台東区

2025年5月 7日 (水)

大根と巾着の寺

連休明けの初日、今日は泌尿器科の定期診断で浅草寺裏のクリニックへ行く。 今日は前立腺癌の検査結果を聞くと、“異常なし”と一言。 昨年秋には大腸癌の検査を行い、こちらも“異常なし”。 泌尿器科関連の癌は、今のところ発症していないようだ、一安心。、、、、、 帰りに、近くの「待乳山聖天」に寄ってきた。



● 台東区浅草にある「本龍院(ほんりゅういん)」は天台宗の流れをくむ聖観音宗の寺院で、浅草寺の子院のひとつである。 山号は待乳山。 本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音で、「待乳山聖天(まつちやましょうでん)」とも称される。、、、、、本龍院は隅田川べりの小高い丘(待乳山)にある。 この丘は推古天皇3年(595)9月に出現してが守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金龍山)の由来となったと言われてる。 推古天皇9年(601)この地方が旱魃に見舞われたとき、歓喜天と十一面観音が安置されたそうだ。 待乳山は、かつては周囲が見渡せる山であり、江戸時代には文人墨客がこの地を訪れていたそうだが、現在はスカイツリーがよく見える東京で一番低い標高10mの山である。
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境内各所に印された巾着大根は、信心で祈願することにより得られるその御利益を端的に表したものである。 大根は身体を丈夫にしてもらい、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を御加護頂ける功徳を表している。 巾着は財宝で商売繁盛を表し、聖天の信仰の御利益の大きいことを示されたものだ。 境内のあちこちに大根と巾着のシンボルを見ることができる。
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・・・・・・・・・・ 大根は心身を清浄にする聖天さまの「おはたらき」を象徴するものとして、聖天さまのご供養に欠かせないお供物とされている。 参拝する人は、本堂(聖天宮)で歓喜天(聖天さま)に大根を供え、お供えの大根を持って行く。 ご祈祷のあと、お下がり(おさがり)の大根を頂くことによって、聖天さまのお徳をそっくり頂戴し、身体と、心の健康を得ることが出来る。
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・・・・・・・・・・ 歓喜天に手を合わせ、無病息災を願い帰る。

2025年4月 7日 (月)

散り始めた桜

そろそろ桜も散る頃と思い、今日は隅田公園を抜けて、向島方面に歩いて見た。 しかし運悪く、向島あたりから霧雨が、小粒の雨となりポツリポツリと落ちてきた。 『コリャダメだ! 散歩は中止!』で、京成曳舟駅に駆け込み電車でGO! 浅草橋駅に着いた頃には、『雨、いつ降ったの?』と聞きたくなる晴天。



隅田公園(台東区)で、そろそろ散り始めた桜とスカイツリーを眺め、桜橋を渡り墨田区に入る。、、、、桜の下の花見は、昨日で最後か(?)、今日は人出も少なく、場所取りする人もいない。 足元の花びらを踏みながらの散歩である。
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● 向島では、黄檗宗の弘福寺にお立ち寄り。、、、、延宝元年(1673)黄檗宗の僧鉄牛道機の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院である。 江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。 関東大震災で罹災したが、本堂である大雄宝殿は昭和8年(1933)に再建された。 寺は黄檗宗特有の唐風結構で、特に本堂の両翼にある円窓、堂前の月台、処々柱に掛かる聯額(れんがく)等、他の寺院建築に余り例を見ない特異なもの。 私好みの寺院建築である。
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・・・・・・・・・・ 黄檗宗
は禅宗の中でも中国色の強い宗派として知られ、当寺に布袋尊の御像が安置されたのも、実はその黄檗宗の性格にかかわるのである。 布袋尊は唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は尽きるころがなかった。 その無欲恬淡として心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭した有徳として、世人の尊崇を受け、七福神の一神としても敬われたのである。
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・・・・・・・・・・ 境内には、風外和尚禅師(寛永年中の人)自刻の父母の石像があります。 風外禅師は相州真鶴(神奈川県真鶴町)山中の一洞穴で求道生活をしていましたが、自ら刻んだ父母の像に、朝夕の孝養を怠らなかったといわれています。その後小田原城主の当山開基稲葉正則公が、風外和尚の温情に胸打たれて、江戸下屋敷にて供養をしておりましたが、同公の転封に伴い、菩提所である弘福寺に祀られたものだある。 風外和尚の「風邪の外」の文字より風邪除けのご利益があろうと民間信仰を集めてる。 人呼んで「咳の爺婆尊(せきのじじばばそん)」と称し、口内にやむものは爺に、咳をやむものは婆に祈願し、全快の祈り、煎り豆に番茶を添え供養する習わしがある。、、、、風邪が治った私は、再発せぬようねんごろに手を合わせてきた。
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● 料亭の玄関先に咲く枝垂れ桜も散り始めた。
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● 『アレ! 霧雨だ、チョイト神社で雨宿り!』と、国道6号線から少し入った住宅街の中に鎮座する秋葉神社にお立ち寄り。、、、、社伝によれば、正応2年(1289)五百崎〔いおさき〕の千代世〔ちよせ〕の森と呼ばれていた当地に千代世稲荷大明神を祀ったことを創祀とするという。 江戸時代の初め、善財という霊僧が秋葉大神の神影を刻んで社殿に納めたとされる。 元禄年間(1688~1704)、葉栄という修験者が霊告によってこの社に参詣し、霊験を得た。 そこで寺社奉行に願い出、元禄15年(1702)、上野国沼田城主・本多正永の寄進によって社殿を造営し、秋葉稲荷両社と称するようになった。 また、別当として千葉山満願寺を建立した。以来、鎮火・産業・縁結びの霊験により、庶民から大名まで広く信仰を集めた。享保2年(1717)には神祇管領より正一位の宣旨を受けている。 明治初めの神仏分離により、秋葉神社と称するようになり、別当の満願寺は廃寺となった。 大正12年の関東大震災、昭和20年の東京大空襲の被害を受け、現在の社殿は昭和41年(1966)に再建されたものである。、、、、霧雨が小粒の雨に変わってきた。 アリャリャ、困ったね傘は無い、服は濡れ始めた。
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・・・・・・・・・・ 京成曳舟駅へ駆け込み帰宅することにした。 地下鉄の浅草橋駅に着くと、日差しは強く、晴天だ! 
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2025年3月27日 (木)

春到来!

医者に処方してもらった10日分の抗生物質、咳止め、痰切りの薬を全て服用し、昨日から風邪薬無しとなった。(妻は、まだ薬を服用中) 私はそろそろ完治すると自己判断し、妻に『気晴らしに隅田公園に花見に行くか?』と問うと、『まだ治ってないのに、ぶり返したらどうするの!』と怒られた。 ここは素直に『ハイ、そうですね』と返事。、、、、もうしばらく散歩は、我慢我慢!

午後、我が家から徒歩1分、私の母校でもある「旧台東区立柳北小学校」(明治9年:第五中学区第十四番公立小学柳北女学校として設立、大正15年:現存する鉄筋コンクリート三階建校舎が竣工、平成13年(2001):少子化により閉校)の前にある「柳北公園」で、数本の桜を眺め“日向ぼっこ”。、、、、春到来!
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2025年3月17日 (月)

おや! 城がある

今日は、浅草橋の我が家から、両国橋を渡り、両国国技館をとおり本所の町を抜け、東京スカイツリーの押上駅まで歩いてきた。 1万1千歩



● まだ眠い人もいる朝の7時40分、散歩に出る。 妻が玄関で『今日は、何処へ行くの?』と聞いてくる。 応えは『まだ決めてない、駅に行くまでに考えるよ! だけど、近場がいいな!』 妻が『隣の駅、両国なら近いよ』 その一言がヒントになり、両国橋を渡り、押上まで歩くことにした。、、、、浅草線の浅草橋駅前柳橋をとおり、両国橋隅田川を越える。
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・・・・・・・・・・ 総武線隅田川橋梁の西詰(台東区柳橋)に「石塚稲荷神社」がある。 かつて、石塚神社から50m程歩いた川岸に銭湯があり、柳橋芸妓組合(見番)があった。 戦後生まれの私は、我が家に内風呂が無く、近くの銭湯を利用していたが、その内の一軒が柳橋の銭湯だった。 昭和30年・40年頃の柳橋は、まだ華やかな花柳界であった。 夜は、人力車・黒塗りの車が料亭前にズラリと停まり、銭湯に来るたびに“何だか知らぬが凄いな~”と思う光景が印象に残ってる。 当時の料亭の名が今も残る玉垣は、私に半世紀以上昔の華やかであった柳橋を思い出させる。、、、、石塚稲荷神社の創建年代は不詳だが、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志が創建したといい、元禄元年(1688)当地へ移転したと言われてる。
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● 両国駅前をとおる。 両国駅も私の幼き頃を思い出させる駅である。 昭和30年・40年頃の両国駅は房総方面に向かう列車(蒸気機関車が牽引)の始発駅であった。 私の父方の本家が外房にあり、幼少の私は、夏・冬には両国から汽車に乗って連れて行ってもらった。、、、、現在ある両国駅は昭和4年(1929)12月30日に営業を開始した駅舎である。 開業当時は頭端式ホーム2面4線の構造であった。 当時は乗車口と降車口が分離されており、外から駅舎に向かって左側に乗車口、右側に降車口があったそうだ。 駅舎の竣工:昭和4年(1929)、設計:鉄道省建築課、施工:銭高組、構造:鉄筋コンクリート造2階建て。
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両国国技館東京都慰霊堂を横目で眺め、今日は前を素通りする。
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● 隅田区石原1丁目の裏通りに、小さな「徳之山稲荷神社」がある。、、、、本所築地奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡の屋敷跡。 五兵衛は掘割の開拓や湿地の埋め立て、道路整備と市街地の造成などで、今の本所の基礎を作り上げ、その功績により、この地に屋敷を賜った。 五兵衛の死後、屋敷内に祀られていた稲荷と五兵衛の御霊が合祀され、徳山稲荷神社となった。、、、、また、孫の徳山五兵衛(秀榮)は、火付盗賊改方の在任中、歌舞伎の白波五人男の一人、日本駄衛門のモデルになった盗賊、日本左衛門らを捕えたことで有名である。 境内には、その「日本左衛門首洗い井戸跡之碑」なんてのも残ってる。
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● 本所2丁目には、都心の公園としてはチョイト広い「墨田区立若宮公園」がある。 その公園の一画に「牛嶋神社」が鎮座する。、、、、神社の鳥居前、木陰に隠れるように「満州事変忠魂碑」がある。 昭和6年(1931)に始まった満州事変では700余名が戦死し、その霊を祀り昭和10年(1935)に遺族が碑を建てたらしい。 塔頂部は満州らしい七重塔となっている。、、、、きっと戦前は、木陰でなく、もっと目立つところに堂々と置かれていたものと思われる。 戦後、公園の整備に合わせ移動されたのではないか(?) 
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● 東京スカイツリーを見上げる墨田区業平1に『おや、こんなところに城がある。 業平城かな?』、、、、昭和8年(1933)創業以来、昔ながらの伝統ある菓子作りをしている「お城森八本舗」である。 売れ筋の商品は「大粒栗最中」らしい、まだ営業前なので店は閉まっており、買うことはできなかった、残念!
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東京スカイツリーの膝下を歩き押上駅に向かう。 スカイツリーを撮るのだが、縦に長すぎて、素直にカメラに映らなくなってきた。(見上げる首もいたくなってきた!)
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● 東京スカイツリーの地下にある、浅草線の押上駅から電車で帰る。

2025年2月23日 (日)

寒い 寒い 大寒い!

大寒波の襲来。 連日の寒さは年寄りには辛い、腰痛は激しくリハビリも効果なし。 家でゴロゴロ、外出する気になれぬ!

連日、日本海側の大雪情報を見てると、平成25年(2013)1月14日の大雪を思い出す。 東京もかなりの積雪量であった。 当時の浅草橋・柳橋・両国の写真がある、見てね!  
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2025年1月 8日 (水)

江戸三座の猿若町

年末から私の足が、度々つる(こむら返り)ので、泌尿器科でもらった頻尿の治療薬が原因かと思い、早速、泌尿器科へ行ってきた。 医者の話では、そのような副作用は考えにくいらしいが、とりあえず服用を止めることにした。 これにてこむら返りは“一件落着”となれば良いのだが?
ところで、私が通う泌尿器科は、浅草の「浅草寺」裏(馬道交差点)にあり、江戸時代の猿若町(さるわかちょう)付近にある。 現在の住居表示では台東区浅草6丁目である。、、、、診療後にチョイト猿若町をブラブラし、浅草寺を裏から抜けて、帰宅した。 8千歩



● 旧猿若町の街角に台東区で設置した「旧町名由来案内 下町しるべ 旧浅草猿若町」によると、次のように記されている。 『この地はその昔、丹波国(現在の京都府)園部藩主小出氏の下屋敷であった。天保十二年(1841)、徳川幕府は天保の改革の一環として、この屋敷を公収し、その跡地に境町・葺屋町・木挽町(いずれも現・中央区)にあった芝居小屋の移転を命じた。芝居小屋は、天保十三年から翌四年にかけて当地に移り、猿若町はできた。芝居小屋の移転とともに猿若町は、一丁目から三丁目にわけられ、一丁目には中村座および薩摩座、二丁目には市村座および結城座が移った。そして、三丁目には河原崎座が移転してきた。このうち中村座、市村座、河原崎座(=守田座)が世にいう「猿若三座(江戸三座)」である。  町名は、江戸芝居の始祖といわれた猿若勘三郎の名をとってつけたという。
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・・・・・・・・・・ “天保の改革”を推進した、老中:水野越前守忠邦は、①幕府内部の質素倹約、②庶民生活の統制、⓷農民の都市流入抑制、④経済安定を目標とて政治を行った。 その一つ庶民生活の統制を目指し、奢侈取締・風俗粛正策の一環として、江戸中の芝居小屋をここ一ヵ所に集めるために新しくつくられた町が、猿若町である。、、、、水野越前守は当初、芝居小屋を廃止するつもりであったらしい。 その時の北町奉行:遠山左衛門尉景元(あの、桜吹雪の金さん)の献言により一ヵ所に集めて、取り締まりを強化する方針に変更されたと言われてる。

・・・・・・・・・・ 各芝居小屋は、天保十三年から十四年(1842~1843)にかけて、現在の中央区人形町、銀座東から、台東区浅草へ相次いで移転した。 将軍様の御膝下から、外濠の先にある浅草の田圃に移転させられた。 もう少し北へ歩くと「べらぼう」の蔦屋重三郎の舞台である吉原がある。

・・・・・・・・・・ “猿若町”の名は、江戸歌舞伎芝居の始まりといわれる猿若勘三郎(現歌舞伎の名門:中村勘三郎の先祖)の名前から、つけられたと言われてる。猿若勘三郎は、「猿若」という名の歌舞伎狂言を創作した。

・・・・・・・・・・ 明治十年頃までに芝居小屋は各地に移転し、町の賑わいは終わり。 その後は、震災、戦災をへて、浅草の履物や革製品の問屋街に変わって行った。 中村座は明治17年に現:台東区鳥越へ、市村座は明治25年に現:台東区台東1丁目の凸版印刷本社がある処に移転した。 守田座は明治5年に中央区新富町に移転し新富座と改称。 三座とも、その後火災、震災により廃座となる。


・・・・・・・・・・ 旧猿若町の中央を南北に伸びる道を歩くと、西側に中村座(写真2番目の雪洞型)、市村座(3番目の石碑)、守田座(=河原崎座、4番目の石碑)の跡がある。
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・・・・・・・・・・ 震災、戦災で復興した現在の猿若町には、芝居小屋を当時をイメージできるものは残っていない。



● 猿若町から被官稲荷神社・浅草神社・浅草寺に参り帰宅する。
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2024年12月31日 (火)

大晦日は浅草寺

クリスマス前後からこむら返りが頻発し、一昨日の朝はとうとう両足同時に“痛い・痛い・助けて~・死にそうだ!”状態となった。 今日も、ふくらはぎが筋肉痛のような痛みで、歩くこともままならず。(どうやら自分が推定するには、泌尿器科でもらった夜間頻尿の治療薬の副作用と思われる。 昨日から服用を止めた!)、、、、今日は大晦日、妻が『年越し蕎麦どうする? 浅草行く? それとも、家で食べる?』(我が家では例年、年の終わりには浅草寺参りを兼ね、浅草で蕎麦を食している) 老々の二人だけでの年越し、我が家で食べるのも味気ないので、私の一言『浅草へ行こう!』 痛みをこらえ、ビッコの足で、夕刻二人で浅草へ・・・・・



● 浅草寺へ行く前に、まずは我が家の氏神様、浅草橋駅裏に鎮座する「銀杏岡八幡神社」に、一年大過なく過ごせたことを御礼する。、、、、  銀杏岡八幡神社の創建年代は不詳だが、源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、小高い丘だった当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途、康平5年(1062)に当社を創建したと伝えられている。 江戸時代に入り、福井藩松平家屋敷地となり、松平家の邸内社となったものの、享保十年(1725)公収され我が町内(福井町)の産土神となったと言われてる。
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● 浅草寺は今日もインバウンドが多いこと! 雷門から仲見世通りを抜け、仁王門、本堂へ向かう人の列。、、、、痛い足をひきずりながら、横目で美人をチラチラ眺め、人を避けて歩くことの難しさを実感する。
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● 御参り済ませて、年越し蕎麦を食べながら、『来年もまた年越し蕎麦を食べようね!』
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● スカイツリーを遠くに眺め、家路を急ぐ。
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2024年12月24日 (火)

閻魔さまとお不動さま

のんびり我が家(浅草橋)から深川の不動堂まで、年末の御礼詣りに行ってきた。 1万歩の散歩

● 朝9時45分、浅草橋の我が家から歩きだす。、、、、浅草橋駅周辺の人形屋では、クリスマスは飛ばして、雛人形が既に店頭に並んでいる。 季節の先取りかな? 
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● 神田川に架かる浅草橋を渡り台東区から中央区に入る。、、、、浅草橋交差点にある、昭和4年(1929)建築の、装飾付タイル張りの古風なデザインがイイ感じの「玉置文治郎ビル」、1階は老舗の玉置薬局。 外壁のスクラッチタイルの装飾もイイ、1階から3階アーチ窓までの縦の並びもイイね!(一見は百聞に如かず)
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● 10時、都営浅草線の東日本橋駅前を通過。、、、、近くの薬研堀不動院(川崎大師東京別院)にチョイト立ち寄る。 薬研堀不動院は、天正13年(1585)豊臣秀吉による根来攻めに際して、根来寺の大印僧都が不動尊像を背負って東国へ逃れ、当地に創建したと伝えられている。 境内には、順天堂の始祖と仰がれている佐藤泰然(たいぜん)が、天保9年(1838)に和蘭(オランダ)医学塾を開講した場所と記した「順天堂発祥之地」の石碑が建っている。
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● 我が家を出てから30分:時刻は10時15分、明治座前を通過。 東京で最も長い歴史を持つ劇場である明治座は、明治6年(1873)の創業。 昨年は創業150周年を迎えた。 150年の歴史の中では幾たびもの災厄に見舞われながらも、その都度再建され復興を遂げてきた明治座。 現在は、18階建ての「浜町センタービル」の中に劇場がある。
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● 明治座から清州橋へ向かう途中、浜町神社、金刀比羅宮の二社がある。、、、、浜町神社は天明年間(1781~1789)島津家下屋敷に島津稲荷大神を祀ったのが始まり、安政4年(1857)島津家が付近一帯の土地を拝領したとき、一堂を建立して地域発展のために大いに寄与し、以来「島津稲荷」として人々から敬篤された。関東大震災で焼失、昭和5年再建、同20年戦災、同27年再建され名称も浜町神社と改められた。、、、、金刀比羅宮は、天明3年(1783)創建、隅田川往来の船人の守護神として信仰を集めたと言われてる。 今も残る玉垣には、料亭の名や、「葭町(よしちょう、現:人形町)芸妓組合」の文字が多く刻まれている。 きっと、芸者さんの多くも手を合わせた神社かな?
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● 10時30分、隅田川に架かる清州橋を渡り、中央区から江東区に入る。、、、、清洲橋は両岸の町名の日本橋中州と清澄から一字づつとって名付けられました。構造は日本で唯一の自碇式チェーン吊り橋で、モデルは当時美しいと評判だったドイツケルンのヒンデンブルグ橋と言われてる。 関東大震災の復興橋で、橋長 186.3m、幅員 22.0m、昭和3年(1928)3月竣工、設計は鈴木精一(意匠面では建築家の山田守や山口文象の関与があった)。 国の重要文化財。
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● 清澄公園を抜ける。 清澄公園の隣りには清澄庭園がある、こちらは有料の庭園。 かつて、清澄公園と清澄庭園は一体で、三菱の創始者である岩崎弥太郎が明治期に完成させた庭園である。
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● 深川2丁目の心行寺に寄る。 心行寺は深川七福神の福禄寿を祀る寺。 
浄土宗寺院の心行寺は、雙修山養源院と号す。 心行寺は、光蓮社団誉一露屋道が開山、吉川監物殿内室が開基となり、元和2年(1616)八丁堀に創建、寛永10年(1633)現在地に移転したと言われてる。、、、、福禄寿が安置されている六角堂は、正月の“深川七福神巡り”に向けて、準備はOKか?
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 11時、本日の散歩の目的地である“深川ゑんま堂”に到着。 深川ゑんま堂は、真言宗豊山派の法乗院で賢台山賢法寺と号す。 法乗院は寛永6年(1629)深川富吉町に創建、寛永18年(1641)には現在地(深川2丁目)に移転した。 江戸三閻魔の一つらしいが、昔の閻魔堂は戦災で焼けた。 現在は平成元年(1989)に再建された“ハイテク閻魔様”で、賽銭を入れるとコンピューター制御で堂内には煌びやかに照明が灯り、スポットライトが回り、願い事に応じた説教が流れてくる見世物小屋並みの、高さ3.5mの大きな閻魔がある。、、、、、、、笑っちゃいけないが、笑いたくなる、これぞ“笑い地獄”か? 古さを感じることができない、現代風のモダンな寺だ!、、、、知らず・気づかずの悪行を詫びて、『今年も一年、ゴメンナサイ』
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● 閻魔さんの次はお不動さん。 お不動さんが祀られているのは成田山新勝寺の東京別院。 この別院は、元禄16年(1703)に始まった成田新勝寺の出開帳が深川不動の起こりで、明治14年(1881)不動堂が完成した。、、、、勇ましいいでたちの不動明王は仏法を守護し、人々を災いや迷いから救ってくれる有難い仏です。 災い・迷いの少ない私であるが、『来年も、災い迷いの無いことを願い』手を合わせてきた。
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● 閻魔さま、お不動さまに手を合わせ、散歩の終わりは12時だ!、、、、あとはバスで帰るだけ!

2024年11月26日 (火)

隅田公園から三囲神社へ

隅田公園から向島の三囲神社まで歩いてきた。



● 東武鉄道浅草駅の前から隅田公園(台東区)に入り、朝の公園をブラブラ。

・・・・・・・・・・ 朝日に輝く隅田川 チョイトまぶしい!
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・・・・・・・・・・ 秋らしい色に染まってきた公園
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・・・・・・・・・・ 公園の中には、多くの石碑・歌碑・説明板がある。 その内の一つ、昭和25年(1950)から昭和35年(1960)の間、隅田公園(言問橋西詰)周辺には、「アリの街」と呼ばれ、戦災で家や家族を失った人々が廃品回収を生業に働き共同生活する場が存在していた。 現在は整備され当時の様子を物語るものは残っていないが、数年前台東区により、その場所に案内板が設置された。、、、、説明板には『昭和25年(1950)、この地に戦災で家や家族を失った人々が廃品回収を生業に働き共同生活する場が誕生しました。 人々はアリのように勤勉に働き、助け合って生活したことから、アリの街と呼ばれました。 「アリの街のマリア」として知られる北原怜子は、全国の戦争孤児の救済に尽力したポーランド人のゼノ・ゼブロフスキー修道士に導かれ、裕福な家庭の出身ながら、病に冒され二十八歳の短い生涯を閉じるまで、アリの街に移り住み、子ども達を支え続けました。 昭和35年(1960)、アリの街は東京都の要請により江東区に移転されました。 北原怜子の活動は後に映画や舞台化もされ、平成27年(2015)にカトリック教会から日本人女性としてはただ一人「尊者」の称号を得ました。』
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・・・・・・・・・・ 言問橋と桜橋の中間、待乳山聖天と三囲神社を結ぶように、渡し船「竹屋の渡し」があった。 渡しの創設年は不明だが、文政年間(1818~1830)には既にあったそうだ。 昭和3年(1928)言問橋の架設によって、渡しは廃止となったらしい。
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・・・・・・・・・・ 江戸時代、隅田川から遊里「
吉原」へ通う猪牙船(ちょきぶね)が往来した山谷堀。 その山谷堀の最下流(現在の台東リバーサイドスポーツセンタ付近)に架けられた橋が「今戸橋」である。 今戸橋が最初に整備された時期は不明だが、江戸時代に橋を架け渡すという記載が文献に残っているそうだ。 この橋の下を吉原通いの船が通った頃には、その船を親不孝舟などといったといい、「今戸橋上より下を人通る」というほどのにぎわいだったと言われている。 現存する欄干は、大正15年(1926)に竣工した橋の欄干で、山谷堀の埋立てに伴い、昭和62年(1987)現在のような形となった。 
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・・・・・・・・・・ 隅田公園にあった石碑、もう一つ紹介する。 言問橋西詰の公園内に「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」がある。、、、、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。 その亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。 台東区では、戦後40年(昭和61年)に、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、忘れることが無きよう、この地に碑を建立した。(合掌)
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● ただいま補修工事中の言問橋を渡り、台東区から墨田区へ入る。、、、、朝8時過ぎ、まだ人の動きも少なく静かだ! 
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● 言問橋を渡ると、東詰交差点の手東詰「見番通り」と表示された裏通りに入る。 この道を200m程歩くと向島の花街に「三囲神社(みめぐりじんじゃ)」がある。、、、、宇迦之御魂命を祭神とする囲神社の創建年代は不詳であるが、文和年間(1353~1355)に、近江三井寺の僧源慶が東国遍歴の際に社を改築したと云われている。 その改築をするとき、土を掘ると壺が出土し、白狐にまたがる老翁の像が出てきた。 すると、どこからか白狐が現れ、像の周りを三回回った死んだ、三囲神社の名はこの話に由来するそうだ。、、、、、三井家(越後屋=三越)が江戸に進出すると、社号に使われる文字「」が、三井の「」に塀を張り巡らせて守っているように見えることから、三井家の守護神として崇敬された。 今でも三井家と三井系企業に信仰されている三井家御用達の神社。

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・・・・・・・・・・ 三囲神社のシンボルか? 享和2年(1802)に奉納された、目尻のさがった温和な表情の神狐
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・・・・・・・・・・ 境内には多くの境内社と、歴史を感じさせる歌碑・塚などがある。 その中には三井家に関連する物も多い。、、、、三越呉服店の会長であった日比翁助(ひびおうすけ)の石垣の歌碑『いしがきの 小石大石持合ひて 御代はゆるがぬ 松ヶ枝の色』、、、、三越池袋店のライオン像、、、、明治時代になって拠点を京都から東京に移した呉服商の三井家は、養蚕の神=木嶋神社(京都太秦)を崇敬していた、境内にある三柱鳥居は木嶋神社の鳥居を模して建てられた。
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● 三囲神社をあとにして見番通りを北へ200m程歩くと「向嶋墨堤組合」の建物がある。 ここが、向島芸者の総まとめ「見番(けんばん)」だ!、、、、向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、現在、10軒の料亭が加盟し、120名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について日々修練しているそうだ。、、、、自分の若い頃、一度は行ってみたかった芸者遊び、今は「遊んでみたいが  体力なし」
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● 見番通りをさらに北へ100m、黄檗宗の寺院「牛頭山 弘福寺」がある。、、、、弘福寺は延宝元年(1673)黄檗宗の鉄牛和尚の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院。 江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。 関東大震災で罹災したが、昭和8年(1933)に、中国の黄檗寺にならって、本堂が大明式建築で再建された。 山門も、昭和8年の再建で、前に控柱が4本あり、門の中央部が2階建てとなっている。、、、、
建物に中国の名残が強く、どこか異国情緒が感じられる、都内でも数少ない黄檗宗の寺院だ!
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● 桜橋を渡り、再び隅田公園に入り、浅草橋の我が家に戻る。 1万歩

2024年11月 5日 (火)

一の酉

今日11月5日は一の酉、朝食も済み、妻の化粧も終わり、洗濯も干して、夫婦で鷲神社(おおとりじんじゃ)・長国寺(ちょうこくじ)に参拝してきた。、、、、鷲神社は天日鷲命、日本武尊、を祀る由緒正しい神社。 現在は「おとりさま」として一般にも親しまれ崇敬を集めてる。 11月の例祭も現在は「酉の市」として全国的に広く知られているようだ。 社伝によると天照大御神が天之岩戸に隠れた際に、天宇受売命が岩戸の前で舞った折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸を開いた時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だと喜び、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神天日鷲命と称されることになった。 天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神としてこの地(台東区千束)に祀られた。 後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをした。 その日が11月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭、「酉の市」となった。 この故事により日本武尊が併せ祭られ、祭神の一柱となった。、、、、、長国寺は江戸時代初期、寛永7年(1630)に石田三成の遺子といわれる、 大本山-長國山鷲山寺(じゅせんじ)第13世・日乾(にちけん)上人によって、浅草寺町に開山した。 山号を鷲在山(じゅざいさん)寺号を長國寺と称す。 寛文9年(1669)には坂本伝衛門氏の後ろだてにより、新吉原の西隣にあたる現在の地(台東区千束、鷲神社の隣り)に移転し、江戸時代から続く代表的な年中行事である、浅草酉の市の発祥(?)の寺として、今日に至る。、、、、我が家では、鷲神社で御守りの熊手を、長国寺では火除けの纏の御守りを受けてきた。 今年は二の酉、三の酉まであり、ぜひぜひ皆さんも参拝し、商売繁盛、災難消滅ついでに一攫千金も祈願して、年末ジャンボは1等当選! 年が明けたら大金持ちだ!!
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・・・・・・・・・・ 熊手やさんは既に商売繁盛!
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