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2025年1月 8日 (水)

江戸三座の猿若町

年末から私の足が、度々つる(こむら返り)ので、泌尿器科でもらった頻尿の治療薬が原因かと思い、早速、泌尿器科へ行ってきた。 医者の話では、そのような副作用は考えにくいらしいが、とりあえず服用を止めることにした。 これにてこむら返りは“一件落着”となれば良いのだが?
ところで、私が通う泌尿器科は、浅草の「浅草寺」裏(馬道交差点)にあり、江戸時代の猿若町(さるわかちょう)付近にある。 現在の住居表示では台東区浅草6丁目である。、、、、診療後にチョイト猿若町をブラブラし、浅草寺を裏から抜けて、帰宅した。 8千歩



● 旧猿若町の街角に台東区で設置した「旧町名由来案内 下町しるべ 旧浅草猿若町」によると、次のように記されている。 『この地はその昔、丹波国(現在の京都府)園部藩主小出氏の下屋敷であった。天保十二年(1841)、徳川幕府は天保の改革の一環として、この屋敷を公収し、その跡地に境町・葺屋町・木挽町(いずれも現・中央区)にあった芝居小屋の移転を命じた。芝居小屋は、天保十三年から翌四年にかけて当地に移り、猿若町はできた。芝居小屋の移転とともに猿若町は、一丁目から三丁目にわけられ、一丁目には中村座および薩摩座、二丁目には市村座および結城座が移った。そして、三丁目には河原崎座が移転してきた。このうち中村座、市村座、河原崎座(=守田座)が世にいう「猿若三座(江戸三座)」である。  町名は、江戸芝居の始祖といわれた猿若勘三郎の名をとってつけたという。
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・・・・・・・・・・ “天保の改革”を推進した、老中:水野越前守忠邦は、①幕府内部の質素倹約、②庶民生活の統制、⓷農民の都市流入抑制、④経済安定を目標とて政治を行った。 その一つ庶民生活の統制を目指し、奢侈取締・風俗粛正策の一環として、江戸中の芝居小屋をここ一ヵ所に集めるために新しくつくられた町が、猿若町である。、、、、水野越前守は当初、芝居小屋を廃止するつもりであったらしい。 その時の北町奉行:遠山左衛門尉景元(あの、桜吹雪の金さん)の献言により一ヵ所に集めて、取り締まりを強化する方針に変更されたと言われてる。

・・・・・・・・・・ 各芝居小屋は、天保十三年から十四年(1842~1843)にかけて、現在の中央区人形町、銀座東から、台東区浅草へ相次いで移転した。 将軍様の御膝下から、外濠の先にある浅草の田圃に移転させられた。 もう少し北へ歩くと「べらぼう」の蔦屋重三郎の舞台である吉原がある。

・・・・・・・・・・ “猿若町”の名は、江戸歌舞伎芝居の始まりといわれる猿若勘三郎(現歌舞伎の名門:中村勘三郎の先祖)の名前から、つけられたと言われてる。猿若勘三郎は、「猿若」という名の歌舞伎狂言を創作した。

・・・・・・・・・・ 明治十年頃までに芝居小屋は各地に移転し、町の賑わいは終わり。 その後は、震災、戦災をへて、浅草の履物や革製品の問屋街に変わって行った。 中村座は明治17年に現:台東区鳥越へ、市村座は明治25年に現:台東区台東1丁目の凸版印刷本社がある処に移転した。 守田座は明治5年に中央区新富町に移転し新富座と改称。 三座とも、その後火災、震災により廃座となる。


・・・・・・・・・・ 旧猿若町の中央を南北に伸びる道を歩くと、西側に中村座(写真2番目の雪洞型)、市村座(3番目の石碑)、守田座(=河原崎座、4番目の石碑)の跡がある。
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・・・・・・・・・・ 震災、戦災で復興した現在の猿若町には、芝居小屋を当時をイメージできるものは残っていない。



● 猿若町から被官稲荷神社・浅草神社・浅草寺に参り帰宅する。
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