散歩

2026年3月14日 (土)

堀切菖蒲園から亀有へ

京成本線の堀切菖蒲園駅から、裏道を北東に向かいJR常磐線の亀有駅までの散歩です。 今日は、裏道を歩く覚悟で家を出る前に、道に迷わないよう亀有までの途中ポイントとなる三寺(正王寺・九品寺・普賢寺)について、あらかじめ地図で位置を確認しておいた。



● 先日お花茶屋駅まで歩いたので、今日は隣の堀切菖蒲園駅から歩いてみようと思う。、、、、、堀切菖蒲園駅は高架下に1か所だけ改札口がある手狭な高架駅である。 駅周辺は、かつて複数の映画館があった葛飾区内屈指の繁華街であった。 今は映画館もなくなったが、賑やかであった頃の雰囲気が残る駅周辺には、間口の狭い商店・飲食店が並んでいる。 この駅は、昭和の下町が残る駅!、、、、、毎年堀切菖蒲園で開かれる「菖蒲まつりの期間は、駅周辺の人出も多い。
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● 堀切菖蒲園駅から裏道を500m程歩くと、真言宗豊山派の正王寺(葛飾区堀切5)がある。 正王寺は清滝山金長院と号す。 治承2年(1178)八王子社(現:堀切氷川神社)別当として法印俊義が創建したといわれてる。 朱塗りの山門から一般に赤門寺と呼ばれてる。 緑に囲まれて落ち着いた雰囲気で参拝できる。
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・・・・・・・・・・ 正王寺から東へ150m程歩くと、正王寺が別当であった堀切氷川神社がある。 堀切氷川神社は、天正年間(1573~1591)旧下千葉村の鎮守として創建された。 境内社の八王子神社は、治承2年(1178)に創建した古社で、江戸時代に5石の朱印地を与えられた。
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● 正王子から北東に直線距離で約400m、曲がりくねった道を歩くと600m以上(?)、真言宗豊山派の九品寺がある。 九品寺は、建久4年(1192)、宥真法印によって創立されて以来、800年に近い法灯を伝えているが、一時荒廃し、また享和2年(1802)および明治元年の火災と幾たびかの水害により、寺宝・記録散失して詳しい由緒は不明。、、、、、 現在の本堂は昭和35年5月の改築である。 広い境内には露像が多く、聖観音立像・阿弥陀如来坐像・弘法大師行脚立像・延命地蔵像・九品仏像などがある。 満開の桜も!
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・・・・・・・・・・ 九品寺境内の脇に「鈴懸の径(すずかけのみち)」という、小道(通学路となっている)がある。 この道の九品寺側の入り口に、作詞家佐伯孝夫が作詞した「鈴懸の径」の作詞が刻まれた石碑が建っている。 佐伯孝夫の墓が九品寺にあり、この歌碑は九品寺の住職が佐伯孝夫氏を偲び平成12年(2000)に建てたものだ。
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● 九品寺から約
800m歩くと普賢寺(葛飾区東堀切3)がある。、、、、、普賢寺は真言宗豊山派の寺院。 平安時代末期、葛西清重の開基である。 その後の戦乱で伽藍は焼失したが、弘安6年(1283)に法空によって中興した。 北条氏や千葉氏の庇護の下、順調に発展していったが、天文7年(1538)の国府台合戦の戦火により再び焼失、慶長2年(1597)になり斎海によって中興された。 当寺は付近の九品寺とともに区内有数の古刹である。
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● 普賢寺から亀有駅へ向かう途中に、上千葉砂原公園がある。 葛飾区西亀有にある区立の公園である。 ここでは、ウマ、ヤギ、ウサギなどに触れられる「ふれあい動物広場」と、「交通公園」がある。 今日は土曜日の午後、子供連れの家族で公園は大賑わい。 80歳に近い私一人、チョイト場違いな感じだ! 
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・・・・・・・・・・  交通公園の片隅に、D51502機関車が保存されている。、、、、このD51は、昭和16年(1941)に国鉄鷹取工場で製造され、奈良・広島第一・小郡・新鶴見・新津・直江津と各機関区を走り、最後は昭和47年(1972)に酒田機関区で廃車となった。 約30年間で全国約190万km走行した。 ひょっとしたら、私もどこかでこの機関車が牽く列車に乗っていたかも?
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● 亀有駅に到着。 今日は散歩日和で久しぶりに汗をかいた。、、、、、駅前から、のんびりバスで帰ることにした。

2026年3月 9日 (月)

西光寺と西光寺

京成押上線の四ツ木駅で降り北へ歩いて、天台宗の西光寺へ参り、さらに北へ向かい真言宗豊山派の西光寺へ参る。 さらに北上し京成本線のお花茶屋駅まで歩いてきた。 両西光寺とも葛飾区内にある。



京成押上線の「四ツ木駅は、現在の押上線が京成の本線であった大正元年(1912)11月3日に開業した。 その後、大正12年(1923)荒川放水路開削に伴い現在地に移転。 平成3年(1991)1月5日、旧荒川橋梁にタンカーが衝突し、上下線ともレールが折損するほどの事故が発生した。 その事故を受けて、荒川橋梁掛け替えおよび、荒川橋梁当駅の両岸にあった、当駅と荒川駅(現:八広駅)間の高架化工事が開始され、平成11年(1999)四ツ木駅は現在の姿で高架化された。、、、、駅周辺は木造住宅の密集地で、集客力のある大規模施設は何もない。 道路も区画整理ができておらず、緊急車両も通りにくい細い曲がりくねった道である。 いわゆる木蜜地域(=木造住宅密集地域)である。 地震・火災の発生が心配になるね! 
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● 四ツ木駅から寂れかけた「まいろーど四つ木商店街」を歩き西光寺に参る。
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● まいろーど四つ木商店街の中程から脇道に入ると天台宗寺院の「西光寺(さいこうじ)」(葛飾区四つ木)がある。、、、、、西光寺は、江戸氏・豊島氏と並ぶ関東の三大勢力であった葛西氏(鎌倉幕府創建の忠臣:葛西三郎清重)の館跡である、ただし遺構など確認できるものは残ってない。 葛西氏は後に、三陸の大名に栄転して当地からいなくなってしまうがその居館跡は西光寺として今も残る。、、、、、寺伝によれば、葛西清重の居館であった当地に関東教化中の親鸞が50日余り逗留し、自筆の阿弥陀如来画像を残した。 この間に清重は親鸞の弟子となり剃髪して西光房と称したという。 そして館内に堂舎を建て、親鸞の滞在していた期間、雨続きだったことにちなんで『雨降山西光寺』と名付けた。 以来、浄土真宗として法灯を続けたが、永禄年間頃には、兵火やいくたびかの水害でほぼ無住状態となった。 寛永年間になり、天台宗の旅僧が止宿して、由緒ある法灯の絶えることを惜しみ、村民とはかって浅草伝法院の門末の天台宗の寺として再興し、さらに相続く洪水に山号を雨降山から超越山と改めた。、、、、、本尊の阿弥陀如来立像、親鸞筆といわれる三方真向阿弥陀如来画像、葛西清重作といわる木造聖徳太子立像(秘仏)などの文化財を所蔵するが、散歩でブラッと立ち寄った私には拝見することができなかった。
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・・・・・・・・・・・ 境内西側100m程の所に、葛西清重の墳墓跡と呼ばれる場所がある。 門扉で仕切られた6畳程の空き地で、中央には墓があったと思われる処に大きな穴が掘られてた。 調べてみると、寛永8年(1631)建立の五輪塔1基と明治に大槻文彦らが建てた墓碑があったそうだ。 私の憶測では、墓地を整理し建て直すものと思われる。2026030908275020260309082723



● 四つ木の西光寺から、宝町の西光寺に向かう、、、、、河津桜は散り始めた、、、、、
昭和32年創業の末広湯。ザ・銭湯と言える造り!、、、、、曲がりくねった道は方向感覚が狂う!
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● 四つ木の西光寺から直線距離で北へ1.1㎞、葛飾区宝町にもう一寺の西光寺がある。、、、、、こちら(宝町)の西光寺は、真言宗豊山派寺院で、渋江山清重院と号す。 寺伝によると、元仁元年(1224)西光房善慶(葛西清重)の草庵にはじまり、のち浄土真宗の一寺となって西光寺と名づけた。 慶長18年(1613)再興のとき真言宗に転じた。、、、、、四つ木、宝町の両西光寺とも、始まりは浄土宗でその後改宗した、さらに葛西三郎清重・親鸞聖人ゆかりの地として、さまざまな共通する伝説がある。 チョイト謎多き二寺の歴史?
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・・・・・・・・・・ 本堂前の植え込みの中に「丹頂塚」と彫られた石碑があった。 “丹頂”の塚とは? 私の頭の中では、鶴の“丹頂”が浮かんだが、こんな下町でまさか鶴の塚とは思えない。 次に浮かんだのは、年配の人ぞ知る“丹頂チック”・“丹頂ポマード”などかつての整髪料の“丹頂”だ、誰かが懐かしみ碑を建てたのかと思った。、、、、、後に調べてみると、天保12年地元の人々が将軍放鷹のとき死んだツルの供養のために「丹頂塚」を建てたらしい。 昔は、この葛飾区にも丹頂がいたのだ!
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● 今日の散歩は、京成本線の「お花茶屋駅」から帰ることにした。、、、、、お花茶屋駅は普通列車のみ停車する駅で、昭和6年(1931)12月に開業した。 駅の所在地は葛飾区宝町2丁目であるが、北側には「お花茶屋1~3丁目」の名が広がっている。 かつて、この辺りは幕府の所有地で将軍が鷹狩をするために訪れていた。 8代将軍徳川吉宗がここに訪れた時、腹痛を起こし三軒あった茶屋のひとつで、娘のお花が手厚く看病し回復したといわれてる。この話からこの地を「お花茶屋」と呼ぶそうだ。、、、、、この辺りは鷹狩の地であった。 だから丹頂もいた! これにて「丹頂塚」も納得!
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2026年3月 1日 (日)

梅と桜

今日は東京マラソン」が行われ、コースの一部となる「江戸通り」沿線の我が家(浅草橋)付近も交通規制で、浅草・日本橋・両国方面には、バスの利用や歩いて行くのが難し。(JR、地下鉄は平常通り利用可能) 昨年までマラソンの行われる日は、なるべく外出は避け、コース沿道で応援することが多かった。
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● 今年は応援にも飽き、夫婦で旧中川河津桜(江戸川区平井)を観てきた。 JR総武緩行線の平井駅から亀戸駅まで、春の陽気に誘われて散歩した。、、、、、旧中川に架かるJR総武線鉄橋を挟んで、上下流に河津桜が咲いている。 本家の伊豆河津町のごとく、川沿い見渡す限りの河津桜とはいかないが、若い河津桜を含め70本程(私の推定)が満開だ! 遠くのスカイツリー、流れの穏やかな川辺を背景に、大勢の人が写真を撮っている。 
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● 旧中川に架かる江東新橋を渡ると亀戸中央公園(江東区亀戸)がある。(旧中川河津桜の対岸の公園) ここにも春が咲いていた。、、、、、園内の梅林、こちらも満開である。 
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・・・・・・・・・・ マラソンより梅・桜で春が来た!

2026年2月24日 (火)

向島百花園

“梅が咲いてる”と聞いて、観に行ってきた。 東向島駅から向島百花園に行き、帰りは押上駅まで歩いてきた。



● 東武伊勢崎線の「東向島駅」は、明治35年(1902)4月1日、「白鬚駅」として開業。 明治38年(1905)から、白鬚駅は一時営業休止となり、明治41年(1908)には白鬚駅廃止となる。 その後大正13年(1924)に、「玉ノ井駅」として営業を再開する。 昭和20年(1945)には東京大空襲で被災したため、再び営業休止となり、昭和24年(1949)10月1日に営業を再開した。 昭和62年(1987)に「東向島駅」に改称。、、、、、 現在は、高架相対式2面2線のホーム構造で、改札口・出口は1ヶ所のみで地上1階にある。 また、平成元年(1989)に高架下に東武博物館が開館した。、、、、、当駅のすぐ東側には、大正時代から昭和33年(1958)の売春防止法施行まで、永井荷風その他の文学作品にも取り上げられた有名な私娼街「玉の井」があった。 当駅はその最寄り駅として賑わったそうだ!(できれば、私も当時の駅に降りてみたかった)
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● 東向島駅から徒歩10分程で「向島百花園」に着く。、、、、、向島百花園は、仙台出身の骨董商:佐原鞠塢(さはらきくう)がもと「多賀屋敷」と呼ばれていた土地を入手し、文化2年(1805)に開園した。 360本もの梅の木を植えたことから当時亀戸(現:江東区)にあった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも、「花屋敷」とも呼ばれていたが、文化6年(1809)頃より「百花園」と呼ばれるようになった。 江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、著名な利用者には「百花園」の命名者である絵師:酒井抱一や門の額を書いた狂歌師:大田南畝らがいた。 当初梅園として営まれたが、その後、園主や文人たちの構想で詩歌にゆかり深い草本類を多数栽培した。 園内には多数の野草が植えられ、とくに秋の七草その他、秋の草花の美しさで知られた。 また、池泉、園路、建物、30余基の石碑などを巧みに配した地割でも有名であった。 その後も民営の公園としての長い歴史を経たが、明治以降、周辺地域の近代化や度重なる洪水などの被害を受け、明治末年頃よりその影響で草木に枯死するものがあり、一時は園地も荒廃したが、のちに東京市に譲渡されて昭和14年(1939)には公営の公園として出発した。、、、、現在は面積:約11,000㎡の都立庭園である。 入園料は65歳以上は70円、安い!、、、、、平日の午後に来たのだが、客はまばらで、ご老体ばかり、若いピチピチがいない、チョイト寂しいね。 しかし、梅の咲く庭園を落ち着いて見ることができ満足! 梅や椿やボケが綺麗に咲き、写真のモデルとなってくれた。
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粥でいただく春の七草(せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ)が植えられていた。 
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● 向島百花園を出て、押上駅に向かう途中、白鬚神社、高木神社に寄って行く。

・・・・・・・・・・ 白鬚神社墨堤通り沿いにある向島総鎮守の神社。 天暦5年(951)に、琵琶湖中の大鳥居で有名な白鬚神社から勧請した神社で主祭神は白鬚大明神(猿田彦大神)である。 隅田川七福神の一つ、寿老神も祀られている。
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・・・・・・・・・・ 二社目は、押上2丁目の高木神社。 高木神社は、応仁2年(1468)第六天社として創建、旧寺島村大字新田の鎮守だった。、、、、、縁結びの御利益を期待して、多くの参拝者がるようだ。 私の前で、欧州系のカップルが手を合わせ、御朱印を頂いてたのを見て、チョイト驚いたね!
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● スカイツリーの足元にある都営浅草線(京成電鉄が管轄)の押上駅に着いた。 押上駅には、京成押上線と都営地下鉄浅草線が乗り入れている。 京成押上線の押上駅は
大正元年(1912)11月3日に開業したが、昭和35年(1960)に都営地下鉄との相互直通運転開始により、直接浅草・都心方面への乗り入れの接続駅となる。 
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2026年2月20日 (金)

東禅寺の地蔵尊

浅草のクリニックへ行った帰り、チョイトぶらついて東禅寺の地蔵菩薩に手を合わせてきた。



● 台東区東浅草にある曹洞宗寺院の東禅寺は洞雲山と号す。 東禅寺は、哲州和尚が開山、格州和尚が開基となり、寛永元年(1624)に創建された。 本尊は釈迦如来。 境内は広いとは言えず、門前の道路から鉄筋コンクリート造の本堂の建物までは10m程である。 本堂の建物正面には東京都指定有形文化財である江戸六地蔵の一つ銅造地蔵菩薩坐像が鎮座し、左隣には、あんパンで有名な銀座木村屋総本店の開業者・木村安兵衛と妻ブナの夫婦像がある。、、、、、寺に着いたらまずは、本堂の釈迦如来に手を合わせようと思えども本堂に入れず。 代わりに、地蔵菩薩に手を合わせた。 隣の木村安兵衛・ブナ夫婦像にも合掌。
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・・・・・・・・・・ 江戸六地蔵とは江戸の街道出入口6箇所に造立・設置されている地蔵である。 江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706)に発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立した。 病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したものである。 鋳造は神田鍋町の鋳物師、太田駿河守藤原正儀により、像高はいずれも270cm前後である。 造立時には鍍金が施されていた(東禅寺の第二番は弁柄色の漆)が、現在では金箔の痕跡をわずかに残すだけとなっている。 それぞれの像内には小型の銅造地蔵菩薩坐像や寄進者名簿などが納められていた。また、像や蓮台には寄進者の名前が刻まれており、寄進者は合計すると72000名を越える。、、、、、 第1番は東海道(品川)の品川寺、 第2番は奥州街道(浅草)の東禅寺、 第3番は甲州街道(新宿)の太宗寺、 第4番は中山道(巣鴨)の真性寺、 第5番は水戸街道(江東)の霊厳寺、 第6番は千葉街道(深川)の永代寺、、、、、第1番から第5番までは地蔵尊が現存するが、第6番の永代寺は廃寺となり地蔵尊も現存しない。
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2026年2月15日 (日)

人形の町:岩槻

今朝の新聞に『わたしのふるさと便 埼玉県 さいたま市「岩槻」 ひな飾りが彩る城下町』と題した記事があった。 記事には東武野田線岩槻駅の東口周辺の町(人形の町)で行われている「まちかど雛めぐり」が紹介されていた。 ひな祭りシーズンに愛宕神社の参道石段で行われてる「大雛段飾り」も写真つきで紹介されていた。 この記事を見た私と妻は、朝食を済ませ、岩槻に行ってみることにした。、、、、、ということで、春到来の日曜日、夫婦で岩槻の町を歩いてきた。



● 私の住む浅草橋からは、都営浅草線で押上へ、押上からは東武伊勢崎線で春日部へ、野田線に乗り換え岩槻まで。 所要時間約1時間、岩槻駅で下車する。、、、、、岩槻駅(いわつきえき)は昭和4年(1929)11月17日、北総鉄道野田線粕壁駅(現:春日部駅)~大宮駅間開通時に「岩槻町駅」として開設。 その後、北総鉄道は総武鉄道に社名を変更。 昭和14年(1939)に岩槻町駅から岩槻駅へ改称。  昭和19年(1944)東武鉄道が総武鉄道を吸収合併したことに伴い、同社野田線の駅となる。、、、、、単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線と電留線3線を有する橋上駅である。 2024年度の1日平均乗降人員は35,091人である。 駅舎は落ち着いた清潔感漂う駅。、、、、、日曜日でもあり、岩槻駅では“人形の町”の歓迎イベントをしているかもと期待して下車したが、なにもなくただ静かな駅であった。 
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・・・・・・・・・・ 駅舎2階の観光案内所は開いているが人影は無し、ドアの前に町歩きマップが置かれていたので、それを黙って頂戴した。 マップを見て、観光地を巡るコースを妻と相談する。 駅から反時計回りに町を巡ることにした。



● まずは駅の南側にある、曹洞宗寺院の太平山芳林寺に参る。 芳林寺は戦国時代の岩槻城主太田家の菩提寺。、、、、、芳林寺は、かつて比企郡松山にあり地蔵寺と号していた、太田道灌が文明18年(1486)上杉定正の館で暗殺された際には、道灌の遺骨や遺髪を越生町の龍穏寺と当寺に納められたといわれてる。 永正17年(1520)八月火災に罹ったため、太田大和守資高が自分の居城であった岩槻へ当寺を移転、太田資朝の母(陽光院殿芳林妙春大姉)が永禄10年(1567)逝去した際に、芳林寺と寺号を改めた。、、、、明治4年(1871)、県庁が一時岩槻に置かれた際、芳林寺は仮庁舎として使用された。、、、、、境内には人影もなく(町ぐるみでひな祭りのイベントをしているとは思えない)、紅白の梅が咲いていた、河津桜も開花し、静かな寺のワンポイント!
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● 次は岩槻郷土資料館へ行く。、、、、、この建物は、
昭和5年(1930)に建てられた岩槻警察署旧庁舎。 天井の梁や窓にみられるアーチ状の造形やアールデコ調の装飾が随所に施され、警察署庁舎としての機能性と装飾性を兼ね備えた建物のデザインがみられる。 平成28年(2016)に、国の有形文化財に登録された。、、、、資料館としての展示面積・量はそれほど多くない、疲れず、時間を気にせず全部を見切れる。 岩槻城の解説は多く、地元の歴史を知る上では、良き資料となると思う。 
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● 町の所々には、城下町の雰囲気を残す建物が点在する。、、、、、歩きながら観光客と思われる何組かの人とはすれ違うが、人形店はどこも閉まっており、私『雛まつりのイベント・飾りが見当たらないね? 日曜日だからか?』、妻『日曜日だからやるんじゃないの! チョイと寂しいね』
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・・・・・・・・・・ 大正10年(1921)に建設された旧中井銀行の建物。 その後は銀行の建物として存続したものの経営統合を経て昭和32年(1957)に富士銀行(現:みずほ銀行)岩槻支店から人形の東玉に譲渡された。 現在は東玉大正館。 国登録有形文化財。、、、、、ここも閉まってた! 
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「岩槻藩遷喬館(せんきょうかん)は、寛政11年(1799)に、岩槻藩に仕えていた儒者・児玉南柯(こだま なんか)が開いた私塾。 後に藩校となり、岩槻藩の武士の子弟が勉学や武芸の稽古に励んだ。 明治4年(1871)に藩校が廃止になった後は、おおむね民家として使用されていたが、昭和14年(1939)に埼玉県の史跡に指定された。 平成15年(2003)から3年間、解体修理・復原工事を行い、公開している。 埼玉県内では唯一現存する藩校の建物。 ここでは藩士の子弟が6~7歳で入学し、20歳で終了するまで学んでいた。 最大40人ほどの生徒が学んでいた。、、、、、 「遷喬館」の名前の由来は、詩経(中国最古の詩集)の「伐木」の一節、「出自幽谷 遷于喬木(幽谷より出でて 喬木に遷る)」に由来している。 学問を欲し友を求めることを「鳥が友を求めて深い谷から高い木に飛び移ること」にたとえた内容で、学ぶ者に高い志を持つことを促す意味が込められている。、、、、、児玉南柯とは、江戸時代の後半、延享3年(1746)に甲州の豊島家で生まれ、11歳で岩槻藩士の児玉親繁(ちかしげ)の養子になり、16歳のとき藩主大岡忠喜(ただよし)に仕えた。 18歳で江戸の藩邸に勤務し、以後様々な要職を歴任し、35歳の安永9年(1780)南京船漂着事件の処理で名声を上げました。43歳のときに職を辞し、54歳の寛政11年(1799)に私塾・遷喬館を開設し、岩槻藩の子弟教育に情熱を注いだそうだ。、、、、、建物は極めて質素な造作だが、子弟の教育に私財を投げ打った儒学者の心意気に関心する。偉い!202602151126162026021511242420260215111848



岩槻人形博物館は、人形のまち岩槻にある人形をテーマとした日本初の公立博物館。 外見程大きくはないが、展示室は3つある。 まずは、人形製作の道具や材料などが展示された展示室1。 次に、日本画家で人形玩具研究家の西澤笛畝(にしざわてきほ 1889〜1965)コレクションをはじめとした日本人形を展示した展示室2がある。 展示室3では、様々なテーマにもとづく企画展が開催され、今日は「ミニチュア×にんぱく雛祭り ~江戸の職人芸から近代の創作まで~」が開かれ、小さなお雛さまが展示されていた。、、、、、日本全国の人形が展示されてはおらず、岩槻の人形が中心の博物館である。 私の期待とはチョイト違ったが、ここはここで、岩槻のひな人形を中心とした展示で面白さがあった。
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● 市指定文化財「時の鐘」は、江戸時代中期の享保5年(1720)に鋳造された銅鐘。もとは、その49年前の寛文11年(1671)に当時の岩槻城主阿部正春が鋳造させたものであるが、ひびにより鐘の音に不具合が生じたため、改鋳されました。 それが、現在の鐘です。そしてこの鐘は、江戸時代以来の場所で、江戸時代に建てられた鐘楼にかけられ、今なお一日に3回(朝6時、正午、夕方6時)、鐘がつかれ、その音色が時を告げているとのこと。(残念ながら、私は音色を聴くことができなかった)
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● 岩槻人形博物館の向かい側にある、曹洞宗寺院の大龍寺は、雲居山と号す。 大龍寺は、
徳川家光の傅役を務めた老中、岩槻城主青山伯耆守忠俊(大龍寺殿春室宗心居士、寛永2年1625年寂)が開基となり、一峯麟曹(元和9年1623年寂)が開山したといいます。、、、、、昭和29年(1954)本堂が火災により焼失し、平成17年(2005)に再建された。 山門や本堂には立派な龍が彫刻されています。 境内には、岩槻人形の中興の祖と言われている橋本重兵衛の墓があるとのこと。
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● 岩槻の町を反時計回りに巡り、最後は石段に飾られたひな人形を見るため、駅の近く、大龍寺の裏手にある愛宕神社にやって来た。 歩く先に鳥居が見える、近づくと石段と拝殿が見える。 私『アレ? ひな人形が飾られてない、どうなってんの?』 妻『何か間違っていない』 神社の掲示板に「大雛段飾り」の写真付きの案内があった。 私『なんじゃ、実施日は2/21・22・23・28・3/1の5日だけだ!』 社務所の女性も同情してくれたようだ。 『見たかった~!』、、、、、岩槻愛宕神社の創建年代等は不詳ながら、天正年間(1580代頃)に築かれた土塁(岩槻城大構)の上に鎮座、火防の神として愛宕神を祀り、寛永年間に創建した三光寺(廃寺)の境内社だったといいます。
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● 我が家に帰宅後、新聞をよく見ると、記事の隅に枠入りで、開催日が示されていた。 さらに、岩槻の町のイベントも2/21(土)~3/8(日)までと記述されていた。 完全に私の早とちり・失敗・ミス! 

2026年2月13日 (金)

湯島の梅

湯島天神の梅まつり(2/8~3/8)が始まった。 今日は浅草橋の我が家から歩いて片道50分の湯島天神まで観梅に行ってきた。

● 湯島天神は、菅原道真と天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)、二柱の祭神を祀る湯島天満宮である。 湯島天神は通称である。、、、、、雄略天皇2年(458)、勅命により創建されたと伝わり、当初の祭神であった天之手力雄命に加えて、南北朝時代の正平10年(1355)に郷民が菅原道真を勧請した。 このころは周囲に何もない湯島の高台の森に祀られた神社であったと思う。、、、、、江戸時代には幕府の崇敬・庇護を受け、江戸・東京における天神信仰の中心となった。 現在は学問の神様として知られる菅原道真を祀っているため受験シーズンには多数の受験生・両親が合格祈願に訪れ、普段からも学問成就や修学旅行の学生らで非常な賑わいを見せている。、、、、、受験生は賽銭を奮発し、絵馬を買い・願いを書いて奉納。 さらにおみくじを引いて大吉・吉で喜び、凶が出ると再度おみくじに挑戦。 そして念のため“学問成就”や“勝守”の御守りを買って帰る。 チョイト計算すると、賽銭200円、絵馬1000円、おみくじ100円、御守り1000円などなど、なんだかんだと、一人平均3000円ぐらいは神社に置いてくるであろう。 学習塾はつぶれるが、神社はつぶれない?
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● 湯島天神は、江戸時代から梅の花見の名所であり、第二次世界大戦後は2~3月に「梅まつり」が開かれている。白梅を中心に2024年時点では約200本あるが、終戦直後に植樹されてから老化が進み、木の数やつける花が減っており、湯島天満宮は植え替えや土の入れ替えなどにより庭園化する再生プロジェクトを進めている梅。、、、、、今日の梅は3分咲き。 200本あるといわれても、今日見た印象は『そんなに多いと思えない、50本ぐらいかも?』
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2026年2月10日 (火)

クイズ神社

東武伊勢崎線の北越谷駅から、クイズ神社に参拝して、越谷駅までの散歩です。



● 東武伊勢崎線には“越谷(こしがや)”の名が付く駅が3駅ある。 南側(都心側)から順に、新越谷駅、越谷駅、北越谷と並ぶ。 3駅の中で最も古い駅が北越谷駅である。 「北越谷駅」は東武鉄道開通当初からある駅の1つであり、宿場町である南埼玉郡越ヶ谷町の最寄駅として、明治32年(1899)8月27日に、東武鉄道北千住駅 ~ 久喜駅間開通時に越ヶ谷駅として開設された。 大正8年(1919)に、当駅の南方に越ヶ谷駅(現:越谷駅)が新設されることとなり駅名を譲り、所在する町名(南埼玉郡大沢町)に従って武州大沢駅に改称する。 さらに、昭和29年(1954)に越ヶ谷町・大沢町などが合併し越谷町(現:越谷市)が発足した後、昭和31年(1956)に北越谷駅に改称された。、、、、、開業時の駅舎は、近くに皇族が来場する埼玉鴨場(昨年は愛子様が各国大使らを接待)があるため、貴賓室が備わった駅舎であった。 その後、昭和37年(1962)に帝都高速度交通営団(現:東京地下鉄)日比谷線との相互直通運転が開始されることを機に、当駅は東武鉄道初の橋上駅となる。 さらに、連続立体交差事業に伴い平成11年(1999)には、島式ホーム2面4線の高架駅となった。、、、、、当駅始発の日比谷線直通列車もあり(通勤時に絶対座れる)、都心への通勤客には人気のありそうな駅だ!
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● 北越谷駅の東側200m程に越谷香取神社がある。、、、、、香取神社は応永年間(1394~1428)に創建された。当時、この地は下総国であり、同国一宮の香取神宮から分霊を勧請したものと伝えられる。 寛永年間(1624~1644)に奥州街道の整備とともに現在地に移転した。、、、、、越谷香取神社の本殿の板壁には、大黒天や高砂の翁・龍など多彩な彫刻がほどこされている。 この壮麗な本殿は、棟札によると慶応2年(1866)に再建された。、、、、、越谷香取神社は、500年以上の歴史を誇る埼玉県屈指のパワースポット。 武勇の神様経津主大神(ふつぬしのおおかみ)を主祭神として祀り、勝運・厄除・交通安全・商売繁盛・縁結びなどの御神徳がある。 他に14柱の祭神が祀られており、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の御加護による安産、子授け、子宝の神社としても広く知られている。(ゴメン、私は知らなかった!)
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● 香取神社から東南へ500m程の処に、用水路のような逆川(さかさがわ)に架かる小さな地蔵橋がある。 その地蔵橋の際に、これまた小さな地蔵堂があった。 堂の中をチョイと拝見すると、地蔵尊が彫られている駒形の石塔が中央に、両脇には小さな地蔵が祀られている。 地蔵尊の造立年代については、元分2年(1737、江戸中期)とする説、宝暦9年(1759)とする説、の2説あるそうだ。 いずれにしても、300年前の話である。 当時、この地に住む人々はこの地蔵に何を願ったのか(?) 生花が供えられているので、300年後の今も地蔵尊を守っている人がいるようだ。 
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● 地蔵橋から300m程歩くと、元荒川に架かる宮前橋(人道橋)の正面に天嶽寺と久伊豆神社の参道が隣り合わせにある。
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● 寺は「
至登山 遍照院 天嶽寺(しとさん へんじょういん てんがくじ)」といい浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来である。 天嶽寺は太田道灌の伯父と伝えられる専阿源照が文明10年(1478)に開山、当時は小田原北条氏の城砦に用いられたため北条氏により寺領の寄進を受けていたといわれている。 天正19年(1591)には徳川家康から寺領15石の御朱印を拝領して五ケ寺(雲光院・法久院・遍照院・美樹院・松樹院)の塔頭を擁していた。 また当寺第四代住職の城誉は正親町天皇第三皇子と云われていて、そのため十六葉菊花紋の使用が許され触頭にも指定された格式の高い寺であった。

・・・・・・・・・・ 久伊豆神社参道脇に当寺の入り口がある。 天嶽寺と書かれた看板のたつ、こんもりと盛り上がった所には、多くの庚申塔馬頭観音、道標などが並んでいる。 歴史を感じる銘が読み取れるものもある。
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・・・・・・・・・・ 山門をくぐると、奥に楼門が見える。 楼上には釈迦を祀っているとのこと。(どちらも、古そうだが年代?) 楼門をくぐり本堂の前に出る。
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● 天嶽寺の隣りには、社名の“
久伊豆”が “くいず”とも読めることから「クイズ神社」とも呼ばれることから、久伊豆神社の知名度が高まり、近年クイズ番組での優勝祈願に訪れる者も増えている「久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)」がある。、、、、、伊豆神社は、越谷の総鎮守とされている。  創建は鎌倉時代とされている。 神紋は立葵である。これは、近くに徳川将軍家が鷹狩などを行う越ヶ谷御殿があったことから、葵紋の使用が特別に許可されたものとされている。 久伊豆神社は、埼玉県の元荒川流域を中心に分布する神社で、祭神は大己貴命(大国主)である。 久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。

・・・・・・・・・・ 宮前橋前の参道入口から拝殿まで、真っ直ぐに伸びる約500mの長い参道が続く。 参道の途中には第一鳥居、第二鳥居、第三鳥居と続く。 “
たかが500m、されど500m” 年寄には辛い!
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・・・・・・・・・・ 拝殿に詣で、『宝くじ一等当選 宜しく!』 賽銭は奮発して100円、、、、、本殿は国登録有形文化財である。
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・・・・・・・・・・ 本殿の後ろに、第二次世界大戦中、パラオ共和国コロール島に建立され日本人入植者などの信仰を集めた「南洋神社」をしのぶ旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿 」がある。 こちらにも手を合わせてきた。
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● 越谷の町をぶらつき駅に出る。 「越谷駅」は大正9年(1920)4月17日、越ヶ谷駅として開業。 昭和31年(1956)越谷駅に改称。 平成9年(1997)に高架複々線化完了し、島式ホーム2面6線を有する高架駅。 島式ホーム2面4線の両側に特急列車等が走行する通過線がある。、、、、、越谷から東武で押上へ、都営浅草線に乗り換えて浅草橋(我が家の最寄り駅)まで、所要時間42分。 早い! 
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2026年2月 6日 (金)

池上梅園

寒波と寒波の間、暖かな一日となった。 この暖かさを逃さぬように、池上梅園で観梅し、その足で池上本門寺に参拝して来た。



● 我が家の最寄り駅:浅草橋から都営浅草線に乗り、池上梅園の最寄り駅である終点の「西馬込駅」に到着した時は社内はガラガラ。 8両編成の電車から降りる乗客は30人程、もうすこし路線を延長し川崎市まで乗り入れたら乗客も増える思うが、いかがかな?、、、、、梅園までは当駅から駅前の国道1号線に沿って徒歩10分程である。
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池上梅園は池上本門寺の西に位置し、丘陵斜面等を上手に利用した閑静な庭園(大田区立公園)である。 高低差を生かした梅園や茶室などがある。 戦前まで当地は日本画家の伊東深水の自宅兼アトリエ、画塾であったが、戦災で焼失。 戦後は拡張され築地の料亭経営者である小倉誠の邸宅があったが、所有者の没後、庭園として残す事を条件に東京都に敷地を譲渡された。 昭和53年(1978)に大田区に移管された。 大田区は当庭園に区の花である梅の花の植林をするなど整備し、現在は約10,000m2の敷地に、約370本(白梅150本、紅梅220本)の梅の木が植わっている。,、、、、3~4分咲きの庭園では、複数の中高年のカップルやグループが梅を褒め称え散策していた。 数羽のメジロが花を突いて枝から枝へ。 もうすぐ 春~ですね!
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・・・・・・・・・・ 池上梅園の中には、梅以外にも2棟の茶室などを巡りながら散策できる。、、、、、入園料100円、65歳以上は無料でいずれにしても都会のオアシスとしては安い! ありがたい! 癒される!
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● 池上梅園を堪能したら、池上本門寺にもチョイト立ち寄り、合掌。、、、、、久しぶりなので力道山の墓にも合掌。
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・・・・・・・・・・ 5年ほど前に、レトロな木造駅舎からモダンな駅ビルに変わった、東急池上線の池上駅から帰宅。
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2026年2月 3日 (火)

川崎大師で節分

このところの大寒波で、寒い寒い! 出不精となり“散歩”もサボり、家でゴロゴロが続いた。 今日は節分、散歩がてらに外出したくなった。 成田山に行こうか? 浅草寺に行こうか? 成田はチョイと遠い、浅草寺は先日行った、悩んだ末、夫婦で川崎大師に行ってきた。、、、、、川崎大師には7年ぶりの参拝である。



● 京急川崎駅で大師線に乗り換え、3駅目「川崎大師駅」で下車する。 川崎大師駅は明治32年(1899)1月21日、大師電気鉄道の大師駅として開業し、大正14年には川崎大師駅と改称した。 以来、京浜電気鉄道(大師電気鉄道)、東京急行電鉄、京浜急行電鉄と移行したが、京浜急行電鉄最古の駅であるとともに、現存する関東最古の電車駅でもある。 駅は相対式ホーム2面2線を有する地上駅で、両ホーム間は地下道で連絡している。、、、、、現駅舎は、昭和31年(1956)川崎大師の戦災復旧もほぼ完了し、さらに参詣客の増加が予想されるため、これらに対応して木造であった駅舎を鉄筋コンクリート造にした。 京急電鉄らしい平屋の駅舎であるが、川崎大師を彷彿とさせる意匠は寺街の雰囲気と合致し旅情溢れる駅である。
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・・・・・・・・・・ 京浜急行電鉄の前身である大師電気鉄道が明治32年(1899)、六郷橋~大師(現:川崎大師)間を開通したことを記念し、昭和43年(1968)大師電気鉄道「発祥の地」記念碑が建立されている。(川崎大師駅改札を出て右側奥)
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● 駅前から「表参道」を歩いて川崎大師に向かう。 トン・トンとリズミカルに飴を切る包丁の音が参拝する人を迎えてる。 飴屋に呼び込まれ懐かしの味「ニッキ飴」、「咳止め」、「さらし飴」を購入。 飴屋の隣はダルマ屋、店の奥までビッシリと並んだダルマ、白目で見つめられ笑ってるようにも見える。 甘酒屋にくず餅屋、せんべい屋もある。
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● 通称「川崎大師」の本名は「平間寺(へいけんじ)」。 平間寺は真言宗智山派の大本山である。 山号は金剛山。院号は金乗院。、、、、、当地付近に住んでいた平間兼乗(ひらま かねのり)が川崎市夜光沖合いの海で拾い上げた弘法大師像(本尊)をもとに、尊賢上人が開基となり大冶3年(1128)創建したと伝えられている。、、、、、伽藍の多くは昭和20年(1945)4月15日に米軍の攻撃で行われた川崎大空襲で多く建物が焼け落ち、戦後になって再建された。 大山門は昭和52年(1977)、大本堂は昭和39年(1964)、八角五重塔は昭和59年(1984)に建立された。

・・・・・・・・・・ 大きな大山門をくぐり境内に進む。
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・・・・・・・・・・ 本堂前では大勢のガードマンが正面に並んでる。 参拝客は両脇から本堂に入る。 本堂では、年男・年女が揃い節分の法要が行われていた。
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・・・・・・・・・・ 法要が終わり、本堂前で貫首と思われる僧を囲んで、年男年女の記念撮影。 『
ハイ~ こらら向いて ハイ・チーズ』、、、、、貫首の隣りにはご当地川崎出身の友風関(中村部屋)が座ってる。
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・・・・・・・・・・ 記念撮影が終わると、御一行様は豆まき会場へ移動。 広い境内の奥にあるインド風の建物:薬師堂の前に、これまた広い広場がある。 ここに豆まき会場が用意されていた。
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・・・・・・・・・・ 総勢60名程の年男年女による豆まきが一斉に始まった。 豆をまとめて大量に投げる人、一袋ずつちょびちょび投げる人、遠くに投げる人、投げずに真下に落とす人、年男年女もいろいろだ! ひろう人もいろいろだが、奪い合う人、あきらめた人、傍観する人、大量にひろい自慢げな人、私は見てる人、妻はひろえずがっかりしてる人。
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・・・・・・・・・・ 豆まきが終われば参拝客は一斉に散って行く! 私達も帰ることにした。
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