60年ぶりに長谷寺へ
50年程前、結婚するころに妻に、私の好きな寺の一つである“奈良の長谷寺”へ連れて行く約束をしていた。 今回、長い猛暑日が終わったので、我慢していた旅の虫が騒がしくなり、急遽一週間前、『長谷寺に行こう!』と妻に言うと、もちろんOKの返事。 行先は長谷寺と、私が行ってみたかった橿原神宮・神武天皇陵の3か所を予定し、26・27日の一泊二日旅をしてきた。
私が長谷寺に参ったのは60年ほど前、建築学科の学生の頃、京都・奈良の寺社巡り、遺跡巡りをしていて、その旅の一つで室生寺、長谷寺、談山神社などを歩き、長谷寺では長い登廊、京都清水寺に似た本堂の舞台、本堂から見る五重塔などの美しさに魅せられた。 今回は、学生の頃を思い出しながら、60年ぶりの参拝が実現した。(妻は初めての参拝)
● 朝7時発の新幹線に乗り、名古屋からは難波行の近鉄に乗り換え、10時45分真言宗豊山派総本山がある長谷寺駅に到着。 乗降する人は数人と少なく、無人の改札を出ると、駅前には店は無し、長谷寺への案内図があるのみ。 昭和58年(1983)頃は、一日の乗降客は5,900人程度であったが、現在は一日700人程らしい。 総本山に参る人の多くは、電車から車に変わり駅も寂れてしまったようだ。、、、、、長谷寺駅は昭和4年(1929)10月27日の参宮急行電鉄の桜井~長谷寺間開通と同時に開業。 翌年、昭和5年(1930)2月21日には長谷寺~榛原間が開通した。 昭和16年(1941)、大阪電気軌道との会社合併により、関西急行鉄道の駅となる。 昭和19年(1944)には会社合併により近畿日本鉄道の駅となる。 相対式2面2線の地上駅。 駅は山の中腹にあり、山裾に流れる大和川沿いの民家・国道に向かって急な坂をくだるようになっている。 坂の下りもきついが上りはモットきつい! 年寄殺しの坂だ!



● 駅から坂を下り、大和川を越えると、長谷寺への参道である“旧初瀬街道”がある。 歩く人は見られず、車は私をよけて走り去る。 かつては道の両側に旅館・土産物屋が並んでいたと記憶していたが、今は旅館が数件、店も数件が営業している程度で、チョイと寂しい。 時代は変わったが、街道の面影残す建物もまだ残っている。




・・・・・・・・・・ 長谷寺参拝客の駐車場がある付近からは、急に人影が目に入る。 『皆さんお車でお越しですか? 楽で良いですね!』
● やってきました真言宗豊山派総本山「長谷寺」 長谷寺は、大和国と伊勢国を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。 朱鳥元年(686)、僧道明上人が天武天皇のために銅板法華説相図(国宝)を西の岡に安置したことが始まりと言われてる。 平安時代には貴族、江戸時代には徳川家の崇敬を集め帰依を受けて栄えた。 舞台造の本堂(国宝)は徳川家光による再建。寺宝類としては、本尊十一面観音像をはじめ、約千点にも及ぶ文化財を所蔵する。 仁王門を抜け、本堂へと続く登廊(重要文化財)は399段に渡る石段になっており、天井には楕円形の灯籠が吊られている。 登廊は4月下旬から5月上旬に見頃をむかえるボタンに彩られる。 今の時期は、ボタン、アジサイ、桜、紅葉のどれもこれも無し、あるのは緑鮮やかな樹々のみ。(できれば花の時期に来たかった!)
・・・・・・・・・・ 参道から長谷寺の総門である仁王門(国登録重要文化財)へ向かう。 三間一戸入母屋造り本瓦葺きの楼門である。 両脇には仁王像が出迎える。 現在の建物は明治22年(1889)に再建されたもの。


・・・・・・・・・・ 仁王門をくぐると登廊(のぼりろう、国登録重要文化財)となる。 平安時代の長歴3年(1039)に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったもので、108間、399段、上中下の三廊に分かれてる。 下、中廊は明治22年(1889)再建で、風雅な長谷型の灯籠を吊るしている。、、、、、階段の上りはキツイ! 汗をかきかきボヤくのは『エスカレーターにして欲しい!』 



・・・・・・・・・・ ゼイゼイ息を切らして上ってきた先に国宝の本堂がある。 小初瀬山中腹の断崖絶壁に懸造り(舞台造)された南面の大殿堂である。正面(内陣)は桁行(間口)の柱間9間、梁間(奥行)同5間、入母屋造本瓦葺で、また礼堂(外陣)は正堂よりやや低く、桁行9間、梁間4間、正面入母屋造本瓦葺。 夏の緑の陰で本堂の全景は撮影できず、チョイと残念。、、、、、堂内に祀られている、本尊である約10mの「十一面観世音菩薩」も撮影禁止。 観音様に合掌し家族の健康を願ってきた。




・・・・・・・・・・ 本堂から眺める五重塔。 昭和29年(1954)、戦後日本に初めて建てられた五重塔で、昭和の名塔と呼ばれております。純和様式の整った形の塔で、塔身の丹色と相輪の金色、軽快な檜皮葺屋根の褐色は、背景とよく調和し、光彩を放っています。 度々絵になる五重塔!
● 妻と長年の約束であった「長谷寺詣で」も済ませ、本日の宿がある橿原神宮前駅へ移動。、、、、、橿原神宮前駅の歴史は古く、3線が乗り入れている。 南大阪線(大阪阿部野橋~橿原神宮前駅、狭軌)と橿原線(大和西大寺~橿原神宮前駅、標準軌)の終点駅、吉野線(橿原神宮前駅~吉野駅、狭軌)は起点駅。 南大阪線と吉野線は直通運転しているが、橿原線は軌間が異なるため南大阪線、吉野線に乗り入れることはない。 橿原神宮前駅の開業は大正12年(1923)3月21日、大阪電気軌道畝傍線(現在の橿原線)平端~橿原神宮前間延伸時に橿原神宮前駅開業に始まる。 駅は2面4線のホームが2つある地上駅。 中央口を挟み東側の1 - 3番のりばは標準軌の橿原線、西側の4 - 7番のりばは狭軌の南大阪線・吉野線である。 改札口は東、西、中央と3か所ある。、、、、、中央口の駅舎は初代新歌舞伎座の設計で有名な建築家・村野藤吾の設計である。 中央口は橿原神宮の参道に近く皇室の利用もあり、貴賓室を備えた橿原神宮前駅のメインの建物となっている。 建物は神社かお寺かと思わせる外観で、大きな急斜面の屋根が特徴の大和棟を模したコンクリート駅舎である。 駅舎の竣工は昭和15年(1940)、村野藤吾建築事務所が設計し、大林組が施工した。 紀元2600年の式典に合わせて作られたものである。、、、、、今宵泊まるホテルの窓からは橿原神宮前駅を見下ろすことができ、鉄オタの私にはうれしいことであった。

● 夕食までには時間があり、夫婦そろって橿原神宮(かしはらじんぐう)へ参る。 橿原神宮は橿原神宮は、大和三山の一つ「畝傍山」の麓にあり、神武天皇陵の南に隣接する。 旧社格は官幣大社、勅祭社。現在は神社本庁の別表神社。、、、、、明治22年(1889)、初代天皇である神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされる橿原の地に、神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命を祀るための神宮を創建することを民間有志が請願し、感銘を受けた明治天皇によって明治23年(1890)4月2日に官幣大社として創建された。 橿原神宮の設計は、東京帝国大学(現:東京大学)名誉教授を務めた伊東忠太によって行われた。 創建当初の名は橿原神社であったが、明治23年神宮号宣下を受けて橿原神宮に改称された。、、、、、霊峰と崇められる畝傍山を背景に53万m2(甲子園球場約13個分の大きさ)を有する神宮。 境内は信仰の杜として、約76,000本の樹木が植栽され、うち22,000本は全国から寄せられた献木である。 行ってビックリ、見てビックリ、なにしろ広い神社だ!、、、、、第一鳥居、第二鳥居とぐぐり、南神門を入ると外拝殿前に砂利を敷き詰めた広場がある。 私が入れたのは、ここ外拝殿まで。



・・・・・・・・・・ 外拝殿から内拝殿を望む(拝殿前のテントは秋季例大祭の参列者用の準備中) 幣殿、本殿はさらに奥、見えない!、、、、、神様は見えないが、遠路はるばるここまで来たら賽銭も奮発してきた。 金額はナイショ!

・・・・・・・・・・ 境内の池もデカすぎる!
・・・・・・・・・・ 外拝殿の後ろに畝傍山が見え、ホテルの窓からも畝傍山が見える。

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