台東区

2024年4月 6日 (土)

も一度 花見

一週間前は“開花”宣言直後の花見で、ガッカリ、残念! 今日は“満開”直後の花見で、綺麗だ、満足!、、、、上野公園に行ってきた




● 午前9時過ぎ、上野駅から花見客がゾロゾロ。 屋台はオープン前の準備中。 東京国立博物館前は入場前の長蛇の列。 動物園は既に開園しお客さんが入園。

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上野公園の桜は満開! まだ午前中、場所取りも少ない、桜の下の宴会はまだだ! 静かに花を見て歩く。

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● 桜からチョイト離れて、医薬祖神の五條天神社と古くからこの地にあった花園稲荷神社に寄って行く。

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不忍池を一回り。 こちらも花見客がゾロゾロ。 それにしても、半数以上は外人だ! 8割以上は東南アジア系の人たちだ! 欧米系の外人さんは皇居周辺の千鳥ヶ淵・靖国神社で花見かな? 

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2024年3月31日 (日)

まだ早かった!

東京の桜は、例年より二週間程度遅れ、一昨日開花宣言が出た。 昨日・今日と連日の20℃超えの陽気、この分では、今日あたり一斉に開花して三分咲きぐらいにはなっているだろうと推測し、今日は妻と東京の桜の名所「隅田公園(台東区側)」に、散歩と買物を兼ねて行ってきた。




隅田公園のソメイヨシノは写真のごとく一分咲き(?) どの木も開花した桜を探す程、『まだ 早かったね!』 『やっぱり 満開までは一週間程かかるようだ!』

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● 対岸の墨田区側の桜並木も咲いてない! 『桜まつり』のボンボリと旗が目立つが、人影はまばらだ。

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● ソメイヨシノの桜並木を見ることができず観光客はチョイト残念。 八重桜、河津桜、花桃などが咲いて、落胆する花見客を慰めてくれる。 タンポポも参加して!

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● 公園には「三春滝桜」(平成25年(2013)福島県田村郡三春町から寄贈された)の子孫木が植えられてる。 こちらは三分咲きぐらいかな? 

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● 隅田公園の「桜祭り」は、今年は、3月17日(日)~4月7日(日)の期間で開催してる。 これでは、満開の頃にお祭り終了となりそうだ。 チョイト読みを間違えたかな!、、、、今日は神輿がくりだし、町火消しも出て、多彩なイベントがあるようだ。

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2024年2月19日 (月)

意地で1万3千歩

最近歩く機会が少なく、体力が落ちてきたかも?? 今朝、食事をしながら『チョイト、歩いてくるね』 TVの天気予報は、文京区の椿山荘からLIVE中継。 『アレ、傘さしてる!』 食事が済んで外を見ると、我が家の周辺は濡れているが、雨は止んでる。 妻『傘を持って行ってね!』 私『雨は降らない、もし降ったらすぐに帰って来る。 男の散歩に傘は邪魔だ!』 傘を持たずに飛び出した。




● 家を出たが、さてさて何処へ行こうかな? 家を出て1分『アレ、雨粒が落ちてきた。 コリャ、遠くに行けないな』 本降りになっても、すぐにバスに乗って帰れるように浅草方面に歩きだす。 我が家と同じ町にある「須賀神社」に手を合わせ、『雨がやみますように!』と神頼み。

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蔵前一丁目交差点に来ると、傘をさす人も多い。 ココまで、我が家から真直ぐ歩いて、徒歩8分。 いまさら、我が家に戻って『散歩は止めた!』と妻に言うのは男として情けない! もう少し歩いて、本降りになったら帰ることにしようと決める。、、、、『この雨、本降りになるかも?』チョイト、不安がよぎる。 『そうだ、川向こうの東京都慰霊堂に行こう!』雨が降っても雨宿りできる。 これより、蔵前橋通りを歩く。

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● 小雨がパラパラ。 カメラが濡れるのを拭きながら蔵前橋を渡る。

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東京都慰霊堂に来ると、傘をさす学生も少ない。 雨は霧雨となった。 これなら、もうチョイト歩いて見よう!

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石原三丁目交差点まで来ると、雨は止んだ。 服は湿っぽくなったが、『ヨシ、もう少し散歩を続けよう!』 

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法恩寺橋を渡る頃には、道は乾き、雨は完全に止んだ。 これで、今日散歩に出た、男の面目が立った!

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錦糸町駅近くを通過。 傘をさす人はいない。

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天神橋を渡り、くず餅屋さん亀戸天神前を通過。 男の意地で小岩駅まで歩くつもり。

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東武亀戸線を越える頃、チョイト足が痛くなってきた。 アリャ、コリャ、歳だな、脚力が弱くなったか?、、、、江東新橋を渡り、江戸川区に入る。

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● 江戸川区に入り、平井駅前のタワマン工事現場まで来ると、足の疲れが出た! 我が家の家訓(?)、“年寄りの 無理は禁物”を思い出し、今日の散歩はここ平井駅までとする。 小岩まで歩くつもりが平井でギブアップ、1万3千歩の散歩でした。

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2024年1月28日 (日)

東京駅八重洲口まで

寒波の影響で連日東京の気温は10℃に達せず、都心(大手町)では今朝9時の気温は7.7℃、外出するのを躊躇(ためら)う寒さだ! 『今日の散歩は、寒いから近場にしよう!』と思い、我が家(浅草橋)から東京駅まで、1万歩の散歩となった。




● 朝8時、浅草橋駅前をスタートする

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● 浅草橋駅前の「人形の久月」は、天保6年(1835)創業。 江戸時代からの三階建ての大きな土蔵造りの旧店舗は、昭和51年(1976)に現在のビルに建て替えられたが、正面玄関に掲げられている「久月総本店」の看板は昭和初期に作られたもの。 この看板は、当時蔵前の華徳院(現在の浅草橋2丁目付近にあった、閻魔王を本尊とする寺。 関東大震災後、杉並区松ノ木へ移転)の住職でもあった書家、豊道春海師の揮毫(きごう)によるものだ。、、、、私の知る戦後の久月では、土蔵造りの黒光りした重厚な旧店舗に、この看板が掲げられていた。 まさに江戸時代からの老舗である。 

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● 神田川を越えて中央区に入り、中央区日本橋横山町4丁目に「大原第5ビル」がある。 この建物は、昭和4年(1929)、清水組(現:清水建設)の設計施工で竣工した。 現在は、ヘアーサロン、飲食店、ブティックなどが入居しているテナントビルだ。

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● 日曜日の朝、人影のない日本橋富沢町。 日本橋富沢町は、寝具メーカーの「西川」など繊維関係の企業が多いビジネス街。

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・・・・・・・・・・ 日本橋富沢町の一角に残る国登録有形文化財の旧川崎貯蓄銀行富沢町支店(昭和7年(1932)竣工、3階部分は後に増築)。、、、、現在は「ハリオグラス」の所有となっているが、旧川崎貯蓄銀行富沢町支店→旧常陽銀行東京支店→旧常陽銀行堀留支店→ハリオグラスと変遷した。 外観は、明治から昭和初期にかけて多く見られる銀行建築の建物、西欧古典主義様式によるデザイン。 隅切りされた角に正面玄関を配した設計は、この建物を特徴的なものにしている。

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● 日本橋富沢町の隣り、日本橋堀留町に“宝くじの神様”がいる、椙森神社(すぎのもりじんじゃ)がある。、、、、椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれている。 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために伏見稲荷の「伍社の神」を勧請して厚く信仰した神社である。 そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めた。、、、、また、しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当椙森神社の富も人々に人気があった。 早い話、神社で宝くじを発行し、江戸の復興財源とした。 現在でも、“〇〇地震復興宝くじ”などを発売して災害復興支援するのと同じだ。 私も、チョイト協力して宝くじを買わせてもらっているが、チットモ当たらない。 今日も拝殿横にある「富塚」にも手を合わせ、『欲張って10億とはいいません、1億でいいです。 ナニトゾ、ヨロシク』と祈る。

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● 椙森神社のある日本橋堀留町も、日本橋富沢町と同じように繊維・衣料関係の企業が並ぶ商業地である。 地名の“堀留”とは、江戸時代に堀留町に日本橋川から舟運物資の荷揚げ用に堀割がつくられたが、町中の先で堀割が行止まりとなっていたことに由来する。 この堀割(東堀留川)は戦後まで残っていたが、昭和20年の終戦を迎え、戦災で被害を受けた東京を復興するため、戦災で発生した残土・ガラ・廃材などを処分する場所として東堀留川が埋め立てられた。 東堀留川の埋立ては昭和23年(1948)から始まり、翌年には完了した。 埋め立てられた跡地は、現在は堀留児童公園として整備されている。、、、、白黒写真は堀留児童公園にある、東堀留川の説明板に表示されてた、昭和23年の東堀留川

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本町2丁目交差点昭和通りを越えると、日本橋三越前に出る。

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・・・・・・・・・・ 三越本店の建物(国指定重要文化財)は、昭和10年(1935)に完成、ルネッサンス式建築の威容を誇り、当時は国会議事堂、丸ビルに次ぐ大建築物であった。 本館正面玄関には待ち合わせの場所として親しまれる「三越の守護神」とも言うべき「ライオン像」が客を迎える。

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・・・・・・・・・・ 三越の隣りには、こちらも国の重要文化財である旧三井本館の建物がある。 この建物は、米国のトローブリッジ&リヴィングストン事務所が設計、ジェームズ・スチュワート社が施工をする形で大正15年(1926)に着工、昭和4年(1929)に竣工した。 完成した建物はアメリカンボザールと呼ばれ、新古典主義様式による鉄骨鉄筋コンクリート造、地上5階(現在は7階)で地下2階という当時では丸ノ内ビルヂングに次ぐ大きなビルであった。、、、、【余談だが】“新NISA”をやるにあたり、銀行発行の書類が必要となり三井住友銀行の浅草橋支店にもらいに行った。 しかし、三井住友銀行浅草橋支店は昨年から、建物とATMだけ浅草橋に残し、店舗の窓口業務はここ三井本館内の日本橋支店で行うことになっていた。 仕方なく、先週、私はこの建物の中にある日本橋支店に初めて入ってきた。 内部は、高い天井と大きな太い柱が並ぶ広い宮殿のような建物で、ビックリ、感動だった。 これからは、家の近くの浅草橋支店はATMだけの扱いとなり、窓口業務は日本橋支店となりチョイト不便になったが、この建物の内部が見られるのは嬉しいね。

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・・・・・・・・・・ 三井本館の西隣には日本銀行本館がある。 こちらも国の重要文化財。、、、、明治初期、国家の主要な建築物の設計は、お雇い外国人によって行われていた。 日本銀行は、日本人建築家が設計を手がけた最初の国家的な建物である。 日本銀行の設計を担う辰野金吾は、1年間欧米の銀行建築を視察・調査し、コンドルの師であるロンドンのバージェス事務所で計画案をつくった。 建物は、ベルギー国立銀行を参照したともいわれる。 バロック様式をもちながら迫力に欠けた建物とも評されているが、その理由は、大オーダーや軒高欄などバロック様式の要素をもちながらも、基壇にあたる1階部分が高すぎ、大オーダーが小さく見える点にあるらしい。 だが誰が何と言おうとも日本人が最初に手掛けた近代日本の代表的明治建築である。、、、、建物の諸元は建築年:明治29年(1896)、設計者:辰野金吾、構造:煉瓦造・石造、規模:地下1階・地上3階、、、、内部を見てみたいが、日銀総裁か警備員にならないとダメかも?

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● 日本銀行から南へ歩くと、日本橋川に架かる一石橋(いっこくばし) がある。 三週間ほど前に歩いて来た常盤橋の下流側に架かる橋。、、、、江戸時代から存在した橋であるが、大正時代に架けられた石積みの橋も、平成11年(1999)までに現在の2径間連続RC床版鈑桁橋に架け替えられた。 大正時代の橋の面影は現存する親柱だけである。、、、、下流側に架かる日本橋の景観を守るため、一石橋の頭上を走る首都高の撤去工事が始まっていた。 数年後には首都高が無くなった一石橋が見られるかも、生きていたら(?)

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・・・・・・・・・・ 江戸期から明治期にかけて一石橋の付近はかなりの繁華街であり、迷い子が多く出た。 当時は迷い子は地元が責任を持って保護するという決まりがあり、地元西河岸町の人々によって安政4年(1857)に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」が一石橋南詰に建てられた。 しるべの右側には「志(知)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られて、上部に窪みがある。使用法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたという。 この石標と同じようなものが、浅草寺境内や湯島天神境内(奇縁氷人石)に残されている。

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● 一石橋から東京駅八重洲口は近い。 白い大きなテントを張った「グランルーフが見えた。

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・・・・・・・・・・ 駅前から、日本橋、浅草橋経由、南千住車庫前行きのバスで帰ることにした。 『オヤ? 誰も乗ってない、貸し切りか!』 出発間際に年寄りが一人乗って来た、私と同じ『敬老パス』の利用者だ。

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2024年1月24日 (水)

浅草の三十三間堂

日本列島に寒波到来、北陸は大雪、今朝の東京は北風が強く寒い! 遠出は避けて近場の散歩と決めた。 浅草橋の我が家から浅草まで歩いて来た。 9千歩




● 朝7時半過ぎ、運転手不足で1時間当たり4本から3本に減便中のコミニティバスの浅草橋駅北バス停(我が家の最寄りのバス停)前を出発。 外は寒い!

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● 近くの鳥越神社に朝の御挨拶。 持ってる小銭の全て17円を賽銭箱に入れ、二礼二拍手一礼して『本日もよろしく!』、、、、風が強い、散歩止めようかと思ったが、行けるとこまで行こう!

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● 鳥越神社の先から、浅草方面に伸びる「新堀通り」に入ると。 昭和40年前後(1960~1970)に「JUN」と共に一世を風靡した、ジャケットのブランド「VAN」のロゴが目に入る。 『懐かしいロゴだ!』、当時私は高校生、VANのロゴが付いた服にあこがれた思い出がある。、、、、蔵前4丁目に「VAN SHOP」があった。 早朝で店は閉まっていたが、ガラス越しに見る、アイビールックが懐かしい!(懐かしいけど、70過ぎた今の私には似合わない)

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● 「かっぱ橋道具街通り」を歩く。 時刻は朝8時半、まだ多くの店は開いておらず、シャッターが下りたままの道具街。、、、、見るものもなく、つまらないので裏道を歩くことにする。、、、、相変わらず、北風は強く寒い! 日差しが欲しい!

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地下鉄銀座線稲荷町駅と田原町駅の中程(台東区松が谷1)に、曹洞宗萬年山祝言寺(しゅうげんじ)がある。 太田道灌が室町時代に建立したと言われている祝言寺は、祝言村(現在の日比谷あたり)に建てたが、徳川幕府は江戸城の拡張により祝言寺を含め複数の寺を移転させ、現在の地に移った。 寺は、振袖火事、震災、戦災などで被災し、記録・遺物など一切残っていないようだ。、、、、現在の祝言寺の本堂は、昭和60年(1985)に竣工した(設計は内井昭蔵、施工は大成建設) 渋い黒を基調に繊細なデザインと丁寧な仕上げによる、落ち着いた感じの建物。、、、、また、山門と永代供養塔は平成18年(2006)の竣工(設計はテツク建築設計事務所、施工は大成建設) 特殊な形状のボーダータイルは、燻したような光沢が印象的で、重厚で格調高い雰囲気を演出している。、、、、私の好きな寺院建築の一つ

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● 祝言寺の北、台東区松が谷2に矢先稲荷神社がある。、、、、寛永19年(1642)、時の三代将軍徳川家光は京都の三十三間堂にならって、国家の安泰と市民の安全祈願ならびに武道の練成のために、江戸浅草のこの地に三十三間堂を建立した。 三十三間堂では弓の射技練成のために「通し矢」が行われた。 矢先稲荷神社は、この三十三間堂の守護神として祀られた稲荷大明神を起源とする。 浅草の三十三間堂は、元禄11年(1698)の大火後に深川へ移転するが、稲荷大明神は当地に残った。 神社は三十三間堂(弓矢の練成道場)の由来から、矢先稲荷神社と称した。、、、、矢先稲荷神社は、その後も関東大震災、東京大空襲などで幾多の困難に遭うが、いずれも難をくぐりぬけて現在に至る。 昭和20年(1945)3月9日の空襲では神輿庫を残し焼失する。 戦後早々に仮殿にて復興後、昭和35年(1960)に鉄筋コンクリート造の現社殿が再建された。、、、、浅草に三十三間堂があったことを知る人は少ないと思うね。 聞いてビックリ、知ってドッキリ、忘れてサッパリ!

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● 北風ビュンビュン、寒さは変わらず、『もう今日の散歩は止めた、観音様に手を合わせて帰ろう!』

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2024年1月 6日 (土)

浅草橋から皇居まで

大変な幕開けとなった令和6年。 夫婦二人暮らしの我が家では、年末に妻が風邪をひき、老々介護のスタート。 クリスマスには私も風邪をひき、夫婦で咳の音色比べ。 そのまま年を越し、除夜の鐘は布団の中で、ゴホン・ゴホン。 元日、娘夫婦と年始を祝う中、能登半島地震のニュースが飛び込みテレビに釘付け、私の咳は止まった、妻の咳はより悪化。 5日には、朝一で内科に駆け込む妻、またまた一週間分の薬をもらい、ガラガラ声で『まだ治らない!』 

二週間程歩いてなかったので、今日は足慣らし。 我が家(浅草橋)から、江戸通り沿いに歩いて、皇居まで1万4千歩の散歩です。




浅草橋駅前から江戸通り(=国道6号)を日本橋室町方向に歩く。 土曜の朝8時過ぎ、歩く人もまばら。

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・・・・・・・・・・ 神田川に架かる浅草橋を渡ると中央区。 中央区の浅草橋交差点角には、年配の方なら見たことがあると思う鷲のマークの「イーグルノート」販売元の建物「イーグルビル」がある。 昭和初期に建てられたらしい?

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● 小伝馬町交差点から、一本裏道に入り十思公園(じっしこうえん)周辺の「伝馬町牢屋敷跡」に立ち寄る。、、、、伝馬町牢屋敷は慶長18年(1613)に常盤橋外より小伝馬町へ移転されたもので、明治8年(1875)に市ヶ谷囚獄へ移転までの江戸の牢獄であった。 面積は2600余坪で、現在の大安楽寺、身延別院、十思公園、十思小学校跡などを含む一帯である。 旗本の士用に揚座敷、士分僧侶用に揚屋、一般庶民用に大牢、百姓用に百姓牢、女性用に女牢など、身分を別けて獄舎や拷問蔵などがあったそうだ。 定員は350名程度だが、最大700名を収容できたといわれてる。 牢屋奉行には石出帯刀が世襲した。 安政の大獄(1859)では吉田松陰や橋本左内らが収容されていた。
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・・・・・・・・・・ 高野山真言宗の大安楽寺は、明治15年、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かず、大倉喜八郎と安田善次郎が寄進して、受刑者を弔うために創建された。 大安楽寺=“”倉+“”田+“楽寺”  現在の建物は昭和4年(1929)の再建。
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・・・・・・・・・・ 十思公園隣りの建物の壁際に「伝馬町牢屋敷石垣遺構」の一部がと逝くように再現されている。 十思公園は、伝馬町牢屋敷の一部があった場所で、実際に発掘調査された結果、石垣等の遺構が発見されている。 大きな石を並んだ石垣跡を見ると、牢屋ではなく、冷え切った監獄のような場所だったと想像できる。 江戸時代には処刑場だけでなく牢屋敷で処刑されることも珍しくなく、吉田松陰もここで処刑されたそうだ。、、、、私の時は、苦痛なくコロリと逝くように電気椅子にして欲しいね!
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・・・・・・・・・・ 幕末の長州藩士・吉田松陰は、幕府の条約調印に関して閣老間部詮勝の襲撃を謀ったとして捕らえられ、安政6年(1859)、ここ伝馬町牢屋敷で処刑された。 松陰は、兵学、洋学に通じ、また萩に「松下村塾」を開いたことでも有名で、木戸孝允、前原一誠、高杉晋作、久坂玄瑞、伊東博文、品川弥次郎らをそこから輩出しました。 「吉田松陰終焉之地」の碑がある。

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・・・・・・・・・・ 十思公園の隣り(伝馬町牢屋敷の跡)に建てられた旧十思(じっし)小学校の校舎が残っている。、、、、昭和3年(1928)に建てられた関東大震災復興小学校の一つである。 表現主義と呼ばれている、カーブ、円、半円などの形状をデザインした建築様式の建物。
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● 中央通りと交差する室町三丁目交差点を過ぎると、「中央区立常盤(ときわ)小学校」がある。、、、、屋上の『祝 常盤小学校開校150周年』、『祝 常盤幼稚園開園127周年』の横断幕が歴史を語ってる。 こちらも、昭和4年(1929)に建て替えられた復興小学校。 十思小学校と同じように、表現主義建築として半円形の窓が特徴的。 両校とも、東京都選定歴史的建造物に指定されている。 震災後の大変な時期であったがあ、中央区・台東区などでは丁寧な設計の建物が多く作られ現存している。、、、、ちなみに、常盤小学校の設立は、明治6年(1863)に日本銀行本店の近くに開校した旧東京市常盤尋常小学校。
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● 日本銀行の西側、千代田区大手町と中央区日本橋本石町を結んで、日本橋川に東京最古の橋の常磐橋(ときわばし)がある。、、、、常磐橋は、天正18年(1590)の架橋と言われ東京では最も古い橋のひとつ。 常盤橋門の見附橋として活躍した。 現在の橋は明治10年(1877)に建造された。 橋は老朽化し人道橋となり、車道橋の役割は、常磐橋を挟むように下流側の常盤橋と上流側の新常盤橋に譲った。、、、、【ここでチョイトややっこしい説明】 日本橋川には、“ときわばし”という名の橋が2つ、“しんときわばし”が1つあり、三つの橋が約100m間隔で並んでる。 上流側に新常盤橋、次は歩道橋となった石橋:常磐橋、下流側に関東大震災後に造られた復興橋:常盤橋が存在する。 そして、三橋を区別するため、石橋の方の「」の字は「般」の下に「石」が用いられ、上下流側の二橋は「般」の下に「皿」を用いた「」である。
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・・・・・・・・・・ 常盤橋は常磐橋(石橋)のやや下流に、昭和元年(1926)、関東大震災の復興計画の一環として新たに架けられた橋。
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・・・・・・・・・・ 新常盤橋は常磐橋の上流側に、大正9年(1920)、路面電車の開通に合わせて架けられた、コンクリート製の3連アーチ橋であった。 昭和63年(1988)に解体して架け替え、全長39.35m、全幅27.00mの鋼製桁橋。
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・・・・・・・・・・ 昭和元年に架けられた常盤橋の千代田区大手町側の橋詰に、小さな常盤橋公園がある。 公園は江戸時代に枡形の城門である常盤橋門があったところで、明治8年(1875)に財団法人渋沢青淵翁記念会(渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われ、東京市の公園として公開された。 それ故に、園内に渋沢栄一の銅像(製作:朝倉文夫)が建っている。 
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● 大手町、東京駅前を通り抜け皇居に向かう
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● “二重橋”の謂れ・定義はどうでもよくて、皇居前広場から正門前の石橋とその奥にある鉄橋を眺め、新年の始まりとする。、、、、今年は波乱万丈の幕開けとなった。 これ以上災いが無いことを祈る。
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2024年1月 2日 (火)

年越ししたダウン!

クリスマス後に風邪をひき、年末は咳がひどく、鼻水も垂れ流し(?) 結局、正月の支度は妻に全て任せ、私は寝て曜日。 元旦(昨日)の昼に娘夫婦の家族が二組やって来た。 皆揃って『あけましておめでとう』・・・・・おせちを食べ終えた頃、テレビで緊急地震速報が始まった。 全員、テレビに釘付け。 夕刻になって、我が家の新年会もお開きに! 皆が帰った後は、静かな家で妻と二人で“いつもの夫婦”、共に風邪が治らず静寂のなかに響くは大音響の合唱で、ゴホン・ゴホン、ゴホン・ゴホン。 まだ、二人とも治っていない!

二日の早朝(今朝)、寝てばかりで寝飽きた私は、夜明け前に我が家の氏神様「銀杏岡八幡神社」(台東区浅草橋)へ、冷たい空気に晒されて初詣。 誰もいない!

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・・・・・・・・・・ チョイト無理したか、身体が冷えたのか(?)、風邪は悪化したかも(?) 散歩はまだできないね。

2023年12月 1日 (金)

上野駅の像

上野の病院で定期検診後、駅をブラブラ。 上野駅には“パンダの像”、“翼の像”など、いろいろある。




● 上野駅正面の昭和通りに架かるペデストリアンデッキから駅を眺めると、目の高さが駅の3階と同じ高さ。 建物を見下ろす感じだ! 日本中で知らない人はいないと思う、北の玄関口「上野駅」  見慣れた風景だが、よくよく見れば『こんなに小さかったのか!』、、、、周囲の大きな建物に囲まれ、3階建て(?)駅舎は小さく見える。 バブルの頃に騒いでいた上野駅の建て替え計画もいつの間にか消えたみたいだ、、、、 ペデストリアンデッキ上のオレンジ色のモニュメントの方が上野駅より目立つね!

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● 正面玄関口に設置された案内板には、現駅舎の写真と説明文があった。 説明文は、『上野駅三代目駅舎 関東大震災(1923年・大正12年)にて二代目の駅舎や主要な建物は破壊・焼失してしまいました。同年より仮駅舎にて営業し、その復興に力を注ぎ正面玄関口・広小路口駅舎は1932年(昭和7年)に三代目として完成した駅舎です。 建設当時は、正面口が二階構造になっており、上層は乗車口で自動車から降りて直接駅に入ることができました。下層は降車口で改札をでて大階段で地下へ降り降車口から自動車に乗ることができました。 乗車客と降車客の動線が分離された構造の駅舎でした。』、、、、三代目の駅舎は昭和7年(1932)竣工、鉄道省(酒見佐市)設計、鹿島組(現:鹿島建設)施工

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● ペデストリアンデッキから、さらに上に向かう階段がある。 階段を上ると、駅の上には「パンダ橋」が架かっている。 この橋は駅舎、高架ホームの屋根より高い位置にあり、上野駅を跨ぐように造られている。 橋の下には12本の線路とホームがある。 この橋は駅のある台東区が、国と都の支援で架けたもので、駅東側の住民が災害時に西側の上野公園に避難できるようにする橋だ! 避難橋であるため、橋の幅は約22mと広く、橋上には避難のジャマにならぬよう何もない(屋根もない)、、、、私は台東区浅草橋に住んでおり、避難場所は上野公園となっている。 イザという時、お世話になるかも?

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● パンダ橋には、上野駅「パンダ橋口」がある。 入り口脇には、ガラスケースに入った親子のパンダ像がある。、、、、待ち合わせ場所としてパンダ像を置いたのか? それにしては、通行量の少ない出入口だ! 動物園・美術館・博物館に向かう多くの人は、「公園口」が便利で実際に利用する人も多い。 待ち合わせには公園口の方がbestだ!、、、なぜか、パンダ像の親子が寂しそうだ!

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● ペデストリアンデッキから上野駅の3階に入る。 3階の飲食店街を抜け、正面玄関の吹き抜け上部にある回廊に出る。 下には正面玄関からつながる鉄骨三角屋根の「グランドコンコース」がある。、、、、グランドコンコースは上野駅で一番上野駅らしい処。 かつて、年末になると北へ帰る大勢の人が、ココで改札上に垂れ下がった列車案内板を見て、発着番線を確認しながら改札を通ってホームに向かった。

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● グランドコンコースには、切符売り場の前に朝倉文夫作の「翼の像」がある。 コンコース内の待ち合わせ場所として有名な銅像だ。 

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● グランドコンコース内の券売機上にある、ステンドグラスは平山郁夫原画・制作の「ふる里日本の華」(昭和60年(1985))、、、、東北上越新幹線上野駅開業を記念して制作された。

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● 中央改札の上にある三角形の壁画は、昭和26年(1951)描かれた猪熊弦一郎作の壁画「自由」である。 上野駅を代表する壁画だ!

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● 中央改札から中に入ると、16番線の車止め近くに、またまた朝倉文夫作のブロンズ像「三相」がある。 「三相」とは「知・情・意」の意味だそうだ。、、、、3人の女性が、それぞれ知・情・意を表現しているのか? 私には判らぬが、ただただ、じっくり見るばかり。 良いね!、、、、この像は、昭和33年(1958)10月10日に駅開業75周年記念式に列席した朝倉文夫が、自身の誕生(明治16年)と駅の開設が同じと知り、台東区を通じて上野駅に寄贈したものである。

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● 15番線車止めの前に『ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく』 東京で暮らしていた石川啄木が故郷の岩手県の方言が懐かしくて、岩手の方言を話す声が聞こえないか、と停車場(上野駅)の人混みに出掛けた、という歌。 現在の15番線は高崎線・宇都宮線が発着するホーム。、、、、上野発着の長距離列車も少なくなり「北の玄関口」も変わってきたね!

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● 上野駅「広小路口」の前に、昭和39年(1964)に大ヒットした井沢八郎が歌った歌謡曲「あゝ上野駅」の歌碑がある。 高度成長期の昭和30~40年代、金の卵と呼ばれた若者達が地方から就職列車に乗って上野駅18番線ホームに降り立った。 戦後、日本発展の大原動力となった集団就職。 親もとを離れ、故郷を離れ、不安を抱き、夢に向かって必死に生きてきた若者への応援歌である、、、、♪♪ どこかに故郷の香りをのせて 入る列車のなつかしさ 上野は俺らの心の駅だ くじけちゃならない人生が あの日ここから始まった ♪♪ 、、、、いい歌だ!

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2023年11月23日 (木)

二の酉

今日は二の酉、酉の市の最終日である。 今年も夫婦で浅草の鷲神社、長国寺に参る。 毎年、夫婦で同じように参拝し、同じように熊手やお守りを買い、帰路は同じように浅草寺に寄り、同じように食事し帰る。、、、、コレぞ、歳を取ったが、幸せな証拠だ!、、、、ダラダラ歩いて6千歩

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・・・・・・・・・・ 今年も行列に並んで神社にはいるまで50分! 参拝するのに一苦労、警察官は交通整理に四苦八苦

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・・・・・・・・・・ 境内も、満員御礼の垂れ幕が下がるような混雑

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・・・・・・・・・・ “かっこめ熊手”の御守りを競って買うが、この御利益を一番に享受したのは神社だ!

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・・・・・・・・・・ 境内の熊手屋さん、美人を出して売り上げ倍増か!

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・・・・・・・・・・ 鷲神社の隣りに、境内が続く長国寺、こちらにもご挨拶。

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・・・・・・・・・・ 参拝終えれば、露店が並ぶ裏通りを、肩に担いだ熊手をよけて、飴が付いた棒に注意し、チョイト気になる焼肉の臭い、臭いに引かれるイカ焼きの誘惑、客の少ない切山椒、オット刺青のお兄さんを横目で避けて、隣のミニスカの姉ちゃんをジロジロ眺め、イライラしながらダラダラ歩き、やっとの思いで通り抜け!

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・・・・・・・・・・ 浅草寺にもご挨拶、今年もあと一か月、家内安全、無病息災を願い。 賽銭はワンコイン。、、、、願い事、もう一つありました。 年末ジャンボ10億円当選!

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2023年11月19日 (日)

六義園・不忍通り

今日はチョイト遅めに家を出て、9時過ぎに駒込の六義園に行く。 六義園を散策し、その後は不忍通りに沿って歩き、JR御徒町駅まで、1万6千歩の散歩です。



駒込駅は明治43年(1910)11月15日に国有鉄道の駅として開業。 創業123年、駅の老舗だ!、、、、島式ホーム1面2線の地上駅であるが、改札は2か所ある。 西側(池袋方)の改札は、山手線ホームから階段を上った先の橋上駅舎(北口・南口)にある。 東側(田端駅寄り)には、階段を下りた先に改札(東口)がある。 地形が傾斜してるため、西側が掘割、東側が盛土上にホームがある珍しい構造となっている。、、、、山手線の駅の中では地味な存在である。 『山手線の駅名、順に言える?』、『駒込駅の特徴、言える?』、『駒込駅最寄りの名所は?』、『駒込駅は何区に在るか?』 何かとクイズのネタになりそうな駅だ!

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・・・・・・・・・・ 駒込駅前には本郷通りがあり、本郷通りは跨線橋「駒込橋」で山手線を越える。 駒込橋は山手線 池袋~田端間が開通した時にできた橋。 現在の橋は平成3年(1991)に、地下鉄南北線の工事に伴い架け替えられた。、、、、橋の袂の「染井吉野桜記念公園」に先代の欄干の一部が保存されている。

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● 駒込駅から徒歩数分、都立庭園の「六義園(りくぎえん)」に寄る。、、、、六義園は造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられていた。 元禄8年(1695)、五代将軍:徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の地に、柳沢吉保自ら設計、指揮し、平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築き、7年の歳月をかけて回遊式築山泉水庭園を造り上げた。 柳沢吉保は文学的素養が深く、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」に由来して庭園の名称を「六義園」と名付け、“むくさのその”と呼び、館を「六義館」、“むくさのたち”と称したそうだ。 明治時代に入り、三菱創業者:岩崎弥太郎の所有となった当園は、昭和13年(1938)に東京市に寄付されて一般公開されることになった。、、、、今日は、紅葉を求めての来場者も多く予想され、普段は閉門している駅に近い染井門から入園できた。 開門直後に来たのだが、すでに多くの人が入園し、日本の美を求める外人も多くみられた。、、、、チョイト早すぎたようで、樹々の彩づきは、日光の手前(=今市=今一だ!)

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● 六義園を出たら不忍通り(しのばずとおり)沿いに歩く

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・・・・・・・・・・ 本駒込4丁目に「神明都電車庫跡公園」があり、そこには懐かしき50年程前の、都電6000形一両と、貨物車の乙2号一両が保存されている。、、、、都電6000形は、昭和22年(1947)から28年まで290両が製造された車両で、公園にあるのは63番目で、昭和24年3月に造られ青山車庫に配属されたのを皮切りに、大久保車庫、南千住車庫を経て、昭和42年9月に神明町車庫に配属された。 その後、昭和45年(1970)に荒川車庫へ転属し、昭和53年(1978)4月に廃車になった。、、、、乙2号は、昭和16年(1941)に造られ、荒川車庫で資材運搬などで使われ、昭和46年(1971)3月に廃車となる。、、、、神明町車庫の管轄は、20系統の江戸川橋から須田町までと、40系統の神明町車庫前から銀座7丁目までであった。 銀座~日本橋~須田町~上野公園の区間では、私も40系統の都電に乗っていたと思うね! お世話になりました!

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・・・・・・・・・・ 道灌山下交差点から、一本裏の通りである「よみせ通り」を歩く。 よみせ通りは、かつて、両側500m程に露店(夜店)が軒を並べ、夜の更けるまで賑やかであったことから、「よみせ通り」と呼ばれるようになった。 また、通りの中程には地蔵尊も祀られており、毎月24日に縁日が開催されるそうだ。、、、、道路で、お向かいのおばちゃん同士が世間話を始めるなど、下町の商店街として、いい雰囲気が残っているね!

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・・・・・・・・・・ よみせ通りに直交する「谷中銀座商店街」(台東区谷中)にもチョイトブラブラ、、、、谷中で一番元気な商店街、通りの東端には「ゆうやけ段々」と呼ばれる石段がある。、、、、歩いているのは、観光客ばかり、外人もいる、猫好きもいる。 地元の人はどこにいる???

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・・・・・・・・・・ 再び、不忍通りを歩く

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・・・・・・・・・・ 不忍通りから横道を覗くと、木造3階建ての串揚げ屋「はん亭」(文京区根津2)が見える。 明治時代に建てられた建物は関東大震災や戦災もくぐりぬけ登録有形文化財にも指定された。 もともとは下駄の爪皮屋だったそうで、(爪皮=雨や泥などをよけるために下駄などの爪先につけるおおい)その後運送屋さんの独身寮にもなったそうだ。 今は串揚げ屋!

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・・・・・・・・・・ 池之端二丁目交差点の角に、またまた都電が保存されてる。 ここは、かつて「池之端七軒町」停留所があった処。 20・37・40系統の電車は、須田町(神田)方面から中央通りを走り、上野公園の電停からは上野の山下を専用軌道で走り池之端七軒町で不忍通りに合流していた。 都電が保存されているこの場所はその合流点である。、、、、保存されている電車は7500形の都電。 7500形は都電で初めて冷房装置が搭載された車両である。、、、、(モノクロ写真は案内板にあった、専用軌道から不忍通りに合流する池之端七軒町)

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・・・・・・・・・・ 不忍通りは、不忍池の西側をとおり上野四丁目交差点(「ABAB」の前)で中央通りに合流する。 ハイ、ココまでよ~~!

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御徒町駅(おかちまちえき)は京浜東北線電車および山手線電車の2系統が停車するが、正式な線路名称は東北本線のみである。 大正14年(1925)11月1日、鉄道省東北本線の駅として開業した。 島式ホーム2面4線の高架駅である。 アメ横、上野松坂屋の最寄り駅。

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