有楽町から浅草橋
土曜日の朝、人影の少ない銀座・日本橋の裏通りを歩いて、有楽町駅から浅草橋の我が家まで、1万1千歩の散歩です。
● 我が家から銀座・日本橋には都営浅草線を利用すれば、乗り換えなしの一本。 しかも、東京都のシルバーパスを利用すれば切符を買わなくても乗れる。 故に、もっぱら地下鉄を利用している。 今日は、久しぶりにJR有楽町駅で下車してみた。、、、、有楽町駅は明治43年(1910)6月25日、有楽町~烏森(現:新橋)間開業と同時に設けられた、国有鉄道東海道本線の始発駅である。 開業当初から京浜電車(後の京浜東北線)のみ停車する駅である。 しかし、始発駅としては明治43年9月15日に上野までの電車線が延伸開業するまでの、短命な始発駅であった。、、、、いまは一日の平均乗車人員は約12万人。 この乗客を2面4線の島式ホームでさばいてるラッシュ時の混雑度の高い駅である(今日、土曜日の早朝、混雑していない)、、、、私の若い頃(昭和30,40年代)は、「日比谷映画」「有楽座」など映画館街へ、デパート「SOGO」への買い物、銀座へブラブラ、いずれにしても国鉄有楽町駅を利用していた。 当時、有楽町駅で下車する時は、何となくワクワクしたものだ。 老いた今は、有楽町で下車すると、お上りさん状態、『アレ? なくなった! どっちだ?』
・・・・・・・・・・ 中央口の脇に、レンガ作りの高架曲線が美しい、有楽町中央口架道橋がある。 明治43年開業時のレンガ造りの高架橋が見える(この上に、現在の山手線・京浜東北線が走っている)、、、、ドイツ人技師ルムシュッテルの設計案をもとに、逓信省技術顧問のバルツアーが市街高架線の設計・施工を指導。 彼はその耐震性について保証しており、大正12年(1923)の関東大震災でもこの区間は無傷だった。、、、、アーチの内側はコンクリートにより耐震補強され、レンガ積みの目地を見ることはできなくなったが、側面の大きなアーチの曲線を見ることができる。、、、、架道橋を抜けると、かっての「SOGO」デパート、今は「ビックカメラ」がある。
● 時刻は7時45分、まだ人影の少ない有楽町駅前から、東京高速道路の下を抜けて銀座通りに出る。 裏通りを歩いても、新しいビルばかり、『俺の知る あの店は何処に?』 裏道では、「並木通り」「銀座レンガ通り」などの道路名を見て、和泉雅子・山内賢が歌う『二人の銀座』を口ずさむ(誰も歩いていないので音痴でもOK) 小さな店は壊され、近代的で綺麗な大きなビルに変身、味の無いつまらなくなった銀座を歩く。
● 銀座通りから宝町交差点に出て、昭和通りに面して並ぶ「兼松」「清水建設」「味の素」ビルを見ながら裏通りに向かう。
・・・・・・・・・・ 裏通りには、大学1年の頃のバイト先があった。 20年前には私がサポートする、トラブルメーカの客先もあった。 いずれも新しいビルに変わり面影はないが、何となく懐かしい。
・・・・・・・・・・ 浅草線の宝町駅から北東へ200m程、楓川の跡(首都高1号線)に陸上橋の宝橋が架かっている。 宝橋の西詰にひっそりと小さな祠があり、「宝地蔵尊」の旗が架かってる。 この宝地蔵尊の由来は『昭和29年(1954)夏の夕刻、当時8歳の児童が楓川に落ちて亡くなったそうだ。 その愛しい子供を供養するお地蔵さまである』 70年が過ぎた今でも、供養は続いているようだ。 私も合掌。、、、、楓川は1964年の東京五輪の際に埋め立てられ、首都高1号線に変わった。
● 昭和通りに面し江戸橋の南詰に日本郵便日本橋郵便局がある。 ここ日本橋郵便局は「日本の郵便発祥の地」に相応しく、日本近代郵便の父と呼ばれる前島密(まえじまひそか)のブロンズ像が使用口脇に設置されている。、、、、明治4年3月1日(新暦換算:1871年4月20日)、日本における近代郵便制度の創設に伴い、現在の地(東京府豊島郡日本橋元四日市町 = 現在の東京都中央区日本橋1)に、駅逓司(現:日本郵政の前身)と四日市郵便役所(東京中央郵便局の前身)が設置された。 これをもって、この地は「日本の郵便発祥の地」と定められた。、、、、郵便発祥の地としてはブロンズ像だけではなく、郵便の歴史なども説明する、小さな説明コーナーなどが設置されるとうれしいね!
● 江戸橋は、日本橋の下流側に架かる橋で、昭和通りを通す。 現在の江戸橋は、震災復興計画の一環として昭和4年(1929) に架けられた鋼製アーチ橋である。 親柱や欄干など、歴史のある江戸橋の名を汚さないようにと、力を入れて架設された橋だ。 しかし戦後、頭上を二重三重に走る首都高のおかげで、昼でも薄暗くその存在感が薄れてしまった。
● 江戸橋を渡ると、椙森神社のある日本橋堀留町、繊維問屋街の日本橋横山町、そして浅草橋を渡ると我が家までは徒歩数分。 『ただいま!』