震災記念堂
9月1日は「防災の日」であるが、私は「震災記念日」と言う方がピンとくる。 私の生まれは戦後の昭和21年、場所は当時の浅草区福井町(現:台東区浅草橋)。 私が小学生の頃、9月1日は夏休み明けの最初の登校日、前日の夜までに仕上げた工作と絵日記・ドリルを持って行く日である。 全校集会で校長先生の話を聞いて、教室では夏休みの成果物を提出し、明日からの授業の話を聞いて、初日は給食が無いのでお開きとなる。 家に帰ると、母から『震災記念堂に行くよ』と言われ、隅田川に架かる蔵前橋を渡り、横網町公園(元陸軍被服廠があった場所)にある震災記念堂(現:東京都慰霊堂)に行くのが例年の行事であった。 横網町公園の周辺には多くの露店が店を出し、ヨーヨー、金魚、電電太鼓、竹製の水鉄砲、花火、キリギリス、カブトムシ、べっこう飴、カルメ焼き、綿あめ、ベビーカステラ、等々、買ってもらうのが楽しみであった。・・・・・以来、毎年9月1日は震災記念日で震災記念堂に行くようになった。 今日は散歩の再開と足慣らしを兼ねて、妻と蔵前橋を渡り、震災記念堂で手を合わせ、両国駅経由で歩いてきた。 (7千歩)
● 35℃超えの猛暑日となりそうなので、朝7時半に家を出て慰霊堂には8時に到着。 『アリャリャ、もう警察が来てる!』 例年、秋篠宮御夫妻も出席されて法要が営まれるためと、慰霊堂の脇にある追悼碑の前では「朝鮮人虐殺」の犠牲者を悼む式も開かれるため、慰霊堂周辺は黒服のSP、青い制服は機動隊?、ワイシャツ姿の地元警察?、怖そうな警察犬など、警備に多くの警察官が配されている。 そのため、私達は慰霊堂内には入れず、扉の前で手を合わせてきた。






● 東京都慰霊堂は墨田区横網町公園内にある三重塔つきの寺院建築の慰霊施設。 昭和5年(1930)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂として創建され、昭和23年(1948)より東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して、昭和26年(1951)に現在の姿となった。、、、、、東京都慰霊堂がある横網町公園は元陸軍被服廠があった場所である。 この地にあった被服廠は大正8年(1919)に赤羽に移転し、その後公園予定地として更地になっていた。 大正12年(1923)9月1日、関東大震災が起きると、この場所は多くの罹災者の避難場所になった。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災が家財道具に燃え移り、また火災旋風が起こったため、この地だけで東京市全体の死亡者の半数以上の(推定)3万8000人程度が死亡したとされる。 震災後、死亡者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための慰霊堂を建てることになり、官民協力のもと、広く浄財を求められた。東京震災記念事業協会によって昭和5年9月に「震災記念堂」として創建された。、、、、、その後、第二次世界大戦においては、昭和19年・20年の一連の空襲により7万7000人あまりが死亡した。 昭和23年(1948)より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、戦災者整葬事業が完了した1951年に「東京都慰霊堂」と改称した。、、、、、本堂は伊東忠太設計、戸田組の施工によるもので、寺院風の建築となっている。200坪の講堂を持ち、三重塔がその奥にある。三重塔は高さ約41mで、基部は納骨堂となっている。講堂には祭壇があり、震災死亡者、空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した巨大な位牌が2基祀られている。