年末に風邪
先週末より妻が風邪をひき医者通い。 熱はないが、咳がひどく、夫婦二人の生活では、ほっておくこともできず、ついつい優しく看病していた。、、、、昨日から、私も喉の調子が悪くなり、とうとう今朝一番で医者に駆け込む。 『ハイ、間違いなく風邪です。 7日分処方しておきます。』、、、、ということで、散歩は休みます。(ちなみに、妻は回復傾向!)
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先週末より妻が風邪をひき医者通い。 熱はないが、咳がひどく、夫婦二人の生活では、ほっておくこともできず、ついつい優しく看病していた。、、、、昨日から、私も喉の調子が悪くなり、とうとう今朝一番で医者に駆け込む。 『ハイ、間違いなく風邪です。 7日分処方しておきます。』、、、、ということで、散歩は休みます。(ちなみに、妻は回復傾向!)
我が家(浅草橋)から両国橋を渡り、国道14号(京葉道路)の南側をブラブラ歩き錦糸町駅まで、1万2千歩の散歩です。
● 今朝はこの冬一番の寒さ、午前8時の気温は2.5℃。 『チョイト、散歩してくる』と言い残し家を出たが、“寒~い”、遠出は避けて近場で手打ち!、、、、今日は浅草橋駅から電車に乗らず、浅草橋・両国橋を渡り隅田川を越えて両国の町に入る。 今日の散歩は“両国の町”にしよう。
● 両国橋東詰(墨田区両国)に、赤穂浪士の俳人:大高源吾の句碑と、大きな日露戦争時の忠魂碑がある。
・・・・・・・・・・ 向島の俳諧師:宝井其角の弟子であった赤穂浪士の一人:大高源吾の句 「日の恩やたちまちくだく厚氷」の碑。 この句は討ち入りの夜、師匠宝井其角に両国橋で出会い詠んだものといわれている。 碑は昭和3年(1928)に作られたそうだ、、、、宝井其角が「年の瀬や水の流れと人の身は」と一句詠み、それに応えて源吾が「明日待たるゝその宝舟」と返す、討ち入り前日の其角と源吾のやり取りは忠臣蔵の名場面だ!の一つになっている。 私の好きな場面でもある。
・・・・・・・・・・ 大高源吾の句碑の後ろにある巨大な忠魂碑。 これは、明治37年・38年の戦役での戦病死者、すなわち日露戦争で出征し、護国の為に身命を捧げた英霊に、陸軍元帥大山巌(旧薩摩藩士、満州軍総司令官)筆による表忠碑。 明治40年(1907)の建立。、、、、大きく、立派な碑だ。
● 両国橋東詰の老舗:イノシシ料理の「もゝんじや」は、享保3年(1718)の創業という。 この両国界隈は江戸の頃より軍鶏や獣肉の店で知られていた。 イノシシ料理の店は「山くじら」という看板を出していた。 獣肉は御法度だったので、“山の鯨だ”と言って商売していたという。 店先に本物のイノシシが吊るしてあることもあった。、、、、只今、店主が病気で休業中。 早く完治し店を再開させて欲しいね!
● 「もゝんじゃ」の斜め横に建つ、年代はよくわからないがレトロな建物は鉄工関係の「岡田商会」、、、、大正ロマンや昭和モダンあふれる建物で、屋内の電灯もまた、その雰囲気をかもしだしている。(今日は土曜でお休みか?暗いね! 電灯が灯る5年前の写真を添付)
● 「もゝんじゃ」から南へ150m程、相撲の春日野部屋がある。 本日玄関も閉まり、力士も外に出ていない。
● 国道に出ると回向院(墨田区両国2)がある。、、、、回向院の正称は諸宗山無縁寺回向院。 振袖火事と呼ばれる明暦の大火(1657年(明暦3年))の焼死者10万8千人を将軍徳川家綱の命によって葬った万人塚が始まり。 後に安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。 あらゆる人、動物、生あるものを供養するという理念から、犬猫などの墓も多数ある。 著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などの墓もある。、、、、参拝客のために両国橋が架けられた天明元年(1781)以降には、境内で勧進相撲が興行された。 これが今日の大相撲の起源となり、明治42年(1909)旧両国国技館が境内に建てられるに至った。昭和11年(1936)には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した。
・・・・・・・・・・ 鼠小僧次郎吉の墓と力塚
● 両国3丁目19番の京葉道路に面した歩道角に、「本所松坂町址」の碑が建っている。 もともとこの周辺は、本所松坂町と呼ばれていたが、関東大震災後の区画整理により町名が変更された。 碑は、赤穂浪士が討ち入った吉良邸があったこの地「松坂町」を偲んで、昭和7年6月に建立された。、、、、吉良邸はここ本所松坂町1、2丁目(現:両国2、3丁目)にあり、約8,400㎡を占める広大な屋敷だった。
・・・・・・・・・・ 本所松坂町跡の碑を前にして、右に曲がって行くと、なまこ壁で囲まれた小さな本所松坂町公園(吉良邸跡)がある。、、、、吉良上野介の屋敷は、はじめ鍛冶橋(現:中央区)の屋敷を拝領していたが、刃傷事件のあと、赤穂浪士が吉良屋敷に討入るという噂があり、周囲の大名屋敷から苦情が出て、元禄14年8月御用地として幕府に召し上げられ、一時、子の上杉弾正大弼の屋敷に身を寄せ、その後、同年9月、ここ本所松坂町の松平登之助の屋敷を拝領し移り住んだ。 この吉良邸は、広大で東西約132m、南北約62m、約8,400㎡(2,550坪)の広大な敷地であった。 討ち入り後の吉良邸は、元禄16年2月4日に没収されたそうだ。、、、、現在の「吉良邸跡」として残る本所松坂町公園は、29.5坪(約98㎡)で、当時の86分の1に過ぎない。 これは昭和9年(1934)地元両国3丁目町会有志が発起人となって、邸内の「吉良公 御首級(みしるし)洗い井戸」を中心に土地を購入し、東京市に寄付し、貴重な旧跡が維持された。 昭和25年(1950)に、土地は区に移管された。、、、、小さな公園内には、吉良上野介の座像、御首級洗い井戸などがある。 チョイト小さくて残念だけど、忠臣蔵の話を偲ぶ上では貴重なものだ!
● 両国小学校(両国4)の敷地の角に、「芥川龍之介文学碑」と「駆逐艦「不知火」の錨」がある。
・・・・・・・・・・ 両国小学校の創立百十五周年を記念して建てられた文学碑で、碑面には童話雑誌「赤い鳥」で発表された小説「杜子春」の一節が刻まれています。 芥川龍之介は明治25年(1832)年に東京市京橋区(現:中央区)で生まれた。 家庭の事情によって幼くして母の実家の芥川家に預けられた。 現在の墨田区両国にある芥川家は代々、江戸城の御数寄屋衆を勤めた旧家である。 龍之介が幼少の頃を過ごした墨田区両国(本所松坂町址の碑の道路向かい側)に「芥川龍之介生育の地」の碑が立っている。、、、、小学校とは無関係?
・・・・・・・・・・ 芥川龍之介文学碑の隣りには、駆逐艦「不知火(しらぬい)」の錨がある。、、、、駆逐艦「不知火」は明治32年(1899)、イギリスのソーニクロフト社で竣工し、明治33年(1900)に軍艦に編入された。 明治37年(1904)に日露戦争が始まり、旅順口攻撃、黄海海戦、日本海海戦、樺太の戦いなどに参戦する。 その後は第一線を退き、特務艇(掃海艇)として活躍したが、大正14年(1925)に廃船となる。 この錨は廃船の解体作業を行った、鉄鋼業者(岡田商会)が昭和の初年に江東(現両国)小学校に寄贈したもの。
● 両国小学校の東隣りに両国公園がある。 この地は勝海舟誕生地である。、、、、江戸城無血開城、咸臨丸による米国訪問で、知らない人はいない維新の英傑、勝海舟は、文政6年(1823)父方の実家男谷家(現:両国公園)で生まれた。 青年期までを墨田の地で過ごし、学問や剣術の修行に励んだそうだ。、、、、公園内には、「勝海舟生誕之地」の碑が建てられ、誰も座っていない椅子と刀が置かれてる。 椅子に座って記念撮影!
● 再び国道(京葉道路)に出て、江東橋を渡る。、、、、大横川に架かる江東橋は明治31年(1898)創架で、現在の橋は平成7年(1995)に架け替えられた比較的新しい橋だ。 江東橋は、西岸の墨田区緑四丁目と東岸の墨田区江東橋一丁目を結ぶ。
● 江東橋の東詰めに、都立両国高等学校がある。 “両国”の名がつくが、最寄り駅としては“錦糸町”の方が近い。、、、、現在は、附属中学校があり、高い難易度の中高一貫校として、大学進学率もトップクラスを誇る!、、、、芥川龍之介も当校の出身である。
・・・・・・・・・・ 両国高校のフェンスの内側に、「国産マッチ発祥の地」と刻まれた 黒御影石の記念碑が建っている。 石川県金沢出身の 清水誠が設立した日本最初のマッチ製造企業である新燧社の敷地がほぼ当校に当たることから、昭和61年(1986)に校庭に建立された記念碑だ。 碑には 当時の新燧社のマッチ箱ラベルも描かれている。
● 錦糸町駅にきた!、、、、錦糸町駅は明治27年(1894)12月9日、総武鉄道の本所駅として開業。 明治40年(1907)国有化される。、、、、島式ホーム2面4線の高架駅である。 令和4年度(2022)の1日平均乗車人員は87,590人である。 墨東の中心的な駅。 駅周辺は歓楽街として栄えてる。 飲む、打つ、買う全て揃っている!
京成本線の堀切菖蒲園で下車し、常磐線(地下鉄千代田線)の綾瀬駅まで、チョイト寒い裏通りを歩いて、1万歩。
● 京成本線堀切菖蒲園駅の1日平均乗降人員は約20,000人で、京成線全69駅中19位である。 想像していた以上に乗降客の多い駅だ! おそらくこの付近には他の鉄道は無く、バスは複数路線あるが都心方面に向かうには不便な路線ばかりだ。 通勤客の多くはこの京成本線を利用して、日暮里・上野経由で都心に向かうのかも? 1ヶ所しかない高架下の改札口には通勤・通学客がゾロゾロ。
● まずは堀切5丁目を北東方向に亀有駅を目指して歩く。 下町の雰囲気漂う裏通りを歩く。
● 曲がりくねった通りの奥に、赤い山門の寺がある。 真言宗豊山派の正王寺は、清滝山金長院と号す。 正王寺は、治承2年(1178)八王子社(現:堀切氷川神社)別当として創建されたらしい。 朱塗りの山門があることから「赤門寺」と呼ばれているそうだ。 住宅地の中にある静かな寺だ!
● 近くには正王寺が別当であった堀切氷川神社がある、こちらも住宅地に佇む神社。 堀切氷川神社は、天正年間(1573~91)旧下千葉村の鎮守として創建された。 祭神は須佐之男命・東照大権現(徳川家康)。、、、、境内社の八王子神社は、治承2年(1178)に創建した古社と伝えられ、江戸時代に5石の朱印地を与えられた。、、、、境内には、年末の大祓で茅ノ輪あり、私も8の字にくぐって厄払い。
・・・・・・・・・・ 境内社の八王子神社
● 亀有駅を目指して歩いていたが、堀切の裏通りはよそ者の私にとっては迷路のように複雑怪奇、気づいたときは綾瀬駅に向かってた。
● 葛飾区小菅4丁目を歩いてたら、日蓮宗の寺院の蓮昌寺(れんじょうじ)があった。 チョイト、手を合わせて行こう! 蓮昌寺の山号は法光山。、、、、正安2年(1300)阿闍梨日念が創建した道昌寺を慶長19年(1614)に蓮昌寺に改名した。 明暦2年(1656)再興され、万治3年(1660)七面大明神を勧請、寛政4年(1792)11代将軍徳川家斉が鷹狩で使用し以来将軍家の御膳所に指定された。 歴史ある寺だ!、、、、参拝後知ったのだが、当蓮昌寺は北野武(映画監督)の実家の菩提寺で、北野武の母が亡くなった際には葬儀・告別式は本寺で営まれたらしい。 また、いかりや長介(ドリフターズ)家の菩提寺でもあり、いかりや長介自身もここに眠っているそうだ。
● 綾瀬駅(足立区)に到着、今日の散歩はココまで!
昨夜は和銅鉱泉に泊まり、今日(12/14)はのんびり秩父の町を歩いて見た。
● 宿の車で和銅黒谷駅まで送ってもらい、2つ先の駅:秩父駅へ向かう。
・・・・・・・・・・ 和銅黒谷駅で電車を待っていると、ホーム向かいの待避線に秩父鉄道デキ100形電気機関車が石灰石を積んだ貨車を牽引して入線してきた。 デキ100形は、第二次世界大戦後(1951~1956)に日立製作所が日本各地の私鉄や専用線に供給した50t級電気機関車の一つで、秩父鉄道には3両が現存している。、、、、シャッター・チャンス!
・・・・・・・・・・ 秩父鉄道の秩父駅は、大正3年(1914)10月27日に当時の上武鉄道(現:秩父鉄道の前身)が秩父までの延伸に伴い開業した。、、、、現在は島式ホーム1面2線を有する地上駅。 ホームと改札口は地下通路により連絡している。 駅舎はホームの西側にあり、秩父地域地場産業振興センター(地場産センター)を兼ねている。、、、、かつての木造駅舎(国登録有形文化財)は昭和59年(1984)に、駅北東の公園内に移築し保存されている。 見に行きたいと思ったが、平日は内部を公開していないそうで諦めた。 残念!
● 秩父市内観光の始めは、昨日訪れた浦山ダムの天端(本体の一番上の部分)のデザインで、モチーフにした旧秩父橋を見に行くことにした。、、、、旧秩父橋(二代目の秩父橋)は、昭和6年(1931)に竣工した鉄筋コンクリート造りの三連アーチ橋で、橋長134.6m、幅員6m、現在は人道橋として利用している。 県内では初期の大型コンクリートアーチ橋で、貴重な近代化遺産の一つである。 旧秩父橋の隣りには、明治18年に架設された初代秩父橋の橋脚部分が残されている。、、、、(小さな写真は、浦山ダムの天端)
● 旧秩父橋から秩父駅に戻り、駅の近く、秩父夜祭の屋台を展示する「秩父まつり会館」を見学。、、、、高さ15m前後の屋台の展示と3Ⅾ立体映像による秩父市内の各祭りの紹介、そして夜祭りの資料展示。、、、、祭りの雰囲気を十分堪能でき、祭り気分で会館前の秩父神社へ直行!
● 秩父神社は秩父まつり会館の前に鎮座する。、、、、秩父地方の総社で、創建は二千年前と言われています。 知恵の神様とされる八意思兼金命をはじめ四柱の神々をお祀りする本殿は埼玉県重要文化財。 徳川家康が再建した権現造りの本殿、幣殿、拝殿が並び、なかでも左甚五郎作の「つなぎの龍」は有名。また、「子育ての虎」、「お元気三猿」も人気があります。 秩父神社の例大祭は世に名高い秩父夜祭(12月2・3日)である。、、、、社殿の彫刻は、派手な色使いで綺麗で、表情は漫画チックで面白い! 一言、冗談でもいいたくなるね!
● 秩父神社の周辺には、江戸、明治、大正、昭和の建築が数多く残されている。 ダイジェストのダイジェストで、チョッピリ紹介する。 なお、全て国登録有形文化財。、、、、順に、秩父ふるさと館、そば処入船、旧大月旅館別館、旧岩田醫院、小池煙草店、カフェ・パリー、安田屋、旧片山醫院、御花畑駅(副駅名:芝桜駅)
● 街歩きも疲れてきた、夫婦で蕎麦屋に入りひと休み。 疲れが取れ、腹ごしらえもOKだ! 観光客が行きそうな処からチョイトはずれて、市役所の近くにある「ちちぶ銘仙館」へ行く。、、、、ちちぶ銘仙館は秩父織物、銘仙等に関する民俗学上貴重な資料を収集、保管及び展示し、これらの資料を永く後世に伝え、あわせて、伝統的技術を継承することを目的として設置された施設。 秩父銘仙の製作工程のガイド、体験教室や製品のショップなどもある。、、、、建物は、秩父絹織物同業組合(現:秩父織物商工組合)が昭和5年(1930)に建築したもの。 埼玉県繊維工業試験場として使われてきたが、秩父銘仙を伝承する施設として、平成28年(2016)にリニューアルオープンした。 建築家フランク・ロイド・ライトが考案した大谷石積みの外装や昭和初期の装飾を生かした建物として、国の登録有形文化財に登録されている。、、、、見学者は少なく、私達夫婦の為に銘仙の作り方をレクチャーして頂いた。 御礼のつもりか(?)帰りには妻が銘仙の生地を買い求めていた。
● 帰りは西武秩父駅から特急で池袋へ、、、、秩父鉄道の秩父駅とは離れた位置にあり、乗換はできない。 近くに秩父鉄道の御花畑駅があり、ここで乗り換えができる。、、、、西武秩父駅は昭和44年(1969)10月14日に、埼玉県立秩父農工高等学校(現:埼玉県立秩父農工科学高等学校)跡地に開業した。 単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線の地上駅。 平成35年(2017)にリニューアルされた西武秩父駅はグッドデザイン賞を受賞したモダンな駅だ!
今年は、ほぼ毎月のように夫婦で温泉旅行をしてきた。 その〆として、今年最後の旅行先を埼玉県秩父の和銅鉱泉とし、13日に行ってきた。 近場の温泉(鉱泉)なので宿の予約だけ優先し、観光ルートなどは決めておらず、当日のぶっつけ本番旅となった。
● 目的地の和銅鉱泉は秩父市にあるので、東京(池袋)から西武鉄道(池袋線・秩父線)を利用すれば2時間弱で着く処だ。 しかし閑な夫婦の旅なので、東武東上線を利用して寄居まで行き、寄居から秩父鉄道に乗換え、車窓から長瀞を眺め荒川沿いに遡り秩父へ行くことにした。、、、、寄居には10時頃到着し、このまま秩父鉄道の和銅黒谷駅で下車して宿に向かうには早すぎる。 秩父の町は明日観光することにしていたので、今日は秩父駅から3駅先にある浦山口駅で下車し、浦山ダムを見に行くことにした。
・・・・・・・・・・ 東武鉄道の8000系リバイバルカラーの車両(1981年製)で寄居駅に到着。 旧東急のステンレスカーであった、秩父鉄道の車両に乗換える。、、、、東武鉄道、秩父鉄道、JR八高線が乗り入れる寄居駅、山並みが見える構内は広い!
・・・・・・・・・・ 秩父鉄道の浦山口駅(うらやまぐちえき)にて下車する。、、、、昭和5年(1930)3月15日に開業した駅は、昨年まで業務委託駅であったが、ICカード「PASMO」の利用が可能となり、無人駅となった。 ここ数年、1日平均乗車人員は約90人である。、、、、木造の小さな駅舎に、誰もいないホーム、のんびりした雰囲気が流れる駅。、、、、ホームから正面の山中にダムの堤頂を眺めることができる。
・・・・・・・・・・ 駅からはダムの下まで歩いて行く(タクシー、バスなんてありません!) 歩く道には、人影は無し、車は数台、猿は数十匹。 ダムの下まで緩やかな上り坂を歩くこと20分。 チョイト疲れた!
・・・・・・・・・・ ダムの下に、一般開放された監査廊(浦山ダムの歴史を解説したパネル展示)があり、さらにダムの底部に設置されているダムのたわみを計測するプライムラインを見ることができる。、、、、妻はダムの監査廊を歩くのは初めて、ワクワク、ドキドキ!
・・・・・・・・・・ ダムの底部から堤頂まで、ダム本体の中を一気に上る昇降行程132.6mのエレベータがあり、あっという間にダム堤頂に出ることができる。
・・・・・・・・・・ 浦山ダム(うらやまダム)は、埼玉県秩父市、荒川水系浦山川に建設された重力式コンクリートダムである。 浦山ダムは、荒川の洪水調節・東京と埼玉の水道用水・埼玉県営の発電・河川環境の保全を目的として造られたそうだ。 ダム建設は昭和47年(1972)の予備調査開始から始まり、昭和65年(1990)から本体工事が進められ、平成10年(1998)に28年の歳月を掛けて完成にこぎ着け、翌平成11年(1999)より使用を開始した。、、、、ダムの諸元は、ゲート:自然調節方式、堤高:156m(重力式コンクリートダムとしては、奥只見の157mに次ぐ全国2番目の高さ)、堤頂長:372m、総貯水容量:5,800万㎥m3、管理者:水資源機構、本体施工業者:飛島建設・間組・竹中土木、、、、堤頂を歩き、ダムの大きさを実感する、スゲ~~!! 秩父の町が一望できる。
・・・・・・・・・・ 浦山ダム資料館のレストランでは「浦山ダムカレー」を、美味しく頂く。、、、、隣でダム管理所の職員も美味しそうに食べてた、浦山ダムラーメンも名物らしい!
・・・・・・・・・・ ダム見学も終え浦山口駅に戻る
● 再び秩父鉄道に乗り、和銅黒谷駅(わどうくろやえき)で下車する。、、、、和銅黒谷駅は、大正3年(1914)10月27日、黒谷駅として開業し、平成20年(2008)に和銅黒谷駅と改称した。 島式ホーム1面2線の地上駅。 一日の平均乗車人員は200名程と少なく、無人駅である。、、、、日本通貨発祥の地とされている。「和銅開珎」で有名な和銅はこの駅の近くで採掘されていたそうだ。 ホームには「和同開珎」のモニュメントが置かれてる。
● 和銅鉱泉は、武田信玄公が和銅金山を開始した当時より開業したと称する古き歴史を有しているそうで、昔、この鉱泉を目薬や切傷に使用し特効したという伝承から、“薬師の湯”と呼ばれているそうだ。 本日のお宿「ゆの宿 和どう」で、熱い湯に入り、美味しい食事に、暖かいもてなし、今年の夫婦二人旅を締めくくる。
東武伊勢崎線の谷塚駅(埼玉県草加市)から、つくばエキスプレスの六町駅(東京都足立区)まで、1万3千歩の散歩です。
● 朝7時半、谷塚(やつか)駅はすでに通勤通学の時間帯に入ってる。 “普通”しか停まらないホームには、多くの乗客が地下鉄の日比谷線に乗り入れる上り電車を待っている。 やって来た電車は既に満員状態、座れる余地はナシ、チョイト辛いね!
・・・・・・・・・・ 駅前ロータリーに設置されてる案内板には、旧谷塚駅の写真と共に、『東武伊勢崎線谷塚駅は、1925(大正14)年10月に開設された駅です。1920(大正9)年3月に西新井・草加間が複線化された後、地元の人たちの要望と路線の電化により誕生しました。駅名は旧村名によるものです。 開業当初、付近は低湿地帯でした。1962(昭和37)年に地下鉄日比谷線の乗り入れ後、都心へわずか30分という立地条件から急速に開発が進み、利用者が急増しました。1988(昭和63)年8月、鉄道高架複々線化事業にともない高架ホームが完成しました。』と記されてる。
● 谷塚駅入口交差点の角に浅間神社がある。 これまでに何度か参拝してるので、今日は手を合わせるだけ。
● 浅間神社から裏通りを歩き、花畑大鷲神社を目指す。 毛長川を挟み東京都足立区接する草加市瀬崎は、住宅の中に工場が混在する町。、、、、私の興味を引き付けるものは少なく、ひたすら歩くだけ!
・・・・・・・・・・ 住宅地の中にある公園で、絵になるような2本の大木(?)を見つけた
・・・・・・・・・・ 毛長川に架かる大鷲(おおとり)さくら橋を渡ると、東京都足立区に入る。、、、、大鷲さくら橋は、令和2年(2020)に開通し、足立区花畑地区と埼玉県草加市を結ぶ、橋長:34.9m、幅員:16.8mの鋼単純合成床版橋。 事業費約17億円で架けられた。
● 毛長川を越えて足立区に入ると、花畑大鷲神社(はなばたけおおとりじんじゃ)がある。、、、、大鷲神社の創建は古く、平安時代、新羅三郎義光が奥州の役に赴く途中、社前に戦勝を祈願したと伝えられるゆかりの社である。 台東区千束の鷲神社(おおとりじんじゃ)と同様に、応徳(1084)の頃から毎年11月の酉の日に例祭が行われ大変なにぎわいを呈しているそうだ。、、、、現在の本殿は嘉永7年(1854)に上棟、明治8年竣工、総欅方3間四方唐破風造りである。、、、、大鳥居をくぐると、チョイト長めの参道が伸び、途中に和風の庭園もある、緑豊かな静かな神社です。
● 大鷲神社の東側で毛長川は綾瀬川に合流する。 綾瀬川は南に流れ、つくばエキスプレスと平行して北千住方面に流れ下る。 私は、大鷲神社入口のバス停付近から綾瀬川沿いに歩き、約3㎞先の六町駅に向かう。
● 足が棒になってきた頃、六町駅が見えた!、、、、六町駅は平成17年(2005)8月24日に開業した、島式ホーム1面2線の地下駅。 ホームは地下3階にあり、チョイト深い!、、、、駅周辺の開発が進み、住宅地域が広がっているらしい。 電車の利用者も増えているようだ。 開業時の平成17年の一日平均乗車人員は約5000人であったが、昨年令和4年(2022)の乗車人員は3倍の約15,000人となった。
京浜東北線の蕨駅から、東に向かって埼玉高速鉄道の鳩ケ谷駅まで、1万2千歩の散歩です。
● 朝7時半過ぎに蕨(わらび)駅で下車する。 私が乗って来た大宮行きの下り電車はチョウド全員が座れる程度の乗車率。 しかし、蕨駅から東京方面に向かう上り電車は立ってる人も多く着席が難しそうだ。 都心のオフィスに9時までに入るには、蕨駅は通勤時間帯の真只中だ! 通勤客の人波は駅前からホームまで延々と続いている(凄い!)
・・・・・・・・・・ 蕨駅は明治26年(1893)7月16日に日本鉄道の駅として開業し、明治39年(1906)には国有化された。 蕨駅は京浜東北線の電車のみ停車し、線路名称の東北本線の列車は停車しない。 島式ホーム1面2線の地上駅である(駅舎は橋上)、、、、1日平均乗車人員は約52,000人である。 通勤通学客が多い駅だ!
● 蕨駅で下車したが、行先は定まらず、地図を見て東西南北どちらに歩こうか? 駅前の交差点で迷い、駅に向かう美人が一番多そうな、東に向かって伸びる大通り(塚越本通り)沿いに歩くことにした。、、、、歩きはじめて、美人どころか歩いてる人が少なく、チョイトがっかり!
● 蕨駅から1㎞程歩いたところに塚越稲荷神社があり、立ち寄ってみた。、、、、神社の創建年代は不詳だが、明応年間(1492~1501)の創建と伝わる。 鎮座する丘は、玄快という廻国の出家僧が伏見稲荷大社に折誓の折り、お告げを受けて法華経一万部を埋納し、経塚としたところで、これが塚越の地名の由来となったそうだ。、、、、印象的な赤い鳥居をくぐり参道の先、階段の上には、伏見稲荷を意識したのか真っ赤な本堂がある。、、、、境内には、延命観音、力石、天満宮、観音堂など、話題となるようないろいろなものがある。
● 表通りは、マンション、住宅が並ぶだけで面白くない。 蕨市から川口市の裏通りに入り、チョウド通学時間の埼玉県立川口工業高等学校前を歩き、清流とは言い難い黒く汚れた堅川を越え、川口市立上青木中学校前を通り過ぎると、SKIPシティの前に出た!
● 「SKIP CITY(=SKIPシティ)」とは、川口市にある映像制作を目的とした施設。 NHK川口ラジオ放送所跡地の産官学連携による再開発事業として、2003年2月1日にオープンした。 SKIPは 英語: Saitama Kawaguchi Intelligent Park の頭文字から。、、、、NHK放送所の跡地は広大な土地で、現在は4街区に分かれている。 A街区には、2棟の大きな建物があり、1棟は埼玉県・川口市が主体となり、「埼玉県産業技術総合センター」、「川口市立科学館」などが使用してる。 もう1棟は「NHKアーカイブス」などが使用してる。 B街区は仮囲いに囲われ、現在大林組の施工で、約22,000m2の敷地に4棟のNHKのスタジオを建築中。 C街区はこれも広大な敷地だが、現在は更地。 今後川口市が庁舎の建て替えで使用する予定らしい。 Ⅾ街区は放送衛星システムの地上運用局として使用中。、、、、なにしろ広い! 広大だ! NHKの経営が苦しいとは思えない広さだ!
・・・・・・・・・・ まずは、A街区の埼玉県・川口市が主体の建物
・・・・・・・・・・ 「NHKアーカイブス」のある建物
・・・・・・・・・・ B街区はスタジオ建築中、、、、長~い仮囲いの内側は全てB街区
・・・・・・・・・・ C街区は更地、、、、奥に見えるパラボラはD街区の衛星放送施設
・・・・・・・・・・ Ⅾ街区のパラボラが並ぶ衛星放送施設
● SKIPシティの北東500m程の処に、浄土宗の専称寺(せんしょうじ)がある。 専称寺は青木山聖冏院と号す。 専稱寺は、浄土宗中興の祖・酉蓮社了譽聖冏上人(応永27年1420年寂)が開山、江戸期までは近隣に末寺を擁していました。 現在の建物は明治以降の建築らしい。、、、、なんとなく懐かしさを感じる寺
● 専称寺の先で芝川を越えると鳩ケ谷駅(はとがやえき)がある。 鳩ヶ谷駅は、平成13年(2001)3月28日に開業した埼玉高速鉄道線の駅。 島式ホーム1面2線の地下駅。
9時過ぎに浅草橋の我が家を出て、都営浅草線の中延で、東急大井町線に乗換え九品仏で下車する。 九品仏駅に至近の浄土宗浄眞寺に参る。 参拝の後は、ブラブラ歩いて自由が丘駅まで、8千歩の散歩です。、、、、このルートで散歩するのは3度目である。
● 東急大井町線の5両編成の電車に乗って、九品仏駅(くほんぶつえき)で下車する。 九品仏駅は昭和4年(1929)11月1日の開業。 駅名は九品仏浄眞寺にちなんだもの。 島式ホーム1面2線を有する地上駅。、、、、九品仏駅ホームの両端には踏切があり、4両分の長さしかないホームは延伸できず、停車する電車は二子玉川寄り1両のドアを開けることが出来ず、ドアカットが行われている。 東急では唯一、ドアカットが行われてる駅。、、、、中高年の降車客が多いと思ったら、皆、私と心は同じ浄眞寺に紅葉狩り!
● すでに、過去2回参拝しており、浄眞寺の詳細はコチラを見てね!→→→ 夏の浄眞寺(2015年撮影) 秋の浄眞寺(2018年撮影)
・・・・・・・・・・ 浄土宗寺院の浄真寺は、九品山唯在念佛院と号す。 九品仏浄真寺は、越後国村上泰叟寺の珂碩上人(元禄7年1694年寂)を請うて延宝6年(1678)当地に創建した。 三仏堂が三宇あり、中央の堂に上品上生・上品中生・上品下生、北の堂に中品上生・中品中生・中品下生、南の堂に下品上生・下品中生・下品下生の計九品の阿弥陀如来像が納められ、九品仏として著名。、、、、浄真寺の地は、もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城であった。 小田原征伐後は廃城となった。
・・・・・・・・・・ 参道から仁王門へ、、、、都心の秋(チョイト寒かった)を満喫
・・・・・・・・・・ 新築なった閻魔堂
・・・・・・・・・・ 本堂
・・・・・・・・・・ 三棟並ぶ三仏堂
● お帰りは自由が丘から電車に乗って・・・・・
上野の病院で定期検診後、駅をブラブラ。 上野駅には“パンダの像”、“翼の像”など、いろいろある。
● 上野駅正面の昭和通りに架かるペデストリアンデッキから駅を眺めると、目の高さが駅の3階と同じ高さ。 建物を見下ろす感じだ! 日本中で知らない人はいないと思う、北の玄関口「上野駅」 見慣れた風景だが、よくよく見れば『こんなに小さかったのか!』、、、、周囲の大きな建物に囲まれ、3階建て(?)駅舎は小さく見える。 バブルの頃に騒いでいた上野駅の建て替え計画もいつの間にか消えたみたいだ、、、、 ペデストリアンデッキ上のオレンジ色のモニュメントの方が上野駅より目立つね!
● 正面玄関口に設置された案内板には、現駅舎の写真と説明文があった。 説明文は、『上野駅三代目駅舎 関東大震災(1923年・大正12年)にて二代目の駅舎や主要な建物は破壊・焼失してしまいました。同年より仮駅舎にて営業し、その復興に力を注ぎ正面玄関口・広小路口駅舎は1932年(昭和7年)に三代目として完成した駅舎です。 建設当時は、正面口が二階構造になっており、上層は乗車口で自動車から降りて直接駅に入ることができました。下層は降車口で改札をでて大階段で地下へ降り降車口から自動車に乗ることができました。 乗車客と降車客の動線が分離された構造の駅舎でした。』、、、、三代目の駅舎は昭和7年(1932)竣工、鉄道省(酒見佐市)設計、鹿島組(現:鹿島建設)施工
● ペデストリアンデッキから、さらに上に向かう階段がある。 階段を上ると、駅の上には「パンダ橋」が架かっている。 この橋は駅舎、高架ホームの屋根より高い位置にあり、上野駅を跨ぐように造られている。 橋の下には12本の線路とホームがある。 この橋は駅のある台東区が、国と都の支援で架けたもので、駅東側の住民が災害時に西側の上野公園に避難できるようにする橋だ! 避難橋であるため、橋の幅は約22mと広く、橋上には避難のジャマにならぬよう何もない(屋根もない)、、、、私は台東区浅草橋に住んでおり、避難場所は上野公園となっている。 イザという時、お世話になるかも?
● パンダ橋には、上野駅「パンダ橋口」がある。 入り口脇には、ガラスケースに入った親子のパンダ像がある。、、、、待ち合わせ場所としてパンダ像を置いたのか? それにしては、通行量の少ない出入口だ! 動物園・美術館・博物館に向かう多くの人は、「公園口」が便利で実際に利用する人も多い。 待ち合わせには公園口の方がbestだ!、、、なぜか、パンダ像の親子が寂しそうだ!
● ペデストリアンデッキから上野駅の3階に入る。 3階の飲食店街を抜け、正面玄関の吹き抜け上部にある回廊に出る。 下には正面玄関からつながる鉄骨三角屋根の「グランドコンコース」がある。、、、、グランドコンコースは上野駅で一番上野駅らしい処。 かつて、年末になると北へ帰る大勢の人が、ココで改札上に垂れ下がった列車案内板を見て、発着番線を確認しながら改札を通ってホームに向かった。
● グランドコンコースには、切符売り場の前に朝倉文夫作の「翼の像」がある。 コンコース内の待ち合わせ場所として有名な銅像だ。
● グランドコンコース内の券売機上にある、ステンドグラスは平山郁夫原画・制作の「ふる里日本の華」(昭和60年(1985))、、、、東北上越新幹線上野駅開業を記念して制作された。
● 中央改札の上にある三角形の壁画は、昭和26年(1951)描かれた猪熊弦一郎作の壁画「自由」である。 上野駅を代表する壁画だ!
● 中央改札から中に入ると、16番線の車止め近くに、またまた朝倉文夫作のブロンズ像「三相」がある。 「三相」とは「知・情・意」の意味だそうだ。、、、、3人の女性が、それぞれ知・情・意を表現しているのか? 私には判らぬが、ただただ、じっくり見るばかり。 良いね!、、、、この像は、昭和33年(1958)10月10日に駅開業75周年記念式に列席した朝倉文夫が、自身の誕生(明治16年)と駅の開設が同じと知り、台東区を通じて上野駅に寄贈したものである。
● 15番線車止めの前に『ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく』 東京で暮らしていた石川啄木が故郷の岩手県の方言が懐かしくて、岩手の方言を話す声が聞こえないか、と停車場(上野駅)の人混みに出掛けた、という歌。 現在の15番線は高崎線・宇都宮線が発着するホーム。、、、、上野発着の長距離列車も少なくなり「北の玄関口」も変わってきたね!
● 上野駅「広小路口」の前に、昭和39年(1964)に大ヒットした井沢八郎が歌った歌謡曲「あゝ上野駅」の歌碑がある。 高度成長期の昭和30~40年代、金の卵と呼ばれた若者達が地方から就職列車に乗って上野駅18番線ホームに降り立った。 戦後、日本発展の大原動力となった集団就職。 親もとを離れ、故郷を離れ、不安を抱き、夢に向かって必死に生きてきた若者への応援歌である、、、、♪♪ どこかに故郷の香りをのせて 入る列車のなつかしさ 上野は俺らの心の駅だ くじけちゃならない人生が あの日ここから始まった ♪♪ 、、、、いい歌だ!