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2024年10月

2024年10月29日 (火)

秋の北上線 2

北上線の旅、二日目、今日は湯川温泉(岩手県西和賀町湯川)から、和賀川沿い(北上線も平行して走る)に下り北上駅へ戻ることにした。 しかし、北上線は運行本数が少なくダム見学してると今日中に帰ることができなくなるため、今日も“男の決断”で北上駅までタクシーを利用することにした。 午後は北上駅に近い「みちのく民俗村」へ行ってきた。



● 宿から迎えのタクシーに乗り、まずは「ほっとゆだ駅」の近く「湯田貯砂ダム」へ行く。、、、、湯田ダムの堆砂は、昭和40年(1965)のダム完成から40年近く経過して、ほぼ計画通りに推移してきたが。 上流部の山地崩壊が進行していることから、湯田ダムの上流側に湯田貯砂ダムを建設し、流入土砂を貯め込んで堆砂を防ぐことを最大の目的とし平成14年(2002)に完成した。(貯砂ダムは砂防堰堤と同様の役割を果たす)、、、、この貯砂ダムは内部に通廊が設けられ、通り抜け可能。 夏から秋にかけて水のカーテン越しに湖面が見える。 錦秋湖(ダム湖)の中程に位置し、水のカーテンは「錦秋湖大滝」と命名されているそうだ。 滝の裏側を歩いてきた、裏見の滝だ、感動! なお、錦秋湖の水位が高くなると通廊は水没し、さらに湯田ダムの常時満水位では貯砂ダム自体が水没するらしい。
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● 毎年秋の紅葉シーズンには一面真赤に染まった山々と錦秋湖の風景を眺めることができるそうだが、私達夫婦もその景色を期待して来たのだが、今年の暑さで紅葉は彩付かず、枯葉となって落ちてしまうそうだ。 さらに、今年は湯田ダム完成60周年で、錦秋湖の水位を下げて各種の補修工事が行われているとのこと。 観光案内所の案内嬢いわく『運がいい時(?)来ましたね。 今は10年に一度の水位を下げている時で、普段見られない水没した旧北上線の線路跡などが見られますよ。 ぜひよく見て行ってください』

・・・・・・・・・・ 茶色く焼けた樹々と水位の下がった錦秋湖
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・・・・・・・・・・ 湯田ダムの取水塔も足元まで丸見え
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・・・・・・・・・・ 水位が下がり横黒線(北上線の前身)のトンネルの遺構(トンネルの窓が横に連なっている)が見える(現在の北上線は後ろの山を走る)
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● 複雑な形をしたユニークな堤体面の湯田ダムは、国土交通省東北地方整備局が管理する特定多目的ダムで、「北上川五大ダム」(田瀬、石淵、湯田、四十四田、御所の各ダム)の第三番手として計画・建設された。 堤高89.5m、堤頂長265m、型式は全国に12基しか存在しない重力式アーチダムで、東北地方では唯一の存在。 水没住民との補償交渉が難航した初期事例としても知られている。 本体は鹿島建設の施工により、昭和28年(1953)に着手し、昭和39年(1964)に竣工した。(今年は60周年にあたる、おめでとう!)
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● 北上駅にてタクシーから降り、『帰りの新幹線は夕方だ! チョイト、北上市内を歩こうか?』 駅の観光案内所にて、昼食処と、ぶらつき先を教えてもらう。、、、、北上駅の東側に北上川が流れ、その対岸付近に「みちのく民俗村」という施設がある。(入村料は無料、うれしいね!) 谷間と丘陵地からなる約7万平方メートルの村内には、北上川流域の古民家10棟(江戸時代以降の民家)と古代の復元住居、さらに民俗資料館として公開されている「黒沢尻実科高等女学校旧校舎」(国登録有形文化財)などの建造が点在する。、、、、駅から直線距離は近いのだが、北上川が邪魔をして遠回りして川を渡ってこなければならず、さらにバスなどの交通機関もないので、チョイトどころではなく滅茶苦茶不便な所にある。 平日のだからか(?)来村者は少なく、広い園内に人の姿は探さないと見つからない!
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旧菅野家は、江戸時代、南部領と境を接する伊達領側の村(下口内村)にあった上層農家。 伊達領の住宅規定が書かれた「御郡方式目」(享保4年・1719)との照合から、大肝入(村長のなかでもさらに上役の村長)のものと考えられている。 国指定重要文化財
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・・・・・・・・・・仙台藩にとって戦略的に重要な場所は「要害」と呼ばれ、譜代の重臣を配置し、仙台の縮刷版のような城下を形成していた。 口内要害も同様で、伊達一族の格式をもつ中嶋氏が、浮牛城と呼ばれる城の城主となり、城下を形成していた。 旧大泉家の主・大泉氏は、城主・中嶋氏の家老職を代々歴任した家柄。 旧大泉家は城下の要となる大手門の前にありました。正式な玄関となる式台、控えの間となる下座敷、書院造りの上座敷など、武家住宅ならではの特徴が見られる。
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・・・・・・・・・・ 旧菅原家は、奥羽山脈の山懐にあり、雪が大変多い湯田地方(現西和賀町)の農家。 旧菅原家の馬屋は家の中にある。 旧南部領の特徴は、このような内馬屋と呼ぶ形式の民家が多いことだ。 特に「南部曲り家」は有名であるが、旧菅原家は曲り家ではなく、直ご家と呼ばれる形状の民家である。 屋根に勾配をつけて雪を落ちやすくさせたり、軒に「船枻造り」という工法を用いて、雪の重みに対する耐久力をつけるなど、豪雪地帯ならではの工夫が見られる。
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・・・・・・・・・・旧星川家があった紫波郡は、盛岡から10kmほど南に位置し、旧南部領の中でも、特に曲り家が多い地域である。 旧星川家は、幕末の建築と推定されており、主に明治以降のくらしを伝える民家。 台所から馬屋の様子がよく見えるつくりになっています。 南部曲り家の特徴は馬の飼育に便利なことといわれてる。
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・・・・・・・・・・旧黒沢尻高等女学校の校舎を移築して、中に農作業道具、手仕事、生活用品、信仰関係などの民俗資料が展示されている。 現在の岩手県立北上翔南高等学校(県立黒沢尻南高等学校)は、県立黒沢尻高等女学校を引き継いだもの。 その前身である黒沢尻実科女学校は、大正8年創立でこの地域の女子教育を担っていた。 校舎は昭和2年(1927)に建てられた木造2階建て。 国登録有形文化財。
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● 市内ブラブラの最後は、北上市役所とJR北上駅の狭間にある諏訪神社にお立ち寄り。 今回の夫婦旅行が無事に終わることを祈り、最後の神頼み。、、、、大同2年(807)、桓武天皇の勅命で坂上田村麻呂将軍が東夷征定の時、当地方の開発と産業の発展を祈願し、信濃の諏訪大社から勧請されたのが創建とされ、その後時代とともに五柱の神が合祀された。 その後、慈覚大師(円仁)が諸堂を建立し、冷泉天皇の勅命で源頼義が安倍頼時を征定する際に祈願をし、報賽によって社殿を修築した。 諏訪神社は元来、元宮の地(市内幸町)に鎮座していたが、八代盛岡藩主・南部利視の崇敬が篤く、享保19年(1734)に現在地に社領を賜った。
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● 北上駅から「はやぶさ110号」で無事帰京
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2024年10月28日 (月)

秋の北上線 1

28・29日の二日間、夫婦で紅葉を見に、北上線に乗ってきた! 東北新幹線で北上駅へ、北上駅から北上線で車窓の景色を楽しみながら横手駅まで行き。 横手城をチョイト見学。 その日の宿は、ほっとゆだ駅の近く湯川温泉に泊まる。 二日目は、北上線沿線の貯砂ダム、湯田ダムを見て北上市に戻る。 午後は北上市のみちのく民俗村を見学し、その後帰京した。



北上線は、北上駅(岩手県)と横手駅(秋田県)を結ぶ、路線距離 61.1 km、全線単線非電化のローカル線である。 起点の北上駅から、終点の横手駅まで全15駅をキハ100系気動車により、所要1時間20分程でワンマン運転が行われてる。 乗客は1両編成の車内にチョウド全員が着席できる程度である。、、、、北上駅を出ると北上川の支流:和賀川沿いに上り、途中ダム湖の錦秋湖などが車窓に見える。 今年は夏の暑さで紅葉の彩付きは悪いそうだ。 また錦秋湖の水位は低く、こちらも湖底が見えるほど。 絵葉書のような湖に映る紅葉は、チョイト無理だった! 県境を越え秋田県に入ると農村の景色に変わり、しばらくすると終点の横手になる。

・・・・・・・・・・ 北上駅の0番線ホームから、9時55分横手行きの1両編成の100系気動車が発車する。 この列車に乗り遅れると次は約4時間後の昼過ぎの列車まで待たなければならない。(北上線は一日に7本程の運転だ)、、、、北上線は、西横黒軽便線・東横黒軽便線として開業し、大正13年(1924)11月15日の全線開業の際に横黒線(おうこくせん、昭和41年北上線に改称)となった。 今年は開通100周年である。 それを記念して、北上、ほっとゆだ、横手の3駅で記念の鉄道カード(鉄道マニアには御宝カード)がもらえる。 私は、北上、ほっとゆだの2駅で入手できた、うれしい!
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・・・・・・・・・・ 北上駅から9駅目、ほっとゆだ駅は大正11年(1922)に鉄道省(国鉄)の西横黒線陸中川尻駅として開業した。 現在の駅舎は平成元年(1989)に建設された木造2階建てのもので、駅舎内に温泉施設のある珍しい駅。 総工費は1億2千万円。 2年後の平成3年(1991)には駅名を「ほっとゆだ」に改称した。、、、、北上駅で乗車した乗客のほとんどは途中駅で下車することもなかったが、この駅では10数人が下車した。 残りの乗客は私達を含めて、終点の横手まで乗車。
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・・・・・・・・・・ ほっとゆだ駅を過ぎると、北上線は県境を越えて秋田県に入る
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・・・・・・・・・・ 終点の横手駅へ到着。 横手駅は奥羽本線と北上線が乗り入れている。 明治38年(1905)6月15日に国有鉄道の駅として開業。 大正9年(1920)10月10日には西横黒軽便線(後の北上線)が開業。 単式ホーム2面2線と島式ホーム1面2線、合計3面4線のホームを持つ地上駅で、平成23年(2011)からは新築された橋上駅舎となっている。
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● “横手名物”と言えば、冬の“かまくら”、桜の“横手城”、昼食には“横手やきそば”。 思い出すのこのぐらい。、、、、せっかく横手に来たのだから、横手城を見に行こう!、、、、横手城は、その昔朝倉城といい、戦国時代(1550年頃)、現在の秋田県南部に勢力を築いた小野寺氏によって造られたと言われてる。 横手城は朝倉山を包むように横手川が流れ、背後は山、また山と奥羽山脈につづく独立した一箇の要害に建てられた平山城である。 城の普請は、石畳を用いないで土居削崖とし、土くずれを防ぐ土止めと、敵が這い登ることができないように韮(にら)を植えた築城だったので、別名「韮城」とも言われてる。 慶応4年(1868)の戊辰戦争の際に横手城は落城し、二の丸跡には、昭和40年(1965)に三層の天守閣を模した展望台(通称:横手城)が建てられた。 天守4階からは横手盆地が一望できる!GOOD!
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・・・・・・・・・・ 横手城の登城口として現在まで残る高さ50m程のつづら折りの古道「七曲」はキツイ!
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・・・・・・・・・・ 城址公園のレストハウスでB級グルメの“横手やきそば”を食す。 一目見て、『アレ? ナポリタン!』2410281253220


● 城下に残る武家屋敷通りを歩く、、、、江戸時代、横手城から見て横手川の内側は内町と呼ばれる武家町で、羽黒町には中級武士が配置されていた。 しかしながら幕末の戊辰戦争で、庄内・仙台連合軍の攻撃を受けた横手城は炎上し、横手城下の内町は過半が焼失してしまった。 昭和60年(1985)代より地域の人達がまちなみ保全の活動を始め、平成の「街なみ環境整備事業」により街並みが整備され、黒塀や植栽などデザインを統一することで、かつての武家屋敷の趣きが一層感じられるまちなみが形成されている。
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● チョイト、モダンな建物を見て来た!
・・・・・・・・・・ 城下の高台に建つ旧日新館。 旧日新館は明治35年(1902)、旧制横手中学校(現:横手高校)の英語教師として赴任してきたアメリカ人チャールス・C・チャンプリ(喜劇俳優のチャップリンではない!)の住居として建てられたものだ。 建設:小坂亀松、大工:藤村初五郎の作。 建物は洋館にはきわめて珍しく、木肌も美しい素木造りの簡潔な住宅。 また、すぐれたデザインの玄関・バルコニーの柱頭飾り・窓の額縁・櫛(くし)型の庇(ひさし)など、明治期の洋風建築の特色をよく残している。
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・・・・・・・・・・ 町中に、横手の歴史とともに百有余年という老舗。 明治以来、平源旅館として数々の著名人が訪れ大切に受け継がれてきた本館と蔵は、国の登録有形文化財。(昭和天皇も宿泊した旅館) 蔵は明治初期、本館は大正時代の建築。本館正面は人造石塗り、薄いベージュのタイル張り、浮彫装飾などを施した大正ロマンを感じさせる外観で、内部は全てに天然秋田杉を用いた純和風という2つの趣を持っている。 現在は、ウェディングスペース「平源」となっている。、、、、もう一度、結婚式を挙げてみたくなる建物!
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● 今宵の宿は、ほっとゆだ駅から山の方に入る湯川温泉に予約済。、、、、ところが、只今の時刻は15時、宿には16時頃に到着すると伝えておいたが、横手発北上線の上り列車は17時半までナシ、これでは夕食に間に合わない。 妻と“男の決断”で、横手駅からタクシーで宿まで行くことにした。、、、、岩手県和賀郡西和賀町(旧湯田町)の土畑鉱山にはかつて3,000人以上の従業員とその家族が暮らしていた。 しかし昭和51年(1976)の閉山に伴い多くの従業員が鉱山を去り、過疎化が進んだ。 その土畑鉱山に古くから湧き出る良質な温泉を利用して温泉旅館が営業していた。 そのうちの一軒が、今宵御世話になる宿である。、、、、山の中腹に、廃墟化した土畑鉱山の跡が見えるが、3000人以上の人々が住んでいたとは思えない。 宿で、最盛期の鉱山住宅が並び建っている写真を見せてもらったら、本当の話であったと実感できた。 納得!、、、、温泉に入り、ゆったり まったり のんびりと 疲れを取って 明日も元気に頑張るぞ!
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2024年10月24日 (木)

駒沢給水塔

久しぶりに駒沢の給水塔に行ってみた。 東急田園都市線桜新町駅から三軒茶屋駅まで、1万1千歩の散歩です。



● 東急田園都市線の桜新町駅は、チョイト珍しい構造で、地下2階が下り線と地下3階が上り線の2層構造で、それぞれの階に1面1線の単式ホームと壁に隔てられて隣に通過線がある。 改札は地下1階。、、、、明治40年(1907)4月1日に玉川電気鉄道(後の東急玉川線)の桜新町電停として開業。 昭和44年(1969)に、地下化のため、玉川線は廃止となる。 昭和52年(1977)4月7日、新玉川線(現:田園都市線)の桜新町駅が地下駅として開業する。、、、、桜新町駅は、主要道の国道246号(道路上には首都高が走る)からは、チョイと脇道にそれたような位置にあり、駅前は“世田谷”らしいセンスあるオシャレな町である。 (駅構内が薄暗いのは、只今天井の改装工事中のため)
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・・・・・・・・・・ 駅前ではサザエさんの像がお出迎え! ここは『サザエさん』の原作者:長谷川町子が住んでいた町である。
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● 桜新町駅から駒沢給水所へ向かう途中、駅から200m弱チョイト歩くと桜神宮がある。、、、、神社の組織体である「東京都神社庁」のHPで紹介されていない神社(?) 三重県の伊勢神宮と同じ天照大御神などがご祭神で、世田谷のお伊勢さんと呼ばれているそうだ。 明治15年(1882)、伊勢神宮の祢宜が創建したらしい。 古式神道を守る神社で、鎮火式(火渡り)や探湯式(熱湯を浴びる)などの神事もおこなわれている。 ご祭神は、安産の神(水天宮)、商売の神(稲荷)、学問の神(菅原)、伊勢神宮の神(天照、豊受)など、など、全てで19神。 どんなことでも、御利益がありそうだ! 参拝の作法も、一般の神社は“二拝二拍手一拝”だが、ここでは“二拝四拍手一拝”。 “四拍手”の部分はリズムのとり方が難しく、本番ではチョイと戸惑うね!、、、、明治15年(1882)創建。 創建者の芳村正秉は明治時代に誕生した神道系の宗教・神習教の創始者。 正秉は神社や神道のあり方に疑問を持っており、本来の神社の姿に復することを目的として神習教を創始した。 桜神宮では、天照大神をはじめ19神を祀り、古事記・日本書紀を経典としている。 創建時は東京神田にあったが、大正8年(1919)に神託により現在地に移転した。
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● 桜神宮の脇から駒沢給水塔までは水道道路が一直線に伸びている。 道路の正面に、王冠のような形の給水塔頂部が見える。
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● まずは、駒沢給水所の正面に行ったが、無人管理で施錠された門の奥は草木が茂り、給水塔は見えず。 堂々と中に入れる野良猫が羨ましいね! (セキュリティ上の理由から公開していないとのこと)
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・・・・・・・・・・ 正門から見えるスクラッチタイル張りと思われるポンプ建屋(昭和8年完成)は、平成24年(2012)、土木学会選奨土木遺産に認定された。

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・・・・・・・・・・ 駒沢給水所は、我が国の近代水道の父と呼ばれる中島鋭治博士により設計され、豊多摩郡渋谷町の町営水道施設として大正13年(1924)に完成した。 多摩川の伏流水を水源とする砧下浄水所から送水された水をポンプで2基の給水塔に貯留、落差圧を強めて自然流下で渋谷地区方面に給水する構想は、当時の日本では斬新なものであった。 現在は、施設の老朽化に伴い給水所としての機能を休止し、非常時用の応急給水槽として活用している。、、、、給水塔は2基ともギリシャ風のレトロな装飾が施されている。 鉄筋コンクリート造の円筒形の建物の周囲には12本のピラスター(付け柱)が設置され、屋上には避雷針を設けたドームを中心に、周囲に12個の紫色の照明灯を配置するという凝った造り。、、、、諸元:内径:12.12m~14.55m、塔高:約30m、有効水深:18.18m、容量:2,750㎡、設計者:中島鋭治、竣工年:第2号給水塔(北側)は大正12年(1923)3月、第1号給水塔(南側)は大正12年(1923)11月、給水塔も平成24年(2012)に土木学会選奨土木遺産として認定された。、、、、鉄筋コンクリート造り円筒形の2基の給水塔(愛称:双子の給水塔)の上部には、王冠を模した装飾が施されてる。 大正ロマンを感じさせるその独創的な意匠は、街のシンボルとして地域住民に親しまれているそうだ。 しかし、今日来てみて、給水塔がよく見えない! 給水所の周囲は民家・マンションが隣接し、さらに給水所内には樹木が生い茂り、周囲を一周したが給水塔の全容は見ることができなかった。 残念、ガッカリ!
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・・・・・・・・・・・・・ 以前、東京都水道局のホームページに載っていた10年程前の駒沢給水塔Photo_2_20241025122401


● 駒沢給水所をあとにして、弦巻通り(つるまきとおり)を歩く。 この道の正面には三軒茶屋の26階建てのキャロットタワーが見える。 途中、駒留陸橋の下をぬけ、ひたすら三軒茶屋を目指す。
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・・・・・・・・・・ 三軒茶屋に到着、キャロットタワーを見上げて、『ああ疲れた、歳を感じたね!』
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● 渋谷からの玉川通り(=R246)が世田谷通りと別れる、その分岐点の三角地帯にあるのが「エコー仲見世商店街」、短い2本の通りに昔からの洋品屋さん、肉屋さん、飲食店など、小さな店が並ぶ昭和レトロの香りが残るエリアです。 この商店街は昭和25年(1950)に誕生し今年で74年だ!
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● 東急田園都市線の三軒茶屋駅に着いた。 三軒茶屋駅は明治40年(1907)3月6日に玉川電気鉄道(後の東急玉川線)が開業。 昭和44年(1969)玉川線が廃止。 昭和52年(1977)新玉川線(現:田園都市線)が開業。 駅は相対式ホーム2面2線を有する地下駅。、、、、私が住む浅草橋駅とは乗客の雰囲気がだいぶ違うね! 若い人が多く、垢抜けしてる!
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2024年10月21日 (月)

八広から東あずま

京成押上線の八広駅から、東武亀戸線の東あずま駅まで、9千歩の散歩です。



● 墨田区の北、荒川沿いにある京成押上線の八広駅は、大正12年(1923)7月11日、「荒川駅」として開業した。 開業当初の駅は荒川(当時は荒川放水路)土手上に位置していたことから、“荒川駅”を名乗っていたが、昭和7年(1932)に墨田区の西側に接する「荒川区」が成立し、紛らわしい状況が続いた。 平成6年(1994)4月1日、紛らわしかった駅名を、当時地名から「八広駅」に変更した。、、、、荒川区は、現在の荒川(=荒川放水路)に接しておらず、区の周囲半分は隅田川に接している。 現在の荒川が荒川の本流となる以前は隅田川が荒川の本流であった。 つまり、荒川区は荒川(=現:隅田川)沿いあったが、荒川放水路が荒川と名乗ったため、“荒川”から離れた。 荒川区には、“荒川”は流れておらず“荒川駅”も無く、“荒川”を名乗るは都電荒川線と荒川遊園地だけだ、寂しいね! 
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・・・・・・・・・・ 八広駅は相対式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の構造である。 相対式ホーム(1番線)は上り線用、島式ホーム(2、3番線)は下り線用であるが、平日の7時9分発から9時16分発の上り電車は全て島式ホームの2番線から発車する。 相対式ホームは閉鎖され、1番線は優等列車の通過線専用となる。 2番線は上り各駅停車の待避線となる。、、、、島式ホームから人影が見えない相対式ホームを眺め、満員の普通電車を待つ心はイライラ、ムカムカしてるかも?
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● 八広駅から押上方面に向かう八広中央通りにでると、八広5丁目の交差点裏で、紫地色に「八広庚申堂」と染め抜いた旗がコッチャコ~イとなびいてる。 ホイホイつられて庚申堂へ向かう。、、、、庚申堂の門柱脇に櫛型角柱型の馬頭観音がある。右側面に「天下泰平」左側面に「村内安全」とあり、裏面に紀年らしき彫りがあるが読めない。、、、、正面には、3基の石仏を祀った庚申堂がある。 堂内には、左に享保5年(1720)造立の舟型光背型の地蔵菩薩。 中央は元禄2年(1689)造立の駒型庚申塔。 右には造立年代不詳の観音菩薩像が祀られている。、、、、境内の右端には、大師堂があり弘法大師の座像が祀られている。これはこの場所が、南葛八十八ヶ所の第54番札所だったから。
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● 八広中央通りを押上方向に歩いてゆくと、東京朝鮮第五初中級学校の正門前に「八広四丁目交番」がある。 交番横の植込みに隠れるように道標が1基ある。 道標には、「右 や久しみち」「左 ゑとみち」と記されてる。、、、、“やくし道(薬師道)”というのはかつてこの近くにあった木下川薬師を指すようだ。 その木下川薬師は、荒川放水路(現:荒川)の開削工事によって川の中央に水没するため、荒川の向こう岸にある浄光寺とともに移転した。 浄光寺(葛飾区東四つ木1)は青竜山薬王院浄光寺という天台宗の寺院で、現在も木下川薬師を配してる。、、、、植え込みの道標は尖頭角柱型で、やくし=木下川薬師、ゑと=江戸である。 造立年は不詳であるが、享保年間(1716~1735)のものと言われてる。 植込みで見えない側には「大畑村講中」とあるらしい。 江戸幕府八代将軍徳川吉宗の時、吉宗公が木下川薬師に参詣することになり、その道標として大畑村の村民が要所に道標を建立したものの一基であるとされている。(嘘か、真か、わしゃ知らぬ?)
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● 薬師道の道標から20m程南へ歩くと信用金庫の前に、彫刻家:池田宗弘による作品「旅人ー仲間と」がある。 墨田区の景観施策の一環である「まちかどアート」という取り組みで、平成6年(1994)度に設立されたそうだ。 池田宗弘は「真鍮直付け彫刻」という独自の技法で作品を製作するのが特徴だそうだ。、、、、私にはよくわからないが、街角で見かけるような情景で面白そうな作品である。
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● 八広中央通りをさらに歩き、真言宗智山派正覚寺の横を入ると「三輪里稲荷神社」(八広3)がある。、、、、三輪里稲荷神社は、慶長19年(1614)出羽国湯殿山の大日坊長が大畑村(八広、東墨田、立花の一部)の総鎮守として羽黒大神の分霊を勧請し三輪里稲荷大明神として鎮座した。 通称の「こんにゃく稲荷」と呼ばれ、初午の日に授与される「こんにゃくの護符」は、のどや風邪などの病に効くといわれている。、、、、、政界用語では“こんにゃく”は100万円の札束を言う。 裏金として“こんにゃく1丁”なら100万円、2丁なら200万円。 私なら1丁と言わず、2丁でも、3丁でも貰うのだが、万病に効きそうな“こんにゃく”だからね!
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● 三輪里稲荷神社に参った後は、裏道に入り八広中央通りから外れてしまった。 八広はなみずき通りを横断し、さらに裏道を歩くと、東武亀戸線と平行する都道476号(=丸八通り)に出た。
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東武亀戸線の「東あずま駅に到着、今日の散歩はここまでとする。、、、、昭和3年(1928)4月15日、平井街道駅として開業したが、昭和20(1945)平井街道駅は廃止された。 昭和31年(1956)5月20日、東あずま駅として再開業した。
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2024年10月16日 (水)

田端から宮城まで

JR京浜東北線・山手線の田端駅から旧小台通りを歩き、小台橋を渡り足立区小台に入り、豊島橋東詰の宮城二丁目バス停まで、1万歩の散歩です。



● 今日の散歩は田端駅北口からスタート。、、、、田端駅の歴史は古く、開業は明治29年(1896)4月1日、日本鉄道の駅として、後に東北本線となる路線上に開設された。 同じ明治29年12月には田端~土浦間(後の常磐線)が開業。 明治36年(1903)には、常磐の石炭などを横浜港へ運搬するために大塚支線(田端~池袋間 後の山手線)も開業した。その後、明治38年(1905)には、日暮里~三河島間(現:常磐線)が開業し、上野~土浦間の列車(現:常磐線)は田端駅を経由しなくなり、田端~三河島間は貨物線となる。  そして、明治39年(1906)11月1日、日本鉄道の国有化により国鉄の駅となる。、、、、現在の田端駅は、島式ホーム2面4線の地上駅で、ホームの柱には大正末期か昭和初期頃の古いレールが再利用されて現存している。 改札口は南北の2か所あり、北口は橋上駅舎で、線路上の人工地盤上に駅ビルがある。 南口は、線路脇の崖上にあり、小さく可愛らしい駅舎である。
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● 駅前の跨線橋「新田端大橋」を渡り、田端駅と尾久駅の中間にある田端機関区(田端運転所)と尾久車両センターをつなぐ回送線の「王子街道南亘り踏切」近くに古い道標(北区東田端2)がある。、、、、「左 王子道」「右 □阿弥陀 西新井弘法大師道」と彫られている。 文政11年(1828)とあるので、古くから存在する古道の道標だ! 踏切が在るのは「王子道」にあたり、私の散歩は右に折れて西新井弘法大師道に向かうことにした。

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・・・・・・・・・・ 西新井弘法大師道といっても普通の2車線道路である。、、、、先へ進むと、「東北回送線 第三下田端踏切」、「東北線 第三下田端架道橋」がある。、、、、さらに都道306号を横断した先には、比較的新しい道標(北区田端新町3)がある「右 西新井大師道」と彫られてる。 昭和48年(1973)の銘、おそらく信者の方が建立したものであろう。
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● 西新井大師道を道なりに北上すると、四つ角の先の街路灯に「小台(おだい)銀座」の文字が見える。 ここからは“北区”から“荒川区”に変わりる。 小台銀座の商店街が、約600mの長さで都電荒川線の「小台停留所」のある交差点まで伸びている。 西新井大師道の一部が小台銀座になったものと思われる。 小台銀座の商店街は、南側半分が「小台本銀座商店街」、北側半分が「小台本銀座通り柳会」と言う、二つの商店街で構成されてるそうだ。 この小台銀座の通りは、「旧小台通り」と言うらしい、名標も立ってる。、、、、まだ朝の8時半過ぎ、営業してる店は無く、シャッターも下りたまま、すれ違う人の数も少なく、商店街はまだ寝てるようだ!
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・・・・・・・・・・ 小台銀座の通りに面しチョイト大きな建物は、銭湯の「梅の湯」と総合病院の「佐藤病院」、どちらも地元密着の“頼れるありがたい施設”だ!
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・・・・・・・・・・ 小台銀座通り沿いに、「條里南道」と記された石碑がある。 この碑は、明治20年(1887)頃、人文地理学者の小田内通敏が東京府史跡調査を行った際に、このあたりに残っていた条里制の遺構の保存を進言して建てられたものだ。 条里制とは、古代の耕地の区画制度であり、基盤の目のような整然とした地割りが行われた。このように区画された耕地は、7世紀末ごろ制定されたという班田収授の法に基づき、農民に口分田として分け与えられた。 かつて荒川流域には多くの条里制の遺構があったが、現在では上・中流域にわずかにみられるのみらしい。
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・・・・・・・・・・ 條里南道の石碑の近く(荒川区西尾久5)に、道祖神がある。 3基の塔、いつの時代のものなのか、なぜにこの地にあるのか、由緒・謂れはさっぱり判らん、誰か教えて!
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● 小台銀座を抜けると、都道458号(小台通り)を歩く。 小台橋にて隅田川を越え、荒川区西尾久から足立区小台へ入る。、、、、小台橋架橋前は付近に「小台の渡し」があり、江戸時代より江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わっていた。 西新井大師や六阿弥陀のひとつである沼田の恵明寺に詣でる人々も多く利用した。 小台橋が最初に架橋されたのは昭和8年(1933)で、関東大震災後の都市復興事業により架橋された。 その後老朽化により、平成4年(1992)に現在の橋に架け替えられた。 現橋の型式は鋼ニールセンローゼ桁橋、橋長は122.0m、幅員は15.0m、都が管理する橋である。
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・・・・・・・・・・ 小台橋から上流を眺めると、左側の岸に「あらかわ遊園」の観覧車が見える。 右側は足立区。
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● 都道458号(小台通り)が荒川土手で都道449号に合流する地点(足立区小台2)に、天保期(1831~1845)の弘法大師道標と文久3年(1863)の地蔵尊がある。、、、、ここも、西新井大師道の一部かな?
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● 小台2丁目、荒川沿いの民家の一画に、保存状態の良い7基の庚申塔を祀った小堂「小台の七庚申」がある。 ここ一か所に7基もの庚申塔があるのは、足立区教育委員会の説明文では、『大正初期にはじまった荒川放水路の開削工事で、立退きの対象となった地から下川家(当地の地主)と共にここに移転安置したものである。承応三年(1654)から元文元年(1736)に造立された堂々とした造りで、江戸期庚申信仰が盛んであったことを物語っている。武州下足立郡淵江領宮城村の刻銘があるが、ここの地名をとって小台の七庚申と呼ばれ、人々の信仰を集めている。多くの民俗資料が消滅していくなかで、区民の努力によって保護保存されている代表的なものである。』と書かれている。、、、、荒川開削時に河床に沈んだ村から退避された庚申塔群。一つ一つの庚申塔にはそれぞれの歴史があるだろう、その歴史を勝手に想像すると面白そうだ!
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● 足立区小台・宮城の町を歩き隅田川に架かる豊島橋の東詰まで来ると都バス「宮城二丁目」バス停があった。 疲れがドット出て、もう歩けない! バスに乗ろう!、、、、今日の散歩はここまで。
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2024年10月13日 (日)

江戸東京たてもの園

三連休の中日、行楽日和なのでJR中央線武蔵小金井駅の近くにある「江戸東京たてもの園」に行ってきた。 9千歩の散歩



江戸東京たてもの園は、失われてゆく江戸・東京の歴史的な建物を移築保存し展示する目的で、小金井市の都立小金井公園(面積約80haの広大な都立公園。上野公園の1.4倍)にあった武蔵野郷土館(やはり旧家を保存していた施設)を拡大改築し、1993年(平成5年)3月28日、東京都江戸東京博物館(墨田区)の分館として、小金井公園の一画に敷地面積約7haを擁する野外博物館として開園した。 園内には、高い文化的価値がありながら現地保存が困難となった、江戸時代から昭和初期までの30棟の建造物を移築復元し展示している。 愛知県犬山の明治村と同様の施設であるが、明治村は全国規模の公共建築を主体に展示しているが、こちらは東京の民家や商店などを中心に復元展示している。、、、、広い園内に点在する建物、多くの建物は靴を脱いで内部を拝見することもできる。 全部の建物を一通り見て回ると、たっぷり3時間要し、足は棒になり、腹はグ~グ~。
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● 復元建物30棟の紹介はしないが、チョイト気に入ったものを紹介する。・・・・・興味あれば。ご自分で行って見て!

① 前川國男邸、、、、モダニズム建築家の前川國男が昭和17年(1942)に品川区上大崎に建てた自邸。戦時の建築統制下で建築面積は小さく抑えつつも、大屋根の中央に吹き抜けの居間とロフト風の2階を配している。東京都指定有形文化財、、、、内部の吹き抜けと三角形のシンプルな外観が気に入った!
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② デ・ラランデ邸、、、、新宿区信濃町にあった西洋館。 気象学者・物理学者の北尾次郎が自邸として設計したと伝わる平屋建てであったが、明治43年(1910)ごろ、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデにより、木造3階建へ大規模に増築された。 その後。所有者が複数回変わり、昭和31年(1956)からはカルピスの創業者:三島海雲が住んでいた。、、、、カルピスウォーターを飲む長澤まさみが出てきそうな洋館だ!
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⓷ 三井八郎右衞門邸、、、、第二次大戦終戦後に京都から港区麻布に移築された財閥三井本家の和風邸宅。東京都指定有形文化財、、、、母屋に付随する、三階建ての土蔵は明治7年(1874)の建築。 梁の太さに驚いた、さすが財閥!
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④ 吉野家(農家)、、、、江戸時代後期、多摩郡野崎村(現:三鷹市野崎)の農家。内部は昭和30年(1955)頃の生活を再現している。、、、、戦後の三鷹の農家、“囲炉裏を囲み家族で食事”そんな情景が浮かぶ内部!
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⑤ 高橋是清邸、、、、二・二六事件で暗殺された政治家・高橋是清の邸宅。 明治35年(1902)落成。 総栂普請。 和風邸宅に窓ガラスを使った初期の事例である。 是清はこの建物の2階で暗殺された。 昭和13年(1938)邸宅は東京市に寄贈され、母屋は多磨霊園に移築。休憩所「仁翁閣」となり戦災を免れた。、、、2階に上がってみたが、『どこで暗殺されたのか?』それらしき痕跡は見られない!
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⑥ 子宝湯、、、、足立区千住元町にあった宮造りの銭湯、昭和4年(1929)建築。 神社仏閣を思わせる入口の唐破風。脱衣場の格天井。豪華な造りだ。、、、、男女の仕切り壁上に並ぶ近所の店の看板。 懐かしさを感じるね!
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● 江戸東京たてもの園を出て、右(西側)へ向かうと、小金井公園の一画に、「C57形蒸気機関車とスハフ32形客車」が保存されている。 機関車は昭和21年(1946)製で、愛称“貴婦人”の名で親しまれた。 客車は昭和10年前後に造られたもの。 機関車と客車を連結し列車らしく展示されているのはイイネ、今にも走りそうだ! 
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2024年10月10日 (木)

六郷土手から京急蒲田

今日は、京浜急行本線の六郷土手駅で下車し、六郷神社、七辻を通り、京急蒲田駅までの、1万1千歩の散歩。



● 京急蒲田駅で普通に乗り替え、多摩川土手に接する「六郷土手駅(ろくごうどてえき)」で下車する。、、、、六郷土手駅は、明治39年(1906)10月1日、京浜電気鉄道の六郷堤駅として開業し、その後、現在の六郷土手駅に改称した。 駅は昭和20年の空襲で全焼し、戦後になって再建された。 昭和47年頃の六郷川鉄橋(現:六郷川橋梁)架け替えに伴い駅は高架化された。 ホームは相対式2面2線で、改札は高架下に設置されている。 駅はその名のごとく六郷川(多摩川)の土手上にある。 ホームの川崎寄りは京急六郷川橋梁に接するぐらい近い!、、、、高架駅ではあるが薄暗い高架下の雰囲気はレトロ感があり、“六郷土手”という何となく泥臭い駅名と共に昭和の匂い漂う駅である。
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● 六郷土手駅を出て、多摩川に向かうと「北野天神」がある。、、、、第8代将軍徳川吉宗の乗馬が暴走した際に落馬をを止めたことから、東海道を往来する武士から「落馬止め天神」と称されるに至り、この加護にあやかり将軍指南役の柳生家留守居役が近くに屋敷を構えた。 農民や町民は「止め天神」と呼んだそうだ。、、、、神社は天満宮本来の学問のみならず、災いや痛みを止め、「落ちない」ことを祈願すると、御利益があるらしい。
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● 北野天神の脇から多摩川土手に上がると、多摩川(=六郷川)の対岸には川崎市のビルが建ち並び、右手に京急六郷川橋梁、左手に第一京浜(=国道15号)の六郷橋が見える。

・・・・・・・・・・ 京急六郷川橋梁 、、、、京急の電車が初めて多摩川を渡ったのは、明治34年(1901)2月1日である。 このときは、単線の仮の木橋であった。 明治39年(1906)には、複線の木橋が架けられた。 明治42年(1909)に六郷川鉄橋の建設に着手し、2年後の4月1日に、6連のトラス橋、上路プレートガーダー、全長515.897mの堂々とした鉄橋が完成した。、、、、昭和47年(1972)3月31日に、現橋である京急六郷川橋梁が完成した。 プレートガーダー桁なしの8連トラス橋、全長550.56mである。 トラス橋が見事に連なり壮観である。
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・・・・・・・・・・ 六郷橋 、、、、京急六郷川橋梁の下流側に、第一京浜が走る六郷橋が架かっている。 現橋は、旧六郷橋を段階的に拡幅するために、昭和54年(1979)に着工し、平成9年(1997)に全ての工事が完了し、今の六郷橋となった。 長さ443.7m、幅34.4m。 橋の幅は倍以上となり、車道も片側3車線に増加した。 総工費は約125億円とのこと。
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・・・・・・・・・・ 六郷橋の六郷橋の北詰にある宮本台緑地(大田区側)に、大正14年(1925)に開通した旧橋の橋門・親柱が残されている。 鉄骨の橋門、石造の親橋ともに、かなり立派なもので、堂々とした橋であったことがうかがえる。
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● 六郷土手駅から500m程北東へ歩くと、第一京浜に面し六郷神社がある。(東六郷3)、、、、天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の 白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、 前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、六郷神社の創建と言われている。 文治5年(1189)源頼朝もまた奥州征定の時、祖先の吉例にならい、白旗を立てて戦いでの勝利を祈願したので、建久2年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営した。、、、、現本殿は享保4年(1719)建立、拝殿は昭和62年(1987)に総檜権現造で建て替えられた。 また、現存する神門前の石造神橋は、梶原景時が寄進したものである。、、、、 六郷の総鎮守で、広い境内には立派な社務所もあり結婚式もできるそうだ、大きな神社である。
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・・・・・・・・・・ 境内には、明治7年(1874)に架けられた旧六郷橋木橋の親柱が残されてる
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● 第一京浜国道より一本東側に入った裏通りを歩くと東六郷と南蒲田の町境にある「七辻」の交差点に出た。 その名の如く、七本の道路が交差する交差点である。 交差する道路の道幅はさほど広くはないが、それなりに交通量は多いようだ。 しかし信号機はない! ドライバーの譲り合いの精神により信号機は不要なのかも?、、、、七辻をパノラマ風に撮影したが、7本の道路判るかな?
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・・・・・・・・・・ 七辻の上空写真
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● 七辻から「日の出銀座商店街」を歩き環八通りに出る。 日の出銀座商店街は、およそ550mの道路と、中程で分岐する道路沿いを含めた、およそ50件ほどの商店で構成された、地元密着型の商店街である。、、、、午前10時頃、人影はまばら、シャッターの下りた店もある。 チョイト商店街としては寂しいね!
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● 環八通りを横断し京急蒲田駅に到着。、、、、京急蒲田駅は、明治34年(1901)2月1日に、蒲田駅として開業。 大正14年(1925)に京浜蒲田駅に改称。 昭和62年(1987)に京急蒲田駅に改称。 平成13年(2001)に高架化工事に着手し、平成22年(2010)に上り線の高架化完成、平成24年(2012)10月21日には下り線の高架化も完成した。、、、、駅は2階・3階に島式ホーム2面6線を有する高架駅。 本線と空港線の分岐点である。
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2024年10月 6日 (日)

武蔵一宮 女体神社

武蔵一宮である氷川女体神社と氷川神社を巡り、1万1千歩の散歩。



● 今朝、食事前に地図を見てると、JR東浦和駅の北3㎞程に“氷川女体神社”がある。 20年程前、JR川崎駅前(神奈川県)の“女体神社”に参ったことがある。 この時は、“女体”と称してもそれらしき謂れや関連する物も無く、極々普通の神社であった。 東浦和の“女体神社”も同様に普通の神社と変わりはないと思ったが、“女体”の文字の前に“武蔵一宮”と冠し、「武蔵一宮 氷川女体神社」と称してる。 起きがけの寝ぼけた状態で、助平爺の要らぬ妄想が始まり、ひょっとしたら、“御神体は女体かも?”、“拝殿前には撫で牛ならぬ、撫で女体があるかも?”、“御守りは女体を模したフィギュアかも?”  『ヨシ早速、武蔵一宮の氷川女体神社へ行ってみよう!』・・・・・と言うことで、早めの昼食後、一雨降りそうな曇り空の下、武蔵一宮氷川女体神社へ“Let's go!”

・・・・・・・・・・ JR東浦和駅前からバスに乗り、神社に近い朝日坂上バス停で下車。 歩いて数分、神社に向かう。 住宅地の坂を下ると「見沼代用水西線」と称する小川が流れ、そこに朱塗りの橋が架かり、正面に高台の境内に向かう階段と鳥居が見える。
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● やってきました「武蔵一宮 氷川女体神社」へ。、、、、氷川女体神社の由緒は、社伝によると、第10代崇神天皇の時代に勧請をしたと伝えられている。 氷川女体神社の“女体”は、祭神である稲田姫命(いなだひめのみこと、女神)に由来し、日本書紀のなかでは、稲田姫命は須佐之男命(すさのおのみこと)がヤマタノオロチ退治の際に助けて妃にした姫とされている。 また、一説には、当社である氷川女体神社(女体社)と、大宮区高鼻町にある大宮氷川神社(祭神:須佐之男命・男体社)、見沼区中川にある中山神社(祭神:大己貴命・王子社)の三社を合わせて、“武蔵一宮”と称したと伝えられている。 この三社は、地図上では氷川女体神社から北西へ、中山神社、大宮氷川神社へ向かい、一直線上に並んでいる。 また中山神社はその中間に位置する。 氷川女体神社の拝殿には、武蔵国一宮の扁額が掲げられてる。 中世以来、武門の崇敬を集めており、鎌倉北条氏、岩槻太田氏、小田原北条氏などにゆかりある書物や宝物が多く所蔵され、徳川将軍家からも社領50石を寄進されたそうだ。、、、、現在の社殿は、寛文7年(1667)徳川幕府四代将軍家綱が忍城主阿部忠秋に命じて建立した。 本殿は三間社流れ造りで全面に朱の漆が塗られ、拝殿と相の間で結ばれており、形式的には権現造りに近い建造物です。
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・・・・・・・・・・ 祭神は古の女神、生身の女神ではない! 撫で牛ならぬ撫で女体もなし! 御守りはフィギュアではなく普通の御札! せめて社務所の巫女さんは若い女性を期待したが、登場したのは60歳ほどの古の女性。 妄想の全ては幻想であった! 、、、、罰当たりな妄想は封印し『神さまゴメンナサイ!』 賽銭箱に100円硬貨数枚を投げ入れ、神聖な気持ちで二礼二拍手一礼する。




● 女体神社から、曼殊沙華の咲く見沼代用水西線沿いにしばらく歩き、“芝原”と言う所からバスに乗る。 乗ったバスは浦和駅行き。 ここまで来たら、ついでに大宮氷川神社に寄って行こう!
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● 大宮駅から氷川神社の長い参道を歩き「武蔵一宮 氷川神社」に参る。、、、、氷川神社の祭神は男体である須佐之男命(すさのおのみこと)。 ここ大宮の氷川神社は関東一円(約280社)に広がり信仰される各地の“氷川神社”の中心的となる総本社である。 また、歴史も古く、地名“大宮”は氷川神社を指すものである。、、、、氷川神社は、孝昭天皇3年(紀元前473)に創建、日本武尊が東征の際には当社に祈願したと伝えられている。成務天皇(130~190)の代に出雲族の兄多毛比命が武蔵国造となり当社を奉崇し、出雲国斐伊川の名より氷川神社と称するようになったそうだ。、、、、現在の社殿の多くは紀元2600年(=昭和15年(1940))を記念して造替されたものである。 国の文化財と称する古い建物はないと思われる。
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・・・・・・・・・・ 氷川神社に参った後は、参道沿いの“氷川だんご”にお立ち寄り!、、、、今日の散歩は、女体が団子に変わった!

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