台東区

2026年1月23日 (金)

浅草寺を裏から

連日の大寒波、老いた足は外出を嫌い家に籠って休足状態。 とは言え、予約済みのクリニックには行かざるを得ず、寒さの中「馬道(うまみち、浅草寺の北東に位置する交差点)」のクリニックに行ってきた。 今日は、腎臓のエコー検査があり、もちろん“異状なし”。
帰りは、浅草寺本堂の裏側から境内に入り仁王門・雷門まで一直線に抜けて帰った。



● 浅草寺本堂の北側(裏側)は広い広場になっており、時おり、野外イベント、臨時の駐車場などの用途で使用されている。 この辺りまで入り込む観光客は少なく、浅草寺境内にあって比較的静かな場所である。
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・・・・・・・・・・ 本堂の回廊は建物を囲う様に一周ぐるりと作られているが、裏側から回廊伝いに参拝することはできない。
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・・・・・・・・・・ 東側の階段を上り参拝する。、、、、、国宝に指定されていた浅草寺の旧本堂は昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により焼失したため、昭和33年(1958)に現在の本堂が再建された。 本堂再建の工事期間:昭和26年起工式~昭和33年落慶、設計:大岡實、構造設計:小野薫・日下部東一郎、施工:清水建設、構造:鉄筋コンクリート造である。 また規模は、建坪:1,368.8m2(414.8坪)、間口:34.5m、奥行:32.7m、軒高:29.4mで、デカイ!
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・・・・・・・・・・ 一般の参拝客は床面積478.5m2(145坪)の本堂外陣で手を合わせる。,、、、、外陣の正面には幅4m程の額「施無畏」が掛かってる。 施無畏(せむい)とは、他者から不安や恐怖を取り除き、恐れのない状態にすることを指す。 
観音さまはこの「施無畏者」と称され、誰しもが持つ不安や恐れを和らげる存在とされている。 健康や生活費不安の多い私には頼れる仏様だ。 できれば、高所恐怖症も取り除いてほしいものだ!
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・・・・・・・・・・ 本堂の向拝には「志ん橋」と書かれた大提灯が架かっている。 志ん橋は「
新橋」の異表記で、東京大空襲で焼失した本堂が再建された昭和33年(1958)から東京新橋組合(銀座に本部を置く花街の組合)により奉納されている。 本堂の大提灯は令和2年(2020)に9回目の掛けかえが行われており、高さ4.5m、幅3.5m、重さ約600㎏である。 浅草寺の提灯の中で最も大きい提灯らしい、我が家にぶら下げたら天井が抜け落ちるであろう!
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● 本堂を後にして、昭和39年(1964)に大谷重工業社長:大谷米太郎夫妻の寄進により、鉄筋コンクリート造り、本瓦葺きで再建した「宝蔵門(仁王門)」を通り抜ける。 宝蔵門の高さは21.7m。 本堂よりチョイト低いが、一般のビルの7階に相当する高さだ。、、、、、このに架かる「小舟町」の提灯は、日本橋小舟町の信徒から寄進されたのが最初で、以来、日本橋小舟町奉賛会によって奉納が続けられ、ほぼ10年ごとに新調されている。 この提灯は重さ450㎏、このサイズでも我が家にはつるせない!
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● 本堂から仲見世通りを歩いてくると、先に
雷門の裏側が見える。 裏側をじっくり見る人は少ないと思う。、、、、、中央には「風雷神門」と書かれた、重さ700㎏の大提灯が架かってる。 両脇には、昭和53年(1978)松下グループ有志により寄進された、高さ約2.8m前後の天龍像(男性の姿)と金龍像(女性の姿)が奉安されている。 表側に奉安されている風神・雷神の像は知っているが、裏側の天龍・金龍の像を知る人は少ないであろう!
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・・・・・・・・・・ 雷門の表側はこちら!
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・・・・・・・・・・・・ 雷門から我が家まで歩いて40分

2026年1月 9日 (金)

西日暮里・谷中

明日(10日)、明後日(11日)は寒波襲来で、日本全国寒さが増すらしい。 ここ数日、寒さで散歩せずにいたが、今日はチョイと寒くても歩いて来ようと家を出た。 行先は“谷中”、JR西日暮里駅で降り、道灌山から諏訪台通りを歩き鶯谷駅まで、寺社を巡って1万1千歩の散歩です。



● 昭和44年(1969)12月20日、帝都高速度交通営団(現:東京メトロ)千代田線の西日暮里駅が開業。 昭和46年(1971)4月20日、地下鉄千代田線との乗り換え駅として国鉄の「西日暮里駅」が開業した。 山手線のなかで、唯一“昭和”、それも“戦後の昭和”に開業した駅である。(令和2年(2020)に山手線には「高輪ケートウェイ駅」が開業) 西日暮里駅は島式ホーム2面4線を有する高架駅で、千代田線構内でJRへの乗り換えを可能にするための中間改札が地下にある。

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・・・・・・・・・・ 開成学園(写真左側)と西日暮里公園(写真右側)を結ぶ歩道橋から撮影したJR西日暮里駅。中央の道路は道灌山通り。 東京メトロ千代田線の西日暮里駅は道灌山通りの地下。
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・・・・・・・・・・ 「開成学園」は、開成中学校・高等学校からなる中高一貫教育を提供する私立男子中学校高等学校。 令和7年(2025)の入試では、東大文系の合格者48名(現役32名、OB16名)、東大理系の合格者102名(現役75名、OB27名)という、超進学校! ちなみに、硬式野球部はあるが、あまり強くないみたい! 
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・・・・・・・・・・ 
開成学園や西日暮里公園のある台地は「道灌山」とよばれ江戸時代には眺めがよく、筑波や日光の連山、そして下総国府台(現市川市)などをのぞむことができる。 道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置する。 道灌山の地名の由来として、中世、新堀(日暮里)の土豪、関道閑が屋敷を構えたという説、江戸城を築いた太田道灌が出城を造ったという説などがある。、、、、、「西日暮里公園」のあるこの地は、明治7年(1874)、この一帯が旧加賀藩前田家に売却され同家の墓地となり、昭和48年(1973)その跡地に西日暮里公園が開設された。、、、、、公園は西日暮里駅ホーム前の崖上にあり、公園から電車を見下ろすことができる。
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● 西日暮里公園の南側に「諏方神社(すわじんじゃ)」が鎮座する。、、、、、諏方神社は、元久2年(1202)豊島左衛門尉経泰が信州諏訪神社より勧請して創建した。 江戸期には慶安2年(1649)には社領5石の御朱印状を拝領、日暮里(新堀)村・谷中町の総鎮守として崇敬を集めただけでなく、日暮の里<ひぐらしの里>として江戸有数の景勝地としても有名だったといいます。、、、、、社名の「諏方神社」は、“諏訪”ではなく“諏方”としているのは、古来の表記である。 かつては“諏訪神社”の名には、“諏方神社”の方が多かった。 古来の表記を採用している“諏訪神社”は、現在全国で一万有余あるうち、三~四社のみになったとのこと。、、、、、境内は都心の神社にしては広く、木々が多く、静かでいい雰囲気。
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・・・・・・・・・・ 神社の境内からJR西日暮里駅の西側脇に屈曲して下る急な階段坂地蔵坂」がある。 坂の名は、諏方神社の隣りにある別当寺であった浄光寺の江戸六地蔵の三番目が安置されていることにちなむ。
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・・・・・・・・・・ 諏方神社の隣りには、江戸六地蔵の三番目を祀る、真言宗豊山派寺院の「浄光寺」がある。 法輪山法幢院と号す。 山門の左手には元禄4年(1691)に空無上人が勧請した地蔵菩薩像(江戸六地蔵の三番目)、文化6年(1809)に再建した地蔵菩薩立像がある。、、、、、浄光寺は眺望にすぐれた諏訪の台地上にあり、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」ともよばれたそうだ。 現在は眺望が良いか、私には(?) “雪見大福”でも売ると人気が出そう!
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● 諏方神社、浄光寺の前の道「諏訪台通り」を歩いて南に向かう、、、、、諏訪台通りの付近は寺町で、たくさんの寺院があって風情があり、寺院巡りをするインバウンド客の姿もチラホラ見える。 高台であることから、昔は眺望が良かったと思われるが、今はどうだろう?
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● 西日暮里公園から300m程歩いたところに、
真言宗豊山派の寺院養福寺」がある。 養福寺は補陀落山観音院と号す。 開創の確かな年代はわからないが、初代住職という乗蓮は寛永3年(1626)に没したと伝えられている。、、、、、養福寺の山門奥に朱塗りの仁王門が見える。 もとの本堂や観音堂などほかの建造物は戦災で失われましたが、宝永年問(1704~1711)建立と伝えるこの仁王門は焼失を免れて、江戸期の木造建造物として現在に残ったものだ。 門の表側には阿吽の表情の仁王像一対が出迎えてくれる。、、、、、境内は樹木も多く、落ち着いた雰囲気が感じられる寺院である。
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● 諏訪台通りを南に歩き、日暮里駅北口から谷中銀座に向かう通りに出た。 ここには、慶応4年(1868)の上野戦争に敗れた彰義隊士が寺へ隠れたため、新政府の攻撃を受けた。 天保7年(1836)建立の山門には銃撃を受けた弾痕が今も残る、日蓮宗の寺院「経王寺」がある。 経王寺は明暦元年(1655)創建の日蓮宗の寺院で大黒山と号し、境内の大黒堂には日蓮上人作という大黒天が祀られています。、、、、、 門前は谷中銀座へ行く人が多く歩いているが、境内は静かで梅の花が咲いていた。
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● 西日暮里駅から経王寺までは荒川区西日暮里。 
諏訪台通りをそのまま延伸し、これより台東区谷中の町に入る。

・・・・・・・・・・ 写真の右側は「吉川錻力店」。 ブリキ屋である。 ブリキなどで屋根や壁を貼ったり雨どいを取り付けるような仕事かと思うが、なにか生活用具なども作っていたのかもしれない。、、、、、左側は、大丸松坂屋百貨店の創造型マーケティング組織「未来定番研究所」。 以前は、「銅菊」と称し、谷中で3代にわたって銅細工を手がけた職人の屋号です。、、、、、“お江戸”の“下町”だ!
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・・・・・・・・・・ 「朝倉彫塑館」は、彫刻家朝倉文夫の住宅兼アトリエ(大正12年(1923)竣工)を、美術館として公開している。 この家の主、朝倉文夫は日本の近代彫塑の技法を確立し、生涯驚異的ともいえる数々の作品を製作した。 この建物は昭和3年(1928)から7年の歳月をかけて新築し、朝倉氏自らの設計によるものです。 本館は西洋建築のアトリエ棟と竹をモチーフとした日本建築の住居棟で構成されている。、、、、、今日は前を素通り、日を改めて来ます!
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・・・・・・・・・・ 赤穂浪士ゆかりの寺 観音寺、、、、、新義真言宗の「観音寺」は、蓮葉山妙智院と号し、慶長年間(1596~1615)の創建。 赤穂浪士討入りに名を連ねた近松勘六行重と奥田貞右衛門行高が当寺第6世朝山大和尚の兄弟であったことから、赤穂浪士討入りの会合にもよく使われ、討入り後には赤穂浪士供養塔が建立された。
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・・・・・・・・・・ 観音寺築地塀は国指定有形文化財、、、、、観音寺は明和9年(1772)の火災で灰燼に帰した後,文政年間頃に再興された。築地塀は境内の南面を画する延長37.6mのいわゆる練り塀で、瓦と粘土を交互に積み重ねて造り潜り戸一所を備える。 浅草と並ぶ江戸有数の寺町であった当時の面影を伝える。
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・・・・・・・・・・ 観音寺から南へ100m程歩くと、浄土宗総本山知恩院の末寺である「功德林寺」がある。 その境内に、江戸時代から伝わるわらべ歌『向こう横丁のお稲荷さんへ一銭あげて ざっと拝んでお仙が茶屋へ……米の団子か 土の団子か』で知る人ぞ知る「お仙が茶屋」の笠森お仙がいた水茶屋(道端や寺社の境内で湯茶を飲ませた茶屋)で、笠森稲荷の赤い鳥居前にあった「鍵屋」のこと。 「鍵屋」を開いたのはお仙の父・五兵衛で、年頃となった彼女(お仙は“江戸三美人”の一人となる)が店で茶くみをするようになると、お仙を目当てにした客で大変繁盛した。 お仙のブロマイドならぬ錦絵は飛ぶように売れ、鍵屋では彼女をモデルに手ぬぐいや絵草紙などのグッズも販売したそうだ。 現在のアイドルのような存在でした。 功德林寺の境内には、そのお仙ゆかりの「笠森稲荷」が祀られている。 
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● 谷中4丁目に安産飯匙(しゃもじ)の祖師を祀る瑞輪寺の祖師堂(東京七面山)がある。、、、、、堂に祀るは、江戸十大祖師の一人で、除厄・安産の飯匙祖師である。(“飯匙”と書いて“しゃもじ”と読む) 文永11年(1274)3月13日、日蓮が佐渡流罪から放免となって鎌倉に向かう途中、武蔵国の久米川あたりに関善左衛門という人がいて、その妻が難産に苦しんでいて、日蓮に助けを恋うた。日蓮は家にあった飯匙に御本尊をしたためて妊婦にいただかせた。するとたちまち母子ともにつつがなく安産となった。 そして一家一門感激して入信し、日蓮像を彫って、谷中に善性寺を恋うたて安置しました。後に感応寺に移して、庶民の間に安産のご利益が広まり信仰を集めた。 感応寺が改宗することになり、瑞輪寺に勧請して、現在までご利益を求める方々の信仰を集めている。、、、、、しゃもじを抱いて安産ができる、どこぞのマタニティクリニックで実行してみたら流行すかも?
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● 真言宗豊山派寺院の「長久院」は、瑠璃光山薬師寺と号す。 長久院は、慶長16年(1611)2月宥意が神田北寺町に開山、慶安11年(1658)当地へ移転した。、、、、、 本堂前に、「六十六部造立石造閻魔王坐像及び両脇侍像」が祀られている。 その説明板には、『この石仏は、中央に閻魔王像、右左にそれぞれ司命、司録像を配しています。閻魔王は死者の生前の行いに応じて死後の行き先を決めるという冥界の王で、司命は閻魔王の判決を言渡し、司録は判決内容を記録する従者であるとされています。台座に刻まれた銘文によると、この三躰は六十六部聖(六部聖ともいう)の光誉円心という人物が享保11年(1726)に造立したものです。六十六部聖とは「法華経」を六十六部書写し、全国六十六箇所の霊場に一部ずつ奉納した聖のことをいいます。江戸時代になると経典の奉納の他に、石塔・石仏を各地に造立するようになりました。経典の書写や石塔・石仏の造立を重ねることは、生前の罪障を滅し、死後の往生に近づくこととされたためです。都内に現存する六十六部聖が造立した石仏を調べてみると、地蔵菩薩像が圧倒的に多く、閻魔王像は極めて稀であることが分かります。本像は六部聖が江戸時代の谷中でも活動していたことを裏付けるとともに、希少な石仏として貴重な文化財の一つです。』と記されてた。 この閻魔は、にこやかな顔をしており、「笑い閻魔」とも呼ばれているそうだ。 ウハウハ!
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● 西日暮里から寺社巡りをして
鶯谷駅(うぐいすだにえき)」に到着。、、、、、明治45年(1912)7月11日に鉄道院東北本線の駅として開業。 ホームは既に電車運転を開始していた運転系統としての山手線のみに設置された。 このため実際上は上野駅 - 田端駅 -池袋駅 - 新宿駅 - 品川駅 - 烏森駅間に運転された山手線の駅としての開業であった。 大正14年(1925)には山手線の線路を利用し京浜線の運転が田端まで延長され、乗入路線数が2路線となる。、、、、駅正面にラブホテルが密集している“大人の駅”(?)でも、治安は悪くないようだ。(よく知らないが!)
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2025年11月28日 (金)

空飛ぶ飛不動

圧倒的に爺さんが多く通う泌尿器科。(婆さんは老いても恥ずかしいのか少ないね!) 私もその一人、上野の病院から始まり、浅草のクリニックに回され、泌尿器科通いはかれこれ10年以上になる。 特に病気ということもないのだが、上野の病院時代に『先生、もう通わなくてもいいですか?』と問うと、先生から『前立腺が多少腫れているので、浅草のクリニックを紹介するから、予防だと思って通いなさい。』と言われた。 場所は“浅草観音様の裏”で、身体の方は“病気”と思い落ち込む必要も無いので、散歩気分で楽しく通っている。

今日は泌尿器科の定期健診日、診察が終わり「異状なし」の言葉を聞いた帰り、台東区竜泉にある「飛不動」に寄ってきた。


● 「飛不動(とびふどう)」は通称、正式には「龍光山三高寺正寶院」が寺の名前。 享禄3年(1530)創建の天台宗の修験寺院。本尊は木造不動明王坐像で、「飛不動」の通称で知られている。 由来は、昔、寺の住職が大和の大峰山に本像を背負って修行に行ったところ、江戸の寺では本尊が留守のため、お不動様の分身に祈った。 すると、お不動様は一夜にして当地へ飛び帰り、人々の願いを叶えたと伝えられている。、、、、、現在は、『お不動様が飛行機に乗って帰ってきたようなものだ!』ということで、航空安全の守護神として祀られている。
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・・・・・・・・・・ 飛不動の絵馬には、空飛ぶ飛行機が描かれてる、、、、、御利益ありそうな絵馬だ!
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● 飛不動はお酉さまで有名な鷲神社・長国寺の北に位置するので、チョイと帰りにこちらにもお立ち寄り。

・・・・・・・・・・ 鷲神社は、4日前に終わった“お酉さま”の後片付けの真っ最中
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・・・・・・・・・・ お隣、長国寺は片づけ終わり、スッキリ!
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2025年11月24日 (月)

お酉さま

今日は二の酉。 毎年のことであるが、夫婦で浅草の鷲神社(おおとりじんじゃ)に参拝した。、、、、、台東区千束にある鷲神社は、大鳥大社(大阪府堺市)を総本社とする大鳥信仰の神社である。 日本武尊、天日鷲命などを祀り、古くから武運長久、開運、商売繁盛の神として信仰を集めてきた。 平安時代には源頼義・義家父子が戦勝祈願を行ったとされ、江戸時代以降は庶民の信仰の場としても栄えてきました。、、、、、今年も夫婦で参拝する酉の市。 長生きできますように、よろしく! 

江戸時代後期から、最も著名な酉の市は、浅草の鷲在山長国寺(じゅざいさん ちょうこくじ、法華宗本門流)境内の鷲神社で行われた酉の市である。 「本酉」と呼ばれた花又(武蔵国南足立郡花又村、現:足立区花畑)の大鷲神社の酉の市に対して「新酉」と呼ばれた。 当時浅草の鷲神社は妙見大菩薩とも呼ばれて、鷲に乗った妙見菩薩の姿として描かれ、長国寺境内の番神堂(鷲大明神社)に安置された。 11月の酉の日には鷲妙見大菩薩が開帳され、酉の市が盛大に行われるようになる。 鷲神社は「鷲宮(わしのみや)」、長国寺は「酉の寺」とも呼ばれた。明治初年には神仏分離令により、長国寺と鷲神社とに引き分けられた。 この「本酉」「新酉」の他、千住の勝専寺(赤門寺。浄土宗)が「中酉」と呼ばれ、それぞれ盛大な酉の市が開かれたが、現在では勝専寺の酉の市は行われない。


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2025年9月 3日 (水)

浅草寺の東門

猛暑日の今日も通院、浅草は浅草寺裏(馬道)にある泌尿器科へ行ってきた。 帰り、チョイト浅草寺にお立ち寄り。・・・・・今日は、浅草寺本堂の東側にある「二天門」から境内に入った。 この朱も鮮やかな二天門は浅草寺の東門である。 有名な雷門は浅草寺本堂正面に伸びる仲見世(参道)の入口に位置する南門である。 個人の観光客や主に欧米からの少人数の団体客などは、雷門から参拝することが多いが、国内の修学旅行、C国の団体客など観光バスでやって来る団体さんは、二天門の周辺に観光バスの駐車場があるので、ここから境内に入って来ることが多いようだ。 



「二天門」は、慶安2年(1649、徳川家光の時代)頃に浅草寺の東門として建立された。 江戸時代を通じて浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮(元和4年(1618)建立、寛永19年(1642)焼失)の随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。 明治17年(1884)、神仏分離によって随身像は浅草神社に遷座されて、鎌倉の鶴岡八幡宮から増長天と持国天の像が奉納された。このとき名称を随身門から二天門と改めた。、、、、本瓦葺・切妻造り木造朱塗り八脚門の二天門は、昭和25年(1950)に国指定重要文化財に指定された。
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・・・・・・・・・・ 明治期に二天門と改称した門には、随身像から、仏教を守護する四天王のうち増長天・持国天の二天像を安置している。  現在安置されている二天像は京都七条の仏師、吉田兵部が江戸時代初期(17世紀後半)に制作したもので、昭和32年(1957)に寛永寺の厳有院殿(4代将軍徳川家綱)霊廟の勅使門から移されたものである。 (写真順に、増長天、持国天)

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・・・・・・・・・・ 門に掲げられている「二天門」額は、太政大臣 三条実美(1837~1891)の筆により、明治16年(1883)2月1日に掲げられた。 以降、「二天門」と称されている。
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・・・・・・・・・・ 二天門前に残されている手水鉢は、安永6年(1777)に奉納されたもの。 手水鉢前面の銘文には「金龍山随身門前」と彫られていることから、江戸時代の随身門であった当時から、この場所に置かれていたものと推察される。
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・・・・・・・・・・ 今日も来た来た、C国の団体さん。 日本に来たら、マナー厳守!
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本堂へ参る
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2025年7月13日 (日)

お不動さまにも縋る

今日も暑さが和らいだ一日となった。 午後から、前々から気になっていた高齢の年寄り夫婦を、妻と訪ねることができた。 場所は台東区の北端で隅田川に架かる白鬚橋に近い“橋場”という所にある。 訪問が終り、『ここまで来たら、チョイト、橋場不動に寄って行こう。 俺のアレルギーが治るように、お不動さまにもお願いして帰ろう!』と言うことで、手を合わせてきた。



不動院(橋場不動尊、砂尾山橋場寺と号す)は、天平宝字4年(760)、奈良東大寺建立に尽力のあった高僧良弁僧正の第一の高弟寂昇(じゃくしょう)上人によって開創した。 当初は法相宗であったが、長寛元年(1163)に時の住職教円によって天台宗に宗派を改めた。 鎌倉時代以降は浅草寺の末寺となっていたが、現在は比叡山延暦寺の末寺となっている。 江戸時代には、周辺の三条公、有馬候、池田備前候などをはじめとする武家の尊信をも集め、明治末年の大火、関東大震災、そして昭和20年3月の東京大空襲の際にも、不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍をまぬがれたことから、霊験あらたかな「火伏せの橋場不動尊」 として現在でも広く庶民に尊信されている。 現在の本堂は、弘化2年(1845)建立のもので、小堂ながら江戸時代の建築様式を保ち、美しく簡素なたたずまいをしている。、、、、、今日は日曜日でお寺も休みなのか、本堂の障子は閉められてるが、賽銭箱は外にある。 賽銭箱に、100円硬貨を投げ入れ、“火伏せ”の仏さまでも、“皮膚病”ぐらい治せるだろうと、夫婦で祈願する。 御真言を唱える『ナーマーサーマン ダーバーサラナン センダーマーカロシャーナー ソワタヤウンタラ ターカンマン 』
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・・・・・・・・・・ 障子が開いている時の不動堂(2021年10月撮影)
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2025年5月 7日 (水)

大根と巾着の寺

連休明けの初日、今日は泌尿器科の定期診断で浅草寺裏のクリニックへ行く。 今日は前立腺癌の検査結果を聞くと、“異常なし”と一言。 昨年秋には大腸癌の検査を行い、こちらも“異常なし”。 泌尿器科関連の癌は、今のところ発症していないようだ、一安心。、、、、、 帰りに、近くの「待乳山聖天」に寄ってきた。



● 台東区浅草にある「本龍院(ほんりゅういん)」は天台宗の流れをくむ聖観音宗の寺院で、浅草寺の子院のひとつである。 山号は待乳山。 本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音で、「待乳山聖天(まつちやましょうでん)」とも称される。、、、、、本龍院は隅田川べりの小高い丘(待乳山)にある。 この丘は推古天皇3年(595)9月に出現してが守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金龍山)の由来となったと言われてる。 推古天皇9年(601)この地方が旱魃に見舞われたとき、歓喜天と十一面観音が安置されたそうだ。 待乳山は、かつては周囲が見渡せる山であり、江戸時代には文人墨客がこの地を訪れていたそうだが、現在はスカイツリーがよく見える東京で一番低い標高10mの山である。
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境内各所に印された巾着大根は、信心で祈願することにより得られるその御利益を端的に表したものである。 大根は身体を丈夫にしてもらい、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を御加護頂ける功徳を表している。 巾着は財宝で商売繁盛を表し、聖天の信仰の御利益の大きいことを示されたものだ。 境内のあちこちに大根と巾着のシンボルを見ることができる。
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・・・・・・・・・・ 大根は心身を清浄にする聖天さまの「おはたらき」を象徴するものとして、聖天さまのご供養に欠かせないお供物とされている。 参拝する人は、本堂(聖天宮)で歓喜天(聖天さま)に大根を供え、お供えの大根を持って行く。 ご祈祷のあと、お下がり(おさがり)の大根を頂くことによって、聖天さまのお徳をそっくり頂戴し、身体と、心の健康を得ることが出来る。
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・・・・・・・・・・ 歓喜天に手を合わせ、無病息災を願い帰る。

2025年4月 7日 (月)

散り始めた桜

そろそろ桜も散る頃と思い、今日は隅田公園を抜けて、向島方面に歩いて見た。 しかし運悪く、向島あたりから霧雨が、小粒の雨となりポツリポツリと落ちてきた。 『コリャダメだ! 散歩は中止!』で、京成曳舟駅に駆け込み電車でGO! 浅草橋駅に着いた頃には、『雨、いつ降ったの?』と聞きたくなる晴天。



隅田公園(台東区)で、そろそろ散り始めた桜とスカイツリーを眺め、桜橋を渡り墨田区に入る。、、、、桜の下の花見は、昨日で最後か(?)、今日は人出も少なく、場所取りする人もいない。 足元の花びらを踏みながらの散歩である。
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● 向島では、黄檗宗の弘福寺にお立ち寄り。、、、、延宝元年(1673)黄檗宗の僧鉄牛道機の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院である。 江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。 関東大震災で罹災したが、本堂である大雄宝殿は昭和8年(1933)に再建された。 寺は黄檗宗特有の唐風結構で、特に本堂の両翼にある円窓、堂前の月台、処々柱に掛かる聯額(れんがく)等、他の寺院建築に余り例を見ない特異なもの。 私好みの寺院建築である。
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・・・・・・・・・・ 黄檗宗
は禅宗の中でも中国色の強い宗派として知られ、当寺に布袋尊の御像が安置されたのも、実はその黄檗宗の性格にかかわるのである。 布袋尊は唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は尽きるころがなかった。 その無欲恬淡として心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭した有徳として、世人の尊崇を受け、七福神の一神としても敬われたのである。
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・・・・・・・・・・ 境内には、風外和尚禅師(寛永年中の人)自刻の父母の石像があります。 風外禅師は相州真鶴(神奈川県真鶴町)山中の一洞穴で求道生活をしていましたが、自ら刻んだ父母の像に、朝夕の孝養を怠らなかったといわれています。その後小田原城主の当山開基稲葉正則公が、風外和尚の温情に胸打たれて、江戸下屋敷にて供養をしておりましたが、同公の転封に伴い、菩提所である弘福寺に祀られたものだある。 風外和尚の「風邪の外」の文字より風邪除けのご利益があろうと民間信仰を集めてる。 人呼んで「咳の爺婆尊(せきのじじばばそん)」と称し、口内にやむものは爺に、咳をやむものは婆に祈願し、全快の祈り、煎り豆に番茶を添え供養する習わしがある。、、、、風邪が治った私は、再発せぬようねんごろに手を合わせてきた。
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● 料亭の玄関先に咲く枝垂れ桜も散り始めた。
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● 『アレ! 霧雨だ、チョイト神社で雨宿り!』と、国道6号線から少し入った住宅街の中に鎮座する秋葉神社にお立ち寄り。、、、、社伝によれば、正応2年(1289)五百崎〔いおさき〕の千代世〔ちよせ〕の森と呼ばれていた当地に千代世稲荷大明神を祀ったことを創祀とするという。 江戸時代の初め、善財という霊僧が秋葉大神の神影を刻んで社殿に納めたとされる。 元禄年間(1688~1704)、葉栄という修験者が霊告によってこの社に参詣し、霊験を得た。 そこで寺社奉行に願い出、元禄15年(1702)、上野国沼田城主・本多正永の寄進によって社殿を造営し、秋葉稲荷両社と称するようになった。 また、別当として千葉山満願寺を建立した。以来、鎮火・産業・縁結びの霊験により、庶民から大名まで広く信仰を集めた。享保2年(1717)には神祇管領より正一位の宣旨を受けている。 明治初めの神仏分離により、秋葉神社と称するようになり、別当の満願寺は廃寺となった。 大正12年の関東大震災、昭和20年の東京大空襲の被害を受け、現在の社殿は昭和41年(1966)に再建されたものである。、、、、霧雨が小粒の雨に変わってきた。 アリャリャ、困ったね傘は無い、服は濡れ始めた。
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・・・・・・・・・・ 京成曳舟駅へ駆け込み帰宅することにした。 地下鉄の浅草橋駅に着くと、日差しは強く、晴天だ! 
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2025年3月27日 (木)

春到来!

医者に処方してもらった10日分の抗生物質、咳止め、痰切りの薬を全て服用し、昨日から風邪薬無しとなった。(妻は、まだ薬を服用中) 私はそろそろ完治すると自己判断し、妻に『気晴らしに隅田公園に花見に行くか?』と問うと、『まだ治ってないのに、ぶり返したらどうするの!』と怒られた。 ここは素直に『ハイ、そうですね』と返事。、、、、もうしばらく散歩は、我慢我慢!

午後、我が家から徒歩1分、私の母校でもある「旧台東区立柳北小学校」(明治9年:第五中学区第十四番公立小学柳北女学校として設立、大正15年:現存する鉄筋コンクリート三階建校舎が竣工、平成13年(2001):少子化により閉校)の前にある「柳北公園」で、数本の桜を眺め“日向ぼっこ”。、、、、春到来!
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2025年3月17日 (月)

おや! 城がある

今日は、浅草橋の我が家から、両国橋を渡り、両国国技館をとおり本所の町を抜け、東京スカイツリーの押上駅まで歩いてきた。 1万1千歩



● まだ眠い人もいる朝の7時40分、散歩に出る。 妻が玄関で『今日は、何処へ行くの?』と聞いてくる。 応えは『まだ決めてない、駅に行くまでに考えるよ! だけど、近場がいいな!』 妻が『隣の駅、両国なら近いよ』 その一言がヒントになり、両国橋を渡り、押上まで歩くことにした。、、、、浅草線の浅草橋駅前柳橋をとおり、両国橋隅田川を越える。
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・・・・・・・・・・ 総武線隅田川橋梁の西詰(台東区柳橋)に「石塚稲荷神社」がある。 かつて、石塚神社から50m程歩いた川岸に銭湯があり、柳橋芸妓組合(見番)があった。 戦後生まれの私は、我が家に内風呂が無く、近くの銭湯を利用していたが、その内の一軒が柳橋の銭湯だった。 昭和30年・40年頃の柳橋は、まだ華やかな花柳界であった。 夜は、人力車・黒塗りの車が料亭前にズラリと停まり、銭湯に来るたびに“何だか知らぬが凄いな~”と思う光景が印象に残ってる。 当時の料亭の名が今も残る玉垣は、私に半世紀以上昔の華やかであった柳橋を思い出させる。、、、、石塚稲荷神社の創建年代は不詳だが、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志が創建したといい、元禄元年(1688)当地へ移転したと言われてる。
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● 両国駅前をとおる。 両国駅も私の幼き頃を思い出させる駅である。 昭和30年・40年頃の両国駅は房総方面に向かう列車(蒸気機関車が牽引)の始発駅であった。 私の父方の本家が外房にあり、幼少の私は、夏・冬には両国から汽車に乗って連れて行ってもらった。、、、、現在ある両国駅は昭和4年(1929)12月30日に営業を開始した駅舎である。 開業当時は頭端式ホーム2面4線の構造であった。 当時は乗車口と降車口が分離されており、外から駅舎に向かって左側に乗車口、右側に降車口があったそうだ。 駅舎の竣工:昭和4年(1929)、設計:鉄道省建築課、施工:銭高組、構造:鉄筋コンクリート造2階建て。
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両国国技館東京都慰霊堂を横目で眺め、今日は前を素通りする。
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● 隅田区石原1丁目の裏通りに、小さな「徳之山稲荷神社」がある。、、、、本所築地奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡の屋敷跡。 五兵衛は掘割の開拓や湿地の埋め立て、道路整備と市街地の造成などで、今の本所の基礎を作り上げ、その功績により、この地に屋敷を賜った。 五兵衛の死後、屋敷内に祀られていた稲荷と五兵衛の御霊が合祀され、徳山稲荷神社となった。、、、、また、孫の徳山五兵衛(秀榮)は、火付盗賊改方の在任中、歌舞伎の白波五人男の一人、日本駄衛門のモデルになった盗賊、日本左衛門らを捕えたことで有名である。 境内には、その「日本左衛門首洗い井戸跡之碑」なんてのも残ってる。
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● 本所2丁目には、都心の公園としてはチョイト広い「墨田区立若宮公園」がある。 その公園の一画に「牛嶋神社」が鎮座する。、、、、神社の鳥居前、木陰に隠れるように「満州事変忠魂碑」がある。 昭和6年(1931)に始まった満州事変では700余名が戦死し、その霊を祀り昭和10年(1935)に遺族が碑を建てたらしい。 塔頂部は満州らしい七重塔となっている。、、、、きっと戦前は、木陰でなく、もっと目立つところに堂々と置かれていたものと思われる。 戦後、公園の整備に合わせ移動されたのではないか(?) 
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● 東京スカイツリーを見上げる墨田区業平1に『おや、こんなところに城がある。 業平城かな?』、、、、昭和8年(1933)創業以来、昔ながらの伝統ある菓子作りをしている「お城森八本舗」である。 売れ筋の商品は「大粒栗最中」らしい、まだ営業前なので店は閉まっており、買うことはできなかった、残念!
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東京スカイツリーの膝下を歩き押上駅に向かう。 スカイツリーを撮るのだが、縦に長すぎて、素直にカメラに映らなくなってきた。(見上げる首もいたくなってきた!)
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● 東京スカイツリーの地下にある、浅草線の押上駅から電車で帰る。

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