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2025年5月

2025年5月28日 (水)

下尾久石尊

数日前、地図を見てると荒川区にある「下尾久石尊」と呼ばれる不動堂が眼に入った。 十数年前に行った記憶があるが、うろ覚えなので今日の散歩はここへ行ってみようと決めた。 日暮里・舎人ライナーの熊野前で下車し、裏道を歩き下尾久石尊へ、再び裏道を歩くと子育て地蔵があり、そこで関係する寺へ足を伸ばし、JR西日暮里駅まで、1万歩の散歩となった。



● 日暮里・舎人ライナーの「熊野前駅(くまのまええき)」で下車する。 熊野前駅は平成20年(2008)3月30日の日暮里・舎人ライナー開通と同時に開業した駅。 尾久橋通りの頭上に島式ホーム1面2線を持つ高架駅。 駅名の“熊野”は、近くの熊野神社にちなむ。、、、、、駅前には都電荒川線の熊野前停留場もある。
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● 熊野前駅から都電の北側を東の方向に歩くと、「石門通り」というかつて下町の商店街であったと思われる裏通りがある。
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・・・・・・・・・・ この石門通りに面して、私立の女子校「北豊島中学校・高等学校」(女優:丘みつ子、大原麗子の出身校)がある。
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・・・・・・・・・・ 北豊島中高等学校の敷地に食い込むような形で、石門通りに面した一画に「子育地蔵堂」がある。、、、、、よく街中に見られる地蔵堂と同じようだ。 由緒書のようなものはなく、由緒・年代不詳。 弥陀様の前に立つ子連れの地蔵尊が堂内にまつられてる。 私は、比較的新しい仏像と判断した。
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● 北豊島中高等学校から南東に100m程入った裏道の角に、今日散歩で目指した「下尾久石(しもおぐせきそん)」(荒川区東尾久6)がある。、、、、、境内にある案内板には以下のように記されている。 『暦応(1338-42)の頃、しばしば起こる地震に、村人が不思議に思ってこの地を訪れたところ、地より2尺(約60cm)ばかりの異形な石が生えていたという。一名「出世石尊」。石神と崇め、祀るようになったと伝える。文政11年(1828)成立の「新編武蔵風土記稿」には「阿遮院(あしゃいん)」と記載。天保14年(1843)の書上帳には、境内25坪(約80平方メートル)と記録されている。  この石尊を祀る講は「出世講」と呼ばれ、現在でも続けられている。石神信仰は関東周辺に広く分布しており、下尾久字石神といわれたこの周辺の字名も、これに因んだものと思われる。  社殿左側の庚申塔には、元禄11年(1698)11月吉祥日の紀年銘がある。(荒川区教育委員会掲示より)』、、、、、扉の格子から中を覗くと、榊の後ろに石神(不動尊)らしき像がある。 老いた私は、出世を願う気持ちは無く、ささやかに宝くじ一等当選を願うばかり、手を合わせ“よろしく”!
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・・・・・・・・・・ 不動堂左側の庚申塔には、元禄11年(1698、吉良邸討ち入りの4年前)11月吉祥日の紀年銘がある。
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● 下尾久石尊前の裏道を200m程歩くと、通りの一画に下町の風景を十分感じさせる「子育地蔵尊」(東尾久6)がまたまたあった。、、、、、玉垣には「昭和十年九月一日 阿遮院」という文字が彫り込まれている。 また、敷地内に「大震災一周年記念碑」があり、その石碑の脇には、大正13年9月1日建立とある。 関東大震災の記念碑だ! 堂内には丸彫の地蔵尊と舟型の小さな地蔵があった。 造立年は不明だが、大正13年(1924)7月、石神子育地蔵尊とあった。、、、、、私が気になったのは、玉垣の「阿遮院」の文字、直前の下尾久石尊でも案内板に「阿遮院」の名が記されていた。 急遽、スマホで「阿遮院」を調べてみると、近くの東尾久3丁目にあるお寺らしい、この後寄って見ることにした。
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● 東尾久6丁目と東尾久3丁目の界を行き交う都電荒川線。 (「東尾久三丁目停留場」付近にて)
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● 東尾久3丁目の「阿遮院(あしゃいん)」に来ると、参道前の鉄の門扉が閉まってた。 門扉からは奥の山門は見えるが本堂は見えない。 散歩途中に突然立ち寄った私には、閉まってる扉を開けてまで奥に進む勇気はなく、本堂に行くのは諦めた。、、、、、真言宗豊山派の阿遮院は、阿遮羅山蓮華寺と号す。 阿遮院は、尾久における最古の寺院と伝えられ、本尊は阿遮羅明王(不動尊、梵名アシャラナータ)。、、、、、折角立ち寄ったのに、本堂に行けず残念無念、アジャパー!
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● JRの「西日暮里駅」は道灌山下の窪地に、昭和46年(1971)4月20日に開業した。(当時は国鉄の時代) 開業2年前の昭和44年(1969)に、帝都高速度交通営団(現:東京メトロ)千代田線の西日暮里駅が開業している。 JR(当時:国鉄)の西日暮里駅は、地下鉄千代田線との乗り換えのために新設された駅で、隣の日暮里駅からは500m程しか離れていない。 西日暮里駅は島式ホーム2面4線の高架駅、改札口は1ヶ所のみで1階にある。 駅前の道灌山通りの地下には千代田線のホームがあり、JRと千代田線を直接乗り換えるための改札が地下1階にある。
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2025年5月26日 (月)

谷津バラ園

バラの花が見頃と聞いて、夫婦で千葉県習志野市にある谷津(やつ)バラ園に行ってきた。



● 京成本線の「谷津駅」で下車する。、、、、、京成船橋駅から3駅目、京成津田沼駅の1駅手前、各駅停車しか停まらない東京近郊の住宅街の駅である。 今の爺さん婆さんには、「谷津遊園」の駅と言えば、知る人もいると思う。 私も小学生の頃、近くの船橋ヘルスセンターや谷津遊園に連れてきてもらった。 その頃の谷津遊園は東京湾に面し、海水浴、潮干狩りもできたと記憶している。 その谷津遊園のあった駅が名を変えて「谷津駅」となった。、、、、、現在の谷津駅は、大正10年(1921)7月17日、谷津海岸駅として開業。 昭和2年(1927)から昭和9年(1934)までは、京成遊園地(後の谷津遊園)のために支線が存在し、その支線上に谷津遊園地駅が存在した。  昭和11年(1936)に支線は廃止され、谷津海岸駅が谷津遊園駅と名称変更した。 昭和14年(1939)、戦時下のため谷津海岸駅と名称を戻す。 昭和23年(1948)再び谷津遊園駅と名称変更。 昭和59年(1984)には、その前々年に谷津遊園が閉園していたため谷津駅に名称変更。 今日までに4回の駅名変更をした。、、、、、島式ホーム1面2線の地上駅で、駅舎は駅ホームの真上にあり、ホーム北側には台地が迫っている。 山側の北口は崖上の住宅地に続いている。 海側の南口は、昔の海岸側でホームの隣りの国道14号(千葉街道)をまたぐ階段を下り道路面に立つことになる。、、、、、私も妻も、谷津遊園時代に来たが、それ以降来たことのない駅で、数十年ぶりに下車した駅だ! “当時の面影は?”と問われても、何も覚えていないので、答えようなし!
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● 谷津駅から徒歩5分、住宅地の中に「谷津バラ園」がある。、、、、、谷津バラ園は、昭和32年(1957)に京成電鉄の谷津遊園バラ園として設立された。 当時東洋一の大バラ園と言われた。 昭和57年に谷津遊園の閉園によりバラ園も閉鎖された。 その後、隣接する団地建設にともない、再び谷津バラ園が習志野市の都市公園として、昭和63年(1988)に開園した。、、、、、約12,600平方メートルの敷地内には800種、7,500株のバラが噴水を中心に整然と咲き、植栽されているバラは名花・名品種と呼ばれるものや、原種及び歴史的にも優れた価値を持つ品種が多くある。 5月中旬~6月下旬頃と10月中旬~11月中旬頃が見頃と言われてる。 私達が来た今日の日は、園内のバラ全てに花が咲き、鮮やかな色と香りで歓迎してくれた。
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・・・・・・・・・・ 色も形も異なるバラが800種、呆けが心配になってきた私はバラの名前なんて覚えられない! ただただ美しければそれで良し! パチリ、写真を撮ってきた。
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・・・・・・・・・・ 多くの人がバラを楽しんでる
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2025年5月20日 (火)

五から六まで歩く

東京の気温は30度を超える真夏日の予想が出た! 熱中症が気になる時期となったが。 健康のためと思い、足立区の“反野駅”(東武伊勢崎線)から“町”(つくばエクスプレス)まで、9千歩の散歩です。




● 知る人ぞ知る 知らない人はまるっきり知らず、山手線の五反田駅と間違える東武伊勢崎線の五反野(ごたんの)駅。 五反野駅は北千住駅の次の次。 駅所在地は東京都足立区足立三丁目、大正13年(1924)10月1日の駅開設時の住所は東京府南足立群綾瀬村。 駅周辺は戦後形成された東京の下町である。 駅周辺には他区から人を呼び込むほどの施設は無く、五反野駅は地元完全密着型の駅である。、、、、、五反野駅は島式ホーム1面2線を有する高架駅。 緩行線のみホームがあり、緩行線外側を急行線が走る。 1日平均乗降人員は約36,000人ぐらいで、普通列車(地下鉄日比谷線直通)しか停まらない駅。
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● 駅前の商店街五反野駅前通り銀座会」を駅に向かう通勤客に逆らい北へ歩く。 この商店街は、昭和40年代前半に駅前通りに沿って存在していた用水路(俗称:どぶ川)が暗渠化され、駅前道路周辺に商店も増え昭和45年(1970)に商店会として発足したとのこと。、、、、、時刻は8時30分過ぎ、もう通勤・通学のピークは過ぎたのか、行き交う人も少なくなったように思われる。
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・・・・・・・・・・ この商店街の途中に、「
四ッ家町バス停」がある。 何気なしに時刻表を見ると、ナント驚くことに、ここに停まるバスは、土休日の朝一本のみだ! 平日は停車せず。 このバスは、五反野駅と花畑車庫の間を土休日1往復のみ運行しているらしい。(私は利用したことが無く詳細は不明)、、、、、誰が何のために、このバスを利用するのか知りたいね?
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・・・・・・・・・・ 五反野駅前通り銀座会商店街の北端は、六叉路の「四家(よつや)交差点(パノラマ写真で撮影したが、判るかな?) 6か所の信号が混乱なく点滅する六叉路だ。、、、、、四家交差点の “四家”とは、江戸時代この地域に住んでいた四家族、鶴飼、市川、高橋(兄弟)からついたと言われている。

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四家交差点から北東方向に裏道を歩くと住宅地の奥に「四ツ家稲荷神社」(足立区青井2)がある。、、、、四ツ家稲荷神社の祭神は、宇迦之御魂命と徳川家康です。 江戸時代から四ツ家のある次郎左衛門新田には、東の宮と西の宮の二つの稲荷社があった。 東の宮は青井3付近にあったそうだが、近代になって、1村1社政策が進められ、現在地にあった西の宮に東の宮が合祀された。 その際、四家の一つ鵜飼家の屋敷神だった徳川家康(権現さま)も合祀されたと言われてる。、、、、タヌキ(家康)とキツネ(稲荷)を祀る神社。 蕎麦屋には御利益がありそうな神社!
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● 四ツ屋稲荷神社からさらに北東に歩くと、「青井
愛宕神社」(青井1)がある。 創建年代不詳。、、、、、神体は馬に乗った愛宕権現で、元々は旧家の屋敷神だったそうだ。 『江戸愛宕三社』の1つで港区芝の愛宕神社と練馬区田柄の愛宕神社の三社が該当神社となるそうだ。 安産の神・火の用心の神として信仰されている。 神社の例祭日は、「秋の彼岸の中日」という珍しい神社である。、、、、彼岸の墓参りしてから、神輿をかついでワッショイするのかな?
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● 環七道路と都道102号がぶつかる交差点角に「西加平神社」(西加平1)がある。 西加平神社の創建年代は不詳だが、嘉兵衛新田の開拓に伴い創建されたと言われてる。 明治時代には加平天祖神社の摂社となったが、昭和29年(1954)稲荷神社としてとして分離独立、昭和49年(1974)西加平1丁目にあった天祖神社を合祀し、西加平神社と改称した。、、、、境内周辺は区画整理され平成28年(2016)に社殿は新しくなる、しかし境内にはいまだ樹木が少なくスッポンポンの状態である。、、、、石の鳥居には寛政11年(1799)の銘。 また、嘉永7年(1854)に新吉原角町(現:台東区千束)の安房屋から奉納された手水鉢もある。
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● つくばエクスプレスの「六町(ろくちょう)駅」は、秋葉原を起点として7番目に位置し、東京都内最北の地下駅。 駅部は三層構造であり、第1出入り口とともに平成16年(2004)に完成した。 駅の開業は平成17年(2005)8月24日。、、、、、駅周辺は、古さを感じさせる物は無く、駅前の広いロータリー、広い道路に面し立ち並ぶマンション、密集しない住宅、いかにも近年開発された町といった場所。
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2025年5月16日 (金)

再び弥彦・新潟へ (2)

新潟市内でお目覚めし、今日はのんびり市内をブラブラし、午後3時発の新幹線で帰京する。 新潟市内は一昨年、彌彦神社の帰りにチョイト歩いたので、今日は歩いていない処を見て回る。


● 萬代橋際のホテルを出て、国道7号を海側に歩くと「本町交差点」(新潟市中央区)がある。 この交差点は、5本の国道の起点、3本の国道の終点であり、合計8本の国道が集合している「日本一 国道が集まる 交差点」として、多くの国道好きな道路オタクの聖地である。 交差点角に、8路線の起終点を示す標識である、道路元標が設置されている。、、、、、 当交差点を起点とする国道は、国道7号(終点:青森市)、国道8号(終点:京都市)、国道113号(終点:相馬市)、国道289号(終点:いわき市)、国道350号(佐渡島経由、終点:上越市)  当交差点を終点とする国道は、国道17号(起点:お江戸日本橋)、国道116号(起点:柏崎市)、国道402号(海岸線経由、起点:柏崎市)、、、、、要するに、ここ新潟は日本海側の交通の要所であることが実感できる!
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● 道路元標のある交差点から北の方にチョイト歩くと、「古町花街」と呼ばれる一角がある。 路幅の狭い縦長の小路に何軒も料理屋や居酒屋が連なる古町の花街。 いわゆる三業地であったと思われる。 今風の店に変わった建物もあるが、所々に往時を偲ぶような渋い建物も残っている。、、、、、午前8時、綺麗に清掃された、まだ静かな小路、アルコールはダメな私でも、夜歩いて芸妓に会いたかったね!
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・・・・・・・・・・ 花街の中で、ひときわ大きな料亭があった、創業は弘化3年(1846)の「鍋茶屋」。 建物は国の登録有形文化財。
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● 古町花街から西へ、西堀通り沿いに寺院が並ぶ「寺町」がある。 西堀通だけで,20数か寺あるそうだ。 これらの寺院は、戦国時代から江戸時代初めにかけて、北陸や信州から移転してきたものが大半を占めているらしい。、、、、、今旅では、夫婦で数カ寺に参ってきた。(多くの寺を回ると賽銭貧乏になるので、ほどほどに!)

・・・・・・・・・・・ まずは、曹洞宗の「宗現寺」。 宗現寺は、元亀年間(1570~1573)真言律院として開創。 その後、慶長元年(1596)に曹洞宗に改宗した。
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・・・・・・・・・・ 続いて隣の「金潮山 真城院」へ参る。 鎌倉時代の建保4年(1216)、鑁照阿闍梨によって開創されたのが始まりと言われてる。 戦国時代には新潟城主も寄居土佐守の祈願所として庇護され隆盛したとのこと。 真言宗のお寺。
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・・・・・・・・・・ さらに続いて「勝楽寺」に参る。、、、、、天福元年(1233)、三州安城村の城主、安藤権頭が親鸞聖人に帰依したことに始まる。 新潟へは、慶長年間に安宅関より多くの壇中と一緒に移ってきた。 当時、勝楽寺を守った武士団の鎧や槍を保存している檀家も多く、その品々が当時を偲ばせるという。 江戸から明治への転換期には、会津軍事顧問のスネイルが宿泊して指揮をとった。アメリカ軍公使やフランス軍艦長などとの会見にも使われ、西洋料理が供されたという。 開港にともない、イギリス領事館が置かれた。 幕末の激動期を見守ってきた本堂も、明治13年の大火で焼失した。
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・・・・・・・・・・ 寺巡りの最後は、「真宗寺」、、、、、長崎山真宗寺は、1000年の歴史を持つ寺。 真宗大谷派(東本願寺)を本山に持つ。、、、、、鎌倉幕府の執権北条高時の家臣「長崎為基」 主家滅亡の後、出家。 本願寺覚如上人に帰し円海と称し正平8年、加賀国能美郡に一宇を創建し称名寺と号した。 その後、寺号を改め真宗寺と称した。 慶長年間当地新潟に移転した。 本堂は明治19年(1886)建立。
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● 寺町から次なる目的地「旧小澤家住宅」に向かう道筋に、チョイト興味ある建物があった。

・・・・・・・・・・ 古町通りにあった「吉野活版所」なる建物、、、、、吉野活版所は大正5年(1916)に建てられた印刷所の建物らしい。 古くなり取壊し直前に、「ARTEFAKT」という会社が所有し、この貴重でとても魅力ある建物を将来に残す活動をしているそうだ。、、、、、吉野活版所は2代目当主である吉野松次郎氏の設計によって、大正5年に建てられた。 木造3階建て洋風ファサードからは想像できないほど中は無造作に増築されていて、応接室、事務所、作業場、住居と奥へと続く迷路のようです。 新潟初のエレベーターもあるらしい。 チャレンジ精神旺盛でモダニストで評判だった吉野氏のこだわりが詰まったこの建物は、まさに新潟に存在する数少ない看板建築の一つ。
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・・・・・・・・・・ 本町通りを歩くと、妻入で、正面2階に半円アーチと矩形の窓が並ぶ、銅板張りの建物があった。 料亭「大橋屋」の本館建物である。 を並置し,壁面を銅板網代張り,その上部に2重の入母屋屋根を見せる。内部は二・三階に客室を設け,各座敷の天井や開口部などに意匠を凝らし変化に富む造作を見せる。 昭和10年(1935)頃の建物らしい。 全国から銘木を集め、他に類のない意匠を配した本館は国の登録有形文化財。、、、、、大橋屋の歴史は慶応2年(1866)初代大橋太吉が新潟奉行川村修就の屋敷を買い取り、鮮魚仲買商を始めたことに端を発するそうだ。 大正9年(1920)には四代目慎太郎が、婚礼料理と精進料理の仕出しを始め、料亭の礎を築いたそうだ。
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・・・・・・・・・・ 旧小澤家住宅に近い中央区上大川前通に、古くからの港町新潟の風情を残す建物があった。 築110年を超える漁業家「片桐家住宅」である。 平屋の商家が港町の景観を形成している。 この建物も国の登録有形文化財。
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● 「旧小澤家住宅」は、江戸時代後期から新潟町で活躍していた商家:小澤家の店舗兼住宅。 平成14年(2002)に、小澤家から新潟市へ土地と建物が寄贈され、新潟市の文化財として公開されている。、、、、、上大川前通に面する敷地(約1600平方メートル)の中に、主屋や土蔵などの建物(延床面積約860平方メートル)がある。 敷地の南側には、思案小路に沿うように主屋・道具蔵が並びます。 道具蔵は、開口部に残る焦げ跡や鬼瓦のヘラ書きなどから、明治13年(1880)8月の大火以前の建設、主屋はその直後に再建されたものと推測されます。旧新潟町に現存する町家では最も古いものの一つ。、、、、、内部、庭園などを一巡し、その巨大さに驚き、当時の商家は『金持ちだったね!』
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● 高麗犬を廻して願掛けをする「願懸の高麗犬」があることで知られている、「湊稲荷神社」に来た。、、、、、湊稲荷神社は、18世紀始めに前川三城が出羽国の米沢より新潟の地に、この地を開拓するようにとの御神託を授かり鎮座したものだ。 江戸末期より花柳界の信仰を集めて通称、道楽稲荷様と呼ばれている。、、、、、この神社の“売り物”は、ます願いごとを心に念じながら願懸の高麗犬を回すと願いが叶うと言われている。 願懸けは、男性は向かって右の高麗犬を、女性は左の高麗犬を、願い事を念じながら回し所願成就を祈願するのが習い。 昔、花街の女性達が港から船乗りが出て行かないよう、高麗犬の向きを変え、荒天祈願をしたのがはじまりとか(?)、、、、、私の願いはただ一つ“世界平和”と言おうとしたが、やはり素直に“宝くじ一等当選”を祈願した。 石の狛犬は回すのも、かなりの力仕事だ! 願いが叶えば御礼参りにまた来よう!
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● 旅の最後の観光スポットは、昭和47年(1972)に開館した「新潟市郷土資料館」。、、、、、新潟市郷土資料館は、開館後の昭和57年(1982)には当時の本館(旧新潟税関庁舎)に隣接して旧新潟税関石庫(いしぐら)が復元された程度で、チョイト展示物としては寂しい状態であった。 その後、郷土資料館としては平成15年(2003)に一旦閉館し、新築・改装など工事が行われた後、平成16年(2004)に新たに建設された博物館本館と、移設・復原された旧第四銀行住吉町支店の公開を開始し、名前も「新潟市歴史博物館」となり、「みなとぴあ」の愛称も命名された。

・・・・・・・・・・ 「旧新潟税関庁舎」は、開港五港の中で唯一現存する、開港当時の運上所(税関)の遺構。いわゆる擬洋風建築の一例で、赤瓦葺きの屋根とナマコ壁の外観にアーチ状の玄関口と塔屋などの洋風の意匠を取り入れている。 戊辰戦争終結後の明治2年(1869)10月に「新潟運上所」として開所した。 国の登録有形文化財。、、、、、この建物は当館前身の新潟市郷土資料館の本館として使用されていた。
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・・・・・・・・・・ 「旧新潟税関石庫」は、運上所の開所以来、保税倉庫として使用していた。 しかし、石庫の老朽化が著しくなったため昭和38年(0963)に解体され、一時保管された。 石庫の復元工事は1年半掛かりで行われ、昭和57年(1982)に竣工した。
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・・・・・・・・・・ 「旧第四銀行住吉町支店」は、昭和2年(1927)10月に竣工した第四銀行住吉町支店が、平成15年(2003)にみなとぴあ敷地内へ移築されたもの。 移築が難しい鉄筋コンクリートの骨格部分は新たに作り直されたが、花崗岩製の外壁や列柱、ロビー部の大理石製のカウンターなどが建設当初の姿に復原された。 平成17年(2005)に国の登録有形文化財に登録されている。
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・・・・・・・・・・ 「博物館本館」は、かつて西堀通六番町に所在した、二代目新潟市庁舎の外観をモチーフに建設された。 柾谷小路と西堀通に面した角地で古町からも至近の市内中心部に所在した二代目庁舎は、初代庁舎が明治41年(1908)の大火で焼失したのを受けて同地で再建されたもので、明治44年(1911)に竣工した木造モルタル仕上げのL字型の建物であった。この二代目庁舎は昭和8年(1933)に焼失したが、市庁舎はその後も四代にわたって同地で再建された。現在の本館は平成16年(2004)に新たに建設された。、、、、建物内部はシアタールーム、展示室、セミナー室などで構成されている。
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新潟駅から、お帰りです~~
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2025年5月15日 (木)

再び弥彦・新潟へ (1)

今日は、夫婦二人旅。 上越新幹線燕三条駅で下車し、彌彦神社・弥彦山へ、夕方新潟市内に入り一泊する。 彌彦神社・弥彦山は一昨年の4月の花見に来て、今回は二回目の訪問となった。



● 東京8時22分発の新幹線に乗り、燕三条駅に10時8分着。、、、、、 燕三条駅は、新潟県三条市と燕市に位置し、北側の燕市・南側の三条市にまたがっている。 上越新幹線と、在来線の弥彦線が交差する地点にあり、両路線の接続駅である。 昭和57年(1982)11月15日、上越新幹線大宮~新潟間の開通に合わせ、新幹線駅・在来線駅ともに開業した。 新幹線ホームは、下り側に単式ホーム1面1線と上り側に島式ホーム1面2線の計2面3線を有し中央に通過2線を挟む、高架駅である。 
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・・・・・・・・・・ 在来線の弥彦線との接続は、当然あるものと予想して来たが、『アリャ~~、12時過ぎまで弥彦方面に行く列車はない!』  困ったな、駅におられた地元の方に聞くと、弥彦に行くバスもない、『お急ぎなら、タクシーで行かれては・・・』 とのこと。 閑散とした駅での2時間待ちは辛いので、彌彦神社までタクシーでGO!、、、、、タクシーは彌彦神社へ向かう途中、「日本一の大鳥居」と表していた鳥居(高さ30.2m、昭和57年建立)の下を通過。 現在は、熊野本宮大社の大鳥居(33.9m)、大神神社の大鳥居(32.2m)に抜かれ、第3位となった。 参拝した後、帰りの弥彦線車中からも大鳥居は見えた!(2枚目の写真)
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彌彦神社(やひこじんじゃ)は、桜も散り参拝客も少なくなったそうだ。 新緑の木立に囲まれた参道を進み社殿に参る。 夫婦揃って彌彦神社神社は二年ぶりの参拝。、、、、、越後国一宮である彌彦神社は、越後平野西部の弥彦山(標高634m)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る神社である。 祭神は、天香山命 (あめのかごやまのみこと)。 弥彦山頂にある御神廟(奥の宮)が神廟にあたるとされる。 神社の社殿は明治45年(1912)に焼失し、大正5年(1916)に現在地に移って再建された。 今日は、拝殿前の敷石を改修工事中であった。 拝殿の背後に弥彦山を仰ぐ。、、、、、健康と身の上の安全を祈願して、夫婦それぞれの干支御守を頂戴する。 『これで長生きできるが、ボケたら悲しいね!』
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● 参拝終えたら弥彦山へ、、、、、弥彦山の標高は、東京スカイツリーと同じ634m。 神社近くの表参道登山口から山頂まで初心者でも1時間30分と登りやすい山だそうだ。 しかし、私たち夫婦は楽して、ロープウェーを利用。 山頂のからは、越後平野、日本海や佐渡を一望できるのだが、あいにく今日は薄曇り、佐渡はよくよく目を凝らし見える姿はぼんやりと、越後平野も霞んでる。
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● JR弥彦線は、起点の弥彦から、吉田、燕三条をとおり、終点の東三条まで8駅、17.4㎞の単線の路線である。 彌彦神社来るとき乗ったタクシーの運転手さんが、『お客さん、帰りにはぜひ弥彦駅から弥彦線に乗ってください。 弥彦から吉田までは、ひどい赤字路線で廃止となるかも?』 調べてみたら2021年度の営業係数は1998だった。 弥彦駅から弥彦線で吉田に出て、吉田から越後線で新潟へ行くことにした。 『
弥彦駅をしっかり見ておこう!』、、、、、弥彦駅は、大正5年(1916)10月16日、越後鉄道により当駅~西吉田駅(現:吉田駅)間開通と同時に開設され、その後、昭和2年(1927)に国有化された。 単式ホーム1面1線の地上駅である。 彌彦神社の本殿を模した木造寺社造り(入母屋造)の駅舎は大正5年(1916)の開業時からのもので、門柱や梁などが朱色に塗色され、鬼瓦には兎が彫り込まれるなど特徴的な意匠を持ち、「ふるさとの駅100選」にも選出されている。 令和3年度(2021)の1日平均乗車人員は152人である。、、、、、『弥彦駅、三度目の訪れる機会はあるかな?』
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● 弥彦線から越後線に乗換え新潟駅に到着。 新潟駅は16年間にわたり高架化工事が進められ令和4年(2022)完了した。 しかし、駅前の整備は現在進行中で、仮囲いが建ち並び駅舎の全景が見えにくい。
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● 駅前の大通りを歩き、信濃川に架かる萬代橋(ばんだいばし)を渡る。、、、、、現在の萬代橋は三代目。 平成16年(2004)に重要文化財に指定された。 初代の趣を継承した全長300m余りの六連の橋桁のアーチ、鉄筋コンクリートの構造物に御影石を施した姿、街灯などの照明も美しく、徒歩で渡ると川面も近く雄大。 完成は
昭和4年(1929)。 新潟の風情を感じることができる橋。 情緒的で新潟の風情を感じられるスポットです。橋の両岸も散歩に好適な憩いの場が広がっています。、、、、、現橋は当初、車道の中央部に路面電車を通す軌道が設計されていたが、実現に至らず、軌道部も車道として利用され上下計4車線の道路となっている。 幅の広い橋梁だ!
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・・・・・・・・・・ 今日のお宿は、萬代橋際にあるホテル、、、、、明日は、新潟市内を歩いてみよう!
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2025年5月 8日 (木)

秋山から本八幡へ

北総線の秋山駅から、ほぼ南に向かってJR総武線の本八幡駅まで、1万2千歩の散歩です。



● 早朝7時半に北総線「秋山駅」に降り立つ。 そろそろ通勤通学時間、駅にはゾロゾロと乗客が歩いて、走って、バスで、来る!、、、、、秋山駅は地下鉄の出入口のように、地下へ向かって階段を下ると地下1階に改札がある。 さらに階段を下り地下2階に半地下の堀割構造で造られた相対式2面2線のホームがある。、、、、、駅名標には、最寄りの学校名「聖徳小・光英VERITAS中高前」 が表示されている。 2校とも私立の学校なので、広告なのかも?
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● 秋山駅前にはマンションが立ち並んでいるが、南側の高台に上ると、戸建て住宅が多い住宅街となる。 住宅街からは通勤通学する人が途切れることなく階段を降り駅に向かう。 
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・・・・・・・・・・ 高台の上には、松戸市秋山、市川市稲越の街が広がる。 空き地からは、市川市国府台方面を見下ろすことができる。 江戸川は見えるようで、見えないね! 
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・・・・・・・・・・ 稲越の住宅地の奥に隠れるように厳島神社がある。 主柱を4本の支柱で支える朱塗りの両部鳥居が迎える小さな神社だ。   神社の創建年代は不明。、、、、、、由緒を知りたい、気になる神社だ!?
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・・・・・・・・・・ 千葉県立国分高等学校前を通過し、市川市曽谷7丁目に入る。 約600mの桜並木が伸びる曽谷小学校前の道を進む。
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・・・・・・・・・・ 曽谷6丁目には、首をブルブル震わす置物がズラリと並ぶ住宅がある。 何体あるのか数えてみたくなる。 また、どうして集めたのかな? よくぞ集めたね、壮観!
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・・・・・・・・・・ 宮久保橋を渡り、真間川を越える。 真間川は千葉県西部で江戸川から分かれ東京湾に注ぐ利根川水系の一級河川であるが、橋の上から覗くと川幅は狭く農業用水路のようだ!
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・・・・・・・・・・ 真間川を越えると市川市東菅野の町。 昭和学院中・高等学校がある。、、、、、昭和学院は昭和15年(1940)創立、現在は幼稚園から短期大学までを一貫して併設する総合学園に発展した。
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・・・・・・・・・・ 京成八幡駅前を通過、まもなくJR本八幡駅だ! チョイト足が棒になってきた!
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● 本日のゴール「本八幡駅」に到着。 
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2025年5月 7日 (水)

大根と巾着の寺

連休明けの初日、今日は泌尿器科の定期診断で浅草寺裏のクリニックへ行く。 今日は前立腺癌の検査結果を聞くと、“異常なし”と一言。 昨年秋には大腸癌の検査を行い、こちらも“異常なし”。 泌尿器科関連の癌は、今のところ発症していないようだ、一安心。、、、、、 帰りに、近くの「待乳山聖天」に寄ってきた。



● 台東区浅草にある「本龍院(ほんりゅういん)」は天台宗の流れをくむ聖観音宗の寺院で、浅草寺の子院のひとつである。 山号は待乳山。 本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音で、「待乳山聖天(まつちやましょうでん)」とも称される。、、、、、本龍院は隅田川べりの小高い丘(待乳山)にある。 この丘は推古天皇3年(595)9月に出現してが守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金龍山)の由来となったと言われてる。 推古天皇9年(601)この地方が旱魃に見舞われたとき、歓喜天と十一面観音が安置されたそうだ。 待乳山は、かつては周囲が見渡せる山であり、江戸時代には文人墨客がこの地を訪れていたそうだが、現在はスカイツリーがよく見える東京で一番低い標高10mの山である。
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境内各所に印された巾着大根は、信心で祈願することにより得られるその御利益を端的に表したものである。 大根は身体を丈夫にしてもらい、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を御加護頂ける功徳を表している。 巾着は財宝で商売繁盛を表し、聖天の信仰の御利益の大きいことを示されたものだ。 境内のあちこちに大根と巾着のシンボルを見ることができる。
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・・・・・・・・・・ 大根は心身を清浄にする聖天さまの「おはたらき」を象徴するものとして、聖天さまのご供養に欠かせないお供物とされている。 参拝する人は、本堂(聖天宮)で歓喜天(聖天さま)に大根を供え、お供えの大根を持って行く。 ご祈祷のあと、お下がり(おさがり)の大根を頂くことによって、聖天さまのお徳をそっくり頂戴し、身体と、心の健康を得ることが出来る。
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・・・・・・・・・・ 歓喜天に手を合わせ、無病息災を願い帰る。

2025年5月 3日 (土)

GWの川越

ゴールデンウィークの真只中、川越(埼玉県)の街を歩いてきた。、、、、、先日、私の長女(40代、既婚)と話してると、“川越”に行ったことがなく、『ぜひ行ってみたい』と言うことになった。 連休中は混雑が予想されるが、『その混雑する川越を見てみたい』と言う。 蔵造りの街並みは人混みで歩けず、昼食に名物“うなぎ”は行列待ちで食べられず、川越名物「芋菓子」は並んでも購入できず、民芸品の店は満員の客で入れず、これら予想される場面を事前に納得させての川越行きとなった。、、、、私達夫婦、長女とその子(私の孫、小6)の計4名にて出発!




● 高田馬場から西武新宿線の特急「小江戸」で川越へ向かう、、、、連休中の観光地行きの電車だというのに、車内はガラガラ。 西武は儲かっているのかな? 
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・・・・・・・・・・ 駅の観光案内所で“散策マップ”をもらい、大筋の行程を決めた。 本川越駅➡仙波東照宮➡喜多院➡大正浪漫夢通り➡蔵造りの街並み➡時の鐘➡川越氷川神社➡菓子屋横丁➡蔵造りの街並み➡本川越駅  『この順で歩こう!』



● 東照宮といえば徳川家康を祀った日光東照宮と久能山東照宮が有名だが、「仙波東照宮」は日本三大東照宮の一つで、喜多院の南側に隣接している。、、、、、元和2年(1616)駿府で徳川家康が没し、その遺骸を静岡から日光山へ移葬する途中、天海僧正によって喜多院で四日間の法要が営まれたことから、寛永10年(1633)建立された。 それから5年後の寛永15年(1638)、「寛永の大火」と呼ばれる大火事によって、喜多院山門を残し、焼け落ちたが、徳川家光より喜多院復興の命令が下ると、まず東照宮の再建が行われ寛永17年(1640)に完成した。、、、、、朱色の東照宮随身門(左右に控える随身像は見当たらず“もぬけの殻”)、その先にある石の鳥居を潜りジャスト50段ある石段を上がると葵紋が嵌め込まれた金属の門の先に拝殿・幣殿がある。 さらに奥に瑞垣に囲まれ漆塗りの極彩色の飾りが鮮やかな本殿がある。 これらの建造物全てが重要文化財。、、、、、本殿内部には甲冑を身に着けた馬上の家康の像が祀られていると、ボランティアの案内人が教えてくれたが、非公開で拝見できず、残念!、、、、、仙波東照宮は観光客に人気が無いのか、人影はチラホラ
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● 仙波東照宮の隣りには、慈覚大師が830年(天長7)に創建した天台宗の名刹で、正式名「星野山無量寿寺喜多院」がある。、、、、、江戸時代初期、名僧天海大僧正が住職をつとめた寺として有名。 徳川家康の信任を得ていた天海僧正が第27世住職になると、幕府からの厚い庇護を受け、江戸城から豪華な壁画や墨絵で装飾された「客殿」と呼ばれる家光誕生の間や、3代将軍家光の乳母として知られる春日局が使用していた「書院」と呼ばれる春日局化粧の間などが移築された。 客殿・書院・庫裏・慈眼堂・山門などは国指定重要文化財。、、、、、我が家の一同、厄除祈願でナンマイダ!
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● 喜多院を参拝したらランチタイム。 ココまで来たら並んでも「うなぎ」を制覇したい、女の執念には逆らえず、30分待ちで鰻重を食す。 食べた後は、皆ニコニコ。
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● 蔵造りの街並みを通り抜け「川越氷川神社」を訪れた。、、、、、川越総鎮守氷川神社は、約1500年の歴史を持つ埼玉県川越市にある古社で、「縁結びの神」として親しまれています。夫婦神を祀っていることから、特に家庭円満や夫婦円満のご利益があるとされている。 それゆえか、若いカップルがやたら多い!、、、、、ジジ、ババの姿は少なく、チョイト場違いかな? 早々に立ち去る。
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● 川越と言えば、「大正浪漫夢通り」、「蔵造りの街並み」、「時の鐘」、「菓子屋横丁」が連なる、川越の中心地に入る。 “期待通り”ものすごい人混み、どの店も行列状態、年寄りは店内に入ることも難しい、スゲェ~~!、、、、、ひたすら通り抜けることに意識は集中、、、、、それでも、我が妻・長女はここでも女の執念か(?)、チャンと買い物を済ませる。 帰りの電車で、3つの膨らんだレジ袋に土産がイッパイ!
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● 川越の散策は1万5千歩、、、、、チョイト疲れたね!  

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