« 2023年12月 | トップページ | 2024年2月 »

2024年1月

2024年1月31日 (水)

梅は咲いたか

京成曳舟駅から墨田区京島・文花、江東区亀戸の町を歩き亀戸駅まで、1万歩の散歩です。




● 我が家のある浅草橋駅から都営浅草線に乗り5駅目(駅から駅まで約10分)、スカイツリーのある押上駅の次が京成曳舟駅。、、、、京成曳舟駅は平成25年(2013)頃までは地上駅であったが、平成27年(2015)には上下線の高架化が完了した。 高架化後は相対式ホーム2面2線を有する高架駅となり、駅前のロータリーも整備され、周囲には数棟のタワマンも建ち並んでる。 1日平均乗降人員は約18,000人で、大きな駅ではないが、“やぼったい京成らしさ”が抜け落ち、明るいスマートな駅に変わった。

2401310804460

2401310803080

2401310810540

2401310811090

2401310811530




● 駅前から南に歩く。 駅の南に広がる京島地区は、第二次世界大戦による戦災から免れた地域で、戦後は緊急車両も通れない木造密集地区として重点的に整備が行われてる。、、、、京島地区には大正時代からの昭和初期の長屋などが現存し、古い家屋と町工場が混在し、東京でも下町の古い街並みが色濃く残っている地域である。 一方で狭い路地による車の通行の問題や、大規模地震などの災害時の対策も課題となっていた。 最近では、整備の効果が徐々に出始めており、救急車、消防車が通れなかった道も幅を広げ、少しづつ通れるようになってきた。 古い木造住宅は耐火建築に建て替えが進んでる。 小道の要所要所(小公園など)には、消防用の貯水槽、ポンプも設置されてる。

2401310819190

2401310819370

2401310822140

2401310825450

2401310832320

2401310832440

2401310834310

2401310835010




● 京島地区を抜け向島警察署を過ぎると、東武亀戸線小村井(おむらい)駅がある。 駅前の踏切を渡り、墨田区文花2丁目に入る。

2401310852590

2401310853340




● 小村井駅の南西200m程の処に、旧小村井村の鎮守で、平安時代末期、下総国香取郡から開拓のために移住してきた6軒の人々が香取神宮の御分霊を勧請したと言われてる、小村井香取神社がある。、、、、現社殿は昭和29年(1954)の建立で、本殿は流れ造り、拝殿は入母屋造りの総檜造りである。、、、、
江戸時代、当社の東側には江戸近郊の梅の名所として知られた小村井梅園があった。「梅屋敷」と呼ばれた敷地は約3千3百坪で、築山・池・多数の名石を組んだ庭園に紅梅白梅が咲き乱れ、毎年梅の盛りには将軍の御成りもあったそうだ。 しかし残念なことに明治43年(1910)の大水で廃園となった。 平成6年(1994)には、境内に「香梅園」が開設された。 梅の季節には80余種・約120本の梅が咲き、梅祭りが開催される予定だ! 今日、境内の梅は既に開花してた! 来週あたりは見ごろかも?

2401310911350

2401310907560

2401310910170

2401310909050




● 小村井香取神社の斜め向かいに「都営文花一丁目第二アパート」がある。 昭和47年(1972)に建てられた、12階建て、235戸が入る大きなアパート。、、、、チョイト最上階から、青空に伸びるスカイツリーに向かってパチリ! 

2401310924500

2401310919369_stitch




● 小村井香取神社から300m程歩くと北十間川が流れてる。 この川を越えると墨田区文花から江東区亀戸に入る。

2401310930540




● 亀戸天神はまたの機会として、今日は亀戸香取神社に寄って行く。、、、、由緒では、『その昔、亀戸は亀の形をした小さな島で、亀島とか亀津島と呼ばれていたという。 社伝によれば、天智天皇4年(665)藤原鎌足が東国へ降った際、この島に香取大神を勧請し、太刀一振りを奉納して旅の安全を祈願した。これが当社の起源であるという。 承平天慶の乱に際し、平将門の追討に向かった藤原秀郷は、戦勝祈願のために当社に参籠した。乱の鎮定後、奉賽として弓矢を奉納し、勝矢と命名した。5月5日に行われる勝矢祭は、この故事に因むものである。このような由緒や武道の神として崇敬された香取大神の神徳に因み、現在ではスポーツ振興の神として広く崇敬を集めているとのことである。 明治5年(1872)村社に列格。昭和20年(1945)空襲で社殿が焼失し、同23年(1948)再建。現在の社殿は同63年(1988)に落成したものである』、、、、池江璃花子、内村航平と書かれた灯篭が参道にあった。 祈願に来たのかな?、、、、亀戸香取神社は桜でも有名な神社だが、『梅は咲いたか 桜はまだっかいな』 『まだまだですよ!』

2401310942250

2401310944390




● 総武線の亀戸駅に到着、、、、今日は歩きやすい陽気だった! まだまだ歩く体力が残ってる!

2401311007390

2401311009520

2024年1月28日 (日)

東京駅八重洲口まで

寒波の影響で連日東京の気温は10℃に達せず、都心(大手町)では今朝9時の気温は7.7℃、外出するのを躊躇(ためら)う寒さだ! 『今日の散歩は、寒いから近場にしよう!』と思い、我が家(浅草橋)から東京駅まで、1万歩の散歩となった。




● 朝8時、浅草橋駅前をスタートする

2401280753550




● 浅草橋駅前の「人形の久月」は、天保6年(1835)創業。 江戸時代からの三階建ての大きな土蔵造りの旧店舗は、昭和51年(1976)に現在のビルに建て替えられたが、正面玄関に掲げられている「久月総本店」の看板は昭和初期に作られたもの。 この看板は、当時蔵前の華徳院(現在の浅草橋2丁目付近にあった、閻魔王を本尊とする寺。 関東大震災後、杉並区松ノ木へ移転)の住職でもあった書家、豊道春海師の揮毫(きごう)によるものだ。、、、、私の知る戦後の久月では、土蔵造りの黒光りした重厚な旧店舗に、この看板が掲げられていた。 まさに江戸時代からの老舗である。 

2401280753240

2401280753119




● 神田川を越えて中央区に入り、中央区日本橋横山町4丁目に「大原第5ビル」がある。 この建物は、昭和4年(1929)、清水組(現:清水建設)の設計施工で竣工した。 現在は、ヘアーサロン、飲食店、ブティックなどが入居しているテナントビルだ。

2401280813090




● 日曜日の朝、人影のない日本橋富沢町。 日本橋富沢町は、寝具メーカーの「西川」など繊維関係の企業が多いビジネス街。

2401280821420



・・・・・・・・・・ 日本橋富沢町の一角に残る国登録有形文化財の旧川崎貯蓄銀行富沢町支店(昭和7年(1932)竣工、3階部分は後に増築)。、、、、現在は「ハリオグラス」の所有となっているが、旧川崎貯蓄銀行富沢町支店→旧常陽銀行東京支店→旧常陽銀行堀留支店→ハリオグラスと変遷した。 外観は、明治から昭和初期にかけて多く見られる銀行建築の建物、西欧古典主義様式によるデザイン。 隅切りされた角に正面玄関を配した設計は、この建物を特徴的なものにしている。

2401280824340

2401280824500




● 日本橋富沢町の隣り、日本橋堀留町に“宝くじの神様”がいる、椙森神社(すぎのもりじんじゃ)がある。、、、、椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれている。 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために伏見稲荷の「伍社の神」を勧請して厚く信仰した神社である。 そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めた。、、、、また、しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当椙森神社の富も人々に人気があった。 早い話、神社で宝くじを発行し、江戸の復興財源とした。 現在でも、“〇〇地震復興宝くじ”などを発売して災害復興支援するのと同じだ。 私も、チョイト協力して宝くじを買わせてもらっているが、チットモ当たらない。 今日も拝殿横にある「富塚」にも手を合わせ、『欲張って10億とはいいません、1億でいいです。 ナニトゾ、ヨロシク』と祈る。

2401280832330

2401280831590

2401280831150




● 椙森神社のある日本橋堀留町も、日本橋富沢町と同じように繊維・衣料関係の企業が並ぶ商業地である。 地名の“堀留”とは、江戸時代に堀留町に日本橋川から舟運物資の荷揚げ用に堀割がつくられたが、町中の先で堀割が行止まりとなっていたことに由来する。 この堀割(東堀留川)は戦後まで残っていたが、昭和20年の終戦を迎え、戦災で被害を受けた東京を復興するため、戦災で発生した残土・ガラ・廃材などを処分する場所として東堀留川が埋め立てられた。 東堀留川の埋立ては昭和23年(1948)から始まり、翌年には完了した。 埋め立てられた跡地は、現在は堀留児童公園として整備されている。、、、、白黒写真は堀留児童公園にある、東堀留川の説明板に表示されてた、昭和23年の東堀留川

2401280838560

2401280840110




本町2丁目交差点昭和通りを越えると、日本橋三越前に出る。

2401280847500



・・・・・・・・・・ 三越本店の建物(国指定重要文化財)は、昭和10年(1935)に完成、ルネッサンス式建築の威容を誇り、当時は国会議事堂、丸ビルに次ぐ大建築物であった。 本館正面玄関には待ち合わせの場所として親しまれる「三越の守護神」とも言うべき「ライオン像」が客を迎える。

2401280854180

2401280855490



・・・・・・・・・・ 三越の隣りには、こちらも国の重要文化財である旧三井本館の建物がある。 この建物は、米国のトローブリッジ&リヴィングストン事務所が設計、ジェームズ・スチュワート社が施工をする形で大正15年(1926)に着工、昭和4年(1929)に竣工した。 完成した建物はアメリカンボザールと呼ばれ、新古典主義様式による鉄骨鉄筋コンクリート造、地上5階(現在は7階)で地下2階という当時では丸ノ内ビルヂングに次ぐ大きなビルであった。、、、、【余談だが】“新NISA”をやるにあたり、銀行発行の書類が必要となり三井住友銀行の浅草橋支店にもらいに行った。 しかし、三井住友銀行浅草橋支店は昨年から、建物とATMだけ浅草橋に残し、店舗の窓口業務はここ三井本館内の日本橋支店で行うことになっていた。 仕方なく、先週、私はこの建物の中にある日本橋支店に初めて入ってきた。 内部は、高い天井と大きな太い柱が並ぶ広い宮殿のような建物で、ビックリ、感動だった。 これからは、家の近くの浅草橋支店はATMだけの扱いとなり、窓口業務は日本橋支店となりチョイト不便になったが、この建物の内部が見られるのは嬉しいね。

2401280853550

2401280857030

2401280857580



・・・・・・・・・・ 三井本館の西隣には日本銀行本館がある。 こちらも国の重要文化財。、、、、明治初期、国家の主要な建築物の設計は、お雇い外国人によって行われていた。 日本銀行は、日本人建築家が設計を手がけた最初の国家的な建物である。 日本銀行の設計を担う辰野金吾は、1年間欧米の銀行建築を視察・調査し、コンドルの師であるロンドンのバージェス事務所で計画案をつくった。 建物は、ベルギー国立銀行を参照したともいわれる。 バロック様式をもちながら迫力に欠けた建物とも評されているが、その理由は、大オーダーや軒高欄などバロック様式の要素をもちながらも、基壇にあたる1階部分が高すぎ、大オーダーが小さく見える点にあるらしい。 だが誰が何と言おうとも日本人が最初に手掛けた近代日本の代表的明治建築である。、、、、建物の諸元は建築年:明治29年(1896)、設計者:辰野金吾、構造:煉瓦造・石造、規模:地下1階・地上3階、、、、内部を見てみたいが、日銀総裁か警備員にならないとダメかも?

2401280858560

2401280900590

2401280905250




● 日本銀行から南へ歩くと、日本橋川に架かる一石橋(いっこくばし) がある。 三週間ほど前に歩いて来た常盤橋の下流側に架かる橋。、、、、江戸時代から存在した橋であるが、大正時代に架けられた石積みの橋も、平成11年(1999)までに現在の2径間連続RC床版鈑桁橋に架け替えられた。 大正時代の橋の面影は現存する親柱だけである。、、、、下流側に架かる日本橋の景観を守るため、一石橋の頭上を走る首都高の撤去工事が始まっていた。 数年後には首都高が無くなった一石橋が見られるかも、生きていたら(?)

2401280916409_stitch



・・・・・・・・・・ 江戸期から明治期にかけて一石橋の付近はかなりの繁華街であり、迷い子が多く出た。 当時は迷い子は地元が責任を持って保護するという決まりがあり、地元西河岸町の人々によって安政4年(1857)に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」が一石橋南詰に建てられた。 しるべの右側には「志(知)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られて、上部に窪みがある。使用法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたという。 この石標と同じようなものが、浅草寺境内や湯島天神境内(奇縁氷人石)に残されている。

2401280914380




● 一石橋から東京駅八重洲口は近い。 白い大きなテントを張った「グランルーフが見えた。

2401280925500

2401280928040

2401280927320



・・・・・・・・・・ 駅前から、日本橋、浅草橋経由、南千住車庫前行きのバスで帰ることにした。 『オヤ? 誰も乗ってない、貸し切りか!』 出発間際に年寄りが一人乗って来た、私と同じ『敬老パス』の利用者だ。

2401280934270

2024年1月24日 (水)

浅草の三十三間堂

日本列島に寒波到来、北陸は大雪、今朝の東京は北風が強く寒い! 遠出は避けて近場の散歩と決めた。 浅草橋の我が家から浅草まで歩いて来た。 9千歩




● 朝7時半過ぎ、運転手不足で1時間当たり4本から3本に減便中のコミニティバスの浅草橋駅北バス停(我が家の最寄りのバス停)前を出発。 外は寒い!

2401240744300




● 近くの鳥越神社に朝の御挨拶。 持ってる小銭の全て17円を賽銭箱に入れ、二礼二拍手一礼して『本日もよろしく!』、、、、風が強い、散歩止めようかと思ったが、行けるとこまで行こう!

2401240752330




● 鳥越神社の先から、浅草方面に伸びる「新堀通り」に入ると。 昭和40年前後(1960~1970)に「JUN」と共に一世を風靡した、ジャケットのブランド「VAN」のロゴが目に入る。 『懐かしいロゴだ!』、当時私は高校生、VANのロゴが付いた服にあこがれた思い出がある。、、、、蔵前4丁目に「VAN SHOP」があった。 早朝で店は閉まっていたが、ガラス越しに見る、アイビールックが懐かしい!(懐かしいけど、70過ぎた今の私には似合わない)

2401240758391




● 「かっぱ橋道具街通り」を歩く。 時刻は朝8時半、まだ多くの店は開いておらず、シャッターが下りたままの道具街。、、、、見るものもなく、つまらないので裏道を歩くことにする。、、、、相変わらず、北風は強く寒い! 日差しが欲しい!

2401240820390

2401240825010

2401240826050




地下鉄銀座線稲荷町駅と田原町駅の中程(台東区松が谷1)に、曹洞宗萬年山祝言寺(しゅうげんじ)がある。 太田道灌が室町時代に建立したと言われている祝言寺は、祝言村(現在の日比谷あたり)に建てたが、徳川幕府は江戸城の拡張により祝言寺を含め複数の寺を移転させ、現在の地に移った。 寺は、振袖火事、震災、戦災などで被災し、記録・遺物など一切残っていないようだ。、、、、現在の祝言寺の本堂は、昭和60年(1985)に竣工した(設計は内井昭蔵、施工は大成建設) 渋い黒を基調に繊細なデザインと丁寧な仕上げによる、落ち着いた感じの建物。、、、、また、山門と永代供養塔は平成18年(2006)の竣工(設計はテツク建築設計事務所、施工は大成建設) 特殊な形状のボーダータイルは、燻したような光沢が印象的で、重厚で格調高い雰囲気を演出している。、、、、私の好きな寺院建築の一つ

2401240836000

2401240836230

2401240839230

2401240840180




● 祝言寺の北、台東区松が谷2に矢先稲荷神社がある。、、、、寛永19年(1642)、時の三代将軍徳川家光は京都の三十三間堂にならって、国家の安泰と市民の安全祈願ならびに武道の練成のために、江戸浅草のこの地に三十三間堂を建立した。 三十三間堂では弓の射技練成のために「通し矢」が行われた。 矢先稲荷神社は、この三十三間堂の守護神として祀られた稲荷大明神を起源とする。 浅草の三十三間堂は、元禄11年(1698)の大火後に深川へ移転するが、稲荷大明神は当地に残った。 神社は三十三間堂(弓矢の練成道場)の由来から、矢先稲荷神社と称した。、、、、矢先稲荷神社は、その後も関東大震災、東京大空襲などで幾多の困難に遭うが、いずれも難をくぐりぬけて現在に至る。 昭和20年(1945)3月9日の空襲では神輿庫を残し焼失する。 戦後早々に仮殿にて復興後、昭和35年(1960)に鉄筋コンクリート造の現社殿が再建された。、、、、浅草に三十三間堂があったことを知る人は少ないと思うね。 聞いてビックリ、知ってドッキリ、忘れてサッパリ!

2401240855520

2401240853380

2401240852240




● 北風ビュンビュン、寒さは変わらず、『もう今日の散歩は止めた、観音様に手を合わせて帰ろう!』

2401240925090

2024年1月19日 (金)

船堀から新小岩

都営新宿線の船堀駅から、総武線の新小岩駅まで、1万2千歩の散歩です。




● 都営新宿線の船堀駅は、東大島駅からの延伸に伴い終着駅として、昭和58年(1983)12月23日に開業した。 駅は相対式ホーム2面2線の高架駅。 令和4年の1日平均乗降人員は約54,000人 、、、、駅舎の壁面には大きな金魚が描かれているが、船堀駅周辺は金魚の養殖が盛んな地であった。 駅が開業した昭和50年代には、周辺に養殖業者が20軒ほどあった。 今は都内でも、養殖業者は2軒だけになったそうだ。 50年歳月は都会の環境を大きく変えていくね!

2401190821090

2401190821290

2401190824210

2401190825380

2401190828020




● 船堀駅の正面に「タワーホール船堀(タワーホールふなぼり)」(別称:江戸川区総合区民ホール)がある。 高さ115m、展望台は103mのタワーがある区民ホールである。 タワー下のビルの中には、大ホールをはじめ、17室の会議室や映画館、結婚式場などもある。、、、、展望台は9時から上れるが、時刻は今8時半、またの機会に上ることにした。、、、、ホールの内部は吹き抜けのある洒落た造りとなっている。

2401190827250

2401190830460




● 船堀駅前の大通り「船堀街道」を北へ歩くと、新小岩駅に行くことができる。 

2401190837480

2401190840500



・・・・・・・・・・ 道なりにストレートに歩くと、約4.2㎞で新小岩駅に着くのだが、私は船堀街道の西側の裏通りを歩いて新小岩駅に向かうことにした。




● 東小松川4丁目に「渡し場 水神宮」がある。、、、、当地区は昔は低湿地帯であったので、洪水に悩まされていたため洪水除けの神として、さらに川を交通の場として利用していたので水難除けの神として祀られていた。 旧東小松川村には、上之庭、新道、中之庭、入之庭、大江川、渡し場、品清の集落があり、それぞれに水神様が祀られていたそうだ。 (竜神様(水神宮)の脇に観音堂が建てられ観音様が祀られているが、その由緒は不明)

2401190853270




● 東小松川、迷路のように曲がりくねった住宅地の裏道を歩く。、、、、おや、色褪せた文字で「たばこ」の看板が見える。 廃業したタバコ屋さんだが、なんとなく“昭和の匂い”だ! 向かいの家の角には、錆びてきた「ファミリープラン」の自販機が置かれ、“昭和”にワンポイント添えている。 

2401190856200

2401190900290

2401190908000

2401190908270




● 東小松川2丁目に、真言宗豊山派寺院の無量山 光明院 永福寺がある。 本尊は行基作と伝えられる木造阿弥陀如来坐像。 開基年月は不詳だが、開山の宥賢上人は永禄11年(1568)正月15日に入寂した。 はじめは長福寺と称したが、九代将軍家重の幼名長福丸をはばかって永福寺と改称した。、、、、綺麗に手入れされた参道をとおり、木立の奥に本堂がある。 癒される寺だ!

2401190920440

2401190915500
2401190919130
2401190920360




● 永福寺の西側から「小松川境川親水公園」を歩く。 江戸川区内の親水公園は、どこも地元の方が清掃・整備し、いつ歩いても、ペットボトル、空缶、ポリ袋などゴミのない公園として維持されてる。 今日も、数名の方が川筋の笹を刈って、整備されていた。(いつも綺麗にしていただき、ありがとうございます!) 首都高下のトンネルもご覧のとおり、ゴミが1つも落ちておらず、気持ちよく歩けるように清掃されていた。

2401190931400

2401190942210

2401190935340

2401190933430




● 親水公園をとおり抜け、松島2丁目の「五分一通り」の一画に「五分一橋跡」がある。 “五分一(ごぶいち)”とは(?)、チョイト気になるネーミングなので、地名の由来について調べてみたが、結論は不明。、、、、江戸時代から五分一橋は既に架けられていたらしい。 この地は、江戸と下総佐倉を結ぶ元佐倉道の要衝にあり、古くから賑わっていたそうだ。 昭和5年(1930)に、五分一橋は鉄筋コンクリート橋に架け替えられた。 昭和57年(1982)には、下に流れていた川が埋め立てられ、五分一橋の使命も終えた。、、、、今は五分一橋の親柱が残るのみ。

2401191000040




● 江戸川区松島の町の北に、江戸川区と葛飾区にまたがる「ルミエール」商店街のアーケードがある。、、、、ルミエール商店街はJR新小岩駅の南口正面に出る、全長約420m、約140店舗の専門店が軒を連ねる東京・下町の超元気な商店街。 昭和34年(1959)に設置されたアーケードは葛飾区内で初めてのもの。、、、、時刻は10時過ぎ、すでに店を開けた商店もある。 この時間帯は中高年の客が中心のなのか、年寄りが目立つね!

2401191014160

2401191015440

2401191022030




● 総武線の新小岩駅に着いた、ここから我が家(浅草橋)までは15分。 今日は、チョイト疲れたね!

2401191023050

2401191031320

2024年1月18日 (木)

遅めの初詣

夫婦で昨年末から風邪をひき、私は5日には快復したが、妻は長引いて三週間目にやっと快復したようだ。 この間、二人での外出も避けてきた。 今日は散歩を兼ねて二人で初詣。 初詣は西新井大師に行くことにした。(妻は、参拝後の美味しい食事を楽しみに!) 

西新井大師・・・・・西新井大師は五智山遍照院總持寺(ごちさん へんじょういん そうじじ)といい、真言宗豊山派の寺院である。 西新井大師総持寺は、826年弘法大師が創建したと伝えられ、本堂の西側に加持水の井戸があったことから当地周辺が西新井と呼ばれるようになったといわれてる。 慶安元年(1648)寺領25石の御朱印状を拝領、近郷に数多くの末寺・門徒寺を擁する中本寺格の寺院だった。 川崎大師平間寺、観福寺大師堂(前橋厄除大師)と共に関東三大師の一つである。




● 浅草橋の我が家から、浅草橋→押上→西新井→大師前と乗り継いで、約30分で東武大師線大師前駅に到着。(意外と近いものだ!)、、、、もう松の内も終わり、電車もガラガラと思って来たが、二両編成の電車の座席がチョウド埋まるほどの混雑度であった。 客は中高年が多いね!

2401181036580

2401181035190

2401181034300




● 西新井大師は駅のスグ前。 西新井大師はまだ“初詣”の態勢で営業中。 正月飾りもある、大きな賽銭箱もある、護摩祈願も受け付けてる、露店も出ている、まさにチョイト遅めの初詣となった。、、、、年の始めで、まずは家内安全、身体堅固を祈願。 ついでに、宝くじ当選も祈願。、、、、今日は、近隣の爺さん、婆さんと、中高年ばかりが目に入る。 浅草の浅草寺のように、若い娘や外人さんの姿は無く、遠方からの観光客はいないようだ、チョイト華やかさに欠け、つまらないね!

2401181044200

2401181047090

2401181050440

2401181049350

2401181055150

2401181053010

2401181054350

 

・・・・・・・・・・ 境内のウメが咲き始めた!

2401181107510

 

・・・・・・・・・・ 参拝も終わり、参道を戻る。 門前の草だんごに行列。

2401181118060

2401181112540




● 帰りは尾久橋通りの西新井大師西駅(日暮里舎人ライナー)から乗車。、、、、今年初めて、夫婦での外食は懐石料理でスタート。(食べることは忘れない!)

2401181244010

2401181244310

2024年1月15日 (月)

寒~い! 五反野~六町

テレビの天気予報では、青空を背景にスカイツリーが映ってる、予想気温は11℃と表示。 風の予報は見過ごして、『今日は散歩日和かも』と、勝手に思いこみ散歩に出る。、、、、家を出ると北風が強い! 寒い! あわてて、地下鉄駅に向かう。 地下ホームは風も吹かず暖かく、外は寒いということを忘れ、路線図みながら『今日はどこの駅で降りようか?』 特段の思い、考えもなく、ただただ何となく『五反野で降りよう』と決めた。

今日の散歩は、東武伊勢崎線の五反野駅から適当に歩いて、つくばエキスプレスの六町駅まで、1万歩の歩き。




● 浅草から東武伊勢崎線に乗って、北千住駅の次は東京拘置所のある小菅(こすげ)駅、その小菅駅の次が五反野(ごたんの)駅。 知名度は低く、五反野を五反田(品川区)と間違える人もいる、五反田を五反野と間違える人はいない。 五反野駅の1日平均乗降人員は約35,000人ぐらいで、普通列車しか停まらない駅。 駅前には“銀座”と名乗る、「五反野駅前通り銀座会」という商店街がある。、、、、五反野駅の開業は大正13年(1924)10月1日と古い。、、、、昭和40年頃までは、五反野北町(現:青井、弘道)、五反野南町(現:足立)があったが、現在は“五反野”の地名は無くなり、駅名に“五反野”が残るのみ。 ちなみに、小学校名も平成25年(2013)までは“五反野小学校”が存在していたが、現在は小学校の統廃合で足立小学校と名を変えてしまった。 地元出身の方は、チョイト寂しいね!

2401150829040

2401150833460

2401150835110



・・・・・・・・・・ 駅前の「五反野駅前通り銀座会」商店街、、、、昭和40年代前半に、駅前通りに沿って存在していた用水路(俗称:どぶ川)が暗渠化され、駅前道路周辺に商店も増え昭和45年(1970)に商店会が発足した。、、、、駅に向かう人も風で寒そうだ!

2401150838360

2401150847280




● 五反野駅前通り銀座会商店街の北端は、六叉路の「四家(よつや)交差点」、、、、弘道1丁目と中央本町2丁目・3丁目と青井1丁目・2丁目が接する交差点で、6か所の信号が混乱なく点滅する六叉路だ。 パノラマ写真で撮影したが6本の道路、判るかな?

24011508525699_stitch



・・・・・・・・・・ 四家交差点の “四家”とは、江戸時代この地域に住んでいた四家族、鶴飼、市川、高橋(兄弟)からついたと言われている。




● 四家交差点から東へ300m歩くと、足立区立第十一中学校がある。 その敷地の角(弘道1-39-8)に、小さな地蔵堂がある。 左側の駒型庚申塔は宝暦8年(1758)の庚申講中による造立。 右側の舟型の地蔵菩薩像は古く寛文11年(1671)の造立。、、、、260年前の庚申塔と350年前の地蔵尊、長い年月を経たが、ともに彫の劣化が少なく保存状態良好である。

2401150902160

2401150901570




● 第十一中学校の正門前の裏道を北に歩いて行くと、住宅地の奥に「四ツ家稲荷神社」(青井2-15)がある。、、、、四ツ家稲荷神社の祭神は、宇迦之御魂命と徳川家康です。 江戸時代から四ツ家のある次郎左衛門新田には、東の宮と西の宮の二つの稲荷社があった。 東の宮は青井3-18付近にあったそうだが、近代になって、1村1社政策が進められ、現在地にあった西の宮に東の宮が合祀された。 その際、四家の一つ鵜飼家の屋敷神だった徳川家康(権現さま)も合祀されたと言われてる。、、、、タヌキ(家康)とキツネ(稲荷)を祀る神社。 蕎麦屋には御利益ありそうだ!

2401150908070

2401150908350




● 青井2丁目から青井1丁目の裏道を歩いていると、駐車場の奥に社殿の屋根が見えた。 チョイト、寄って行こう!

2401150919350



・・・・・・・・・・ 青井1丁目、住宅地の奥にひっそりと祀られている愛宕神社、、、、祭神は、火の神である火産霊命、水の神で安産の神でもある罔象女命、戦の神である日本武尊の三神。 元々は旧家の屋敷神だったそうだ。 神社の例大祭は秋の「彼岸の中日」という珍しい神社だ。

2401150922340

2401150923510




● 雲は北風で吹っ飛び、空は真っ青! 風で帽子が吹き飛ばされそうだ! 手で押さえながら環七通りを横断する。 冷たい風が頬にあたる、寒いね! 

2401150934050

・・・・・・・・・・ バス通りを歩き、つくばエキスプレスの六町駅に向かう。 寒くてバスに乗ろうと思ったが、バス停が判らず諦めた!

2401150937110




六町駅に着いた。 今日は早く帰りた~い!、、、、六町駅は地下駅なので、駅の中は暖か~い!

2401151001480

2401151004440

2401151014420

2024年1月10日 (水)

十日えびす

朝食を食べながら『天気もよさそうだ、散歩してくる』 妻から『どこへ行くの?』 行く処あて無し。 壁に下がった日めくりカレンダーを見る『今日は10日か?』 頭の中で連想ゲーム開始。 10日→10日えびす→今宮戎神社→可愛い福娘(邪念が入った) もう一度! 10日→10日えびす→恵比寿駅→(駅の近くにある)恵比寿神社 『決めた、恵比寿に行ってくる!』

山手線の恵比寿駅から、恵比寿神社へ寄って。 あとは気ままに歩いて、代官山駅、中目黒駅をとおり東横線の祐天寺駅まで、1万1千歩の散歩。

 

恵比寿駅は明治34年(1901)2月25日、ビール出荷専用の日本鉄道の貨物駅として開業。 明治39年(1906)10月30日から旅客営業を開始した。開業二日後の明治39年11月1日に日本鉄道は国有化され、恵比寿駅は国有鉄道の駅となる。、、、、「えびす」という駅名、地名の起源は、全て同じで「恵比寿ビール」に由来する。 かつては、荏原郡三田村という地名であった現在の渋谷区恵比寿には、恵比寿ビールの工場が建設され、その脇には日本鉄道(現:JR山手線)が通っていた。 そこに、出荷用の駅をつくり、恵比寿駅と命名したのが始まりである。 もし、キリンビールの工場だったら“麒麟駅”となっていたかも!、、、、現在の恵比寿駅は、山手線と埼京線・湘南新宿ライン(山手貨物線)でそれぞれ島式ホーム1面2線ずつ、計2面4線の高架駅である。 ホームの上は駅ビル「アトレ恵比寿」となっている。 一日平均乗降客数は約22万人である。

2401100830110

2401100833350

2401100838520




● 恵比寿駅の西、飲食店が並ぶ街の中(渋谷区恵比寿西1)の道路の中央に、今日の散歩の目的地「恵比寿神社」がある。、、、、境内の由緒書では『御祭神 国常立命 豊雲野神 角杙神 意富斗能地神 伊邪那岐命 伊邪那美命 蛭児大神(えびす様)  恵比寿神社は古伝によると景行天皇の時代(約二千年前)古代の英雄・日本武尊が東国平定の折に、この恵比寿の地に憩い、神世七代の中の六天神を祀ったと伝えられています。 その後、土地の民が尊の徳を称え、天津神社(大六天様)と称して家内安全、無病息災、五穀豊穣の神々として広く住民に崇め祭られて参りました。 戦後、区画整理により記念事業として現在地に社殿を新築し、これを契機に昭和三十四年恵比寿という地名に因んで、兵庫県西宮神社より商売繁昌縁結びの神である えびす様を合祀し、社名を恵比須神社に改めました。・・・(略)』、、、、今日は“十日えびす”の日。 ここでも、今宮戎神社(大阪)と同じように、福娘の巫女さんが、♪♪ 年の初めのえべっさん 商売繁盛でビール飲んでこい ♪♪、と掛け声だして祭礼が行われてると期待して来た。 ところがドッコイ、神社の境内に人影はなく、どうやら何もないようだ。 チョイト拍子抜けしたね!

2401100845450

2401100848440




● 恵比寿神社に参った後は、足の向くまま、気の向くままに、裏道をブラブラ。、、、、裏通りの坂道沿いに渋谷区立長谷戸(ながやと)小学校の正門がある。 正門わきに「夕やけこやけの碑」があった。、、、、童謡「夕焼小焼」を作曲した草川信は、音楽学校を卒業したばかりの大正6年(1917)に長谷戸小学校の音楽教師として着任し、以後昭和2年(1927)まで勤務したそうだ。 草川は長谷戸小学校在職中に数々の愛唱歌を作曲したので、昭和63年(1988)に長谷戸小学校創立75周年を記念して碑が建てられた。、、、、主な作品(私が知ってる作品)は、「ゆりかごの唄」(北原白秋作詞)、「夕焼小焼」(中村雨紅作詞)、「春のうた」(野口雨情作詞)、「どこかで春が」(百田宗治作詞)など。

2401100853470

2401100852420




● 東横線の代官山駅(だいかんやまえき)があった。 当駅は、昭和2年(1927)に東京横浜電鉄渋谷~丸子多摩川間延伸時に開業した。 中央口は小高い処にある。

2401100903090



・・・・・・・・・・ 代官山はお洒落なファッションの街で、駅周辺にはブティック、カフェ、レストラン、アンティークショップなど、今時の紳士・淑女に好まれそうな店舗が多い。 まだ9時前で、営業している店は無いが、建物を見るだけでも楽しいものだ! 私の住む浅草橋には無い雰囲気の店舗ばかり! 

2401100857150

2401100903440

2401100907030

2401100907190

2401100909280

2401100919080




● 代官山から中目黒駅方向に歩いてくると、近代的なスマートな建物があった。 ナンジャ?、この建物は?、、、、建物は令和元年(2019)に竣工した、東京音楽大学の中目黒・代官山キャンパスであった。 同キャンパスはRC一部SRC造地下1階地上3階建て延べ1万7719㎡。 建物内には、80室以上あるレッスン室、400人を収容できるホール、最新のレコーディングスタジオなどが整備されているらしい。 まさに、代官山や中目黒のシャレた街並みと調和することを意識したデザインである。 設計は日建設計・戸田建設JV、施工は戸田建設。、、、、キャンパス内には学生らしき人影は少なく、正月休みかも? 

2401100924169_stitch

2401100925070

2401100927360

2401100928420




● 花見にはまだまだ早い目黒川を越え、明治通りを渡ると、中目黒駅にでた。

2401100931250

2401100937080

2401100941290




● 中目黒駅から隣の祐天寺駅までは、東横線の高架橋と平行する「目黒銀座商店街」を歩く。 人通りも多く、元気そうな商店街だ!

2401100950340



・・・・・・・・・・ 商店街の中程、銀座通りの中目黒郵便局がある建物(マンション)の一階に大きな布袋様(親子?で二体)が立っている。 はたして、この布袋様は何でここに? 〇〇七福神巡りに組み込まれた一神様でもなさそうだ、謎の布袋様だ!

2401100951370




● 商店街を抜け、高架橋沿いに歩いて、祐天寺駅に到着。、、、、祐天寺駅は、昭和2年(1927)8月28日に開業した東横線の駅。 平成30年(2018)には、新しい駅ビルとなり明るくなった。、、、、特急、通勤特急、急行の優等列車は全て通過する、チョイト悲しい駅。

2401101008250

2401101009330

2401101017560

2024年1月 6日 (土)

浅草橋から皇居まで

大変な幕開けとなった令和6年。 夫婦二人暮らしの我が家では、年末に妻が風邪をひき、老々介護のスタート。 クリスマスには私も風邪をひき、夫婦で咳の音色比べ。 そのまま年を越し、除夜の鐘は布団の中で、ゴホン・ゴホン。 元日、娘夫婦と年始を祝う中、能登半島地震のニュースが飛び込みテレビに釘付け、私の咳は止まった、妻の咳はより悪化。 5日には、朝一で内科に駆け込む妻、またまた一週間分の薬をもらい、ガラガラ声で『まだ治らない!』 

二週間程歩いてなかったので、今日は足慣らし。 我が家(浅草橋)から、江戸通り沿いに歩いて、皇居まで1万4千歩の散歩です。




浅草橋駅前から江戸通り(=国道6号)を日本橋室町方向に歩く。 土曜の朝8時過ぎ、歩く人もまばら。

2401060758000

2401060803070



・・・・・・・・・・ 神田川に架かる浅草橋を渡ると中央区。 中央区の浅草橋交差点角には、年配の方なら見たことがあると思う鷲のマークの「イーグルノート」販売元の建物「イーグルビル」がある。 昭和初期に建てられたらしい?

2401060808300

2401060808500




● 小伝馬町交差点から、一本裏道に入り十思公園(じっしこうえん)周辺の「伝馬町牢屋敷跡」に立ち寄る。、、、、伝馬町牢屋敷は慶長18年(1613)に常盤橋外より小伝馬町へ移転されたもので、明治8年(1875)に市ヶ谷囚獄へ移転までの江戸の牢獄であった。 面積は2600余坪で、現在の大安楽寺、身延別院、十思公園、十思小学校跡などを含む一帯である。 旗本の士用に揚座敷、士分僧侶用に揚屋、一般庶民用に大牢、百姓用に百姓牢、女性用に女牢など、身分を別けて獄舎や拷問蔵などがあったそうだ。 定員は350名程度だが、最大700名を収容できたといわれてる。 牢屋奉行には石出帯刀が世襲した。 安政の大獄(1859)では吉田松陰や橋本左内らが収容されていた。
2401060846350


・・・・・・・・・・ 高野山真言宗の大安楽寺は、明治15年、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かず、大倉喜八郎と安田善次郎が寄進して、受刑者を弔うために創建された。 大安楽寺=“”倉+“”田+“楽寺”  現在の建物は昭和4年(1929)の再建。
2401060835410


・・・・・・・・・・ 十思公園隣りの建物の壁際に「伝馬町牢屋敷石垣遺構」の一部がと逝くように再現されている。 十思公園は、伝馬町牢屋敷の一部があった場所で、実際に発掘調査された結果、石垣等の遺構が発見されている。 大きな石を並んだ石垣跡を見ると、牢屋ではなく、冷え切った監獄のような場所だったと想像できる。 江戸時代には処刑場だけでなく牢屋敷で処刑されることも珍しくなく、吉田松陰もここで処刑されたそうだ。、、、、私の時は、苦痛なくコロリと逝くように電気椅子にして欲しいね!
2401060842480


・・・・・・・・・・ 幕末の長州藩士・吉田松陰は、幕府の条約調印に関して閣老間部詮勝の襲撃を謀ったとして捕らえられ、安政6年(1859)、ここ伝馬町牢屋敷で処刑された。 松陰は、兵学、洋学に通じ、また萩に「松下村塾」を開いたことでも有名で、木戸孝允、前原一誠、高杉晋作、久坂玄瑞、伊東博文、品川弥次郎らをそこから輩出しました。 「吉田松陰終焉之地」の碑がある。

2401060844220


・・・・・・・・・・ 十思公園の隣り(伝馬町牢屋敷の跡)に建てられた旧十思(じっし)小学校の校舎が残っている。、、、、昭和3年(1928)に建てられた関東大震災復興小学校の一つである。 表現主義と呼ばれている、カーブ、円、半円などの形状をデザインした建築様式の建物。
2401060850230



● 中央通りと交差する室町三丁目交差点を過ぎると、「中央区立常盤(ときわ)小学校」がある。、、、、屋上の『祝 常盤小学校開校150周年』、『祝 常盤幼稚園開園127周年』の横断幕が歴史を語ってる。 こちらも、昭和4年(1929)に建て替えられた復興小学校。 十思小学校と同じように、表現主義建築として半円形の窓が特徴的。 両校とも、東京都選定歴史的建造物に指定されている。 震災後の大変な時期であったがあ、中央区・台東区などでは丁寧な設計の建物が多く作られ現存している。、、、、ちなみに、常盤小学校の設立は、明治6年(1863)に日本銀行本店の近くに開校した旧東京市常盤尋常小学校。
2401060913540



● 日本銀行の西側、千代田区大手町と中央区日本橋本石町を結んで、日本橋川に東京最古の橋の常磐橋(ときわばし)がある。、、、、常磐橋は、天正18年(1590)の架橋と言われ東京では最も古い橋のひとつ。 常盤橋門の見附橋として活躍した。 現在の橋は明治10年(1877)に建造された。 橋は老朽化し人道橋となり、車道橋の役割は、常磐橋を挟むように下流側の常盤橋と上流側の新常盤橋に譲った。、、、、【ここでチョイトややっこしい説明】 日本橋川には、“ときわばし”という名の橋が2つ、“しんときわばし”が1つあり、三つの橋が約100m間隔で並んでる。 上流側に新常盤橋、次は歩道橋となった石橋:常磐橋、下流側に関東大震災後に造られた復興橋:常盤橋が存在する。 そして、三橋を区別するため、石橋の方の「」の字は「般」の下に「石」が用いられ、上下流側の二橋は「般」の下に「皿」を用いた「」である。
2401060936200
2401060933500
2401060930530
2401060927300
2401060932020


・・・・・・・・・・ 常盤橋は常磐橋(石橋)のやや下流に、昭和元年(1926)、関東大震災の復興計画の一環として新たに架けられた橋。
2401060937030


・・・・・・・・・・ 新常盤橋は常磐橋の上流側に、大正9年(1920)、路面電車の開通に合わせて架けられた、コンクリート製の3連アーチ橋であった。 昭和63年(1988)に解体して架け替え、全長39.35m、全幅27.00mの鋼製桁橋。
2401060924410


・・・・・・・・・・ 昭和元年に架けられた常盤橋の千代田区大手町側の橋詰に、小さな常盤橋公園がある。 公園は江戸時代に枡形の城門である常盤橋門があったところで、明治8年(1875)に財団法人渋沢青淵翁記念会(渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われ、東京市の公園として公開された。 それ故に、園内に渋沢栄一の銅像(製作:朝倉文夫)が建っている。 
2401060937290



● 大手町、東京駅前を通り抜け皇居に向かう
2401060946500
2401060949390
2401061042430
2401061032030



● “二重橋”の謂れ・定義はどうでもよくて、皇居前広場から正門前の石橋とその奥にある鉄橋を眺め、新年の始まりとする。、、、、今年は波乱万丈の幕開けとなった。 これ以上災いが無いことを祈る。
2401061020140
2401061016500
2401061015460

2024年1月 2日 (火)

年越ししたダウン!

クリスマス後に風邪をひき、年末は咳がひどく、鼻水も垂れ流し(?) 結局、正月の支度は妻に全て任せ、私は寝て曜日。 元旦(昨日)の昼に娘夫婦の家族が二組やって来た。 皆揃って『あけましておめでとう』・・・・・おせちを食べ終えた頃、テレビで緊急地震速報が始まった。 全員、テレビに釘付け。 夕刻になって、我が家の新年会もお開きに! 皆が帰った後は、静かな家で妻と二人で“いつもの夫婦”、共に風邪が治らず静寂のなかに響くは大音響の合唱で、ゴホン・ゴホン、ゴホン・ゴホン。 まだ、二人とも治っていない!

二日の早朝(今朝)、寝てばかりで寝飽きた私は、夜明け前に我が家の氏神様「銀杏岡八幡神社」(台東区浅草橋)へ、冷たい空気に晒されて初詣。 誰もいない!

2401020622520

2401020623430

2401020619200


・・・・・・・・・・ チョイト無理したか、身体が冷えたのか(?)、風邪は悪化したかも(?) 散歩はまだできないね。

« 2023年12月 | トップページ | 2024年2月 »