両国ブラブラ
我が家(浅草橋)から両国橋を渡り、国道14号(京葉道路)の南側をブラブラ歩き錦糸町駅まで、1万2千歩の散歩です。
● 今朝はこの冬一番の寒さ、午前8時の気温は2.5℃。 『チョイト、散歩してくる』と言い残し家を出たが、“寒~い”、遠出は避けて近場で手打ち!、、、、今日は浅草橋駅から電車に乗らず、浅草橋・両国橋を渡り隅田川を越えて両国の町に入る。 今日の散歩は“両国の町”にしよう。
● 両国橋東詰(墨田区両国)に、赤穂浪士の俳人:大高源吾の句碑と、大きな日露戦争時の忠魂碑がある。
・・・・・・・・・・ 向島の俳諧師:宝井其角の弟子であった赤穂浪士の一人:大高源吾の句 「日の恩やたちまちくだく厚氷」の碑。 この句は討ち入りの夜、師匠宝井其角に両国橋で出会い詠んだものといわれている。 碑は昭和3年(1928)に作られたそうだ、、、、宝井其角が「年の瀬や水の流れと人の身は」と一句詠み、それに応えて源吾が「明日待たるゝその宝舟」と返す、討ち入り前日の其角と源吾のやり取りは忠臣蔵の名場面だ!の一つになっている。 私の好きな場面でもある。
・・・・・・・・・・ 大高源吾の句碑の後ろにある巨大な忠魂碑。 これは、明治37年・38年の戦役での戦病死者、すなわち日露戦争で出征し、護国の為に身命を捧げた英霊に、陸軍元帥大山巌(旧薩摩藩士、満州軍総司令官)筆による表忠碑。 明治40年(1907)の建立。、、、、大きく、立派な碑だ。
● 両国橋東詰の老舗:イノシシ料理の「もゝんじや」は、享保3年(1718)の創業という。 この両国界隈は江戸の頃より軍鶏や獣肉の店で知られていた。 イノシシ料理の店は「山くじら」という看板を出していた。 獣肉は御法度だったので、“山の鯨だ”と言って商売していたという。 店先に本物のイノシシが吊るしてあることもあった。、、、、只今、店主が病気で休業中。 早く完治し店を再開させて欲しいね!
● 「もゝんじゃ」の斜め横に建つ、年代はよくわからないがレトロな建物は鉄工関係の「岡田商会」、、、、大正ロマンや昭和モダンあふれる建物で、屋内の電灯もまた、その雰囲気をかもしだしている。(今日は土曜でお休みか?暗いね! 電灯が灯る5年前の写真を添付)
● 「もゝんじゃ」から南へ150m程、相撲の春日野部屋がある。 本日玄関も閉まり、力士も外に出ていない。
● 国道に出ると回向院(墨田区両国2)がある。、、、、回向院の正称は諸宗山無縁寺回向院。 振袖火事と呼ばれる明暦の大火(1657年(明暦3年))の焼死者10万8千人を将軍徳川家綱の命によって葬った万人塚が始まり。 後に安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。 あらゆる人、動物、生あるものを供養するという理念から、犬猫などの墓も多数ある。 著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などの墓もある。、、、、参拝客のために両国橋が架けられた天明元年(1781)以降には、境内で勧進相撲が興行された。 これが今日の大相撲の起源となり、明治42年(1909)旧両国国技館が境内に建てられるに至った。昭和11年(1936)には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した。
・・・・・・・・・・ 鼠小僧次郎吉の墓と力塚
● 両国3丁目19番の京葉道路に面した歩道角に、「本所松坂町址」の碑が建っている。 もともとこの周辺は、本所松坂町と呼ばれていたが、関東大震災後の区画整理により町名が変更された。 碑は、赤穂浪士が討ち入った吉良邸があったこの地「松坂町」を偲んで、昭和7年6月に建立された。、、、、吉良邸はここ本所松坂町1、2丁目(現:両国2、3丁目)にあり、約8,400㎡を占める広大な屋敷だった。
・・・・・・・・・・ 本所松坂町跡の碑を前にして、右に曲がって行くと、なまこ壁で囲まれた小さな本所松坂町公園(吉良邸跡)がある。、、、、吉良上野介の屋敷は、はじめ鍛冶橋(現:中央区)の屋敷を拝領していたが、刃傷事件のあと、赤穂浪士が吉良屋敷に討入るという噂があり、周囲の大名屋敷から苦情が出て、元禄14年8月御用地として幕府に召し上げられ、一時、子の上杉弾正大弼の屋敷に身を寄せ、その後、同年9月、ここ本所松坂町の松平登之助の屋敷を拝領し移り住んだ。 この吉良邸は、広大で東西約132m、南北約62m、約8,400㎡(2,550坪)の広大な敷地であった。 討ち入り後の吉良邸は、元禄16年2月4日に没収されたそうだ。、、、、現在の「吉良邸跡」として残る本所松坂町公園は、29.5坪(約98㎡)で、当時の86分の1に過ぎない。 これは昭和9年(1934)地元両国3丁目町会有志が発起人となって、邸内の「吉良公 御首級(みしるし)洗い井戸」を中心に土地を購入し、東京市に寄付し、貴重な旧跡が維持された。 昭和25年(1950)に、土地は区に移管された。、、、、小さな公園内には、吉良上野介の座像、御首級洗い井戸などがある。 チョイト小さくて残念だけど、忠臣蔵の話を偲ぶ上では貴重なものだ!
● 両国小学校(両国4)の敷地の角に、「芥川龍之介文学碑」と「駆逐艦「不知火」の錨」がある。
・・・・・・・・・・ 両国小学校の創立百十五周年を記念して建てられた文学碑で、碑面には童話雑誌「赤い鳥」で発表された小説「杜子春」の一節が刻まれています。 芥川龍之介は明治25年(1832)年に東京市京橋区(現:中央区)で生まれた。 家庭の事情によって幼くして母の実家の芥川家に預けられた。 現在の墨田区両国にある芥川家は代々、江戸城の御数寄屋衆を勤めた旧家である。 龍之介が幼少の頃を過ごした墨田区両国(本所松坂町址の碑の道路向かい側)に「芥川龍之介生育の地」の碑が立っている。、、、、小学校とは無関係?
・・・・・・・・・・ 芥川龍之介文学碑の隣りには、駆逐艦「不知火(しらぬい)」の錨がある。、、、、駆逐艦「不知火」は明治32年(1899)、イギリスのソーニクロフト社で竣工し、明治33年(1900)に軍艦に編入された。 明治37年(1904)に日露戦争が始まり、旅順口攻撃、黄海海戦、日本海海戦、樺太の戦いなどに参戦する。 その後は第一線を退き、特務艇(掃海艇)として活躍したが、大正14年(1925)に廃船となる。 この錨は廃船の解体作業を行った、鉄鋼業者(岡田商会)が昭和の初年に江東(現両国)小学校に寄贈したもの。
● 両国小学校の東隣りに両国公園がある。 この地は勝海舟誕生地である。、、、、江戸城無血開城、咸臨丸による米国訪問で、知らない人はいない維新の英傑、勝海舟は、文政6年(1823)父方の実家男谷家(現:両国公園)で生まれた。 青年期までを墨田の地で過ごし、学問や剣術の修行に励んだそうだ。、、、、公園内には、「勝海舟生誕之地」の碑が建てられ、誰も座っていない椅子と刀が置かれてる。 椅子に座って記念撮影!
● 再び国道(京葉道路)に出て、江東橋を渡る。、、、、大横川に架かる江東橋は明治31年(1898)創架で、現在の橋は平成7年(1995)に架け替えられた比較的新しい橋だ。 江東橋は、西岸の墨田区緑四丁目と東岸の墨田区江東橋一丁目を結ぶ。
● 江東橋の東詰めに、都立両国高等学校がある。 “両国”の名がつくが、最寄り駅としては“錦糸町”の方が近い。、、、、現在は、附属中学校があり、高い難易度の中高一貫校として、大学進学率もトップクラスを誇る!、、、、芥川龍之介も当校の出身である。
・・・・・・・・・・ 両国高校のフェンスの内側に、「国産マッチ発祥の地」と刻まれた 黒御影石の記念碑が建っている。 石川県金沢出身の 清水誠が設立した日本最初のマッチ製造企業である新燧社の敷地がほぼ当校に当たることから、昭和61年(1986)に校庭に建立された記念碑だ。 碑には 当時の新燧社のマッチ箱ラベルも描かれている。
● 錦糸町駅にきた!、、、、錦糸町駅は明治27年(1894)12月9日、総武鉄道の本所駅として開業。 明治40年(1907)国有化される。、、、、島式ホーム2面4線の高架駅である。 令和4年度(2022)の1日平均乗車人員は87,590人である。 墨東の中心的な駅。 駅周辺は歓楽街として栄えてる。 飲む、打つ、買う全て揃っている!
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