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2025年9月

2025年9月27日 (土)

500棟の伝統建築

今回の旅の予定は、一日目に長谷寺へ、二日目に橿原神宮と神武天皇陵へ行くことに決めていた。 そのため、宿泊先に橿原神宮駅前のホテルを予約しておいた。 しかし昨日、長谷寺と橿原神宮に参拝したので、二日目の今日は時間に余裕ができ妻と相談して、畝傍御陵前駅から神武天皇陵、綏靖天皇陵を見て、重要伝統的建造物群保存地区の今井町を歩き、大和八木駅から大阪経由(妻がグリコの看板を見たい!)で東京へ帰ることにした。



● 宿泊した橿原神宮前駅の北隣にある、近鉄の畝傍御陵前駅(うねびごりょうまええき)から今日の旅は始まる。、、、、、畝傍御陵前駅は、近鉄橿原線の駅で、大正12年(1923)3月21日に大阪電気軌道畝傍線(現在の橿原線)の平端~橿原神宮前間の開通時に「畝火山駅(うねびやまえき)」として開業した。 大正13年(1924)には、一字違いの「畝傍山駅(うねびやまえき)」に改称。 昭和12年(1937)には「神武御陵前駅」に改称。 昭和14年(1939)には、駅を現在地に移動し「畝傍御陵前駅」と改称した。 『開業から現在まで4回、名を変えてご奉公』 駅名のごとく、畝傍山が駅の正面に見え、その裾に神武天皇陵(御陵)がある。 現駅舎は橿原神宮前駅に似た大和棟風の重厚なデザインだ!
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● 国の創始者である神武天皇の御陵は、畝傍山の東側の森に位置する、即位したとされる橿原神宮の北隣である。 畝傍御陵前駅から500m程歩くと、宮内庁が管理する御料の入り口(参道)がある。 参道は緩やかに右カーブし、曲がると正面に拝所が見える。 参道両側は高い木立に囲まれ、神聖な空気が漂う中を拝所に進む。、、、、、神武天皇陵の陵(みささぎ)の名は「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)」で、遺跡名・俗称は「四条ミサンザイ」と呼ぶそうだ。 陵の形式は円丘。、、、、、神武天皇がこの地に生まれ、ここ四条ミサンザイに葬られているかは、確たる証拠もないらしい。 中世には陵墓の位置はわからなくなっていたそうだ。 江戸時代になり、水戸光圀が「大日本史」の編纂を始めた頃に幕府も天皇陵を立派にすることで幕府権威をより一層高めようとして、元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われた。 その時に神武天皇陵に治定されたのは、畝傍山から東北へ約700 mの所にあった小さな円墳であった(現在は第2代綏靖天皇陵に治定されている)。 しかし畝傍山からいかにも遠く、山上ではなく平地にあるため、もう少し畝傍山に少し近い「四条ミサンザイ」という小さな塚を神武天皇陵としたという説がある。 神話の時代のことで、私には真実が何かは別にして、神武天皇の実在とこの地が天皇陵であったことを信じ、崇敬し拝むこと自体に意味があると思われる。、、、、、拝所の脇に管理事務所のような建物があるが、お守り、神武天皇饅頭などの土産物は売ってない。 飲料水の自販機も無し、「さすが宮内庁!」
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● 神武天皇陵の北側徒歩10分程で、第2代綏靖天皇(すいぜいてんのう)の陵墓がある。 こちらも、鬱蒼とした樹木に囲まれているが、神武天皇御陵と違い訪れる方も少ないようだ。 御陵は約30mの円墳状と推測され宮内庁が管理してる。 陵の名は、桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)です。 天皇名、陵名ともに難読だ、私には読めない、書けない、情けない!
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● 奈良県橿原市の中央(近鉄:八木西口駅の南西)に「
今井町(いまいちょう)」がある。 今井町は、戦国時代天文年間(1532~1555)この地に一向宗の門徒が自衛上武力を養い、濠をめぐらせ、御坊(称念寺)を中心とした町づくりをしたことに始まる。 江戸時代には、東西約600m、南北約310m、戸数1,100軒、人口約4000人強の町に成長した。 現在も今井町は1丁目から4丁目まであり、1,500棟程の建物があり、そのうち約500棟が江戸時代以来の伝統様式による建物が残っている。 伝統的建造物が全国で最も多い地区となっており、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。 また、国の重要文化財が9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件あり、平成29年(2017)に日本遺産に認定された。

・・・・・・・・・・ 神武天皇陵から歩いて今井町に来ると、町の入口に「今井まちなみ交流センター:華甍」がある。 ここで、情報を仕入れてから町歩きすることにした。 センターでは、案内の女性が親切に『今日、内部を見学できる建物は、こちらとこちら、さらにこちらも』と、地図に10か所ほどマークして教えてくれた。 ありがとう!、、、、、センターの建物は、明治36年(1903)高市郡教育博物館として建てられ、昭和4年から今井町役場として使用されていた。 現在は資料館として公開されている。
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・・・・・・・・・・ 今井町は堀(環濠)に囲まれた中に、道が格子状に作られているが、
敵の侵入を防ぐため堀の外からは見通せないように、道の一部を屈折させている。 道幅は狭く、現在も一車線の道路である。
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・・・・・・・・・・ どこの家も重要文化財に見えてしまう今井町の住宅。 どこの家も、愛情込めて皆さん住んでます、商売もしてます。
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・・・・・・・・・・ 称念寺は、浄土真宗本願寺派に属し、今井御坊とも南之御堂とも呼ばれている。 現在の今井町は、この寺の境内地を中心として発達した武装宗教都市:寺内町である。 寺の草創は室町末期の天文年間織田信長が誕生したあたりで、本願寺の一家衆今井兵部卿豊寿がここに本願寺の道場を建てたのに始まる。、、、、、称念寺の本堂(重要文化財)は、入母屋造・本瓦葺・向拝付で浄土真宗初期の建築様式を残している。 創建年代は不明だが寛文11年(1671)に修理された記録が残っており、江戸時代初期の建立と推定される。 東を正面とし、桁行20m、梁間21m。 表門(山門)は多武峰談山神社(妙楽寺)より移築された門である。 廃仏毀釈の折、年代ははっきりしないが、明治2年から9年頃である。それ以前は長屋門であったと言われている。 山門脇の太鼓楼は弘化2年(1845)の建築。
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● 今井町を歩き回り、食事も済ませて『イザ・大阪へ!』、、、、、近鉄「大和八木駅」まで歩き疲れて、大阪難波までは特急で30分。

・・・・・・・・・・ 道頓堀は凄い人・人・人  グリコの看板を見てると、聞こえる会話は中国語、韓国語、英語、ドイツ語、解らん言葉!
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・・・・・・・・・・ 人込みを避けたつもりが法善寺  水掛地蔵に手を合わせ『長生きできますように! ついでに宝くじ一等当選もよろしく!!』
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2025年9月26日 (金)

60年ぶりに長谷寺へ

50年程前、結婚するころに妻に、私の好きな寺の一つである“奈良の長谷寺”へ連れて行く約束をしていた。 今回、長い猛暑日が終わったので、我慢していた旅の虫が騒がしくなり、急遽一週間前、『長谷寺に行こう!』と妻に言うと、もちろんOKの返事。 行先は長谷寺と、私が行ってみたかった橿原神宮・神武天皇陵の3か所を予定し、26・27日の一泊二日旅をしてきた。 
私が長谷寺に参ったのは60年ほど前、建築学科の学生の頃、京都・奈良の寺社巡り、遺跡巡りをしていて、その旅の一つで室生寺、長谷寺、談山神社などを歩き、長谷寺では長い登廊、京都清水寺に似た本堂の舞台、本堂から見る五重塔などの美しさに魅せられた。 今回は、学生の頃を思い出しながら、60年ぶりの参拝が実現した。(妻は初めての参拝)



● 朝7時発の新幹線に乗り、名古屋からは難波行の近鉄に乗り換え、10時45分真言宗豊山派総本山がある長谷寺駅に到着。 乗降する人は数人と少なく、無人の改札を出ると、駅前には店は無し、長谷寺への案内図があるのみ。 昭和58年(1983)頃は、一日の乗降客は5,900人程度であったが、現在は一日700人程らしい。 総本山に参る人の多くは、電車から車に変わり駅も寂れてしまったようだ。、、、、、長谷寺駅は昭和4年(1929)10月27日の参宮急行電鉄の桜井~長谷寺間開通と同時に開業。 翌年、昭和5年(1930)2月21日には長谷寺~榛原間が開通した。 昭和16年(1941)、大阪電気軌道との会社合併により、関西急行鉄道の駅となる。 昭和19年(1944)には会社合併により近畿日本鉄道の駅となる。 相対式2面2線の地上駅。 駅は山の中腹にあり、山裾に流れる大和川沿いの民家・国道に向かって急な坂をくだるようになっている。 坂の下りもきついが上りはモットきつい! 年寄殺しの坂だ!
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● 駅から坂を下り、大和川を越えると、長谷寺への参道である“旧初瀬街道”がある。 歩く人は見られず、車は私をよけて走り去る。 かつては道の両側に旅館・土産物屋が並んでいたと記憶していたが、今は旅館が数件、店も数件が営業している程度で、チョイと寂しい。 時代は変わったが、街道の面影残す建物もまだ残っている。
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・・・・・・・・・・ 長谷寺参拝客の駐車場がある付近からは、急に人影が目に入る。 『皆さんお車でお越しですか? 楽で良いですね!』
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● やってきました真言宗豊山派総本山「長谷寺」 長谷寺は、大和国と伊勢国を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。 朱鳥元年(686)、僧道明上人が天武天皇のために銅板法華説相図(国宝)を西の岡に安置したことが始まりと言われてる。 平安時代には貴族、江戸時代には徳川家の崇敬を集め帰依を受けて栄えた。 舞台造の本堂(国宝)は徳川家光による再建。寺宝類としては、本尊十一面観音像をはじめ、約千点にも及ぶ文化財を所蔵する。 仁王門を抜け、本堂へと続く登廊(重要文化財)は399段に渡る石段になっており、天井には楕円形の灯籠が吊られている。 登廊は4月下旬から5月上旬に見頃をむかえるボタンに彩られる。 今の時期は、ボタン、アジサイ、桜、紅葉のどれもこれも無し、あるのは緑鮮やかな樹々のみ。(できれば花の時期に来たかった!)

・・・・・・・・・・ 参道から長谷寺の総門である仁王門(国登録重要文化財)へ向かう。 三間一戸入母屋造り本瓦葺きの楼門である。 両脇には仁王像が出迎える。  現在の建物は明治22年(1889)に再建されたもの。
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・・・・・・・・・・ 仁王門をくぐると登廊(のぼりろう、国登録重要文化財)となる。 平安時代の長歴3年(1039)に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったもので、108間、399段、上中下の三廊に分かれてる。 下、中廊は明治22年(1889)再建で、風雅な長谷型の灯籠を吊るしている。、、、、、階段の上りはキツイ! 汗をかきかきボヤくのは『エスカレーターにして欲しい!』 
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・・・・・・・・・・ ゼイゼイ息を切らして上ってきた先に国宝の本堂がある。 小初瀬山中腹の断崖絶壁に懸造り(舞台造)された南面の大殿堂である。正面(内陣)は桁行(間口)の柱間9間、梁間(奥行)同5間、入母屋造本瓦葺で、また礼堂(外陣)は正堂よりやや低く、桁行9間、梁間4間、正面入母屋造本瓦葺。  夏の緑の陰で本堂の全景は撮影できず、チョイと残念。、、、、、堂内に祀られている、本尊である約10mの「十一面観世音菩薩」も撮影禁止。 観音様に合掌し家族の健康を願ってきた。
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・・・・・・・・・・ 本堂から眺める五重塔。 昭和29年(1954)、戦後日本に初めて建てられた五重塔で、昭和の名塔と呼ばれております。純和様式の整った形の塔で、塔身の丹色と相輪の金色、軽快な檜皮葺屋根の褐色は、背景とよく調和し、光彩を放っています。 度々絵になる五重塔!
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● 妻と長年の約束であった「長谷寺詣で」も済ませ、本日の宿がある橿原神宮前駅へ移動。、、、、、橿原神宮前駅の歴史は古く、3線が乗り入れている。 南大阪線(大阪阿部野橋~橿原神宮前駅、狭軌)と橿原線(大和西大寺~橿原神宮前駅、標準軌)の終点駅、吉野線(橿原神宮前駅~吉野駅、狭軌)は起点駅。 南大阪線と吉野線は直通運転しているが、橿原線は軌間が異なるため南大阪線、吉野線に乗り入れることはない。 橿原神宮前駅の開業は大正12年(1923)3月21日、大阪電気軌道畝傍線(現在の橿原線)平端~橿原神宮前間延伸時に橿原神宮前駅開業に始まる。 駅は2面4線のホームが2つある地上駅。 中央口を挟み東側の1 - 3番のりばは標準軌の橿原線、西側の4 - 7番のりばは狭軌の南大阪線・吉野線である。 改札口は
東、西、中央と3か所ある。、、、、、中央口の駅舎は初代新歌舞伎座の設計で有名な建築家・村野藤吾の設計である。 中央口は橿原神宮の参道に近く皇室の利用もあり、貴賓室を備えた橿原神宮前駅のメインの建物となっている。 建物は神社かお寺かと思わせる外観で、大きな急斜面の屋根が特徴の大和棟を模したコンクリート駅舎である。 駅舎の竣工は昭和15年(1940)、村野藤吾建築事務所が設計し、大林組が施工した。 紀元2600年の式典に合わせて作られたものである。、、、、、今宵泊まるホテルの窓からは橿原神宮前駅を見下ろすことができ、鉄オタの私にはうれしいことであった。
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● 夕食までには時間があり、夫婦そろって橿原神宮(かしはらじんぐう)へ参る。 橿原神宮は橿原神宮は、大和三山の一つ「畝傍山」の麓にあり、神武天皇陵の南に隣接する。 旧社格は官幣大社、勅祭社。現在は神社本庁の別表神社。、、、、、明治22年(1889)、初代天皇である神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされる橿原の地に、神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命を祀るための神宮を創建することを民間有志が請願し、感銘を受けた明治天皇によって明治23年(1890)4月2日官幣大社として創建された。 橿原神宮の設計は、東京帝国大学(現:東京大学)名誉教授を務めた伊東忠太によって行われた。 創建当初の名は橿原神社であったが、明治23年神宮号宣下を受けて橿原神宮に改称された。、、、、、霊峰と崇められる畝傍山を背景に53万m2(甲子園球場約13個分の大きさ)を有する神宮。 境内は信仰の杜として、約76,000本の樹木が植栽され、うち22,000本は全国から寄せられた献木である。 行ってビックリ、見てビックリ、なにしろ広い神社だ!、、、、、第一鳥居第二鳥居とぐぐり、南神門を入ると外拝殿前に砂利を敷き詰めた広場がある。 私が入れたのは、ここ外拝殿まで。
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・・・・・・・・・・ 外拝殿から内拝殿を望む(拝殿前のテントは秋季例大祭の参列者用の準備中) 幣殿、本殿はさらに奥、見えない!、、、、、神様は見えないが、遠路はるばるここまで来たら賽銭も奮発してきた。 金額はナイショ!
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・・・・・・・・・・ 境内のもデカすぎる!
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・・・・・・・・・・ 外拝殿の後ろに畝傍山が見え、ホテルの窓からも畝傍山が見える。
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2025年9月22日 (月)

墓掃除で腰が痛い

明日は彼岸の中日、今日は朝から涼しい。 我妻と娘二人を伴い、千葉県松戸市の都営八柱霊園に墓参りしてきた。 墓の樹木が大きく成長し前々から気になっていたため、今日は娘にも手伝ってもらい樹木の手入れにもすることにした。 11時から2時まで、たっぷり時間をかけて墓の掃除。、、、、、最後は腰が痛くて、ギブアップ!



● 我が家(浅草橋)から霊園のある北総線松飛台駅までは、都営浅草線・京成押上線・北総線と直通運転する列車で約35分と便利である。、、、、、松飛台駅(まつひだい)は、平成3年(1991)3月31日に開業した、相対式ホーム2面2線の高架駅。 ホームの北側は松戸市、南側の一部が市川市に掛かる市境界上の駅である。 駅名の「松飛台」とは、現在の八柱霊園の南東側の一部と、霊園の東に隣接する町の町名である。 この町名は、かつてこの辺りに、松戸飛行場(旧陸軍が監督する逓信省中央航空機乗員養成所)があったことから名付けられたそうだ。、、、、、松飛台駅から徒歩5分で八柱霊園の裏門(正確には松飛台門)に到着する。 超便利だ!
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● “都営”の施設が千葉県にある? その施設とは「都営八柱霊園」。 なぜ“都営”の霊園が千葉県松戸市にあるかと問えば、答えは、、、、、明治になって、従来、江戸であった域内で埋葬が禁止となった。 そこで埋葬地が定められ、青山、谷中、染井、雑司が谷の墓地が定められたが、大正期には人口増加によって、四ヶ所の埋葬地も余裕が無くなってきた。 そこで、郊外に新しい市営墓地を作ることが計画された。 大正10年(1921)に西に多磨墓地が完成した。 しかし、東の霊園用地を決めるにあたっては、当時東京府内東部には広大な用地が見つからず、千葉県東葛飾郡八柱村の田中新田に霊園用地を求めた。(この時、鎌ケ谷村にも候補地があった) そして昭和10年(1935)に東に八柱霊園が完成した。 東京府は、その後昭和23年(1948)に北の小平霊園も完成した。 東には霊園用地が見つからず、隣の松戸市にその用地を見つけたということだ。、、、、、八柱霊園は広さ105万㎡、23区内最大の青山霊園が26万㎡だからざっと4倍の広さ。 東京ドーム20個分のひろさである。(都営霊園の最大は多磨霊園130万㎡) 広い霊園は当たり前だが、見渡す限り、墓・墓・墓の霊園。 大人でも迷子になって、野垂れ死にしそうだ。
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・・・・・・・・・・早速手を合わせたいところだが、まずは以前から気になっていた、墓石の両側に植えられた樹木の手入れを行う。 家族4人で枝の伐採、草むしり、墓石を洗い、小一時間、綺麗・さっぱりした! “Before”、“After”の写真で紹介 
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・・・・・・・・・・ 八柱霊園内にもう一つ墓(我が家の親戚の墓)がある。 我が家の墓が東側で、親戚の墓は西側、園内を歩くこと1.5㎞。 墓の前まで来ると墓石が見えない! この夏の暑さで草茫々。 雑草は根を深く広げ、取り除くのに一苦労! こちらも、一時間ほどかけて、さっぱりさせた。 “Before”、“After”で紹介 
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・・・・・・・・・・ 八柱霊園には、昭和10年(1935)に建てられた納骨堂がある。(写真右手の平屋部分は昭和47年の増築)、、、、、周囲腰下を人造石、壁面はクリーム色のタイルで仕上げ、入口は花崗岩で組み扉を建てこんでいる。 屋根頂上には仏寺における塔婆のシンボルが掲げられている。 また、同時期の配水塔も残されている。 (2022年4月撮影)
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2025年9月19日 (金)

猛暑直後の彼岸

昨日まで猛暑が続いた今年の夏、今日は朝から涼しい風が吹き、秋がやってきた! 朝食時、天気予報を見てると明日は雨らしい。 そこで『彼岸の入りに一日早いが、今日墓参りに行かない?』 妻と二人の老々生活では決め事は早い、『行くよ 9時出発だ!』、、、、、JR八王子駅からバスに乗り山裾の霊園まで、往復5時間以上(交通機関片道1時間半、墓の掃除、昼食などの時間)を要する墓参りに行くことにした。 毎度のことだが、『なんで親父は、こんなところに墓を買ったんだ!』とぼやきたくなる墓参り。


● バスを降りると地蔵さん・石仏のお出迎え、都会の墓地では感じられない墓参り!
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● 去年までは赤い曼殊沙華が咲いていたが、今年は猛暑でまだなのか? 赤に代わって緑の栗・柿・蜜柑が迎えてくれた。
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● 一日早い彼岸の墓参りだが みれば周りのいくつかの墓にも生花・供物が供えられ 線香の煙も上がってる。 お題目『南無妙法蓮華経』か 念仏『南無阿弥陀仏』か どちらでもいいか 両方唱えて 合掌
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2025年9月18日 (木)

江戸川から京成小岩

今日は、江戸川土手下の住宅地を歩いて、京成本線の江戸川駅から北総線の新柴又駅まで歩くつもりで家を出た。 江戸川駅で下車し、江戸川沿いにある真光院・唐泉寺までは予定通りの方向に歩けたが、その先で歩く方向を間違え気づいた時は、京成小岩駅に向かって歩いてた。 気づくのが遅かった! この暑さの中戻る気もしない、柴又は諦め、京成小岩に出て帰ることにした! 汗をかきかき8千歩



江戸川駅は大正元年(1912)11月3日、押上~江戸川間が開業した時の終着駅である。 この時、江戸川の鉄橋はまだ完成しておらず、暫定的に江戸川の河川敷に設けられた駅であったため、駅名は対岸の町名を名乗って市川駅であった。 大正3年(1914)、江戸川に鉄橋が完成すると、駅は江戸川の土手にホームができ、駅名も『江戸川』と改称した。(多摩川土手にある、京急の六郷土手駅と似た構造) 相対式ホーム2面2線の高架駅。 令和6年度(2024年度)の1日平均乗降人員は6,229人である。、、、、、乗降客も少なく普通列車しか停車しない。 朝は、近くの女子中・高校生がちらほらと降りてくる。 、、、、、駅前の道路は一車線一方通行の寂れた商店街。
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● 江戸川駅から駅前の道路を北へ向かうと、北小岩四丁目の公園の一画に小さな観音堂がある。 ここには弘法大師作という光ケ嶽観音がまつられている。 これは一寸八分(約6㎝)の小金像で、もと里見義豊、義俊の守り本尊として常に甲胄の中に入れて戦場に出たものといわれている。 その後義弘、義高、義頼に至り千福寺(現存せず)を建立してこれをまつったが、義東に至って供養を怠ったところ、文禄元年のこと、沖田家の祖先豊前の寝所に何物かが飛来する物音に驚いて見ると観音の尊像が立っていた。 翌朝千福寺に詣でて調べてと厨子の中には尊像がなかった。 そこで豊前屋敷内に一字を建立してこれをまつり、当地方の人々の信仰を集めるようになったといわれる。 昭和16年に町会の決議によって正真寺所有の境外仏堂となった。、、、、、観音堂は扉が閉まり、賽銭窓からチョイと覗いてみたが、6㎝の小金像は見えず。(盗まれたか?)
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● 観音堂から北へ300m程歩くと、真言宗豊山派で稲荷山遍照寺と号し、慶長7年(1602)に法印良鍐が開山したと伝えられている真光院がある。 本尊に阿弥陀如来立像を安置しており、寺宝として弘法大師筆と伝えられる「鼠心経」を所蔵しているそうだ。 昭和47年(1972)に萱葺きの本堂から鉄筋コンクリート造に建て替えた。 門前に青面金剛と馬頭観音、ドラえもんが祀られている。、、、、、
本堂にまつられている閻魔大王座像は当地出身の遊女三代高尾(仙台高尾)が、その実家を通じて菩提寺に寄進したものと言われてる。 本堂の扉が閉まっており閻魔様には逢えず、残念!
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● 真光院から北へ150m程行くと、天正年間(1573~1592 )の創建といわれ、祭神に天照大御神、相殿に経津主命、倉稲魂命、建御名方命、惶根命を祀る、小岩田天祖神社がある。 享和2年(1802)落雷により焼失し、その後改築した。 現在の社殿は文政10年(1827)に再建された。 ほぼ200年前の建築である。
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江戸川土手にぶつかった! チョイと土手上に登ると、眼下に江戸川が流れ、対岸は市川市国府台の里見公園が広がる、その左には栗山配水塔も見える。
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● 土手下に降りると、真言宗泉涌寺派の唐泉寺がある。 唐泉寺は、吉祥山江戸川不動尊と号し、真言宗泉湧寺派に属する都内唯一の寺院とのこと。、、、、、唐泉寺は、日本唯一の「封じ護摩」の寺として、御本尊に大日大聖不動明王を招来し、「ガン封じ」「ボケ封じ」などに霊験あらたかな寺として、参詣する人が多いそうだ。 またまた、近頃は「選挙の寺」 唐泉(当選)寺としても注目されているらしい。 (小泉さん、高市さんなども来るかも? 伊東の田久保さん、お呼びでないよ!)
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● 唐泉寺に参った後、『“この道”をまっすぐに行くと新柴又駅に出る』と思っていた道を間違えた! 長い直線道路を歩く、扇子片手に『暑い、暑い、死にそうだ!』、熱中症を心配しながら、ひたすら歩く。 汗はダラダラ、『もうダメだ!』と、公園の木陰で一休み。 元気が出たので、自分の居所を確認すると、『アリャ? 新柴又ではなく、京成小岩に近づいてる!』 ここは“男の決断”で、もう新柴又はあきらめて、京成小岩から帰ろう!
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● 汗で衣類はビッショリ濡れて、ペットボトルの水は空、熱中症が心配でぐったり疲れて、京成小岩駅へ着いた。 各駅停車の座席に座り、電車の冷房を肌で感じてアリガタヤ!
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2025年9月14日 (日)

草加宿から松原へ

東武伊勢崎線の草加駅から日光街道沿いに歩いて隣の獨協大学前駅まで、久しぶりの散歩です。 1万歩


● 猛暑日の続いた夏もいよいよ終わりに近づいた。 きょうは、押上から南栗橋行きに乗り草加で降りてみた。 『久しぶりの散歩は、日光街道をチョイと歩いてみることにする』と、自分に言い聞かせスタートする。、、、、、草加駅は明治32年(1899)に開業した古参の駅。 草加市は埼玉県の町であるが、東京都足立区に隣接する町で、スカイツリーのある押上駅からは、東武伊勢崎線の急行で4駅目が草加。 我が家(浅草橋)の玄関から約40分で、草加駅前に到着できる。、、、、、日曜の午後電車は空いてた。 平日の朝も、通勤通学の時間帯にこの程度の空き具合なら嬉しいのだが、贅沢かな?
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● 東口から駅前の通りを歩き、旧日光街道(宿場通り)に出る。 旧日光街道は一車線の一方通行の道路で、かつての宿場の面影を残す商店街となっている。
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・・・・・・・・・ 宿場町として栄えた往時を偲ぶ草加の貴重な古民家が二軒。 江戸時代からの旧家で、明治以降は米屋、味噌製造をしていた
藤城家。 草加宿の北端に位置し、町屋建築の形式を持つ瓦葺きの建物は久野家。 二軒とも国登録有形文化財。、、、、、川越の街並みのように古い建物が連なって残っていないのが残念だが、この二軒は草加宿に残る貴重な建物だ!
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・・・・・・・・・・ また、宿場の南には、享保年間に稲荷社を祀ったのが始まりと言われている八幡神社。 北端には、正徳3年(1713)に草加宿の総鎮守として現在地に建てられた宿篠葉神明神社(神明宮)が鎮座する。、、、、、両社とも、大きな神社とは言い難いが、300年以上の歴史をがあり、宿場を守ってきた神社である。
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・・・・・・・・・・ 両神社の中程(宿場の中程)に草加宿の本陣跡がある。 現在は、平成24年に建てられた記念碑が高層マンションの前にあるのみ。、、、、、参勤交代、日光東照宮詣でなど、全国の大名が泊まったシティーホテルである。 宿場の中には、アパホテル、東横インのようなビジネスホテルもあったと思うね。、、、、、 “
大川本陣”とは、草加開宿から当地で宿を営んでいた“大川家”に由来するようだ。
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・・・・・・・・・・ 本陣跡があるマンションの西側に旧草加小学校西校舎が保存されている。、、、、、建物は大正15年(1926)に建築された、県内で最初の鉄筋コンクリート造校舎である。 正面中央上部のとんがり屋根が印象的な建物です。 国登録有形文化財、、、、、内部は現在、草加市立歴史民俗資料館として公開されている。、、、、、草加宿の歴史を学ぶことができる施設である。
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・・・・・・・・・・ 本陣跡から北へ200m程歩くと、真言宗智山派寺院の東福寺がある。 東福寺は、松寿山不動院と号す。 草加宿を開宿した大川図書が開基、僧賢宥(元和5年1619年寂)が開山となり1606年(慶長11)に創建した。、、、、、本堂・山門・鐘楼は江戸時代後期の建物で、山門、鐘楼は市の指定文化財となっている。、、、、、本堂の扉は閉ざされ、内部を拝見することができず残念!
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● 草加宿の北端に流れる伝右川(でんうがわ)に架かる草加六丁目橋の両端に、松尾芭蕉と弟子の河合曾良の像が、一人づつ立っている。 共に奥の細道を旅をした師弟だが、ここの像は二人が一緒に並んで立っているのではなく、川を挟んで、弟子の曾良が『師匠、チョイと待ってて!』と手を差し出して叫んでいる。 松尾芭蕉は『遅いぞ、早くコッチャ来い!』と振り返っているスタイルだ!、、、、、この像は、草加市の彫刻家麦倉忠彦氏の作で、平成20年に建てられた。、、、、、この芭蕉の像が立っているのは、草加松原遊歩道の南端。
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● 芭蕉像のある処から、綾瀬川沿いに北に延びる遊歩道が草加松原遊歩道である。、、、、、遊歩道は旧日光街道で綾瀬川と平行する約1.5kmに、600本以上の松が茂る並木で、「日本の道100選」にも選ばれている。 この松は寛政4年(1792)に1230本植樹したことに始まるそうだ。、、、、、遊歩道の途中には和風の太鼓橋なども整備され、歩きやすい、癒される道として整備されている。
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● 遊歩道から外れ、獨協大学前駅から電車に乗る。、、、、、獨協大学前駅は、草加松原団地入居開始に合わせて、昭和37年(1962)12月1日に松原団地駅として開設した。 その後、松原団地の建て替え事業などに伴い、当駅は平成29年(2017)4月1日に獨協大学前駅と改称した。 島式ホーム1面2線を有する高架駅で、緩行線のみ停車する。
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2025年9月 3日 (水)

浅草寺の東門

猛暑日の今日も通院、浅草は浅草寺裏(馬道)にある泌尿器科へ行ってきた。 帰り、チョイト浅草寺にお立ち寄り。・・・・・今日は、浅草寺本堂の東側にある「二天門」から境内に入った。 この朱も鮮やかな二天門は浅草寺の東門である。 有名な雷門は浅草寺本堂正面に伸びる仲見世(参道)の入口に位置する南門である。 個人の観光客や主に欧米からの少人数の団体客などは、雷門から参拝することが多いが、国内の修学旅行、C国の団体客など観光バスでやって来る団体さんは、二天門の周辺に観光バスの駐車場があるので、ここから境内に入って来ることが多いようだ。 



「二天門」は、慶安2年(1649、徳川家光の時代)頃に浅草寺の東門として建立された。 江戸時代を通じて浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮(元和4年(1618)建立、寛永19年(1642)焼失)の随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。 明治17年(1884)、神仏分離によって随身像は浅草神社に遷座されて、鎌倉の鶴岡八幡宮から増長天と持国天の像が奉納された。このとき名称を随身門から二天門と改めた。、、、、本瓦葺・切妻造り木造朱塗り八脚門の二天門は、昭和25年(1950)に国指定重要文化財に指定された。
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・・・・・・・・・・ 明治期に二天門と改称した門には、随身像から、仏教を守護する四天王のうち増長天・持国天の二天像を安置している。  現在安置されている二天像は京都七条の仏師、吉田兵部が江戸時代初期(17世紀後半)に制作したもので、昭和32年(1957)に寛永寺の厳有院殿(4代将軍徳川家綱)霊廟の勅使門から移されたものである。 (写真順に、増長天、持国天)

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・・・・・・・・・・ 門に掲げられている「二天門」額は、太政大臣 三条実美(1837~1891)の筆により、明治16年(1883)2月1日に掲げられた。 以降、「二天門」と称されている。
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・・・・・・・・・・ 二天門前に残されている手水鉢は、安永6年(1777)に奉納されたもの。 手水鉢前面の銘文には「金龍山随身門前」と彫られていることから、江戸時代の随身門であった当時から、この場所に置かれていたものと推察される。
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・・・・・・・・・・ 今日も来た来た、C国の団体さん。 日本に来たら、マナー厳守!
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本堂へ参る
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2025年9月 1日 (月)

震災記念堂

9月1日は「防災の日」であるが、私は「震災記念日」と言う方がピンとくる。  私の生まれは戦後の昭和21年、場所は当時の浅草区福井町(現:台東区浅草橋)。 私が小学生の頃、9月1日は夏休み明けの最初の登校日、前日の夜までに仕上げた工作と絵日記・ドリルを持って行く日である。 全校集会で校長先生の話を聞いて、教室では夏休みの成果物を提出し、明日からの授業の話を聞いて、初日は給食が無いのでお開きとなる。 家に帰ると、母から『震災記念堂に行くよ』と言われ、隅田川に架かる蔵前橋を渡り、横網町公園(元陸軍被服廠があった場所)にある震災記念堂(現:東京都慰霊堂)に行くのが例年の行事であった。 横網町公園の周辺には多くの露店が店を出し、ヨーヨー、金魚、電電太鼓、竹製の水鉄砲、花火、キリギリス、カブトムシ、べっこう飴、カルメ焼き、綿あめ、ベビーカステラ、等々、買ってもらうのが楽しみであった。・・・・・以来、毎年9月1日は震災記念日で震災記念堂に行くようになった。 今日は散歩の再開と足慣らしを兼ねて、妻と蔵前橋を渡り、震災記念堂で手を合わせ、両国駅経由で歩いてきた。 (7千歩)



● 35℃超えの猛暑日となりそうなので、朝7時半に家を出て慰霊堂には8時に到着。 『アリャリャ、もう警察が来てる!』 例年、秋篠宮御夫妻も出席されて法要が営まれるためと、慰霊堂の脇にある追悼碑の前では「朝鮮人虐殺」の犠牲者を悼む式も開かれるため、慰霊堂周辺は黒服のSP、青い制服は機動隊?、ワイシャツ姿の地元警察?、怖そうな警察犬など、警備に多くの警察官が配されている。 そのため、私達は慰霊堂内には入れず、扉の前で手を合わせてきた。
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東京都慰霊堂は墨田区横網町公園内にある三重塔つきの寺院建築の慰霊施設。 昭和5年(1930)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂として創建され、昭和23年(1948)より東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して、昭和26年(1951)に現在の姿となった。、、、、、東京都慰霊堂がある横網町公園は元陸軍被服廠があった場所である。 この地にあった被服廠は大正8年(1919)に赤羽に移転し、その後公園予定地として更地になっていた。 大正12年(1923)9月1日、関東大震災が起きると、この場所は多くの罹災者の避難場所になった。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災が家財道具に燃え移り、また火災旋風が起こったため、この地だけで東京市全体の死亡者の半数以上の(推定)3万8000人程度が死亡したとされる。 震災後、死亡者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための慰霊堂を建てることになり、官民協力のもと、広く浄財を求められた。東京震災記念事業協会によって昭和5年9月に「震災記念堂」として創建された。、、、、、その後、第二次世界大戦においては、昭和19年・20年の一連の空襲により7万7000人あまりが死亡した。 昭和23年(1948)より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、戦災者整葬事業が完了した1951年に「東京都慰霊堂」と改称した。、、、、、本堂は伊東忠太設計、戸田組の施工によるもので、寺院風の建築となっている。200坪の講堂を持ち、三重塔がその奥にある。三重塔は高さ約41mで、基部は納骨堂となっている。講堂には祭壇があり、震災死亡者、空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した巨大な位牌が2基祀られている。

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