通過。

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● 七曲がりから脇道にそれ、西新井大師西駅に向かう・・・・・

・・・・・・・・・・ またまた小さな都営団地:伊興二丁目アパートがある。 昭和62年(1987)に建てられた全47戸の極々小さな団地。

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・・・・・・・・・・ 伊興若宮八幡宮は誉田別尊(応神天皇)を祭神とする鎮守さま。 松の木しげる広い境内には摂社として古禄神社・天満宮・三峯神社が移築されている。

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・・・・・・・・・・ マンションを背に畑が点在する。 柿も色づいて来た!

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・・・・・・・・・・ 校庭の広い大きな学校は東京都立足立工科高等学校だ。 昭和37年(1962)に都立足立工業高等学校として創立。 今年から、校名を東京都立足立工科高等学校に改称。 学校では、1年次は機械工学と電気・電子・情報工学に関する基礎的な技術・技能を全員が学び、2年次より機械・電気システム・制御システム・情報コミュニケーションの4つのコースに分かれ、専門性を高めるそうだ。 

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・・・・・・・・・・ 高圧線の下に細長いく連なる公園(高道東公園、西中第二公園など)を通り抜ける。、、、、区画整理で生まれた公園らしい、園内には佐藤栄作書の記念碑がある。

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● 日暮里舎人ライナーの西新井大師西駅に着いた。、、、、日暮里舎人ライナーの駅はどの駅もほぼ同じデザイン・構造で造られ、チョイト面白みに欠けるね!

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2023年10月 5日 (木)

元町・中華街

朝食時に、妻に『今日は一緒に散歩する?』と聞くと、妻は、もちろん『行く行く!』の返事。 行先は決まってなかったので、妻のリクエストで横浜へ行くことにした。(この時点で、健康のための散歩でなく、食欲の秋を求めて街歩きとなった)、、、、桜木町駅から、中華街、元町と歩き石川町駅まで、1万1千歩の歩き。




● 11時、桜木町駅に降りる。 島式ホーム2面3線の高架駅で、中線は横浜・東神奈川方面への折返し用として使用している。、、、、ホームから1階改札口に向かう階段の壁に懐かしい“1950年頃の桜木町駅”の写真があった。 1960年代になると、根岸線が高架で磯子方面まで開通する。 根岸線開通前後の頃、私は中高校生で、横浜の街歩きに幾度か来たことがあり、おぼろげながら記憶ある駅だ! 

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● 桜木町駅前から、一昨年(令和3年4月22日)に開通した都市型ゴンドラ「YOKOHAMA AIR CABIN」に乗ってみた。 片道5分の乗車で赤レンガ倉庫・観覧車のある処まで空中を運んでくれる。 1000円はチョイトお高いが、冥途の土産話に乗車。、、、、高齢の私達夫婦も短い時間だが新婚気分になれる乗り物だ!

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横浜赤レンガ倉庫を拝見。 赤レンガ倉庫(新港埠頭保税倉庫)は、明治時代末期から大正時代の初期にかけて国営保税倉庫として建設された。 関東大震災では一部被災したが改修され、第二次世界大戦終戦後は連合国軍に一時接収された。 平成元年(1989)までは保税倉庫として利用されていたが役目も終わり、その後しばらく放置されていた。 平成14年(2002)に「横浜赤レンガ倉庫」として、1号館は展示スペース・ホールなどの文化施設、2号館は商業施設に生まれ変わった。 平成19年(2007)には、経済産業省により近代化産業遺産として認定された。、、、、赤レンガ倉庫の設計は、大蔵省臨時建築部(妻木頼黄)によって行われた。 妻木頼黄は、日本橋(東京)、横浜正金銀行本店(現、神奈川県立歴史博物館)などを設計した。 明治の建築界三巨頭の一人。 

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・・・・・・・・・・ 横浜赤レンガ倉庫の広場では、伝統的な雰囲気が魅力の“ビールの祭典”「横浜オクトーバーフェスト 2023」が行われていた。 12時の開場を待つビールの愛飲家、150m程の長い行列も楽しみの一つかも? 子供が並んでるのは??

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● 赤レンガ倉庫より中華街に向かう

・・・・・・・・・・ 赤レンガ倉庫からほど近い運河に架かる、大正元年(1912)に建造された貨物線(横浜臨港線)の鉄道橋「新港橋」 新港橋は、当時赤レンガ倉庫などと共に建造された港湾施設の一つで、旧横浜駅(現桜木町駅)から延びる横浜臨港線の新港埠頭を経て旧横浜税関構内を結ぶ橋梁として架橋された。 橋はポニー型ワーレントラス橋で、設計は大蔵省臨時建築部、施工は浦賀船渠。 新港橋は日本における初期の国産トラス橋の一つ。、、、、いまは、歩行者専用橋として利用されている。

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・・・・・・・・・・ 新港橋を渡り、横浜港大さん橋前の山下臨港線プロムナードを歩くと、横浜税関(昭和9年(1934)竣工)の建物、横浜港の海がバッチシ!

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・・・・・・・・・・ 旧大倉商事横浜出張所であった「横浜貿易会館」がある。 この辺りは“This is the YOKOHAMA”の雰囲気が残っている。、、、、貿易会館は、川崎鉄三の設計、大倉土木(現:大成建設)の施工で、昭和4年(1929)に竣工した。

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・・・・・・・・・・ 横浜の歴史を知る、こじんまりした横浜開港資料館にお立ち寄り。 開港資料館は、幕末・開港期から昭和初期までの横浜の歴史に関する資料を展示・公開している。 建物の旧館は英国総領事館だった建物で、昭和47年まで使われていた。 今日はあいにく外装工事中のため、昭和初期の建物は拝見できず。

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・・・・・・・・・・ おや、道路の向かいで幸せそうな二人が記念撮影? 後ろのクラシカルな建物は結婚式場であった。、、、、この建物は、英国の建築家バーナード・M・ウォード設計により大正10年(1921)に誕生した「露亜銀行横浜支店」 関東大震災や太平洋戦争をも耐え抜き、領事館など多様な施設として活用されてきた。 現在は結婚式場として利用されている。

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中華街に溶着。 昼食はもちろんここでランチ。 妻は満足した『また、来ようね!』、、、、横浜中華街は、日本最大の中華街で前身である慶応2年(1866)の居留地時代から数えると150年強の歴史を有する。 500店以上もの店舗があり、その時々の流行によって頻繁に入れ替わっている、最近は“占いの館”が多く軒を並べ、カップルの相性占いか? 

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・・・・・・・・・・ 中華街の中心には、横浜関帝廟(よこはまかんていびょう)がある。 関帝廟は、関帝(神格化された関羽)を祀っており、主に商売人の守り神として崇敬を集めている。 現在の関帝廟は、四代目の建物で平成2年(1990)に建てられた。

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・・・・・・・・・・ 関帝廟と共に中華系の人々の心の拠り所になっているのが、横浜媽祖廟(よこはままそびょう)である。 媽祖廟は、平成18年(2006)に、開港から150周年を迎える横浜の新名所として横浜中華街に落慶開廟した。 明治時代の清国領事館の跡地である山下町公園に隣接して、台湾最初の官建の台南市大天后宮(中国語:大天后宮)より分霊された。 横浜媽祖廟と横浜関帝廟は、共に中国道教建築の粋である。

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● 中華街を抜けると、花壇がとても綺麗で歩道も広く歩きやすい元町商店街がある。、、、、開港後の山下町に外国人居留地が、山手に山手居留地がそれぞれ設けられ、両地区を結ぶ場所にあった元町通りは、居留者らが日常的に多く行き交うところとなり、外国人を相手にした商売が盛んに行われるようになる。明治が始まってしばらく経つ頃には居留者がさらに増え、インターナショナルスクールの開校や、当時は日本には珍しい喫茶店やベーカリー、洋服店、洋風家具店などが軒を連ね、文明開化を支えた。これが今の元町商店街の原型となったそうだ。、、、、げんざいは、上品な雰囲気漂うおしゃれな商店街。 この街歩いてる中高年は、自然に紳士・淑女ジェントルに見える。 若い娘はみな美人に見える。 目の錯覚か?、、、、妻は真剣にウインドショッピング。 私は心静かに呪文を唱える『見るなよ 触れるなよ 買うなよ』 

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石川町駅から帰路につく、、、、電車に揺られ、妻はコックリコックリ

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2023年10月 2日 (月)

栗山配水塔

朝から爽やかな秋風が吹き、鈴虫の声を聴きたくなった。 『今日は江戸川を歩いてくる!』と妻に言い、早速、北総線矢切駅から江戸川沿いに京成本線国府台駅まで散歩。 1万歩




矢切駅は、千葉県松戸市と市川市の市境に位置する北総鉄道北総線の駅。 “矢切の渡し”の千葉県側の最寄り駅である。、、、、平成3年(1991)3月31日に開業。 栗山トンネル(延長1,827m)内にある、島式ホーム2面4線の地下駅。 極々、特徴のない普通の駅である。、、、、“矢切”の地名は“やきり”と読み、駅やバス停の“やぎり”と濁る。

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・・・・・・・・・・ 駅前ロータリーに水上勉旧居跡の碑がある。 碑文は『水上勉氏旧居跡 現在矢切駅敷地内 水上勉氏は、昭和三十二年九月から昭和三十四年十月まで下矢切の地に居住。矢切の豊かな自然に触れ、不遇時代を過ごし直木賞候補作となった「霧と影」(三十四年八月刊行)を執筆。昭和二十三年「フライパンの歌」刊行以来約十年の沈黙を超え、作家としての再出発を遂げた』

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● 矢切駅から駅前の松戸街道を南へ200m程歩くと右手奥に栗山配水塔が見える。、、、、栗山配水塔は、千葉県松戸市にある栗山浄水場の内にあり、松戸市・市川市などに現在も現役で配水してるそうだ。 構造は、円形・ドーム屋根の円筒型高架水槽。 塔体は鉄筋コンクリート造で、高さ31.9m、内径15m、有効水深20m、有効容量3,356立方m。、、、、現在の千葉県松戸市・市川市・船橋市などへ水を供給する施設として、昭和9年(1934)に栗山浄水場の建設が開始され、栗山配水塔は昭和12年(1937)3月31日に完成した。 平成18年(2006)土木学会選奨土木遺産に認定、平成29年(2017)国の登録有形文化財となる。、、、、地元はもとより、江戸川の対岸、葛飾区柴又からも良く見える、ランドマーク的な建物だ!

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● 栗山配水塔のある浄水場裏から、急な階段で北総台地を江戸川敷へ下る。

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・・・・・・・・・・ 階段を下ると、台地の崖を背にして、寺社が並んでる。 北側には、江戸時代中期以降の創建と言われてる栗山日枝神社が鎮座する。、、、、キツイ階段の参道を上りきると、すぐ拝殿。 境内は狭そうだ!

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・・・・・・・・・・ 南隣には、日蓮宗西木山本久寺がある。、、、、本久寺は、大宝3年(703)の創建と伝えられ、のちには真善光寺と称する真言宗の寺院となった。 慶安3年(1650)、大本山中山法華経寺の上人により日蓮宗に改宗。 以降、宗門の霊場として栗山村落の信仰を集めてきた。、、、、古寺であるこの寺は、「西木山 本久寺」が正式名であるが、この名“西木山”を縦書きにしたものを“栗山”と誤読し、この地の地名となったらしい。

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● 本久寺前の「ちば野菊の里浄水場」に沿って西へ、江戸川土手に向かうと柳原排水機場がある。 排水機場の前には柳原橋と水閘橋が連なってる、両橋に挟まれ煉瓦造りの柳原水閘がある。 今年の猛暑の影響か(?)、水閘の周囲は大きく成長した雑草が茂り、水閘を隠してる。、、、、4連アーチの煉瓦造りの水閘は丁寧に美しく積まれ、明治時代の煉瓦積み工法を伝える貴重な土木構造物である。 手賀沼の干拓に取り組んだ土木技師の井上二郎の設計により、明治37年(1904)に完成した。 現在は、国の『近代化産業遺産』として選定され、水門の役目を柳原水門・柳原排水機場に譲り、親水公園の一部として保存されている。、、、、公園の一部なら、公園管理者の松戸市は雑草を除去して、水閘の全容を見せて欲しいね!

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● 柳原水閘の近くから、秋風に吹かれ江戸川土手を歩く

・・・・・・・・・・ 対岸は葛飾柴又

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・・・・・・・・・・ 土手の下では畑仕事

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・・・・・・・・・・ 下流側、かなり先に市川駅前のタワマン2棟

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・・・・・・・・・・ この付近、対岸は江戸川区北小岩

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・・・・・・・・・・ 台地の上には女子大の建物が見えるが、学生までは見えないね、残念!

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● 土手上を歩き「京成電鉄 江戸川橋梁」に来た。、、、、大正元年(1912)京成電鉄の開業当初の路線は、押上駅~伊予田駅(現在の江戸川駅)間と曲金駅(現在の高砂駅)~柴又駅間であり、汽車が江戸川を渡る鉄橋は無かった。 江戸川の小岩側に伊予田駅を設置し、江戸川を越えて運搬する貨物などは、市川側へは伝馬船で渡すという方法がとられた。 旅客については、明治38年(1905)に架けられた江戸川橋を使って市川側へ渡ったと思われる。 渡河に時間も手間もかかり不便この上もなく、特に市川の国府台に駐屯する陸軍にとっては、鉄道橋架橋が命題であった。 大正3年(1914)鉄道専門の部隊であった鉄道連隊の支援により、5連トラス橋が架橋された。 現在の橋梁は下流側に架けられた2代目である。、、、、現橋は、昭和54年(1979)11月1日に完成した、5径間下路ワーレントラス橋、橋長433.2m、幅員11m

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● 京成本線の国府台(こうのだい)駅に到着、ここから電車で帰宅する。、、、、大正3年(1914)8月30日、市川鴻の台駅として開業。 同年12月、市川駅に改称。 さらに、大正10年(1921)4月、市川国府台駅に改称。 さらにさらに、昭和23年(1948)4月、国府台駅に改称。、、、、当初の駅名“市川鴻の台”は、日本武尊が東征で平定した下総から武蔵に向かうおり、デルタに阻まれた、その時、一羽のコウノトリが浅瀬を教え兵を武蔵の国へ渡らせた。 尊はコウノトリの功を讃え、台地を“鴻之台”とした。 この話が駅名になったそうだ。

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