台東区

2020年8月19日 (水)

夏の墓巡り

今日も暑そうだ、『霊園なら幽霊も居ることだし、“冷園”だから涼しいだろう』と、谷中霊園に行ってきた。 JR日暮里駅から谷中霊園、谷中の寺町を抜け、東京メトロ千代田線根津駅まで、1万歩の散歩です。


JR日暮里駅は3面6線の島式ホームと線路、また4本の通過線を持つ地上駅で、北口と南口の2カ所の改札口がそれぞれの橋上駅舎にある。、、、、日暮里駅は明治38年(1905)4月1日に日本鉄道の駅として開業した。 明治39年(1906)には日本鉄道の国有化に伴い、駅も国有となる。 開業時より駅出入口は御殿坂側(現:北口)にあった。 南口が出来たのは、新幹線が上野方面の地下から地上に顔を出すトンネルの坑口が日暮里駅構内に造られた以降である。(南口橋上駅舎がトンネルの坑口の上に造られてるため) 「南口」の開業は昭和60年(1985)前後と思われる。 緑のトンガリ屋根の南口駅舎は、なんともかわいい造りだ。、、、、駅舎の出入口は跨線橋「紅葉坂橋」の中程で、駅を出て東側に向かうと京成の日暮里駅をとおり駅前ロータリーに出る。 西側へ向かうと「紅葉坂」(階段)を上り谷中霊園である。

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● 紅葉坂を上がると、護国山天王寺がある。 天王寺は、もと長燿山感應寺尊重院という日蓮宗寺院として、鎌倉時代に創建された。 不受不施派に対する禁令により、元禄11年(1698)天台宗に改宗した。 享保年間には富くじ興行が許可され、湯島天満宮、目黒不動龍泉寺とともに江戸の三富と称されるほどに賑わった。 富くじ興行は次第に人気が出て、最盛期には毎月行われたそうだ、ジャンボ宝くじと同じ! 『胴元としてウハウハの丸儲け』で、寺も潤ったかも? しかし上野戦争では、当寺に彰義隊の分営が置かれたことから、本坊と五重塔を残して堂宇を全て焼失、さらに昭和32年(1957)の放火心中事件で谷中墓地の中央にあった五重塔を焼失した。、、、、現本堂は昭和57年(1982)に再建。 平成10年(1998)にはモダンな新山門も新築した。

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・・・・・・・・・・・・境内には、像背面銘文によって、元禄3年(1690)に神田鍋町に住む太田久右衛門が鋳造したと判る「銅造釈迦如来坐像」がある。 日蓮宗時代の鋳造である。 青銅を材料とし、割型の製法で鋳造されたもの。 大きさは像高2.96m。 この像ははじめ旧本堂の脇に建てられ、明治7年(1874)の谷中墓地開設のため、墓地西隅に残されていた。 さらに、昭和8年(1933)現在地に基壇を新築し、修理を加えて移され、基壇には納骨堂が設置された。


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● 谷中霊園は、日暮里駅の南(山手線の内側)に広がる約10万㎡、7000基の墓がある都立霊園。 私を含め地元では谷中墓地(やなかぼち)と呼んでいる。、、、、谷中霊園は、主として天王寺の敷地等を東京府が引き継ぎ、明治7年(1874)に開園した。 現在は、都が管理する部分の他に、寛永寺、天王寺、了俒寺等の墓地が入り交じり、複雑な形状となっているが、一般には全体で「谷中墓地」だ!、、、、谷中墓地には、徳川慶喜(正式には寛永寺墓地)、長谷川一夫、牧野富太郎など著名人の墓が多い。 また、有名人ではないが墓碑を読むと、〇〇大学の〇〇博士、南方戦線で指揮した〇〇中将・〇〇大将、〇〇株式会社の創設者などの墓が、あちらにも、こちらにも建っている。

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・・・・・・・以下は、今日、私がはじめて参った墓を紹介する。
 
・・・・・・・・・・・・東大医学部解剖死体慰霊塔、、、、天王寺墓地の区域に、ひときわ目立つ仏塔がある。 門柱に「東京大学医学部 納骨堂」と彫られてる。 東京大学医学部では毎年、献体され遺体解剖により医学の発展に尽くしてくれた御霊に感謝し、天王寺において「解剖体慰霊祭」を開催している。、、、、なお、この納骨堂のある場所は、明治8年(1875)まで、現:天王寺境内にある銅像釈迦如来像があった処で、納骨堂の基壇は釈迦如来像のものをそのまま再利用しているそうだ。

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・・・・・・・・・・・・彫刻家:朝倉文夫の墓。 この墓も天王寺後にある。 朝倉は大分県大野郡出身で、10歳(1893)で朝倉氏の養子となり朝倉宗家を継ぐ。19歳の明治35年(1902)のとき中学校を中退し上京、実兄の彫塑家:渡辺長男宅(旧下谷区谷中初音町)に住み彫塑を学ぶ。 明治36年(1903)東京美術学校彫刻選科に入学、明治40年(1907)同校彫刻選科卒業。 谷中天王寺町にアトリエを新築し、朝倉塾として子弟養成。 多くの賞を受賞し、彫刻界の重鎮として活躍。 昭和9年(1934)谷中初音町にアトリエを改築し朝倉彫塑塾(現:朝倉彫塑館)とする。 昭和23年(1948)文化勲章を授与。 

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・・・・・・・・・・・・稲垣千穎の墓。 稲垣千穎(いながき ちかい、弘化4年(1845)8月~大正2年(1913)2月9日)と聞いて『ああ、知ってる、あの人でしょ』と判った人は、スゴイ、尊敬しちゃうね!(もちろん、私は知らなかった。墓碑を読んで知った次第なり!)、、、、稲垣千穎は、国学者、教育者、歌人、唱歌作詞者、教科書編集者。 東京師範学校教諭として和文教育を行い、多数の和文教科書を編纂した。 また、音楽取調掛として、日本人ならほぼ全員が知っている『蛍の光』 ♪♪螢の光 窓の雪 書讀む月日 重ねつゝ 何時しか年も すぎの戸を 開けてぞ今朝は 別れ行く♪♪ の作詞者である。
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● 谷中墓地の南側(台東区谷中6)に真言宗豊山派寺院の長久院がある。 長久院は、瑠璃光山薬師寺と号し、慶長16年(1611)に神田北寺町に開山、慶安11年(1658)に現在地へ移転した。、、、、本堂前に、「六十六部造立石造閻魔王坐像及び両脇侍像」が祀られている。 その説明板には、『この石仏は、中央に閻魔王像、右左にそれぞれ司命、司録像を配しています。閻魔王は死者の生前の行いに応じて死後の行き先を決めるという冥界の王で、司命は閻魔王の判決を言渡し、司録は判決内容を記録する従者であるとされています。台座に刻まれた銘文によると、この三躰は六十六部聖(六部聖ともいう)の光誉円心という人物が享保11年(1726)に造立したものです。六十六部聖とは「法華経」を六十六部書写し、全国六十六箇所の霊場に一部ずつ奉納した聖のことをいいます。江戸時代になると経典の奉納の他に、石塔・石仏を各地に造立するようになりました。経典の書写や石塔・石仏の造立を重ねることは、生前の罪障を滅し、死後の往生に近づくこととされたためです。都内に現存する六十六部聖が造立した石仏を調べてみると、地蔵菩薩像が圧倒的に多く、閻魔王像は極めて稀であることが分かります。本像は六部聖が江戸時代の谷中でも活動していたことを裏付けるとともに、希少な石仏として貴重な文化財の一つです。この六十六部造立石造閻魔王坐像及び両脇侍像は平成9年に台東区有形文化財に登載されました。(台東区教育委員会掲示より)』と標されていた。 この閻魔は、にこやかな顔をしており、「笑い閻魔」とも呼ばれているそうだ。


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● 長久院の西側(谷中4)に日蓮宗寺院の瑞輪寺がある。 瑞輪寺は、慈雲山と号し、身延山久遠寺第十七世慈雲院日新上人が身延山の江戸宿寺として天正19年(1591)開山した。 元禄年中には、不受不施派の弾圧により、天台宗へと改宗させられた感應寺(現天王寺)から、江戸十祖師の一つである安産飯匙の祖師を移しています。 その後慶安2年(1649)に現在地へ移転した。 江戸期には、身延山久遠寺末触頭で、善立寺、宗延寺と並び日蓮宗(旧法華宗)江戸三大触頭の一つに連なる名刹です。、、、、本堂横の墓地には、徳川家康の家臣:大久保主水の墓(写真中央)がある。 永禄6年三河の一向一揆との戦いで負傷し、歩行が不自由となる。 天正18年(1590)、家康に命じられ奉行として江戸小石川上水(のちの神田上水)を完成させ主水(もんと)の名をあたえられた。 菓子づくりでも知られ、製品は主水菓子とよばれた。

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・・・・・・・・・・・・瑞輪寺本堂の東側に、除厄・
安産の飯匙祖師がある。、、、、【注】“飯匙”と書いて“しゃもじ”と読む。

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● 谷中1-6の三叉路角に、「みかどパン店」とヒマラヤ杉の巨木がある。このヒマラヤ杉は、戦前、今の店主の祖父の代に鉢植えで育てていたものが、いつの間にか大きくなり、今のような大木になったそうだ。 「みかどパン店」は、谷中に古くからあるパン屋さんで、菓子パンやジュースなどを売っている、町によくある店だ。 建物も古く明治後期に建てられた長屋といわれている。 戦後75年となったが、“戦前”から約100年としても、100年間でこれ程の大木となるとは、成長の早い木だ!


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● ヒマラヤ杉の前をとおり(谷中4)に、赤い山門の日蓮宗寺院の寂静山蓮華寺がある。 蓮華寺は、中山法華経寺第19世寂静院日賢聖人の隠室として創始、第三世常在院日在聖人が寛永7年(1630)当地に創建した。、、、、ここの赤門は、明暦、元禄、上野戦争などの災害を免れたもので建築様式は誠に貴重なものだ。 また、現在の本堂等は、江戸文政年頃大檀越勘定奉行細田丹波守の寄進した建造物で、老朽の美を表しているそうだ。、、、、境内には、新内中興の祖:初代富士松加賀太夫(富士松魯中)の墓もある。 魯中は寛政9年(1797)~文久元年(1861)。


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● さて、台東区谷中1丁目と2丁目の境にある三浦坂を下り、地下鉄根津駅に向かう。、、、、この坂は、長さ約160m、高低差6m程で急勾配で、下りは怖い、上りはキツイ。 坂の名は、三浦志摩守下屋敷の前を下る坂であったから名付けられた。 

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● 東京メトロ千代田線根津駅から電車に乗る。、、、、昭和44年(1969)12月20日、開業。 単式ホーム1面1線上下2層構造の地下駅で、1番線ホーム(大手町、代々木上原方向)の下に2番線ホーム(北千住、綾瀬方向)が設置されている。 一日当たりの乗降客数は3万人程である。

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2020年7月28日 (火)

寂しい浅草!

昨日、浅草雷門に寄ったが雨が激しく、そのまま帰宅した。 今日は昼の晴れ間に、チョイト夫婦で浅草寺に、手術後のお礼参りに行ってきた。、、、、賑やかな「浅草」が懐かしい!

 

● 時刻は12時、昼の浅草だ!、、、、観光客の姿が見えない“新仲見世”、、、、入場する人はチラホラ“演芸ホール”、、、、映画館がなくなり、競馬ファンもいない平日の“六区”

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● いつもと逆さま!、、、、今日は奥山をとおり本堂へ、本堂から雷門に抜ける。

・・・・・・・・・・・・コロナ対策で全ての扉を開け、風通し良くした本堂には参拝する人も少なくガラ~~ンとしている。 アジア近隣諸国の観光客が見えず静かな堂である。 欧米の美人がいないのはチョイト寂しい! 

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・・・・・・・・・・・・宝蔵門(仁王門)から仲見世を通し雷門まで見える! こんな景色はめったに見られない。

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・・・・・・・・・・・・今だ休業中の店もある仲見世。 裏側は一層寂しく見える。

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・・・・・・・・・・・・雷門の周りから人影が消えた! 只今、昼の2時。 一番観光客の多そうな時間帯なのだが?
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2020年7月27日 (月)

三島三兄弟!

昼から、チョイト用事で下谷方面に行き、その足で二社二寺に寄ってきた。 帰りは浅草に出て、大雨に遭遇。



● 台東区のコミニティバス(区内循環バス)で、浅草橋から下谷へ向かう。 大人100円は安く、運行本数も多く、便利で重宝している。、、、、これで、高齢者は半額にしてくれると、次期区長選挙で一票はかたいのだがね!

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● 根岸一丁目交差点から北東へ伸び三ノ輪交差点まで金杉通りを歩く。 この通りの東側に「下谷」、西側に「根岸」の町がある、金杉通りは“町の境”である。

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● 根岸一丁目交差点近くに、下谷七福神の大黒天を祀る、浄土宗寺院の紫雲山常倫院英信寺(下谷2)がある。 知恩院第三十二世霊巌上人を開山とし慶長年間(1596~)に現在地に草創。 当時は紫雲院と称し、草庵に近いものであったが明暦2年(1656)丹波國亀山城主松平若狭守康信公の子:英信公が23才で逝去し、遺骸を当寺墓地に葬る。 英信公の姉である松平市正公の奥方は、逝去を深く悲しみ嘆き英信公の木像を造り当寺に安置(現存)、開基とし寺号を英信寺と改める。、、、、現本堂は安永年間(1772~)に完成、その後数度の修理改修を施し、昭和48年大改修落慶した。 境内は小さく狭い。

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・・・・・・・・・・・・寺には弘法大師御真作と伝えられる三面大黒天が本堂左側の大黒堂に安置されている。 下谷七福神の一つ。 三面大黒天は、出世・開運・商売繁昌等の徳を授けてくれる御尊体で、中央の大黒天、右側に弁財天、左側に毘沙門天の三つの顔を持っ大黒さま。 一度で三倍ありがたい神様か?

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・・・・・・・・・・・・境内にある大灯籠二基は、上野寛永寺の通称お化灯籠を戦后整理の折に当寺に移置したものである。 八代将軍吉宗公(有徳院殿)が逝去の折、寛延4年(1751)奉献されたもの。 寛永寺の“お下がり”?

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● 英信寺の東側にある法華宗本門流寺院の法昌寺は、日照山と号す。 法昌寺は、日照(元禄3年(1690)寂)が開山となり慶安元年(1648)下谷御切手町付近に創建、元文2年(1737)当地へ移転したといいます。、、、、境内の一角に毘沙門堂があり、下谷七福神のひとつ毘沙門天が祀られている。

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● 法昌寺の北側(下谷2-13)に小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)がある。 小野篁(おののたかむら)を主祭神とし、相殿に菅原道真を祀る、最高のラインナップによる学問の神社。、、、、篁(802~853)は平安時代の歌人・学者で、小野妹子の子孫、小野小町と小野道風の祖父。 仁寿2年(852)、住民が上野照崎(現:上野公園)の地に小野篁を奉斎したのが起源である。 寛永年間(1624~43)には、寛永寺の建立のため幕府より移転を命じられ、現在地に遷座した。、、、、現社殿は慶應2年(1866)の建築で、関東大震災、東京大空襲を免れた、運の強い神社。


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・・・・・・・・・・・・境内にある下谷坂本の富士塚は、入谷東講によって文政11年(1828)築造されたもので、高さ約5m、直径約16m、塚全体を富士の熔岩でおおっている。 塚の上の登山道に合目石を建て、一合目の岩屋に役行者像、五合目付近に富士講の祖と崇められる藤原角行(1646年没)の像をまつる石祠を置く。、、、、拝殿わきのチョイト薄暗いジメジメした処にある、ゲートは閉められ普段は登山禁止のようだ!、、、、この富士塚は昭和54年(1979)に国の重要有形民俗文化財の指定を受けた。

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・・・・・・・・・・・・境内の庚申塚には、数基の庚申塔が建ててあり、不動明王をはじめ幾つか石仏が安置されている。 力石も三つ並んで置かれている。、、、、日本三大庚申の一つとして、現在11基の塔が祀られており、最古のものは正保2年(1647)の作であり、青面金剛の塔は大阪四天王寺と同作の霊像と云われ、聖徳太子作(チョイト嘘っぽいね)と伝えられています。

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● 根岸の建物二棟、、、、まずは、古民家を改造してアートギャラリーとして利用している「そら塾」(根岸3-13) 昭和の時代までは、このような住宅があちらこちらにあった! 下町の懐かしい雰囲気が漂う建物。

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・・・・・・・・・・・・金杉通り沿いの「矢島写真館」、、、、写真館は大正7年(1918)に開業。 洋風の建物は、昭和5年(1930)ごろ板張りの外壁をスクラッチタイル張りに改装した。 しかし、玄関や内部は大正期のままで、1階を住居、2階をスタジオとして使っていた。 タイルと赤い屋根の組み合わせが可愛らしい写真館であったが、残念なことに写真館の営業は平成25年に閉じた。

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● 金杉通りを北へ、下谷3丁目に三島神社がある。 神社は、弘安の役で勇名を馳せた河野通有の発願により、彼の出身地に鎮座する三島神社を、弘安4年(1281)に勧請、創建したと言われている。 当社と、鶯谷駅前はラブホテル街のド真ん中にある元三島神社と、台東区寿の三島神社の三社は、元が一つの神社であり、由緒も共通している。 つまりは、兄弟神社である。、、、、河野通有は氏神である大山祇神社(三島大明神)に戦勝祈願をして九州に出征し戦功を上げた。 伊予に帰国した後、夢に大山祇神が現れ、「武蔵国に我を祀れ」というお告げがあり、そこで、上野の山内にある河野氏の館に奉斎したことに始まる。 慶安3年(1650)寛永寺の造営に伴って社地移転を命ぜられ、金杉村に遷座した。 さらに宝永7年(1710)社地が御用地とされたため、浅草小揚町(現在の寿)に遷座した。 これが寿の本社三島神社である。 しかし、氏子地域から遠いのは困るということで、根岸・金杉村の氏子一同が協議し、根岸の熊野神社に勧請・合祀したのが、根岸の元三島神社である。 さらにその後、金杉村字金杉町にも勧請したのが当社である。 こうして三社が誕生した。

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・・・・・・・・・・・・三島神社の北門の敷石に几号水準点がある。(赤〇印)

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● 三ノ輪交差点に出た。 これより浅草方面へ歩こうとしたら、雨粒が落ち始める。 濡れたくないので、雷門行きのバスに乗る。

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・・・・・・・・・・・・・・雷門はドシャ降り。 この雨で“コロナ”が流されくれることを願いながら、浅草橋(我が家)方面行きのバスに乗り継ぐ!

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2020年6月 8日 (月)

碑がイッパイ!

一向に収まらない“新型コロナ”は、宣言解除後の“夜の街”にも広がり、何時まで経っても、“三密に注意”、“不要不急の外出は避ける”、“県外への移動は自粛”など、“新型コロナ”向けのキャチフレーズが出たままだ! 一日中暇な私は如何に身を処すべきか判らず、毎日、戸惑うばかり。、、、、今朝も体力維持の散歩で、浅草橋の我が家から湯島天神まで往復してきた。 1万1千歩




●朝から和菓子! ・・・・・・・・蔵前橋通り(鳥越一丁目交差点)・昭和通り(台東三丁目交差点)・中央通り(上野三丁目交差点)を順に横断し、湯島天神へ向かう。、、、、今の季節、道路の植え込みにはアジサイが彩りを添えている。 さいの目に切った寒天で白餡を包んだ、和菓子の“アジサイ”を思い出し、朝からチョイト“バーチャル胸やけ”だ!

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・・・・・・・・・・・・中央通りのビル(台東区上野1-1)の一角に日本最初の喫茶店「可否茶館」跡地の碑がある。 碑はステンレスとガラスでできており、コーヒーカップから湯気が立ち上がる様子をデザインしたと思われる。、、、、明治21年(1888)4月13日、 日本人による初めての喫茶店が、鄭永慶(別名:西村鶴吉)によりこの地に開店した。 二百坪の敷地に五間と八間の二階建ての木造洋館であった。 一階には『トランプ、玉突き、クリケット、碁、将棋』を揃え、また硯に便箋や封筒もおき、更衣室、化粧室、シャワー室、調理場などの設備の他に、『内外の新聞・ 雑誌類・その他和漢洋書・書画を蒐集縦覧に供す』部屋を設け、二階が喫茶室で、丸テーブル、角テーブルを配置、椅子は籐であった。 コーヒーは一杯一銭五厘、牛乳入りが二銭であり、一品料理、パン、カステラなども出していたらしい。、、、、現在、4月13日は日本初の喫茶店「可否茶館」が開店したのを記念して 「喫茶店の日」と決められているそうだ!

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・・・・・・・・・・・・中央通りの西側(上野1-16)に台東区立黒門小学校がある。、、、、明治43年(1910)創立の小学校。 関東大震災のあと、復興小学校として昭和5年(1930)に現在の校舎が再建された。 東京市の設計、日本土木建築KKの施工による、鉄筋コンクリート3階建て。玄関部分はアールデコ調、3階外部の舟形が連続する窓はドイツ表現派のデザインだ。 今に残る、昭和のモダン建築で、国の重要文化財に指定して欲しい!、、、、実は、私もチョッピリ学んだ校舎。 小学6年の時、台東区内の各小学校から数名の代表が選ばれ、毎土曜の午後、ここ黒門小学校の理科室に集合して、理科の勉強をする「黒門科学教室」という学習の場があった。 それに参加して、約1年学んだが、果たして、血となり、肉となり、脳味噌になったか? 今、思うに、消化不良したようだ! (校庭側の写真は、2014/2/10撮影)

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●ウッ・碑・碑・ヒ! ・・・・・・・・我が家から片道約40分、文京区湯島三丁目の湯島天神に到着。、、、社伝によると、雄略天皇2年(458)、勅命により天之手力雄命(あめのたぢからおのみこと)を祀る神社として創建された。 正平10年(1355=室町時代)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀した。現在の正式名称は「湯島天満宮」と称する。 江戸っ子は、婦系図のお蔦・主税を連想させる「湯島天神」の呼称がいいね!、、、、現在の社殿は平成7年(1995)に造営された、権現造り様式による総檜造り。 建築費は??? 「合格祈願」の御守販売で、建築費が賄えたか? 

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・・・・・・・・・・・・天神さま正面の「表鳥居」は、銅製で、寛文7年(1667)同8年の刻銘がある。 この貴重な鳥居は、現在までに数度の修理を重ねて維持されてきた。 鳥居の様式は神明鳥居といわれるもので、横木が二重になり、反りをもって、柱が内側に傾いている。 鳥居は、柱の下から上端についた台輪までの長さが3.88m、笠木上端の長さが6.81m。 下脚部に唐獅子頭部の装飾は鳥居としては特異なものである。

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・・・・・・・・・・・・この表鳥居の左側柱脚の台座に、“不”の字に似た几号水準点がある。、、、、天神さま境内に几号水準点を説明する文章は見あたらず、これを見に来る人は極少数の几号マニアだけ!

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・・・・・・・・・・・・境内に向かう三つの坂、その名は男坂女坂夫婦坂。、、、、まずは、38段の石段坂で、上野広小路の方から一直線に、一気に上る「男坂」  江戸時代の書物「御府内備考」によると、湯島天神参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道にもなったといわれてる。 現在でも、通勤経路の一部としてこの坂を利用する人が多い。、、、、男坂の石段脇には、関東大震災後に早期復興を願い地元有志が祀った復興地蔵尊がある。 

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・・・・・・・・・・・・続いて、33段の石段坂で、すぐ脇の急な男坂に対して「女坂」という。 坂の頂部で、男坂と交わる。 梅の季節には女坂の周辺に白梅が咲き揃う、画になる坂。、、、、歌にもなった坂。 歌手:原田悠里の歌謡曲「おんな坂」の発売を記念して建てられた碑が、坂の上り口にある。 、、、、坂の上には、「女坂寄附 湯島六丁目 日野屋庄兵衛  明治二十五年」の碑がある。 女坂は寄付で造られたのか?

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・・・・・・・・・・・・三番目の坂は「夫婦坂」、、、、夫婦坂は湯島天神の北(社殿裏側)にある切通坂から境内に上る坂をいう。 平成8年(1996)に湯島天神の改築があり、夫婦坂の途中に立派な門ができ、この門は登龍門と名づけられた。 切通ができて造成されたので時代が新しく、古い坂が男坂、女坂とあるため「夫婦坂」と命名したようだ。、、、、天神さまの勝手口のような坂。
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・・・・・・・・・・・・境内の梅園にたつ「奇縁氷人石」、、、、この石柱の右側には「たつぬるかた」、左側には「をしふるかた」と記されている。 これは迷子がでたとき、子の名を書いた紙を右側に貼って探し、迷子がいた時、その子の特徴を書いた紙貼って知らせた「迷子しらせ石標」の名残りです。 この石柱があると云うことは、天神さまの境内が人で賑わい、江戸有数の盛り場であったことが推測される。今の世は、子供の迷子より大人の迷子の方が、ボケ・痴呆で探しにくいかも、この石柱が役にたつといいのだが、難しそうだ!

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・・・・・・・・・・・・男坂を上った処に、この「新派」の記念碑がある。 碑は新派劇創立九十年を迎えた昭和52年(1977)、松竹株式会社と水谷八重子により新橋演舞場玄関脇に建てられた。 新派の始まりは明治21年(1888)に自由党壮士角藤定憲が同志を集め大阪の新町座で「大日本壮士改良演劇会」の旗揚げをしたのが起源とされている。 その後の90年間で、今日「劇団新派」として隆盛を見たその先人たちの労苦を偲び併せて今後の精進を誓うべく記念碑が建立された。 そして新橋演舞場の改築にあたり、当湯島天神の境内に移させてもらったものである。、、、、頭でっかちの碑は、誰か蹴飛ばしたら首が折れそうな形状で、触るとヤバイ!

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・・・・・・・・・・・・上記の他、都都逸の碑、水平式日時計、王貞治の努力の碑、講談高座発祥の碑、湯島の白梅の碑、文房至宝碑、包丁塚、筆塚、小唄顕彰碑、梅園建設碑、菅公遺訓碑、菅公千年祭記念碑、泉鏡花筆塚などなど、その他にも撫牛、瓦斯灯、宝物殿などもあり、いろいろ取り揃えてある。 全部紹介すると今日中に寝れないので、ここいらで止めておく!

2020年5月29日 (金)

水戸街道

気も緩みっぱなしで、『いよいよ、規制解除が近づいた!』と自分で判断し、今日は散歩の足慣らし。 妻と我が家(浅草橋)から水戸街道を北上し京成立石駅まで歩いてきた。 8.5km、1万6千歩の散歩。




●浅草橋! ・・・・・・・浅草橋駅前から水戸街道(国道6号)を歩く、今日は晴天だ。 三密を避け、マスクをつけ、直射日光を浴びて歩きはじめる!

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・・・・・・・・・・・・街道に面して商売する老舗のつくだ煮屋さん鮒佐 文久2年(1862)の創業、浅草橋の地で5代、150年の歴史。、、、、江戸っ子の味は、チョイト濃いめかな? 文句なしに美味い!

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・・・・・・・・・・・・・・ビル(浅草橋3)の前に「メタセコイア」の木が、青空に向かい高くまっすぐ伸びている。 このビルを建てた記念に植えられたものだそうだ。 ビルの階数から推定すると、木の高さは30mぐらいありそうだ、“都内最大級”らしい。

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●蔵前! ・・・・・・・・江戸通り(=水戸街道)と蔵前橋通りが交差する蔵前一丁目交差点の角(浅草橋3-20)、植え込み前に説明板がある。 説明板には『 天文台跡   台東区浅草橋三丁目   この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋3丁目21・22・23・24番の全域及び19・25・26番の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。天文台は、司天台(してんだい)、浅草天文台などと呼ばれ、天明二年(1782)牛込藁店(わらだな 新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。 その規模は、「司天台の記」という史料によると、周囲約93.6m、高さ約9.3mの築山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ、43段の石段があった。また、別の史料「寛政暦書」では、石段は2ヶ所に設けられ、各50段あり、築山の高さは9mだったという。・・・・・・・』と標されている。、、、、天文台は明治2年まであったそうだ、浅草橋は天文学拠点だった。 悲しいかな、今は望遠鏡で隣の家を覗く住人ばかりなり!

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●駒形! ・・・・・・・・厩橋交差点の「東京厚生信用組合 浅草支店」(台東区駒形1)は、昭和5年(1930)に竣工したチョイト歴史ある建物。

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・・・・・・・・・・・・浅草駒形の老舗駒形どぜう」(台東区駒形1)の創業は1801年。 徳川11代将軍、家斉公の時代。 水戸街道は今も昔も、浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、多くの参拝客が立ち寄った店である。 今は、コロナ対応で「柳川弁当」、「蒲焼き弁当」などを店頭販売している。 もちろん店内では通常の料理を食すこともできる。、、、、只今11時、チョイト昼食には早すぎる、又の機会にする。 

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・・・・・・・・・・・・駒形橋から望むスカイツリー、、、、青空に映える雄姿!

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●通過! ・・・・・・・・浅草駅・浅草寺・雷門周辺はこのブログでも毎度おなじみ、今日はスタコラサッサと通過する。

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●言問! ・・・・・・・・・・正面にスカイツリーを眺め言問橋を渡る。、、、、頭上、真上からの直射日光は私達夫婦の顔を一遍に日焼けさせ、赤ら顔となる。 暑い、暑い!

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・・・・・・・・・・・・言問橋の東詰めに牛嶋神社(墨田区向島1)がある。 前を素通りするわけにはいかず、チョックラお立ち寄り。、、、、昭和7年(1932)、関東大震災後の隅田公園の整備にて、桜橋近くの隅田川東岸にあった神社を公園の北側に移された。 昭和20年(1945)の東京大空襲により神楽殿は焼けたが、本堂はじめその他の建物は一部被害を受けたものの無事で,昭和7年移転以来のものである。、、、、境内の撫牛は、江戸時代から知られているもので、自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおると言われている。 牛島神社の撫牛は体だけではなく、心も治るそうだ。 私は白内障の目を撫で、手術後の心臓付近を撫で、妻はなぜか頭を真剣に撫でた?

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●向島! ・・・・・・水戸街道は向島の町を北上する。 向島五丁目交差点の近くに、秋葉神社(墨田区向島4)がある。 こちらにもお立ち寄り。 社伝によれば、正応2年(1289)五百崎〔いおさき〕の千代世〔ちよせ〕の森と呼ばれていた当地に千代世稲荷大明神を祀ったことを創祀とするという。 元禄年間(1688~1704)、葉栄という修験者が霊告によってこの社に参詣し、霊験を得た。 そこで寺社奉行に願い出、元禄15年(1702)、上野国沼田城主・本多正永の寄進によって社殿を造営し、秋葉稲荷両社と称するようになったそうだ。 江戸時代以来の火伏せの信仰を今に伝える神社でもある。

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・・・・・・・・・・・・水戸街道を東武伊勢崎線が高架で越える。 その高架橋の下には「東武博物館」がある。、、、、今日は入館しないが、大人でも楽しい鉄道博物館だ。

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●四ツ木大橋! ・・・・・東向島を過ぎると墨田区と葛飾区の境:荒川四ツ木橋で越える。 全長:507.4mの橋で、昭和27年(1952)に竣工した。、、、、橋の上は、風は爽やか、気温は暑い! コロナは居そうにない! マスクなしで歩いても平気の平左衛門!

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・・・・・・・・・・・・四つ木橋を渡り、葛飾区に入り本田広小路交差点まで来た。 ここで我が妻はギブアップ! 水戸街道に別れ、京成立石駅へ向かうことにした。

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●立石! ・・・・・・・・京成立石駅周辺は押上線高架化工事と再開発がはじまり、数年後が楽しみだ!

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2020年5月20日 (水)

異様な浅草寺

関西は緊急事態宣言解除と言われている、関東一都三県は見送られるようだ。 もうしばらく“我慢”を続けなければならないか。 個人的には我慢疲れしてきた。 午後、妻に『ちょっと歩いてきたら、ゴロゴロしてると、肥って糖尿病になるよ!』と言われ、雨が降りそうな空模様の下、夕刻前に浅草寺まで歩いてきた。 雷門・仲見世・浅草寺いずれもガラガラ。 外人観光客だけでなく日本人もいない異様な浅草寺まで歩いてきた。




●提灯も店員もブラブラ! ・・・・・・・人出の少ない雷門。 先月、新調された大きな提灯は、空しそうに吊るされ、ブラブラしている。、、、、隣りの「常盤堂雷おこし本舗」の店員さんも手持ち無沙汰のようだ! 常盤堂雷おこし本舗の創業は約250年前の江戸時代末期。 昭和28年(1953)に建てられた、和風の雷門本店の建物は現在でも雷門に並ぶシンボル的な存在である。

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●観光客いませ~~ん ・・・・・・・仲見世は数軒の店が開いているが、大半はシャッターが下りている。 仲見世の裏は哀愁を感じる静けさ。 土産物屋は閉まっていても、青い眼の二人は楽しそう!

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●人影なし! ・・・・・・・・浅草寺本堂は人影まばら。 お守り・お札を売る処は1か所だけ開いてる。 本堂は風通し良く、コロナの姿は見えない! お賽銭を投げ入れると、チャリンという音が心地よく響く。

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●貴重な建物! ・・・・・・・本堂の右手に二天門随身門)がある。 この二天門は、慶安2年(1649)頃に浅草寺の東門として建立された。 江戸時代を通じて浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。 その浅草寺の東照宮は元和4年(1618)に建立されたが、寛永8年(1631)と寛永19年(1642)の火災によって、浅草寺の他の諸堂とともに焼失し、その後東照宮は江戸城内の紅葉山に移された。 明治初年の神仏分離令によって門に安置された随身像は、仏教を守護する四天王のうち持国天・増長天の二天像に変わり、名称も二天門と改称した。、、、、浅草寺にあっては、第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物である。 二天門は重要文化財である。

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・・・・・・・・・・・・二天門から出る頃、雨粒が落ちてきた。 急いで我が家へ帰る!

2020年5月15日 (金)

川柳の発祥地

東京都の新たな感染者数は、3月下旬以来一ヵ月半ぶりに一桁の“9人”となった。 『いよいよ緊急事態宣言の解除が近づいてきた』と思い、気も緩むが、ここが我慢のしどころ。、、、、どちらさまも、『男は我慢 女も我慢 床に入って 夫婦円満』

夕飯前に、体力維持の散歩で、我が家(台東区浅草橋)から北の方向、台東区三筋・蔵前の町をブラついてきた。




●商売繁盛を期待して! ・・・・・・・我が家から鳥越神社に立ち寄り、鳥越神社からほぼ真北に250m程歩くと、裏通りの角に小さな祠の梅森稲荷神社(台東区三筋1)がある。、、、、由緒不明、おそらく、江戸時代、この辺りの商家に祀られていた屋敷社が前身と思われる。

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●B29で被災! ・・・・・・・梅森神社の斜向かい角に「焼け残った電柱」が立っている。、、、、説明板には、『第二次大戦下の1945(昭和20)年3月10日米軍機B29による東京大空襲で、10万以上の貴重な人命が失われ、三筋町も一面に火の海と成りました。辛うじて焼け残ったこの電柱には当時の惨状が刻み込まれています。私達はこの悲惨な歴史の生き証人としての電柱を保存することにより、あのような悲劇をひき起した戦争を二度とくり返さないことを神に誓い、恒久の世界平和を宣言するものであります。   Mar.10.1988 焼け残った電柱を保存する会』と記されていた。、、、、東京大空襲の爪跡、慰霊碑などは、台東区・墨田区・江東区の下町の各所に残されている。 新型コロナも怖いが、戦争による被害も怖い!

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●茂吉の第二の故郷! ・・・・・・・三筋2丁目(大江戸線蔵前駅と新御徒町駅の中間)の「区立みすじ保育園」の園庭にある歌人:斎藤茂吉の歌碑。 斎藤茂吉は15歳で山形から上京してこの付近で寄宿生活送ったという。 その思い出を詠んだ歌、『 浅草の三筋町なる おもひでもうたかたの如くや 過ぎ行くかげの如くや  茂吉 』が刻んである。、、、、斎藤茂吉は、明治・大正・昭和に亘り、日本近代文学史上に偉大なる足跡を残したアララギ派の歌人で、医学者でもあった。 山形県に生れ、明治29年(1896)、15歳の時に上京、浅草区東三筋町54番地、養父斉藤紀一方に寄寓し、開成中学・一高・東京大学医学部を経て、長崎医学専門学校教授となり、更に文部省在外研究員として欧州に研鑚し、その後、青山脳病院長となり、作歌の傍ら、研究・評論・随筆など独自の業績をあげ、その著「柿本人麿」にて学士院賞を、次いで昭和26年文化勲章を授与され、昭和28年(1953)に70余年の生涯を終えた。 この三筋町は、茂吉が、第二の故郷として、夢多き少年時代を過し、生涯懐しんだところで、短歌は、長崎在住のときに当時を回想し、詠んだものである。、、、、我が家の近くに、こんな偉い人が住んでいたなんて、ビックリ・シャックリ・ポッコリ・誇り!

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●川柳で町おこし? ・・・・・・・・「三筋2丁目交差点」の角(蔵前4)に、茶色い石の箱のように見える「川柳発祥の地」の碑が建っている。 碑は平成19年(2007)に除幕式が行われた。 川柳は五七五の十七文字の定型で成り立つ短詩で、江戸時代、柄井川柳が選んだ句から呉陵軒可有という人物が『誹風柳多留』にまとめて刊行したことにより盛んになった。このことから「川柳」という名前で呼ばれるようになった。この時代は前句付が非常に盛んで、川柳はその選者として活躍し、その選句の数は33年間に260万句という驚異的な数にのぼるという。柄井川柳の墓は、碑の近くの龍宝寺にある。、、、、「川柳」といえば、今は「サラリーマン川柳」を思い出す。 世相を反映した句は、チョッピリ、ユーモラスで、チョッピリ痛快であり、よく考えると悲しいいものもある。 毎年、発表が楽しみだ!

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・・・・・・・・・・・・碑の建つ表通りから一本裏の通りに入ると、その道は「川柳横丁」と命名され、道の中程に天台宗寺院の龍宝寺がある。、、、、龍宝寺は、金剛山薬王院と号し、比叡山正覚院豪海大僧正が慶長4年(1599)神田駿河台観音坂に創建し、その後寛永12年(1635)に現在地へ移転した。 寺には初代柄井川柳の墓があり、寺は通称「川柳寺」とも呼ばれている。、、、、今日はコロナの影響か、門は閉まり入れない!  『コロナ禍で あとで門あけ 川柳寺  雅万歩』

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●相撲の神社! ・・・・・・・・「厩橋交差点」に出る手前(蔵前3)に蔵前神社がある。、、、、元禄6年(1694)、徳川綱吉が山城国男山の石清水八幡宮を勧請した。 以来、社領200石を寄進され、江戸城鬼門除け、徳川将軍家の祈願所として崇敬を受けた。 宝暦7年(1757)以来たびたび勧進相撲が行われ、回向院・富岡八幡宮とともに相撲の三大拠点の一つであった。 社号標や玉垣は大日本相撲協会からの寄進と思われる、千代の山、鏡里、東富士、吉葉山など、懐かしい力士の四股名が読める。 念のため、白鵬、鶴竜、貴景勝の名は無い。 

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●年寄りは我慢できない! ・・・・・・・・・蔵前神社に参拝を済ませると、犬のように尿意に襲われ、粗相をしないよう下半身を押さえたくなる。 一刻の猶予も無い、早く始末しないと! 急ぎ、厩橋際の厠へ飛び込み、一件落着!、、、、交番の隣りに、人の顔が並ぶ斬新なデザインで造られた公衆便所は、平成4年度台東区の「まちかど賞」受賞作品。(もちろん、写真は用を足してから撮影)

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2020年4月26日 (日)

明治の小学校が三校

皆さん御一緒に、“線路は続くよどこまでも”の曲に合わせて、♪♪ コロナは続くよ いつまでも 野を越え 山越え 海を越え 遥かな 国まで 僕たちの 楽しい 生活を 奪ってる  コロナはうつるよ いつまでも みんなの 姿を 追いかけて マスクを 突き抜け 僕たちの 大事な 命を 奪ってる ♪♪、、、、続いて牧伸二で、♪♪ あゝやんなっちゃった あゝ驚いた ♪♪

今日も体力維持の散歩で、我が家(浅草橋2)周辺の小学校跡を歩いてきた。、、、、我が家から北東へ約130mの処に「育英小学校」(浅草橋2)が、西へ約170mの処には「柳北小学校」(浅草橋5)が、南へ約170mの処には「福井小学校」(浅草橋1)があった。 いずれも過去形で、いずれも明治時代の創立、いずれも浅草橋地区の区立小学校、いずれも関東大震災の復興小学校、いずれの小学校も平成の時代に幕を下ろした。




●23区最古の公立小学校! ・・・・・・・まずは、我が家から最も近い「育英小学校」、、、、明治2年3月明治新政府は、幕府、藩による政治体制に代わる新しい日本の構築に当たって、国民全体の教育の推進を図るため、小学校の設置を定め東京に六つの小学校を設立することを発布。その一つが翌明治3年3月西福寺(蔵前4)境内に設立された「仮小学 第四校」で、現在の台東育英小学校の前身である。 開校日は明治3年6月23日で、現在の浅草橋・柳橋・蔵前・鳥越・三筋付近に居住していた旧大名・旗本及びその家臣の子弟たちが入学した。 明治5年8月の学制発布に先立つ、東京で最も早い公立小学校の一つだ。 当校は、明治7年(1874)4月中旬に医学館跡地(現:浅草橋4)へ移転、明治10年8月、育英小学校と改称し、同18年10月に現在地(浅草橋2)に移った。 戦時中は「東京都育英国民学校」と改称。 戦後は「台東区立育英小学校」として、平成12年まで存続。 平成13年(2001)4月、少子化により台東区立柳北小学校と統合し「台東育英小学校」(現在)となり、「育英小学校」の歴史は終わる。、、、、明治21年頃の育英小学校は煉瓦造りで上層階は木造で建てられたらしい。 当時の児童数は500名程と言われている。


・・・・・・・・・・・・育英小学校が設立された西福寺は、現在の台東育英小学校から北東へ500m程行った蔵前4丁目に在る浄土宗寺院で、東光山松平良雲院と号す。 西福寺は、かつて駿河に創建し、慶長3年(1598)駿河台下に移り一寺となした。 江戸時代には千駄ヶ谷に100石の御朱印を受けていた他、別院真行院、塔頭六ヵ院を有し、浄土宗江戸四ヶ寺の一つとして触頭を勤めていた。、、、、山門脇には「育英小学校発祥の地」が建っている。 

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・・・・・・・・・・・・現在の台東育英小学校校舎は、昭和56年(1981)に建て替えられた育英小学校の建物である。、、、、現在の台東育英小学校は、各学年で60名ぐらい、全校生徒は380名程である。、、、、昭和30年頃、私の柳北小学校は、一学年の生徒数が600名程で全校生徒は数えられないほど多かった! 生徒が多く、チョイト悪さしても先生の目が届かず、良き時代だった。 廊下に立たされたことも多かった!

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●明治初期の女学校! ・・・・・・次は、このブログで毎度お馴染みの私の母校「柳北小学校、、、、明治9年(1876)、育英小学校(当時は松前小学校と呼んでいた)から分離独立し、現在地に近い浅草橋4に在った医学館跡に「公立小学柳北女学校」として設立された。 明治20年(1887)「柳北女子尋常高等小学校」と改称。 明治41年(1908)になって、やっと「柳北尋常小学校」と改称し、男女共学となる。 大正15年(1926)、現存する鉄筋コンクリート三階建校舎が竣工。 戦時中は、昭和16年(1941)に「東京府東京市柳北国民学校」と改称、昭和18年(1943)には「東京都柳北国民学校」と再び改称。 昭和22年(1947)に「台東区立柳北小学校」と改称し、以後、我が家では私と二人の娘も卒業する。 しかし残念ながら平成13年(2001)に育英小学校と統合し、柳北小学校は閉校。、、、、閉校後も建物は現存し、周辺の学校(リセ・コレージュ・フランコ・ジャポネというフランスの学校、蔵前小学校など)が建て替え工事をする間、仮校舎として利用している。

・・・・・・・・・・・柳北小学校発祥の地「医学館跡(旧躋寿館跡)」、、、、台東区浅草橋4丁目の千代田区との境(清洲橋通り)に、江戸幕府唯一の医学専門学校、医学館があった。 明和2年(1765)幕府医師多紀元孝が医師(漢方医)の教育のため、神田佐久間町に建てた私塾躋寿館(せいじゅかん)
から出発、寛政3年(1791)に幕府が医師養成の重要性を認めて官立とし、医学館と改称、規模を拡大した。 文化3年(1806)3月大火に遭い焼失、同年4月に、前方の旧向柳原一丁目(現:浅草橋4)に移転、再建された。 敷地7000㎡、代々多紀家がその監督にあたり、天保14年(1843)には寄宿舎をを設け、全寮制とし広く一般からも入学を許可し、子弟養成を図るなど、江戸時代後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献した。 医学館は、明治以降の東京大学医学部の前身ともいうべき由緒を持つが、それを語る碑などはなく、去年までは区の説明板があった。 この医学館跡は、明治9年から大正2年まで柳北小学校の校地となった。、、、、写真は、医学館跡の区の説明板があったところ。 今年から駐車場となったため、区の説明板は取り払われたが、この一画が医学館跡と思われる! 

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・・・・・・・・・・・・現存する「柳北小学校」の建物は、東京市の設計により、藤本清次郎の施工で、大正15年(1926)11月10日に竣工した、鉄筋コンクリート造3階建て(32学級)の校舎である。、、、、大正12年の関東大震災後に建てられた復興小学校のひとつで、“大正15年の秋”竣工という、東京市内では被災後の比較的早い時期に建てられた校舎である。 また、32学級という数字は、当時の下町のマンモス校であったであろう。、、、、平成13年には、明治9年より100年以上続いた柳北小学校の歴史に幕を下ろした。 

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●日本一校庭の狭い校舎! ・・・・・・・三校目はJR浅草橋駅の北側にあった「福井小学校」、、、、明治36年(1903)「東京府東京市福井尋常小学校」として開校。 大正12年の関東大震災により焼失。 昭和4年(1929)復興校舎落成。 昭和16年(1941)には「東京府東京市福井国民学校」と改称。 昭和18年、「東京都福井国民学校」と改称。 昭和22年(1947)、学校教育法の施行に伴い、福井小学校は「福井中学校」として生まれ変わる。 ここで、福井小学校は廃校となる。 新しく誕生した「福井中学校」は、戦後、7,905名の卒業生を社会に送り出したが、平成3年(1991)少子化により蔵前中学校と統合し「浅草中学校」となり。 福井中学校は廃校となる。、、、、校名は旧町名「浅草福井町」によるが、その福井町は越前福井藩松平家の屋敷があったことに由来している。、、、、校舎は関東大震災後の復興小学校で、昭和4年建設、鉄筋コンクリート造3階建、設計は東京市、施工は松村組であった。 駅前の広くない敷地に建つ校舎は、校庭が狭く、「日本一校庭の狭い中学校」としてTVで放映された。 平成22年(2010)校舎は取り壊された。 

・・・・・・・・・・・・取り壊し直前の福井中学校(旧福井小学校)、、、、4階部分は後の増築。

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・・・・・・・・・・・・福井中学の跡地は、台東区と跡地活用事業者としてヒューリック株式会社により、跡地を約50年に亘って貸し出す定期借地権設定契約が締結された。 これによって、ヒューリックは地域活性化施設として、跡地(狭い校庭を含め、学校の敷地であった処、目一杯に!)に「ヒューリック浅草橋ビル」(12F・B2F)というオフィスビルを建てた。、、、、浅草橋は駅前に、悔しいけど、シンボルとなる超高層ビルがない。 ヒューリック浅草橋ビルは、浅草橋住民にとって、何かと話題・目印になるビルで重宝している。、、、、ビルの脇には『福井松平藩邸跡 昭和五十年五月建之 福井中学校』の石碑が残されている。

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●変わる下町! ・・・・・・浅草橋駅北側の三校、柳北小学校・育英小学校・福井小学校を線で結ぶと、我が家を中心に一辺が200~300m程の三角形となる。 明治・大正・昭和と時代を跨ぎ、この界隈では三校を必要とするほどの児童数の多さと賑わいがあった。 まさに江戸の下町であったことが想像される。、、、、時代は変わり今は少子高齢化。 小学校に変わって、デイサービス、老人ホームなど介護サービス施設が増えてきた! かっての子供は今の年寄り!

2020年4月19日 (日)

ガラガラ・空き空き

緊急事態宣言が全国に拡大され最初の日曜日。 チョイト、体力維持の散歩に出た。 “三密”を避け、他の人とは2m程離れて、嫌いなマスクして、国際通りを歩き、浅草橋の我が家から直線でほぼ2kmの浅草寺まで歩いてきた。 午前中の早い時間の散歩で、町も、電車もガラガラ・空き空き。




●鳥居に彫られた几号!・・・・・・・まずは、我が家から徒歩5分程の処にある鳥越神社に立ち寄って行く。、、、、白雉2年(651)、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされ、前九年の役のおり源義家がこの地を訪れ鳥越大明神と改めたと言われてる。 祭神の日本武尊に“コロナ撲滅”を祈願し、また、“10万円一律給付”は確実に受け取れるように、手を合わせた。

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・・・・・・・・・・・・チョイト、境内末社の志志岐神社(ししきじんじゃ)にも手を合わせる。、、、、こちらは、鳥越神社の近くに在った、対馬藩上屋敷の屋敷社で、祭神は豊玉姫命。 昔から安産を守る神として崇められていたらしい。 平成13年(2001)に鳥越神社の末社として祀られた。、、、、豊玉姫は浦島太郎が行った竜宮城の乙姫のモデルとなった神様と云う説があるそうだ。 私の頭の中では、菜々緒の乙姫をイメージし、ついつい御賽銭もはずんでしまった!

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・・・・・・・・・・・・神社西側参道の鳥居には、長年私が探し歩いてる几号水準点(きごうすいじゅんてん)の一つがある。、、、、几号水準点とは、明治政府が明治9年(1876)頃から高低測量(水準測量)を行うために設けた基準となる測量点。 イギリス式の測量法に従って漢字の「不」に似た記号を不朽物(石垣・鳥居など恒久的に残るであろうもの)に刻印したり、「不」を彫った標石を埋めて水準点とした。 “几号”の“几”の字は、「几帳面」の“き”である。 辞書では“几”は机の意味があり。 この水準点に彫られた記号が三脚のついた机に似ており、こう呼ぶそうだ。 「不」の刻印はいずれも不の字横棒が7~8cm、縦棒が8~9cm程の大きさである。 不の字の横棒の位置が標高を示す位置で、水準測量の実務では不の字の横棒の切り込みに物差し(標尺)を立てて使うようになっている。、、、、几号水準点を使用する測量は内務省がはじめたが、明治17年(1884)に陸軍が測量を担当し、ドイツ式の測量法を導入したため、几号水準点は使用されず、現行の水準点に移行した。 几号水準点は内務省により、東京に300箇所設置されたが、都心に現存するのは40箇所ほどである。 また、東京以外でも奥州街道沿いを中心に100箇所以上が現存しているそうだ。 今は使用されず、鳥居・狛犬・石垣などに几号水準点が残されている。 几号オタクにとっては、各地を歩き、宝探しのように几号を見つけることに喜びを感じている、、、、私も、その一人、、、、東京では、江戸城天守閣、日比谷公園靖国神社千住氷川神社南千住円通寺素盞雄神社湯島天神、ニコライ堂など、各所に現存する。 

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●8割減達成! ・・・・・・・・車も、人も、コロナも少ない国際通り、、、、皆さん、不要不急の外出は避け、ジッと我慢!

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●8割減の浅草寺! ・・・・・・雷門通りすしや通り六区新仲見世五重塔通り西参道の順に歩いて観音さまに向かうが、歩く人は少なく、ここでも8割削減は達成しただろう!

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・・・・・・・・・・・・観光客の姿が見えない浅草寺。 ジョギングで立ち寄った人、犬の散歩で立ち寄った人、今まで見たこともない光景を見に来た人、いずれも地元の人だ! 中国・韓国の言葉が聞こえない静かな本堂にはチョイト戸惑う。 浅草寺を一変させたコロナの威力に、あらためて恐怖を感じた。(普段の浅草寺

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・・・・・・・・・・・・久しぶりに、御御籤を引いてみた。 「第九十四 半吉」だって! 裏面の説明では、【願望:思い通りにはならないでしょう】、【病気:長引くものの、命に支障はないでしょう】、【待ち人:現れるでしょう】 良いのだか、悪いのだか、サッパリ判らん! コロナに感染しても、死なないようだから、良しとするか!

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・・・・・・・・・・・・仲見世・雷門を抜ける。 午前10時だというのに、店は開いてない。 観光人力車の車夫の姿もない!

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●コロナは居なそうだ! ・・・・・・浅草から、都営浅草線に乗ってみた。 浅草駅も、電車もガラガラだ!、、、、都営浅草線の浅草駅は大きくカーブする相対式ホーム2面2線を有する地下駅。 駒形橋西詰直下に位置しているため、雷門、東武浅草駅、東京メトロ浅草駅からは、チョッピリ歩くことになる。 昭和35年(1960)12月4日の開業。、、、、普段は改札口周辺に観光客がごった返すコンコースも今日は寂しそう!

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・・・・・・・・・・・・浅草から二つ目の駅が浅草橋。、、、、駅は島式ホーム1面2線を有する地下駅である。 ホーム階は地下2階で、地下1階は改札階となっている。 駅の開業は、浅草駅と同時の昭和35年(1960)12月4日である。 駅の壁に工事竣工プレートが埋め込まれている。 「地下鉄浅草橋停車場」と標され、9年後に私が入社したゼネコン名も記されている。
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2020年4月16日 (木)

全国で外出自粛!

全国に拡大された「緊急事態宣言」、ますます不要不急の外出は避けねばならない。 そうは判っても、一週間外に出ないとヤッパリ気が滅入る。 夕刻、買い物ついでに浅草橋駅周辺をチョイト歩いてきた。、、、、ヤッパリ、表通りを歩く人は少ない! ガード下の呑み屋は灯りが消えた! 銭湯は営業中だが人影が見えない!、、、、どこもかしこも商売にならず、コリャダメだ!、、、、明日も、明後日も、引き続く、外出自粛! 

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