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2024年10月29日 (火)

秋の北上線 2

北上線の旅、二日目、今日は湯川温泉(岩手県西和賀町湯川)から、和賀川沿い(北上線も平行して走る)に下り北上駅へ戻ることにした。 しかし、北上線は運行本数が少なくダム見学してると今日中に帰ることができなくなるため、今日も“男の決断”で北上駅までタクシーを利用することにした。 午後は北上駅に近い「みちのく民俗村」へ行ってきた。



● 宿から迎えのタクシーに乗り、まずは「ほっとゆだ駅」の近く「湯田貯砂ダム」へ行く。、、、、湯田ダムの堆砂は、昭和40年(1965)のダム完成から40年近く経過して、ほぼ計画通りに推移してきたが。 上流部の山地崩壊が進行していることから、湯田ダムの上流側に湯田貯砂ダムを建設し、流入土砂を貯め込んで堆砂を防ぐことを最大の目的とし平成14年(2002)に完成した。(貯砂ダムは砂防堰堤と同様の役割を果たす)、、、、この貯砂ダムは内部に通廊が設けられ、通り抜け可能。 夏から秋にかけて水のカーテン越しに湖面が見える。 錦秋湖(ダム湖)の中程に位置し、水のカーテンは「錦秋湖大滝」と命名されているそうだ。 滝の裏側を歩いてきた、裏見の滝だ、感動! なお、錦秋湖の水位が高くなると通廊は水没し、さらに湯田ダムの常時満水位では貯砂ダム自体が水没するらしい。
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● 毎年秋の紅葉シーズンには一面真赤に染まった山々と錦秋湖の風景を眺めることができるそうだが、私達夫婦もその景色を期待して来たのだが、今年の暑さで紅葉は彩付かず、枯葉となって落ちてしまうそうだ。 さらに、今年は湯田ダム完成60周年で、錦秋湖の水位を下げて各種の補修工事が行われているとのこと。 観光案内所の案内嬢いわく『運がいい時(?)来ましたね。 今は10年に一度の水位を下げている時で、普段見られない水没した旧北上線の線路跡などが見られますよ。 ぜひよく見て行ってください』

・・・・・・・・・・ 茶色く焼けた樹々と水位の下がった錦秋湖
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・・・・・・・・・・ 湯田ダムの取水塔も足元まで丸見え
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・・・・・・・・・・ 水位が下がり横黒線(北上線の前身)のトンネルの遺構(トンネルの窓が横に連なっている)が見える(現在の北上線は後ろの山を走る)
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● 複雑な形をしたユニークな堤体面の湯田ダムは、国土交通省東北地方整備局が管理する特定多目的ダムで、「北上川五大ダム」(田瀬、石淵、湯田、四十四田、御所の各ダム)の第三番手として計画・建設された。 堤高89.5m、堤頂長265m、型式は全国に12基しか存在しない重力式アーチダムで、東北地方では唯一の存在。 水没住民との補償交渉が難航した初期事例としても知られている。 本体は鹿島建設の施工により、昭和28年(1953)に着手し、昭和39年(1964)に竣工した。(今年は60周年にあたる、おめでとう!)
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● 北上駅にてタクシーから降り、『帰りの新幹線は夕方だ! チョイト、北上市内を歩こうか?』 駅の観光案内所にて、昼食処と、ぶらつき先を教えてもらう。、、、、北上駅の東側に北上川が流れ、その対岸付近に「みちのく民俗村」という施設がある。(入村料は無料、うれしいね!) 谷間と丘陵地からなる約7万平方メートルの村内には、北上川流域の古民家10棟(江戸時代以降の民家)と古代の復元住居、さらに民俗資料館として公開されている「黒沢尻実科高等女学校旧校舎」(国登録有形文化財)などの建造が点在する。、、、、駅から直線距離は近いのだが、北上川が邪魔をして遠回りして川を渡ってこなければならず、さらにバスなどの交通機関もないので、チョイトどころではなく滅茶苦茶不便な所にある。 平日のだからか(?)来村者は少なく、広い園内に人の姿は探さないと見つからない!
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旧菅野家は、江戸時代、南部領と境を接する伊達領側の村(下口内村)にあった上層農家。 伊達領の住宅規定が書かれた「御郡方式目」(享保4年・1719)との照合から、大肝入(村長のなかでもさらに上役の村長)のものと考えられている。 国指定重要文化財
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・・・・・・・・・・仙台藩にとって戦略的に重要な場所は「要害」と呼ばれ、譜代の重臣を配置し、仙台の縮刷版のような城下を形成していた。 口内要害も同様で、伊達一族の格式をもつ中嶋氏が、浮牛城と呼ばれる城の城主となり、城下を形成していた。 旧大泉家の主・大泉氏は、城主・中嶋氏の家老職を代々歴任した家柄。 旧大泉家は城下の要となる大手門の前にありました。正式な玄関となる式台、控えの間となる下座敷、書院造りの上座敷など、武家住宅ならではの特徴が見られる。
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・・・・・・・・・・ 旧菅原家は、奥羽山脈の山懐にあり、雪が大変多い湯田地方(現西和賀町)の農家。 旧菅原家の馬屋は家の中にある。 旧南部領の特徴は、このような内馬屋と呼ぶ形式の民家が多いことだ。 特に「南部曲り家」は有名であるが、旧菅原家は曲り家ではなく、直ご家と呼ばれる形状の民家である。 屋根に勾配をつけて雪を落ちやすくさせたり、軒に「船枻造り」という工法を用いて、雪の重みに対する耐久力をつけるなど、豪雪地帯ならではの工夫が見られる。
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・・・・・・・・・・旧星川家があった紫波郡は、盛岡から10kmほど南に位置し、旧南部領の中でも、特に曲り家が多い地域である。 旧星川家は、幕末の建築と推定されており、主に明治以降のくらしを伝える民家。 台所から馬屋の様子がよく見えるつくりになっています。 南部曲り家の特徴は馬の飼育に便利なことといわれてる。
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・・・・・・・・・・旧黒沢尻高等女学校の校舎を移築して、中に農作業道具、手仕事、生活用品、信仰関係などの民俗資料が展示されている。 現在の岩手県立北上翔南高等学校(県立黒沢尻南高等学校)は、県立黒沢尻高等女学校を引き継いだもの。 その前身である黒沢尻実科女学校は、大正8年創立でこの地域の女子教育を担っていた。 校舎は昭和2年(1927)に建てられた木造2階建て。 国登録有形文化財。
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● 市内ブラブラの最後は、北上市役所とJR北上駅の狭間にある諏訪神社にお立ち寄り。 今回の夫婦旅行が無事に終わることを祈り、最後の神頼み。、、、、大同2年(807)、桓武天皇の勅命で坂上田村麻呂将軍が東夷征定の時、当地方の開発と産業の発展を祈願し、信濃の諏訪大社から勧請されたのが創建とされ、その後時代とともに五柱の神が合祀された。 その後、慈覚大師(円仁)が諸堂を建立し、冷泉天皇の勅命で源頼義が安倍頼時を征定する際に祈願をし、報賽によって社殿を修築した。 諏訪神社は元来、元宮の地(市内幸町)に鎮座していたが、八代盛岡藩主・南部利視の崇敬が篤く、享保19年(1734)に現在地に社領を賜った。
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● 北上駅から「はやぶさ110号」で無事帰京
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