台東区

2021年2月25日 (木)

ラブホテル街の神社

我が居住地の台東区役所へ所用で行かねばならず、今日の散歩は浅草橋の我が家から、上野駅前の区役所に寄って、鶯谷を通り日暮里駅まで歩いてきた。 1万1千歩


● 我が家(浅草橋)から、上野の台東区役所まで、気温3度の早朝の町を歩いて行く・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・JR浅草橋駅の北側で生まれ育って75年、いつの間にか周囲にはマンションが並び、知らない人が増えてきた。

2102250733100


・・・・・・・・・・・・浅草橋5丁目に「都立忍岡高等学校」がある。 明治36年(1903)に、私立日本女子美術学校として芝公園に開校し、その後、本郷千駄木に移り、東京市立第一女子技芸学校となる。 大正時代には池之端に移転。 昭和15年に、現在地に移転。 戦後は都立忍岡高等学校となる。、、、、南隣りの我が母校である「旧柳北小学校」(平成13年閉校)と共に、かつて平戸藩松浦氏の屋敷跡で、約2,600坪の蓬莱園と称する庭園があった。 庭園は関東大震災で壊滅したそうだ。 当時を偲ぶものは、校庭の大イチョウの木だけ、校舎の西隅に蓬莱園跡の石碑がある。

2102250745510


・・・・・・・・・・・・蔵前橋通りを横切って、鳥越の町に入り「おかず横丁」を抜ける。 おかず横丁は、鳥越1丁目にある商店街の通称。 長さは200m程で、惣菜店、日用品などの店舗が並んでいる。 周辺は、戦前から家内制手工業が集積する軽工業の町であったため、多くの女性も働いていたことから、必然的に総菜類を提供する店舗が並ぶ商店街となった。 今では、半数近くの店舗はシャッターを下ろしたようだ。、、、、今朝は、可燃ゴミの収集日、店の前にはゴミ袋が並ぶ。

2102250751220


・・・・・・・・・・・・おかず横丁を抜けると、台東区台東3丁目・4丁目には、「佐竹商店街」が続く。 清洲橋通りと春日通りを結ぶ全長330mの全蓋式アーケードの商店街で日本で二番目に古い商店街といわれている。 明治の初年に秋田藩(藩主:佐竹氏)の屋敷跡に見せ物小屋、寄席、飲食の屋台等が並び、盛り場として賑わい、下町情緒豊かな商店街として発展した。、、、、朝8時、まだ商店街は寝ている。

2102250754560

2102250757400


・・・・・・・・・・・・東上野4丁目、浅草通りに面して洋風建築の「比留間歯科醫院」がある。 昭和4年(1929)に建てられた木造3階建ての可愛らしい歯科医院。 空襲の戦火に巻き込まれずに残った建物。 よくぞ残った!

2102250816340

2102250818160



● 昭和通りを挟み上野駅の正面裏に「台東区役所庁舎」がある。 久米設計の設計により、昭和48年(1973)に竣工した建物。 今年で築48年になる。 数年前に大規模な改修工事が行われ、まだしばらく利用するようだ。 建て替えの話はまだ出ていない!、、、、庁舎の建っているこの地は、かつて臨済宗紫野大徳寺末の円満山〝びっくり下谷の広徳寺〟のあったところだ。 関東大震災で寺域を縮小し、戦後に柳生宗矩・三厳(十兵衛)・宗冬3代、立花宗茂の墓とともに、広徳寺は練馬区桜台へ移転した。

2102250841420

2102250838510



● 区役所庁舎の北側に「旧下谷小学校」の校舎が残っている。、、、、旧下谷小学校校舎は、関東大震災後の昭和3年(1928)に復興小学校の一つとして安藤組(現:安藤ハザマ)の施工で竣工した。 鉄筋コンクリート造3階建て。 この地も広徳寺の跡地である。、、、、下谷小学校は明治19年(1886)創立。 平成2(1990)年4月に清島小学校と合併して上野小学校となり閉校。、、、、ツタに覆われた校舎は区で(倉庫として?)使用しているようだ!

2102250851120

2102250847210



● 上野から鶯谷へ・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・上野駅には出入口が多いが、一番北側のマイナーな出入口が「入谷口」であろう!、、、、ここから入って山手線のホームまでは、構内をタップリ歩かされて10分ぐらい要するかも? 疲れる駅だ!

2102250855470


・・・・・・・・・・・・上野駅入谷口の正面に、鉄道オタクにはピンとくる日本最古の鉄道学校「岩倉高等学校」がある。、、、、「岩倉」の校名は、鉄道創設に貢献した岩倉具視に因んだもので、学校の校章は岩倉家の家紋「笹竜胆」と鉄道のレールを組み合わせたデザインである。、、、、平成26年(2014)から、男女共学となり、鉄道の営業・技術を教える運輸科と普通科の2科となった。 女性運転士・車掌の時代に対応したのかも?

2102250856470


・・・・・・・・・・・・上野郵便局前から、常磐線の線路沿いに狭い道を入っていく、、、、、「新坂跨線橋」という、鶯谷駅南口へ向かう跨線橋の下をくぐり鶯谷駅北口を目指す、、、、、しばらく、ラブホテル街が続き、すれ違う人は皆、下を向いて足早に消える、、、、、鶯谷駅北口前の元三島神社に寄って行くことにした。(ハンチングにマスクした私が、カメラを持ってこんな処を歩いてると、何だか怪しい人物と思われているかも?)

2102250910060

2102250912140
2102250913390

2102250914480

2102250917100

2102250917391

2102250919130


・・・・・・・・・・・・ラブホテル街のド真ん中にある「元三島神社」、、、、元三島神社の社殿はコンクリート造の人口地盤の上に建てられ、一階は居酒屋だ。、、、、境内の由緒書によると、『当社はご祭神は大山祇命、伊佐那岐命を頂き、和足彦命、身島姫命、上津姫命、下津姫命を配祀申すものである。 例大祭はご祭神勧請の時にちなみ5月14、15日とする。 元三島神社は円融天皇御代日本総鎮守の称号を賜って名高い愛媛大三島の元国幣大社大山祇神社を御本社頂くものである。 当社由来の源は弘安4年の役の勇将河野道有大山祇神社に必勝祈願し出陣したる処神恩加護の下武功赫々として帰陣したところ夢中に神のお告げを得て大山祇大明神を武蔵国豊島郡に勧請の願を発し上野山内に分霊を鎮座申上げた事に始まったと伝えられる。』、、、、境内の河津桜が見事に開花し、参拝客がカメラに収めていた。

2102250932590

2102250929180

2102250923180

2102250928390

2102250927240



● 元三島神社をあとにして日暮里駅に向かうと、台東区根岸2丁目に民家と間違えるような寺院「根岸薬師寺」がある。、、、、根岸薬師寺の近辺にはかつて御隠殿址があり、輪王寺宮一品法親王が、公務外時の休息の場として利用する、輪王宮の別邸「御隠殿」があったと云われてる。 輪王寺宮一品法親王は、天台座主に就き、東叡山・日光山・比叡山の、各山主を兼帯したので「三山管領主」とも呼ばれ、第3世から幕末の第15世まで、親王あるいは天皇の猶子(養子)を迎え継承されてきた。 つまりは、天台宗のトップの別邸があった処。、、、、今の世なら、上野の歓楽街、鶯谷のラブホテル街にも近く、絶好の場所だ!

2102250943490

2102250943340



● 薬師寺から日暮里駅まで歩き、電車で帰宅、、、、、家に着いたら、『うがい・手洗い』忘れずに!

2102250959520

2021年2月10日 (水)

前立腺ガン心配なし!

上野の総合病院にて、3カ月ごとに泌尿器科の定期検診を受けている。 今日はその検診日、朝一番の予約。 先生から、前立腺ガンの検査結果は『PSA値が1.57だ、心配はいらないよ!』の一言。(血液検査のPSA値が4.0以下なら陰性で“心配なし”、4.0以上な陽性で“疑いあり”)、、、、最後に、いつものように、お土産に前立腺肥大を抑える薬、尿を出しやすくする薬を3種類3ヵ月分、処方してしてもらう。

【おさらい】「前立腺肥大」と「前立腺ガン」は、排尿障害など似ている症状があるが、発症メカニズム、発症部位はいずれも異なり、全くの別ものであるらしい。、、、、前立腺ガンになると、治療後の後遺症として“排尿障害”や“勃起障害(ED)”があるそうだ。 70歳を超えた私は、“勃起障害”は我慢できても、“排尿障害”は辛そうだ。 症状が出ないことを祈るばかり!、、、、詳しくは自分で調べて!


今年も、前立腺ガンの心配なし、安心して病院を出た! チョイト、東本願寺にでも寄って、我が家まで歩いて帰ろう! 



● 上野の病院から仏具屋が並ぶ「浅草通り」を歩き、西浅草1丁目の東本願寺に参る。、、、、慶安4年(1651)に神田で、京都東本願寺の別院として開創。 明暦の大火により焼失し、現在の浅草に移転し、浅草本願寺となる。 昭和56年(1981)には、「お東さん騒動」として有名なお家争いの末、真宗大谷派から独立し、「浄土真宗東本願寺派 本山東本願寺」となる。、、、、境内は広く本堂の他に、4階建ての門信徒会館、宗祖親鸞聖人七百回御遠忌を記念して建立された会館、幼稚園、浄土真宗を教える学校、墓地などが点在する。 しかし、空襲で焼失したのか(?)樹木は少なく緑の無い境内は、どうも私は落ち着かない!、、、、木造の旧本堂は関東大震災で焼失し、昭和14年(1939)に、皇室関係の建物を多く手掛けた木子幸三郎(きごこうざぶろう、1874年~1941年)により設計された鉄筋コンクリート造の現本堂が再建された。 しかし、再建された本堂は昭和の空襲で被災したため、戦後になって焼失した内部は改修され、現在の荘厳華麗な造りとなった。

2102100935160

2102100935480

2102100942360

2102100939190



● 東本願寺に参拝し、寺から南に歩くと、元浅草三丁目に小さな境内の「孫三稲荷神社
(まごぞういなりじんじゃ)」がある。、、、、孫三稲荷神社は、天正年間(1573~1592)徳川家康が、「孫三」と名乗る者に馬の轡を取らせ安倍川を渡ったが、後にその孫三を探したところ該当者はなく、安倍川の川辺に「孫三」の名を持つ祠があったことから、この稲荷の化身であったという霊験により、天正18年(1590)関東入国の際、家康の命により稲荷の神体ごと川村某の手により江戸の神田三河町に遷座、慶安年中当地(安倍川町)に鎮座したと云われている。 現社殿は昭和26年(1951)の再建。、、、、ここの稲荷のお供えは、“油揚げ”ではなく“安倍川餅”かも?

2102101005280

2102101004250



● 孫三稲荷の西、元浅草4丁目に浄土宗寺院の「誓教寺」がある。、、、、本堂はモダンな形の建物。 起立は不詳だが、開山した善蓮社貞誉上人浄求閑悦和尚が慶安元年(1648)に亡くなっていることから、寛永17年(1640)頃には現在地に創建されたと推定される。

2102101012190

・・・・・・・・・・・・誓教寺の境内には東京都指定旧跡の葛飾北斎の墓がある。 葛飾北斎は宝暦10年(1760)に江戸本所割下水(現:墨田区亀沢)で生まれ、「富岳三十六景」をはじめ多くの傑作を描き、フランスの印象派の人びとに大きな影響を与えた。 葛飾北斎は、生涯に住居を93回も引っ越し、嘉永2年江戸浅草聖天町の長屋で三女の阿栄(おえい)、に看取られて没した。 北斎の墓は、幕末まで北斎の父と合葬されていましたが、現在の墓は、後に他家の養子となっていた次男の崎十郎が建てた説と、崎十郎の娘 白井多知が建てたという説がある。 誓教寺墓地の中央付近に、多くの一般の墓と共に北斎の墓がある。 墓石には「画狂老人卍墓」とあり、右側面には『ひと魂の行く気散じや夏の原』の句が刻まれている。、、、、また、本堂前には平成2年(1990)に、生誕230年を記念して関口昌孝作の胸像が建てられた。 何となく、若々しく見える北斎の像

2102101013250

2102101011070



誓教寺の正面(元浅草2)には、真言宗智山派の吉祥院がある。 吉祥院は摩尼山隆全寺と号す。 創建年代は不詳。 慶長16年(1611)に中野に寺領を得て、寛永21年(1644)には現在地へ移転した。、、、、、こちらの寺は、街中の小さな寺であるが、何時も境内は手入れが行き届き、綺麗に刈られた植栽と、掃き清められた庭が、落ち着いた雰囲気を醸し出している。 いい雰囲気の私好みの寺だ!

2102101016060

2102101016320



● この他、台東区元浅草、寿の寺を歩きながら、浅草橋の我が家に帰宅。

2021年2月 5日 (金)

閻魔さまに祈願

“緊急事態宣言”が延長され自粛生活がさらに続くこととなった。 家に籠る毎日に飽き、立春も過ぎ暖かくもなり、歩きたい! 今日は、チョイト禁を破り、我が家から錦糸町までナイショで不要不急の散歩をしてきた。

我が家(浅草橋)から、江戸通りを厩橋まで、厩橋からは春日通りを東へ向かい横川一丁目交差点まで、その後南へ折れて錦糸町駅から電車で帰宅。 1万3千歩




● まずは、毎度おなじみの江戸通りを厩橋交差点に向かう。

2102050721550

2102050740250


・・・・・・・・・・・・厩橋交差点にある「東京厚生信用組合浅草支店」、、、、この建物は昭和4年(1929)に、安藤組(現:安藤ハザマ)の設計・施工で建てられた。 外観はほぼ竣工時の姿を残している、レトロな建物である。、、、、シャッターが下りているのは、まだ営業時間前(am7:45)のため。

2102050742360

2102050745369_stitch


・・・・・・・・・・・・もう一つ、厩橋の西詰(台東区側)、交番の隣りに人​の​顔​を​デ​ザ​イ​ン​し​た​、遊び心のある​公​衆​ト​イ​レがある。 ​顔​の​あ​る​側​に​、​男​、​女​別​れ​て​入​り​口​が​あ​る、チョイト寄ってみたくなるね。 でも、内部は普通のトイレ、隣りにお巡りさんも居るので、安心してゆっくり用を済ませてね。、、、、平成4年(1992)台東区の「まちかど賞」受賞

2102050750190



● 隅田川に架かり、台東区蔵前・駒形と墨田区本所を結ぶ「厩橋(うまやばし)」、、、、橋名は西岸にあった「御厩河岸(蔵前の米蔵のための荷駄馬用の厩があった)」に因む。 もともと元禄年間ごろから続いていた「御厩の渡し」のあった処。、、、、現在の橋は、3径間下路式タイドアーチ橋、橋長 151.4m、幅員 22.0m。 工費114万5千円にて、大正15年(1926)に着工し、昭和4年(1929)に竣工した、震災復興橋の一つ。 橋の所々には、馬を連想させるレリーフなどが施されている。、、、、橋の下の川底には都営大江戸線が走っているが、上下線は厩橋を挟むように、橋台を避けて迂回している。 たぶん、古い橋の橋台に影響を生じないように避けたものと思われる。 

2102050813000

2102050758100

2102050800140

2102050808050

2102050802560



● 厩橋を渡り、春日通りを東へ歩き、本所1丁目と2丁目の交差点に来ると、大通りの角に小さな「厩橋交番」がある、、、、現在は“交番”ではなく、「厩橋地域安産センター」に変わっている。 小さな三角形の角地に合わせ昭和3年(1928)に建てられた、小さく狭い交番建築である。 石造りを模したコンクリート造の交番は、チョビ髭のお巡りさんが警棒を持って立っているような、懐かしい雰囲気を漂わせている。

2102050825240

2102050824470



● 本所2丁目の若宮公園の一角に摂社若宮牛嶋神社がある。 その鳥居前の木陰に隠れるように満州事変忠魂碑がある。 おそらく、戦前はもう少し目立つところに堂々と置かれていたと思われるが、今は目立たぬようにか(?)木の陰にひっそりと置かれている。、、、、昭和6年(1931)に始まった満州事変では本所区から700余名が出征した。 その中で戦死した霊を祀り昭和10年(1935)に遺族が碑を建てたものだ、塔頂部は満州らしい七重塔が飾られている。

2102050840020



華厳寺は本所2丁目にある浄土真宗大谷派の寺。東本願寺の末の名刹で、権大僧正光円法印が慶長8年(1598)に本所中之郷に創建し、延享4年(1774)に本所の現在地へ移転した。、、、、華厳寺のお閻魔様は、延宝7年(1679)から境内に安置され、江戸六十六ヶ所えんま詣り第二十番目にあたり、「厄除けえんま堂」として広く庶民に信仰されてきた。 堂には、室町時代中期の作と思われる老婆の鬼「奪衣婆の像」もまつられている。 “怖い”というより、愛嬌を感じ、親しみの湧く2体の像が閻魔堂に祀られている。、、、、本堂は、只今工事中!、、、、今日は閻魔さまに、日本全国民の代表として小銭38円を賽銭箱に投じ、コロナ退散を祈願してきた。

2102050851520

2102050853160

2102050853020



● 本所4丁目には、勝海舟の父親の小吉が参拝していた日蓮宗の能勢妙見山別院がある。、、、、“能勢の妙見さん”と聞くと勝海舟を思い出し、昭和49年(1974)のNHK大河ドラマ「勝海舟」を思い出す。 大河ドラマでは、松方弘樹が海舟(勝麟太郎)で、二代目尾上松緑が父親の勝小吉。 松緑の小吉が素晴らしい“江戸っ子”だった。、、、、小吉は麟太郎の病(犬にチン玉を喰われた)の時、ここ本所の妙見さんで水垢離をして祈ったと言われている。、、、、妙見山別院は小ぢんまりとした小綺麗な寺で、境内には四季の野草などが花を咲かせている。 境内の海舟の像が花を楽しんでいるようだ!

2102050915210

2102050912100

2102050914050



● 現在は暗渠化し、その上に親水公園が整備された大横川に架かる2橋に寄った・・・・・

・・・・・・・・・・・・妙見山別院の東側にある紅葉橋、、、、石原4丁目と横川1丁目を結ぶ橋で、昭和5年(1930)に架設された。 全長35.11m・幅11m。 紅葉橋という名は、このあたりに楓川という細い流れがあったので、それにちなんで付けられた。 アールデコ風の親柱が印象的だ!

2102050919410

2102050916490


・・・・・・・・・・・・紅葉橋の上流側(北側)に架かる横川橋、、、、橋上は春日通り、本所4丁目と横川1丁目を結ぶ橋で、昭和3年(1928)に架設された。 全長32.65m・幅22.7m。 親柱には外灯・装飾などがあったと思われる台座が残っているが上部は無い!

2102050927180

2102050926110



● 横川1丁目、日本たばこ産業の正門前で南に折れ、スカイツリーを背にして錦糸町駅に向かう。、、、、散歩中の濃厚接触者はいないと思う。 コロナに感染していないと思うね!

2102050937020

2102050956110

2102051001400

2021年1月27日 (水)

足がつった!

正月明けから昨日まで約3週間、不要不急の外出を避け、我が家でPCゲームとビデオ鑑賞、外に出ることもなく家に籠もっていた。 ところが昨日、置き時計の一つが壊れ、我が家から歩いて15分程の処にある秋葉原のヨドバシカメラに買いに行った。 久しぶりの外出であり、散歩を兼ねてのんびり歩きはじめたのだが、秋葉原の店の手前で、我が足がつった! 『アリャリャ、コリャリャ、コリャ大変、ふくらはぎが痛い!』、初めての体験である。 すれ違う人に変に思われないように、なにごともなかった振りをして、足を休め、もみほぐす。 どうにか、歩けるようになり、店で買い物をすませ、帰りも我が家まで歩いた。・・・・・これが、外出自粛で運動量の低下による『コロナフレイル』の入口かも? 体の諸機能が低下し、介護が必要な状態の一歩手前の状態を「フレイル」という、コロナの影響で「フレイル」になるいわば「コロナフレイル」が、今、広く懸念されている。
昨夜はさらに、昼間のゲームのやりすぎが祟り、激しい腰痛に悩まされ、我が身の衰えを切実に体感することができた。


今日は、体力を取り戻すため、浅草橋の我が家から、浅草寺を抜けて東浅草(かつての山谷付近)まで歩いてきた。

 

●浅草橋から江戸通りを歩き・・・・・“駒形どぜう”の前を雷門へ・・・・・美人に見惚れ・・・・・仲見世は半数休業、チョイ寂しい・・・・・今年最初の浅草寺参りはガラガラ・空き空き・・・・・賽銭泥棒もいない、人影少ない本堂・・・・・ここでは“三密”の心配は不要?

2101271534210

2101271602400

2101271612310

2101271612500

2101271613460

2101271619480

2101271620420

2101271621510


● 本堂裏から北に向かうと、“お富士さんの植木市”でチョイト有名な「浅草富士浅間神社」(台東区浅草5)がある。 この神社は、創建年代は不詳だが、寛文11年(1671)以前に当地に勧請された。 元禄年間(1688~1703)に、静岡県富士市の浅間神社から分社した。、、、、ここ浅間神社の祭日には、植木市が浅草4、5丁目一帯で行われる。 昔からの祭日である5月31日、6月1日と、明治以降富士山の山開きが7月1日に変更になったことで加わった6月30日と7月1日の合計4日間の珍しい祭日となっている。 

2101271641470

・・・・・・・・・・・・・・どこでも、浅間神社と云えば「富士塚」が必須アイテムである。 ココ、浅草富士浅間神社にも富士塚がある。、、、、一方通行、7段の大変登りやすい登山道が整備されている。 老若男女、誰でも登れる“富士さん”

2101271643420


● 夕暮れとなり、明かりも灯り・・・・・お年寄りは、早速、銭湯に向かう・・・・・私はバスで帰る

2101271649080

2101271651280

2101271700000

2021年1月 4日 (月)

浅草橋ナイナイないもの

雅万歩が住む“浅草橋周辺”(想定する地域はコチラを参照)には、『ナイ・ナイ・有るべきものが無い!』、、、、そうなんです、都心の町ではどこにでも普通に有るはずのものが無いのです。 そんなものを紹介します。、、、、(注:雅万歩は、只今、コロナの為、外出自粛中)

 

①「マック」が無い!・・・・・・江戸通りに面し、浅草橋駅の近くにあった「マクドナルド」が10年程前に撤退し、“浅草橋周辺”からは消え去った。 マクドナルドの店舗一覧を見ると、“浅草橋周辺”は完全な空白域となっている。 マクドナルドが撤退した跡には「バーガーキング」が入居し、『安くて、美味しいバーガー』で営業中。、、、、浅草橋駅周辺には、フライドポテトを入れる紙の容器が道端に捨てられていることもなく、マックは町の美化に貢献しているようだ!

2101041419300

2101041410230



②「スタバ」が無い!・・・・・・こちらもマックと同様に店舗一覧を見ると、“浅草橋周辺”は完全な空白域。 さらに異様なことは、江戸通り(=国道6号)沿線に、銀行・店舗・ビジネスホテルが建ち並んでいるにもかかわらず、中央区室町の交差点から、東武浅草駅までの約3.5kmの区間には、店舗が一軒もないのだ!、、、、スタバでコーヒーを片手に休憩する“カッコイイ美人OL”が、見られないのは寂しいかぎり!、、、、ちなみに、「ドトールコーヒー」は、“浅草橋周辺”には都営浅草橋駅入口横(江戸通り)に1店舗あるのみ。 江戸通りには馬喰町・小伝馬町・蔵前にもある。

2101041414391



③書店が無い!・・・・・・・“浅草橋周辺”から、書店が消えて久しい。 50年前は駅周辺だけでも5軒程あった。 今は本を買うには、秋葉原・浅草・錦糸町・日本橋と、いずれにしても電車で行かねばならない、書店から見放された町。、、、、江戸通りに面し、駅の隣りにあった書店は「マツモトキヨシ」に変わったが、その隣りには同業の「ココカラファイン」がある。 この両薬局は今年10月に経営統合すると云われてる。 さて、この2店舗は統合後どうなるのかな? 1店舗にして、書店が復活すると、私のように知識に飢えている読書家には嬉しいね!

2101041411380

2101041419050



④泌尿器科が無い!・・・・・浅草橋の住人も高齢化し、尿漏れ・膀胱炎・前立腺癌など“泌尿器科”にお世話になる機会も増えてきたが、“浅草橋周辺”には泌尿器科の専門医院が無くなった。 ついでに、婦人科・産科も無くなった。 眼科、小児科の医院は各1軒だけ。 チョイト外れた総合病院に行けば、診てもらえるが、待ち時間・費用が大変だ!、、、、私も、数年前、排尿ができなくなり苦しみ、総合病院へ救急搬送してもらった経験がある。 先生曰く『家の近くの医院で、定期的に診てもらいなさい』 私『その近くの医院より、こちらの病院の方が近いのです。 普段診てもらえそうな医院は、こちらの病院より遠い処にしかありません』、、、、ちなみに、町の歯科医は15軒以上ある。 病院は「永寿総合病院 柳橋分院」(内科・整形外科が主)があるのみ。、、、、浅草橋は医療崩壊ではなく、医療アンバランスなのだ!

2101041430330



⑤寺が無い!・・・・・・台東区は谷中・浅草と寺の多い区であるが、“浅草橋周辺”の地域内には一寺も無い。、、、、大正12年の関東大震災までは、浅草橋二丁目に華徳院と云う寺があったが被災し昭和4年に杉並区へ移転した。 この寺には、江戸三閻魔の一つがあった。 寺があった処には「閻魔堂跡」の碑がある。 華徳院の移転後、寺らしい寺は皆無となった!、、、、最近は、わけの判らない、〇〇教̻▢▢教会がポツ・ポツと生まれ、何やら怪しげな人が集まる処もある。 できることなら、閻魔さまに戻ってきて欲しいものだ!

2101041448100



⑥タワマンが無い!・・・・・都心でも、郊外でも、再開発の目玉は超高層ビル、タワーマンション。 “浅草橋周辺”には30階以上の大きな建物が無い、土地の地盤が悪いわけではない、なぜだ?、、、、浅草橋5丁目に、30年前に建てられた「CSタワー」ビル(地上18階建て)は、今でも町のランドマークである。 蔵前1丁目の旧東京貯金事務センター跡地に建設中の建物は、23階建て(高さ91m)のタワーマンションと13階建て(高さ58m)の高層オフィスビル。 チョイト区域外だが浅草橋5丁目の向かい側(千代田区神田和泉町)に建設中の「日本通運本社ビル」は地上14階建て(高さ58m)。、、、、世間では30階を超える建物も珍しくなくなり、アチラ・コチラで、空に向かってニョキニョキと伸びている。 “浅草橋周辺”の住民は、私を含めて、皆、高所恐怖所なのかも?、、、、写真は順に、CSタワー、貯金事務センター跡地の再開発現場、日本通運本社ビル建設現場

2101041534040

2101041439050

2101041536090



⑦その他、ありそうで無いのは・・・・・・公団(UR都市機構)の住宅団地が無いのは理解できるが、区営住宅・都営住宅など小規模公営住宅がない。、、、、ビジネスホテルはドンドン建設中だが、ラブホテルが無い、不便を感じる人は居ないようだ、皆、ジジイとババアになったのか?、、、、“〇〇商店街”が皆無となった。 終戦直後は、私が知るだけでも、駅前に2つの商店街があり、年末の“福引大売り出し”で賑わっていた。、、、、最後に、エスカレーターのあるビルが無い。 エスカレーターなんて、どこにでもありそうだが、“浅草橋周辺”域内のビルで、設置されているビルは私の記憶では皆無。(注:都営の浅草橋駅構内には設置されている。JRの浅草橋駅には設置されてない) 



我が家から、秋葉原までは徒歩20分、浅草雷門までは徒歩45分、日本橋までは徒歩45分、ナンダカンダと云っても、“浅草橋”は足を使えば便利なところである。、、、、高齢者施設に強制収容されるまでは、この地に住むつもりだ! 

 

2021年1月 1日 (金)

浅草橋七社巡り

明けましておめでとうございます・・・・今年も『雅万歩』をよろしく

大晦日、東京都の新型コロナ感染者数は、とうとう1000人を超えた! 我が家では、都内に住む娘二家族の全員が、時間をずらしてやって来た。 年始の会食は避け、用意していた三段重の“おせち料理”を、一段づつ持って帰ってもらい、それぞれ家族単位で正月を迎えることにした。 今日は、私達夫婦と97歳の母、三人でチョイト寂しいお正月。 

祝いの膳を済ませ、私:『今年は、“浅草橋七社巡り”に行こう!』 妻:『なに?それ!』 私:『誰云うとなく、神代の昔から言い伝えられた“浅草橋七社”を知らずして、ここに住めないぞ!』 妻:『じゃ~~、どこに住むの?』 私:『・・・・・?』、、、、「浅草橋七社」、こんな名所はガイドブックにも載ってない! これは雅万歩の好き勝手な命名である。

今日は浅草橋周辺にある全ての神社(七社)を巡ってきた。、、、、「浅草橋周辺」とは、東は隅田川、西は美倉橋通り、南は神田川、北は蔵前橋通り、で囲まれた、東西約1.0km、南北約0.6kmの矩形範囲が対象域。 この矩形の中には、台東区浅草橋と台東区柳橋の全域、北東の隅に台東区蔵前一丁目、南西には千代田区東神田三丁目が含まれる。 ちょうど矩形の中央に浅草橋二丁目の我が家が位置する(我が家が“浅草橋の中心だ!”、“天動説”の雅万歩) 浅草橋一丁目にはJR・都営の浅草橋駅、蔵前一丁目には蔵前警察署がある。

P

 




● 浅草橋七社巡りの一番は、まず我が家の氏神様である「銀杏岡八幡神社(いちょうがおかはちまんじんじゃ)」、、、、浅草橋駅裏に静かに、誉田別命を祀る小さな神社。、、、、歴史は古く、平安時代後期、源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、小高い丘だった当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願した。 奥州平定の後、再び立ち寄ると銀杏の木は大きく成長していた、義家は神に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請した。 時は康平5年(1062)のことである。 江戸時代に入ると、現在のJR浅草橋駅の北側一帯は福井藩松平家屋敷地となり、神社も松平家の邸内社となる。 享保10年(1725)公収され町内(福井町)の産土神となった。 明治維新後には村社に列格した。、、、、毎年、6月と12月の大祓では、人型に家族の名を書き息を吹きかけ、半年の穢れを祓い清めてくれる、ありがたい神社。 今年も、我が家族の心身を、清く正しく美しくしてもらい、正月を迎えた。(残念なことに、容姿は美しくならないそうだ)

2101011306580

2101011304500

2101011304030




● 二番は「須賀神社(すがじんじゃ)」、、、、神社は私の住む浅草橋二丁目にあり、江戸通り(国道6号)に面して鎮座する。、、、、神社の歴史は銀杏岡八幡神社よりさらに古く、推古天皇九辛酉年(601)に遡る。 このあたり(武蔵国豊島郡)に疫病(当時の新型コロナかも?)が流行した折、郷人が牛頭天王(素戔嗚尊の化身)に病難平癒を願ったところ、ことごとく快気を得たので、この所に祠をたてたのが創始とされている。 江戸期には祇園祠牛頭天王社と称していたが、明治元年に須賀神社と改称した。 その後、震災・戦災で被災し、昭和36年(1961)に社殿・社務所等の建物を全て完成。、、、、祭神は、もちろん素戔嗚尊。、、、、今日は、人類を代表して、“新型コロナの撲滅”を祈願する。

2101011311380

2101011314390

・・・・・・・・・・・・・・須賀神社前の江戸通り(国道6号)も、今日は空いている!

2101011316530



● 三番は柳橋一丁目の「篠塚稲荷神社(しのづかいなりじんじゃ)」、、、、祭神は、穀物・食物の神様である倉稲魂命。 神社は南北朝時代(室町時代)に、新田義貞の家臣篠塚重広(武勇に秀でた人物で、新田四天王の筆頭と言われた武将)が当地にあった稲荷社に祈願を続けていたことから、「篠塚稲荷」と称されるようになった。、、、、江戸時代には篠塚山玉蔵院宗林寺というお寺になったが、しかしその後、明治維新の神仏分離令により、廃寺となる。 その後は、大正時代に寺子屋として子供達の教育の場になるが、今度は廃校となってしまう。 そのような中、篠塚稲荷神社だけが残され、現在もこの地に鎮座しています。、、、、寺も学校も廃止となり、事業は失敗続き! 御利益期待できるのかチョイト心配だ? 一応、“金運上昇”、“一攫千金”の御利益を期待し、賽銭をはずんできた。

2101011325500

2101011324050



● 四番は柳橋一丁目にある「石塚稲荷神社(いしづかいなりじんじゃ)」、、、、祭神は、こちらも倉稲魂命。 石塚稲荷神社の創建年代は不詳だが、浅草御蔵前元旅籠町(現:蔵前三丁目、江戸時代には隅田川岸に御蔵が並んでいた処)の人々は町内の安全と火除けを祈り、創建したと云われている、元禄元年(1688)には、御蔵の拡張により現在地へ移転した。、、、、戦後に柳橋料亭組合と柳橋芸妓組合などが寄進して再建した玉垣には、「亀清楼」「柳光亭」「柳水」「津久松」「はやし」「稲がき」など、隅田川沿いに建っていた料亭の名前が、当時の並び順に彫られている。、、、、私が知る戦後の柳橋では、神社は料亭街の中央に位置して、近くには銭湯・見番もあり、行き帰りにチョイト手を合わせることができた。 今日は、もしコロナで入院したら、柳橋芸者のような美人看護士に巡り合えることを祈願した。

2101011331340

2101011331020



● 五番は蔵前一丁目の「榊神社(さかきじんじゃ)」、、、、榊皇大神を祀る榊神社は、浅草橋七社の中では、境内も広く最も参拝客の多い神社で、古くから「第六天神宮」と呼ばれてきたが、明治6年(1873)に社号を「榊神社」へ改称した。 笹塚稲荷神社・石塚稲荷神社は、こちら榊神社の兼勤社である。 、、、、第六天榊神社は、日本武尊が、景行天皇40年(110、日本書紀の時代だ!)に創建したと云われてる。 もと第六天神社と称し、森田町(現:蔵前三丁目)に鎮座していたが、享保4年(1719)浅草不唱小名(柳橋一丁目)へ遷座。 明治維新の廃仏毀釈により社号を「榊神社」へ改称。 現在の所在地(蔵前一)には、かつて官立の図書館浅草文庫があった。 浅草文庫は明治14年(1881)に閉館し、その後は東京職工学校(後に東京高等工業学校、現:東京工業大学)の校地となっていた。 関東大震災後に東京高等工業学校が目黒区大岡山へ移転したことから、昭和3年(1928)にはその跡地の一部(東京高等工業学校正門付近)に榊神社が移転し現在に至っている。、、、、頭が良くなりそうな神社なので、夫婦揃って“ボケ防止”を祈願してきたが、効果があるか疑問?

2101011342080

2101011344130

2101011348200



● 六番は浅草橋三丁目の「加賀美久米森稲荷神社(かがみくめのもりいなりじんじゃ)」、、、、正月元日と云うのに、参拝する人は居ないのか? 浅草橋七社の中では、最も貧弱な神社。 祭神は倉稲魂命。、、、、その昔、加賀美太夫、条太夫という越後国猿屋村の猿曳が諸国漂泊の末、江戸にやってきた。やがて本業の芸と加持祈祷の評判が高まった。 そのころ、徳川将軍が不治の病にかかり、すぐれた祈祷師を天下に求めた。さっそく、彼らは城中に招かれ病気平癒の祈禱をした。すると、将軍の病はみるみる快癒にむかったので褒賞として、現在、神社のある土地に猿楽町の名を賜わって、永住することを許された。この両太夫の邸内に、それぞれ祀られたのが当稲荷社である。その後、小島屋西之助の持地となり合祀奉斎された。寛永7年(1630)にすでに猿屋町の町名が見られるため、そのころに勧請されたものと思われる。、、、、加賀美久米森稲荷神社は現在鳥越神社の境外末社となっている。(鳥越神社は我が家からも近い距離にあるが、今回の浅草橋周辺の定義域に入らないので除外)、、、、神社の大きさに比べ、やたら大きな鋼製の賽銭箱に、複数枚の硬貨を放り込んだら、ガラガラと大きな音を発し、正月の静かな町を目覚めさせた、恥ずかし~~い! 神社の規模から推定し、御利益は期待薄であるため、控えめに、年末はダメだったジャンボ宝くじ、『今年こそ一等当選しますように!』

2101011352320



● 最後の七番は浅草橋三丁目の「甚内神社(じんないじんじゃ)」、、、、甚内神社は、「甚内霊神」を祭神とする。 伝承によれば、甚内は武田家の家臣高坂弾正の子で、主家滅亡後、祖父に伴われ諸国を行脚するうち宮本武蔵に見出されて剣を学び奥義を極めた。 武田家再興をはかり盗賊の首領となって、開府早々の江戸市中の治安を乱したため、瘧(マラリア)に苦しんでいたところを幕府に捕えられた。 鳥越の刑場で処刑されるとき「我瘧病にあらずば何を召し捕れん。我ながく魂魄を留、瘧に悩む人もし我を念ぜば平癒なさしめん」といったことから、病の治癒を祈る人々の信仰を集めたという。 “新型コロナ”で苦しむ人にも効くかも?、、、、ここは素直に“コロナ撲滅”を祈願した!

2101011358040

2101011359520

2101011359320

 

● コロナ禍で、遠出は出来ず、地元の浅草橋七社巡りで、初詣とした。、、、、七社は、どの神社も社殿は戦後の建物(浅草橋周辺は関東大震災で被災し、昭和20年の空襲でも被災した)だが、歴史ある神社ばかりで、由緒を調べると面白いものである。、、、、七社巡りは4千歩の散歩でした。

2020年12月29日 (火)

浅草橋の三迷橋

コロナの感染者数は『我慢の三週間』から大幅に増え、英国製・南ア製の新型モデルも発表・渡来した。 『不要不急の外出自粛』、『三密の回避』など感染対策の徹底がより強く求められ、雅万歩も今まで以上に自重することにした。 しばらくの間、散歩は我が家の周辺をチマチマ歩くことにする。

雅万歩が住むのは台東区浅草橋。 今日は、地元「浅草橋駅」に近い柳橋・浅草橋・左衛門橋の三橋と、隣りの千代田区に架かる美倉橋の、四橋を歩いてきた。 1万歩には程遠い5千歩の散歩。

日本橋(東京)、錦帯橋(岩国)、眼鏡橋(長崎)の『日本三名橋』に対抗して、誰が言ったか『浅草橋の三迷橋』、、、、とは、誰も言ってない! 雅万歩が勝手に言った! その『浅草橋の三迷橋』は、神田川に架かる三橋のことで、隅田川に注ぐ最下流から、柳橋・浅草橋・左衛門橋である。 左衛門橋の上流に架かる美倉橋は、“付録”とする。




● まずは、神田川が隅田川に合流する手前に架かる「柳橋(やなぎばし)」、、、、現在の橋は、右岸の中央区東日本橋と左岸の台東区柳橋を結ぶ震災復興橋のひとつで、昭和4年(1929)に工事費12万1千円で完成した、長さ37.9m、幅11.0mの鋼製タイドアーチ橋。 永代橋をモデルにしたと言われる小型のアーチ橋で、全体的に緑色に塗られている。(たまたま、今月から来年3月まで、塗装の塗り替え工事中)、、、、初代の柳橋は、江戸時代後期に架設された木橋で、はじめは「川口出口の橋」と呼ばれたそうだ。 「柳橋」の名は、享保年間(1716~1735)の頃、土手の両岸に柳の木が植えられていたことに由来するようだ。、、、、江戸時代から今日まで、橋畔は船宿が並んでいる。 昔は日本堤の遊里、新吉原へはここから隅田川を舟で昇り今戸の山谷堀まで行った。 また、幕末・明治以降、昭和40年代頃までは、柳橋は花柳界として名を馳せた。 現在では、この付近の護岸は非常に高くカミソリ護岸となっているが、船宿に屋形船も繋留されていて、江戸情緒は残っている。、、、、私が知る、戦後の花柳界のあった頃は、暗くなると黒塗りの乗用車が並ぶ町で、芸者さんが人力車で行き交っていた。 路地裏の我が家の前にも、芸者さんを迎えに人力車が入って来た。 美人芸者がイッパイ、あの良き時代に戻りたいね!

・・・・・・・・・・・・塗装工事中の今日の柳橋

2012291518010

2012291532260

2012291521440

2012291528460



● 柳橋の上流に架かるは「浅草橋(あさくさばし)」、、、、その名のごとく、浅草寺の門前橋であるが、浅草寺までは北へ約2km程ある。、、、、浅草橋は江戸36見附の一つで、浅草橋御門として寛永13年(1636)頃(詳細は不明)に架けられた。 奥州街道の起点となっていたため、徳川時代、神田川に架かる橋としては重要な位置づけを与えられていた。明治7年には見附門の石を利用して石造アーチ橋として架け替えられましたが、これは何故か長持ちせず、すぐに他の形式に架け替えられた。、、、、現在の橋は、これも震災復興橋として、昭和5年(1930)1月に開通した。 右岸は中央区日本橋馬喰町、左岸は台東区浅草橋。 工事費27万7千円、下部工は間組(現:安藤ハザマ)の施工による鋼製アーチヒンジ橋。 アーチ構造の橋ということだが、アーチ(円弧)の形状が緩やかなためか、水平の桁橋に近い印象を受けう極めて単純な橋で、面白味に欠ける。 親柱や欄干などは、お金をケチったのか貧弱で、センスも悪く印象が薄い、存在感が無いね!

2012291530000

2012291104500

2012291106100


・・・・・・・・・・・・浅草橋南詰(中央区側)に開智日本橋学館中学高等学校がある。 その校舎の一角に、浅草橋御門の石垣の石が発掘され残されている。 貴重な石らしいが漬物石より大きく、一見しただけでは石垣の石には見えないね!

2012291057410



● 次は「左衛門橋(さえもんばし)」、、、、左衛門橋の上流側は千代田区東神田、下流側右岸は中央区日本橋馬喰町、下流側左岸は台東区浅草橋、なんと三区を結ぶ橋。 さらに地名だけ読むと、“神田”、“日本橋”、“浅草”と、江戸っ子が喜びそうな地域を結ぶ橋。、、、、左衛門橋の北詰一帯(現:JR浅草橋駅西口周辺)に、慶長3年(1598)から明治維新までずっと、徳川譜代大名庄内藩酒井左衛門尉(さえもんのじょう)の下屋敷があった。 橋の由来は、後に、神田川に望むこの地を左衛門河岸と呼んだことにちなむ。、、、、左衛門橋の創架は、明治8年(1875)、東京府の認可を受けた賃取橋(有料橋)として、民間人により架けられたものである。 その後、明治34年(1901)、下路式プラットトラスの鉄橋に架替えられた。、、、、現在の橋は、昭和5年(1930)に、工事費13万5千円で、架けられた鋼製アーチ橋である。(平成12年大規模補修工事が行われた) 次の美倉橋と左衛門橋・浅草橋の三橋は、いずれも似た構造の鋼製アーチ橋で、震災復興橋でもある。、、、、30年ぐらい前の話だと思うが、高度成長期には汚れていた神田川が浄化され、隅田川からボラの大群が上ってきた。 その時は、我が家から最も近い左衛門橋から川を覗いて、水が清くなったことを実感した! いつだったか、クラゲの大群が上がってきたこともあったね!

2012291103520

2012291027150



● 左衛門橋の上流には「美倉橋(みくらばし)」が架かっている。、、、、美倉橋は右岸の千代田区東神田と左岸の千代田区神田佐久間町に架かる橋。 現在の橋は、昭和4年(1929)2月の架設、長さ35.35m、幅23.31mの鋼製アーチ橋。 工事費は17万9千円也。、、、、神田美倉町はもと佐柄木町・本銀町・紺屋町の蔵地からなり三倉地と呼ばれ、橋の営繕は町の費用で行われていた。 明治2年(1869)に“三”を“美”に改め、町名及び橋名にした。 橋の南詰には、この命名に因んで、倉が三棟建っているが、実体は公衆便所で、男・女・車椅子の各用のトイレ。 味噌を処理する“味噌蔵”だ!

2012291036180

2012291038400

2012291040380

2012291038050

2020年12月17日 (木)

コロナ避けて平井まで

“3密”を避け、浅草橋の我が家から、歩く人も少ない「蔵前橋通り」を東へ歩きJR総武線の平井駅まで、1万4千歩の散歩です。

・・・・・・・・・・・・・「蔵前橋通り」は、文京区本郷の順天堂病院の北で国道17号(本郷通り)から東に伸び、末広町交差点、蔵前橋、亀戸天神の前を通り、旧中川、荒川を渡って、江戸川区西小岩1丁目で奥戸街道に接続する路線。 その先、奥戸街道をそのまま進むと、市川橋の手前で国道14号(千葉街道)に接続する。 今日、散歩した鳥越神社前から平井駅前まで(約5.5km)は、都道315号御徒町小岩線の一部である。




● 我が家から北に歩いて4分程で、蔵前橋通りに面する「鳥越神社」前に出る。 “道中の無事”と“コロナ撲滅”を願い手を合わせる。 どうも、“コロナ撲滅”の願いは、賽銭が少ないのか、いつまで経っても願いは叶わない!

2012170733260

2012170733570

2012170735340



● 蔵前一丁目交差点で江戸通りを横断し、家を出発して25分経過、蔵前橋を渡り墨田区に入る。、、、、隅田川の空は晴天、風はなし、気温は寒し、私の懐も寒し!

2012170741210

2012170751150

2012170752330



● 蔵前橋を渡ったら、チョイト、震災・戦災の犠牲者を悼む東京都慰霊堂にお立ち寄り。、、、、ついでに、厠にもお立ち寄り、冷えると回数も多くなるんです! いずれは、オムツのお世話になりそうだ!

2012170800580



●東京都慰霊堂前の清澄通り、冷え冷えの寒さの中、小学生が集団登校する。 時刻は朝8時、20人程の元気な子供たちだ!

2012170803510



● 蔵前橋通りは錦糸町の町の手前で、大横川に架かる法恩寺橋を越える。、、、、現在、大横川は暗渠化され川底は親水公園となっているが、大正14年(1925)に竣工した震災復興橋の法恩寺橋は健在である。、、、、橋長32.8mのアーチ型ラーメン橋台付き鋼桁橋

2012170822060

2012170823040


・・・・・・・・・・・・法恩寺橋を渡ると、橋名となった日蓮宗の寺院「平河山法恩寺」がある。、、、、法恩寺は長禄2年(1458)大田道灌が江戸城を築城時、丑寅の方角に城内鎮護の祈願所として建立された。 境内には、大田道灌の墓や平河清水稲荷大明神、鐘楼三重塔などがある。 現住所の“太平”は、太田道灌と平河山法恩寺の頭文字から命名された。 蔵前橋通りから入る参道沿いには、4か寺の子院が並んでいる。、、、、本堂の後ろからは、日蓮上人に変わりスカイツリーが参拝人を見下ろしているような寺だ!

2012170833520

2012170843330



● スカイツリーを正面に見る「タワービュー通り」、錦糸町駅前を通る「四ツ目通り」を過ぎ、横十間川に架かる「天神橋」(橋を渡ると江東区)を渡り、亀戸天神にも寄って行く。、、、、学問の神様:天神さまに、是が非でも年末ジャンボ一等当選が叶うよう手を合わせてきた。 これで、年明けには億万長者になっているかも? その折はブログ『雅万歩』は静かに終わり、私はヨーロッパ旅行で長期不在。

2012170847240

2012170851570

2012170857260

2012170905410



● 「明治通り」との交差点を過ぎ、東武亀戸線の線路を越えると、旧中川に架かる「江東新橋」を渡る。 橋を渡れば江戸川区なり!、、、、江東新橋の下流250m程には、並行するJR総武線の橋梁が見える。

2012170915450

2012170931561

2012170936060

2012170936420



● 江東新橋を渡ると平井駅は近い。 “3密”を避けて、鳥越神社前から歩いてきたが、「平井駅出口交差点」で蔵前橋通りから外れ、駅に向かう。、、、、駅も、電車も、空いている。 今日も、コロナに感染せずにすんだようだ!

2012170945500

2012170948570

2012170956440

2012171026160

2020年11月26日 (木)

知らない浅草寺

三度目の時短要請で、いよいよ勝負の『三週間』に突入する。 何もすることのない年寄りは、『不要不急の外出は避け』家でジ~~ット我慢の子。・・・・・と云うことで、年寄りの一人である私も、家で“朝寝、朝風呂、朝御飯”と思ったが・・・・・『そうは問屋が卸さない』、妻の一声『ゴミ出して!』、もう一声『10時に〇〇(嫁いだ娘)が来るよ!』、ついでに一声『散歩に出るんでしょ!』、いつものパターンである。

今日は『三密』を避ける気持ちで、早朝の浅草寺まで歩いてきた。




● 朝の7時50分、雷門の前に七五三(?)  いやいや違った、早朝から結婚記念写真か(?) プロらしきカメラマンがいる、メイクする人もいる。、、、、近くで拝見すると、美男・美女のカップルだ! 自分の若い時を思い出す(70歳過ぎた今は美爺・美婆のカップルとなった) 若い二人が羨ましい!

2011260749260

2011260751180


・・・・・・・・・・・・若いカップルの撮影はおわり、人影少ない朝の仲見世をバッチリ!パチリ!

2011260754520


・・・・・・・・・・・・普段は、建物を撮りたくても、美人に目がいき、ついついトリアージして美人優先。 今日は参拝客・観光客が少なく、今が撮影チャンスだ!

2011260816010

2011260817090

2011260816460

2011260826320

・・・・・・・・・・・・修復中の本堂天井画、中央の川端龍子の「龍之図」は修復中の足場に隠れ見ることができず、左右に描かれた堂本印象の「天人之図」を見ることができた。 ヤッパリ、“龍”より“美人”か!

2011260822310



● 今日は浅草寺境内にあるもので、見ても記憶に残らないもの、見ずに素通りしてしまうもの、幾つか紹介する。
・・・・・・・・・・・・まずは、仁王門の右横にある「久米平内堂」、、、、久米平内は江戸時代前期の人で、天和3年(1683)に没した。 その生涯については諸説あるが、剣の道にすぐれ、多くの人を殺めたので、その罪を償うために「仁王坐禅」の法を修行し禅に打ち込んだ。 そして、自らの坐禅の姿を石に刻ませ、犯した罪を償うため、人通りの多い仁王門の近くに埋めて「踏みつけ」させたという。 それが転じて「文付け」となり、のちには恋の仲立ち役の神さまとなって崇拝された。 現在でも、私を含め恋の仲立ちに期待し、願いをこめる人は多い。、、、、現在の堂は昭和53年(1978)に再建されたもの。

2011260805170


・・・・・・・・・・・・現在、五重塔は仁王門の左手(西側)に建立されているが、かつてはその反対側(東側)に位置していた。 現在は、「旧五重塔跡」と記された石柱が跡地に建っている。 浅草寺の五重塔は、天慶5年(942)平公雅による創建以後、いく度か炎上するもその都度再建されている。 昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により惜しくも焼失した国宝旧五重塔(高さ33m)は、江戸時代の慶安元年(1648)、第三代将軍徳川家光(1604~51)により建立された。、、、、塔のあったこの付近は、修学旅行、ツアー旅行の集合場所。 いつもは、団体さんがウロチョロしている。

2011260813420


・・・・・・・・・・・・・・お札所の裏側に「鳩ポッポの歌碑」がある。、、、、「鳩ポッポ」の歌は作詞:東くめ 作曲:滝廉太郎である。 東くめが明治34年(1901)に観音さまの境内にて鳩とたわむれている子供らの愛らしい姿をそのまま歌によまれたものだ。 歌碑の建立に際しては、彫刻家:朝倉文夫から鳩の像と題字が寄せられた。 作曲者滝廉太郎と同郷旧知の深いゆかりに依るものと云われている。 歌詞は御存じかな? ♪♪ 鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ ポッポポッポととんでこい お寺のやねからおりてこい 豆をやるから みなたべよ たべてもすぐに かえらずに ポッポ ポッポと ないてあそべ ♪♪ この歌はたちまち全国に広がった。、、、、しかし、10年後の明治44年(1911)、音楽の教科書「尋常小学唱歌」にて歌詞をチョイト変えた「」が登場した。(作者:不明) ♪♪ ぽっ ぽっ ぽっ 鳩ぽっぽ 豆がほしいか そらやるぞ みんなで仲善く 食べに来い  ぽっ ぽっ ぽっ 鳩ぽっぽ 豆はうまいか 食べたなら 一度にそろって 飛んで行け ♪♪ 「鳩」が「鳩ポッポ」を制覇をしてしまった。、、、、この歌碑を見ていて気がついた、境内で糞を落としていた大勢の鳩が、いつの間にか境内で見なくなった! 何処へ行った? 

2011260818130


・・・・・・・・・・・・鳩ポッポの歌碑の隣りに、「迷子しるべ石」がある。、、、、昔、迷子が出た時には、この石碑でその旨を知らせた。 石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み、右側面に「志らする方」、左側面に「たづぬる方」とし、それぞれに用件を記した貼紙で情報を交換した。 情報未発達の時代には重宝され、江戸市内の繁華な地に建てられたものの一つ。 安政7年(1860)、新吉原の松田屋嘉兵衛が、仁王門(宝蔵門)前に造立したが、昭和20年(1945)の空襲で倒壊したため、昭和32年(1957)に再建された。、、、、“コロナ”の世では、右に求人情報、左に求職情報を貼って、マッチングさせたらどうだろう? 『Indeed』には負けるかも、前言却下!

2011260818270


・・・・・・・・・・・・・・浅草寺の北側(裏側)、浅草寺病院に隣接する一画に浅草寺の支院が並んでいる、ここを「浅草寺一山支院」と称する。、、、、ここは、関東大震災後に区画整理でつくられた1100坪の敷地に、浅草寺の21の支院が集められ住宅地を形成している。 建物は不燃化のため、鉄筋コンクリート造、2階建て(現在の3階部分は後の増築)とし、基本は2院で1棟とする(入口は正反対になる)形態で設計し、昭和7年(1932)に竣工している。、、、、この建物群の設計は、大阪市中央公会堂、鳩山会館、黒田記念館など多くの名建築を残している岡田信一郎である。、、、、浅草寺参りの観光客も、散歩する近所の住民も、この建物に関心を持たず、ペチャクチャお喋りに夢中で、通り過ぎていく。 『文化財級の建物だよ!』と、教えてあげたいが、住んでいる方の迷惑になっても困るので内緒にしておく。

2011260830060

2011260833510

2011260840500


・・・・・・・・・・・・本堂の裏は広い駐車場、去年までは中国人ツアーの観光バス、黄色のはとバスなどで、連日満車状態。 この駐車場の北側(浅草寺病院側)に老夫婦の胸像がある。 二人は、戦前は鉄鋼王、戦後はホテルニューオータニの創業者であった:大谷米太郎と妻の大谷さとである。 像は、宝蔵門の寄進建立をはじめ、浅草寺の復興に尽くされた夫妻讃仰のため昭和42年(1967)に造立。「功徳大宝海」の文字は清水谷恭順貫首の筆。 優しそうな大谷米太郎と物悲しげな妻の像に、なにか物語がありそうだ。 、、、、戦後の一時期は、菊池寛実(高萩炭鉱創業)、南俊二(相模鉄道社長)とともに『日本の三大億万長者』と称されたそうだ。 私も、一度でいいから『令和の大富豪』と云われてみたい!

2011260845070

2011260844200


・・・・・・・・・・・・本堂の西隣にある影向堂(ようごうどう)は、平成6年(1994)に現在地に落慶した、鉄筋コンクリート寄棟造の立派な建物。 その影向堂の西側に小さな「六角堂」がある。、、、、六角堂は、室町時代(16世紀頃)の建立で、木造単層六角型の造り。 都内最古の木造建築なり。、、、、本尊は日限地蔵尊で、日数を決めて祈るとその願いが叶うらしい。 本当に叶うなら、“三週間”の間、“コロナ撲滅”の願いを祈るのだが、信じられない! 

2011260857440

2011260853120


・・・・・・・・・・・影向堂から南西方向に50m程の処(新奥山の碑群)に「瓜生岩子の像」がある。、、、、「瓜生岩子(うりゅういわこ)」とは? 文政12年(1829)岩代耶麻郡(現:福島県耶麻郡)熱塩村の渡辺家に生れたが、9才の時父を失い、母は岩子を連れて生家へ帰った。 そのため岩子は母方の姓瓜生を称えた。 14才の時会津若松の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を勤める山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引きの防止に関心を持つに至る。 17歳で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。 明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、同22年貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努め東京でも深川と根岸で孤児たちの救護所の設置、助産婦養成や失業救済のため水飴の製法伝習所を開設し無料で講習した。 その製品の売上金は慈善事業に役立てるなどして「仏の岩子」と呼ばれた。 さらに明治26年には「済生病院」を開設するなど社会福祉事業に尽くした功績が認められ、同29年女性では最初の「藍綬褒賞」を受賞したが、翌30年福島で没した。 享年69歳。 生涯を慈善事業に捧げた岩子の善行を賞揚し、同34年(1901)篤志家によって、浅草寺境内にこの銅像が造立された。 フックラ顔で真剣に見つめている像は、『日本のナイチンゲール』です。

2011260917010


・・・・・・・・・・・・最後は、火除け、盗難除けの狸! 浅草公会堂前(伝法院通り)の伝法院山門の左側に狸が居る鎮護堂がある。 チョイト控えめな山門は素通りしてしまうかも?、、、、明治16年(1883)浅草寺中興第17世貫首唯我韶舜大僧正が、夢告により境内に棲む狸を伝法院の守護としてまつったもので、鎮護堂は伝法院境内脇にある。 現在の堂舎は、大正2年(1913)建立。、、、、境内には、狸だけでなく、水子地蔵、加頭地蔵、幇間塚なども祀られている。

2011260940120

2011260944260

2011260944040

2020年11月11日 (水)

寄席発祥の地

3ヵ月ぶりに泌尿器科の定期検診で、上野の病院に行ってきた。 数年前に、前立腺肥大の兆候があり診てもらったのが縁で、以来、定期検診を受けている。、、、、私の住む浅草橋駅周辺は、泌尿器科の不毛地帯である。 『泌尿器科 浅草橋』でWeb検索すると、10件程出てくるが、紹介状が必要な大病院が数軒、その他は、スグ診てもらえるがチョイト不安な“何でも屋”(先生一人で、内科、小児科、外科、皮膚科、婦人科、精神科など、全てOK)の診療所ばかり。 “泌尿器科”専門・準専門の診療所が無い! 婦人科・産科・小児科・性病科も、同様に不毛地帯である。 “浅草橋”の住人は、『チンチンの病に罹らず、頑張っても子宝に恵まれぬ、丈夫な体をもち、欲はなく決して質の悪い性病に罹らず、いつも静かに笑ってる、一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ、みんなに“ヨ!旦那!”と呼ばれ、褒められもせず苦にもされず、そういうものに私はなりたい』と思っているのかな?

2011110936140


・・・・・・・・・我が家から、病院へ、その後東上野のお寺を歩いてきた。 8千歩




● 検診を受け病院を出ると下谷神社(東上野3)がある。 「浅草通り」に面して、大きな一の鳥居が迎えてくれる。 扁額の字は東郷平八郎の書と云われている。、、、、下谷神社は天平2年(730)上野の忍ヶ岡に創建され、寛永4年(1627)寛永寺建立のため山下(現:岩倉高校付近)に移された。 延宝8年(1680)に現在地の北西50m程の処に移る。 その頃、本社は下谷の鎮守として広く信仰を集め、「下谷稲荷社」などとよばれたそうだ。 稲荷町という地名も、本社に由来する。 江戸時代には開帳・人形芝居などがおこなわれ、祭礼の時には盛大な行列がみられた。 明治5年(1872)に「下谷神社」と改称。 関東大震災の後、昭和3年(1928)、区画整理により現在地に移転。、、、、境内では、“梯子乗り”の練習用と思われる梯子が固定されてる。 世の中も変わり、町内の鳶職も少なくなり、後継者不足では? 稀に、落下して救急搬送される人もいるようだ、皆さん注意して!

2011110948330

2011110945380

2011110943320

2011110944470


・・・・・・・・・・・・・・・・・寛政10年(1798)下谷稲荷社境内に於て、噺の会が初めて有料で催され、これが江戸の寄席の発祥と伝えられている。 子規の句碑「寄席はねて上野の鐘の夜長哉」と並んで「寄席発祥之地」の碑が建っている。


2011110944300



● 地下鉄稲荷町駅前の交番の隣り(東上野5)に、朝日山願成院永昌寺がある。 永昌寺は永禄元年(1558)下谷長者町にて開創、寛永14年(1637)現在地に移転した。 大正12年(1923)の大震災により当時の建物は焼失している。、、、、講道館柔道の祖である嘉納治五郎が明治15年(1882)境内に12畳の道場を建てたのが講道館の始まりである。 当時の境内は、現在よりも広く2000坪程あったそうだ。 今は面影なし!

2011110953330

2011110955060



● 永昌寺の北東(松が谷1)に日蓮宗寺院の妙音寺がある。 妙音寺は、安立院日雄聖人(元和5年(1619)寂)が開山、華光院日性霊(俗姓富田半七)が開基となり、慶長15年(1611)馬喰町(現:中央区)に創建、明暦の大火により当地へ移転したと云われてる。、、、、寺は、安産飯匙(しゃもじ)の祖師を祀り、厄除け、安産守りのご利益で信仰を集めている。 手入れの行き届いた境内には大きな池もあり、鯉も悠々と泳いでいる。

2011111002370

2011111004590


・・・・・・・・・・・・・・境内には、糸・衣の神様として「金色養蚕大明神」が、古くから祀られている。 この「金色養蚕大明神」は、伝説では、インド王姫として生まれた金色姫は、継母にいじめられ、それを不憫に思った王が姫を船に乗せて海に流した。船は常陸の国に流れ着き、漁師の権太夫夫婦に助けられる。併し、金色姫は間もなく亡くなり、その霊魂または死骸が蚕となり、日本で養蚕が始まったという。 現在は、糸問屋組合が祀る神様だ!

2011111006340



● 妙音寺の斜め向かい(東上野6)に、真宗大谷派の寺院「高龍山報恩寺」がある。 報恩寺は、親鸞聖人法脈第一の直弟で二十四輩の一人でもある性信上人が建保2年(1214)下総国横曽根に創建、慶長7年(1602)江戸に移転、坂東報恩寺と称されていた。 その後市中を三転し、文化3年(1806)当地へ移転した。、、、、この法恩寺には、正月の行事「俎開き」が約800年の永きにわたり続いている。 「俎開き」とは、多分ニュースなどで見たことがあると思うが、下総国岡田郡の飯沼天満宮から献上した目の下1尺許りの鯉二尾を、住職以下役僧が見守る中、烏帽子に大紋の装束を付けた料理人が、大俎の上で箸と包丁を使ってさばいていく儀式。


2011111010080



● 報恩寺の北200m(東上野6)に浄土宗寺院の五台山文殊院源空寺がある。 源空寺は、天正18年(1590)円誉上人が湯島に創建。 湯島では多くの信者を集めて、徳川家康も円誉に帰依し江戸城に召して法を聞いていたそうだ。 慶長9年(1604)に家康は、寺地と法然上人源空の名にちなんだ源空寺の号を円誉に与えた。 寛永11年(1634)には徳川家光より洪鐘の寄進を受けた。 明暦3年(1657)の大火で類焼し、現在地へ移転。、、、、本堂は鉄骨造で建て直された。

2011111030420


・・・・・・・・・・・・・・源空寺本堂とは道路を挟んで墓地がある。 墓地には、伊能忠敬(御存知、地図作りの名人)、高橋至時(伊能忠敬のお友達で天文学者)、谷文晁(水墨山水に妙を得た江戸時代の画家)、幡随院長兵衛(江戸初期の侠客)の各墓が並んでる。 (写真は、忠敬、至時、文晁、長兵衛の順)

2011111025420

2011111026440

2011111038440

2011111027080



● 上野学園の前で、タイミングよく浅草橋方面行きのコミニュティバスが来た!、、、、乗せておくれよ、運転手さん!

2011111057160

より以前の記事一覧