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2023年11月

2023年11月28日 (火)

羽田の下町

京浜急行空港線の天空橋駅で降り、大田区羽田6丁目と羽田3丁目の町をじっくり散歩して、穴守稲荷駅から帰って来た。 1万歩の散歩




● 京浜急行空港線で、海老取川を渡り羽田空港のある空港島に入ってスグの位置に在る天空橋駅で下車する。 駅は空港島の地下に造られた、相対式2面2線の地下駅。 同じく地下駅の東京モノレールの天空橋駅と乗り換えできる。、、、、京浜急行空港線は、明治35年(1902)穴守線として大森~穴守稲荷間が開業した。 その後、海老取川を越えて空港島に延伸したが、戦後は空港島が連合軍に接収され、しばらく海老取川を越えることなく、川の手前に羽田空港駅を開業した。 平成5年(1993)、空港の沖合展開事業が進み、現在の天空橋駅がある位置に地下駅:羽田駅を開業した。 同時期に東京モノレールも羽田駅を開業し、共に地下で接続した。 その後、空港のターミナル(ビックバード)に京浜急行と東京モノレールが乗り入れ、羽田駅は単なる途中駅となり、名前も海老取川に架かる人道橋名の「天空橋」に変えた。、、、、京浜急行の天空橋駅は、出入口が1ヶ所のみ。 地下から地上に出ると幅広い道路の先に、複合施設のイノベーションシティが見えるが、駅の出入口周辺は殺風景だ!

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● 天空橋駅から海老取川に沿って歩き、羽田の大鳥居がある弁天橋を渡る。、、、、弁天橋を渡り、左側(多摩川河口側)一帯が羽田6丁目の町である。

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● 空港島が埋め立てられる以前は、多摩川河口の先端の町であった羽田6丁目と3丁目。 かつて漁村であった。 現在は、6丁目に約1200世帯(約2300人)、3丁目には約1300世帯(約2500人)が暮らす、下町の匂い漂う街。 弁天橋から蒲田駅方面に向かうバス通り:弁天橋通り沿いにはビル・マンション・工場が建っている。 しかし、一本裏道に入ると、主に住宅とアパートが密集し、防災上最も危険な木造密集地区である。、、、、今日の散歩は、多摩川と弁天橋通りに挟まれた、羽田6丁目・3丁目の細い裏道を、神社を探しながら行ったり来たり。


・・・・・・・・・・ 多摩川河口に長さ50間(90m)にわたって、洪水による侵食から守るために護岸として石積みの沈床が設けられたことが“五十間鼻”の名の由来。 もともと、多摩川河口は、潮流の影響で海からの漂流物が多い場所。 関東大震災の火災、昭和20年の東京大空襲(死者は11万5000人超)による火災で、多くの市民が多摩川などの河川に逃げ、河口の五十間鼻に漂着し、無縁物となった水難者も多かった。  水難者を供養する角塔婆が、地元の人々によって河口の川の中に「五十間鼻無縁仏堂」として建立されている。、、、、海に突き出すように祀られている。 犠牲者のご冥福を祈り 合掌

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・・・・・・・・・・ 五十間鼻無縁仏堂から多摩川沿いに50m程歩くと、堤防の下、民家に挟まれ小さなお稲荷様が祀られている。 福守稲荷だ。

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・・・・・・・・・・ さらに堤防上を50m程歩くと、公園のような境内に、玉川弁財天、水神社、妙力地蔵尊が祀られている。、、、、玉川弁財天の創建年代は不詳だが、古くより弁天社として祀られ、弘法大師が護摩の灰を固めて自ら制作した神体があり、龍王院が別当寺となっていたと言われてる。 昭和20年(1945)連合軍の強制立退命令により、玉川弁財天は水神社のあった当地に遷し現在に至ってる。、、、、弁財天の向かいに、なぜか白い鳥居(?)と一回り小さな社殿の水神社が祀られてる。 水神社の創建年代は不明。 毎年5月11日に「水神祭」が執り行われ、船で羽田沖に向かい、神酒を海に捧げ、海上安全と大漁を祈願しているそうだ。、、、、境内の隅に祀られている妙力地蔵尊は、数年前までは、弁天橋通りに面し、穴守稲荷の残された鳥居や白魚稲荷神社の近くに祀られていたが、付近一帯の取り壊しで現在地に移った。

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・・・・・・・・・・ 玉川弁財天前の堤防沿いの道路に、煉瓦造の旧堤防が残っている。 煉瓦堤防は大師橋の先まで約2㎞ほど続く。、、、、かつての多摩川は、かなりの暴れ川で、たびたび洪水を起こしていた。 大正7年(1918)から行われた河川改修工事で、この煉瓦造りの堤防が築かれた。、、、、今ではこの堤防の外側にシッカリとした堤防が築かれており、この煉瓦堤防は役割を終えた。 堤防沿いの住宅は、この煉瓦堤防をチョイト低い塀と思い利用しているようだ!

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・・・・・・・・・・ 玉川弁財天の北西60~80m程の処に、新しい鳥居の小さな藤崎稲荷神社がある。 由緒書など無く一切不明、、、、ひょっとすると。 藤崎家の邸内社かも? どうでもいいか!

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・・・・・・・・・・ 緊急車両はもちろん軽自動車も入れない裏道。 でも、生活道路だ!

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・・・・・・・・・・ 芸術的なタイル張りの塀。 色も模様も異なるデザインの塀で囲まれた住宅。 御主人はタイル屋さんかも? 

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・・・・・・・・・・ 羽田6丁目の多摩川べりに国土交通省が管理する羽田第一水門がある。 昭和63年(1988)竣工、大成建設施工の堂々とした水門で、水門の裏側には高潮時緊急避難用の船溜まりがある。、、、、羽田の住民を高潮から守る、頼れる水門らしい。

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・・・・・・・・・・ 水門から北西に100m程、道幅の狭い住宅地の中に鷗稲荷神社がある。 鷗稲荷神社は、付近には鷗が多く、大漁の兆しとしてまつられたことから鷗稲荷神社と称されるようになったと言われてる。 鷗稲荷神社の創建年代は不詳だが、境内鳥居に弘化2年乙巳年3月吉祥日と刻まれていることから、弘化2年(1845)には創建されていたものと推測される。

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・・・・・・・・・・ 鷗稲荷神社の前の道は“羽田道”である。 羽田道は、東海道から内川橋際(大森東2丁目)で分かれ、羽田方面に至る道。 内川橋から大鳥居交差点(東糀谷3丁目)まで旧道が残っている。 産業道路ができるまで、羽田でとれた魚などを運ぶ生活道路であった。

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・・・・・・・・・・ 羽田3丁目に入る、、、、3丁目も道幅の狭い通りが多い(私好みの路だ!)

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・・・・・・・・・・ 狭い路の片隅に鎮座するのは弥五エ門稲荷神社。 神社の由緒は不明だが、弥五エ門は恐らく江戸時代の猟師町の名主:鈴木弥五右衛門のこと。 多摩川河口にできた低湿地の土地を、羽田村の名主石井四朗右衛門に折衝し譲り受け、羽田請負新田として幕府に願い出て開墾し、“鈴木新田”を作った。 その鈴木弥五エ衛門に因んで祀られたお稲荷さんか?

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・・・・・・・・・・ 引き続き、裏道を歩き京浜急行穴守稲荷駅に向かう

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● 今日は穴守稲荷には立ち寄らず、穴守稲荷駅から帰る

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2023年11月23日 (木)

二の酉

今日は二の酉、酉の市の最終日である。 今年も夫婦で浅草の鷲神社、長国寺に参る。 毎年、夫婦で同じように参拝し、同じように熊手やお守りを買い、帰路は同じように浅草寺に寄り、同じように食事し帰る。、、、、コレぞ、歳を取ったが、幸せな証拠だ!、、、、ダラダラ歩いて6千歩

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・・・・・・・・・・ 今年も行列に並んで神社にはいるまで50分! 参拝するのに一苦労、警察官は交通整理に四苦八苦

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・・・・・・・・・・ 境内も、満員御礼の垂れ幕が下がるような混雑

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・・・・・・・・・・ “かっこめ熊手”の御守りを競って買うが、この御利益を一番に享受したのは神社だ!

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・・・・・・・・・・ 境内の熊手屋さん、美人を出して売り上げ倍増か!

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・・・・・・・・・・ 鷲神社の隣りに、境内が続く長国寺、こちらにもご挨拶。

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・・・・・・・・・・ 参拝終えれば、露店が並ぶ裏通りを、肩に担いだ熊手をよけて、飴が付いた棒に注意し、チョイト気になる焼肉の臭い、臭いに引かれるイカ焼きの誘惑、客の少ない切山椒、オット刺青のお兄さんを横目で避けて、隣のミニスカの姉ちゃんをジロジロ眺め、イライラしながらダラダラ歩き、やっとの思いで通り抜け!

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・・・・・・・・・・ 浅草寺にもご挨拶、今年もあと一か月、家内安全、無病息災を願い。 賽銭はワンコイン。、、、、願い事、もう一つありました。 年末ジャンボ10億円当選!

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2023年11月21日 (火)

消えた遊郭跡

今日は京成本線の千住大橋駅から歩きはじめ、日光街道(=国道4号)の西側、かつて千住遊郭のあった千住柳町と、その周辺の千住龍田町、千住元町、千住寿町界隈を気ままに歩いて、帰りは北千住駅まで。 1万2千歩の散歩です。

 

 

● 京成本線の千住大橋駅(せんじゅおおはしえき)で下車する。 千住大橋駅は昭和6年(1931)に開業し、現在は島式ホーム2面4線の高架駅である。、、、、戦後から平成にかけては、駅周辺にこれと言った集客力のある施設もなく、ゴク普通の薄暗い高架下の駅であった。 近年になり、駅前の再開発が行われ商業施設もでき、駅もリニューアルして、明るく綺麗になった! 乗降客も増えてきたそうだ。

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● 「千住遊郭」は大正中頃までは、旧日光街道(JR線と国道4号の中間を平行する街道)の千住宿の中に点在してた。 関東大震災前の大正10年、警視庁により宿場町に散在していた女郎達を、現在の日光街道を跨いでさらに西へ進んだ場所(現:千住柳町)に移転させ、「千住遊郭(柳新地)」とした。 戦後は千住の赤線地帯として売春防止条例が発布されるまで繁栄したそうだ(私は、まだ8歳ぐらいで知る由もない)。  この付近には、「大門通り」、「いろは通り」、「仲通り」などといった、いかにも遊郭・赤線チックな名称の商店街存在する。 しかし、今日歩いて見ると、当時の面影を残すような建物は消え、路地も整理され、商店街は寂れ、“遊郭”・“赤線地帯”は“知る人ぞ知る”世界となった。

・・・・・・・・・・ 千住柳町周辺で懐かしさを感じる建物

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・・・・・・・・・・ チョイト寂れた商店街、、、、“ニコニコ商店街”は名前も消えた!

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● 今日歩いた千住柳町周辺の神社を5社紹介する。

・・・・・・・・・・ まずは、千住大橋駅に近い河原町稲荷神社(千住河原町)、、、、国道4号線に面して鎮座している。 千住青果市場(=足立市場)の守護神として市場の旦那衆の信仰の対象。 神社の創建年代は不詳だが、市場が開かれた天正年間(1573~93)に遡るのではないかと思われる。 昭和20(1945)年4月13日の空襲で社殿と社叢が全焼したが、御神体ならびに神輿庫は類焼を免れた。 昭和41年(1966)に現社殿が造営された。、、、、金銅の金具で一面に装飾された木造漆喰の大型神輿(高さ2.38m、通称:千貫神輿 )は自慢の神輿である。 祭りも半端じゃないらしい!、、、、千住七福神の福禄寿が祀られている。 まもなく、七福神の稼ぎ時がやって来るね!

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・・・・・・・・・・ 続いて、白幡八幡神社は千住宮元町にある国道沿いの小さな神社。 白幡八幡神社は、源義家が奥州征伐に赴く際、渡裸川の渡し場に白幡を立て戦勝祈願をし、その白幡が名称の起源となり祀られることになったそうだ。 七福神は毘沙門天が祀られている。

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・・・・・・・・・・ 次は千住神社、国道から奥に入り、こちらも千住宮元町にある神社だ。 千住神社は、延長4年(926)に創建された千崎稲荷神社と、弘安2年(1279)に創建された氷川神社が明治6年に合祀された西森神社を起源とし、明治7年には(足立区最高・唯一の)郷社に列格した。大正4年(1915)に千住神社と改称した。 千住七福神の恵比寿神を祀る。、、、、社殿は、昭和20年の空襲で焼失したが、氏子の厚い信仰と熱誠により昭和33年(1958)に現在の社殿が完成した。、、、、境内には、昭和20年に造った防空壕が残されている。 私の想像する防空壕と比べると、思った以上に浅く、狭いので、こんな所で爆撃を受けたらイチコロかも? 怖かったと思うね。

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・・・・・・・・・・ 千住元町にあり、倉稲魂命、素盞嗚尊を祀る元宿神社(もとじゅくじんじゃ)にも参る、、、、当社は古くは元宿八幡社と称した。 明治末年、八幡社は千住四丁目の氷川神社に合祀されたが、昭和5年(1930)稲荷社を合祀して独立、村社に列格して再び元宿の鎮守となったという。、、、、昭和6年(1931)地名の“元宿”が元町(翌年には千住元町)と改められたことにより、“元宿”の名を残すために、社号を元宿神社と改称した。 守り通した地名に敬意!、、、、千住七福神は寿老人を祀る。

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・・・・・・・・・・ 帰りがけ、北千住駅の近くに鎮座する千住本氷川神社、、、、千住本氷川神社は、徳治2年(1307)に千葉氏によって、牛田に千葉山西光院と共に、氷川神社として創建された。 千住が宿場町として栄え始めた江戸時代の初期、現在地に地主の土地奉納によって分社が建てられた。 その後、明治43年(1910)荒川放水路建設のため、牛田氷川神社を合祀し、さらに昭和45年(1970)に社殿を新築して現在に至っています。 千住七福神は大黒天。

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・・・・・・・・・・ まだ正月にはチョイト早い! 七福神巡りは散歩の予定にないため、今日は5社(五福神)で、ここまで。 ちなみに、残りの布袋尊は千住大川町の大川町氷川神社に、弁財天は千住仲町の仲町氷川神社に祀られている。 お近くの人は、正月の七福神巡りにぜひ参拝を!!



北千住駅から、東武伊勢崎線で帰る。

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2023年11月19日 (日)

六義園・不忍通り

今日はチョイト遅めに家を出て、9時過ぎに駒込の六義園に行く。 六義園を散策し、その後は不忍通りに沿って歩き、JR御徒町駅まで、1万6千歩の散歩です。



駒込駅は明治43年(1910)11月15日に国有鉄道の駅として開業。 創業123年、駅の老舗だ!、、、、島式ホーム1面2線の地上駅であるが、改札は2か所ある。 西側(池袋方)の改札は、山手線ホームから階段を上った先の橋上駅舎(北口・南口)にある。 東側(田端駅寄り)には、階段を下りた先に改札(東口)がある。 地形が傾斜してるため、西側が掘割、東側が盛土上にホームがある珍しい構造となっている。、、、、山手線の駅の中では地味な存在である。 『山手線の駅名、順に言える?』、『駒込駅の特徴、言える?』、『駒込駅最寄りの名所は?』、『駒込駅は何区に在るか?』 何かとクイズのネタになりそうな駅だ!

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・・・・・・・・・・ 駒込駅前には本郷通りがあり、本郷通りは跨線橋「駒込橋」で山手線を越える。 駒込橋は山手線 池袋~田端間が開通した時にできた橋。 現在の橋は平成3年(1991)に、地下鉄南北線の工事に伴い架け替えられた。、、、、橋の袂の「染井吉野桜記念公園」に先代の欄干の一部が保存されている。

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● 駒込駅から徒歩数分、都立庭園の「六義園(りくぎえん)」に寄る。、、、、六義園は造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられていた。 元禄8年(1695)、五代将軍:徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の地に、柳沢吉保自ら設計、指揮し、平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築き、7年の歳月をかけて回遊式築山泉水庭園を造り上げた。 柳沢吉保は文学的素養が深く、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」に由来して庭園の名称を「六義園」と名付け、“むくさのその”と呼び、館を「六義館」、“むくさのたち”と称したそうだ。 明治時代に入り、三菱創業者:岩崎弥太郎の所有となった当園は、昭和13年(1938)に東京市に寄付されて一般公開されることになった。、、、、今日は、紅葉を求めての来場者も多く予想され、普段は閉門している駅に近い染井門から入園できた。 開門直後に来たのだが、すでに多くの人が入園し、日本の美を求める外人も多くみられた。、、、、チョイト早すぎたようで、樹々の彩づきは、日光の手前(=今市=今一だ!)

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● 六義園を出たら不忍通り(しのばずとおり)沿いに歩く

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・・・・・・・・・・ 本駒込4丁目に「神明都電車庫跡公園」があり、そこには懐かしき50年程前の、都電6000形一両と、貨物車の乙2号一両が保存されている。、、、、都電6000形は、昭和22年(1947)から28年まで290両が製造された車両で、公園にあるのは63番目で、昭和24年3月に造られ青山車庫に配属されたのを皮切りに、大久保車庫、南千住車庫を経て、昭和42年9月に神明町車庫に配属された。 その後、昭和45年(1970)に荒川車庫へ転属し、昭和53年(1978)4月に廃車になった。、、、、乙2号は、昭和16年(1941)に造られ、荒川車庫で資材運搬などで使われ、昭和46年(1971)3月に廃車となる。、、、、神明町車庫の管轄は、20系統の江戸川橋から須田町までと、40系統の神明町車庫前から銀座7丁目までであった。 銀座~日本橋~須田町~上野公園の区間では、私も40系統の都電に乗っていたと思うね! お世話になりました!

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・・・・・・・・・・ 道灌山下交差点から、一本裏の通りである「よみせ通り」を歩く。 よみせ通りは、かつて、両側500m程に露店(夜店)が軒を並べ、夜の更けるまで賑やかであったことから、「よみせ通り」と呼ばれるようになった。 また、通りの中程には地蔵尊も祀られており、毎月24日に縁日が開催されるそうだ。、、、、道路で、お向かいのおばちゃん同士が世間話を始めるなど、下町の商店街として、いい雰囲気が残っているね!

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・・・・・・・・・・ よみせ通りに直交する「谷中銀座商店街」(台東区谷中)にもチョイトブラブラ、、、、谷中で一番元気な商店街、通りの東端には「ゆうやけ段々」と呼ばれる石段がある。、、、、歩いているのは、観光客ばかり、外人もいる、猫好きもいる。 地元の人はどこにいる???

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・・・・・・・・・・ 再び、不忍通りを歩く

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・・・・・・・・・・ 不忍通りから横道を覗くと、木造3階建ての串揚げ屋「はん亭」(文京区根津2)が見える。 明治時代に建てられた建物は関東大震災や戦災もくぐりぬけ登録有形文化財にも指定された。 もともとは下駄の爪皮屋だったそうで、(爪皮=雨や泥などをよけるために下駄などの爪先につけるおおい)その後運送屋さんの独身寮にもなったそうだ。 今は串揚げ屋!

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・・・・・・・・・・ 池之端二丁目交差点の角に、またまた都電が保存されてる。 ここは、かつて「池之端七軒町」停留所があった処。 20・37・40系統の電車は、須田町(神田)方面から中央通りを走り、上野公園の電停からは上野の山下を専用軌道で走り池之端七軒町で不忍通りに合流していた。 都電が保存されているこの場所はその合流点である。、、、、保存されている電車は7500形の都電。 7500形は都電で初めて冷房装置が搭載された車両である。、、、、(モノクロ写真は案内板にあった、専用軌道から不忍通りに合流する池之端七軒町)

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・・・・・・・・・・ 不忍通りは、不忍池の西側をとおり上野四丁目交差点(「ABAB」の前)で中央通りに合流する。 ハイ、ココまでよ~~!

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御徒町駅(おかちまちえき)は京浜東北線電車および山手線電車の2系統が停車するが、正式な線路名称は東北本線のみである。 大正14年(1925)11月1日、鉄道省東北本線の駅として開業した。 島式ホーム2面4線の高架駅である。 アメ横、上野松坂屋の最寄り駅。

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2023年11月15日 (水)

白石 まち歩き

昨日は鎌先温泉に泊まり、今日(11月15日)は在来線の白石駅まで送ってもらい。 白石駅から、白石城(昨日見学済み)を囲むように、街をブラブラしながら新幹線の白石蔵王駅まで歩いた。




● 東北本線の白石駅は、明治20年(1887)12月15日に開業した。 単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線のホームを持つ地上駅。 ホームの脇には待避線・留置線がある。、、、、令和4年度の1日平均乗車人員は2,452人である。 白石蔵王駅の1日平均乗車人員:約700人の3.5倍程である。 白石駅は市の中心部にあり、地元住民の通勤・通学に利用される在来線に強みがあるようだ。

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・・・・・・・・・・ 白石駅の駅舎は一昨年(2022)に「DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築」に認定されている。 “DOKOMOMO”とは、1988年に設立された近代建築の記録と保存を目的とする国際学術組織(日本では日本建築学会の中にWGがある) 白石駅舎(設計:日本国有鉄道仙台鉄道管理局 竣工:1959年)は、全国から選定された約280件の近代建築の一つである。、、、、駅前広場に面して横長に建つ駅舎の全体は端正なプロポーションで整えられていて、外壁面に表れている細い黒い鉄骨がファサードにリズムを創り出し、待合室と事務室の境界の部位に張られた大谷石がアクセントになっているほか、建設当時から残存する駅名標も特徴的である。(認定理由から一部抜粋)

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・・・・・・・・・・ 白石駅の1番線ホームには、明治20年(1887)に建てられた煉瓦造りの油倉庫(ランプ小屋)が残されている。、、、、平成20年(2008)に、鉄道関連グッズのギャラリー「れんがの油庫」として公開し、国鉄時代の駅名標や時刻表が展示されているとのこと。、、、、歴史を感じる可愛らしい建物で、じっくり見てると味もあるね!

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● 白石駅前から西に向かって(白石城に向かって)300m程歩くと、チョイト古びた町家建築がある。 門には「壽丸屋敷(すまるやしき)」と記されてる。 町の中心に位置する屋敷は、かつて豪商が商いをしていた、国の登録有形文化財の建物だ!、、、、門の前には、ゴチャゴチャと内部で展示している催しの御案内が、妻は興味津々『人場無料、入ってみよう!』、、、、現在の建物は、明治から大正にかけて建てられた店蔵や母屋を活用し、白石和紙の作品・手作り甲冑・写真などの展示、イベント会場として活用しているそうだ。 今日は写真展・白石和紙展を開催中。

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・・・・・・・・・・ ひととおり展示物を拝見し、門を出たら呼び止められ、再び屋敷の中へ、縁側で夫婦そろって写真のモデル。 撮影時に光を反射させるレフ板まで向けられて、緊張、緊張、金鳥蚊取りでナオ緊張!、、、、旅行のいい思い出になりました。

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● 市内を流れる堀に沿って、白石城の周辺を散策、、、、清らかな水の流れる堀、塀が続く屋敷、見上げれば白石城、どれもこれも歴史ある城下町の風情を感じる

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・・・・・・・・・・ 堀沿いに「片倉家中 旧小関家武家屋敷」がある、、、、吉永小百合も訪れた武家屋敷、私達も小百合にあやかり入場。、、、、白石城主片倉家の家臣小関家の屋敷で、享保15年(1730)の建築。 平成3年(1991)に白石市に母屋、門、塀が寄贈されたのを機に創建当時の姿に復原された。、、、、武家屋敷と言えども、ピンキリで、ここの屋敷は2LDK程の大きさだ! 質素な造り!!

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● 今日も昼食はう~めんにしよう!、、、、ところで、温麺(うーめん)とは、素麺(そうめん)の一種で、白石市で製造される特産品。 白石温麺とも呼ばれ、「うーめん」あるいは「ううめん」と仮名で表記されることも多い。 一般の素麺は生地を延ばす際、麺生地同士の付着防止と表面の乾燥を防ぐために油を塗る。 一方、温麺は油を用いないでうち粉(でんぷん)を振りかけながら製麺するのが特徴。 椀に収まるよう、長さ9センチメートル程度で束にして売られることが多い。 醤油や味噌で作った汁につけて食べるのが一般的。 熱くしても冷やしても食べるが、夏に冷して食べるのが主流の素麺とは異なり、温麺は通年で食べられている。 私は冷やして食べる方が好きだ!、、、、茅葺屋根の古民家を生かした食事処で、伝統の“手延”白石温麺を食す。 美味しかった!

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● 市内を歩き、う~めんも食べ、これより白石蔵王駅に向かう。 東北本線の踏切手前に功徳山当信寺があった。 当信寺の山門(国登録有形文化財)は白石城の二ノ丸大手二ノ門を移築したもの。 木造入母屋造りの本堂も国登録有形文化財です。、、、、静かな境内では、歩き疲れも忘れ、一刻、歴史も感じられgood!

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白石蔵王駅に到着、、、、土産にう~めん、こけしも買って、重いリックに思い出詰めて帰ってきました!

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2023年11月14日 (火)

七ヶ宿ダム

毎年秋になると、当たり前だが我が夫婦の結婚記念日がやって来る。 今年は娘が、宮城蔵王の山裾にある鎌先温泉の「湯主一條」という宿を予約してくれた。 一泊の温泉旅行だが、宿泊先が先に決まったので『さてさて何処を観光しようか?』 初日(11月14日)は私の好きなダム見学で「七ヶ宿ダム」、二日目は宿泊先の最寄り町である白石市の街歩きを予定し、出発進行!




● 9時過ぎに東北新幹線の白石蔵王駅に降り立つ。 在来線の白石駅とは離れており、新幹線専用の駅である。 白石蔵王駅の令和4年(2022)度の1日平均乗車人員は約700人と少ない、閑散とした駅である。 当駅は東北新幹線の福島駅~仙台駅間(79.0㎞)の中間地点として、昭和57年(1982)6月23日の東北新幹線(大宮駅~盛岡駅)暫定開業に合わせて開業した。 中央に通過線(上下各1線)があり、その外側に上り線側が島式ホーム1面2線と下り線側が単式ホーム1面1線で合計2面3線を有する高架駅。、、、、駅名には“蔵王”の文字があるが、蔵王山頂行きのバスは廃止され、“蔵王”へ行くのは山形からがメインルートである! 駅名から“蔵王”が消えるかも?

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● 白石蔵王駅から一日5往復(土日は3往復)の七ヶ宿町営バスに乗る。、、、、宮城県の南西端、蔵王連峰の南に位置する七ヶ宿町(しちかしゅくまち)は福島県と山形県に接する小さな町である。 白石市から新潟方面に抜ける国道113号線が七ヶ宿町に入った処(渓谷)に「七ヶ宿ダム」がある。 町営バスは白石市からダム堤体、ダム湖に沿って七ヶ宿町へ向かう。 運賃はナント、全線均一の200円だ! 乗客は私達夫婦を含め4人、白石蔵王駅から約40分、ダム管理所のある処で私達を降ろしてくれた。

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・・・・・・・・・・ まずは、ダムの全体が見える展望台へ、、、、ここには誰もいない! チョイト寂しい展望台、、、、ダムのプロフィールは、型式:中央コア型ロックフィルダム、堤高:90m、堤頂長:565m、総貯水容量:1億900万m3、管理者:国土交通省、本体着工:昭和56年(1981)8月24日、完成:平成3年(1991)10月22日、本体施工:佐藤工業・フジタ・青木あすなろ建設。 当ダムの目的は、洪水調整、灌漑用水供給、水道用水供給。 特に水道用水は仙台市を中心に8市9町に供給してる。、、、、ダム湖の湖底には七ヶ宿町の町名の由来となった七つの宿場の一つ渡瀬宿が沈んでいる。

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・・・・・・・・・・ 洪水吐を望む、、、、湖水の水量は少なく、洪水吐ゲートから流れ落ちる水はナイ、チョイト残念!

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・・・・・・・・・・ 堤頂にも人影はナシ、、、、堤頂から眺める、ダム湖(七ヶ宿湖)、下流側の渓谷

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・・・・・・・・・・ ダム湖の岸に七ヶ宿ダム管理所がある、、、、ダム情報・建設資料など展示物を拝見し、ダムカード(蒐集する人も多いそうだ)もいただいてきた。 ちなみに、本日の見学者の一番乗り。 日暮れになれば、最終の見学者になっているかも?

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● 約1時間ダムを見学し、只今時刻は11時過ぎ。 帰りの町営バスは、本日3本目の13時半までナシ、まだ2時間以上先だ!、、、、私『どうしよう?』 妻『タクシー呼ぼうよ、こんな処まで来てくれるかな?』 私『まだ昼前だ、とりあえず白石の町の方に歩いて見よう!』 、、、、ハイキング気分で国道113号線を夫婦が歩く!、、、、歩くこと1時間余り、やっと民家が見えてきた、されどバスは来ず、、、、さらに歩いて30分、農家のおじさんが声をかけてきた。 『どこから来たの? 何処へ行くの? バスは来ないよ!』 別れて、再び歩く!、、、、そして、ナント、農家のおじさんが、車で追っかけてきた『白石へ行くから乗んな!』、、、、白石のう~めん屋さんまで乗せていただき、有難うございます!

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● 車に乗せていただき、予定より早く白石でう~めんを食べることができた。 『ヨシ、時間も余ったから、白石城へ行こう』


・・・・・・・・・・ 白石城は、中世の頃は白石氏(刈田氏)の居館だった。 戦国時代末期には城主が何度か変わり、江戸時代には仙台藩家臣の片倉氏の城となり、明治維新まで存続した。  その後、白石城は陸軍省、大蔵省の管轄を経て、明治7年(1874)に民間へ売却され取り壊された。 明治33年(1900)には城跡が益岡公園となった。、、、、昭和62年(1987)、NHKの大河ドラマ『独眼竜政宗』が放送されたのを機として、正宗の家:臣片倉景綱が注目され、景綱が預かった白石城の復元の機運が高まる。 城の復元は原型に忠実に行うよう計画された。 復元工事は平成4年(1992)に始まり、平成7年(1995)に三階櫓、大手の一ノ門と二ノ門、土塀の復元が完了した。 その後も、東日本大震災などで被害が出たが、市の熱意で復旧工事が行われ完了した。、、、、木造による復元で学術的にも評価されている。 天守閣に登る階段は木造で滑りやすく、ものすごく急である、滑って落ちそうで危ない階段だ。 年寄りには無理かも? スカート姿の女性も、上り下りには要注意!(盗撮されるかも?)

 

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・・・・・・・・・・ 白石城のある公園内に、天照大御神を主祭神とし伊達政宗と片倉景綱が合祀されてる「神明社」がある。 創建は大同2年(807)、本来は白石の別の地に鎮座していましたが、度重なる大火で社殿を失ったため、明治33年(1900)に現在の地(白石城二の丸跡)に移転した。、、、、地元の神様、鎮守様だそうだ。 参拝して行こう!

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● 本日の宿は鎌先温泉「湯主一條」、、、、今から約600年前の室町時代、白石の木こりが鎌の先で岩の隅を打ったところ温泉が湧き出たことから、「鎌先温泉」という名がつけられた。 「湯主一條」は、この地で綿々と歴史を紡いできた老舗旅館だそうだ。 大正、昭和の時代までは、湯治場として賑わっていたそうで、現在個室料亭(食事処)となっている木造本館2棟(国の登録有形文化財)は、湯治場時代の相部屋であったとのこと。、、、、泊まった後で知ったことだが、“じゃらんnet”では「泊まって良かった宿ランキング第1位」の宿だった!!

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明日は白石市でも散策して帰ろう! おやすみなさい!

2023年11月 9日 (木)

三河島

山手線の鶯谷駅から、常磐線の三河島、京成本線の新三河島の各駅前をとおり、日暮里舎人ライナーの赤土小学校前駅まで路地・裏道を歩いて、1万歩の散歩です。




● 東京国立博物館の北側、寛永寺の霊園を挟み鶯谷駅(うぐいすだにえき)がある。 博物館と霊園は上野公園の高台にあるが、鶯谷駅のホームは崖下にある。 駅の南口は崖上の霊園脇にあり、北口は崖下のラブホテル街の中央にある。 南口から乗るときは『博物館、美術館に行ってきたんだ』と胸を張って入場、北口から乗るときは何故かチョイト下を向いて足早に入場。、、、、明治45年(1912)7月11日、鉄道院東北本線の駅として開業。 ホームは既に電車運転を開始していた運転系統としての山手線のみに設置された。 開業111年の歴史ある駅だ!、、、、、今日は北口から出て、足早に駅を離れ東日暮里の方に向かう。

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● 鶯谷駅北口からほぼ真北に約400m歩くと、荒川区東日暮里に都立竹台高等学校(とりつ たけのだいこうとうがっこう)がある。、、、、都立竹台高等学校は、昭和10年(1935)に第四東京市立高等女学校として設立した。 昭和25年(1950)に都立竹台高等学校に変更。 今年の偏差値は50にチョイト足りない程度。、、、、小説家の有吉佐和子、タレントの片岡鶴太郎、落語家の林家正蔵(9代目)・林家三平(2代目)兄弟などの母校。、、、、校舎は最近改築し、鉄筋コンクリート造地上5階建ての近代的な建物に変わった。 なお、施工は北野建設。

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● 荒川区東上野5丁目・6丁目の裏道を歩く、、、、物干し台が並ぶ路地裏の家並み、、、、真直ぐ歩けない路地、、、、明治時代に建てられ、その後、北星鉛筆(株)の倉庫となた煉瓦倉庫も健在だ

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● JR常磐線の三河島駅がある、、、、“三河島”と聞くと死者160名の大惨事「三河島事故を思い出す。 当時、私は高校生であった。 おそらく、現在の中高年以上の人は事故の記憶があると思う。 悲惨な事故であったため、“三河島”の地名は暗いイメージとなり、荒川区の住居表示では消えた! 地名は“三河島”から“荒川”に変わり、“三河島”はJRと京成の駅名に残るのみ。、、、、JRの三河島駅は明治38年(1905)4月1日、日本鉄道の駅として開業。 令和4年(2022)度の1日平均乗車人員は約1万人で、常磐線(上野~取手間)の駅の中では最も少ない。、、、、15両の長~い編成の列車が停まる駅だが、改札はホームの東端(南千住寄り)に1ヶ所あるのみ。 上野寄りの車両に乗りたい方は15両分ホームを歩くことになる、我慢・我慢!

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● 三河島駅から北へ50m程歩くと「茶の池田園」がある。 昭和初期の味のある建物と思われる? 以前店に立ち寄った時には、店の中には骨董のようなレジスターや古い茶壷が並んでいた。、、、、今日立ち寄って見ると、店の前には貼り紙があり、2年前に店主が亡くなり、約90年続いたお茶屋を閉店したそうだ。 

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● JRの三河島駅、京成の新三河島駅の周辺には朝鮮半島出身の人が多い、町のアチラコチラに韓国系の教会、飲食店、店舗が目に付く。 これは、戦前から済州島出身者を中心として多くの半島出身者が住みつきコリアタウンがつくられたそうだ。 (大久保のコリアタウンは戦後つくられたもの)、、、、大久保のように観光地的な賑わいはなく、日本にしっくりとなじんだようだ。

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● JR三河島駅から北西に約600m離れて京成本線の新三河島駅(西日暮里6)がある。 昭和6年(1931)12月19日開業の島式ホーム1面2線を有する高架駅。 ホームの一部は明治通りのガード上にまで伸びている。 こちらの駅も乗降客は少なく、一日当たり約5千人で、都内にある京成の駅では最小である。、、、、駅名の“新”は、先に常磐線の“三河島駅”があったから。

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● 新三河島駅から、再び裏道を歩き約1㎞、日暮里舎人ライナーの駅前:赤土小学校(荒川区東尾久4、あかどしょうがっこう)に出る。

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赤土小学校前駅は平成20年(2008)3月30日、日暮里舎人ライナーの開通と同時に開業。 ここの駅も、令和4年(2022)度の1日平均乗降人員は約5千人で、日暮里・舎人ライナー全13駅中11位と少ない。、、、、駅名に小学校名がつくのは珍しく、全国でも富山港線の萩浦小学校前駅の2駅ぐらいかも?

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2023年11月 6日 (月)

工事中の立石駅

京成押上線高架化工事の真っ最中である京成立石駅とその周辺の工事進捗状況を確認し、その後奥戸の町を抜けてJR総武線の新小岩駅まで、1万歩の散歩です。

 

● 大正元年(1912)11月3日に開業した京成立石駅は、駅の姿を一新する高架化工事の真っ最中。 高架化工事は令和12年度(2030度)の完成を目指し、只今、四ツ木~京成立石~青砥間で進めらっれている。 また、京成立石駅前の再開発(葛飾区役所が入居予定)も着手し、駅周辺の店舗は仮囲いで覆われた。、、、、今日の散歩は、工事状況の確認だ!

・・・・・・・・・・ 京成立石駅下りホームに降り立つと、橋上駅舎への階段は封鎖されていた。 仮囲いで狭くなったホームの中程から地下へ下る階段ができており、改札は地下に変わった。 改札をとおり、今度は階段を上ると地上出入口がある。 

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・・・・・・・・・・ 朝の上りホーム、こちらも橋上駅舎の階段は封鎖され、青砥側のホーム先端に造られた下り専用の改札口・出入口から乗客がゾロゾロとホームに出てくる。 出入口には、時に行列もできる、ホームは混雑し通勤通学は大変だ!

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・・・・・・・・・・ かつての橋上駅舎は既に使われておらず、出入口の階段も封鎖された。 いずれ、近々撤去されることだろう。

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・・・・・・・・・・ 駅部では下り仮線のスペースも整備されてきた。 また青砥側では一部レールも敷設されてる。

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・・・・・・・・・・ 駅の北側では、再開発のため多くの居酒屋、スナック、バーなどが密集する飲食店街も立ち退き、仮囲いで囲われた! 「呑んべ横丁」も閉店した! 街並みは大きく変化するようだ。、、、、「立石仲見世」がある駅の南側も再開発計画があるが、現在のところまだ着工していないようだ。

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● 奥戸街道に出て、仲見世商店街から本奥戸橋に向かうと中程に「立石名所 喜多向観音菩薩」がある。、、、、寛保元年(1741)、“妙本”という尼さんが金龍山浅草寺を深く信仰して千日詣の大願を起こし、愈々念願の日、枕頭に金色燦燦と輝ける観世音菩薩のお姿が現れ、汝の願い正に叶う可し、喜び多く向わんと、謂うや何処ともなく姿を消してしまった。 そのお礼にと、建てたのがこの喜多向観音と言うことだ。、、、、通りがかりの人も、皆素通り。 本当に“立石名所”なのか(?)チョイト疑り、怪しいね!

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● 本奥戸橋西詰角に“地蔵尊、馬頭観音、道標の街道三点セット”がある。、、、、この地蔵堂は、永井荷風の「断腸亭日乗」にも記載されているので、こちらの方が名所かも?、、、、地蔵尊は、貞亨2年(1685、江戸初期)に念仏講によって建造されたもの。 となりの馬頭観音は江戸時代の半ば以降に、農耕馬や運送馬が普及してから馬の保護仏として広く信仰されたものです。建造は安政2年(1855、江戸大地震の年)。 道標は、出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)の信者の人々の講中が参詣の記念に、宝暦5年(1755)に建造したもの。

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● 中川に架かる本奥戸橋(ほんおくどばし)、、、、昭和7年(1932)に初代の橋が架けられ、現橋は2代目で昭和62年(1987)に架け替えられた。 橋は2径間連続下路式ワーレントラス橋、長さ131.1m、幅15.0m。、、、、中川が大きく蛇行する位置にあり、川幅も広く見える。

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● 本奥戸橋を渡り、中川の左岸を下流側に歩くと、森永乳業跡の角地に「森市地蔵 入定塚」がある。、、、、この入定塚(にゅうじょうづか)は森市という行者の終焉の地。 彼はこの地の村人に大変尊敬された行者であった。 彼はある時、自己の天寿を悟り、お世話になった村人らの繁栄を祈願し入定した。(入定とは、生きながらに墓穴に入り即身仏となって命を断つこと) 経文を唱え、鉦を打ち、その音は三日三晩続いたと伝えられている。 村人は彼の死を哀み、地蔵を祀り供養した。(古そうだが、年代は不詳?)、、、、もう一つの祠には、南葛八十八ヶ所霊場の一霊場として、お大師様のご遺徳と村の繁栄を願い、大正12年(1923)奥戸6丁目の真言宗善紹寺住職が小堂を建て、弘法大師の石像を安置したもの。

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● 中川左岸の広大な更地は森永乳業の跡地、、、、森永乳業は、葛飾区の東京工場跡地(6万6798m2)について、令和4年(2022)に売却した。 売却益は650億円だったらしい。、、、、跡地利用で何が建つのか? 興味津々!

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● 森永乳業工場跡地からバス通りを歩き新小岩駅に到着

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2023年11月 4日 (土)

「らんまん」の庭園

NHKの朝ドラ『らんまん』の主人公のモデル・牧野富太郎博士が晩年を過ごした地に開園した、「牧野記念庭園」に我が妻のリクエストで行ってきた。 庭園は、西武池袋線の大泉学園駅近くにあり、同駅で下車し庭園を見て、西武新宿線の武蔵関駅前をとおり、さらにJR中央線の吉祥寺駅まで歩く、1万6千歩の散歩です。

 

● 西武鉄道池袋線の大泉学園駅(おおいずみがくえんえき)は、大正13年(1924)11月1日、武蔵野鉄道の東大泉駅として開業した。 昭和8年(1933)には大泉学園駅に改称。 昭和20年(1945)9月に、武蔵野鉄道は合併・改称により西武農業鉄道となるが、翌昭和21年(1946)に西武農業鉄道は西武鉄道と社名変更する。 現在の大泉学園駅は、島式ホーム1面2線の地上駅で、橋上駅舎を有する。、、、、池袋から各停で約20分、横浜中華街まで乗り換えなしで行ける便利な駅だ! 令和4年(2022)度の1日平均乗降人員は75,513人であり、西武鉄道全92駅中第8位。、、、、駅周辺には、色々なお店があり、ショッピングモールやレストランも多く、住みやすそうだ。

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・・・・・・・・・・ 【ここでクイズ】 “大泉学園”の校舎はどこにある?、、、、答え:どこにもありません。 東急王国を築き上げた五島慶太と張り合った箱根土地(コクド)の堤康次郎は昭和8年(1933)東大泉駅を大泉学園駅に改称し、小田急の成城学園や玉川学園のような学園都市を目指して東京商科大学(一橋大学)の転地を待ったのだが、大学の教授陣が汚穢鉄道(おわいてつどう)のイメージの強い武蔵野鉄道を嫌い、他地(国立市)へ移転してしまい。 大学などの高等教育機関を誘致できずに名前だけが残った。 残念でした、大泉には学芸大附属の小学校・中等教育学校があるので、これで我慢して!




● 大泉学園駅から南に徒歩5分、バス通りからチョイト脇に入ると「練馬区立 牧野記念庭園」がある。 ここは、日本が生んだ世界的な植物学者、故牧野富太郎博士が、大正15年から亡くなる昭和32年まで住み、植物の研究に没頭し「我が植物園」としてこよなく愛した自宅を、遺族から提供を受け、整備し保存した文化施設と公園だ。 記念館では、博士が20歳の時、博覧会見物を兼ねて初めて上京した際に購入したドイツ製の顕微鏡、自分の研究成果をとりまとめた『植物学雑誌』『日本植物志図篇』など、貴重な資料を見ることができる。 博士の書斎と書庫の一部は覆屋内に保存、公開されている。、、、、私は朝ドラを見てなかったので、普通に博物館の展示品を見てる気持で見学した。 朝ドラを毎日見ていた妻は、ドラマと重なる部分があるようで、かなりしつこく食らいつくように見ていた。 展示品を見る周囲の見学者(主に中高年のおばさん)も我が妻と同じようにしつこいね! テレビの影響の凄さを実感できた。

・・・・・・・・・・ あまり大きくない庭園だが、朝ドラの余韻が残り、見学者の多いこと!

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・・・・・・・・・・ 書斎に書庫。 凄いね、本に埋もれて研究だ!

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・・・・・・・・・・ スエコザサに囲まれた博士の胸像

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● 庭園を見たら、生まれて初めて歩く南大泉の裏道を行く。 目指すは西武新宿線の武蔵関駅。、、、、住宅地の中に生産緑地が点在する。 野菜の無人販売もある。

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● 西武新宿線の武蔵関駅前にでた!、、、、武蔵関駅は、昭和2年(1927)4月16日西武鉄道村山線高田馬場~東村山間の開業と同時にできた。 ホームは、相対式2面2線の地上ホーム。 駅舎は橋上にある。、、、、23区内最西端の駅。 ちなみに、東京都の最西端の駅はJR青梅線の奥多摩駅。

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● 武蔵関駅前からJR中央線の吉祥寺駅に向かう。

・・・・・・・・・・ 吉祥寺駅の北500m程に処に、今日は七五三で賑わっている吉祥寺の氏神様「武蔵野八幡宮」がある。、、、、明暦の大火(1657)により住居を無くした水道橋付近(吉祥寺村)の住民が、当地周辺に移住し、寛文元年(1661)に吉祥寺村を開村するにあたり、村の鎮守として信仰していたと言われている。 境内は約1300坪の広さで、ケヤキやクスノキなどの大木が繁り、平時は荘厳な雰囲気を漂わせているものと思われる。 今日は、七五三詣でで子供連れの参拝客も多くにぎやかだ!

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・・・・・・・・・・ 吉祥寺サンロード商店街は、五日市街道から吉祥寺駅までの約300mのアーケード商店街。 ここを抜けると吉祥寺駅。

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・・・・・・・・・・ 吉祥寺駅は、JR東日本の中央本線と、京王電鉄の井の頭線が乗り入れる接続駅。、、、、明治32年(1899)12月30日に、甲武鉄道の駅として開業し、明治39年(1906)に甲武鉄道の国有化により国有鉄道の駅となる。 昭和44年(1969)にいは、高架複々線化が完了する。 2面4線の高架駅。、、、、JRと京王の両駅合計で、一日当たり30万人以上が乗降するターミナル。 しかもオシャレナ若い娘が多く、羨ましい駅だ!

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