東京駅八重洲口まで
寒波の影響で連日東京の気温は10℃に達せず、都心(大手町)では今朝9時の気温は7.7℃、外出するのを躊躇(ためら)う寒さだ! 『今日の散歩は、寒いから近場にしよう!』と思い、我が家(浅草橋)から東京駅まで、1万歩の散歩となった。
● 朝8時、浅草橋駅前をスタートする
● 浅草橋駅前の「人形の久月」は、天保6年(1835)創業。 江戸時代からの三階建ての大きな土蔵造りの旧店舗は、昭和51年(1976)に現在のビルに建て替えられたが、正面玄関に掲げられている「久月総本店」の看板は昭和初期に作られたもの。 この看板は、当時蔵前の華徳院(現在の浅草橋2丁目付近にあった、閻魔王を本尊とする寺。 関東大震災後、杉並区松ノ木へ移転)の住職でもあった書家、豊道春海師の揮毫(きごう)によるものだ。、、、、私の知る戦後の久月では、土蔵造りの黒光りした重厚な旧店舗に、この看板が掲げられていた。 まさに江戸時代からの老舗である。
● 神田川を越えて中央区に入り、中央区日本橋横山町4丁目に「大原第5ビル」がある。 この建物は、昭和4年(1929)、清水組(現:清水建設)の設計施工で竣工した。 現在は、ヘアーサロン、飲食店、ブティックなどが入居しているテナントビルだ。
● 日曜日の朝、人影のない日本橋富沢町。 日本橋富沢町は、寝具メーカーの「西川」など繊維関係の企業が多いビジネス街。
・・・・・・・・・・ 日本橋富沢町の一角に残る国登録有形文化財の旧川崎貯蓄銀行富沢町支店(昭和7年(1932)竣工、3階部分は後に増築)。、、、、現在は「ハリオグラス」の所有となっているが、旧川崎貯蓄銀行富沢町支店→旧常陽銀行東京支店→旧常陽銀行堀留支店→ハリオグラスと変遷した。 外観は、明治から昭和初期にかけて多く見られる銀行建築の建物、西欧古典主義様式によるデザイン。 隅切りされた角に正面玄関を配した設計は、この建物を特徴的なものにしている。
● 日本橋富沢町の隣り、日本橋堀留町に“宝くじの神様”がいる、椙森神社(すぎのもりじんじゃ)がある。、、、、椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれている。 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために伏見稲荷の「伍社の神」を勧請して厚く信仰した神社である。 そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めた。、、、、また、しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当椙森神社の富も人々に人気があった。 早い話、神社で宝くじを発行し、江戸の復興財源とした。 現在でも、“〇〇地震復興宝くじ”などを発売して災害復興支援するのと同じだ。 私も、チョイト協力して宝くじを買わせてもらっているが、チットモ当たらない。 今日も拝殿横にある「富塚」にも手を合わせ、『欲張って10億とはいいません、1億でいいです。 ナニトゾ、ヨロシク』と祈る。
● 椙森神社のある日本橋堀留町も、日本橋富沢町と同じように繊維・衣料関係の企業が並ぶ商業地である。 地名の“堀留”とは、江戸時代に堀留町に日本橋川から舟運物資の荷揚げ用に堀割がつくられたが、町中の先で堀割が行止まりとなっていたことに由来する。 この堀割(東堀留川)は戦後まで残っていたが、昭和20年の終戦を迎え、戦災で被害を受けた東京を復興するため、戦災で発生した残土・ガラ・廃材などを処分する場所として東堀留川が埋め立てられた。 東堀留川の埋立ては昭和23年(1948)から始まり、翌年には完了した。 埋め立てられた跡地は、現在は堀留児童公園として整備されている。、、、、白黒写真は堀留児童公園にある、東堀留川の説明板に表示されてた、昭和23年の東堀留川。
● 本町2丁目交差点で昭和通りを越えると、日本橋三越前に出る。
・・・・・・・・・・ 三越本店の建物(国指定重要文化財)は、昭和10年(1935)に完成、ルネッサンス式建築の威容を誇り、当時は国会議事堂、丸ビルに次ぐ大建築物であった。 本館正面玄関には待ち合わせの場所として親しまれる「三越の守護神」とも言うべき「ライオン像」が客を迎える。
・・・・・・・・・・ 三越の隣りには、こちらも国の重要文化財である旧三井本館の建物がある。 この建物は、米国のトローブリッジ&リヴィングストン事務所が設計、ジェームズ・スチュワート社が施工をする形で大正15年(1926)に着工、昭和4年(1929)に竣工した。 完成した建物はアメリカンボザールと呼ばれ、新古典主義様式による鉄骨鉄筋コンクリート造、地上5階(現在は7階)で地下2階という当時では丸ノ内ビルヂングに次ぐ大きなビルであった。、、、、【余談だが】“新NISA”をやるにあたり、銀行発行の書類が必要となり三井住友銀行の浅草橋支店にもらいに行った。 しかし、三井住友銀行浅草橋支店は昨年から、建物とATMだけ浅草橋に残し、店舗の窓口業務はここ三井本館内の日本橋支店で行うことになっていた。 仕方なく、先週、私はこの建物の中にある日本橋支店に初めて入ってきた。 内部は、高い天井と大きな太い柱が並ぶ広い宮殿のような建物で、ビックリ、感動だった。 これからは、家の近くの浅草橋支店はATMだけの扱いとなり、窓口業務は日本橋支店となりチョイト不便になったが、この建物の内部が見られるのは嬉しいね。
・・・・・・・・・・ 三井本館の西隣には日本銀行本館がある。 こちらも国の重要文化財。、、、、明治初期、国家の主要な建築物の設計は、お雇い外国人によって行われていた。 日本銀行は、日本人建築家が設計を手がけた最初の国家的な建物である。 日本銀行の設計を担う辰野金吾は、1年間欧米の銀行建築を視察・調査し、コンドルの師であるロンドンのバージェス事務所で計画案をつくった。 建物は、ベルギー国立銀行を参照したともいわれる。 バロック様式をもちながら迫力に欠けた建物とも評されているが、その理由は、大オーダーや軒高欄などバロック様式の要素をもちながらも、基壇にあたる1階部分が高すぎ、大オーダーが小さく見える点にあるらしい。 だが誰が何と言おうとも日本人が最初に手掛けた近代日本の代表的明治建築である。、、、、建物の諸元は建築年:明治29年(1896)、設計者:辰野金吾、構造:煉瓦造・石造、規模:地下1階・地上3階、、、、内部を見てみたいが、日銀総裁か警備員にならないとダメかも?
● 日本銀行から南へ歩くと、日本橋川に架かる一石橋(いっこくばし) がある。 三週間ほど前に歩いて来た常盤橋の下流側に架かる橋。、、、、江戸時代から存在した橋であるが、大正時代に架けられた石積みの橋も、平成11年(1999)までに現在の2径間連続RC床版鈑桁橋に架け替えられた。 大正時代の橋の面影は現存する親柱だけである。、、、、下流側に架かる日本橋の景観を守るため、一石橋の頭上を走る首都高の撤去工事が始まっていた。 数年後には首都高が無くなった一石橋が見られるかも、生きていたら(?)
・・・・・・・・・・ 江戸期から明治期にかけて一石橋の付近はかなりの繁華街であり、迷い子が多く出た。 当時は迷い子は地元が責任を持って保護するという決まりがあり、地元西河岸町の人々によって安政4年(1857)に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」が一石橋南詰に建てられた。 しるべの右側には「志(知)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られて、上部に窪みがある。使用法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたという。 この石標と同じようなものが、浅草寺境内や湯島天神境内(奇縁氷人石)に残されている。
● 一石橋から東京駅八重洲口は近い。 白い大きなテントを張った「グランルーフ」が見えた。
・・・・・・・・・・ 駅前から、日本橋、浅草橋経由、南千住車庫前行きのバスで帰ることにした。 『オヤ? 誰も乗ってない、貸し切りか!』 出発間際に年寄りが一人乗って来た、私と同じ『敬老パス』の利用者だ。
« 浅草の三十三間堂 | トップページ | 梅は咲いたか »
「散歩」カテゴリの記事
- 荒川沿いの北千住(2024.09.17)
- 目白から長崎まで(2024.09.09)
- 鳳凰堂を模した燈明寺(2024.09.05)
- 与楽寺・吉祥寺(2024.09.02)
- 古代東海道を歩く(2024.07.17)