散歩

2024年12月11日 (水)

餓死者を葬った四寺

久しぶりに閻魔さまの顔を見たくなり北千住に行ってきた。 北千住駅からスタートし、北千住1・2丁目界隈を歩き、東武伊勢崎線の牛田駅まで、9千歩の散歩です。


北千住駅はJR常磐線、東京メトロ日比谷線・千代田線、東武鉄道伊勢崎線、首都圏新都市鉄道つくばエキスプレス4社5路線が乗り入れており、1日あたりの乗降客数は約160万人と言われてる大ターミナル駅である。 この首都圏有数のターミナル:北千住駅であるが、ここから“新宿”、“池袋”の大ターミナルへ向かう路線は一本もない! これは何とも不思議なことだ?、、、、明治29年(1896)12月25日に日本鉄道線(現在の常磐線)の駅が開業。 明治32年(1899)8月27日には東武鉄道の駅が開業。 明治39年(1906)、日本鉄道の駅が国有化される。 昭和37年(1962)5月31日に帝都高速度交通営団(現:東京メトロ)日比谷線の駅が開業。 昭和44年(1969)12月20日 、千代田線の駅が開業。 平成17年(2005)8月24日、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの駅が開業。 ついでに、現:駅ビルの「ルミネ北千住」が開業したのは、昭和60年(1985)である。 開業当時は「北千住ウイズ」という名であった。
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● 北千住駅から歩いて5・6分程の所に、真言宗豊山派の氷川山地蔵院金蔵寺がある。 金蔵寺は、建武2年(1335)の創建と伝えられている。  、、、、本尊は、かつては地蔵菩薩であったが、現在は閻魔大王と言われてる。 私は、今までに数回この寺には来たが、いつも本堂は閉められ、本尊の姿を拝したことがない。 ネットで調べてみても本尊の写真は載ってない。 ぜひ一目拝んでみたい閻魔さま!
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・・・・・・・・・・ 金蔵寺では本尊の閻魔さま以上に有名なのが、山門を入ってすぐ左手に2基の供養塔が並んでいる。 向かって左側の南無阿弥陀仏を刻んだものが「千住遊女供養塔」。 この供養塔は、千住宿の多くの飯盛旅籠に勤めそこで亡くなった遊女が、当時「投げ込み寺」であったこの寺に葬られた。 その薄幸な遊女生涯を哀れみ供養するため建てられた。、、、、右側に無縁塔と彫られた供養塔は「天保餓死者供養塔」。 こちらは、有名な天保の大飢饉(1833~1837)で亡くなった者を供養するため建てられた。 塔は当時の名主:永野長右衛門が天保11年(1840)に建立したものでその碑文によれば、天保8年の年当地では828名の犠牲者が出た。 その犠牲者を近隣の寺に葬ったとされている。 勝専寺に321人、慈眼寺に61人、不動院に76人、そしてこの金蔵寺に370人を葬ったそうだ。(そこで今日の散歩は、この4寺を巡ることにした!) 

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● 金蔵寺から西へ約250m歩くと、赤く塗られた山門の三宮神山大鷲院勝専寺(浄土宗)がある。 勝専寺は文応元年(1260)の創建。 勝専寺を開いた新井政勝の父・新井政次が荒川(現:隅田川)に網を投じたところ、千手観音像が網にかかったのが寺の由緒だという。 この千手観音は寺の寺宝となっており、地名「千住」の由来といわれている。、、、、勝専寺の本堂は明治39年(1906)に建てられたコンクリート造で化粧レンガで覆われています。
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・・・・・・・・・・ 勝専寺の本尊は阿弥陀如来であるが、この寺にも閻魔さまが居る。 ここの閻魔さまは、閻魔堂に一人住い。 像は寛政元年(1789)の木像。
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● 勝専寺から南に300m程歩くと、慈眼寺(じげんじ)と不動院が隣り合わせにある。 新義真言宗の慈眼寺は、千龍山妙智院と号す。 慈眼寺は、行覚上人が関東巡錫の時の正和3年(1314)に創建した。 当寺の本尊であった観音菩薩像は東京大空襲で焼失してしまった。 また、諸堂も戦災で被災し、残っていたのは現在の山門だけだそうだ。
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● 新義真言宗の不動院は、白幡山薬師寺と号す。 不動院は、元弘2年(1332)秀天上人が開山となり創建した。 創建の翌年には鎌倉が陥落し南北朝の戦乱が始まると言うまさにその時期です。 本来は慈眼寺の護摩堂であったが独立して一寺となったといわれてる。 本尊は不動明王。
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・・・・・・・・・・ 境内には、千住宿旅籠屋一同が万延元年(1860)に建てた遊女の無縁塔がある。 遊女も、飢餓者も、南無阿弥陀仏。
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● 四寺を巡った後は、「北千住大踏切」を渡り牛田駅に向かう。、、、、「北千住大踏切」は、北千住駅の南側にある、JRと東武鉄道が走る踏切をいう。 4社5線が乗り入れる北千住駅であるが、東京メトロ千代田線と日比谷線、つくばエクスプレス線の3線は、高架または地下で立体交差しており、踏切を通ることはない。 JRと東武鉄道は地平を走り、両路線は運行本数も多いため、ここの踏切は「開かずの踏切」となっている。、、、、地元の足立区ではこの大踏切の除却を議論しているが、ここを通る鉄道に加え周辺道路も交通量が多く難しそうだ。 2018年末には、鉄道の高架化・地下化それぞれの立体交差化にかかる事業費を、前者は1000億円、後者は3000億円と試算している。 
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・・・・・・・・・・ 大踏切は、JR常磐線の「北千住一丁目踏切」(注:北千住一丁目という地名は無い)と東武伊勢崎線の「22番踏切」の2本が並んでいる。 両踏切は非常に近接しているので、両社とも係員を配置している。 しかし、踏切横断の危険は常にあり油断できない!
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● 大踏切から牛田駅まで歩き、ここから帰る!
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2024年12月 6日 (金)

変わる京成立石駅

去る11月30日、京成押上線の連続立体化工事に伴う、四ツ木~青砥間の下り線切り替えが行われた。 それにより京成立石駅では、これまでの下りホームが閉鎖され、新たに仮下り線ホームが利用されるようになった。 今日の散歩は、立石駅の様子を見たのち亀有まで歩く、1万1千歩の歩きです。



京成押上線の「京成立石駅」は大正元年(1912)11月3日に開業した。 先月までは相対式ホーム2面2線の地上駅で、橋上駅舎を有していた。 駅名は、“京成立石”が正式な駅名で、旅客向け案内では“京成”を省略して「立石」としている 。、、、、午前8時前、通勤時間にはチョイト早い、下り電車から降りる人はまだ少ない。、、、、私は初めて降りた、仮の下りホーム。 幅が狭くて、危ないな!
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京成押上線高架化事業は、四ツ木~青砥間(約2.2㎞)を連続立体高架化し、11か所の踏切をなくし、あわせて側道を整備するもの。 京成立石駅では、下り線の切り替えが行われ。 11月30日の始発から、これまで上下線を合わせ、相対式ホーム2面2線の構造であったホームから、これまでの下り線ホームに背を合わせるように仮の下り線ホームを設置し、ホームの切り替えが行われた。
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・・・・・・・・・・ 仮下りホームの前は、仮囲いで囲まれた広大な駅前北口再開発の用地がド~~ンと広がり、立石の風景が一変した!、、、、ここには2棟の高層ビルが建ち、葛飾区役所も入る予定だ! 駅前にあった「呑んべ横丁は跡形もなくなくなった。
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・・・・・・・・・・ 現在、立石駅は上下線それぞれ改札(出入口)が別になっており、上下線の行き来はできない。、、、、以前使用していた橋上駅舎も閉鎖され、取壊しが進められている。
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・・・・・・・・・・ 踏切で足止めをくらい遮断機が上がると、上りの改札口へ一斉に向かう通勤通学客。
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・・・・・・・・・・ 駅前北口再開発は、敷地面積 約2.1haで、42階建ての住宅棟、20階建ての公益サービス棟を建設する構想で、現在既存建物の解体が仮囲いの中で進められている。
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● 立石から亀有までは、概ねバス通りをひたすら歩く。

・・・・・・・・・・ 立石駅前のバス通りからスタート
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・・・・・・・・・・ 京成本線の青砥~お花茶屋間の高架下を抜ける
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・・・・・・・・・・ 国道6号(水戸街道)を横断
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・・・・・・・・・・ 天台宗寺院の延命寺に立ち寄り手を合わせる。 延命寺は、三圍山真珠院と号す。 近江国三井寺の大僧都源慶(~1352)が三囲神社の別当寺として創建、寺社地が御用地となったため元禄6年(1693)小梅村へ移転した。 明治維新後の神仏分離令により、三囲神社と分離、関東大震災に罹災し、昭和2年(1927)当地へ移、、、、当山の山号「三圍山」は墨田区本所三圍神社に由来する。
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・・・・・・・・・・ UR都市機構の「すまいる亀有」前を通過
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・・・・・・・・・・ 亀有駅前の「亀有 上宿商店会」を抜ける
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● 人気マンガのキャラクターが迎えてくれる亀有駅、、、、鉄道開業の当初は隣接する新宿地区に「新宿駅」(にいじゅくえき)を設ける予定だった。 しかし、亀有~新宿間にある中川にかかっていた有料橋を利用する客が激減するとの理由で同地区の者が亀有地区への設置を主張し、その一方で亀有地区の地主が土地を寄贈したため、この地に駅が置かれることになったそうだ。 駅の開業は明治30年(1897)5月17日。 明治39年(1906)に、日本鉄道が国有化され、国有鉄道の駅となる。
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2024年12月 3日 (火)

大久保から中野

我が家(浅草橋駅)からJR中央・総武線で乗り換えなしの23分、JR大久保駅で下車、今日の散歩の始まり。 いつものように裏通りを歩き、途中で宝仙寺(中野)によって、JR中野駅まで1万1千歩の散歩です。



● 中央・総武線の大久保駅は、明治28年(1895)5月5日に甲武鉄道の駅として開業した。 明治39年(1906)には甲武鉄道の国有化により国鉄の駅となる。 大久保駅は昭和6年(1931)に高架化工事があ完成する。 現在は、島式ホーム1面2線の高架駅で、出入口は北口と南口の2ヶ所。、、、、ホーム上屋は古いレールと木組みでできてる、歴史を感じるね!
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・・・・・・・・・・ 南口(新宿寄り)は大久保駅の裏口である。 裏通りの高架下に口を開けたスタイルの出入口がある。 また、自動改札機は何やら怪しげな古レールに囲まれている。 古レールが高架の天井を支えているようだ?
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・・・・・・・・・・ 北口は大久保通りに面する高架下にある。 大久保駅の表玄関、チャント売店もある。 山手線の新大久保駅までは約300mだ!
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● 大久保駅から大久保通りを西(中野方面)に歩き、神田川の手前で裏通りに入る。
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● 「柏橋」は新宿区と中野区の区界(神田川)に架かる橋。 
新宿側の現町名は「北新宿」という味気ない名前になってしまっているが、以前は「柏木」であった。 「柏木」という旧地名は「柏木小中学校」などに残っているが、JR中央・総武線東中野駅も昔は「柏木駅」という名前であった。 中野区側の町名は「東中野」、これまた、味気ない名前だ!
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・・・・・・・・・・ 柏橋から神田川の上流側を眺めると、先の橋(末広橋)の手前に開口部が見える。 この開口部は、杉並区、中野区を流れる桃園川(ももぞのがわ、別名:中野川)が神田川に合流する出口である。 桃園川は全区間暗渠化され、流れを見ることはできない。
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● 柏橋を渡り、道なりに歩くと正面に小さな社の「第六天神社
」がある。、、、、この神社、元々は中野区内有数の旧家が奉納した屋敷神で江戸時代には耕作地の片隅に奉られていた。 しかし後に小作人たちの多くがここに参詣するようになった為、明治の初めに共同祭祀とされ社格も与えられた。 境内の石碑には、『御由緒 悠久の昔江戸蔵前の第六天神宮(榊神社)御分霊を奉斎 古来より第一 の別宮として尊祀せられて居ります』と彫られてる。
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● 第六天神社から西へ300m程歩くと、「氷川神社」がある。 今年3月に訪れた神社だ!
 、、、、今日は、年末ジャンボの当選を祈願してきた。、、、、境内のイチョウの黄葉は御見事!
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● 氷川神社からは、暗渠化された桃園川の上に造られた桃園川緑道を歩き、宝仙寺に向かう。
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● 中野区中央2丁目にある「宝仙寺(ほうせんじ)」は、真言宗豊山派の寺院。 山号は明王山。 千年近くの歴史を誇る古刹で、境内も広い寺院。、、、、広い境内には、戦前、中野町役場が置かれていた。、、、、後三年の役(1083~)の時、護持していた不動明王像を安置するために寛治年間(1087~1094)に源義家によって現在の杉並区・阿佐ヶ谷にて開かれた。 本尊は鎌倉時代には秘仏になった。室町時代になり、現在の位置に移転した。 江戸時代には、優れた僧を出し、歴代の将軍から厚い保護を受け発展した。 また、当寺院の僧侶が将軍の御前論議に参加することもあった。、、、、堂宇は戦災を被ったものの、戦後再建され、三重塔や本堂を見ることができる。、、、、寺の周囲には付属の宝仙学園が運営する、こども教育宝仙大学、宝仙学園中学校・高等学校、宝仙学園小学校、宝仙学園幼稚園の校舎が取り囲んでいる。 寺より大きな敷地面積を有しているかも? 賽銭・お布施より入学金・授業料かな?
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● 宝仙寺の墓地の向かいに小さな公園がある。 そこには、「山政醤油醸造所のレンガ塀」の一部が残されてる。 塀の建造は、明治32年(1899)と推定されている。 中野での初期洋風レンガ構造物と言われている浅田銀行本店を手掛けた中野在住の棟梁と弟子たちによって、 醸造所の蔵とともに築かれました。 石灰、海草のつのまた、砂などで固める日本の伝統的なしっくい壁の技術とフランス積みといわれるレンガ積み工法で造られている。 当時、レンガ塀の築かれた青梅街道沿いは、中野の商工業の中心地として賑わっていたらしい。 また、みそ・醤油の醸造は、そば粉製造とともに中野の代表的な地場産業であったそうだ。
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● 宝仙寺から裏道を、右に・左に・折れ・曲がり、「
中野区立紅葉山公園」に着いた。、、、、その名の如く、紅葉見物。 ついでに、園内に保存されている「C11蒸気機関車」もパチリ!
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中野駅南口に到着。、、、、これまでの南口は北口と比べると大きな施設もなく、商店街・飲食街とも規模も小さく、元気がなかった。 しかし、ここ数年の間に、駅前の公団住宅が壊され巨大な中野駅前ビルが建てられ、駅前ロータリーの再整備が行われた。 活気が出てきた!
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2024年11月30日 (土)

有楽町から浅草橋

土曜日の朝、人影の少ない銀座・日本橋の裏通りを歩いて、有楽町駅から浅草橋の我が家まで、1万1千歩の散歩です。



● 我が家から銀座・日本橋には都営浅草線を利用すれば、乗り換えなしの一本。 しかも、東京都のシルバーパスを利用すれば切符を買わなくても乗れる。 故に、もっぱら地下鉄を利用している。 今日は、久しぶりにJR有楽町駅で下車してみた。、、、、有楽町駅は明治43年(1910)6月25日、有楽町~烏森(現:新橋)間開業と同時に設けられた、国有鉄道東海道本線の始発駅である。 開業当初から京浜電車(後の京浜東北線)のみ停車する駅である。 しかし、始発駅としては明治43年9月15日に上野までの電車線が延伸開業するまでの、短命な始発駅であった。、、、、いまは一日の平均乗車人員は約12万人。 この乗客を2面4線の島式ホームでさばいてるラッシュ時の混雑度の高い駅である(今日、土曜日の早朝、混雑していない)、、、、私の若い頃(昭和30,40年代)は、「日比谷映画」「有楽座」など映画館街へ、デパート「SOGO」への買い物、銀座へブラブラ、いずれにしても国鉄有楽町駅を利用していた。 当時、有楽町駅で下車する時は、何となくワクワクしたものだ。 老いた今は、有楽町で下車すると、お上りさん状態、『アレ? なくなった! どっちだ?』
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・・・・・・・・・・ 中央口の脇に、レンガ作りの高架曲線が美しい、有楽町中央口架道橋がある。 明治43年開業時のレンガ造りの高架橋が見える(この上に、現在の山手線・京浜東北線が走っている)、、、、ドイツ人技師ルムシュッテルの設計案をもとに、逓信省技術顧問のバルツアーが市街高架線の設計・施工を指導。 彼はその耐震性について保証しており、大正12年(1923)の関東大震災でもこの区間は無傷だった。、、、、アーチの内側はコンクリートにより耐震補強され、レンガ積みの目地を見ることはできなくなったが、側面の大きなアーチの曲線を見ることができる。、、、、架道橋を抜けると、かっての「SOGO」デパート、今は「ビックカメラ」がある。2411300743490
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● 時刻は7時45分、まだ人影の少ない有楽町駅前から、東京高速道路の下を抜けて銀座通りに出る。 裏通りを歩いても、新しいビルばかり、『俺の知る あの店は何処に?』 裏道では、「並木通り」「銀座レンガ通り」などの道路名を見て、和泉雅子・山内賢が歌う『二人の銀座』を口ずさむ(誰も歩いていないので音痴でもOK) 小さな店は壊され、近代的で綺麗な大きなビルに変身、味の無いつまらなくなった銀座を歩く。
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● 銀座通りから宝町交差点に出て、昭和通りに面して並ぶ「兼松」「清水建設」「味の素」ビルを見ながら裏通りに向かう。
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・・・・・・・・・・ 裏通りには、大学1年の頃のバイト先があった。 20年前には私がサポートする、トラブルメーカの客先もあった。 いずれも新しいビルに変わり面影はないが、何となく懐かしい。
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・・・・・・・・・・ 浅草線の宝町駅から北東へ200m程、楓川の跡(首都高1号線)に陸上橋の宝橋が架かっている。 宝橋の西詰にひっそりと小さな祠があり、「宝地蔵尊」の旗が架かってる。 この宝地蔵尊の由来は『昭和29年(1954)夏の夕刻、当時8歳の児童が楓川に落ちて亡くなったそうだ。 その愛しい子供を供養するお地蔵さまである』 70年が過ぎた今でも、供養は続いているようだ。 私も合掌。、、、、楓川は1964年の東京五輪の際に埋め立てられ、首都高1号線に変わった。
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● 昭和通りに面し江戸橋の南詰に日本郵便日本橋郵便局がある。 ここ日本橋郵便局は「日本の郵便発祥の地」に相応しく、日本近代郵便の父と呼ばれる前島密(まえじまひそか)のブロンズ像が使用口脇に設置されている。、、、、明治4年3月1日(新暦換算:1871年4月20日)、日本における近代郵便制度の創設に伴い、現在の地(東京府豊島郡日本橋元四日市町 = 現在の東京都中央区日本橋1)に、駅逓司(現:日本郵政の前身)と四日市郵便役所(東京中央郵便局の前身)が設置された。 これをもって、この地は「日本の郵便発祥の地」と定められた。、、、、郵便発祥の地としてはブロンズ像だけではなく、郵便の歴史なども説明する、小さな説明コーナーなどが設置されるとうれしいね!
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江戸橋は、日本橋の下流側に架かる橋で、昭和通りを通す。 現在の江戸橋は、震災復興計画の一環として昭和4年(1929) に架けられた鋼製アーチ橋である。 親柱や欄干など、歴史のある江戸橋の名を汚さないようにと、力を入れて架設された橋だ。 しかし戦後、頭上を二重三重に走る首都高のおかげで、昼でも薄暗くその存在感が薄れてしまった。
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● 江戸橋を渡ると、椙森神社のある日本橋堀留町、繊維問屋街の日本橋横山町、そして浅草橋を渡ると我が家までは徒歩数分。 『ただいま!』
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2024年11月26日 (火)

隅田公園から三囲神社へ

隅田公園から向島の三囲神社まで歩いてきた。



● 東武鉄道浅草駅の前から隅田公園(台東区)に入り、朝の公園をブラブラ。

・・・・・・・・・・ 朝日に輝く隅田川 チョイトまぶしい!
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・・・・・・・・・・ 秋らしい色に染まってきた公園
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・・・・・・・・・・ 公園の中には、多くの石碑・歌碑・説明板がある。 その内の一つ、昭和25年(1950)から昭和35年(1960)の間、隅田公園(言問橋西詰)周辺には、「アリの街」と呼ばれ、戦災で家や家族を失った人々が廃品回収を生業に働き共同生活する場が存在していた。 現在は整備され当時の様子を物語るものは残っていないが、数年前台東区により、その場所に案内板が設置された。、、、、説明板には『昭和25年(1950)、この地に戦災で家や家族を失った人々が廃品回収を生業に働き共同生活する場が誕生しました。 人々はアリのように勤勉に働き、助け合って生活したことから、アリの街と呼ばれました。 「アリの街のマリア」として知られる北原怜子は、全国の戦争孤児の救済に尽力したポーランド人のゼノ・ゼブロフスキー修道士に導かれ、裕福な家庭の出身ながら、病に冒され二十八歳の短い生涯を閉じるまで、アリの街に移り住み、子ども達を支え続けました。 昭和35年(1960)、アリの街は東京都の要請により江東区に移転されました。 北原怜子の活動は後に映画や舞台化もされ、平成27年(2015)にカトリック教会から日本人女性としてはただ一人「尊者」の称号を得ました。』
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・・・・・・・・・・ 言問橋と桜橋の中間、待乳山聖天と三囲神社を結ぶように、渡し船「竹屋の渡し」があった。 渡しの創設年は不明だが、文政年間(1818~1830)には既にあったそうだ。 昭和3年(1928)言問橋の架設によって、渡しは廃止となったらしい。
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・・・・・・・・・・ 江戸時代、隅田川から遊里「
吉原」へ通う猪牙船(ちょきぶね)が往来した山谷堀。 その山谷堀の最下流(現在の台東リバーサイドスポーツセンタ付近)に架けられた橋が「今戸橋」である。 今戸橋が最初に整備された時期は不明だが、江戸時代に橋を架け渡すという記載が文献に残っているそうだ。 この橋の下を吉原通いの船が通った頃には、その船を親不孝舟などといったといい、「今戸橋上より下を人通る」というほどのにぎわいだったと言われている。 現存する欄干は、大正15年(1926)に竣工した橋の欄干で、山谷堀の埋立てに伴い、昭和62年(1987)現在のような形となった。 
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・・・・・・・・・・ 隅田公園にあった石碑、もう一つ紹介する。 言問橋西詰の公園内に「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」がある。、、、、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。 その亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。 台東区では、戦後40年(昭和61年)に、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、忘れることが無きよう、この地に碑を建立した。(合掌)
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● ただいま補修工事中の言問橋を渡り、台東区から墨田区へ入る。、、、、朝8時過ぎ、まだ人の動きも少なく静かだ! 
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● 言問橋を渡ると、東詰交差点の手東詰「見番通り」と表示された裏通りに入る。 この道を200m程歩くと向島の花街に「三囲神社(みめぐりじんじゃ)」がある。、、、、宇迦之御魂命を祭神とする囲神社の創建年代は不詳であるが、文和年間(1353~1355)に、近江三井寺の僧源慶が東国遍歴の際に社を改築したと云われている。 その改築をするとき、土を掘ると壺が出土し、白狐にまたがる老翁の像が出てきた。 すると、どこからか白狐が現れ、像の周りを三回回った死んだ、三囲神社の名はこの話に由来するそうだ。、、、、、三井家(越後屋=三越)が江戸に進出すると、社号に使われる文字「」が、三井の「」に塀を張り巡らせて守っているように見えることから、三井家の守護神として崇敬された。 今でも三井家と三井系企業に信仰されている三井家御用達の神社。

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・・・・・・・・・・ 三囲神社のシンボルか? 享和2年(1802)に奉納された、目尻のさがった温和な表情の神狐
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・・・・・・・・・・ 境内には多くの境内社と、歴史を感じさせる歌碑・塚などがある。 その中には三井家に関連する物も多い。、、、、三越呉服店の会長であった日比翁助(ひびおうすけ)の石垣の歌碑『いしがきの 小石大石持合ひて 御代はゆるがぬ 松ヶ枝の色』、、、、三越池袋店のライオン像、、、、明治時代になって拠点を京都から東京に移した呉服商の三井家は、養蚕の神=木嶋神社(京都太秦)を崇敬していた、境内にある三柱鳥居は木嶋神社の鳥居を模して建てられた。
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● 三囲神社をあとにして見番通りを北へ200m程歩くと「向嶋墨堤組合」の建物がある。 ここが、向島芸者の総まとめ「見番(けんばん)」だ!、、、、向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、現在、10軒の料亭が加盟し、120名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について日々修練しているそうだ。、、、、自分の若い頃、一度は行ってみたかった芸者遊び、今は「遊んでみたいが  体力なし」
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● 見番通りをさらに北へ100m、黄檗宗の寺院「牛頭山 弘福寺」がある。、、、、弘福寺は延宝元年(1673)黄檗宗の鉄牛和尚の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院。 江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。 関東大震災で罹災したが、昭和8年(1933)に、中国の黄檗寺にならって、本堂が大明式建築で再建された。 山門も、昭和8年の再建で、前に控柱が4本あり、門の中央部が2階建てとなっている。、、、、
建物に中国の名残が強く、どこか異国情緒が感じられる、都内でも数少ない黄檗宗の寺院だ!
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● 桜橋を渡り、再び隅田公園に入り、浅草橋の我が家に戻る。 1万歩

2024年11月16日 (土)

中途半端に四福神

3日前に足立区梅田の「ゆめろーど千代田商店街」を歩いてきたが、“千代田”の名がつく商店街が葛飾区鎌倉にもあることを思い出し、久々に行ってみたくなった。 朝の掃除も終えて、夫婦で京成小岩駅から柴又帝釈天まで歩いてきた。 9千歩



● 我が家の在る浅草橋からは、都営浅草線に乗り入れてる京成本線経由特急成田空港行きに乗ると、乗り換えなしで「京成小岩」まで行ける。、、、、京成小岩駅からJR小岩駅までは歩ける距離であるが、チョイト離れている。(年寄りにはキツイね!) 駅自体は柴又街道の裏手に位置し、地元以外の人には解りづらい奥まった場所にある。 駅前には20分間隔で、亀有行きの「京成タウンバス」が発着してる。、、、、山手の駅前に多い、大型ショッピングセンター、タワーマンション、綺麗に整備された街路などは一切見あたらない。 ここ京成小岩駅は何故か懐かしい下町の私鉄駅って感じがする。
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● 京成小岩駅前から北に向かい「京成小岩商栄会」という商店街が伸びている。 長さ300m程の商店街はバスも通る道路の両側に、約60店舗の店が並んでいるが、シャッターの下りている店、住宅なども点在し、チョイト寂しい。 交通量は少なく、電柱の地中化もされており年寄りには歩きやすい道路であった。、、、、この商店街の北端まで、江戸川区北小岩の町
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● 京成小岩商栄会の商店街が終ると、その先に引き続いて「千代田通り商店街」となる。 ここからは葛飾区鎌倉の町でなる。 つまり、商店街は京成小岩駅から北に伸びているが、区境が商店街の境でもあり名称も道路幅も雰囲気も変わる。、、、、千代田通り商店街は昭和32年(1957)に設立され、後に葛飾区で第一号となるモデル商店街となった。 約300mの長さ、道幅は車1台分程の商店街は、アーケードがなくほぼ同様の構えの店が30店舗程ズラリと並び、自然発生的な商店街ではなく、おそらく計画的に作られた商店街と思われる。 浅草の「仲見世通り」を地元密着型の商店街にした感じである。、、、、ここもシャッターを下ろした店舗が目立つが、年に数回のイベントが催され、多くの買い物客で賑わっているらしい。、、、、戦後誕生した昭和レトロな商店街、頑張って続けて欲しいね!
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● 千代田通り商店街を通り抜けて北へ進むと、北総線新柴又駅の近くに、真言宗豊山派の医王寺がある。、、、、医王寺は、薬王山瑠璃光院と号す。 応永14年(1407)に創建、下総国分寺下の薬王寺と呼ばれたと伝えられます。 本尊は薬師如来(秘仏) 当時流行した赤目病平癒の祈願所として建立された。 建立後間もなく、小田原の北條氏と安房の里見氏が利根川(現在の江戸川)を挟んで対峙し、天文7年(1538)・永禄7年(1564)の二度の国府台合戦に、北條方の陣屋として使用されたため什物の大部分が失われた。 その後、中興されたが、しばらくすると、寺は無住となり多くの資料が散逸した。 寛永年間(1624~1644)金蓮院の僧某が再興し医王寺と改めた。、、、、この寺には、七福神の一つ、恵比寿天を祀っているが、正月の「柴又七福神巡り」で顔見世するためか(?)、本堂に閉じられ御対面は叶わず!
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● 北総線の高架下を抜けて柴又帝釈天に向かうと、柴又七福神の一つ大黒天を祀る真言宗智山派寺院の宝生院がある。 宝生院は大黒山と号す。 寛永元年(1624)常陸国大聖寺末宝性院として京橋付近の創建、下谷谷中への移転を経て、明暦年間に池之端茅町へ移転したといわれてる。 関東大震災で罹災し、昭和2年(1927)に当地へ移転した。 柴又七福神の一つとなっている本尊の大黒天は、江戸期から信仰を集めていたそうだ。、、、、ここでも、本堂の引き戸は閉じられ、ガラス戸越しに大黒様はいずこにおるや? 
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● 宝生院からさらに北へ向かうと、またまた柴又七福神の一つ福禄寿を祀る曹洞宗寺院の聖閣山万福寺がある。 この寺は、昭和3年(1928)の創建で新しい。 こちらにある柴又七福神の福禄寿は、年代不明であるが、宍戸家(?)に伝えられた家宝仏で、奉納され万福寺で祀っている。、、、、ここも本堂は閉じられ、福禄寿はいずれにいるや?
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● 柴又帝釈天に着いた、、、、日蓮宗寺院の題経寺は、経栄山と号し、柴又帝釈天として著名です。 題経寺は市川市中山法華経寺第19世禅那日忠が当地にあった草庵を一寺とし成し、寛永6年(1629)開山したといいます。 本堂改築に際して、梁の上から日蓮聖人自刻と伝えられる帝釈天像の板木(板本尊)を安永8年(1779)の庚申の日に発見、柴又帝釈天として著名となり、現在に至るまで庚申の日を縁日としています。、、、、ここにも柴又七福神の内の一つ、毘沙門天が祀られている。 七福神の内、四福神の寺に来たが、どこもかしこも御尊顔を拝せず。 『賽銭もって、正月のお越しをお待ちしてます!』と、言われてるようだ! 今日は七福神巡りに来たわけではないが、何となく中途半端な気持ちで帰ることにした。
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・・・・・・・・・・ 帰りは参道を通り、鰻を食し、草だんご買って、柴又駅へ。 2411161216240
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2024年11月13日 (水)

五反野から西新井橋まで

東武伊勢崎線の五反野駅から、江北橋通り北側の裏通りを西へ歩いて、西新井橋バス停まで、1万歩の散歩です。



● 散歩の行先を決めぬまま浅草橋駅から都営浅草線・東武伊勢崎線と乗り継ぎ、『さて、どこで降りようか?』思案しながら乗っていた。 北千住駅を過ぎたあたりから、『これ以上乗っていたら散歩の時間がなくなる!』と思い、五反野駅で慌てて下車する。、、、、この駅は散歩で度々訪れており、目新しい発見も無く駅を出る。
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・・・・・・・・・・ 駅を出て『さて、何処へ、どっちへ、いずれに行こうか?』悩んだ結果は、『西へ向かって歩いて見よう』、、、、江北橋通りの北側の裏通りを西に向かって平行に歩くことにした。
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● 五反野駅から西へ、日光街道の手前に、「くもじい・くもみ」を思いだす、外壁が鋭角にトンガッタ建物がある。、、、、このお宅、『トンガッタ先にどんな部屋があるのかな?』、『寝るのは何処かな?』 できたら、お宅の中を拝見したいね!
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● 日光街道を越え西へ向かうと、足立区梅田1、2丁目に道幅6m程、長さ350mの地元密着型の「ゆめろーど千代田商店街」がある。 昭和46年(1971)に結成された商店街で、現在40店舗程が加入しているそうだ。、、、、朝8時45分、まだ営業してる店は少なく、多くの店はシャッターが下りてる。 花屋さんは店が開いてる、デイサービス・訪問介護の建物の中ではミーティング中、玉子焼き屋さんは店中で店主が焼いてる、八百屋さんは品出し中、買い物客の姿は見えず。、、、、日中の買い物客がいる時間帯に来てみたいね!
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・・・・・・・・・・ 商店街の「鈴や質店」、、、、昔ながらの風情ある店先と質蔵がいいね!
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● 商店街を通り抜けると「旧日光街道」にでる。 50m程北に歩くと、街道の角に「石不動尊」(足立区梅田3)と記された小堂がある。 小堂のなかの不動尊は石製坐像で、台座に「耳不動尊」と記されている。 石不動は、別名「耳不動」と呼ばれ、耳を病む人の強い信仰を受けているそうだ。、、、、石不動の左脇に、昭和40年(1965)に再建された、「子育弥彦尊道 是より二丁行く」という道しるべがある。 石不動は、この先(西側)にある明王院の不動の一つだそうだ。、、、、私は耳が悪く補聴器の御世話になっているので、ここでは念ごろに手を合わせてきた。
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● 石不動から西へ500m程歩くと、真言宗豊山派寺院の万徳山梅林寺明王院がある。 明王院は、治承2年(1178)六条判官源為義の三男義広の草創で、五世久広のとき当院のかたわらに天満宮を勧請して、万徳山梅林寺と号し、姓を梅田と改めたことから、周辺の地名も梅田と呼ばれることになった。 また、赤いお堂のお不動様の寺、は「赤不動」として親しまれてきたそうだ。、、、、この寺には、石不動の脇に道標のあった、咳に効験のある八彦尊が祀られている。、、、、現在の堂々とした不動堂(本堂)は昭和48年(1973)に落成した。 本尊の不動明王は扉の中で顔は見えない、残念!
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● 明王院から再び西へ向かうと、尾竹橋通り(=都道461号)に出る手前に公園「関原の森」がある。 ここには、昭和5年(1930)に建てられた「旧愛恵学園幼稚園舎(現:愛恵まちづくり記念館)が残されている。、、、、今日は建物の前を通過するだけ。
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● 尾竹橋通りに出て南へ200m程歩くと西新井橋の北詰となる。 この手前に東武バスの「西新井橋」バス停がある。 今日の散歩はここまで!
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2024年11月 8日 (金)

鹿骨街道

都営新宿線の篠崎駅で下車し散歩を始める。 篠崎駅の北側を東西にのびる鹿骨街道に出て西に歩き、鹿骨新橋で新中川を越え、その後は鹿骨街道と分かれてJR総武線の新小岩駅まで、1万2千歩の散歩です。




都営新宿線の篠崎駅は昭和61年(1986)9月14日、新宿線船堀~篠崎間延伸時に設けられた。 その後、平成元年(1989)3月に新宿線が本八幡駅まで延伸し、以来篠崎駅は中間駅となった。 ホームは島式1面2線構造で地下2階にある。 朝は都心へ向かう通勤通学客が多く、新宿方面行の電車は座れないかも? 反対方向行きの、隣の本八幡行き電車はガラガラ!

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● 篠崎駅から北へ400m程歩くと鹿骨街道(ししぼねかいどう)に出る。(「鹿骨」を“しかほね”・“しかぼね”と読むのはよそ者である、地元では“ししぼね”と、、、、江戸川区の地名:鹿骨由来は、その昔、常陸国(現:茨城県)の鹿島大神という神様が大和国(奈良県)の春日社に向かう途中でお供の鹿が病死した。 この時、地元(鹿骨)の人々が手厚く埋葬したことから名付けられたといわれてる。 その鹿のために作られた塚を「鹿見塚(ししみづか)」といい、今も「鹿見塚神社」に残されている。、、、、今日の散歩では、この鹿骨街道を西へ歩くことにした。

・・・・・・・・・・ 上篠崎4丁目付近から西へ向かう、、、、“街道”と言っても、街道らしき昔の面影が残っていない!
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・・・・・・・・・・ 上篠崎3丁目の一隅に庚申塔がある「柳島の庚申塔 河原道石造道標」である。、、、、文化13年(1816)建立の道標で、正面に「右かわら道、講中」、左側面に「左江戸道」と刻まれている。 上部に青面金剛像の庚申塔を載せ、その台座が道標部分となっている。、、、、庚申塔の猿は消され、金剛像は劣化し、台座の彫りは読みづらく、チョイト悲しい運命の庚申塔!
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・・・・・・・・・・  柴又街道との交差点を越えて200m程歩くと、「鹿骨」の発祥地:鹿見塚神社(ししみづかじんじゃ)がある。 ここには鹿を葬って祀ったと言われてる鹿見塚が昭和44年(1969)頃まではあった場所である。 現在は、「鹿骨発祥の地 鹿見塚」の碑がある。 また近くには鹿骨鹿島神社もある。、、、、本店が鹿島神宮、その支店が鹿骨鹿島神社、その営業所が鹿見塚神社というような関係だ、最近は知られざるパワースポットとして売り出し中とか、ホントかな?
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・・・・・・・・・・ 鹿骨街道をさらに西へ300m程歩くと、バス停「鹿骨」の前に、真言宗豊山派寺院の密蔵院がある。 密蔵院は、本命山明光寺と号す。 密蔵院の創建年代は不詳だが、江戸時代中期の創建と伝えられます。 明治期に小岩善養寺の境外仏堂となったものの、平成2年(1990)に宗教法人となった。、、、、境内の一画に、閻魔大王が鎮座してる。 その脇に『・・略・・ 嘘をついても屁と思わず、否それおも正当化しようとする昨今の風潮にいたく立腹され、このたび憤怒の姿をこの地にあらわされた。 心からの反省の念をもって水をかけ、願うべし。「どうか私のついた嘘を水に流してください」と。』書かれてた。 私もチョイト水をかけ、これまで70数余年の嘘を流そうと思ったが、柄杓では流しきれないので諦めた。 
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・・・・・・・・・・ 新中川に架かる鹿骨新橋を渡り、
東岸の江戸川区鹿骨6丁目から西岸の江戸川区松本2丁目の町に入る。 鹿骨新橋は、平成7年(1995)12月に架橋された。 橋長119.3m、幅員18.0mの3径間連続非合成箱桁橋。 工事費は16億4千万円だったそうだ、高いか安いかサッパリ判らん!、、、、対岸にはスカイツリーが見える
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・・・・・・・・・・ 鹿骨新橋を渡り松本2丁目で鹿骨街道と分かれ、JR新小岩駅に向かって歩く。



● 駅前の商店街を抜けると新小岩駅。 JR総武線の新小岩駅から浅草橋の我が家までは所要約15分。 今日の散歩はここまで!
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2024年11月 5日 (火)

一の酉

今日11月5日は一の酉、朝食も済み、妻の化粧も終わり、洗濯も干して、夫婦で鷲神社(おおとりじんじゃ)・長国寺(ちょうこくじ)に参拝してきた。、、、、鷲神社は天日鷲命、日本武尊、を祀る由緒正しい神社。 現在は「おとりさま」として一般にも親しまれ崇敬を集めてる。 11月の例祭も現在は「酉の市」として全国的に広く知られているようだ。 社伝によると天照大御神が天之岩戸に隠れた際に、天宇受売命が岩戸の前で舞った折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸を開いた時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だと喜び、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神天日鷲命と称されることになった。 天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神としてこの地(台東区千束)に祀られた。 後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをした。 その日が11月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭、「酉の市」となった。 この故事により日本武尊が併せ祭られ、祭神の一柱となった。、、、、、長国寺は江戸時代初期、寛永7年(1630)に石田三成の遺子といわれる、 大本山-長國山鷲山寺(じゅせんじ)第13世・日乾(にちけん)上人によって、浅草寺町に開山した。 山号を鷲在山(じゅざいさん)寺号を長國寺と称す。 寛文9年(1669)には坂本伝衛門氏の後ろだてにより、新吉原の西隣にあたる現在の地(台東区千束、鷲神社の隣り)に移転し、江戸時代から続く代表的な年中行事である、浅草酉の市の発祥(?)の寺として、今日に至る。、、、、我が家では、鷲神社で御守りの熊手を、長国寺では火除けの纏の御守りを受けてきた。 今年は二の酉、三の酉まであり、ぜひぜひ皆さんも参拝し、商売繁盛、災難消滅ついでに一攫千金も祈願して、年末ジャンボは1等当選! 年が明けたら大金持ちだ!!
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・・・・・・・・・・ 熊手やさんは既に商売繁盛!
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2024年11月 1日 (金)

東京大衆歌謡楽団

これまで上野の病院(泌尿器科)で診てもらってた泌尿器の予防治療について、浅草の泌尿器科クリニックを紹介され、今年の夏からこちらで診てもらうことになった。 クリニックは浅草寺の裏側(北側)に位置し、浅草橋の我が家からは雷門を入り、浅草寺、浅草神社を抜けて馬道交差点にあるクリニックに行く。 帰りは当然その逆である。

今日は月1回程の診察日、おしっこ採られて、もちろん『異常なし』



帰りに浅草神社の境内に入る直前、聞き覚えのある声で懐かしい昭和歌謡が聞えてきた。 『あっ、あの声は東京大衆歌謡楽団だ!』 久しぶりに出会った、東京大衆歌謡楽団の野外演奏である。 境内には大勢の中高年が、身体を左右に振って、手拍子合わせ、口はパクパク、真剣に聞き入ってる。 私もみんなの後ろで手拍子合わせ歌に聞き入る。

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東京大衆歌謡楽団」は高島四兄弟が中心となって平成21年(2009)に結成された(今年は結成15周年)、昭和の流行歌などを演奏するバンドである。 私が初めてバンドを知ったのは、十数年前に隅田公園で演奏を聴いた時だった。 『おや? 誰か東海林太郎の真似してる それにしても上手だな!』と思った時だ。 以後、上野公園などで演奏してる場に出会ったことがしばしばあった。(最近は地方公演なども多く、いそがしそうだ)、、、、今日(11月1日)は浅草神社へ、バンドの奉納演奏だった。 四兄弟の長男:高島孝太郎さんの歌声、東京ラプソディ、青い山脈など心に響きいいね! また、弟の雄次郎さんのアコーディオン、龍三郎さんのウッドベース、圭四郎さんのバンジョーが奏でる音色もGood! 

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素晴らしい歌声で、懐かしい感じがとても良いね。 楽しい気分になって浅草神社をあとにする、ありがとう!
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