« 南千住 | トップページ | 元町・中華街 »

2023年10月 2日 (月)

栗山配水塔

朝から爽やかな秋風が吹き、鈴虫の声を聴きたくなった。 『今日は江戸川を歩いてくる!』と妻に言い、早速、北総線矢切駅から江戸川沿いに京成本線国府台駅まで散歩。 1万歩




矢切駅は、千葉県松戸市と市川市の市境に位置する北総鉄道北総線の駅。 “矢切の渡し”の千葉県側の最寄り駅である。、、、、平成3年(1991)3月31日に開業。 栗山トンネル(延長1,827m)内にある、島式ホーム2面4線の地下駅。 極々、特徴のない普通の駅である。、、、、“矢切”の地名は“やきり”と読み、駅やバス停の“やぎり”と濁る。

2310020753221

2310020804540



・・・・・・・・・・ 駅前ロータリーに水上勉旧居跡の碑がある。 碑文は『水上勉氏旧居跡 現在矢切駅敷地内 水上勉氏は、昭和三十二年九月から昭和三十四年十月まで下矢切の地に居住。矢切の豊かな自然に触れ、不遇時代を過ごし直木賞候補作となった「霧と影」(三十四年八月刊行)を執筆。昭和二十三年「フライパンの歌」刊行以来約十年の沈黙を超え、作家としての再出発を遂げた』

2310020807310




● 矢切駅から駅前の松戸街道を南へ200m程歩くと右手奥に栗山配水塔が見える。、、、、栗山配水塔は、千葉県松戸市にある栗山浄水場の内にあり、松戸市・市川市などに現在も現役で配水してるそうだ。 構造は、円形・ドーム屋根の円筒型高架水槽。 塔体は鉄筋コンクリート造で、高さ31.9m、内径15m、有効水深20m、有効容量3,356立方m。、、、、現在の千葉県松戸市・市川市・船橋市などへ水を供給する施設として、昭和9年(1934)に栗山浄水場の建設が開始され、栗山配水塔は昭和12年(1937)3月31日に完成した。 平成18年(2006)土木学会選奨土木遺産に認定、平成29年(2017)国の登録有形文化財となる。、、、、地元はもとより、江戸川の対岸、葛飾区柴又からも良く見える、ランドマーク的な建物だ!

2310020813250

2310020819310

2310020820380




● 栗山配水塔のある浄水場裏から、急な階段で北総台地を江戸川敷へ下る。

2310020830250



・・・・・・・・・・ 階段を下ると、台地の崖を背にして、寺社が並んでる。 北側には、江戸時代中期以降の創建と言われてる栗山日枝神社が鎮座する。、、、、キツイ階段の参道を上りきると、すぐ拝殿。 境内は狭そうだ!

2310020840450

2310020840160



・・・・・・・・・・ 南隣には、日蓮宗西木山本久寺がある。、、、、本久寺は、大宝3年(703)の創建と伝えられ、のちには真善光寺と称する真言宗の寺院となった。 慶安3年(1650)、大本山中山法華経寺の上人により日蓮宗に改宗。 以降、宗門の霊場として栗山村落の信仰を集めてきた。、、、、古寺であるこの寺は、「西木山 本久寺」が正式名であるが、この名“西木山”を縦書きにしたものを“栗山”と誤読し、この地の地名となったらしい。

2310020838010

2310020839430




● 本久寺前の「ちば野菊の里浄水場」に沿って西へ、江戸川土手に向かうと柳原排水機場がある。 排水機場の前には柳原橋と水閘橋が連なってる、両橋に挟まれ煉瓦造りの柳原水閘がある。 今年の猛暑の影響か(?)、水閘の周囲は大きく成長した雑草が茂り、水閘を隠してる。、、、、4連アーチの煉瓦造りの水閘は丁寧に美しく積まれ、明治時代の煉瓦積み工法を伝える貴重な土木構造物である。 手賀沼の干拓に取り組んだ土木技師の井上二郎の設計により、明治37年(1904)に完成した。 現在は、国の『近代化産業遺産』として選定され、水門の役目を柳原水門・柳原排水機場に譲り、親水公園の一部として保存されている。、、、、公園の一部なら、公園管理者の松戸市は雑草を除去して、水閘の全容を見せて欲しいね!

2310020849130

2310020855360

2310020856230


● 柳原水閘の近くから、秋風に吹かれ江戸川土手を歩く

・・・・・・・・・・ 対岸は葛飾柴又

2310020902419_stitch

・・・・・・・・・・ 土手の下では畑仕事

2310020910360

・・・・・・・・・・ 下流側、かなり先に市川駅前のタワマン2棟

2310020921350

・・・・・・・・・・ この付近、対岸は江戸川区北小岩

2310020932229_stitch

・・・・・・・・・・ 台地の上には女子大の建物が見えるが、学生までは見えないね、残念!

2310020935170


● 土手上を歩き「京成電鉄 江戸川橋梁」に来た。、、、、大正元年(1912)京成電鉄の開業当初の路線は、押上駅~伊予田駅(現在の江戸川駅)間と曲金駅(現在の高砂駅)~柴又駅間であり、汽車が江戸川を渡る鉄橋は無かった。 江戸川の小岩側に伊予田駅を設置し、江戸川を越えて運搬する貨物などは、市川側へは伝馬船で渡すという方法がとられた。 旅客については、明治38年(1905)に架けられた江戸川橋を使って市川側へ渡ったと思われる。 渡河に時間も手間もかかり不便この上もなく、特に市川の国府台に駐屯する陸軍にとっては、鉄道橋架橋が命題であった。 大正3年(1914)鉄道専門の部隊であった鉄道連隊の支援により、5連トラス橋が架橋された。 現在の橋梁は下流側に架けられた2代目である。、、、、現橋は、昭和54年(1979)11月1日に完成した、5径間下路ワーレントラス橋、橋長433.2m、幅員11m

2310020944569_stitch

2310020941580




● 京成本線の国府台(こうのだい)駅に到着、ここから電車で帰宅する。、、、、大正3年(1914)8月30日、市川鴻の台駅として開業。 同年12月、市川駅に改称。 さらに、大正10年(1921)4月、市川国府台駅に改称。 さらにさらに、昭和23年(1948)4月、国府台駅に改称。、、、、当初の駅名“市川鴻の台”は、日本武尊が東征で平定した下総から武蔵に向かうおり、デルタに阻まれた、その時、一羽のコウノトリが浅瀬を教え兵を武蔵の国へ渡らせた。 尊はコウノトリの功を讃え、台地を“鴻之台”とした。 この話が駅名になったそうだ。

2310020950390

2310020952210

2310021001090

« 南千住 | トップページ | 元町・中華街 »

散歩」カテゴリの記事

千葉県」カテゴリの記事