羽田の下町
京浜急行空港線の天空橋駅で降り、大田区羽田6丁目と羽田3丁目の町をじっくり散歩して、穴守稲荷駅から帰って来た。 1万歩の散歩
● 京浜急行空港線で、海老取川を渡り羽田空港のある空港島に入ってスグの位置に在る天空橋駅で下車する。 駅は空港島の地下に造られた、相対式2面2線の地下駅。 同じく地下駅の東京モノレールの天空橋駅と乗り換えできる。、、、、京浜急行空港線は、明治35年(1902)穴守線として大森~穴守稲荷間が開業した。 その後、海老取川を越えて空港島に延伸したが、戦後は空港島が連合軍に接収され、しばらく海老取川を越えることなく、川の手前に羽田空港駅を開業した。 平成5年(1993)、空港の沖合展開事業が進み、現在の天空橋駅がある位置に地下駅:羽田駅を開業した。 同時期に東京モノレールも羽田駅を開業し、共に地下で接続した。 その後、空港のターミナル(ビックバード)に京浜急行と東京モノレールが乗り入れ、羽田駅は単なる途中駅となり、名前も海老取川に架かる人道橋名の「天空橋」に変えた。、、、、京浜急行の天空橋駅は、出入口が1ヶ所のみ。 地下から地上に出ると幅広い道路の先に、複合施設のイノベーションシティが見えるが、駅の出入口周辺は殺風景だ!
● 天空橋駅から海老取川に沿って歩き、羽田の大鳥居がある弁天橋を渡る。、、、、弁天橋を渡り、左側(多摩川河口側)一帯が羽田6丁目の町である。
● 空港島が埋め立てられる以前は、多摩川河口の先端の町であった羽田6丁目と3丁目。 かつて漁村であった。 現在は、6丁目に約1200世帯(約2300人)、3丁目には約1300世帯(約2500人)が暮らす、下町の匂い漂う街。 弁天橋から蒲田駅方面に向かうバス通り:弁天橋通り沿いにはビル・マンション・工場が建っている。 しかし、一本裏道に入ると、主に住宅とアパートが密集し、防災上最も危険な木造密集地区である。、、、、今日の散歩は、多摩川と弁天橋通りに挟まれた、羽田6丁目・3丁目の細い裏道を、神社を探しながら行ったり来たり。
・・・・・・・・・・ 多摩川河口に長さ50間(90m)にわたって、洪水による侵食から守るために護岸として石積みの沈床が設けられたことが“五十間鼻”の名の由来。 もともと、多摩川河口は、潮流の影響で海からの漂流物が多い場所。 関東大震災の火災、昭和20年の東京大空襲(死者は11万5000人超)による火災で、多くの市民が多摩川などの河川に逃げ、河口の五十間鼻に漂着し、無縁物となった水難者も多かった。 水難者を供養する角塔婆が、地元の人々によって河口の川の中に「五十間鼻無縁仏堂」として建立されている。、、、、海に突き出すように祀られている。 犠牲者のご冥福を祈り 合掌
・・・・・・・・・・ 五十間鼻無縁仏堂から多摩川沿いに50m程歩くと、堤防の下、民家に挟まれ小さなお稲荷様が祀られている。 福守稲荷だ。
・・・・・・・・・・ さらに堤防上を50m程歩くと、公園のような境内に、玉川弁財天、水神社、妙力地蔵尊が祀られている。、、、、玉川弁財天の創建年代は不詳だが、古くより弁天社として祀られ、弘法大師が護摩の灰を固めて自ら制作した神体があり、龍王院が別当寺となっていたと言われてる。 昭和20年(1945)連合軍の強制立退命令により、玉川弁財天は水神社のあった当地に遷し現在に至ってる。、、、、弁財天の向かいに、なぜか白い鳥居(?)と一回り小さな社殿の水神社が祀られてる。 水神社の創建年代は不明。 毎年5月11日に「水神祭」が執り行われ、船で羽田沖に向かい、神酒を海に捧げ、海上安全と大漁を祈願しているそうだ。、、、、境内の隅に祀られている妙力地蔵尊は、数年前までは、弁天橋通りに面し、穴守稲荷の残された鳥居や白魚稲荷神社の近くに祀られていたが、付近一帯の取り壊しで現在地に移った。
・・・・・・・・・・ 玉川弁財天前の堤防沿いの道路に、煉瓦造の旧堤防が残っている。 煉瓦堤防は大師橋の先まで約2㎞ほど続く。、、、、かつての多摩川は、かなりの暴れ川で、たびたび洪水を起こしていた。 大正7年(1918)から行われた河川改修工事で、この煉瓦造りの堤防が築かれた。、、、、今ではこの堤防の外側にシッカリとした堤防が築かれており、この煉瓦堤防は役割を終えた。 堤防沿いの住宅は、この煉瓦堤防をチョイト低い塀と思い利用しているようだ!
・・・・・・・・・・ 玉川弁財天の北西60~80m程の処に、新しい鳥居の小さな藤崎稲荷神社がある。 由緒書など無く一切不明、、、、ひょっとすると。 藤崎家の邸内社かも? どうでもいいか!
・・・・・・・・・・ 緊急車両はもちろん軽自動車も入れない裏道。 でも、生活道路だ!
・・・・・・・・・・ 芸術的なタイル張りの塀。 色も模様も異なるデザインの塀で囲まれた住宅。 御主人はタイル屋さんかも?
・・・・・・・・・・ 羽田6丁目の多摩川べりに国土交通省が管理する羽田第一水門がある。 昭和63年(1988)竣工、大成建設施工の堂々とした水門で、水門の裏側には高潮時緊急避難用の船溜まりがある。、、、、羽田の住民を高潮から守る、頼れる水門らしい。
・・・・・・・・・・ 水門から北西に100m程、道幅の狭い住宅地の中に鷗稲荷神社がある。 鷗稲荷神社は、付近には鷗が多く、大漁の兆しとしてまつられたことから鷗稲荷神社と称されるようになったと言われてる。 鷗稲荷神社の創建年代は不詳だが、境内鳥居に弘化2年乙巳年3月吉祥日と刻まれていることから、弘化2年(1845)には創建されていたものと推測される。
・・・・・・・・・・ 鷗稲荷神社の前の道は“羽田道”である。 羽田道は、東海道から内川橋際(大森東2丁目)で分かれ、羽田方面に至る道。 内川橋から大鳥居交差点(東糀谷3丁目)まで旧道が残っている。 産業道路ができるまで、羽田でとれた魚などを運ぶ生活道路であった。
・・・・・・・・・・ 羽田3丁目に入る、、、、3丁目も道幅の狭い通りが多い(私好みの路だ!)
・・・・・・・・・・ 狭い路の片隅に鎮座するのは弥五エ門稲荷神社。 神社の由緒は不明だが、弥五エ門は恐らく江戸時代の猟師町の名主:鈴木弥五右衛門のこと。 多摩川河口にできた低湿地の土地を、羽田村の名主石井四朗右衛門に折衝し譲り受け、羽田請負新田として幕府に願い出て開墾し、“鈴木新田”を作った。 その鈴木弥五エ衛門に因んで祀られたお稲荷さんか?
・・・・・・・・・・ 引き続き、裏道を歩き京浜急行穴守稲荷駅に向かう
● 今日は穴守稲荷には立ち寄らず、穴守稲荷駅から帰る