台東区

2025年1月 8日 (水)

江戸三座の猿若町

年末から私の足が、度々つる(こむら返り)ので、泌尿器科でもらった頻尿の治療薬が原因かと思い、早速、泌尿器科へ行ってきた。 医者の話では、そのような副作用は考えにくいらしいが、とりあえず服用を止めることにした。 これにてこむら返りは“一件落着”となれば良いのだが?
ところで、私が通う泌尿器科は、浅草の「浅草寺」裏(馬道交差点)にあり、江戸時代の猿若町(さるわかちょう)付近にある。 現在の住居表示では台東区浅草6丁目である。、、、、診療後にチョイト猿若町をブラブラし、浅草寺を裏から抜けて、帰宅した。 8千歩



● 旧猿若町の街角に台東区で設置した「旧町名由来案内 下町しるべ 旧浅草猿若町」によると、次のように記されている。 『この地はその昔、丹波国(現在の京都府)園部藩主小出氏の下屋敷であった。天保十二年(1841)、徳川幕府は天保の改革の一環として、この屋敷を公収し、その跡地に境町・葺屋町・木挽町(いずれも現・中央区)にあった芝居小屋の移転を命じた。芝居小屋は、天保十三年から翌四年にかけて当地に移り、猿若町はできた。芝居小屋の移転とともに猿若町は、一丁目から三丁目にわけられ、一丁目には中村座および薩摩座、二丁目には市村座および結城座が移った。そして、三丁目には河原崎座が移転してきた。このうち中村座、市村座、河原崎座(=守田座)が世にいう「猿若三座(江戸三座)」である。  町名は、江戸芝居の始祖といわれた猿若勘三郎の名をとってつけたという。
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・・・・・・・・・・ “天保の改革”を推進した、老中:水野越前守忠邦は、①幕府内部の質素倹約、②庶民生活の統制、⓷農民の都市流入抑制、④経済安定を目標とて政治を行った。 その一つ庶民生活の統制を目指し、奢侈取締・風俗粛正策の一環として、江戸中の芝居小屋をここ一ヵ所に集めるために新しくつくられた町が、猿若町である。、、、、水野越前守は当初、芝居小屋を廃止するつもりであったらしい。 その時の北町奉行:遠山左衛門尉景元(あの、桜吹雪の金さん)の献言により一ヵ所に集めて、取り締まりを強化する方針に変更されたと言われてる。

・・・・・・・・・・ 各芝居小屋は、天保十三年から十四年(1842~1843)にかけて、現在の中央区人形町、銀座東から、台東区浅草へ相次いで移転した。 将軍様の御膝下から、外濠の先にある浅草の田圃に移転させられた。 もう少し北へ歩くと「べらぼう」の蔦屋重三郎の舞台である吉原がある。

・・・・・・・・・・ “猿若町”の名は、江戸歌舞伎芝居の始まりといわれる猿若勘三郎(現歌舞伎の名門:中村勘三郎の先祖)の名前から、つけられたと言われてる。猿若勘三郎は、「猿若」という名の歌舞伎狂言を創作した。

・・・・・・・・・・ 明治十年頃までに芝居小屋は各地に移転し、町の賑わいは終わり。 その後は、震災、戦災をへて、浅草の履物や革製品の問屋街に変わって行った。 中村座は明治17年に現:台東区鳥越へ、市村座は明治25年に現:台東区台東1丁目の凸版印刷本社がある処に移転した。 守田座は明治5年に中央区新富町に移転し新富座と改称。 三座とも、その後火災、震災により廃座となる。


・・・・・・・・・・ 旧猿若町の中央を南北に伸びる道を歩くと、西側に中村座(写真2番目の雪洞型)、市村座(3番目の石碑)、守田座(=河原崎座、4番目の石碑)の跡がある。
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・・・・・・・・・・ 震災、戦災で復興した現在の猿若町には、芝居小屋を当時をイメージできるものは残っていない。



● 猿若町から被官稲荷神社・浅草神社・浅草寺に参り帰宅する。
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2024年12月31日 (火)

大晦日は浅草寺

クリスマス前後からこむら返りが頻発し、一昨日の朝はとうとう両足同時に“痛い・痛い・助けて~・死にそうだ!”状態となった。 今日も、ふくらはぎが筋肉痛のような痛みで、歩くこともままならず。(どうやら自分が推定するには、泌尿器科でもらった夜間頻尿の治療薬の副作用と思われる。 昨日から服用を止めた!)、、、、今日は大晦日、妻が『年越し蕎麦どうする? 浅草行く? それとも、家で食べる?』(我が家では例年、年の終わりには浅草寺参りを兼ね、浅草で蕎麦を食している) 老々の二人だけでの年越し、我が家で食べるのも味気ないので、私の一言『浅草へ行こう!』 痛みをこらえ、ビッコの足で、夕刻二人で浅草へ・・・・・



● 浅草寺へ行く前に、まずは我が家の氏神様、浅草橋駅裏に鎮座する「銀杏岡八幡神社」に、一年大過なく過ごせたことを御礼する。、、、、  銀杏岡八幡神社の創建年代は不詳だが、源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、小高い丘だった当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途、康平5年(1062)に当社を創建したと伝えられている。 江戸時代に入り、福井藩松平家屋敷地となり、松平家の邸内社となったものの、享保十年(1725)公収され我が町内(福井町)の産土神となったと言われてる。
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● 浅草寺は今日もインバウンドが多いこと! 雷門から仲見世通りを抜け、仁王門、本堂へ向かう人の列。、、、、痛い足をひきずりながら、横目で美人をチラチラ眺め、人を避けて歩くことの難しさを実感する。
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● 御参り済ませて、年越し蕎麦を食べながら、『来年もまた年越し蕎麦を食べようね!』
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● スカイツリーを遠くに眺め、家路を急ぐ。
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2024年12月24日 (火)

閻魔さまとお不動さま

のんびり我が家(浅草橋)から深川の不動堂まで、年末の御礼詣りに行ってきた。 1万歩の散歩

● 朝9時45分、浅草橋の我が家から歩きだす。、、、、浅草橋駅周辺の人形屋では、クリスマスは飛ばして、雛人形が既に店頭に並んでいる。 季節の先取りかな? 
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● 神田川に架かる浅草橋を渡り台東区から中央区に入る。、、、、浅草橋交差点にある、昭和4年(1929)建築の、装飾付タイル張りの古風なデザインがイイ感じの「玉置文治郎ビル」、1階は老舗の玉置薬局。 外壁のスクラッチタイルの装飾もイイ、1階から3階アーチ窓までの縦の並びもイイね!(一見は百聞に如かず)
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● 10時、都営浅草線の東日本橋駅前を通過。、、、、近くの薬研堀不動院(川崎大師東京別院)にチョイト立ち寄る。 薬研堀不動院は、天正13年(1585)豊臣秀吉による根来攻めに際して、根来寺の大印僧都が不動尊像を背負って東国へ逃れ、当地に創建したと伝えられている。 境内には、順天堂の始祖と仰がれている佐藤泰然(たいぜん)が、天保9年(1838)に和蘭(オランダ)医学塾を開講した場所と記した「順天堂発祥之地」の石碑が建っている。
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● 我が家を出てから30分:時刻は10時15分、明治座前を通過。 東京で最も長い歴史を持つ劇場である明治座は、明治6年(1873)の創業。 昨年は創業150周年を迎えた。 150年の歴史の中では幾たびもの災厄に見舞われながらも、その都度再建され復興を遂げてきた明治座。 現在は、18階建ての「浜町センタービル」の中に劇場がある。
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● 明治座から清州橋へ向かう途中、浜町神社、金刀比羅宮の二社がある。、、、、浜町神社は天明年間(1781~1789)島津家下屋敷に島津稲荷大神を祀ったのが始まり、安政4年(1857)島津家が付近一帯の土地を拝領したとき、一堂を建立して地域発展のために大いに寄与し、以来「島津稲荷」として人々から敬篤された。関東大震災で焼失、昭和5年再建、同20年戦災、同27年再建され名称も浜町神社と改められた。、、、、金刀比羅宮は、天明3年(1783)創建、隅田川往来の船人の守護神として信仰を集めたと言われてる。 今も残る玉垣には、料亭の名や、「葭町(よしちょう、現:人形町)芸妓組合」の文字が多く刻まれている。 きっと、芸者さんの多くも手を合わせた神社かな?
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● 10時30分、隅田川に架かる清州橋を渡り、中央区から江東区に入る。、、、、清洲橋は両岸の町名の日本橋中州と清澄から一字づつとって名付けられました。構造は日本で唯一の自碇式チェーン吊り橋で、モデルは当時美しいと評判だったドイツケルンのヒンデンブルグ橋と言われてる。 関東大震災の復興橋で、橋長 186.3m、幅員 22.0m、昭和3年(1928)3月竣工、設計は鈴木精一(意匠面では建築家の山田守や山口文象の関与があった)。 国の重要文化財。
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● 清澄公園を抜ける。 清澄公園の隣りには清澄庭園がある、こちらは有料の庭園。 かつて、清澄公園と清澄庭園は一体で、三菱の創始者である岩崎弥太郎が明治期に完成させた庭園である。
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● 深川2丁目の心行寺に寄る。 心行寺は深川七福神の福禄寿を祀る寺。 
浄土宗寺院の心行寺は、雙修山養源院と号す。 心行寺は、光蓮社団誉一露屋道が開山、吉川監物殿内室が開基となり、元和2年(1616)八丁堀に創建、寛永10年(1633)現在地に移転したと言われてる。、、、、福禄寿が安置されている六角堂は、正月の“深川七福神巡り”に向けて、準備はOKか?
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 11時、本日の散歩の目的地である“深川ゑんま堂”に到着。 深川ゑんま堂は、真言宗豊山派の法乗院で賢台山賢法寺と号す。 法乗院は寛永6年(1629)深川富吉町に創建、寛永18年(1641)には現在地(深川2丁目)に移転した。 江戸三閻魔の一つらしいが、昔の閻魔堂は戦災で焼けた。 現在は平成元年(1989)に再建された“ハイテク閻魔様”で、賽銭を入れるとコンピューター制御で堂内には煌びやかに照明が灯り、スポットライトが回り、願い事に応じた説教が流れてくる見世物小屋並みの、高さ3.5mの大きな閻魔がある。、、、、、、、笑っちゃいけないが、笑いたくなる、これぞ“笑い地獄”か? 古さを感じることができない、現代風のモダンな寺だ!、、、、知らず・気づかずの悪行を詫びて、『今年も一年、ゴメンナサイ』
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● 閻魔さんの次はお不動さん。 お不動さんが祀られているのは成田山新勝寺の東京別院。 この別院は、元禄16年(1703)に始まった成田新勝寺の出開帳が深川不動の起こりで、明治14年(1881)不動堂が完成した。、、、、勇ましいいでたちの不動明王は仏法を守護し、人々を災いや迷いから救ってくれる有難い仏です。 災い・迷いの少ない私であるが、『来年も、災い迷いの無いことを願い』手を合わせてきた。
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● 閻魔さま、お不動さまに手を合わせ、散歩の終わりは12時だ!、、、、あとはバスで帰るだけ!

2024年11月26日 (火)

隅田公園から三囲神社へ

隅田公園から向島の三囲神社まで歩いてきた。



● 東武鉄道浅草駅の前から隅田公園(台東区)に入り、朝の公園をブラブラ。

・・・・・・・・・・ 朝日に輝く隅田川 チョイトまぶしい!
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・・・・・・・・・・ 秋らしい色に染まってきた公園
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・・・・・・・・・・ 公園の中には、多くの石碑・歌碑・説明板がある。 その内の一つ、昭和25年(1950)から昭和35年(1960)の間、隅田公園(言問橋西詰)周辺には、「アリの街」と呼ばれ、戦災で家や家族を失った人々が廃品回収を生業に働き共同生活する場が存在していた。 現在は整備され当時の様子を物語るものは残っていないが、数年前台東区により、その場所に案内板が設置された。、、、、説明板には『昭和25年(1950)、この地に戦災で家や家族を失った人々が廃品回収を生業に働き共同生活する場が誕生しました。 人々はアリのように勤勉に働き、助け合って生活したことから、アリの街と呼ばれました。 「アリの街のマリア」として知られる北原怜子は、全国の戦争孤児の救済に尽力したポーランド人のゼノ・ゼブロフスキー修道士に導かれ、裕福な家庭の出身ながら、病に冒され二十八歳の短い生涯を閉じるまで、アリの街に移り住み、子ども達を支え続けました。 昭和35年(1960)、アリの街は東京都の要請により江東区に移転されました。 北原怜子の活動は後に映画や舞台化もされ、平成27年(2015)にカトリック教会から日本人女性としてはただ一人「尊者」の称号を得ました。』
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・・・・・・・・・・ 言問橋と桜橋の中間、待乳山聖天と三囲神社を結ぶように、渡し船「竹屋の渡し」があった。 渡しの創設年は不明だが、文政年間(1818~1830)には既にあったそうだ。 昭和3年(1928)言問橋の架設によって、渡しは廃止となったらしい。
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・・・・・・・・・・ 江戸時代、隅田川から遊里「
吉原」へ通う猪牙船(ちょきぶね)が往来した山谷堀。 その山谷堀の最下流(現在の台東リバーサイドスポーツセンタ付近)に架けられた橋が「今戸橋」である。 今戸橋が最初に整備された時期は不明だが、江戸時代に橋を架け渡すという記載が文献に残っているそうだ。 この橋の下を吉原通いの船が通った頃には、その船を親不孝舟などといったといい、「今戸橋上より下を人通る」というほどのにぎわいだったと言われている。 現存する欄干は、大正15年(1926)に竣工した橋の欄干で、山谷堀の埋立てに伴い、昭和62年(1987)現在のような形となった。 
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・・・・・・・・・・ 隅田公園にあった石碑、もう一つ紹介する。 言問橋西詰の公園内に「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」がある。、、、、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。 その亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。 台東区では、戦後40年(昭和61年)に、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、忘れることが無きよう、この地に碑を建立した。(合掌)
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● ただいま補修工事中の言問橋を渡り、台東区から墨田区へ入る。、、、、朝8時過ぎ、まだ人の動きも少なく静かだ! 
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● 言問橋を渡ると、東詰交差点の手東詰「見番通り」と表示された裏通りに入る。 この道を200m程歩くと向島の花街に「三囲神社(みめぐりじんじゃ)」がある。、、、、宇迦之御魂命を祭神とする囲神社の創建年代は不詳であるが、文和年間(1353~1355)に、近江三井寺の僧源慶が東国遍歴の際に社を改築したと云われている。 その改築をするとき、土を掘ると壺が出土し、白狐にまたがる老翁の像が出てきた。 すると、どこからか白狐が現れ、像の周りを三回回った死んだ、三囲神社の名はこの話に由来するそうだ。、、、、、三井家(越後屋=三越)が江戸に進出すると、社号に使われる文字「」が、三井の「」に塀を張り巡らせて守っているように見えることから、三井家の守護神として崇敬された。 今でも三井家と三井系企業に信仰されている三井家御用達の神社。

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・・・・・・・・・・ 三囲神社のシンボルか? 享和2年(1802)に奉納された、目尻のさがった温和な表情の神狐
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・・・・・・・・・・ 境内には多くの境内社と、歴史を感じさせる歌碑・塚などがある。 その中には三井家に関連する物も多い。、、、、三越呉服店の会長であった日比翁助(ひびおうすけ)の石垣の歌碑『いしがきの 小石大石持合ひて 御代はゆるがぬ 松ヶ枝の色』、、、、三越池袋店のライオン像、、、、明治時代になって拠点を京都から東京に移した呉服商の三井家は、養蚕の神=木嶋神社(京都太秦)を崇敬していた、境内にある三柱鳥居は木嶋神社の鳥居を模して建てられた。
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● 三囲神社をあとにして見番通りを北へ200m程歩くと「向嶋墨堤組合」の建物がある。 ここが、向島芸者の総まとめ「見番(けんばん)」だ!、、、、向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、現在、10軒の料亭が加盟し、120名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について日々修練しているそうだ。、、、、自分の若い頃、一度は行ってみたかった芸者遊び、今は「遊んでみたいが  体力なし」
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● 見番通りをさらに北へ100m、黄檗宗の寺院「牛頭山 弘福寺」がある。、、、、弘福寺は延宝元年(1673)黄檗宗の鉄牛和尚の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院。 江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。 関東大震災で罹災したが、昭和8年(1933)に、中国の黄檗寺にならって、本堂が大明式建築で再建された。 山門も、昭和8年の再建で、前に控柱が4本あり、門の中央部が2階建てとなっている。、、、、
建物に中国の名残が強く、どこか異国情緒が感じられる、都内でも数少ない黄檗宗の寺院だ!
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● 桜橋を渡り、再び隅田公園に入り、浅草橋の我が家に戻る。 1万歩

2024年11月 5日 (火)

一の酉

今日11月5日は一の酉、朝食も済み、妻の化粧も終わり、洗濯も干して、夫婦で鷲神社(おおとりじんじゃ)・長国寺(ちょうこくじ)に参拝してきた。、、、、鷲神社は天日鷲命、日本武尊、を祀る由緒正しい神社。 現在は「おとりさま」として一般にも親しまれ崇敬を集めてる。 11月の例祭も現在は「酉の市」として全国的に広く知られているようだ。 社伝によると天照大御神が天之岩戸に隠れた際に、天宇受売命が岩戸の前で舞った折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸を開いた時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だと喜び、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神天日鷲命と称されることになった。 天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神としてこの地(台東区千束)に祀られた。 後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをした。 その日が11月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭、「酉の市」となった。 この故事により日本武尊が併せ祭られ、祭神の一柱となった。、、、、、長国寺は江戸時代初期、寛永7年(1630)に石田三成の遺子といわれる、 大本山-長國山鷲山寺(じゅせんじ)第13世・日乾(にちけん)上人によって、浅草寺町に開山した。 山号を鷲在山(じゅざいさん)寺号を長國寺と称す。 寛文9年(1669)には坂本伝衛門氏の後ろだてにより、新吉原の西隣にあたる現在の地(台東区千束、鷲神社の隣り)に移転し、江戸時代から続く代表的な年中行事である、浅草酉の市の発祥(?)の寺として、今日に至る。、、、、我が家では、鷲神社で御守りの熊手を、長国寺では火除けの纏の御守りを受けてきた。 今年は二の酉、三の酉まであり、ぜひぜひ皆さんも参拝し、商売繁盛、災難消滅ついでに一攫千金も祈願して、年末ジャンボは1等当選! 年が明けたら大金持ちだ!!
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・・・・・・・・・・ 熊手やさんは既に商売繁盛!
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2024年11月 1日 (金)

東京大衆歌謡楽団

これまで上野の病院(泌尿器科)で診てもらってた泌尿器の予防治療について、浅草の泌尿器科クリニックを紹介され、今年の夏からこちらで診てもらうことになった。 クリニックは浅草寺の裏側(北側)に位置し、浅草橋の我が家からは雷門を入り、浅草寺、浅草神社を抜けて馬道交差点にあるクリニックに行く。 帰りは当然その逆である。

今日は月1回程の診察日、おしっこ採られて、もちろん『異常なし』



帰りに浅草神社の境内に入る直前、聞き覚えのある声で懐かしい昭和歌謡が聞えてきた。 『あっ、あの声は東京大衆歌謡楽団だ!』 久しぶりに出会った、東京大衆歌謡楽団の野外演奏である。 境内には大勢の中高年が、身体を左右に振って、手拍子合わせ、口はパクパク、真剣に聞き入ってる。 私もみんなの後ろで手拍子合わせ歌に聞き入る。

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東京大衆歌謡楽団」は高島四兄弟が中心となって平成21年(2009)に結成された(今年は結成15周年)、昭和の流行歌などを演奏するバンドである。 私が初めてバンドを知ったのは、十数年前に隅田公園で演奏を聴いた時だった。 『おや? 誰か東海林太郎の真似してる それにしても上手だな!』と思った時だ。 以後、上野公園などで演奏してる場に出会ったことがしばしばあった。(最近は地方公演なども多く、いそがしそうだ)、、、、今日(11月1日)は浅草神社へ、バンドの奉納演奏だった。 四兄弟の長男:高島孝太郎さんの歌声、東京ラプソディ、青い山脈など心に響きいいね! また、弟の雄次郎さんのアコーディオン、龍三郎さんのウッドベース、圭四郎さんのバンジョーが奏でる音色もGood! 

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素晴らしい歌声で、懐かしい感じがとても良いね。 楽しい気分になって浅草神社をあとにする、ありがとう!
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2024年4月 6日 (土)

も一度 花見

一週間前は“開花”宣言直後の花見で、ガッカリ、残念! 今日は“満開”直後の花見で、綺麗だ、満足!、、、、上野公園に行ってきた




● 午前9時過ぎ、上野駅から花見客がゾロゾロ。 屋台はオープン前の準備中。 東京国立博物館前は入場前の長蛇の列。 動物園は既に開園しお客さんが入園。

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上野公園の桜は満開! まだ午前中、場所取りも少ない、桜の下の宴会はまだだ! 静かに花を見て歩く。

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● 桜からチョイト離れて、医薬祖神の五條天神社と古くからこの地にあった花園稲荷神社に寄って行く。

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不忍池を一回り。 こちらも花見客がゾロゾロ。 それにしても、半数以上は外人だ! 8割以上は東南アジア系の人たちだ! 欧米系の外人さんは皇居周辺の千鳥ヶ淵・靖国神社で花見かな? 

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2024年3月31日 (日)

まだ早かった!

東京の桜は、例年より二週間程度遅れ、一昨日開花宣言が出た。 昨日・今日と連日の20℃超えの陽気、この分では、今日あたり一斉に開花して三分咲きぐらいにはなっているだろうと推測し、今日は妻と東京の桜の名所「隅田公園(台東区側)」に、散歩と買物を兼ねて行ってきた。




隅田公園のソメイヨシノは写真のごとく一分咲き(?) どの木も開花した桜を探す程、『まだ 早かったね!』 『やっぱり 満開までは一週間程かかるようだ!』

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● 対岸の墨田区側の桜並木も咲いてない! 『桜まつり』のボンボリと旗が目立つが、人影はまばらだ。

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● ソメイヨシノの桜並木を見ることができず観光客はチョイト残念。 八重桜、河津桜、花桃などが咲いて、落胆する花見客を慰めてくれる。 タンポポも参加して!

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● 公園には「三春滝桜」(平成25年(2013)福島県田村郡三春町から寄贈された)の子孫木が植えられてる。 こちらは三分咲きぐらいかな? 

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● 隅田公園の「桜祭り」は、今年は、3月17日(日)~4月7日(日)の期間で開催してる。 これでは、満開の頃にお祭り終了となりそうだ。 チョイト読みを間違えたかな!、、、、今日は神輿がくりだし、町火消しも出て、多彩なイベントがあるようだ。

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2024年2月19日 (月)

意地で1万3千歩

最近歩く機会が少なく、体力が落ちてきたかも?? 今朝、食事をしながら『チョイト、歩いてくるね』 TVの天気予報は、文京区の椿山荘からLIVE中継。 『アレ、傘さしてる!』 食事が済んで外を見ると、我が家の周辺は濡れているが、雨は止んでる。 妻『傘を持って行ってね!』 私『雨は降らない、もし降ったらすぐに帰って来る。 男の散歩に傘は邪魔だ!』 傘を持たずに飛び出した。




● 家を出たが、さてさて何処へ行こうかな? 家を出て1分『アレ、雨粒が落ちてきた。 コリャ、遠くに行けないな』 本降りになっても、すぐにバスに乗って帰れるように浅草方面に歩きだす。 我が家と同じ町にある「須賀神社」に手を合わせ、『雨がやみますように!』と神頼み。

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蔵前一丁目交差点に来ると、傘をさす人も多い。 ココまで、我が家から真直ぐ歩いて、徒歩8分。 いまさら、我が家に戻って『散歩は止めた!』と妻に言うのは男として情けない! もう少し歩いて、本降りになったら帰ることにしようと決める。、、、、『この雨、本降りになるかも?』チョイト、不安がよぎる。 『そうだ、川向こうの東京都慰霊堂に行こう!』雨が降っても雨宿りできる。 これより、蔵前橋通りを歩く。

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● 小雨がパラパラ。 カメラが濡れるのを拭きながら蔵前橋を渡る。

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東京都慰霊堂に来ると、傘をさす学生も少ない。 雨は霧雨となった。 これなら、もうチョイト歩いて見よう!

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石原三丁目交差点まで来ると、雨は止んだ。 服は湿っぽくなったが、『ヨシ、もう少し散歩を続けよう!』 

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法恩寺橋を渡る頃には、道は乾き、雨は完全に止んだ。 これで、今日散歩に出た、男の面目が立った!

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錦糸町駅近くを通過。 傘をさす人はいない。

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天神橋を渡り、くず餅屋さん亀戸天神前を通過。 男の意地で小岩駅まで歩くつもり。

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東武亀戸線を越える頃、チョイト足が痛くなってきた。 アリャ、コリャ、歳だな、脚力が弱くなったか?、、、、江東新橋を渡り、江戸川区に入る。

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● 江戸川区に入り、平井駅前のタワマン工事現場まで来ると、足の疲れが出た! 我が家の家訓(?)、“年寄りの 無理は禁物”を思い出し、今日の散歩はここ平井駅までとする。 小岩まで歩くつもりが平井でギブアップ、1万3千歩の散歩でした。

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2024年1月28日 (日)

東京駅八重洲口まで

寒波の影響で連日東京の気温は10℃に達せず、都心(大手町)では今朝9時の気温は7.7℃、外出するのを躊躇(ためら)う寒さだ! 『今日の散歩は、寒いから近場にしよう!』と思い、我が家(浅草橋)から東京駅まで、1万歩の散歩となった。




● 朝8時、浅草橋駅前をスタートする

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● 浅草橋駅前の「人形の久月」は、天保6年(1835)創業。 江戸時代からの三階建ての大きな土蔵造りの旧店舗は、昭和51年(1976)に現在のビルに建て替えられたが、正面玄関に掲げられている「久月総本店」の看板は昭和初期に作られたもの。 この看板は、当時蔵前の華徳院(現在の浅草橋2丁目付近にあった、閻魔王を本尊とする寺。 関東大震災後、杉並区松ノ木へ移転)の住職でもあった書家、豊道春海師の揮毫(きごう)によるものだ。、、、、私の知る戦後の久月では、土蔵造りの黒光りした重厚な旧店舗に、この看板が掲げられていた。 まさに江戸時代からの老舗である。 

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● 神田川を越えて中央区に入り、中央区日本橋横山町4丁目に「大原第5ビル」がある。 この建物は、昭和4年(1929)、清水組(現:清水建設)の設計施工で竣工した。 現在は、ヘアーサロン、飲食店、ブティックなどが入居しているテナントビルだ。

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● 日曜日の朝、人影のない日本橋富沢町。 日本橋富沢町は、寝具メーカーの「西川」など繊維関係の企業が多いビジネス街。

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・・・・・・・・・・ 日本橋富沢町の一角に残る国登録有形文化財の旧川崎貯蓄銀行富沢町支店(昭和7年(1932)竣工、3階部分は後に増築)。、、、、現在は「ハリオグラス」の所有となっているが、旧川崎貯蓄銀行富沢町支店→旧常陽銀行東京支店→旧常陽銀行堀留支店→ハリオグラスと変遷した。 外観は、明治から昭和初期にかけて多く見られる銀行建築の建物、西欧古典主義様式によるデザイン。 隅切りされた角に正面玄関を配した設計は、この建物を特徴的なものにしている。

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● 日本橋富沢町の隣り、日本橋堀留町に“宝くじの神様”がいる、椙森神社(すぎのもりじんじゃ)がある。、、、、椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれている。 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために伏見稲荷の「伍社の神」を勧請して厚く信仰した神社である。 そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めた。、、、、また、しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当椙森神社の富も人々に人気があった。 早い話、神社で宝くじを発行し、江戸の復興財源とした。 現在でも、“〇〇地震復興宝くじ”などを発売して災害復興支援するのと同じだ。 私も、チョイト協力して宝くじを買わせてもらっているが、チットモ当たらない。 今日も拝殿横にある「富塚」にも手を合わせ、『欲張って10億とはいいません、1億でいいです。 ナニトゾ、ヨロシク』と祈る。

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● 椙森神社のある日本橋堀留町も、日本橋富沢町と同じように繊維・衣料関係の企業が並ぶ商業地である。 地名の“堀留”とは、江戸時代に堀留町に日本橋川から舟運物資の荷揚げ用に堀割がつくられたが、町中の先で堀割が行止まりとなっていたことに由来する。 この堀割(東堀留川)は戦後まで残っていたが、昭和20年の終戦を迎え、戦災で被害を受けた東京を復興するため、戦災で発生した残土・ガラ・廃材などを処分する場所として東堀留川が埋め立てられた。 東堀留川の埋立ては昭和23年(1948)から始まり、翌年には完了した。 埋め立てられた跡地は、現在は堀留児童公園として整備されている。、、、、白黒写真は堀留児童公園にある、東堀留川の説明板に表示されてた、昭和23年の東堀留川

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本町2丁目交差点昭和通りを越えると、日本橋三越前に出る。

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・・・・・・・・・・ 三越本店の建物(国指定重要文化財)は、昭和10年(1935)に完成、ルネッサンス式建築の威容を誇り、当時は国会議事堂、丸ビルに次ぐ大建築物であった。 本館正面玄関には待ち合わせの場所として親しまれる「三越の守護神」とも言うべき「ライオン像」が客を迎える。

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・・・・・・・・・・ 三越の隣りには、こちらも国の重要文化財である旧三井本館の建物がある。 この建物は、米国のトローブリッジ&リヴィングストン事務所が設計、ジェームズ・スチュワート社が施工をする形で大正15年(1926)に着工、昭和4年(1929)に竣工した。 完成した建物はアメリカンボザールと呼ばれ、新古典主義様式による鉄骨鉄筋コンクリート造、地上5階(現在は7階)で地下2階という当時では丸ノ内ビルヂングに次ぐ大きなビルであった。、、、、【余談だが】“新NISA”をやるにあたり、銀行発行の書類が必要となり三井住友銀行の浅草橋支店にもらいに行った。 しかし、三井住友銀行浅草橋支店は昨年から、建物とATMだけ浅草橋に残し、店舗の窓口業務はここ三井本館内の日本橋支店で行うことになっていた。 仕方なく、先週、私はこの建物の中にある日本橋支店に初めて入ってきた。 内部は、高い天井と大きな太い柱が並ぶ広い宮殿のような建物で、ビックリ、感動だった。 これからは、家の近くの浅草橋支店はATMだけの扱いとなり、窓口業務は日本橋支店となりチョイト不便になったが、この建物の内部が見られるのは嬉しいね。

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・・・・・・・・・・ 三井本館の西隣には日本銀行本館がある。 こちらも国の重要文化財。、、、、明治初期、国家の主要な建築物の設計は、お雇い外国人によって行われていた。 日本銀行は、日本人建築家が設計を手がけた最初の国家的な建物である。 日本銀行の設計を担う辰野金吾は、1年間欧米の銀行建築を視察・調査し、コンドルの師であるロンドンのバージェス事務所で計画案をつくった。 建物は、ベルギー国立銀行を参照したともいわれる。 バロック様式をもちながら迫力に欠けた建物とも評されているが、その理由は、大オーダーや軒高欄などバロック様式の要素をもちながらも、基壇にあたる1階部分が高すぎ、大オーダーが小さく見える点にあるらしい。 だが誰が何と言おうとも日本人が最初に手掛けた近代日本の代表的明治建築である。、、、、建物の諸元は建築年:明治29年(1896)、設計者:辰野金吾、構造:煉瓦造・石造、規模:地下1階・地上3階、、、、内部を見てみたいが、日銀総裁か警備員にならないとダメかも?

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● 日本銀行から南へ歩くと、日本橋川に架かる一石橋(いっこくばし) がある。 三週間ほど前に歩いて来た常盤橋の下流側に架かる橋。、、、、江戸時代から存在した橋であるが、大正時代に架けられた石積みの橋も、平成11年(1999)までに現在の2径間連続RC床版鈑桁橋に架け替えられた。 大正時代の橋の面影は現存する親柱だけである。、、、、下流側に架かる日本橋の景観を守るため、一石橋の頭上を走る首都高の撤去工事が始まっていた。 数年後には首都高が無くなった一石橋が見られるかも、生きていたら(?)

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・・・・・・・・・・ 江戸期から明治期にかけて一石橋の付近はかなりの繁華街であり、迷い子が多く出た。 当時は迷い子は地元が責任を持って保護するという決まりがあり、地元西河岸町の人々によって安政4年(1857)に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」が一石橋南詰に建てられた。 しるべの右側には「志(知)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られて、上部に窪みがある。使用法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたという。 この石標と同じようなものが、浅草寺境内や湯島天神境内(奇縁氷人石)に残されている。

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● 一石橋から東京駅八重洲口は近い。 白い大きなテントを張った「グランルーフが見えた。

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・・・・・・・・・・ 駅前から、日本橋、浅草橋経由、南千住車庫前行きのバスで帰ることにした。 『オヤ? 誰も乗ってない、貸し切りか!』 出発間際に年寄りが一人乗って来た、私と同じ『敬老パス』の利用者だ。

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