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2024年11月

2024年11月30日 (土)

有楽町から浅草橋

土曜日の朝、人影の少ない銀座・日本橋の裏通りを歩いて、有楽町駅から浅草橋の我が家まで、1万1千歩の散歩です。



● 我が家から銀座・日本橋には都営浅草線を利用すれば、乗り換えなしの一本。 しかも、東京都のシルバーパスを利用すれば切符を買わなくても乗れる。 故に、もっぱら地下鉄を利用している。 今日は、久しぶりにJR有楽町駅で下車してみた。、、、、有楽町駅は明治43年(1910)6月25日、有楽町~烏森(現:新橋)間開業と同時に設けられた、国有鉄道東海道本線の始発駅である。 開業当初から京浜電車(後の京浜東北線)のみ停車する駅である。 しかし、始発駅としては明治43年9月15日に上野までの電車線が延伸開業するまでの、短命な始発駅であった。、、、、いまは一日の平均乗車人員は約12万人。 この乗客を2面4線の島式ホームでさばいてるラッシュ時の混雑度の高い駅である(今日、土曜日の早朝、混雑していない)、、、、私の若い頃(昭和30,40年代)は、「日比谷映画」「有楽座」など映画館街へ、デパート「SOGO」への買い物、銀座へブラブラ、いずれにしても国鉄有楽町駅を利用していた。 当時、有楽町駅で下車する時は、何となくワクワクしたものだ。 老いた今は、有楽町で下車すると、お上りさん状態、『アレ? なくなった! どっちだ?』
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・・・・・・・・・・ 中央口の脇に、レンガ作りの高架曲線が美しい、有楽町中央口架道橋がある。 明治43年開業時のレンガ造りの高架橋が見える(この上に、現在の山手線・京浜東北線が走っている)、、、、ドイツ人技師ルムシュッテルの設計案をもとに、逓信省技術顧問のバルツアーが市街高架線の設計・施工を指導。 彼はその耐震性について保証しており、大正12年(1923)の関東大震災でもこの区間は無傷だった。、、、、アーチの内側はコンクリートにより耐震補強され、レンガ積みの目地を見ることはできなくなったが、側面の大きなアーチの曲線を見ることができる。、、、、架道橋を抜けると、かっての「SOGO」デパート、今は「ビックカメラ」がある。2411300743490
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● 時刻は7時45分、まだ人影の少ない有楽町駅前から、東京高速道路の下を抜けて銀座通りに出る。 裏通りを歩いても、新しいビルばかり、『俺の知る あの店は何処に?』 裏道では、「並木通り」「銀座レンガ通り」などの道路名を見て、和泉雅子・山内賢が歌う『二人の銀座』を口ずさむ(誰も歩いていないので音痴でもOK) 小さな店は壊され、近代的で綺麗な大きなビルに変身、味の無いつまらなくなった銀座を歩く。
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● 銀座通りから宝町交差点に出て、昭和通りに面して並ぶ「兼松」「清水建設」「味の素」ビルを見ながら裏通りに向かう。
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・・・・・・・・・・ 裏通りには、大学1年の頃のバイト先があった。 20年前には私がサポートする、トラブルメーカの客先もあった。 いずれも新しいビルに変わり面影はないが、何となく懐かしい。
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・・・・・・・・・・ 浅草線の宝町駅から北東へ200m程、楓川の跡(首都高1号線)に陸上橋の宝橋が架かっている。 宝橋の西詰にひっそりと小さな祠があり、「宝地蔵尊」の旗が架かってる。 この宝地蔵尊の由来は『昭和29年(1954)夏の夕刻、当時8歳の児童が楓川に落ちて亡くなったそうだ。 その愛しい子供を供養するお地蔵さまである』 70年が過ぎた今でも、供養は続いているようだ。 私も合掌。、、、、楓川は1964年の東京五輪の際に埋め立てられ、首都高1号線に変わった。
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● 昭和通りに面し江戸橋の南詰に日本郵便日本橋郵便局がある。 ここ日本橋郵便局は「日本の郵便発祥の地」に相応しく、日本近代郵便の父と呼ばれる前島密(まえじまひそか)のブロンズ像が使用口脇に設置されている。、、、、明治4年3月1日(新暦換算:1871年4月20日)、日本における近代郵便制度の創設に伴い、現在の地(東京府豊島郡日本橋元四日市町 = 現在の東京都中央区日本橋1)に、駅逓司(現:日本郵政の前身)と四日市郵便役所(東京中央郵便局の前身)が設置された。 これをもって、この地は「日本の郵便発祥の地」と定められた。、、、、郵便発祥の地としてはブロンズ像だけではなく、郵便の歴史なども説明する、小さな説明コーナーなどが設置されるとうれしいね!
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江戸橋は、日本橋の下流側に架かる橋で、昭和通りを通す。 現在の江戸橋は、震災復興計画の一環として昭和4年(1929) に架けられた鋼製アーチ橋である。 親柱や欄干など、歴史のある江戸橋の名を汚さないようにと、力を入れて架設された橋だ。 しかし戦後、頭上を二重三重に走る首都高のおかげで、昼でも薄暗くその存在感が薄れてしまった。
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● 江戸橋を渡ると、椙森神社のある日本橋堀留町、繊維問屋街の日本橋横山町、そして浅草橋を渡ると我が家までは徒歩数分。 『ただいま!』
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2024年11月26日 (火)

隅田公園から三囲神社へ

隅田公園から向島の三囲神社まで歩いてきた。



● 東武鉄道浅草駅の前から隅田公園(台東区)に入り、朝の公園をブラブラ。

・・・・・・・・・・ 朝日に輝く隅田川 チョイトまぶしい!
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・・・・・・・・・・ 秋らしい色に染まってきた公園
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・・・・・・・・・・ 公園の中には、多くの石碑・歌碑・説明板がある。 その内の一つ、昭和25年(1950)から昭和35年(1960)の間、隅田公園(言問橋西詰)周辺には、「アリの街」と呼ばれ、戦災で家や家族を失った人々が廃品回収を生業に働き共同生活する場が存在していた。 現在は整備され当時の様子を物語るものは残っていないが、数年前台東区により、その場所に案内板が設置された。、、、、説明板には『昭和25年(1950)、この地に戦災で家や家族を失った人々が廃品回収を生業に働き共同生活する場が誕生しました。 人々はアリのように勤勉に働き、助け合って生活したことから、アリの街と呼ばれました。 「アリの街のマリア」として知られる北原怜子は、全国の戦争孤児の救済に尽力したポーランド人のゼノ・ゼブロフスキー修道士に導かれ、裕福な家庭の出身ながら、病に冒され二十八歳の短い生涯を閉じるまで、アリの街に移り住み、子ども達を支え続けました。 昭和35年(1960)、アリの街は東京都の要請により江東区に移転されました。 北原怜子の活動は後に映画や舞台化もされ、平成27年(2015)にカトリック教会から日本人女性としてはただ一人「尊者」の称号を得ました。』
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・・・・・・・・・・ 言問橋と桜橋の中間、待乳山聖天と三囲神社を結ぶように、渡し船「竹屋の渡し」があった。 渡しの創設年は不明だが、文政年間(1818~1830)には既にあったそうだ。 昭和3年(1928)言問橋の架設によって、渡しは廃止となったらしい。
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・・・・・・・・・・ 江戸時代、隅田川から遊里「
吉原」へ通う猪牙船(ちょきぶね)が往来した山谷堀。 その山谷堀の最下流(現在の台東リバーサイドスポーツセンタ付近)に架けられた橋が「今戸橋」である。 今戸橋が最初に整備された時期は不明だが、江戸時代に橋を架け渡すという記載が文献に残っているそうだ。 この橋の下を吉原通いの船が通った頃には、その船を親不孝舟などといったといい、「今戸橋上より下を人通る」というほどのにぎわいだったと言われている。 現存する欄干は、大正15年(1926)に竣工した橋の欄干で、山谷堀の埋立てに伴い、昭和62年(1987)現在のような形となった。 
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・・・・・・・・・・ 隅田公園にあった石碑、もう一つ紹介する。 言問橋西詰の公園内に「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」がある。、、、、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。 その亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。 台東区では、戦後40年(昭和61年)に、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、忘れることが無きよう、この地に碑を建立した。(合掌)
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● ただいま補修工事中の言問橋を渡り、台東区から墨田区へ入る。、、、、朝8時過ぎ、まだ人の動きも少なく静かだ! 
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● 言問橋を渡ると、東詰交差点の手東詰「見番通り」と表示された裏通りに入る。 この道を200m程歩くと向島の花街に「三囲神社(みめぐりじんじゃ)」がある。、、、、宇迦之御魂命を祭神とする囲神社の創建年代は不詳であるが、文和年間(1353~1355)に、近江三井寺の僧源慶が東国遍歴の際に社を改築したと云われている。 その改築をするとき、土を掘ると壺が出土し、白狐にまたがる老翁の像が出てきた。 すると、どこからか白狐が現れ、像の周りを三回回った死んだ、三囲神社の名はこの話に由来するそうだ。、、、、、三井家(越後屋=三越)が江戸に進出すると、社号に使われる文字「」が、三井の「」に塀を張り巡らせて守っているように見えることから、三井家の守護神として崇敬された。 今でも三井家と三井系企業に信仰されている三井家御用達の神社。

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・・・・・・・・・・ 三囲神社のシンボルか? 享和2年(1802)に奉納された、目尻のさがった温和な表情の神狐
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・・・・・・・・・・ 境内には多くの境内社と、歴史を感じさせる歌碑・塚などがある。 その中には三井家に関連する物も多い。、、、、三越呉服店の会長であった日比翁助(ひびおうすけ)の石垣の歌碑『いしがきの 小石大石持合ひて 御代はゆるがぬ 松ヶ枝の色』、、、、三越池袋店のライオン像、、、、明治時代になって拠点を京都から東京に移した呉服商の三井家は、養蚕の神=木嶋神社(京都太秦)を崇敬していた、境内にある三柱鳥居は木嶋神社の鳥居を模して建てられた。
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● 三囲神社をあとにして見番通りを北へ200m程歩くと「向嶋墨堤組合」の建物がある。 ここが、向島芸者の総まとめ「見番(けんばん)」だ!、、、、向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、現在、10軒の料亭が加盟し、120名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について日々修練しているそうだ。、、、、自分の若い頃、一度は行ってみたかった芸者遊び、今は「遊んでみたいが  体力なし」
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● 見番通りをさらに北へ100m、黄檗宗の寺院「牛頭山 弘福寺」がある。、、、、弘福寺は延宝元年(1673)黄檗宗の鉄牛和尚の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院。 江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。 関東大震災で罹災したが、昭和8年(1933)に、中国の黄檗寺にならって、本堂が大明式建築で再建された。 山門も、昭和8年の再建で、前に控柱が4本あり、門の中央部が2階建てとなっている。、、、、
建物に中国の名残が強く、どこか異国情緒が感じられる、都内でも数少ない黄檗宗の寺院だ!
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● 桜橋を渡り、再び隅田公園に入り、浅草橋の我が家に戻る。 1万歩

2024年11月21日 (木)

老いの修学旅行 2

老いの修学旅行二日目は、法隆寺、平等院へ行くことにした。


● 昨夜はJR奈良駅西口前のホテルに泊まってた。、、、、JR奈良駅は関西本線、奈良線、桜井線、片町線の4路線が乗り入れる、島式ホーム3面5線の高架駅。 現在の駅舎は3代目で、平成22年(2010)に完成した3階建ての駅舎。 虹の七色のグラデーションを施したモダンな駅舎。
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法隆寺行きのバス停は東口にある。、、、、奈良駅の東口には、平成15年(2003)まで使われていた2代目駅舎が、現在の駅舎前に曳家され、奈良市総合観光案内所として保存活用されている。 この旧(2代目)駅舎は昭和9年(1934)に完成したもので、周囲の景観に配慮して方形屋根に相輪を持つ和洋折衷様式が採用されている。 大阪鉄道局建築課が京都帝室美術館懸賞設計に応募し落選した設計案を再利用したものだったそうだ。 平成23年(2011)に土木学会選奨土木遺産となっている。、、、、私は50数年前にこの駅に降り立ったことを覚えてる、懐かしいね!
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● 奈良駅前からバスに揺られて50分、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺前バス停に到着。 人影の少ない参道を歩く。、、、、南大門をくぐり境内に足を踏み入れると、いつの間にか大勢の参拝客がいることに気づく。、、、、法隆寺は聖徳宗の総本山の寺院。 山号は無い。 本尊は釈迦如来。 創建当時は斑鳩寺(鵤寺 = いかるがでら)と称し、後に法隆寺となった。 法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える寺であり、聖徳太子ゆかりの寺でもある。、、、、法隆寺は世界最古の木造建築を有し、五重塔、金堂、夢殿など知る人も多いはず。 法隆寺が所有する宝物類は国宝・重要文化財に指定されたものだけでも約190件、約2500点もあるそうだ、スゴイ!
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・・・・・・・・・・ 拝観料払って西院伽藍に入ると、わが国最古の五重塔、釈迦三尊像を祀る金堂、薬師三尊像を祀る大講堂が目の前に現れる。 見るもの全て“国宝・重文”、触って壊したら一大事! 
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・・・・・・・・・・ 法隆寺で修学旅行生に遭遇、バスガイドさんが旗を持って先導してきた。 よく見ると、黄色い通学用の帽子をかぶった小学生だ、全員手作りと思われる「修学旅行」(日帰りか?)と表示した資料を持ってる。 滋賀県の小学校の生徒らしい。 バス数台分の生徒だ、200人ぐらいかな? 金堂前では記念撮影もしてる。
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・・・・・・・・・・ 修学旅行の小学生御一行様の列は法隆寺東院の夢殿まで続く。 一般の拝観者は、小学生の列に混ざり遠慮がちに拝観してる。『チョイト中を見せてね!』
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・・・・・・・・・・ 主要な建物・宝物を見たあと、小学生の列とも別れ、静かに境内から去る。、、、、『柿食えば 鐘がなるなり 法隆寺』、、、、法隆寺の最後は“柿の葉ずし”で〆る
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● 老いの修学旅行、最後はチョイト京都に入って、平安の極楽浄土:宇治「平等院」に寄って見た。

・・・・・・・・・・ JR宇治駅は、明治29年(1896)1月25日に奈良鉄道の桃山駅~玉水駅間延伸時に開業した。 明治38年(1905)、奈良鉄道は合併により関西鉄道となる。 1907年(明治40年(1907)には、関西鉄道の国有化により官営鉄道の駅となる。 平成12年(2000)のホーム改良により、島式ホーム2面4線の橋上駅となる。、、、、駅舎の外観は平等院鳳凰堂をモチーフとしていると言われているが、私はそれを聞くまで気づかなかった。(感性が鈍いのか?)
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・・・・・・・・・・ 駅から平等院への参道は、外人が多く浅草の仲見世通りを歩いているようだ!
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・・・・・・・・・・ 平等院山門の拝観受付はもの凄い行列!、、、、単純な我が夫婦はJR東海のCMに魅せられ、真赤に色付いた紅葉の平等院を静かに鑑賞できることを期待したが、期待はチョイト裏切られたようだ。
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・・・・・・・・・・ 平等院の宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属しておらず、塔頭である本山修験宗聖護院末寺の最勝院と浄土宗の浄土院が年交代制で共同管理している。 本尊は阿弥陀如来。、、、、ここでJR東海のCMの文書を引用すると、『京の都ができるより遥か早く拓けた宇治。宇治川を中心とした美しい景観に恵まれ、やがて多くの平安貴族の別荘地へ。平等院も元は藤原道長の別荘でした。やがて自然災害、内乱、疫病などで社会に不安の兆しが現れます。ついに道長没後25年目の一〇五二年、末法初年に長男頼通が寺への改修に踏み切り、名前も平等院へ。高さ3m近い阿弥陀如来坐像や周りの「雲中供養菩薩像」を揃えた彼の願いは、極楽の様子をこの世に具現化して、人心の不安を救うことだったのでしょうか。』
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● 東大寺・春日大社・興福寺・法隆寺・平等院と、修学旅行の定番コースを巡ってきたが、私たちの知る“50年前の修学旅行”は姿を消した。 今の中学生・高校生の修学旅行はどんな内容で実施されているのか知りたいね!(帰りの新幹線車中で夫婦の話題)、、、、楽しかった、京都・奈良の修学旅行を思い出す

2024年11月20日 (水)

老いの修学旅行 1

私も妻も70歳代、共に中学の修学旅行は京都・奈良だった。 それから50数年程経過したが、“奈良”には行く機会も少なかった。 “奈良”と言えば、詳しいことは何も知らないが、“古都奈良”から連想される“大仏”、“鹿”は知ってるつもり。 知ってるようで知らないのが“奈良”である。、、、、20日、21日の二日間、老いの修学旅行として、中学生の頃を思い出しながら、奈良を代表する寺社を巡ってきた。




● まず二人で向かうのは、奈良の代表格である「東大寺」へ

・・・・・・・・・・ 奈良公園に入り、まず驚いたのは、修学旅行の生徒がいない! 見渡す限り周囲は、“外人”と“鹿”ばかりだ! 私も妻も、記憶にあるのは旗を持ったバスガイドさんに引率されて歩く修学旅行の生徒の姿。 当時の面影は何処に? それにしても、インバウンド客の多いことにもビックリだ!、、、、よく見ると少数の修学旅行生(グループ)の姿が見えた、それにしても少なすぎるね。 今時の修学旅行も変わったようだ! 
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・・・・・・・・・・ 鹿に“せんべい”を与え、なくなれば鹿に追われ、鹿の糞を避けてよろめき、鹿に遊ばれイザ大仏へ
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・・・・・・・・・・ やってきました「大仏殿」(現在の大仏殿は江戸時代の宝永6年(1709)に再建されたもの )、、、、大仏殿前にも学生服を着た修学旅行御一行様の姿は見えず、時代の変化を再び感じる、、、、大仏様とは、かれこれ60年ぶりの御対面、、、、外人さんにカメラを渡し『撮ってチョウダイ、ツーショット』
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・・・・・・・・・・ 大仏殿から「二月堂」へ、、、、二月堂は、旧暦2月に「お水取りが行われることからこの名がある。 堂は、寛文7年(1667)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。、、、、若草山を背にして、丘の上に建つ二月堂の舞台から奈良の街が一望できる
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・・・・・・・・・・ 二月堂の隣りに「三月堂」、三月堂の前に「四月堂」、五月堂は“どこにも
無いどー”、、、、三月堂は、華厳経を講じ法華堂と言われてる。 旧暦3月に法華会が行われることから三月堂と呼ばれてきた。 不空羂索観音立像はじめとする、奈良時代の仏像が安置されている仏堂。 740年代頃の建立。、、、四月堂は、三昧堂とも言い法華三昧会が旧暦4月に行われることからこの名がある。 延宝9年(1681)建立、二重寄棟造の小さな堂である。
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・・・・・・・・・・ 二・三・四月堂から春日大社へ向かう地続きに、「手向山八幡宮」がある。 かつての東大寺の鎮守社で、明治4年(1871)の神仏分離の際に東大寺から独立した。、、、、校倉造の宝庫などもあり、さすがは歴史ある東大寺の鎮守社だ!
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● 東大寺から若草山の裾を歩いて春日大社へ向かう、、、、色付いた紅葉の下、鹿と遊ぶのは隣の国(?)の女の子。
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● 「春日大社」は、全国に約1千社ある春日神社の総本社。 奈良時代の神護景雲2年(768)に平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建され、中臣氏・藤原氏の氏神を祀る。 主祭神の武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。

・・・・・・・・・・ ここ春日大社の参道で行き交う人は“皆”外人と思えるほど、インバウンド客が多い。、、、、ここにも、修学旅行の学生は見当たらず。 どうしたのか考えて、私の出した答えは『インバウンドの外人が多く、京都・奈良の宿は宿泊料が高騰し、修学旅行で泊まれる宿が無くなった!』 それと『京都・奈良は外人人気が高まり、交通も人も渋滞は激しく、修学旅行のスケジュール調整が難しくなった!』 きっとこんな理由で、修学旅行の学生が消えてしまったのかも?
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・・・・・・・・・・ 境内の建物、全てが国宝・重要文化財と言っても過言ではないような朱塗りの荘厳な社である。、、、、巫女さんまで国宝に見える!
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● 今日の最後は「興福寺」に参拝。、、、、興福寺は、法相宗の大本山の寺院。山号はない。本尊は中金堂の釈迦如来。 藤原鎌足夫人(鏡王女)が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669)に山背国山階(現:京都市山科区)で創建した山階寺が興福寺の起源である。 壬申の乱のあった天武天皇元年(672)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺と称した。 和銅3年(710)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。 この和銅3年が実質的な興福寺の創建年。

・・・・・・・・・・ 興福寺と言えば、猿沢池に映る五重塔(高さ50.1m)を期待して来たが、ナントナント只今修理中で足場に覆われ姿は見えず、ガッカリ! 鎌倉時代前期に建てられた高さ19mの三重塔(国宝)を見て自分で自分を慰める。
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・・・・・・・・・・ 興福寺の中心的な建物は「中金堂」と呼ばれる建物で、創建1,300年となる平成22年(2010)に再建工事に着工し、平成30年(2018)に落慶した。
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・・・・・・・・・・興福寺の仏像と言えば「阿修羅」に代表される多くの国宝・重要文化財がある。 その多くの仏像は興福寺国宝館に収納され公開されていた。、、、、もちろん有料(拝観料は700円)、撮影はダメ、多くの仏像を見ても、かろうじて覚えているのは「阿修羅」と「仏頭」ぐらい。 年とると記憶力も衰えるね!
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・・・・・・・・・・ 弘仁4年(813)に創建された華やかな八角形の「南円堂」を回って興福寺を後にする。
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● 今宵の宿は、クリスマスツリーも飾られた「ホテル日航奈良」、、、、美味しい和食、夫婦で満足し『
Good Night!』
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2024年11月16日 (土)

中途半端に四福神

3日前に足立区梅田の「ゆめろーど千代田商店街」を歩いてきたが、“千代田”の名がつく商店街が葛飾区鎌倉にもあることを思い出し、久々に行ってみたくなった。 朝の掃除も終えて、夫婦で京成小岩駅から柴又帝釈天まで歩いてきた。 9千歩



● 我が家の在る浅草橋からは、都営浅草線に乗り入れてる京成本線経由特急成田空港行きに乗ると、乗り換えなしで「京成小岩」まで行ける。、、、、京成小岩駅からJR小岩駅までは歩ける距離であるが、チョイト離れている。(年寄りにはキツイね!) 駅自体は柴又街道の裏手に位置し、地元以外の人には解りづらい奥まった場所にある。 駅前には20分間隔で、亀有行きの「京成タウンバス」が発着してる。、、、、山手の駅前に多い、大型ショッピングセンター、タワーマンション、綺麗に整備された街路などは一切見あたらない。 ここ京成小岩駅は何故か懐かしい下町の私鉄駅って感じがする。
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● 京成小岩駅前から北に向かい「京成小岩商栄会」という商店街が伸びている。 長さ300m程の商店街はバスも通る道路の両側に、約60店舗の店が並んでいるが、シャッターの下りている店、住宅なども点在し、チョイト寂しい。 交通量は少なく、電柱の地中化もされており年寄りには歩きやすい道路であった。、、、、この商店街の北端まで、江戸川区北小岩の町
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● 京成小岩商栄会の商店街が終ると、その先に引き続いて「千代田通り商店街」となる。 ここからは葛飾区鎌倉の町でなる。 つまり、商店街は京成小岩駅から北に伸びているが、区境が商店街の境でもあり名称も道路幅も雰囲気も変わる。、、、、千代田通り商店街は昭和32年(1957)に設立され、後に葛飾区で第一号となるモデル商店街となった。 約300mの長さ、道幅は車1台分程の商店街は、アーケードがなくほぼ同様の構えの店が30店舗程ズラリと並び、自然発生的な商店街ではなく、おそらく計画的に作られた商店街と思われる。 浅草の「仲見世通り」を地元密着型の商店街にした感じである。、、、、ここもシャッターを下ろした店舗が目立つが、年に数回のイベントが催され、多くの買い物客で賑わっているらしい。、、、、戦後誕生した昭和レトロな商店街、頑張って続けて欲しいね!
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● 千代田通り商店街を通り抜けて北へ進むと、北総線新柴又駅の近くに、真言宗豊山派の医王寺がある。、、、、医王寺は、薬王山瑠璃光院と号す。 応永14年(1407)に創建、下総国分寺下の薬王寺と呼ばれたと伝えられます。 本尊は薬師如来(秘仏) 当時流行した赤目病平癒の祈願所として建立された。 建立後間もなく、小田原の北條氏と安房の里見氏が利根川(現在の江戸川)を挟んで対峙し、天文7年(1538)・永禄7年(1564)の二度の国府台合戦に、北條方の陣屋として使用されたため什物の大部分が失われた。 その後、中興されたが、しばらくすると、寺は無住となり多くの資料が散逸した。 寛永年間(1624~1644)金蓮院の僧某が再興し医王寺と改めた。、、、、この寺には、七福神の一つ、恵比寿天を祀っているが、正月の「柴又七福神巡り」で顔見世するためか(?)、本堂に閉じられ御対面は叶わず!
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● 北総線の高架下を抜けて柴又帝釈天に向かうと、柴又七福神の一つ大黒天を祀る真言宗智山派寺院の宝生院がある。 宝生院は大黒山と号す。 寛永元年(1624)常陸国大聖寺末宝性院として京橋付近の創建、下谷谷中への移転を経て、明暦年間に池之端茅町へ移転したといわれてる。 関東大震災で罹災し、昭和2年(1927)に当地へ移転した。 柴又七福神の一つとなっている本尊の大黒天は、江戸期から信仰を集めていたそうだ。、、、、ここでも、本堂の引き戸は閉じられ、ガラス戸越しに大黒様はいずこにおるや? 
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● 宝生院からさらに北へ向かうと、またまた柴又七福神の一つ福禄寿を祀る曹洞宗寺院の聖閣山万福寺がある。 この寺は、昭和3年(1928)の創建で新しい。 こちらにある柴又七福神の福禄寿は、年代不明であるが、宍戸家(?)に伝えられた家宝仏で、奉納され万福寺で祀っている。、、、、ここも本堂は閉じられ、福禄寿はいずれにいるや?
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● 柴又帝釈天に着いた、、、、日蓮宗寺院の題経寺は、経栄山と号し、柴又帝釈天として著名です。 題経寺は市川市中山法華経寺第19世禅那日忠が当地にあった草庵を一寺とし成し、寛永6年(1629)開山したといいます。 本堂改築に際して、梁の上から日蓮聖人自刻と伝えられる帝釈天像の板木(板本尊)を安永8年(1779)の庚申の日に発見、柴又帝釈天として著名となり、現在に至るまで庚申の日を縁日としています。、、、、ここにも柴又七福神の内の一つ、毘沙門天が祀られている。 七福神の内、四福神の寺に来たが、どこもかしこも御尊顔を拝せず。 『賽銭もって、正月のお越しをお待ちしてます!』と、言われてるようだ! 今日は七福神巡りに来たわけではないが、何となく中途半端な気持ちで帰ることにした。
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・・・・・・・・・・ 帰りは参道を通り、鰻を食し、草だんご買って、柴又駅へ。 2411161216240
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2024年11月13日 (水)

五反野から西新井橋まで

東武伊勢崎線の五反野駅から、江北橋通り北側の裏通りを西へ歩いて、西新井橋バス停まで、1万歩の散歩です。



● 散歩の行先を決めぬまま浅草橋駅から都営浅草線・東武伊勢崎線と乗り継ぎ、『さて、どこで降りようか?』思案しながら乗っていた。 北千住駅を過ぎたあたりから、『これ以上乗っていたら散歩の時間がなくなる!』と思い、五反野駅で慌てて下車する。、、、、この駅は散歩で度々訪れており、目新しい発見も無く駅を出る。
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・・・・・・・・・・ 駅を出て『さて、何処へ、どっちへ、いずれに行こうか?』悩んだ結果は、『西へ向かって歩いて見よう』、、、、江北橋通りの北側の裏通りを西に向かって平行に歩くことにした。
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● 五反野駅から西へ、日光街道の手前に、「くもじい・くもみ」を思いだす、外壁が鋭角にトンガッタ建物がある。、、、、このお宅、『トンガッタ先にどんな部屋があるのかな?』、『寝るのは何処かな?』 できたら、お宅の中を拝見したいね!
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● 日光街道を越え西へ向かうと、足立区梅田1、2丁目に道幅6m程、長さ350mの地元密着型の「ゆめろーど千代田商店街」がある。 昭和46年(1971)に結成された商店街で、現在40店舗程が加入しているそうだ。、、、、朝8時45分、まだ営業してる店は少なく、多くの店はシャッターが下りてる。 花屋さんは店が開いてる、デイサービス・訪問介護の建物の中ではミーティング中、玉子焼き屋さんは店中で店主が焼いてる、八百屋さんは品出し中、買い物客の姿は見えず。、、、、日中の買い物客がいる時間帯に来てみたいね!
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・・・・・・・・・・ 商店街の「鈴や質店」、、、、昔ながらの風情ある店先と質蔵がいいね!
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● 商店街を通り抜けると「旧日光街道」にでる。 50m程北に歩くと、街道の角に「石不動尊」(足立区梅田3)と記された小堂がある。 小堂のなかの不動尊は石製坐像で、台座に「耳不動尊」と記されている。 石不動は、別名「耳不動」と呼ばれ、耳を病む人の強い信仰を受けているそうだ。、、、、石不動の左脇に、昭和40年(1965)に再建された、「子育弥彦尊道 是より二丁行く」という道しるべがある。 石不動は、この先(西側)にある明王院の不動の一つだそうだ。、、、、私は耳が悪く補聴器の御世話になっているので、ここでは念ごろに手を合わせてきた。
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● 石不動から西へ500m程歩くと、真言宗豊山派寺院の万徳山梅林寺明王院がある。 明王院は、治承2年(1178)六条判官源為義の三男義広の草創で、五世久広のとき当院のかたわらに天満宮を勧請して、万徳山梅林寺と号し、姓を梅田と改めたことから、周辺の地名も梅田と呼ばれることになった。 また、赤いお堂のお不動様の寺、は「赤不動」として親しまれてきたそうだ。、、、、この寺には、石不動の脇に道標のあった、咳に効験のある八彦尊が祀られている。、、、、現在の堂々とした不動堂(本堂)は昭和48年(1973)に落成した。 本尊の不動明王は扉の中で顔は見えない、残念!
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● 明王院から再び西へ向かうと、尾竹橋通り(=都道461号)に出る手前に公園「関原の森」がある。 ここには、昭和5年(1930)に建てられた「旧愛恵学園幼稚園舎(現:愛恵まちづくり記念館)が残されている。、、、、今日は建物の前を通過するだけ。
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● 尾竹橋通りに出て南へ200m程歩くと西新井橋の北詰となる。 この手前に東武バスの「西新井橋」バス停がある。 今日の散歩はここまで!
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2024年11月 8日 (金)

鹿骨街道

都営新宿線の篠崎駅で下車し散歩を始める。 篠崎駅の北側を東西にのびる鹿骨街道に出て西に歩き、鹿骨新橋で新中川を越え、その後は鹿骨街道と分かれてJR総武線の新小岩駅まで、1万2千歩の散歩です。




都営新宿線の篠崎駅は昭和61年(1986)9月14日、新宿線船堀~篠崎間延伸時に設けられた。 その後、平成元年(1989)3月に新宿線が本八幡駅まで延伸し、以来篠崎駅は中間駅となった。 ホームは島式1面2線構造で地下2階にある。 朝は都心へ向かう通勤通学客が多く、新宿方面行の電車は座れないかも? 反対方向行きの、隣の本八幡行き電車はガラガラ!

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● 篠崎駅から北へ400m程歩くと鹿骨街道(ししぼねかいどう)に出る。(「鹿骨」を“しかほね”・“しかぼね”と読むのはよそ者である、地元では“ししぼね”と、、、、江戸川区の地名:鹿骨由来は、その昔、常陸国(現:茨城県)の鹿島大神という神様が大和国(奈良県)の春日社に向かう途中でお供の鹿が病死した。 この時、地元(鹿骨)の人々が手厚く埋葬したことから名付けられたといわれてる。 その鹿のために作られた塚を「鹿見塚(ししみづか)」といい、今も「鹿見塚神社」に残されている。、、、、今日の散歩では、この鹿骨街道を西へ歩くことにした。

・・・・・・・・・・ 上篠崎4丁目付近から西へ向かう、、、、“街道”と言っても、街道らしき昔の面影が残っていない!
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・・・・・・・・・・ 上篠崎3丁目の一隅に庚申塔がある「柳島の庚申塔 河原道石造道標」である。、、、、文化13年(1816)建立の道標で、正面に「右かわら道、講中」、左側面に「左江戸道」と刻まれている。 上部に青面金剛像の庚申塔を載せ、その台座が道標部分となっている。、、、、庚申塔の猿は消され、金剛像は劣化し、台座の彫りは読みづらく、チョイト悲しい運命の庚申塔!
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・・・・・・・・・・  柴又街道との交差点を越えて200m程歩くと、「鹿骨」の発祥地:鹿見塚神社(ししみづかじんじゃ)がある。 ここには鹿を葬って祀ったと言われてる鹿見塚が昭和44年(1969)頃まではあった場所である。 現在は、「鹿骨発祥の地 鹿見塚」の碑がある。 また近くには鹿骨鹿島神社もある。、、、、本店が鹿島神宮、その支店が鹿骨鹿島神社、その営業所が鹿見塚神社というような関係だ、最近は知られざるパワースポットとして売り出し中とか、ホントかな?
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・・・・・・・・・・ 鹿骨街道をさらに西へ300m程歩くと、バス停「鹿骨」の前に、真言宗豊山派寺院の密蔵院がある。 密蔵院は、本命山明光寺と号す。 密蔵院の創建年代は不詳だが、江戸時代中期の創建と伝えられます。 明治期に小岩善養寺の境外仏堂となったものの、平成2年(1990)に宗教法人となった。、、、、境内の一画に、閻魔大王が鎮座してる。 その脇に『・・略・・ 嘘をついても屁と思わず、否それおも正当化しようとする昨今の風潮にいたく立腹され、このたび憤怒の姿をこの地にあらわされた。 心からの反省の念をもって水をかけ、願うべし。「どうか私のついた嘘を水に流してください」と。』書かれてた。 私もチョイト水をかけ、これまで70数余年の嘘を流そうと思ったが、柄杓では流しきれないので諦めた。 
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・・・・・・・・・・ 新中川に架かる鹿骨新橋を渡り、
東岸の江戸川区鹿骨6丁目から西岸の江戸川区松本2丁目の町に入る。 鹿骨新橋は、平成7年(1995)12月に架橋された。 橋長119.3m、幅員18.0mの3径間連続非合成箱桁橋。 工事費は16億4千万円だったそうだ、高いか安いかサッパリ判らん!、、、、対岸にはスカイツリーが見える
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・・・・・・・・・・ 鹿骨新橋を渡り松本2丁目で鹿骨街道と分かれ、JR新小岩駅に向かって歩く。



● 駅前の商店街を抜けると新小岩駅。 JR総武線の新小岩駅から浅草橋の我が家までは所要約15分。 今日の散歩はここまで!
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2024年11月 5日 (火)

一の酉

今日11月5日は一の酉、朝食も済み、妻の化粧も終わり、洗濯も干して、夫婦で鷲神社(おおとりじんじゃ)・長国寺(ちょうこくじ)に参拝してきた。、、、、鷲神社は天日鷲命、日本武尊、を祀る由緒正しい神社。 現在は「おとりさま」として一般にも親しまれ崇敬を集めてる。 11月の例祭も現在は「酉の市」として全国的に広く知られているようだ。 社伝によると天照大御神が天之岩戸に隠れた際に、天宇受売命が岩戸の前で舞った折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸を開いた時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だと喜び、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神天日鷲命と称されることになった。 天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神としてこの地(台東区千束)に祀られた。 後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをした。 その日が11月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭、「酉の市」となった。 この故事により日本武尊が併せ祭られ、祭神の一柱となった。、、、、、長国寺は江戸時代初期、寛永7年(1630)に石田三成の遺子といわれる、 大本山-長國山鷲山寺(じゅせんじ)第13世・日乾(にちけん)上人によって、浅草寺町に開山した。 山号を鷲在山(じゅざいさん)寺号を長國寺と称す。 寛文9年(1669)には坂本伝衛門氏の後ろだてにより、新吉原の西隣にあたる現在の地(台東区千束、鷲神社の隣り)に移転し、江戸時代から続く代表的な年中行事である、浅草酉の市の発祥(?)の寺として、今日に至る。、、、、我が家では、鷲神社で御守りの熊手を、長国寺では火除けの纏の御守りを受けてきた。 今年は二の酉、三の酉まであり、ぜひぜひ皆さんも参拝し、商売繁盛、災難消滅ついでに一攫千金も祈願して、年末ジャンボは1等当選! 年が明けたら大金持ちだ!!
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・・・・・・・・・・ 熊手やさんは既に商売繁盛!
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2024年11月 1日 (金)

東京大衆歌謡楽団

これまで上野の病院(泌尿器科)で診てもらってた泌尿器の予防治療について、浅草の泌尿器科クリニックを紹介され、今年の夏からこちらで診てもらうことになった。 クリニックは浅草寺の裏側(北側)に位置し、浅草橋の我が家からは雷門を入り、浅草寺、浅草神社を抜けて馬道交差点にあるクリニックに行く。 帰りは当然その逆である。

今日は月1回程の診察日、おしっこ採られて、もちろん『異常なし』



帰りに浅草神社の境内に入る直前、聞き覚えのある声で懐かしい昭和歌謡が聞えてきた。 『あっ、あの声は東京大衆歌謡楽団だ!』 久しぶりに出会った、東京大衆歌謡楽団の野外演奏である。 境内には大勢の中高年が、身体を左右に振って、手拍子合わせ、口はパクパク、真剣に聞き入ってる。 私もみんなの後ろで手拍子合わせ歌に聞き入る。

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東京大衆歌謡楽団」は高島四兄弟が中心となって平成21年(2009)に結成された(今年は結成15周年)、昭和の流行歌などを演奏するバンドである。 私が初めてバンドを知ったのは、十数年前に隅田公園で演奏を聴いた時だった。 『おや? 誰か東海林太郎の真似してる それにしても上手だな!』と思った時だ。 以後、上野公園などで演奏してる場に出会ったことがしばしばあった。(最近は地方公演なども多く、いそがしそうだ)、、、、今日(11月1日)は浅草神社へ、バンドの奉納演奏だった。 四兄弟の長男:高島孝太郎さんの歌声、東京ラプソディ、青い山脈など心に響きいいね! また、弟の雄次郎さんのアコーディオン、龍三郎さんのウッドベース、圭四郎さんのバンジョーが奏でる音色もGood! 

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素晴らしい歌声で、懐かしい感じがとても良いね。 楽しい気分になって浅草神社をあとにする、ありがとう!
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