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2024年9月

2024年9月30日 (月)

新田橋

北区王子と足立区新田を結び、隅田川に架かる新田橋(しんでんばし)は、幹線道路の橋ではなく、2車線の狭いバス通りに架かる地元の人のみぞ知る橋である。 古い木橋のようなデザインの橋で、私の好きな橋の一つでもある。 この橋が架け替えられると聞いて、チョイト見に行ってきた。 京浜東北線の王子駅から歩きはじめ、新田橋を渡り、新田一丁目のバス停まで、1万2千歩の散歩です。



● 今日は昼の時間帯にJR京浜東北線の王子駅で下車する。 王子駅から、旧大蔵省印刷局今は国立印刷局の前の都道を北東に向かって歩く。 溝田橋交差点で明治通りを横断する。
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● 溝田橋交差点を過ぎ、石神井川の縁「あすか緑地」際に、庚申塔の小堂が立っている。 中に彫りの深い文字で「庚申塔」が見える。 残念だが、この右側面に造立年が刻まれていたようだが、欠損のため造立年は不明である。
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・・・・・・・・・・ 新田橋に向かうため、豊島二丁目バス停の先で裏通りに入ると、丁重に祀られた庚申塔がある(北区豊島2-5)。 堂には、今年「令和六年」の庚申日が表示され、庚申信仰が続いているようだ。、、、、堂の中には、左から造立不明の馬頭観音塔、昭和5年(1930)の青面金剛庚申塔、寛文4年(1669)の板碑型庚申塔が納められている。
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● 北区豊島1丁目から、地元の住民しか知らない愛称がついた一方通行の「王子郵便局通り」を歩き、郵便局の横を通り過ぎると「紀州通り」と呼ばれるバス通りに出た。
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● 王子郵便局通りから紀州通りに出る角、スーパーの一画に「白龍神社」なる新しい小さな社がある。、、、、白龍神社は、白羊鉛筆の創業者小林直喜の父が、滋賀県から北海道へ移る際に、屋敷神として祀っていたものを持参して祀り続けてきた社で、昭和25年(1950)白羊鉛筆を設立すると、会社の敷地中央に祀ったとそうだ。 平成5年(1993)白羊鉛筆を閉じてベネフォームへ移行する際に社を現在地に遷し、外部に開放した。 御神徳一位の木は別名アララギとも呼ばれ古くから笏(しゃく)の材料として用いられ、鉛筆の素材でもあった。 家業の励みに日夜一位の神に感謝し、一位の自生する深山の御恩を仰いだ。、、、、玉垣には鉛筆に関連する会社名が並んでいる。(私が知ってる、コーリン鉛筆、キリン鉛筆が無いぞ!)
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● 紀州通りに面し、道路名の謂れとなった「紀州神社」の旗がなびいてる。、、、、紀州神社の祭神は現在、五十猛命、大屋津姫命、柧津姫命である。 元亨年中(1321~1324)、紀州熊野の鈴木重尚が王子村にきて、豊島氏(豊島景村)とはかり、紀州五十太祗神社を同村に勧請したのに始まり、天正年中(1573-92)豊島村と王子村との間に争論が起こった際、豊島村の産土神を王子村に置くのは本意ではないと小名宮ノ前に移し、更に小名馬場に移し、後に現在地に移したものといわれてる。、、、、今年は創建700年、盛大に祭りが行われるのかな?
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● 紀州通りから「新田橋通り」と言う、こちらも地元の人しか知らないような細い通りを北へ歩くと、「新田橋(しんでんばし)」がある。
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・・・・・・・・・・ 新田橋は、右岸(南岸)の北区豊島8丁目と、左岸(北岸)の足立区新田3丁目を結び、隅田川に架かる鋼道路橋である。 橋長114.0m、幅9.0mの5径間単純鋼桁橋で、昭和36年(1961)3月に竣工した。、、、、この地にはもともと「野新田(やしんでん)の渡し」という農業渡船があり、荒川放水路(現:荒川)開削に伴って中州状に孤立した付近の交通路として利用されていた。 昭和14年(1939)に最初の木橋が木造下路ハウトラス橋として架けられた後、トラス部分の改装を経て昭和36年に現在の橋に架け替えられた。珍しいA字型をした橋脚は、木橋時代の橋脚を模したものである。 都心にあってこのデザインは何とも言えず好きだ! 架け替え前によく見ておこうと思い、今日、わざわざやって来たのだ! だが、上流側には仮設の歩道橋が架かり、下流側の両岸は高い護岸が構築されており、橋脚がよく見えない!(今日は、下流側の隙間から覗くように橋脚を見て来た)
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・・・・・・・・・・ ところで、新田橋の架け替え工事は、橋の老朽化や構造上の問題から「架替の必要性あり」判定され、架替に向け事業が進められている。 平成29~30年度には地元説明会が開催され、令和元年に新田橋仮橋架設工事に着手し現在に至ってる。 今後は、令和6~8年度に仮橋へのライフラインの移設工事を行い、令和9年度から架替工事を進め、概ね10年後の完成を目指す。 なんと完成まで、まだまだあと15年程を要するそうだ!(完成時には、俺、死んでる!
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● 新田橋を渡り足立区に入った、新田の町を歩き、町の北はずれ「新田一丁目」バス停を目指す。
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新田一丁目バス停の前に「新田稲荷神社」がある。 このバス停は王子駅・池袋駅から来る都営バスの終点である。 バスはここで折り返す。 バスを待つ間、チョイト神社に二礼二拍手一礼する。、、、、新田稲荷神社の創建は元禄10年(1697)と伝えられる。 社殿は戦災により、一度焼失するも、昭和22年(1947)に再建され、現在に至る。 境内に2基の庚申塔がある。、、、、夏の暑さで緑一面となった境内は絵になるね! 
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・・・・・・・・・・ 折り返し王子駅行きのバスが来た。 乗って帰ろう!
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2024年9月25日 (水)

築地ブラブラ

都営浅草線の東銀座駅で下車し、築地の本願寺、築地小劇場跡、築地カトリック教会、鉄砲洲稲荷神社と巡り、宝町駅まで、1万1千歩の散歩です。



● 昭和通りと晴海通り交差する、交差点の直下に東銀座駅(ひがしぎんざえき)がある。 東銀座駅は昭和38年(1963)2月28日、都営地下鉄1号線(現:浅草線)と営団地下鉄(東京メトロ)日比谷線の東銀座駅が同時に開業した駅である。、、、、浅草線の駅は昭和通りの直下にある相対式ホーム2面2線の地下駅であるが、ホームに立っても反対方向行きのホームは見えない。 それは、上下線の線路の間に地下道(昭和通り三原橋交差点のアンダーパス)や駐車場があるため、ホームの向かい側は全面が壁となっているためである。 また、ホーム間の連絡通路は改札外にあり、改札内での上下ホームの行き来はできない。 上下線のホームを間違えると、地上に出るか?、地下のさらに地下にある連絡通路を利用することになり、年寄りには辛く厳しい駅である。
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・・・・・・・・・・ 東銀座駅の泉岳寺方面行改札を出ると、地下で歌舞伎座のビルに入り、歌舞伎座正面玄関前に出ることができる。、、、、現在の歌舞伎座は5代目の建物で、隈研吾の設計による地上29階建ての「歌舞伎座タワー」と一体となってる。 外観は4代目の建物によく似たデザインである。 
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● 歌舞伎座前から横道に入り、「旧日産本社ビル」(現:銀座六丁目スクエア)の前を通る。 懐かしいビルだ! 銀座4丁目の角に、現在の日産ギャラリーができる以前は、このビルの1階にショールームがあった。 加山雄三の若大将シリーズのロケ地でもあった旧日産本社ビル、取り壊されず、まだ残っていたか! 感激!、、、、昭和43年(1968)竣工の17階ビルである。 2009年までは日産自動車の本社ビルであった、その後、読売新聞東京本社の仮社屋として活用されていた。 現在は銀座六丁目スクエアとしてオフィスビルとなっている。
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● 築地の交差点、外人さんがスマホを場外市場に向けてパチリ! 築地市場は豊洲に移転したが、場外市場は今も元気に商い中!
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● 築地に古代インド様式(天竺様式)の建物がある。 “築地の本願寺さん”と呼ばれてるこの寺は、正式には「浄土真宗本願寺派 築地本願寺」と言う。 その発祥は、元和3年(1617)、西本願寺の別院として、JR浅草橋駅の南側:横山町(中央区)にあったことから「江戸浅草御坊」と呼ばれていた。 しかし、明暦3年(1657)の振袖火事で焼失してしまった。 その後、幕府から八丁堀の先の海上への移転が許可された。 そこで佃島の門徒が中心になり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(土地の名は“築地”)、延宝7年(1679)に「築地御坊」として再建された。 その後、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した本堂の再建では、東京(帝国)大学工学部教授・伊東忠太博士の設計による古代インド様式で昭和6年(1931)に起工、3年後の昭和9年に落成され現在に至る。 なお、施工は寺社建築を得意とする松井組(現:松井建設)である。 この建物は、インド様式の石造りで、本堂内は伝統的な真宗寺院の造りとなっている。、、、、広い境内に散見するのは外人観光客と、境内を斜めに横切り通勤する日本人のサラリーマン。
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● 築地本願寺から北へ200m程、NTTデータ築地ビルの外壁に、「築地小劇場跡」の碑がある。 築地小劇場は、土方与志と小山内薫が大正13年(1924)に開設した日本初の新劇の常設劇場である。 劇場の面積は100坪弱、平屋の建物で、客席は400~500席。 電気を用いた世界初の照明室を備えていた。 クッペル・ホリゾント(クッペル=ドーム、ホリゾント=舞台背景の幕)と呼ばれるドーム型の湾曲壁を設け、天井が高く、可動舞台を備えていた。 高度な照明設備と優れた舞台を備えていたため、演劇の実験室としての役割を果たしたそうだ。、、、、“新劇”と言われても、演劇には縁遠い私には“何が何だかさっぱり判らん”。 でも“築地小劇場”の名は知ってるぞ!
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● 築地の隣接する明石町、聖路加病院の隣りに「カトリック築地教会」がある。 カトリック築地教会は東京で最古のカトリック教会。 また当教会の聖堂は平成11年(1999)東京都景観条例により歴史的建造物に選定された。 さらに平成13年には中央区からも文化財に選定された。、、、、築地教会は、明治4年(1871)に鉄砲洲の稲荷橋近くにひらかれた「稲荷橋教会」を前身とし、明治7年に築地居留地(明石町)に移転した。 現在の聖堂は、関東大震災によって明治11年創建の旧聖堂が焼失したため、昭和2年(1927)に再建されたもので、教会としては珍しいギリシア神殿パルテノン風の建物である。、、、、ゴテゴテせずに白を基調とした簡素な聖堂で、落ち着いた雰囲気で祈りを捧げるのもいいね!
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・・・・・・・・・・ 教会の前に「暁星学園発祥の地」の石碑がある。 東京に住む人には、ミッションスクールとして有名な暁星学園を知る人は多いと思う。 その暁星学園の発祥は、カトリック築地教会敷地内に神学校として開設した家塾が母体となっており、設立は明治21年(1888)である。
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● 八丁堀駅方面に歩いて行くと「鉄砲洲稲荷神社」の前に出た。 『チョイト、手を合わせて行くか!』、、、、立派な富士塚もある神社で、御利益を期待して、100円硬貨を投げ入れ、二礼二拍手一礼。 御利益、宜しく!
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● 鉄砲洲稲荷神社から都営浅草線の宝町駅に出て帰宅する。
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2024年9月21日 (土)

彼岸

一昨日(19日)は“彼岸の入り”、ことしも彼岸の墓参りをすることに、我が家の御先祖様は、東京都八王子と千葉県松戸市に眠っている。 今年は異常気象の異常で過去最高の暑さ、高齢者に含まれる私達夫婦には連日の暑さが辛い! 今日は松戸の墓に参って来た。、、、、墓石の周りの植木は大きく成長し葉が茂り、御先祖様も暑苦しいと思われる。 夫婦二人で散髪屋のように枝を切り、葉を落とし、雑草を除去すること小一時間。 サッパリ、綺麗に墓を整理し、花・線香を供え、合掌。 ・・・ お供えは 春は牡丹餅 秋御萩Dsc03530

2024年9月17日 (火)

荒川沿いの北千住

東武伊勢崎線の堀切駅から、荒川の形状に沿って北千住の町を歩く。 西新井橋南詰の千住桜木のバス停まで歩いてきた。 1万1千歩


堀切駅は、令和4年(2022)度の1日平均乗降人員は約4000人で、東武スカイツリーライン(伊勢崎線)愛称区間では最も利用客が少ない駅である。、、、、堀切駅は、明治35年(1902)の吾妻橋(現:とうきようスカイツリー)~北千住間開業時にできた駅であるが、開業当時の堀切駅は今よりやや東で、ちょうど荒川のど真ん中付近にあった。 開業当時はまだ現在の荒川がなかったためで、荒川放水路(現:荒川)開削に伴って堀切駅が現在の位置に移転してきたのは大正12年(1923)7月1日のことである。 現在、地名としての“堀切”は荒川の対岸(東岸、葛飾区堀切)であるのに、西岸にあるこの駅が堀切(足立区千住曙町)と名乗っているのはこのためである。 駅の東側は荒川が流れ、西側も400m程歩くと隅田川岸にぶつかる。 川と川に挟まれくびれた所に堀切駅がある。 都会の中の秘境駅である。、、、、相対式ホーム2面2線の地上駅で、駅舎は上下線それぞれにあり、ホーム間の構内移動はできない。 駅員も乗客も上下線の移動は、一旦改札を出て、跨線歩道橋を渡る必要、、、、電車は北千住~浅草間の普通電車しか止まらず若干不便だが、『これぞ下町』を感じる駅である。 小津安二郎の名作『東京物語』(1953年)やテレビドラマ『3年B組金八先生』にも登場した懐かしい駅だ。 駅に隣接して、病院、学校があるが、駅周辺にはコンビニ、喫茶店など店は一切無く、“飲みたかったら自販機で!”
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・・・・・・・・・・ 駅前の荒川の土手に上がると、対岸の葛飾区と結ぶ堀切橋がよく見える。  振り返り、土手下の駅を見ると、駅名標が目線の下に!
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● 堀切駅から土手下の住宅密集地を歩くと、製紙工場の跡地に平成元年(1989)に開園した公園「柳原千草園」がある。 驚く程の広さの公園ではないが、園内は四季折々の植物が植えられている。 さらに、住宅密集地のため防災面にも配慮されており、防火用貯水槽2基を備え、消防車など緊急車両が園内通過できるようになっている。
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● 足立区柳原の町には柳原千草通り」と呼ばれる商店街がある。 来るたびに廃業した店舗が増え、今や“商店街”らしさは消えた。 寂しいね!
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● 柳原の町から日ノ出町の町に入ると、シンボルのような大きな集合住宅による旧公団の日の出団地がある。 昭和43年(1968)に竣工した、4棟(764戸)の団地。、、、、千住の町を威圧している建物だったが、近ごろはタワマンなども建ち、目立たなくなってきたかな?
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● 日の出町で荒川土手に上がってみると、正面に小菅(葛飾区)の東京拘置所が、左手に東武伊勢崎線、つくばエキスプレス、JR常磐線、東京メトロ千代田線の橋梁が重なり見える。、、、、今日も暑い! 汗が噴き出してる! 拘置所の中は冷房してるかな?(羨ましいね)
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● 東武伊勢崎線荒川橋梁とつくばエキスプレス荒川橋梁の間に、日蓮宗の久栄山清亮寺がある。 元和5年(1619)身延山久遠寺末として、水戸街道入口のこの地に創建された。 本尊は、一塔両尊四士合掌印、宗祖日蓮説法像を中心に、全部で15躯の仏像で構成されている。 本堂は天保4年(1833)に再建の総欅造りである。 昭和6年再建の山門(薬医門)に掲げる扁額「久栄山」の書は、六朝風の名筆中村不折によるもので、昭和59年登録文化財(書跡)となる。
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・・・・・・・・・・ かつて門前の水戸街道に面して古松が茂り水戸光圀公ゆかりの「槍掛けの松」が境内にあった。 今は、千住名物“槍掛けだんご”として名を残している。(近くのだんご屋で売ってます、賞味あれ!)
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● 日光街道(国道4号)を横断し、千住新橋の南詰にあたる千住大川町に入ると、荒川土手の下に「大川町氷川神社」がある。 祭神は素盞鳴命・倉稲魂命である。 永仁2年(1294)に千住五丁目川田耕地に素盞鳴命を勧請したのが始まりとされています。 大正2年(1913)に荒川放水路(現:荒川)の開削工事のために現在地に移転した。、、、、チョイト広い境内には、規模のチョイト大きい富士塚があり、常時登拝可能である。 あまり参拝者がいるかんじではないが、境内はしっかりと整備されている。
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・・・・・・・・・・ 旧千住新橋は明治44年(1911)から荒川放水路の大改修計画の一環として、大正9年(1920)より同13年(1924)までの永い歳月と、119万円を費やして完成したものだ。 橋の構造、規模は長さ452.7m、幅7.2m、鋼板桁の近代橋であった。 その後、昭和32年(1957)に幅17.0mに拡張したが、老朽化により架け替えすることとなった。 この時の千住新橋の親柱が保存されている。、、、、何だか汚れが目立つようになり、チョイト親柱がショボクレテ見える!
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● 土手下の道を歩き、西新井橋南詰に出た! 汗ダラダラ、頭ポカポカ、足クタクタ、今日の散歩はここまで。 近くのバス停「千住桜木」からバスに乗る。 
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2024年9月13日 (金)

高岡旅行 2

13日は雨晴温泉で御目覚め。 早朝の露天風呂で、“今日も頑張るぞ!”、、、、今日の目標は、瑞龍寺とともに“越中高岡三寺”を構成する、国泰寺と“伏木”の勝興寺への参拝。 さらに、北前船の寄港地“伏木”の貴重な建物を見学。 最後は高岡の千本格子の家並みである金屋町を歩いてみる。



● 高岡市と氷見市の境付近に位置する国泰寺は、雨晴温泉の近くではあるがバスなどの公共交通機関が無く、宿からタクシーで行くことにした。 山の静寂に包まれた国泰寺(こくたいじ)は、臨済宗国泰寺派の大本山である。、、、、国泰寺は、永仁2年(1296)に立てられた草庵に始まるとされる。 その後、種々の歴史があったが、明治の初め、全国に広がった廃仏毀釈の嵐は国泰寺にも広がり、寺は荒廃した。 窮状を直に見た山岡鉄舟は、再興を願い自らの揮毫で広く浄財を集め、寺を復興させた。、、、、三重塔、日本一の大きさを誇る石庭など見るべきものも多い。 しかし、今正月の地震による、伽藍の損傷、白壁の崩落や瓦の落下、墓石や灯籠の倒壊等、多大な被害に見舞われた。 方丈などの内部は修復工事中で、主な建物を外から見てきた。 チョイと残念だが、寺の再興を願うばかりなり! 
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● 高岡市を流れる小矢部川の河口に“伏木(ふしき)”の町がある。 その伏木の高台に浄土真宗本願寺派の寺院、雲龍山勝興寺(しょうこうじ)がある。、、、、勝興寺の起こりは文明3年(1471)の蓮如が越中砺波郡に創建した土山御坊に始まるが、現在の伏木に築かれたのは、天正13年(1584)である。 佐々成政が富山の役で敗退した後、一帯は前田利家が領し、1618年には前田利常により25石の寺領が加増されるなど、江戸時代にかけて加賀藩前田家の庇護を受けて境内が整備された。、、、、寺の敷地は土塁・空濠で囲まれており、越中の国府跡と言われてる。 境内は東を正面とし、総門、唐門を入った敷地南寄りに大規模な本堂が建ち、北寄りには大広間、書院、台所など寺僧の居住・接客用の建物群が軒を列ねる。 近世建立の堂舎群がまとまって残り、近世寺院の景観を残す点に価値が認められる。 建造物は、本堂と大広間・式台が国宝、唐門や経堂など十棟が重要文化財に指定されている。、、、、建造物の文化財が多く大きな建物だが、この猛暑では建物の中までサウナ状態、一通り見学すると汗びっしょり、国宝の良さを知るよりも、一風呂浴びた感じ! 今度来るときは雪の積もった冷蔵庫状態の時に来てみたい!
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● 勝興寺から300m程歩くと、高台に「高岡市伏木気象資料館」がある。 ここは、かつて越中国守大伴家持が住んでいた館のあったところらしい。、、、、明治10年(1887)、北前船の有力廻船問屋であった能登屋藤井能三氏が岩崎彌太郎と約束して設置した伏木港の灯台兼測候所が初代のもので伏木港のすぐ近くにあった。 その後2度移転し、明治末期に現在の地に移転した。 現存する建物は明治42年(1909)に建てられた洋風木造建築で、旧伏木測候所である。 鉄筋コンクリート造3階建ての建物は、昭和13年(1938)建築の測風塔。 2棟とも国の重要文化財。、、、、こちらも、正月の地震で被災し、内部の壁には亀裂が入っている。 修復予算が付き次第、修理したいそうだ!
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● こちらも高台にある「伏木北前船資料館」、江戸時代から廻船問屋を営んできた旧秋元家の邸宅である。 屋敷の部屋数は全部で16室。 江戸時代に建てられた土蔵には、屋根の上から港への船の出入りを見張る望楼が設けられている。、、、、狭い急な階段を上り望楼から伏木の町を眺めてきた!(小泉元首相も上ったそうだ!)
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高岡商工会議所伏木支所の建物は明治43年(1910)に建てられた。 土蔵造りの洋風建物。 こちらは正月の地震で大きく被災し、『要注意』の貼紙がある。 閉鎖されてる。 修復可能か?不可能か?
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● 伏木を歩いた後は市内中央に戻り、高岡の地場産業の基礎を築いた鋳物発祥の地「金屋町(かなやまち)」を歩いてきた。、、、、「高岡市金屋町伝統的建造物群保存地区」として、平成24年に国から選定された。 400年の伝統が息づく金屋町は、昔の面影を“千本格子”で残している。 風情ある石畳に、千本格子の家が軒を連ね、いいね! 鋳物の町は、暑い熱い!
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● 古き伝統の残る町“高岡”の夫婦二人旅はここまで! 記念に仏壇の“おりん”を買ってきた。 チン~~~~~

2024年9月12日 (木)

高岡旅行 1

12日から1泊2日で、富山県高岡市へ夫婦で行ってきた。 二日間で、万葉線全線乗車と沿線観光、高岡市内三ヵ所の重要伝統的建造物群保存地区巡り、市内三ヵ所の大寺院参拝、雨晴温泉泊りを、猛暑の下で旅してきた。



● 7時20分東京発の北陸新幹線に乗車し、9時50分新高岡駅に到着。 二日間の夫婦旅の始まり。、、、、新高岡駅は在来線の高岡駅からは約1.6㎞南に街の中心からはずれた所にある。 駅の外は残暑の続きで、暑い、暑い! 汗が噴き出る!
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● 新高岡駅と高岡駅の中間あたりに、曹洞宗の仏教寺院、瑞龍寺(ずいりゅうじ)がある。 山号は高岡山(こうこうざん)。 本尊は釈迦如来。 瑞龍寺の開基は前田藩3代目当主前田利常。 高岡城を築城してこの地で亡くなった前田家2代目当主、前田利長を弔うために建立された。、、、、仏殿、法堂、山門の3棟が近世禅宗様建築の代表作として、平成9年(1997)に富山県初の国宝に指定されている。 昭和60年(1985)から、総工費約23億円を掛けて大規模な修理(昭和・平成の大修理)に着工し、平成8年(1996)までの約10年をかけて完了した。、、、、暑さが影響してるのか?観光客も少なく、整備された広くて大きな境内を、じっくり拝見し、感動!
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万葉線は高岡駅から終点の越ノ潟まで全線25駅(12.9㎞)を約45分程で運行する、万葉線株式会社(第三セクター)の高岡市内の路面電車である。 数人の乗客と共に高岡駅から乗車し、途中からは私達夫婦の貸し切り状態で終点越ノ潟まで完全乗車。 今回の旅の目的の一つである“万葉線全線乗車”を達成する。、、、、万葉線の開業は越中鉄道による、昭和5年(1930)10月12日、西越ノ潟駅(現存せず)~新湊東口駅(現:東新湊駅)間1.2 ㎞の開業に始まる。 その後、富山地方鉄道、加越能鉄道をへて現在の万葉線株式会社の所有となった。 路線も高岡駅まで延伸した。 車両は超低床構造の2車体連接車(アイトラ))で主に運行してる。 、、、、「万葉線」の名は、かつて越中国守として高岡の伏木に赴任した大伴家持が、『万葉集』の編集をはじめ、数多くの歌を残したことにちなんで、現在の万葉線(当時は高岡軌道線・新湊港線 と呼称)を加越能鉄道が経営していた時代の昭和55年(1980)に「万葉線」という愛称が付けられた。、、、、乗った気分は、東京の都電荒川線と宇都宮のLRTを足して2で割ったような印象だった。 満足!

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・・・・・・・・・・ 終点の越ノ潟駅は富山湾に面しその先は富山県営渡船発着場
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・・・・・・・・・・ 沿線の広場の一画に、昭和25年(1950)製造(日立製作所製)、平成24年(2012)までの62年間にわたり主力車両であった、「デ5022号車」が展示されてる。
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● 万葉線の終点、越ノ潟の近く、富山湾に面して架けられた「新湊大橋」がある。 新湊大橋は日本海側最大の斜張橋で、上層は車道、下層は歩行者通路の2層構造になっている。 主塔の高さ:127m、海面から橋桁までの高さ約47m、総工費は約494億円で平成24年に開通した。
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・・・・・・・・・・ 新湊大橋の近くには、商船学校の練習船として誕生した帆船海王丸が停泊してる。
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● 万葉線の吉久(よしひさ)駅の近くに、「高岡市吉久重要伝統的建造物保存地区」がある。 伝統的建造物(建築物)50件、伝統的建造物(工作物)4件、環境物件4件が指定対象である。、、、、県の案内によると、『江戸時代前期の加賀藩最大の年貢米等を収めた米蔵(御蔵)設置に伴い成立し、農業を営みつつ、御蔵の業務を兼業する住民により発展した在郷町。 御蔵が廃止された明治以降、伏木で米穀商や倉庫業に進出した有力町民が現在の町並みを整備した。 吉久御蔵を中核として形成された江戸後期の地割を良好に残しつつ、明治以降に米穀商を中心に整えた町並みを継承している。 江戸後期から明治期に建てられた当地域独特の農家風の間取や造りを残した町屋建築が良好に保存されている。』、、、、飲食店・土産屋などもなく、道幅は狭く、保存地区が小規模であり、チョットした散歩気分で歩ける場所だ。 通り雨も上がり濡れた道に、細かい格子の並んだ昔ながらの家並みの雰囲気を味わいつつ、散策できた。
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● 2ヵ所目の伝統的建造物保存地区は、万葉線の片原町駅の近くにある「高岡市山町筋伝統的建造物群保存地区」、、、、こちらは県の案内によると、『高岡城が廃城になり、衰退した城下町の再興のため、加賀藩3代藩主前田利常は元和6年(1620)に町人の転出禁止の布告を発し、商業都市高岡が発足した。この山町筋は再興された高岡を通る北陸道に沿って形成され、商業の中心地として栄えた。明治33年(1900)6月の大火で市域の6割が焼失し、山町筋も大被害を被った。その後、防災性能の向上のため、明治32年に発布された「建築制限令」に従い、土蔵造りの町屋群として再興し、現在の姿に至っている。保存地区は、東西約600m、南北90m、面積5.5haで、建物周囲を不燃材で覆う構造、すなわち土蔵造りの町家に特徴がある。土蔵造りの町屋は2階建て、切り妻造り、平入り、瓦葺きで軒裏を漆喰で塗り込める。保存計画では、土蔵造りの町屋等の建築物を92件、防火壁等の工作物を12件、伝統的建造物に選定し保存の措置を講じている。』、、、、関東の人には、埼玉県の川越の街をチョイト小さくした町と言えばイメージできそうだ! 高岡も川越も、火災で強くなった町!
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● 奈良、鎌倉につぐ日本3大仏に数えられる「高岡大仏」は、伝統の銅器製造技術の粋を集め、明治40年(1907)から26年の歳月をかけて作られたもの。 総高16m、重量65tというスケールの大きさは圧巻。 日本一の美男と呼ばれる大仏(阿弥陀如来坐像)は、高岡の象徴として市民に愛されているらしい。、、、、高岡駅の近く、民家が建ち並ぶ裏通りに大仏は鎮座している。 拝観料も撮らず、道行く人の健康を見守っているようだ!
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● 高岡駅からJR氷見線に乗り、宿のある「雨晴駅(あまはらしえき)」へ向かう。、、、、晴れた日には富山湾越しに立山連峰の3,000m級の山々を望むことができ、景勝地として人気がある「雨晴海岸(あまはらしかいがん)」が駅の近くにある。 「雨晴駅」は平成30年頃に、青春18きっぷのテーマ駅に選ばれ、駅からの風景がポスターやチラシに用いられた。、、、、ホームの前に富山湾が広がるローカル駅。 下車したのは、私達夫婦を含めて数名だった。 最高の景色!
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● 宿は駅前の山の上にある雨晴温泉のホテル。 海を見下ろす露天風呂につかり、海鮮の美味を味わい、猛暑の疲れを癒し、Good Night!
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2024年9月 9日 (月)

目白から長崎まで

東京では、連日の猛暑日は終わったようだ、気温は35℃以下。 朝晩も涼しくなってきた。 朝の予報で、今日の最高気温は34℃と聞いて、早速、散歩に出ることにした。、、、、山手線の目白駅から、西武池袋線の東長崎駅まで、1万歩の散歩です。



●  東京に生まれ70余年東京に住み続けてる私であるが、“目白”という場所には縁遠く、学生時代は“目白駅”で下車したことはない、サラリーマン時代には仕事・商談などで来たことはない。 私にとって“目白駅”は山手線の通過駅である。 今日は久々に、そんな通過駅で降りてみようと家を出た!、、、、「目白駅」は、明治18年(1885)3月1日の日本鉄道品川線の品川~赤羽間の開業から、なぜか半月ほど遅れ、3月16日に目黒駅と目白駅の2駅が仲良く開業した。 以降、明治39年(1906)には国有化され国鉄の駅となる。 大正8年(1919)に建設された2代目の旧駅舎は日本初の橋上駅舎となった。 平成12年(2000)に改築された、3代目の現在の駅舎も橋上駅舎である。、、、、駅の隣りは、学習院大学、学習院中・高等学校。 駅の向かいは川村中・高等学校。 さらに周辺には各種の専門学校が多く、ラッシュ時の駅は学生が多いね!

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● 目白通りに面してたつ「目白聖公会」(新宿区下落合3)は、日本聖公会に属するキリスト教の教会である。 日本聖公会の教会は東京には全部で32の教会があるそうだ。 ここ目白聖公会は目白駅から徒歩5分程の目白通り沿いにあり、かつて目白通りに馬車が通っていた大正7年(1918)、病院の建物を改造し最初の礼拝が始まったとのこと。 現在のロマネスク様式の聖堂は、昭和4年(1929)に坪井正太郎の設計で建てられた。 戦災からも免れ、東京の聖公会の教会では唯一の戦前からの建物である。 昭和60年(1985)に英国トゥルロー教区にあるエピファニー修道院から、百年余り前に造られた美しいステンドグラスの寄贈を受けた。 聖人を描いたステンドグラスの美しさには、息を呑む。
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● 聖公会の教会から北に入ると、尾張徳川家伝来の美術品の保管・研究を目的に昭和6年(1931)に設立された徳川黎明会の建物がある。 ここは、尾張徳川家の美術品などの管理をする処のようだが、残念ながら内部は一般公開されていない。 従って外から眺めるだけです。 建物(昭和7年築造)は、銀座和光(服部時計店)や東京国立博物館を設計した渡辺仁である。
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● 徳川黎明会のある豊島区目白の高級住宅街をブラブラ
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● 目白の裏道を歩いて西へ向かうと、西武池袋線の「椎名町駅(しいなまちえき)」に出た。 椎名町駅は大正13年(1924)6月11日に開業した。 駅は相対式ホーム2面2線の地上駅。 平成23年(2011)に橋上駅舎が完成し、供用を開始した。、、、、椎名町という地名は江戸時代後期にはすでに存在し、町屋は現在の目白にあり、椎名町駅からは比較的離れた位置にあった。 昭和39年(1964)11月までのは、現在の南長崎1~6丁目と目白4・5丁目に椎名町という町名が付けられていた。 “椎名町”という地名からは、昭和23年(1948)に12名が毒殺された帝銀事件の舞台となった帝国銀行椎名町支店を想いうかべる人も多く、イメージの悪い「椎名町」という地名は消え、現在は「長崎」となっている。 今は“椎名町”の地名は無く、商店街名などに名を残している。
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● 椎名町駅北口の真ん前に、真言宗豊山派の蓮華山金剛院がある。 金剛院の創建年代は不詳だが、聖弁(永禄6年1563寂)が開山、江戸時代中期に現在地へ移転したといわれてる。、、、、金剛院の朱塗りの山門は安永9年(1780)に建立された。 天明期(1781~1788)に度々発生した大火の折、当時の和尚が先頭に立ち、多くの罹災者を金剛院で収容し助けた。 その功績が将軍 徳川家治の耳にとどき、褒賞として、山門を朱塗りとする名誉ある許可を受けた。 金剛院は村民から赤門寺(あかもんでら)の名で慕われた。 本堂は昭和29年(1954)に建てられた鉄筋コンクリート造である。、、、、境内は手入れの行き届いた植え込みや樹木のある静かで美しい情景が広がっている。 歴史ある板碑、馬頭観音碑、庚申塔、記念碑、顕彰碑なども境内にあり、金剛院の長い歴史を物語っている。
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● 明治元年(1868)の神仏分離令まで、隣の金剛院が別当寺であった長崎神社がある。 長崎神社は、その名の通り豊島区長崎にある神社である。 創建年代は不詳であるが、長崎村の鎮守として信仰を集め、江戸時代の中期には十羅刹女社と称せられていた。 明治の神仏分離令により十羅刹女神に代わり須佐之男命を祭祀し、氷川神社、そして長崎神社と改称し、現在に至ります。、、、、神社の西側に、帝銀事件の現場があったそうだ! それらしき遺構などは残っていない。
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● 椎名町駅から隣の東長崎駅までは、「椎名町駅前中央通り」、「長二サミット通り商店会」、「長崎小学校前通り明和会」、「長崎三友会」、「長崎十字会」と商店会が連続してる。、、、、時刻は9時過ぎ、全ての店が開いてるわけではないが、開店準備で忙しそうな裏通りの商店が続く!
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● 東長崎駅に着いた! 東長崎駅は大正4年(1915)4月15日に開業した(来年は開業110周年だ!) 島式ホーム2面4線の地上駅。 、、、、駅周辺はかって“長崎村”であったが、鉄道開業時に駅名が「東長崎」となったのは、長崎県長崎市の長崎駅と区別するためであった。
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2024年9月 5日 (木)

鳳凰堂を模した燈明寺

昨日は爽やかな風が吹く一日であった。 今日も秋風を期待し早朝の散歩に出た。 私の住む浅草橋からJR総武線で千葉方向に4駅目「平井駅」で下車し、スカイツリーのある押上まで歩いてきた。 ただし、持参したカメラのバッテリーが切れ、写真は途中の小村井駅まで、チョイト残念!




平井駅(江戸川区)は明治32年(1899)4月28日に総武鉄道(私鉄)の駅として開業。 明治40年(1907)には総武鉄道が鉄道国有法により買収、国有化され、官設鉄道の駅となる。 中央・総武線各駅停車しか停車しない浅草橋駅と同様に都心の冴えない駅である。 1日平均乗車人員は約3万人である。

・・・・・・・・・・ 朝8時頃、乗る人、降りる人、通勤通学客で駅は混んでる。 お勤め、ご苦労様です! 
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・・・・・・・・・・ 平井駅に到着する千葉方面から都心に向かう電車は、既に満員状態。 乗れない人もいるようだ、可哀そうに遅刻しちゃうぞ!

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・・・・・・・・・・ まだまだ夏の名残り、暑い暑い!

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・・・・・・・・・・ 駅北口の真ん前に建築中のタワマン、もうすぐ出来上がり! ちなみにネットを見ると、29階・3LDK(120.59m2 )で、価格は約2億5千万円也。 チョイト、私には買えないね!

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● 平井駅から北西に歩いて徒歩10分、旧中川の近くに「燈明寺」がある。 燈明寺は、新義真言宗に属し明雅山明王院と称し、本尊の不動明王(私は拝見したことがないが)は身長1丈3勺(3.9m)で胎内に弘法大師1刀3札の不動明王を安置してるそうだ。 燈明寺の創建年代については不詳であるが、元暁という僧により開山されたそうだ。 江戸時代中期の寛延2年(1749)に示寂した恵祐がこの寺を中興して聖天を勧請して堂を建て、以後「平井聖天」として有名になった寺である。
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・・・・・・・・・・ 燈明寺は、安政の地震(1855)で堂宇を損傷、関東大震災(1923)では本堂全壊という災禍にあう。 当時の関澄道貫主(26世)によって京都宇治平等院風の三屋根造りの優雅で荘厳な本堂が建立された。 昭和4年(1929)に起工し同19年(1944)に完成した。 建物は総高14.4m、幅17.1m、奥行27mの金堂造りである。、、、、たしかに、平等院鳳凰堂を模したという本堂は、近建築でありながら風格ある佇まいだ! (平等院鳳凰堂を知らない人は10円硬貨をよく見てチョ!)

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・・・・・・・・・・ 燈明寺の別堂である聖天堂は「平井聖天」といわれ、昔から待乳山聖天、妻沼聖天とならぶ関東三聖天の一つである。 江戸時代には歴代将軍の鷹狩の時、聖天に参詣され、また御膳所にもなっていた。 この聖天堂は、里見八犬伝の物語や桧山騒動の相馬大作の祈願したことなどでもその名を知られ、昔から多くの人の信仰を集めている。 毎年節分会に柴燈護摩(火渡り)を行っているそうだ。、、、、大根と巾着など、聖天さまと縁のあるものを探して見たら、賽銭箱に大根の文様があった! 

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● 燈明寺の隣りには「平井諏訪神社」がある。 創建年代は享保年間(1716~1736) 祭神は建御名方命で、信濃国一ノ宮諏訪神社の分社である。 享保年間に燈明寺の恵祐法印が、自分が生まれた国である信州の諏訪大明神の神霊をここに祀ったのが始まりと言われてる。 境内の中央の現社殿は昭和44年(1969)に新築。 再来週は例大祭なので、準備が進められている。、、、、広い境内ではないが、よく整備され気持ちよく参拝できる。

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● 平井諏訪神社の西側、旧中川に「平井橋」が架かっている。 江戸川区平井と墨田区立花を結ぶ長さ55.4mの橋である。 昔はここに平井の渡しがあり、行徳、船橋へとつないでいた。
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● 平井橋から1㎞程西へ歩くと、東武鉄道亀戸線の小村井駅(おむらいえき)がある。 小村井駅は、墨田区文花2丁目にある駅で、昭和3年(1928)4月15日に開業した。 相対式ホーム2面2線の地上駅。 駅舎は曳舟方面ホームの東あずま寄りにあり、上下線ホーム間を連絡する地下通路が設置されている。、、、、小さな駅舎、2両編成の列車が停まる短い地上ホーム、昭和の香りが漂う大都会のローカル駅。
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● ここで、カメラのバッテリー容量が無くなっていることに気づき、撮影中断、残念無念!

2024年9月 2日 (月)

与楽寺・吉祥寺

学校は夏休みが終わり今日から二学期。 『雅万歩』の夏休みも昨日でお終い。 この夏休みは、連日の猛暑日・熱帯夜、台風による大雨で、年寄りには酷な休みとなった。 私は、外出する機会も無く、連日家でゴロゴロしていた。 気が付けば、足は退化、腹は肥満、頭は鈍化。 良い事なしの夏休みとなった。 今日からは散歩も再開します。

1ヵ月半ぶりの散歩は、JR田端駅(京浜東北線・山手線)で下車し、早朝の与楽寺、吉祥寺と巡ってきた。 今日は“足慣らし”で、9千歩。




● 田端駅は山手台地の崖下に島式ホーム2面4線がある。 改札口は北口と南口の2か所あり、メインの北口はバス通りに面した駅ビル(橋上駅舎)である。 南口はホームから跨線橋を上がり、そのまま西側(崖側)に歩くと、崖上にへばりつくように造られた可愛らしい小さな駅舎田端駅南口」がある。、、、、朝、崖上から階段・坂道を下り、南口から乗客がホームに降りていく姿が見られる。、、、、田端駅は明治29年(1896)4月に日本鉄道の駅として開業した。 当時は、現在の南口付近からさらに崖下に下った位置に駅があったそうだ。 現在の南口駅舎が設置された年代は不明。 

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● 田端駅南口のすぐ前から南西に上る長さ30m程の急な石段がある。 坂の上からは、眼下に田端駅のホーム、さらに奥には東北新幹線の高架橋が見える。、、、、この坂は「不動坂」と呼ばれ、昔、田端駅近くに石造不動明王立像があったためこの名がついたそうだ。 現在不動明王は、ここから600mほどに移転し「田端不動尊」(北区田端3-14)となっている。

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● 不動坂を上ると、一息つく間もなく、先に下り坂がある。 緩やかに南に下る約130mの坂で、名は「与楽寺坂(よらくじさか)」。 その名の如く、坂は与楽寺境内に沿って与楽寺山門前に下る。、、、、この坂の上(田端1-20)に、今は面影は残っていないが、芥川龍之介が住んでいた。

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● 与楽寺坂を下り、真言宗豊山派の宝珠山地蔵院与楽寺に参る。 与楽寺の創建年代は不詳であるが、弘法大師が寺院をこの地に建立したのが始まりだと言われ、慶安元年(1648)には寺領20石の御朱印状を拝領し、京都仁和寺の関東末寺の取締役寺を務めていた。、、、、本尊は弘法大師の作と伝えられている地蔵菩薩で、別名として賊除地蔵(ぞくよけじぞう)といわれ、これには次のような謂れがあるそうだ。 『ある時代の夜、盗賊が当与楽寺に入ろうとしたところ、寺から多数の僧が現れ、盗賊と対決、遂には盗賊を追い出した。どこからそんな僧が現れたのか不思議がっていたが、その翌朝与楽寺の本尊の地蔵菩薩の足に泥がついているのが発見された。それから人々は、この地蔵菩薩が僧に変身して盗賊を追い出したのだと信じるようになり、賊除地蔵としてなお一層の信仰を得るようになったと言われている。』(北区の説明板による)、、、、住宅地の中の寺であるが、境内は整備されて広い、堂も大きく立派である。

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● 与楽寺から裏通りを歩き、動坂下交差点(文京区)に出る。 動坂(どうざか)は、地下鉄・本駒込駅からJR田端駅 に出る道の途中にあり、動坂上交差点から動坂下交差点付近まで。 南西方向に向かって上る、長さ200m程の緩やかな傾斜の坂である。 坂名の謂れは、江戸時代、坂上の北側に日限地蔵堂があったので、“不動坂”と呼ばれるべきところを略して“動坂”と呼ばれた。、、、、今は坂上には「東京都立駒込病院」がある。

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● 駒込病院と背中合わせの位置に、曹洞宗寺院の諏訪山吉祥寺がある。 長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、千代田区和田倉門に創建されたといいます。 徳川家康の入府に伴い、天正19年(1591)に水道橋へ移転、明暦の大火(1657)後、当地へ移転しました。 江戸時代には寺領50石の御朱印状を拝領、曹洞宗の栴檀林(せんだんりん、=駒澤大学の前身のひとつで、仏教の研究と漢学の振興とそれらの人材供給を目的とした学寮)として数多くの末寺を擁していた。、、、、境内は広く、しっかり整備されている、清々しい気分になれる境内だ!

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・・・・・・・・・・ 広い墓地には古い墓石が並び、歴史を感じさせる。 
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・・・・・・・・・・ 古い墓地なので著名人の墓も多数ある。 その内の、二宮尊徳の墓碑榎本武揚の墓
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・・・・・・・・・・ JR中央線の吉祥寺駅周辺には“吉祥寺”と名乗る寺は無い! 駅のある武蔵野市吉祥寺の地名は、明暦の大火で当寺の門前町の住民が住居を失い、五日市街道沿いに開発・移住したことにより、かつての地を偲び吉祥寺と命名したそうだ。




● 吉祥寺の墓地を歩き回ったためか? 暑さで汗はダラダラ、水をガブガブ、足はクタクタ、疲れた! 近くに「吉祥寺前」の都バスの停留場があった。 何人か並んでる。 時刻表を見ると、嬉しいことに、我が家に近い秋葉原駅東口行きのバスが3分後に来るようだ。 今日の散歩はここまでとして、バスで帰ることにした。
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