建築

2018年3月17日 (土)

しばられ地蔵

数日前、稲毛の地蔵院へ行き帰宅後、寺の由緒をネットで調べていたら、似た名前の南蔵院が出てきた。 そこに「しばられ地蔵」が紹介されていたのを見て、今日の散歩は南蔵院へ行くことにした。、、、、、金町駅からチョイト遠回りだが、葛西神社、半田稲荷に寄って南蔵院へ参り、金町駅まで戻る、1万2千歩の散歩です。



JR金町駅 ・・・・・・・・・明治30年(1897)12月27日、日本鉄道の駅として開業し、明治39年(1906)には国鉄の駅となる。 改札が高架下(盛土)にあり、改札を抜けると駅の南北を結ぶ自由通路を通り駅前ロータリー出る。 今日は北口から散歩を始める。
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・・・・・・・・・・ 朝の駅前商店街、食事処の中華そば屋、定食屋などは開いている。、、、、ここ金町では、朝から外食する人が多いのかな?

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葛西神社・・・・・・・・ 駅から常盤線に沿いに歩き、江戸川に出る手前(葛飾区東金町6)に葛西神社がある。、、、、、葛西神社は、平安末期の元暦2年(1185)に葛西清重が、上葛西、下葛西)33郷の総鎮守として、香取神宮の分霊を勧請したと言われている。 江戸時代には徳川家康から御朱印10石を賜り、11月を例大祭とするようになった。


・・・・・・・・・・ 嘉永7年(1854)に建立された正面鳥居。 これより、明神の森となる。

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・・・・・・・・・・ 正面鳥居の奥に、もう一つ、高さ約9mの大鳥居がある。 昭和4年(1929)に崇敬者夫妻の金婚式記念に奉納されたそうだ。

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・・・・・・・・・・ 経津主神、日本武尊、徳川家康の三柱を祀る本殿。 鉄筋コンクリート造、権現八棟造りで昭和39年(1964)に改築された。

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・・・・・・・・・・ 鍾馗石像、、、、、鍾馗(しょうき)は、唐の玄宗皇帝が病中に鍾馗が鬼を退治した夢を見て、魔よけとして始まった。 わが国でも、まもなく五月の節句に幟に描かれたりして登場する。、、、、、境内のこの石像は、念仏講の人々が悪魔降伏を祈り元禄8年(1695)に建てた。

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・・・・・・・・・・ 葛西神社は境内社も多く、厳島神社、富士神社、北野神社、諏訪神社、天祖神社、綱神社、道祖神社、椿神社、三峰神社、弁天社、稲荷神社、水神社、疱瘡神社、子録神社など、『なんでも揃って、祀っています』と大安売り! 




光増寺・・・・・・・・ 葛西神社の北200m程(東金町6)に、浄土宗の摂取山蓮池院光増寺がある。、、、、、光増寺は、貞応元年(1222)に草庵として始まり、元仁元年(1224)、親鸞聖人が立ち寄り浄土真宗光増寺となった。 戦国時代、合戦により堂宇を消失、天正15年(1587)、江戸増上寺の僧が浄土宗として中興した。 当地は旧水戸街道沿いにあたり、水戸徳川家の立ち寄り所となり、葵の紋所が使用されている。、、、、現本堂は明治43年(1910)の再建を経て、昭和49年(1974)に現在の堂舎に改築された。


・・・・・・・・・・・・道路正面に見えた山門。 狭き門、高き松、小さき本堂、草庵の雰囲気残り、いいね!

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・・・・・・・・・・・・・草庵の雰囲気が残る本堂

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・・・・・・・・・・ 境内には、江戸時代からの多くの石仏、碑、墓などが祀られている。 檀家から寄贈されたものもあるようだ。

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・・・・・・・・・・ 江戸時代葛飾の生んだ俳人:鈴木松什(しょうじゅう)の墓の後ろで、静かに咲き誇るアカバナミツマタ。 松什は寛政10年(1795)柴又村に生まれ、通称を安五郎、俳名を無有庵といった。 嘉永6年(1853)4月18日病没、年56歳。法名を無有庵俊誉松什禅士という。、、、、、念のため、松什とミツマタは“無関係”

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半田稲荷神社・・・・・・・・ 光増寺の北200m程(東金町4)に半田稲荷神社がある。 ここは、和銅4年(711)に創建され、倉稲魂神・佐田彦神・大宮女神の三柱を祭神とする古社である。 江戸期には麻疹と安産の神様として知られ、歌舞伎や狂言にも描かれているそうだ。(私は歌舞伎には疎く、知らなかった!)


・・・・・・・・・・ 江戸時代から「葛西金町半田の稲荷」と称され、疱瘡・麻疹・安産に霊験あり、江戸市民の信仰を集めた。 歌舞伎役者、花柳界、魚河岸による講もあったようだ。 最近造られた玉垣も魚河岸の尽力があったようだ。

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・・・・・・・・・・ 社殿は延享4年(1747)の火災で焼失し、寛延2年(1749)に再建されたが、尾州徳川家の立願により弘化2年(1845)に造替た。 その後、一部修復したが現在の社殿である。、、、、、徳川によって建てられた神社としては簡素な建物であるが、拝所の天井には鳳凰が描かれチョイトこだわりが見えるかも?

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・・・・・・・・・・・・・・「願掛け狐」に願い事を書いて納めると効果ありそうだ!、、、、私は、『ジャンボ、一等当選』だけ、ささやかな願いです。

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・・・・・・・・・・ 境内の一隅に神泉遺構がある。 この遺構はかつての湧泉井戸で、旧来の形状がよく保存されている。、、、、、享保年間(1716~37)の頃、半田稲荷神社は庖瘡・麻疹・安産に霊験ありといわれ、願人坊主(がんにんぼうず/僧形の芸人)が「葛西金町半田の稲荷、庖瘡も軽い、麻疹も軽い」と全国を謡い踊り歩いたため、参詣人が絶えず、舞踊や長唄でも演じられたという。 井戸の周囲を囲う玉垣には市川團十郎や尾上菊五郎など歌舞伎役者ら寄進者の名が刻まれ、往時の繁栄を偲ばせている。

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南蔵院・・・・・・・・・ 半田稲荷神社から北西に800m程の葛飾区東水元2に、天台宗寺院の業平山東泉寺南蔵院がある。 南蔵院は、貞和4年(1348)以前に、在原業平が居住していたといわれる現在の墨田区業平橋付近に創建したと伝えられている。 元禄11年(1698)中之郷八軒町(現:墨田区吾妻橋3)へ移転、しばられ地蔵で有名になった。、、、、関東大震災で被災し、昭和4年(1929)、廃寺となっていた聖徳寺の地(現在地)へ移転した。

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・・・・・・・・・・ まずは『しばられ地蔵』の話とは、、、、、享保7年間(1716~36)夏の昼下がり、日本橋の呉服間屋の手代が荷車に反物を山と積んで、業平橋近くの南蔵院の門前で車を止め一休みした。 目がさめると、門前に置いた反物は車ごとない。 あわてた手代はさっそく訴え出た。 取調べに当たったのが町奉行:大岡越前で、「反物が盗まれたのを見すごすとは、門前の地蔵も同罪である。 縄打って引っ立てて参れ」と命じた。 地蔵さんは荒縄でぐるぐる巻きにされ、大八車に乗せられて奉行所へ。 物見高いは江戸っ子の常、前代未聞のお地蔵様の引き立てに、ぞろぞろついて行く。 奉行所の門は開いている。 やがて、頃合いを見て越前守は門をしめさせ、「奉行所の白州へ乱入するとは不届至極、その罰として反物一反を納めよ」野次馬たちは驚いたが、なんとか工面して反物を持ってくる。 それを呉服屋に見させた。 その中から盗まれた反物が発見され、大盗賊団が一網打尽となった。 これにて一件落着。


・・・・・・・・・・ 越前守は地蔵に感謝し、お堂を建て縄解き供養を行った。 以来「しばられ地蔵」は盗難除け、足止め、厄除け、さらには縁結びまで願い事を叶えてくれると信じられた。 願い事をするときは縄で縛り、願い叶えば縄を解く、風習となった。

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・・・・・・・・・・ 墨田区から葛飾区に移った「しばられ地蔵」 今日も縄でグルグル巻きの地蔵さんに、手を合わせる人がいた。、、、、健康を願っているのかな?

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金蓮院・・・・・・・・・ 駅に近い東金町3丁目、真言宗豊山派の法護山金剛寺金蓮院がある。 チョイト、ここもお立ち寄り。、、、、、永正年間(1504~20)の創建。 旧門末30余ヵ寺をもった本寺格の寺院で、天正19年(1591)徳川家から10石の御朱印を拝領した。 水戸徳川家の祈願所でもある。

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・・・・・・・・・・ 本堂左に、宝永7年(1710)に二十六夜待講中の人々が、二世安楽を願って建てた藍染明王の石像がある。 二十六夜待とは、特定の月の26日の夜に人々が寄り合い、飲食などをしながら月の出を待ち、五穀豊穣、商売繁盛などを願うことを。 二十六夜待の本尊は愛染明王であるが、石像を刻むよりも文字を刻む例が多く、愛染明王の石像単独ではあまり例はなく、ここの石像はその中でも古い方に入る。、、、、、愛染明王の姿は、三目六臂(目が三つで腕が六本)であるが、ここの石像は彫が深くハッキリとした姿で残されている。 いいね!

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2018年3月13日 (火)

京成団地~平和交通本社

今日は稲毛でパソコンの同好会。 春の陽気の下、チョイト時間があり、散歩をしてみることにしたが、9年間毎月来ている稲毛なので、主だった所はほぼ歩いた。



・・・・・・・・・・ 稲毛駅前で、『どっちの方角に歩こうか? ♪ ああ 稲毛 思案橋ブルース ♪』 
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・・・・・・・・・・ 悩んでいても決まらない! 駅前のバス停から、来たバスに飛び乗って終点まで行くことにした。、、、、乗ったバスは「京成団地」行。 「京成団地」? 知らない、聞いたことない、どんな所? 疑心暗鬼で窓の外をキョロキョロ見るが?????
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・・・・・・・・・・ 終点の京成団地で降りたのは五人、多いのか、少ないのか? ここはどの辺、あの辺、この辺、わからへん?
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・・・・・・・・・・ とりあえず、気ままに歩いてみることにした。 “団地”と言えば、公団の団地をイメージするが、周囲は木造住宅ばかり、どうやら京成団地とやらは戸建て住宅の団地のようだ。 住宅地の真ん中で降りてしまったのか?、、、、、帰宅後、ネットで調べてみたら、団地が造成された時期は不明だが、団地内の「京成団地商店会」(現店舗数24店程)が結成された時期は昭和48年(1973)であった。、、、、、店は開いている、商店会の街路灯もある、しかし右を向いても左を見ても、人がいない、車も通らない、ここはゴーストタウンか?
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・・・・・・・・・・ よそ者の私は、右に曲がって、左に折れて、何かないかとキョロキョロし、住所の「稲毛区宮野木町」を見ても「ここは何処? 私はいったい何処へ行く?」、、、、、よそ者は京葉道路の脇に出た。
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・・・・・・・・・・ 『人がいた! 学童の安全を見守るおじさんだ!』 チョイト聞いてみる、「この辺に神社とかお寺とか教会など、何か古いものはありませんか?」 応えは、京葉道路を横切って反対側に、小さな神社と寺があるそうだ。 「でも、道は迷路のように曲がっているから、近くの人に聞いてくれ!」と、言われた。、、、、よし! 行ってみよう!
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・・・・・・・・・・ 歩道橋を渡ると、道は狭く、畑も見える、スイセンが咲いている。
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・・・・・・・・・・・・・あった、宮野木大神宮! なんと、小さな大神宮!、、、、、社殿・社務所なぞ何もない、住宅のチョイト広めの駐車場程の境内に、近くにあった祠を集めてきたような神社である。 石祠が数基並んでいる、正面中央に天御中主尊(古事記では、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神といわれている)の祠が祀られていた。
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・・・・・・・・・・ 大神宮の近くに、真言宗豊山派の地蔵院があった。、、、、、山門はない、境内正面に鉄筋コンクリート造の本堂がデンと構え、左側に大師堂・供養塔がある。 右には町内会館と民家(?)があり、本堂のすぐ前には洗濯物が干されていた。
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・・・・・・・・・・・・・・地蔵院の南隣に愛宕神社があった。 こちらも、小さな神社だが由緒書があり、それによると、「当神社の詳しい由緒は明らかではありませんが、京都の愛宕山頂に鎮座する愛宕神社を本宮とし,火の神迦具土神を祀る神社であると伝えられています。愛宕山は,比叡山と東西相対してそびえ,その雷雲がしばしば出現する方角であるために,霊威を備え且火の神という性格から火難除けの御信徳を有すると考えられ人々に篤く崇敬されています。」、、、、、村のはずれの守り神か、ナントナク古そうだ。
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・・・・・・・・・・・・・・愛宕神社から、チョビット歩くとバスを運行している平和交通本社があった。 「あっ、ここが稲毛駅行のバスを経営している会社か。」と、会社の建物を見ながらのんびり歩いていると、突然、「稲毛行発車します、急いでください。」と大きなマイク音が聞こえた。 咄嗟に自分の周りを見ても誰もいない、バスが停まっているだけ、これは私に向かって言っているのだ! 乗らないといけないと思い、慌てて飛び乗る。 運転手は即発車する。 もう少し歩きたかった。 なんだか自分の意志に反し、乗せられ稲毛駅まで護送された。
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・・・・・・・・・・ チョイトもの足りないミニ散歩でした。

2018年3月11日 (日)

高砂~亀有

京成本線高砂駅から、途中、中川大橋を渡り常磐線亀有駅までの散歩です。



京成高砂駅 ・・・・・・・・ 日曜日、通勤客のいない静かな駅から散歩をはじめる
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・・・・・・・・・・ さて、駅前に出たが、どちらに行こうか、行くえ定まらず。 とりあえず、駅前の裏道を歩きはじめる。 何となく北に向かっているようだ。
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祟福寺・・・・・・・・・ 曹洞宗の寺院:祟福寺の門前に出てきた。 「これもなにかの縁、手を合わせて行くか」と、立ち寄ってみた。、、、、、徳川家康が江戸幕府を開く前の慶長5年(1600)に、香山泰厳和尚が日本橋浜町に祟福庵を建立した。 慶長18年(1613)、前橋城主酒井雅楽守忠世が帰依・開基となり、国府台の総寧寺を本寺とし、名前を祟福寺(そうふくじ)とした。、、、明暦3年(1657)、明暦の大火にて堂宇を焼失し、浅草松清町(台東区)に移転する。 以来酒井家の菩提寺となる。、、、、、大正12年(1923)の関東大震災で再び焼け、昭和3年(1928)現在地(葛飾区高砂7)に移り、同8年本堂・山門・鐘楼等を再建した。
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・・・・・・・・・・ 酒井雅樂頭歴代の墓所は前橋市:龍海院にあるが、ここ祟福寺には酒井雅樂頭家伊勢崎藩酒井家の墓所となっている。 墓も浅草から移転してきた。
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源照寺・・・・・・・・・・ 祟福寺の隣りに地続きで源照寺がある。、、、、、浄土宗の源照寺は、寛永3年(1626)宗円和尚が浅草蔵前鳥越付近(余談:現在の我が家の近くかも?)に創建した。 明暦の大火に類焼後、山谷新鳥越(台東区山谷2丁目)に移転したといわれている。 関東大震災で再び焼失し、昭和3年現在地に移転した。、、、、ここらの移転の経緯、時期、場所は祟福寺とソックリである。、、、、ちなみに、今日は寄らなかったが、祟福寺の隣りにもう一寺:大秀寺があり、こちらも明暦の大火以降の移転については、時期、場所などソックリ。
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・・・・・・・・・・ 墓地には、山田流琴曲の祖山田検校(1757~1817)の墓があった。、、、、この墓も浅草から移転してきたそうだ。
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中川大橋 ・・・・・・・・・ 名のごとく中川に架かる橋で、国道6号(水戸街道)を通し、葛飾区の青戸と新宿を結ぶ。 昭和10年(1935)に旧橋は架けられたが、平成元年(1989)に長さ134m、幅員31mの現在の橋に架け替えられた。、、、、、細身でスタイルのいい橋
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宝持院・・・・・・・・・ 中川大橋を渡り、青戸八丁目交差点で環七通りを横断する。 青戸小学校への通学路か(?)、裏通りに真言宗豊山派の宝持院がある。 宝持院は、平安末期天養2年(1145)に僧弁証の開山と言われ、かつては門末30余ヶ寺を有した古刹といわれている。 なお、30余ヶ寺の内、葛飾区には12ヵ寺が現存しているそうだ。
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・・・・・・・・・・ 境内には、長崎奉行松浦河内守信正の墓がある。、、、、松浦信正は、大岡越前、遠山金四郎などと、同じように名奉行であった。 いくつかの名裁きの話も残っているそうだ、私の知らなかった話もある。 (勉強不足でした) 
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亀有駅・・・・・・・・・・・裏道を歩き、亀有駅に到着
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●・・・・・・・・・・・春が来ました
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2018年3月10日 (土)

日本橋

東京駅“大丸”まで買い物に行く用事ができ、我が家(浅草橋)から東京駅まで歩いて40分程なので、たまには、散歩を兼ねじっくり日本橋周辺を歩いてみた!



日本橋・・・・・・・・ 明治44年(1911)完成の石造2連アーチ橋は国の重要文化財。、、、、日本人なら誰もが知る、華のお江戸の「日本橋」であるが、修学旅行の生徒が橋を見学する姿は、とんと見た記憶が無い。 東京に住む我が家の住人は、高知の「はりまや橋」、京都の「五条大橋」、新潟の「萬代橋」など、修学旅行で行ったのだがね!
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・・・・・・・・・・ 道路元標、、、、、、橋の中央ド真ん中に、国道1号・20号・4号・6号・14号の起点となる道路元標が埋め込まれている。 日本橋北詰には、その道路元標の複製があり、若いカップル、親子が立ち止まって、話題は『自分の家までここから何キロ?』

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・・・・・・・・・・ 日本橋魚河岸跡、、、、、大正12年(1923)の関東大震災で被災するまで、日本橋の東側河岸には、お江戸の台所をまかなう「魚河岸」があった。 その記念碑が北詰にある。 案内板には当時の写真も載っていた。 日本橋も、夏場はさぞ臭かったことであろう。
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・・・・・・・・・・ 北詰の道路元標から川沿いにチョイト歩くと、何の変哲もない「日本橋ビル」がある。 この鉄筋コンクリート5階建てのビルは昭和30年(1955)に竣工した、この周辺では比較的古いビルである。、、、、、再開発で騒がしい日本橋周辺では、古いビルが徐々に消えて行く、チョイト寂しいね。
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西河岸橋・・・・・・・・・ 日本橋の上流側(西側)に架かる西河岸橋(にしがしばし)。 橋の上は、通称「日銀通り」 と呼ばれる通りである。 この橋の南側(現:日本橋1丁目、八重洲1丁目側)が東京市日本橋区西河岸町であったことに由来する。 初代の橋は、明治24年(1891)に架けられ、現在の橋は震災後、大正14年(1925)に架けられた。 平成3年(1991)には、改修工事が行われた。
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・・・・・・・・・・・・・西河岸橋から日本橋を見ると、首都高が頭上を走り、景観を壊している。
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一石橋・・・・・・・・・ 西河岸橋の上流側に一石橋(いっこくばし)が架かる。 橋上には、外堀通りがとおり、橋の下には日本橋川が流れる。 現橋は、平成12年(2000)に改修し、架け替えられた。、、、、、旧橋は、大正11年(1922)、鉄筋コンクリート、花崗岩張りアーチ橋として架橋された。 その親柱が1本だけ残されている。、、、、、、橋名の由来は、橋の両岸に「後藤家」があり、後藤(五斗)×2=一石という洒落らしい。 粋な命名だ!、、、、、一石橋も首都高の下で薄暗い
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・・・・・・・・・・ 一石橋の親柱の横に「一石橋迷子しらせ石標」がある。、、、、石標は安政4年(1857)に建立された。 江戸時代、この辺りは繁華街で迷子が出た場合は、石標に迷子や尋ね人の特徴を書いて貼った告知板である。、、、、時代は変わるが、終戦直後、東京駅丸の内側駅前広場の交番に戦地からの引揚者を探す尋ね人の紙が貼られたことを思い出した。、、、、、なお石標の下部(〇印)に、明治初期に“不”型の几号水準点が彫り足されている。
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呉服橋交差点・・・・・・・・・ 一石橋の東京駅側の交差点。 正確に言うと、国道1号(永代通り)と都道405号(外堀通り)の交差点

・・・・・・・・・・ 交差点の一画、千代田区大手町2丁目では大規模再開発事業がすすめられている。、、、、、交差点角には、かつて大和証券ビル(写真:下)があった。 この跡地に、三菱地所が地上40階/地下5階のビルを建設中。 
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・・・・・・・・・・ 工事現場の後ろに見える、日本ビル(14階建て)、朝日東海ビル(29階建て)も取り壊され、こちらには地上61階/地下5階のビルが建つそうだ。 完成予定は平成39年(2027)。 吾輩は生きているかな?
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・・・・・・・・・・ 呉服橋交差点の東側(みずほ銀行の入っている新呉服橋ビルディング)の片隅に、竹久夢二港屋跡がある。、、、、明治から昭和初期にかけて活躍した美人画家であり詩人:竹久夢二は、この付近に「港屋絵草紙店」 を開き、自らデザインした版画や封筒、カード、絵葉書などを売ったそうだ。、、、、、銀行の前に建つ小さな記念碑である。
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・・・・・・・・・・ 呉服橋交差点の南側、三井住友銀行呉服橋ビルの正面には、旧日本相互銀行本店ビルの鉄骨接合部がオブジェとして残されている。、、、、この地にあった旧日本相互銀行本店ビル(写真:下)は、昭和27年(1952)、建築家:前川国男の設計で建てられた、近代化・工業化したビルであった。 そのビルの鉄骨を記念として残している。
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・・・・・・・・・・ 最後は、呉服橋交差点の西側(千代田区丸の内1)です。 ここには、かつて第一鉄鋼ビルディング第二鉄鋼ビルディングがあった。(写真:小) その跡地に、平成27年(2015)、26階建ての鉄鋼ビルディングが完成した。
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・・・・・・・・・・ この鉄鋼ビルディングの裏側(丸の内トラストタワー側)のビルの谷間に、遠山の金さんがいた北町奉行所の跡がある。 跡と言っても石組みが残っているよと、案内板があるだけ。
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2018年3月 6日 (火)

立会川~西大井

京浜急行「立会川」駅から、西に向かいJR湘南新宿ライン「西大井」駅まで、9千歩の散歩です。



立会川駅 ・・・・・・・・ 明治37年(1904)5月8日に開業した古い駅。 平成2年(1990)頃に高架駅となったが、大型商業施設ができることもなく、町工場の最寄り駅として周辺には下町の雰囲気がいまだに残っている。
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・・・・・・・・・・ 駅から第一京浜国道に抜ける小さな商店街
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立会川・・・・・・・・・ 駅名の由来となる「立会川」は、駅の脇を流れる小さな川である。 立会川は目黒区の碑文谷池付近を水源として、今は暗渠で荏原町駅、西大井駅、大井町駅と流れ下り、南大井の町を流れる処で、暗渠から顔を出す。、、、、平成14年(2002)から、JR東日本は総武快速線が走る総武トンネル(東京~馬喰町)の湧水を東海道線沿いにパイプで運び、月見橋の下流(大井町駅から600m程南の地点)で放流し、水質浄化に取り組んでいる。 川底のゴミも無くなり、綺麗な水が流れている。

・・・・・・・・・・ 立会川駅付近、、、、、以前は黒い水に異臭が漂う川であったが、今はゴミもなく、水も綺麗になった。
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・・・・・・・・・・ 上流では水鳥が遊ぶ川に変わった
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・・・・・・・・・・ 暗渠の出口、湧水の放流地点、、、、後ろは東芝病院
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・・・・・・・・・・ これより上流は暗渠化され、上部は「立会道路」として遊歩道となっている。
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大福生寺・・・・・・・・ 東大井3丁目、小高い処に小さな天台宗の寺院、大福生寺がある。 大福生寺は、宇賀神實海大僧正が目黒不動瀧泉寺を退き、隠居の寺として明治14年(1881)に日本橋蠣殻町に建立し、初代住職となった。 その後、明治25年(1892)に現在地へ移転した。 昭和20年(1945)太平洋戦争で寺を全焼し、昭和25年(1950)本堂復興、昭和58年(1983)護摩堂を建立する。、、、、、建物は戦後の建築で面白くないが、さほど広くない境内だが、いつも綺麗に掃除され心地よい寺だ!
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関道地下道・・・・・・・・東海道線の下を抜け、大井4丁目と南大井5丁目を結ぶ、歩行者専用の「関道地下道」。 昭和42年(1967)の竣工。、、、、、、地上を走る東海道線の踏切をなくすために地下道にしたのであろう? まさに地下にもぐるようなアプローチ。 自転車の人は、チョイと階段を持ち運ぶのが辛いね! 女性は夜道が怖いかも?
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西光寺・・・・・・・・ 関道地下道を抜けた大井4丁目に、浄土真宗本願寺派寺院の西光寺がある。 もとは、麻布善福寺末であった。 弘安9年(1268=鎌倉時代)に開創し、後浄土真宗に改宗した。、、、、、本堂前、コケの生えた桜の古木が、堂々と枝振りを披露してる。
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・・・・・・・・・・ 境内の石像。 最前列の左:明暦元年(1655)の延命地蔵菩薩、右から二番目:阿弥陀如来像を彫った寛文13年(1673)の供養塔、右端は寛文9年(1669)の阿弥陀如来像を彫った舟形の塔。
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伊藤博文別邸跡・・・・・・・・ 池上通りを横断し大井3丁目に入ると、裏通りに「伊藤博文別邸跡」と記した案内板があった。 千円札のお爺さんだ!、、、、、初代内閣総理大臣であった伊藤は、明治40年(1907)、明治天皇から功績に報い、皇居であった建物と移築費として2万1千円が下賜された。 その金で、ここ大井村に5千坪の土地を買い、移築し恩賜館と命名した。 その後、伊藤の家族もこの地に住んだが、伊藤没後は、恩賜館は明治神宮に献納された。 恩賜館は現在の明治記念館である。、、、、敷地は、日本光学などの所有となり、現在は大規模なマンションが建っている。 案内板はその片隅にあった。 
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光学通り・・・・・・・・・「光学通り」とは、大井町駅からニコン(株)の前をとおり西大井まで伸びる通り。 ニコンの旧社名:日本光学工業に由来する。、、、通りの両側に本社・工場などが並び、まさにニコンの門前通りであった。

・・・・・・・・・・ かつて、101号館と呼んでいた昭和8年(1933)竣工の建物などは取り壊され現在マンション工事中。
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・・・・・・・・・・ ニコンの大井製作所。 本社は品川に移転した。
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・・・・・・・・・・ ニコンの前に残っている「元禄八年銘道標」、、、、、大井村の念仏講の人たちが建てた道標。 正面に「南無阿弥陀仏」、右側に「従是奥澤九品佛道」、左側に「従是池上本門寺道」と彫られている。 元禄8年(1695)建立。
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伊藤博文墓所・・・・・・・・ 光学通りを直進し、湘南新宿ラインの踏切を越えた処に伊藤博文の墓所がある。 しかり、柵で囲われ、墓守か(?)、守ている人もいるようだ。 柵の隙間からパチリ!
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西大井駅・・・・・・・・ 駅は、通称「品鶴線(ひんかくせん)」(愛称:湘南新宿ライン)と呼ばれる、東海道本線の支線上にあり。 路線は昭和4年(1929)に貨物線として開設した。 昭和39年(1964)には頭上に新幹線が高架で走り、昭和55年(1980)には横須賀線が走るようになったが、当時、駅はまだ開業しておらず、「西大井駅」の開業は昭和61年(1986)4月2日である。、、、、、私の住む浅草橋駅よりも大きく立派な駅、しかも駅前にはマクドナルドもある。(浅草橋にはあったが、数年前に撤退した) だけど、乗降客数は少なく、都区内の駅ではワーストテンに入るそうだ。
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2018年3月 3日 (土)

港区芝周辺

都営浅草線大門駅で下車し、芝の町を歩き慶応大学に寄って三田駅まで、1万歩の散歩です。



大門駅・・・・・・・・ 昭和39年(1964)10月1日、都営1号線(現:浅草線)の駅として開業。 平成12年(2000)12月12日には、都営大江戸線の大門駅が開業し、乗り換え駅となる。 両線は大門交差点の真下で直交している。 浅草線は地下1階、乗換通路は地下3階、大江戸線は地下5階、、、私が勤務していたゼネコンが施工した駅である。、、、、一日に利用する乗降客は約22万人の大きな駅になった。
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芝パークビル・・・・・・・・ 大門駅から芝公園方向に裏道を歩いていると、正面に巨大な壁が立ちふさがり、道は左右に折れることになる。 圧迫される感じだ!
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・・・・・・・・・・ 地上14階/地下2階、鉄骨鉄筋コンクリート造、延べ床面積 約10万平米、設計:秀和、施工:大林組・熊谷組・間組、昭和57年(1982)に完成した「秀和芝パークビル」(当時)である。 全長140m、奥行き50mの威容から、「軍艦ビル」と呼ばれた。、、、、平成17年(2005)に事業主であった秀和の経営不振から、外資系の不動産ファンドに所有権が移り、翌年には1,430億円で売られた。 その後転売が続き、ビルの名称も「芝パークビル」となっている。、、、、、築後30数年経過したが、周囲には空き地も無く、空間の余裕がないため、建物の大きさが目立ち、威圧される。 
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将監橋・・・・・・・・ 芝大門二丁目と芝二丁目を結ぶ、古川に架かる橋が将監橋(しょうげんばし)。 橋の歴史は古く、江戸時代からあったらしい。 近くには岡田将監(おかだしょうげん、後の勘定奉行)の屋敷があった。 延宝3年(1675)の拡幅工事も岡田将監が手掛けたといわれている。、、、、現在の橋は、昭和43年(1968)7月に完成した、長さ23.4m、幅17mの鋼橋である。、、、、ここでも、頭上を首都高が走り、橋はチョイト薄暗く陰気だ。
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瘡守稲荷大明神・・・・・・・・ 将監橋の北詰に祀られている瘡守(かさもり)稲荷大明神。そして、稲荷の脇には、観音菩薩と不動明王の二尊が仲よく並ぶ納経石塔が建っている。
・・・・・・・・・・ はて、なぜここに“瘡守稲荷”が?、、、、、“瘡”の字は皮膚のできものや性病の梅毒を指す、また、“稲荷”は江戸時代に商家や花街で盛んに信仰された。 つまり、私の推測では、芝大門の近くには戦後まで花街があり、この地で流行した伝染病から身を守るため誰かさんが祀った稲荷さんと思われる。
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・・・・・・・・・・ なぜここに納経石塔が建っているのだ?、、、、、、納経石塔の裏に、元禄6年(1693)に大蔵経を納める経蔵の蔵司の居処を増上寺の上人が定め、その地を譲るために蔵司の発願で翌年この石塔を建てたと記されている。、、、、、これより私の推測で、観音菩薩も不動明王も、へんな伝染病にうつらないように稲荷の軒先で身を守っているのかも?
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東京グランドホテル・・・・・・・・・ 芝二丁目にあるホテルが、なぜブログに?、、、、、私、雅万歩が個人的に思い出深い建物、、、、昭和48年頃、私はゼネコンに勤め、コンピュータ関連のソフトを開発を手掛けていた。 当時の開発テーマは『現場の工程管理』で、このホテルの現場をモデルとして開発し、当時、20代の私が、ここの現場に出入りしていたことが思い出される。 当時の建築現場では、まだ珍しかったタワークレーンを使用した現場でもある。
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芝園橋・・・・・・・・ 芝園橋は将監橋の上流側に架かる橋。 下に流れるのは古川。 橋上には日比谷通りが走る。、、、、、現橋は昭和60年(1985)に竣工。、、、、この橋も思い出のある橋で、昭和30年代に、ここ日比谷通りには都電2系統(三田~曙町)が走っていた。 私の中学校(指ヶ谷町停留場)と芝園橋停留場は都電で一本。 英語の出来が悪い私は、授業が終わると芝園橋まで英語を習いに行ったものだ。  おかげで、まあまあの成績を維持することができた。 帰りも都電で浅草橋まで、一生懸命、よく通ったね!
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三田春日神社・・・・・・・・・ 慶應義塾大学東門の隣り、高台に鎮座する春日神社。 神社は、武蔵国国司藤原正房卿が天徳2年(958)に任国の際、藤原氏ならびに皇室外戚の氏神なる大和国奈良春日大社の神霊を目黒区三田(現:目黒春日神社)に勧請、天文年間(1533-1555)当地へ遷座した。、、、、、残念であるが、旧社殿は戦禍により焼失したそうだ。 現在は鉄筋コンクリート造、春日造りの社殿である。
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慶應義塾大学・・・・・・・ 久しぶりに、慶應義塾の三田キャンパスに寄ってみた。 残念なことに重要文化財の図書館(旧館)は只今修復工事中。

・・・・・・・・・・ 東館、、、、、桜田通りに面し、1階の通り抜けから入り、山を上るように造られている。 平成12年(2000)竣工、9階建ての研究施設。 施工は銭高組。
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・・・・・・・・・・ 幻の門、、、、、、、旧島原藩邸黒門を改築して大正2年(1913)に竣工した旧東門。 東門は、♪♪幻の門ここすぎて 叡智の丘にわれら立つ ・・・・♪♪にはじまるカレッジソング「幻の門」(堀口大学作詞、山田耕作作曲)に由来する。 平成12年(2000)に現在の場所に移築された。
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・・・・・・・・・・ 塾監局、、、、、設計は曾禰中條建築事務所。 大正15年(1926)9月竣工、鉄筋コンクリート造地階共4階建、延2,450㎡、慶應義塾の事務部門が使用している。
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・・・・・・・・・・ 図書館旧館、、、、、、明治40年(1907)の慶應義塾創立50周年記念事業として建設されたもので、設計はジョサイア・コンドルに建築を学んだ曾禰達蔵とその後輩の中條精一郎が開設した曾禰中條建築事務所である。 レンガ造2階建塔屋付の建物で、赤レンガと花崗岩、テラコッタによる華やかな外観となっているはずだが、今日は工事中。 足場と仮囲いに阻まれ姿は見えず、ガッカリ。
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・・・・・・・・・・ 第一校舎、、、、、、こちらも曾禰中條建築事務所が設計した、昭和12年(1937)竣工の鉄筋コンクリート造4階建て校舎。 スクラッチタイル張りの、シンプルな建物である。、、、、、チョイと内部も拝見!
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・・・・・・・・・・ 三田演説館、、、、、、、明治8年(1875)5月1日、日本最初の演説会堂として建造された演説館。 創建当初は現在の図書館旧館の近くに位置していたが、大正13年(1924)に現在地へ移築した。 木造瓦葺、洋風、なまこ壁の建物は、昭和42年(1967)に国の重要文化財に指定された。
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三田駅・・・・・・・・ 慶應義塾大学から「慶応仲通り商店街」を抜けて三田駅に出てきた。 ここから、我が家(浅草橋)までは都営浅草線で乗り換えなしの20分。 便利だ!、、、、、現:浅草線の三田駅は昭和43年(1968)6月21日に開業した。 その後、昭和48年(1973)11月27日に現:三田線の三田駅が開業し、乗り換えできるようになる。、、、、、浅草線は島式ホーム1面2線を有する地下駅
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2018年3月 2日 (金)

浅草橋~錦糸町

平成24年(2012)秋、私の頭部に悪性腫瘍ができ、外科手術により除去。 以後、半年毎にCT検査などで経過観察が行われてきた。 5年以上経過し本日、担当医から「もう、いいでしょう、安心してください。 こちら(病院)も、今日が最後でいいです。」と、お別れの言葉を頂戴した。、、、、最初の担当医から三人程替わったが、どの先生も皆、美人の女医さんで、『なんて幸運な男だ、素晴らしい病院だ! 毎回、診察を受けるのが楽しみ、ワクワク!』、の気持ちで通院してきた。、、、、そして、♪♪今日でお別れね もう逢えない 涙を見せずにいたいけれど 信じられないの そのひとこと あの甘い言葉を ささやいたあなたが 突然さようなら 言えるなんて 今日でお別れ♪♪、てな気持ちで、先生にお礼を言って病院をあとにした。

今日は、我が家(浅草橋)から蔵前橋を渡り、病院へ行き。 その後は、“本所”を抜けて錦糸町駅まで歩いてきた。



第六天榊神社・・・・・・・・ 蔵前署(台東区蔵前1)の南側に鎮座する榊神社。 病院の検査結果に異状が無いことを願い、朝、立ち寄り、手を合わせる。、、、、賽銭をあげようと財布をだしたが、私の前に参拝していた女の娘に見とれ、忘れた! 失敗!
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蔵前橋・・・・・・・・ 晴れた日は気持ち良い隅田川。 ハトが一羽、撮影の邪魔をする
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同愛記念病院・・・・・・・・ 墨田区の基幹病院。 通院も今日で最後となった。 『5年間、ありがとう。』と言っても、明日にも急患として来るかも? その折にはよろしく!
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旧厩橋交番 ・・・・・・・・ 墨田区本所の天理教教会前にある、昭和レトロな懐かしの交番。 昭和3年(1928)に建てられ、平成19年(2007)からは厩橋地域安全センターとなっている。 交番の頃は、入口の上にいかめしい警視庁のマークが飾られ、軒下には赤い丸いライトが灯り、警棒を持った巡査が立っていたことであろう。、、、、、交番・医者・病院などにあった、赤い丸いライトもいつの間にか見ることが無くなったね!
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カトリック本所教会・・・・・・・・ 私の好きな教会の一つ、今日も近くに来たので寄ってみた。、、、、、明治12年(1879)現在地(墨田区石原4)にて教会開設が行われ、その後、教会は震災・戦災で、建物を焼失。 昭和26年(1951)、現在の木造、三廊式パルテノン様式の聖堂が再建された。 白く塗られ大理石造りのような内部は祈りの場として落ち着いた雰囲気を感じさせる。、、、、今年で創立139年の下町の教会。
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殉職慰霊碑・・・・・・・・ カトリック本所教会の南側、「NTT東日本石原ビル」の前に一本の慰霊碑がある。 この慰霊碑は、昭和20年(1945)3月10日未明の大空襲により当地一帯が焼野原と化した際、この地にあった電話局も全焼し前夜から勤務していた15歳を最年少とする電話交換手28名及び男子職員3名が最後まで職場を守り殉職した。 職員の霊と、関東大震災において殉職した男子職員2名の霊を慰めるとともに、二度とこのような悲劇の起こらないことを祈願して昭和33年(1958)に建立された。 慰霊碑手前には吉川英治の自筆による碑文もある。、、、、、墨田区本所の付近一帯は震災・空襲ともに、最も激しく被災した処で、人的被害も相当なものであったそうだ。 私が生まれる前年であった。
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スカイツリー・・・・・・・・ 錦糸町の町から望む
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錦糸町駅・・・・・・・・ 明治27年(1894)12月9日、総武鉄道の本所駅として開業。明治40年(1907)に国有化され、大正4年(1915)には錦糸町駅に改称した。、、、、、北口周辺は1980年代以降の再開発で、「アルカタワーズ」などの高層ビルもたち、南口に劣らぬ街に変貌した。、、、、、私の知る、再開発前の錦糸町駅北口付近は一帯が国鉄の客車区であった。 記憶定かでないが、駄菓子問屋の一画もあったと思った。 ナント、50年前の話だ!
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2018年2月28日 (水)

旧東京科学博物館本館

今朝、上野に行く用事があり、帰りに国立科学博物館に立ち寄ってきた。 ナント、65歳以上は入館料無料で、さっそく入館してきた。 一時、“科学少年”に戻って時間を忘れてきた!


国立科学博物館・・・・・・・・ 明治10年(1877)に教育博物館として開館したが、大正12年(1923)の関東大震災で被災してしまった。 その後、昭和5年(1930)に東京科学博物館本館として、全面にスクラッチタイルを張り、車寄せのある正面玄関を中心に左右に翼を広げた外観の、現在の建物が建てられた。 翌昭和6年11月、東京科学博物館としてオープンする。 太平洋戦争末期の昭和20年(1945)5月には、高射第一師団司令部が置かれた。 戦後は、昭和20年12月より一部展示公開が再開された。 昭和24年(1949)、法律により国立科学博物館となる。、、、、、旧東京科学博物館本館(現:国立科学博物館日本館)は関東大震災の復興事業の一環として竣工した。 設計は文部省の技師糟谷謙三が担当。 鉄筋コンクリート造による地上3階/地下1階建である。 均整のとれた立面構成とともに、中央広間・貴賓室・館長室・講堂など室内意匠のレベルも高く、震災復興期における文部省営繕の設計水準を示す建築作品として評価され、現在は国の重要文化財に指定されている。


・・・・・・・・・・ 両翼を広げた国立科学博物館日本館。、、、、現在は正面玄関は一般に使用されておらず、車寄せ右側の地下から入館する。
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・・・・・・・・・・ スクラッチタイルが時代を感じさせる
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・・・・・・・・・・ 両翼の先の部分、、、、、丸みがある、内部は階段がある
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・・・・・・・・・・ 中庭に面した部分
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・・・・・・・・・・ 1階玄関・中央ホール
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・・・・・・・・・・ 2階から見る中央ホール、、、、、科学博物館と云うより美術館と云う感じ!
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・・・・・・・・・・ 各展示室には、判りやすく収蔵品が展示されている、、、、修学旅行の生徒も多く、何となく自分の小学生の頃を思い出した。 あの頃(60年前)は、博物館にきて恐竜の骨を見て驚き、アンモナイトを見て騒いだ、フーコーの振り子はサッパリ理解できなかった。
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・・・・・・・・・・ 両翼端部にある階段、、、、、最上部のステンドグラスも綺麗だ!
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・・・・・・・・・・ 地球館の裏側に展示しているラムダロケット用ランチャーと、入口脇に展示しているD51-231機関車
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・・・・・・・・・・ 見ごたえがあり、さらに無料(65歳以上)とは、嬉しいかぎり。 今日は、全てを見ることができなかったので、また来よう。、、、、久しぶりの科学博物館見学であった。

2018年2月21日 (水)

哲学堂

昨日は、サーバーがパンク状態となり「雅万歩」のブログ・写真を整理し、当分は安定して利用できる容量が確保できた。 一安心。、、、整理中に、「野方の給水塔」の写真が目にとまり久しぶりに行ってみることにした。、、、大江戸線落合南長崎駅から、江古田の給水塔を見て、哲学堂公園に立ち寄り、西武新宿線新井薬師前駅まで、1万歩の散歩です。




落合南長崎駅・・・・・・・・・「新目白通り」の地下に造られた島式ホーム1面2線の地下駅。 駅名のごとく、新宿区西落合と豊島区南長崎にある。 駅は平成9年12月19日、都営12号線(現:大江戸線)の駅として開業。 、、、、、建設時の仮駅名は「南長崎」(豊島区の地名)だったが、新宿区住民の要望で地名:落合(新宿区)を足して、「落合南長崎」として両区の手打ちとなったそうだ。
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自性院・・・・・・・・ 新青梅街道を落合南長崎駅から150m程西へ行くと、門柱の上に招き猫がいる真言宗豊山派の自性院。 弘法大師空海が日光山に参詣の途中で観音を供養したのが自性院の草創といわれている。、、、、、江古田ヶ原の戦(1469~1486)で、道に迷った大田道灌を寺に案内して危機を救い、戦いに大勝利をもたらした猫を供養して建てられたという「道灌招ぎ猫」と、その後江戸中期にすし職人が、ある貞女の誉れを後世に伝えたいと奉納した「猫面地蔵尊」の2体が境内の猫地蔵堂に祀られている。 節分の日だけに開帳されるそうだ。
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・・・・・・・・・・ 猫地蔵堂の内部をチョイト拝見。 秘仏は赤漆で塗られた厨子の中か? 周りにはネコ・グッズがいっぱい。
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野方給水塔・・・・・・・・・ 東京23区北西部への配水を目的として、現在の江古田1丁目に、昭和3年(1928)に建設された。高さ34mの鉄筋コンクリート造構造物で、東側に階段室、頂部に換気塔を付け、水槽周壁上部にはアーチ形窓を配する。壁体内の漏水防止用鋼板に初期の溶接技術を用い、ドーム付円筒形水道塔としても最初期の事例である。、、、、国の登録有形文化財

・・・・・・・・・・ 昭和47年(1972)に給水所としては廃止され、給水塔周囲の跡地は中野区立「みずのとう公園」と「みずのとう幼稚園」になった。、、、、給水塔の正面に幼稚園があり、正面からの全景は撮影できない
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・・・・・・・・・・ 幼稚園越しに正面上部をパチリ! 空襲時の弾丸の傷跡が残されているのだが、全体的に劣化し、どれが弾丸の傷跡か?
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・・・・・・・・・・ 公園から、給水塔の後ろ姿をパチリ! 公園の地下に災害対策用の給水槽が設置され、常に新鮮な飲料水100m3が用意されている。 
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星光山蓮華寺・・・・・・・・・ 野方給水塔の西側に日蓮宗の蓮華寺がある。 創建年代不詳であるが、室町時代(南北朝時代)に橘樹郡星川村(横浜市保土ヶ谷区星川)に開山したと伝えられ、その後、江戸時代に現在地へ移転した。、、、、、中野区には日蓮宗の蓮華寺が二寺ある。 一つは、ここ中野区江古田の星光山蓮華寺。 もう一つ、中野区大和町の泉光山蓮華寺 。 ご丁寧に、山号まで似ている、“星”と“泉”の違いだけ!
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・・・・・・・・・・ 境内には東洋大学学祖であり、哲学堂を創った井上円了の墓所がある。、、、、判じ物みたいな墓石で、「井上」の“井”の字の上に“円”形の石を置いて、“井の上円りょう”と言っているようだ。 駄ジャレか? 凡人には判らぬ哲学か?
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・・・・・・・・・・ 墓地の中に、将棋棋士で日本将棋連盟会長を務めた、永世棋聖(九段):米永邦雄(1943~2012)の墓所もあった。、、、、まだ新しい石で作られた駒の形の墓誌が、輝いている。
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哲学堂公園・・・・・・・・ 井上円了の墓に手を合わせ、このまま立ち去るわけにはいかず、蓮華寺とは新青梅街道を挟み、向かい側にある哲学堂公園に寄ってきた。、、、、、哲学堂公園は、明治37年(1904)に哲学者で東洋大学の創立者:故井上円了によって精神修養の場として創設された、哲学世界を視覚的に表現し、哲学や社会教育の場として私財を投じて整備された全国に例を見ない個性的な公園。 昭和50年(1975)に中野区立公園となり、古建築物の修復、整備を重ね、また花の名所としても親しまれる公園となった。、、、、、庭内に「七十七場」という、「真理の追究」のポイントを設け哲学体験できる庭園となっているそうだ。 哲学の“て”の字も知らぬ私には何のことだかサッパリ判らん。 正直に言わせてもらうと、アッチ・コッチ・ドッチ・ソッチに立てられた名称・解説の立札が、庭園の景観を壊し邪魔に感じた。
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妙正寺川調節池・・・・・・・・ 哲学堂公園の南を流れる妙正寺川は、杉並区の妙正寺池を水源に持ち、途中で江古田川を合わせ、新宿区内で神田川(高田馬場分水路)に注ぐ、延長9.7kmを有する一級河川である。 この川は、市街化の進展に伴い、流域の保水能力が低下し水害の危険性が高まり、こうした状況に対応するため、都は1時間あたり50ミリ規模の降雨に対応する護岸や地下調節池などを整備している。 その調節池が哲学堂公園前に2か所ある。 新宿区側に位置する「妙正寺川第一調節池」と、中野区側に位置する「妙正寺川第二調節池」である。 両調節池は区境にて別けられたと思われる調節池で、第一と第二の調節池は接して造られている。、、、、、調節池とは、河川の水が増水したときに、水を調節池に流入させ一時的に貯留する施設。

・・・・・・・・・・ 第一、第二とも、妙正寺川から増水した水を呑込む口が開いている。
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・・・・・・・・・・ 第一調節池はUR賃貸住宅の地下にも貯水するように造られていた。 地下は駐車場のように造られているが、もちろん車など一切の物が置かれていない。
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・・・・・・・・・・ 第二調節池は、公園下に地下23mまで掘り下げた貯水池が造られて、100,000m3の貯水能力があるそうだ。
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新井薬師前駅・・・・・・・・・ 昭和2年(1927)に開業した駅で、その名の通り新井薬師の最寄り駅である。 現在は相対式ホーム2面2線であるが、中井~野方間の連続立体交差事業により、平成32年(2020)度の完成を目指し、島式ホーム1面2線の地下駅となる予定である。
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2018年2月18日 (日)

梅島~高野

♪♪ 北風吹きぬく 寒い朝も こころひとつで暖かくなる ♪♪、、、、、今朝の寒さは、チョイと厳しく、吉永小百合の歌のようにはいかない、懐にカイロを入れてくれば良かった。 今日の散歩は、東武伊勢崎線梅島駅から、「関原」、「興野」の裏道を抜け、日暮里・舎人ライナー高野駅まで、1万歩です。



梅島駅・・・・・・・・ 伊勢崎線の北千住~久喜間が開通した明治32年(1899)から、25年経過した大正13年(1924)10月1日に途中駅である小菅駅、五反野駅、梅島駅が開業した。、、、、、梅島駅は昭和43年(1968)に高架化されたが、駅用地の幅が狭く一般の島式ホームが造れず、ホーム中央に階段・エスカレータ・エレベータを配置し、そこから北千住寄りに上りホーム、西新井寄りに下りホームが一直線に配置されている。 通過する急行列車などは、緩行線の外側を通過する。

・・・・・・・・・・ ホーム中央付近から西新井方を見ると、長いホームが伸びている
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・・・・・・・・・・ 同じ位置で振り返り、北千住方を眺めると、階段・エレベータなどがあり、その先に上り電車の到着を待つ乗客の姿が小さく見える。
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・・・・・・・・・・ 旧日光街道に面して、高架下に梅島駅出入口がある
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駅前の裏道・・・・・・・・・今日の散歩の“手始め”に、駅前(足立区梅田8)の裏道を歩いてみた。、、、、、私好みの裏道だ!

・・・・・・・・・・ 通り抜けられるか? 行き止まりか? まずは足を踏み入れる。
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・・・・・・・・・・ お~~、行けそうだ、雰囲気もイイネ!
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・・・・・・・・・・ 何だか、車も通れる裏道になった
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・・・・・・・・・・ アリャ!、西新井に抜ける「亀田トレイン通り 」に出てしまった。、、、、チョイと期待ハズレ!
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静かな町・・・・・・・・・「4℃、風速3m/s」、寒いのか? 公園に子供がいない。、、、、「午前9時半」、まだ早朝なのか? 商店街はシャッターが下りている。
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関原の裏道・・・・・・・・ 店の開いていない商店街から裏道に入ってみた。

・・・・・・・・・・・・・・この道を行ってみよう!
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・・・・・・・・・・ 塀に囲まれた痴漢好みの一本道。 私も襲われないように、気を引き締めて、ベルトを締めて!
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・・・・・・・・・・ 道は曲がりくねり、車も入れない細い道。
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・・・・・・・・・・・・・出た処は、西新井署の斜め前
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・・・・・・・・・・ 車の通る表通りは面白くないので、西新井署の前から、再び裏通りへ入る。、、、、、この付近、アパートが多い
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・・・・・・・・・・ キョロキョロして歩いていると、突然、お巡りさんが自転車で出てきた。 ヤバイ、咄嗟に身構えたが、私の脇を通過。 世の中、私より悪い奴がウヨウヨいるので、お巡りさんも忙しい、雑魚は相手にせず!
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・・・・・・・・・・ 右に入るか、左へ行くか? 心も迷う、迷い径。 迷ったときの神頼み。 女神を探すがいない。 右前方に老婆を発見、進路は左にとる。
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・・・・・・・・・・ この付近、建設関係の仕事に携わる人が多いようだ。 住宅の玄関先に足場用の資材が整理されたている。 若き頃、現場にいたことを思い出し、親しみを感じる光景だ。
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・・・・・・・・・・ 出てきた処は、尾竹橋通り「関原三丁目交差点
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本木のスーパー・・・・・・・・ 尾竹橋通りを横断し本木の町に入る。 ここでも、裏通りを探索。、、、、、こんな処に? なぜ、大型トラックが入れないような、裏通りの奥にスーパーがあるのか? 立地としては、けして良いとは言えないと思うが、地元に愛されているスーパーなのか?
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興野の町・・・・・・・・ この町も裏道は曲がりくねった細い道である。 所々に建物を取り壊した跡地があるが道路が狭いためか、マンションを建てるなど再利用は進んでいないようだ。 でも、いずれ時間が解決するであろう。
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興野の庚申塔・・・・・・・・ 足立区興野2の町角に3基並んだ石造物がある。 うち、右側は寛文10年(1670)、中央は正徳4年(1714)に造立された庚申塔である。、、、、庚申信仰も時代と共に廃れ、今は地元の人が細々と守り祀っているのだと思う。 いずれ守る人がいなくなるだろうが、石仏は残して欲しいね。
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高野駅・・・・・・・・・ 日暮里・舎人ライナーの高野(こうや)駅は、平成20年(2008)3月30日に開業した。 今年がチョウド10年目。、、、、「高野」の地名は現存しないが、江戸時代に登場した足立郡高野村が基であり、昭和51年(1976)までは「足立区高野町」として存在していた。 ちなみに、現在の高野駅は足立区扇2丁目に在る。
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