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2024年5月

2024年5月26日 (日)

大変だ!

お出かけ日和の日曜、夫婦で浅草橋(我が家)から都バスで南千住駅へ、南千住駅から三ノ輪橋に出ると、都電に乗りたくなり『あらかわ遊園』へ。 遊園地は子供で混んでる! 入園は止めて、ブラブラ荒川区を歩き、田端駅まで1万歩の散歩です。


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・・・・・・・・・・と、ブログを書き始めたが、大変なことが発覚!

 

・・・・・・・・・・ ブログを格納しているレンタルサーバーの容量が残り少なくなった。 ブログ『雅万歩』のサーバー容量は10,000GB(=10TB)であるが、残容量は10GB以下となった。 一日分の平均利用容量が約7GB(写真が多く一回の利用容量が多い)であり、今日の記事を書くと容量オーバーとなるかも?  利用率99.92%、空き容量0.08%、緊急事態発生である。

・・・・・・・・・・ サーバーを借りてるメーカーに容量を増やすことを打診したが無理らしい。 暫く、頭を冷やし、対策を考えることにする。  

2024年5月22日 (水)

朽ちかけた閻魔堂

閻魔さまが好きな私は、南蔵院(練馬)の閻魔大王を思い出し、久々に寺を訪れてきた。 大江戸線の練馬駅から、南蔵院に参拝し、帰りは西武新宿線の都立家政駅から帰宅。 1万歩の散歩



練馬駅(ねりまえき)は、西武池袋線と都営大江戸線の駅である。 両線の練馬駅は至近距離にあり乗り換え駅であるが、駅舎は西武池袋線の高架駅、大江戸線の地下駅で、別々な構造となっている。 どちらの練馬駅とも、一日当たりの乗降客は、西武の約11万人、都営の約7万人と多い。、、、、近くには立派な練馬区役所が有る、駅周辺には昼のお店、夜のお店が半端なく多く、さすが練馬区の中心の駅。
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● 駅前の飲食店が並ぶ裏通りを抜ける。
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・・・・・・・・・・ 目白通りに面して高くそびえる、練馬区役所本庁舎は平成8年(1996)3月竣工。 地上21階・地下3階、高さ93.82 m。 東京23区の区役所の中では文京区役所(通称・文京シビックセンター、地上28階・高さ142 m)に次ぐ高さ。 最上階(20階)は展望ロビー、展望レストランがあるらしい。(一度は行ってみたいね!)
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● 真言宗豊山派の南蔵院(練馬区中村1) は、瑠璃光山医王寺と号す。 南蔵院は、永正年間(1504~1520)或いは延文年間(1356~1361)、いずれにしても室町幕府の時代に開創したと言われてる。 江戸期には12石8斗の御朱印領を拝領、西光寺(廃寺、中村八幡神社境内にあった)、大日堂(廃寺)を末寺に擁していた。、、、、寺は、古くから、万病にきく「白龍丸」という薬を製造・頒布していた。「南蔵院の投げ込み」と称され、諸病に効験があるとして名高かったが、明治10年(1877)の「売薬規則」の発布により中止された。、、、、境内は街中にありながら緑にあふれ広い、その中に諸堂が並ぶ。 薬師堂は宝永4年(1707)、本堂・庫裏・閻魔堂などは宝暦3年(1753)の再建。 また、鐘楼門は江戸中期の様式と推定されており、区指定の文化財である。

・・・・・・・・・・ 南蔵院通りに面する山門
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・・・・・・・・・・ 文禄年中(1592~1596)火災にあい堂塔伽藍、諸記録をほとんど焼失した。 宝暦3年(1753)には寺内の設備を整え、現在の本堂も完成した。 御本尊の薬師如来は秘仏で、33年毎に御開帳されるそうだ。、、、、、明治9年(1876)には、本堂を利用して豊玉小学校が開設された。
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・・・・・・・・・・ 本堂の右には、同時期に建てられた庫裏がある
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・・・・・・・・・・ 本堂の左には、宝永4年(1707)に再建された薬師堂
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薬師堂の前には、宝暦3年(1753)に建立された閻魔堂がある。 6年ほど前に南蔵院に訪れた時、朽ちた閻魔堂、剥げ落ちた閻魔大王を見てから、閻魔大王の住環境が気になっていた。 今日の散歩は、その後どうなったか知りたく、訪れた次第なり。、、、、早速、中を覗いてみた。 照明のない薄暗い朽ちた堂内に、埃にまみれ剥げ落ちた閻魔大王が静かに座していた。 閻魔大王の後ろの壁には病気平癒祈願成就によって奉納された15cmほどの木彫の地蔵尊がズラリ千躰程並んでいるが、こちらもなんとなく薄汚れているみたい。、、、、悲しいかな、閻魔大王の住環境はますます悪化してるようだ! 閻魔堂は仏堂というよりガラクタ倉庫という感じ!
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・・・・・・・・・・  江戸時代中期に建てられた鐘楼門。 三間一戸、入母屋造りで赤く塗られている。 門の左右には仁王像、上階には正徳5年(1715)銘の梵鐘がある。
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・・・・・・・・・・ 昭和7
年(1932)首のない地蔵様が中村の道端にあった。 近所の住人が地蔵の首を酒代の形に持っていたので、継ぎ合わせたところピッタリと合った。 この不思議な仏縁から、「首継地蔵尊」と呼ばれている。 バラバラ事件の被害者となった地蔵さま、首が繋がり一安心。、、、、、首継地蔵尊は昭和60年頃(1985)までは、中村の八幡神社に祀られていたが、その後南蔵院に移された。
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● 所々にマンションと畑が残る練馬区を南に向かって歩く。 道端には道標を兼ねた庚申塔もある。 新青梅街道を横断し中野区に入る。
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● 西武新宿線の都立家政駅から帰る
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2024年5月18日 (土)

別所温泉 2

別所温泉の朝湯でサッパリ、シャッキリ、パッチリ目覚め、朝食食べて元気に出立。 今日は、上田市の隣り東御市の「北国街道 海野宿」を歩き、さらに東の小諸「懐古園」を見て、佐久平駅から新幹線で帰京する。



● 別所温泉から上田電鉄に乗り上田駅に出た。 上田駅から、海野宿の最寄り駅である大野駅までは、しなの鉄道で2駅目だが、あいにく電車は出たばっかり、次の発車は1時間後。 横着な年寄り二人は、タクシーで海野宿の入口まで向かう。、、、、上田駅は、JR東日本(北陸新幹線)・しなの鉄道(しなの鉄道線=旧信越本線の一部)・上田電鉄(別所線)の駅である。 明治21年(1888)8月15日、官設鉄道の駅として開業した。、、、、昭和40~50年頃は、上野から夜行列車に乗り、早朝に上田、長野で降りて、菅平高原、志賀高原などのスキー場に向かった思いである駅。 当時の駅舎は無くなり、モダンな駅ビルとなってる。
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● 海野宿の入口までタクシーに送ってもらい、ここから街道を歩く。、、、、「海野宿(うんのじゅく)」は、長野県東御市本海野(しなの鉄道田中駅と大野駅の中間地点)にある。 江戸時代の寛永2年(1625)に、北国街道(信濃国の東部:軽井沢と善光寺門前町を結ぶ街道)の宿場として、幕府によって設置された。 現在も、延長650 m、幅10 mの旧北国街道の両側には、旅籠屋造り、蚕室造り、茅葺屋根など当時使用された約100棟の歴史的な建物が往時の屋号を掲げ残り、歴史的な町並みを形成している。 街道の水路はかつて生活用水として使われていたそうだ。 昭和62年(1987)には海野宿が重要伝統的建造物群保存地区として選定された。 現在も残る100棟ほどの建物は保存状態も良く、また(たまたまなのか?)観光客も少なく、通る車も少なく、時が止まった静かな街道には、時代劇一場面を感じることができた。
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・・・・・・・・・・ 観光客が少ないせいか、開いてる店も少なく。 一軒の蕎麦屋に入る。 ランチセットは、名物手打ちそばクルミのぼた餅。 食べれば笑顔で再び歩く!
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・・・・・・・・・・ 宿場の中程に、冬の夕暮れのしじまの中で小林一茶が詠んだ一句、、、、「夕過の臼の谺の寒哉」(夕過ぎの臼のこだまの寒さかな)
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・・・・・・・・・・ 街道の東端に、海野宿の産土神、日本武尊の伝説を縁起とし、海野氏・真田氏の氏神として祀られた「白鳥神社」がある。
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・・・・・・・・・・ 白鳥神社の隣りに「媒地蔵尊(なかだちじぞうそん)」が祀られている。 加賀藩の前田候が参勤交代の道中にお参りしたところ、良縁に恵まれないでいた姫様が、無事結婚できたという縁結びの地蔵さん。
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● 海野宿から徒歩30分、30℃にい近い陽気、汗をかきかきしなの鉄道の線路沿いを歩いて、田中駅に着いた。、、、、田中駅は、明治21年(1888)12月1日、官設鉄道信越線の駅として開設した。 現在は、単式ホーム1面1線(上り本線)と島式ホーム1面2線(下り本線と中線)、計2面3線を有する地上駅。 海野宿の最寄り駅であり、駅舎は千本格子や木彫り看板などのある宿場町風の外観となっている。
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● 帰りの新幹線は、上田駅20時過ぎの指定席を確保していたが、ニュースによると、熊谷付近で突風でビニールが架線に絡まり、北陸新幹線・上越新幹線とも大幅な遅れが出ているそうだ。 ダイヤの乱れは夜まで続くと聞いて、急遽帰りは、小諸駅に出てJR小海線の佐久平駅から新幹線の自由席で帰ることにした。、、、、小諸ではチョイト小諸城址の「懐古園」を見て行こう!
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2024年5月17日 (金)

別所温泉 1

17日、夫婦で信州最古の温泉地と言われてる別所温泉に一泊してきた。 一昨年は娘共の家族と訪れたが、今回は夫婦二人旅である。 私も妻も別所温泉は3度目で、周辺の主な観光地(善光寺、上田城、北向観音堂、安楽寺など)は来たこともあり、知らぬ所をのんびり巡ることにした。




● 10時上田駅に到着。 上田駅から徒歩7分の至近にあるが、上田城とは方向が異なるためか、訪れる人の少ない「常田館製絲場(ときたかんせいしじょう)」寄って見た。、、、、常田館製絲場は明治33年(1900)創業の製糸工場。 笠原工業株式会社構内に常田館製絲場に関連する施設15棟が現存しており、そのうち明治から大正時代にかけて建てられた7棟が国の重要文化財に指定されている。 国内最高層の木造5階建繭倉庫、大正時代末建築の長野県最古の鉄筋コンクリート5階建倉庫群など、製糸技術が発達した時代の先人達の工夫と知恵の足跡が歴然と残る貴重な文化遺産だ。、、、、笠原工業の方に許可を頂き、内部を見せてもらった。
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・・・・・・・・・・ 明治38年(1905)に建てられた「五階繭倉庫」。 木造土蔵造瓦葺、国内唯一の木造5階建繭倉である。 各階間口24間、奥行5間、120坪の総5階、床面積延600坪(約1,983m2) 当初、諏訪式製糸の特徴の一つである多窓式繭乾燥・保管のための生繭倉庫として建築された。 21cm角の通し柱が5.4mおきに設けられている他約18cm毎に繭を乾燥・保管する蚕籠を乗せる蚕架の桟を挿し入れる直径3cm程の穴が開けられ向かい合っていた。 土蔵造の外壁は白漆喰塗。、、、、現在、内部には製糸機器などはなく、笠原工業の製品倉庫として一部使用されている。
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・・・・・・・・・・ 明治45年(1912)建築の木造土蔵造4階建ての「四階繭倉庫」 大きさは各階間口6間、奥行12間、72坪の総4階建て。   開口部は各階南北に両開き鉄扉と内側ガラスの引戸が1箇所ずつあるのみで、東西には窓が一つも無く当初から干繭倉として建てられたらしい。
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・・・・・・・・・・ 長野県内に現存する最古の鉄筋コンクリート造5階建て建築物である「五階鉄筋繭倉庫」  大正15年(1926)竣工、鉄筋コンクリート造、5階建の倉庫。 木造5階建繭倉と異なり、干繭倉として建てられたもので、入口は両開きの鉄扉が東と二階東角に設けられている。 階高も、約240cm~345cmと木造繭倉より高くなっている。
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・・・・・・・・・・ 明治41年(1908)に建てられた「常田館/事務所兼館主住宅」 木造瓦葺2階建、床面積は1階50坪(163.78m2)、2階41坪(136.63m2)、、、、「常田館」の名称は、笠原組製糸が上田工場を建設した地が常田地籍であり、その地名をとり称号としたもの。  洋館風事務所として建築され、当初1階は館主宅として、2階広間と客間4部屋は結婚式や従業員の打ち合わせ・慰労会等多目的に使用された。 現在は昭和天皇皇后両陛下行幸啓の際の玉座を初めとして、養蚕・製糸等に関する資料・器械・美術品を展示している。
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● 上田駅から、上田電鉄別所線に乗り「下之郷駅(しものごうえき)」で下車する。 下之郷駅は大正10年(1921)6月17日、上田温泉電軌により、川西線の駅として開業した。 昭和14年(1939)川西線が別所線に路線名称を変更、また同年9月1日には社名変更により上田電鉄となる。、、、、島式1面2線のホームを持つ地上駅であり、駅前のロータリー状の広場より構内踏切を通って入構する。 駅舎としての建物はホーム上にある朱塗りの柱が特徴的な建物だけ。 一日平均乗車人員は160名程。 これでも、当駅は上田電鉄の登記上の本社所在地となっている。
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● 下之郷駅で下車したのは、「生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)」の最寄り駅である。 駅から徒歩5分、生島足島神社に参拝。、、、、生島足島神社は、生きとし生けるもの万物に生命力を与える「生島大神」と、生きとし生けるもの万物に満足を与える「足島大神」の二神が祀られ、摂社(下社・下宮)には諏訪大神が祀られる信濃屈指の古社。、、、、創建の年代は不明だが、神代の昔、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)が諏訪の地に下降する途すがら、この地に留まり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献じたと伝えられている。 生島神は生国魂大神、足島神は足国魂大神とも称され、共に日本全体の国の御霊として奉祀される大神である。 平城天皇の大同元年(806)には神戸の寄進があり、醍醐天皇の廷喜の代(901~922)には名神大社に列せられる。 建治年間(1275~1278)には北条国時が社殿を営繕し、地頭領家も祭祀料の田地を寄進する。 戦国時代以後も真田昌幸・信之等の武将を始め、代々の上田城主も神領を寄進し、社殿を修築する。、、、、池の中央の島にある本殿はまわりを老樹に囲まれて建っている。 この池を巡らせて神域とされる島をつくる様子は「池心の宮園池」と称され、出雲式園池の面影を残す、日本でも最古の形式の一つとされる。 現社殿は昭和15年(1940)に国費をもって竣工された。
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・・・・・・・・・・ 境内にある歌舞伎舞台は、間口九間(16.36m)、奥行七間(12.27m)で農村歌舞伎舞台の中で最大規模を誇る。 伝えでは、明治元年(1868)に建設され、内部には回り舞台やせり上がりもあるそうだ。 その後校舎や集会所としても利用されたという。 江戸期の農村歌舞伎舞台の典型的な姿を完全に伝えており、長野県宝に指定されている。
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・・・・・・・・・・ 池にはカメ、コイはもちろん居るが、アヒルも居る。 一袋100円の餌を買って、アヒルに遊ばれる妻。
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● 再び上田電鉄に乗り終点の「別所温泉駅(べっしょおんせんえき)」に到着。 別所温泉駅は、大正10年(1921)6月17日、上田温泉電軌の別所駅として開業。 昭和5年(1930)駅名を別所温泉駅に改称。 単式ホーム1面1線の地上駅。 現在の駅舎は昭和25年(1950)に改築され、現在の外観となった。 上田丸子電鉄時代からの駅舎で、当時の社紋が残ってる。
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・・・・・・・・・・ 電車の発着時、出迎え、見送りをしてくれる、和装制服の袴を着用して勤務する観光協会の女性職員。 観光駅長さん
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● 別所温泉に来たらまずは、北向観音(きたむきかんのん)に御挨拶。 北向き観音は、天台宗の寺院で、近くにある常楽寺が本坊である。 寺伝によれば、平安時代初期の天長2年(825)円仁(慈覚大師)によって、常楽寺とともに開創された。 安和2年(969)平維茂によって大伽藍として大改修が行われたが、木曽義仲の兵火により焼失したのち、源頼朝により再興。鎌倉時代の建長4年(1252)には北条国時によって再建された。 現在の堂は、享保6年(1721年)に再建され、昭和36年(1961)に増改築を施し、善光寺の本堂と同じ「撞木造り」となる。、、、、北向観音という名称は堂が北向きに建つことに由来する。 善光寺の方に向いているのか? 旅の無事を祈り、『今年も、やってきました。 無事、帰れますように。』夫婦で合掌、、、、東南アジアの大学生らしき観光客が境内にチラホラ。 何やら騒がしい団体だ!
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● 今日のお宿は、北向観音を見下ろす、展望露天風呂のある老舗旅館。 部屋は上田の町が遠望できる見晴らしの良い最上階! 美味しい夕食頂いて、Good Night!
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2024年5月14日 (火)

普通列車だけ停まる

『さて、今日の散歩、何処に行こうか?』と、都営地下鉄の浅草橋駅ホームで思案する。 ホーム上の路線図を眺め、押上駅で接続する京成本線の駅を目で追うと久しく降りてない海神駅が目に入り、今日の散歩は海神駅で下車し歩くことにした。 海神駅で下車し北へ向かい、行田公園を抜けてJR武蔵野線の船橋法典駅まで、1万歩の散歩となった。


● 京成船橋駅の一つ上野寄りに海神(かいじん)駅がある。 大正8年(1919)10月25日 に開業した駅で、現在の駅舎出入口は下り線ホーム側に一か所あるのみ。 たった1ヶ所の改札口には、自動改札機は2基あるのみ。 トイレは上りホーム上にある1ヶ所のみ。 停車するのは普通列車のみ。 2023年度の1日平均乗降人員は5,812人で、京成線内69駅中第49位と少ない。
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・・・・・・・・・・ 【チョイト一言】 京成本線の普通列車が全て6両編成なのは?、、、、京成本線全線で、ホームの有効長が6両編成分しかないのは、ここ海神駅と京成中山駅の2駅のみ。 両駅ともホームの両端に踏切が在り、ホームを延長できないため。 他駅では8両編成分のホームが確保されており、この2駅の有効長が解消しないと普通列車の8両編成は難しい。

・・・・・・・・・・ 【チョイト一言】 海神駅はかって乗り換え駅であった?、、、、海神駅から現在の東武野田線の船橋駅まで、かつて総武鉄道海神線(海神~船橋間、1.4㎞)という路線があった。 京成と東武の船橋駅が離れているため、客の乗り換えをスムーズにできるよう、海神駅から(東武の)船橋駅まで総武鉄道海神線が開業した。 昭和4年(1929)に開業し、昭和9年(1934)に廃止された。 廃止理由は利用者が少ないから。

・・・・・・・・・・ 【チョイト、もう一言】 海神の駅名由来は?、、、、駅の東側の海神山(海神山緑地)に由来するらしい。 海神山には昭和初期に富裕層の別荘が建ち、大邸宅の多い高級住宅街となっている。 現在は大邸宅が分割し、小規模住宅地となった。、、、、もともと「海神(かいじん)」は、「船橋海神(わたつみ)」と呼ばれていたらしい。



● 海神駅前の寂れた狭い商店街(バス通り)を道なりに北へ歩く。 200m程歩くと店舗は無くなり普通の住宅地。 一日に5往復しか走らないバス停を見ると「山手二丁目」と言う所だ。 この先に行田公園がある。
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・・・・・・・・・・ 山手二丁目の
細い路地の中程に、「海軍」と標記したコンクリート製の標柱がある。 おそらくこの先「行田公園」にあった旧日本海軍の無線基地に関連するものと思われる。
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● 行田公園に着いた! あの有名な、真珠湾攻撃開始を告げた『ニイタカヤマノボレ1208 』の電文を発信した海軍の無線電信施設の跡地である。 行田公園は、終戦後米軍により接収されていた旧日本海軍の無線電信施設の跡地(約53ヘクタール)が、
昭和41年(1966)日本に返還され、その内の11.9ヘクタールが千葉県へ無償借与され都市公園として整備された。 昭和46年(1971)に行田公園として開園した。 公園は中央の大通りにより東側と西側に分かれており、歩道橋にて接続されている。、、、、現在は地元住民の体力作りの場として利用されているようだ!
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● 行田公園から武蔵野線沿いに北へ歩き船橋法典駅に向かう。
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・・・・・・・・・・ 中山競馬場の最寄り駅「船橋法典駅」に着いた! 今日は競馬の開催もなく、駅は混んでない。 
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2024年5月10日 (金)

国道から総持寺へ

今日の散歩は、JR鶴見線の国道駅で下車し、曹洞宗大本山総持寺に行ってきた。 1万1千歩




● JR鶴見線の国道駅(京浜国道に面する)で下車する。 国道駅は、大きくカーブする相対式ホーム2面2線の高架駅で、改札口のある高架下は、開業時の面影が残るレトロな駅だ。 無人駅で駅員の代わりに簡易Suica改札機が設置されている。、、、、国道駅は昭和5年(1930)10月28日、鶴見臨港鉄道の駅として開業した。 昭和18年(1943)には鶴見臨港鉄道線の国有化により、国鉄鶴見線の駅となる。 開業時には臨港デパートが高架下で営業していたそうだ。 今はべニア板で閉ざされた廃業した店舗が並んでいる。 20年程前に訪れた時と、ほぼ同じ情景が残された“時の止まった駅”である。

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・・・・・・・・・・ 薄暗い高架下の天井にツバメの巣を発見、巣の近くでは家主のツバメが監視中!

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● 国道駅から東海道線を横断し、反対側にある曹洞宗寺院の総持寺に参る。 総持寺は諸嶽山と号し、福井の永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山である。、、、、元亨元年(1321)瑩山禅師が能登半島の櫛比庄(現在の石川県鳳至郡)にある諸嶽観音堂に入山し、諸嶽山総持寺と改号、元亨2年(1322)後醍醐天皇より紫衣を拝領、曹洞宗の大本山となった。 明治31年(1898)火災により堂宇を焼失、当地(横浜市鶴見区)にあった成願寺の寺地を譲り受け、明治40年(1907)移転した。 境内の敷地面積は約50万m2と広い。 境内には多くの諸堂の他、鶴見大学などの学校施設もある。

・・・・・・・・・・ 緩やかな上り坂の参道。 チョイト、ダラダラの坂道で、肺活量の少ない私には歩き難い参道だ!

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・・・・・・・・・・ 昭和44年(1969)に落成した三門は、鉄筋コンクリート造りでは日本一とのこと。

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・・・・・・・・・・ 總持寺は、後醍醐天皇の頃から歴代天皇より勅願寺として仰がれ、勅使門として向唐門(むかいからもん)が造られた。

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・・・・・・・・・・ 長さ164m、東西の殿堂群をつなぎ合わせて、外苑と内苑とを分ける廊下(大正4年頃建築)。 通称「百間廊下」と呼ばれている。、、、、毎日朝昼2回、雑巾がけが行われているのでピカピカ。 でも、雑巾がけする人は大変な労力かも?

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・・・・・・・・・・ 大祖堂は昭和40年(1965)に竣工。 大祖堂は、一般的にいわれる開山堂と法堂を兼ねた本堂客殿です。 高さ36m、千畳敷の内中外陣と、982坪の地下室を有し、瓦葺形の銅版屋根は53トンに及びます。、、、、本山開祖・太祖瑩山禅師と高祖道元禅師、二祖・峨山禅師をはじめとして、歴代の諸禅師の頂相を安置し、あわせて諸尊牌をも奉祀する霊場。

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・・・・・・・・・・ 大粗堂の左に並ぶ、大正4年(1915)に竣工した仏殿。 本尊釈迦如来像を安置する。

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・・・・・・・・・・ 他の諸堂も巡り、奥の墓地へ“裕次郎に逢いに行く”、、、、石原裕次郎が没して30余年、今でも忘れられない大スターに合掌。

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・・・・・・・・・・ 参詣の終わりに三門の脇にある三松閣に立ち寄る。 切妻造り鉄筋コンクリート造、地上4階、地下2階、広さ9400m2の建物、平成2年(1990)竣工。、、、、檀信徒研修道場、各種セレモニー会場となっており、宿泊施設もある。、、、、こちらの喫茶室で、コーヒー飲んでひと休み。

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2024年5月 6日 (月)

招き猫の豪徳寺

連休は家で“じっと我慢の男の子” 最終日の今日、夫婦で世田谷の豪徳寺(ごうとくじ)に行ってきた。




● 新宿から小田急線の各駅停車で10駅目、豪徳寺駅で下車する。 豪徳寺駅は昭和2年(1927)4月1日に開業した。 駅は、東急世田谷線(大正14年(1925)開業 )と立体交差するため、当初から盛土の上にあり高架化されていた。 現在の豪徳寺駅は、複々線化された高架駅で、緩やかなカーブ上に相対式ホーム2面4線を有する。、、、、駅名は、そのものズバリ、近くの古寺の名を拝借。(ただし、寺の豪徳寺最寄り駅は世田谷線の“宮の坂駅”)、、、、私は大学生頃から小田急線を利用しているが、下北沢、経堂、成城学園前などの駅と比べると、乗り換え駅であるにもかかわらず目立たない地味な駅である。 いつまでも、各駅停車しか停まらない駅!

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・・・・・・・・・・ 豪徳寺駅ホーム下を走る東急世田谷線

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・・・・・・・・・・ 豪徳寺駅から東急世田谷線沿いの商店街を歩いて豪徳寺に向かう

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豪徳寺(ごうとくじ)は、元臨済宗の寺院で、今は曹洞宗の寺院。 山号は大渓山(だいけいざん)。、、、、世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために臨済宗弘徳院として創建したと伝えられている。 天正12年(1584)に曹洞宗に改宗。 高輪泉岳寺初世の門奄宗関が中興開山、寛永10年(1633)世田谷領が彦根藩領となり、豪徳寺が井伊家の江戸における菩提寺となったことから、寺号を2代藩主井伊直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士 」より豪徳寺と改号した。、、、、緑で覆われた広い境内の空気は爽やかなり。

・・・・・・・・・・ 松が並ぶ参道を通り「山門」に至る。 山門の扁額には「碧雲関」という文字が書かれてる。 「外の世界と境内を隔てるために建てられた門」を意味するらしい。

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・・・・・・・・・・ 山門を入ると正面に延宝5年(1677)建立の「仏殿」がある。 仏殿の正面に篆額「弎世佛」があり、現在・過去・未来の三世を意味する諸佛などが安置されている。

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・・・・・・・・・・ 仏殿の奥に、昭和42年(1967)に造営された「法堂(本堂)」がある。 堂内には聖観世音菩薩立像、文殊菩薩坐像、普賢菩薩座像、地蔵菩薩立像が安置され、さらに寺宝の「井伊直弼肖像画(井伊直安作)」が飾られているそうだ。

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・・・・・・・・・・ 法堂のさらに奥に「開祖堂」があるが、開放されておらず、見ることができなかった。 堂内には、豪徳寺を開山した和尚や大師の像、歴代住職、藩主の位牌が安置されているそうだ。



・・・・・・・・・・ 境内のシンボル的な建物として、平成18年(2006)に落慶した、高さ22.5mの「三重塔」がある。 塔には釈迦如来像、迦葉尊者像、阿難尊者像、招福猫児観音像が安置されているらしい。

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・・・・・・・・・・ 豪徳寺と言えば“”、、、、さて、豪徳寺と猫の繋がりは、寺のHPには『ある日、この地を通りかかった鷹狩り帰りの殿様が、お寺の門前にいた猫に手招きされ、立ち寄ることに。 寺で過ごしていると、突然雷が鳴り雨が降りはじめました。 雷雨を避けられた上に、和尚との話も楽しめた殿様は、その幸運にいたく感動したそうです。 それが彦根藩主の井伊直孝でした。 豪德寺は、直孝に支援され、寛永10年(1633年)に再興しました。 その後、豪德寺では、福を招いた猫を「招福猫児(まねきねこ)」と呼び、お祀りする招福殿が建てられました。招福殿には、家内安全、商売繁盛、開運招福を願うたくさんの参詣者が訪れています。 堂内には招福観音菩薩立像が安置されています。』と記されてる。、、、、その「招福殿」の周囲には、参拝者が奉納した招き猫がウジャウジャ。 堂には、アニメの聖地となったのか(?)、外人がウジャウジャ。 ちなみに奉納する招き猫は、一匹500円(小)から7000円(大)なり。 我が家の妻は、1000円の小ぶりの招き猫を奉納。 猫に奉納するより、亭主に奉納した方が御利益あると思うよ! 

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・・・・・・・・・・ 豪徳寺は井伊家の菩提寺、墓所には幕末の大老13代直弼の墓、豪徳寺中興開基2代直孝の墓をはじめ、歴代藩主や正室たちの墓が並んでいます。 平成20年(2008)に国史跡に指定された。 広い墓所に、一家合計300基の墓石が並んでいるそうだ。

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● 豪徳寺から再び豪徳寺駅に戻るのはつまらないので、一駅新宿寄りの梅ヶ丘駅まで歩いてきた。、、、、梅ヶ丘駅は昭和9年(1934)4月1日 に開業。 2面4線を保有する高架駅で、乗降人員は1日あたり3万人を数えているが、各駅停車しか停まらない駅。

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