台東区

2021年1月 4日 (月)

浅草橋ナイナイないもの

雅万歩が住む“浅草橋周辺”(想定する地域はコチラを参照)には、『ナイ・ナイ・有るべきものが無い!』、、、、そうなんです、都心の町ではどこにでも普通に有るはずのものが無いのです。 そんなものを紹介します。、、、、(注:雅万歩は、只今、コロナの為、外出自粛中)

 

①「マック」が無い!・・・・・・江戸通りに面し、浅草橋駅の近くにあった「マクドナルド」が10年程前に撤退し、“浅草橋周辺”からは消え去った。 マクドナルドの店舗一覧を見ると、“浅草橋周辺”は完全な空白域となっている。 マクドナルドが撤退した跡には「バーガーキング」が入居し、『安くて、美味しいバーガー』で営業中。、、、、浅草橋駅周辺には、フライドポテトを入れる紙の容器が道端に捨てられていることもなく、マックは町の美化に貢献しているようだ!

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②「スタバ」が無い!・・・・・・こちらもマックと同様に店舗一覧を見ると、“浅草橋周辺”は完全な空白域。 さらに異様なことは、江戸通り(=国道6号)沿線に、銀行・店舗・ビジネスホテルが建ち並んでいるにもかかわらず、中央区室町の交差点から、東武浅草駅までの約3.5kmの区間には、店舗が一軒もないのだ!、、、、スタバでコーヒーを片手に休憩する“カッコイイ美人OL”が、見られないのは寂しいかぎり!、、、、ちなみに、「ドトールコーヒー」は、“浅草橋周辺”には都営浅草橋駅入口横(江戸通り)に1店舗あるのみ。 江戸通りには馬喰町・小伝馬町・蔵前にもある。

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③書店が無い!・・・・・・・“浅草橋周辺”から、書店が消えて久しい。 50年前は駅周辺だけでも5軒程あった。 今は本を買うには、秋葉原・浅草・錦糸町・日本橋と、いずれにしても電車で行かねばならない、書店から見放された町。、、、、江戸通りに面し、駅の隣りにあった書店は「マツモトキヨシ」に変わったが、その隣りには同業の「ココカラファイン」がある。 この両薬局は今年10月に経営統合すると云われてる。 さて、この2店舗は統合後どうなるのかな? 1店舗にして、書店が復活すると、私のように知識に飢えている読書家には嬉しいね!

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④泌尿器科が無い!・・・・・浅草橋の住人も高齢化し、尿漏れ・膀胱炎・前立腺癌など“泌尿器科”にお世話になる機会も増えてきたが、“浅草橋周辺”には泌尿器科の専門医院が無くなった。 ついでに、婦人科・産科も無くなった。 眼科、小児科の医院は各1軒だけ。 チョイト外れた総合病院に行けば、診てもらえるが、待ち時間・費用が大変だ!、、、、私も、数年前、排尿ができなくなり苦しみ、総合病院へ救急搬送してもらった経験がある。 先生曰く『家の近くの医院で、定期的に診てもらいなさい』 私『その近くの医院より、こちらの病院の方が近いのです。 普段診てもらえそうな医院は、こちらの病院より遠い処にしかありません』、、、、ちなみに、町の歯科医は15軒以上ある。 病院は「永寿総合病院 柳橋分院」(内科・整形外科が主)があるのみ。、、、、浅草橋は医療崩壊ではなく、医療アンバランスなのだ!

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⑤寺が無い!・・・・・・台東区は谷中・浅草と寺の多い区であるが、“浅草橋周辺”の地域内には一寺も無い。、、、、大正12年の関東大震災までは、浅草橋二丁目に華徳院と云う寺があったが被災し昭和4年に杉並区へ移転した。 この寺には、江戸三閻魔の一つがあった。 寺があった処には「閻魔堂跡」の碑がある。 華徳院の移転後、寺らしい寺は皆無となった!、、、、最近は、わけの判らない、〇〇教̻▢▢教会がポツ・ポツと生まれ、何やら怪しげな人が集まる処もある。 できることなら、閻魔さまに戻ってきて欲しいものだ!

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⑥タワマンが無い!・・・・・都心でも、郊外でも、再開発の目玉は超高層ビル、タワーマンション。 “浅草橋周辺”には30階以上の大きな建物が無い、土地の地盤が悪いわけではない、なぜだ?、、、、浅草橋5丁目に、30年前に建てられた「CSタワー」ビル(地上18階建て)は、今でも町のランドマークである。 蔵前1丁目の旧東京貯金事務センター跡地に建設中の建物は、23階建て(高さ91m)のタワーマンションと13階建て(高さ58m)の高層オフィスビル。 チョイト区域外だが浅草橋5丁目の向かい側(千代田区神田和泉町)に建設中の「日本通運本社ビル」は地上14階建て(高さ58m)。、、、、世間では30階を超える建物も珍しくなくなり、アチラ・コチラで、空に向かってニョキニョキと伸びている。 “浅草橋周辺”の住民は、私を含めて、皆、高所恐怖所なのかも?、、、、写真は順に、CSタワー、貯金事務センター跡地の再開発現場、日本通運本社ビル建設現場

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⑦その他、ありそうで無いのは・・・・・・公団(UR都市機構)の住宅団地が無いのは理解できるが、区営住宅・都営住宅など小規模公営住宅がない。、、、、ビジネスホテルはドンドン建設中だが、ラブホテルが無い、不便を感じる人は居ないようだ、皆、ジジイとババアになったのか?、、、、“〇〇商店街”が皆無となった。 終戦直後は、私が知るだけでも、駅前に2つの商店街があり、年末の“福引大売り出し”で賑わっていた。、、、、最後に、エスカレーターのあるビルが無い。 エスカレーターなんて、どこにでもありそうだが、“浅草橋周辺”域内のビルで、設置されているビルは私の記憶では皆無。(注:都営の浅草橋駅構内には設置されている。JRの浅草橋駅には設置されてない) 



我が家から、秋葉原までは徒歩20分、浅草雷門までは徒歩45分、日本橋までは徒歩45分、ナンダカンダと云っても、“浅草橋”は足を使えば便利なところである。、、、、高齢者施設に強制収容されるまでは、この地に住むつもりだ! 

 

2021年1月 1日 (金)

浅草橋七社巡り

明けましておめでとうございます・・・・今年も『雅万歩』をよろしく

大晦日、東京都の新型コロナ感染者数は、とうとう1000人を超えた! 我が家では、都内に住む娘二家族の全員が、時間をずらしてやって来た。 年始の会食は避け、用意していた三段重の“おせち料理”を、一段づつ持って帰ってもらい、それぞれ家族単位で正月を迎えることにした。 今日は、私達夫婦と97歳の母、三人でチョイト寂しいお正月。 

祝いの膳を済ませ、私:『今年は、“浅草橋七社巡り”に行こう!』 妻:『なに?それ!』 私:『誰云うとなく、神代の昔から言い伝えられた“浅草橋七社”を知らずして、ここに住めないぞ!』 妻:『じゃ~~、どこに住むの?』 私:『・・・・・?』、、、、「浅草橋七社」、こんな名所はガイドブックにも載ってない! これは雅万歩の好き勝手な命名である。

今日は浅草橋周辺にある全ての神社(七社)を巡ってきた。、、、、「浅草橋周辺」とは、東は隅田川、西は美倉橋通り、南は神田川、北は蔵前橋通り、で囲まれた、東西約1.0km、南北約0.6kmの矩形範囲が対象域。 この矩形の中には、台東区浅草橋と台東区柳橋の全域、北東の隅に台東区蔵前一丁目、南西には千代田区東神田三丁目が含まれる。 ちょうど矩形の中央に浅草橋二丁目の我が家が位置する(我が家が“浅草橋の中心だ!”、“天動説”の雅万歩) 浅草橋一丁目にはJR・都営の浅草橋駅、蔵前一丁目には蔵前警察署がある。

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● 浅草橋七社巡りの一番は、まず我が家の氏神様である「銀杏岡八幡神社(いちょうがおかはちまんじんじゃ)」、、、、浅草橋駅裏に静かに、誉田別命を祀る小さな神社。、、、、歴史は古く、平安時代後期、源頼義・義家が奥州征伐に向かう途中、小高い丘だった当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願した。 奥州平定の後、再び立ち寄ると銀杏の木は大きく成長していた、義家は神に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請した。 時は康平5年(1062)のことである。 江戸時代に入ると、現在のJR浅草橋駅の北側一帯は福井藩松平家屋敷地となり、神社も松平家の邸内社となる。 享保10年(1725)公収され町内(福井町)の産土神となった。 明治維新後には村社に列格した。、、、、毎年、6月と12月の大祓では、人型に家族の名を書き息を吹きかけ、半年の穢れを祓い清めてくれる、ありがたい神社。 今年も、我が家族の心身を、清く正しく美しくしてもらい、正月を迎えた。(残念なことに、容姿は美しくならないそうだ)

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● 二番は「須賀神社(すがじんじゃ)」、、、、神社は私の住む浅草橋二丁目にあり、江戸通り(国道6号)に面して鎮座する。、、、、神社の歴史は銀杏岡八幡神社よりさらに古く、推古天皇九辛酉年(601)に遡る。 このあたり(武蔵国豊島郡)に疫病(当時の新型コロナかも?)が流行した折、郷人が牛頭天王(素戔嗚尊の化身)に病難平癒を願ったところ、ことごとく快気を得たので、この所に祠をたてたのが創始とされている。 江戸期には祇園祠牛頭天王社と称していたが、明治元年に須賀神社と改称した。 その後、震災・戦災で被災し、昭和36年(1961)に社殿・社務所等の建物を全て完成。、、、、祭神は、もちろん素戔嗚尊。、、、、今日は、人類を代表して、“新型コロナの撲滅”を祈願する。

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・・・・・・・・・・・・・・須賀神社前の江戸通り(国道6号)も、今日は空いている!

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● 三番は柳橋一丁目の「篠塚稲荷神社(しのづかいなりじんじゃ)」、、、、祭神は、穀物・食物の神様である倉稲魂命。 神社は南北朝時代(室町時代)に、新田義貞の家臣篠塚重広(武勇に秀でた人物で、新田四天王の筆頭と言われた武将)が当地にあった稲荷社に祈願を続けていたことから、「篠塚稲荷」と称されるようになった。、、、、江戸時代には篠塚山玉蔵院宗林寺というお寺になったが、しかしその後、明治維新の神仏分離令により、廃寺となる。 その後は、大正時代に寺子屋として子供達の教育の場になるが、今度は廃校となってしまう。 そのような中、篠塚稲荷神社だけが残され、現在もこの地に鎮座しています。、、、、寺も学校も廃止となり、事業は失敗続き! 御利益期待できるのかチョイト心配だ? 一応、“金運上昇”、“一攫千金”の御利益を期待し、賽銭をはずんできた。

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● 四番は柳橋一丁目にある「石塚稲荷神社(いしづかいなりじんじゃ)」、、、、祭神は、こちらも倉稲魂命。 石塚稲荷神社の創建年代は不詳だが、浅草御蔵前元旅籠町(現:蔵前三丁目、江戸時代には隅田川岸に御蔵が並んでいた処)の人々は町内の安全と火除けを祈り、創建したと云われている、元禄元年(1688)には、御蔵の拡張により現在地へ移転した。、、、、戦後に柳橋料亭組合と柳橋芸妓組合などが寄進して再建した玉垣には、「亀清楼」「柳光亭」「柳水」「津久松」「はやし」「稲がき」など、隅田川沿いに建っていた料亭の名前が、当時の並び順に彫られている。、、、、私が知る戦後の柳橋では、神社は料亭街の中央に位置して、近くには銭湯・見番もあり、行き帰りにチョイト手を合わせることができた。 今日は、もしコロナで入院したら、柳橋芸者のような美人看護士に巡り合えることを祈願した。

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● 五番は蔵前一丁目の「榊神社(さかきじんじゃ)」、、、、榊皇大神を祀る榊神社は、浅草橋七社の中では、境内も広く最も参拝客の多い神社で、古くから「第六天神宮」と呼ばれてきたが、明治6年(1873)に社号を「榊神社」へ改称した。 笹塚稲荷神社・石塚稲荷神社は、こちら榊神社の兼勤社である。 、、、、第六天榊神社は、日本武尊が、景行天皇40年(110、日本書紀の時代だ!)に創建したと云われてる。 もと第六天神社と称し、森田町(現:蔵前三丁目)に鎮座していたが、享保4年(1719)浅草不唱小名(柳橋一丁目)へ遷座。 明治維新の廃仏毀釈により社号を「榊神社」へ改称。 現在の所在地(蔵前一)には、かつて官立の図書館浅草文庫があった。 浅草文庫は明治14年(1881)に閉館し、その後は東京職工学校(後に東京高等工業学校、現:東京工業大学)の校地となっていた。 関東大震災後に東京高等工業学校が目黒区大岡山へ移転したことから、昭和3年(1928)にはその跡地の一部(東京高等工業学校正門付近)に榊神社が移転し現在に至っている。、、、、頭が良くなりそうな神社なので、夫婦揃って“ボケ防止”を祈願してきたが、効果があるか疑問?

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● 六番は浅草橋三丁目の「加賀美久米森稲荷神社(かがみくめのもりいなりじんじゃ)」、、、、正月元日と云うのに、参拝する人は居ないのか? 浅草橋七社の中では、最も貧弱な神社。 祭神は倉稲魂命。、、、、その昔、加賀美太夫、条太夫という越後国猿屋村の猿曳が諸国漂泊の末、江戸にやってきた。やがて本業の芸と加持祈祷の評判が高まった。 そのころ、徳川将軍が不治の病にかかり、すぐれた祈祷師を天下に求めた。さっそく、彼らは城中に招かれ病気平癒の祈禱をした。すると、将軍の病はみるみる快癒にむかったので褒賞として、現在、神社のある土地に猿楽町の名を賜わって、永住することを許された。この両太夫の邸内に、それぞれ祀られたのが当稲荷社である。その後、小島屋西之助の持地となり合祀奉斎された。寛永7年(1630)にすでに猿屋町の町名が見られるため、そのころに勧請されたものと思われる。、、、、加賀美久米森稲荷神社は現在鳥越神社の境外末社となっている。(鳥越神社は我が家からも近い距離にあるが、今回の浅草橋周辺の定義域に入らないので除外)、、、、神社の大きさに比べ、やたら大きな鋼製の賽銭箱に、複数枚の硬貨を放り込んだら、ガラガラと大きな音を発し、正月の静かな町を目覚めさせた、恥ずかし~~い! 神社の規模から推定し、御利益は期待薄であるため、控えめに、年末はダメだったジャンボ宝くじ、『今年こそ一等当選しますように!』

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● 最後の七番は浅草橋三丁目の「甚内神社(じんないじんじゃ)」、、、、甚内神社は、「甚内霊神」を祭神とする。 伝承によれば、甚内は武田家の家臣高坂弾正の子で、主家滅亡後、祖父に伴われ諸国を行脚するうち宮本武蔵に見出されて剣を学び奥義を極めた。 武田家再興をはかり盗賊の首領となって、開府早々の江戸市中の治安を乱したため、瘧(マラリア)に苦しんでいたところを幕府に捕えられた。 鳥越の刑場で処刑されるとき「我瘧病にあらずば何を召し捕れん。我ながく魂魄を留、瘧に悩む人もし我を念ぜば平癒なさしめん」といったことから、病の治癒を祈る人々の信仰を集めたという。 “新型コロナ”で苦しむ人にも効くかも?、、、、ここは素直に“コロナ撲滅”を祈願した!

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● コロナ禍で、遠出は出来ず、地元の浅草橋七社巡りで、初詣とした。、、、、七社は、どの神社も社殿は戦後の建物(浅草橋周辺は関東大震災で被災し、昭和20年の空襲でも被災した)だが、歴史ある神社ばかりで、由緒を調べると面白いものである。、、、、七社巡りは4千歩の散歩でした。

2020年12月29日 (火)

浅草橋の三迷橋

コロナの感染者数は『我慢の三週間』から大幅に増え、英国製・南ア製の新型モデルも発表・渡来した。 『不要不急の外出自粛』、『三密の回避』など感染対策の徹底がより強く求められ、雅万歩も今まで以上に自重することにした。 しばらくの間、散歩は我が家の周辺をチマチマ歩くことにする。

雅万歩が住むのは台東区浅草橋。 今日は、地元「浅草橋駅」に近い柳橋・浅草橋・左衛門橋の三橋と、隣りの千代田区に架かる美倉橋の、四橋を歩いてきた。 1万歩には程遠い5千歩の散歩。

日本橋(東京)、錦帯橋(岩国)、眼鏡橋(長崎)の『日本三名橋』に対抗して、誰が言ったか『浅草橋の三迷橋』、、、、とは、誰も言ってない! 雅万歩が勝手に言った! その『浅草橋の三迷橋』は、神田川に架かる三橋のことで、隅田川に注ぐ最下流から、柳橋・浅草橋・左衛門橋である。 左衛門橋の上流に架かる美倉橋は、“付録”とする。




● まずは、神田川が隅田川に合流する手前に架かる「柳橋(やなぎばし)」、、、、現在の橋は、右岸の中央区東日本橋と左岸の台東区柳橋を結ぶ震災復興橋のひとつで、昭和4年(1929)に工事費12万1千円で完成した、長さ37.9m、幅11.0mの鋼製タイドアーチ橋。 永代橋をモデルにしたと言われる小型のアーチ橋で、全体的に緑色に塗られている。(たまたま、今月から来年3月まで、塗装の塗り替え工事中)、、、、初代の柳橋は、江戸時代後期に架設された木橋で、はじめは「川口出口の橋」と呼ばれたそうだ。 「柳橋」の名は、享保年間(1716~1735)の頃、土手の両岸に柳の木が植えられていたことに由来するようだ。、、、、江戸時代から今日まで、橋畔は船宿が並んでいる。 昔は日本堤の遊里、新吉原へはここから隅田川を舟で昇り今戸の山谷堀まで行った。 また、幕末・明治以降、昭和40年代頃までは、柳橋は花柳界として名を馳せた。 現在では、この付近の護岸は非常に高くカミソリ護岸となっているが、船宿に屋形船も繋留されていて、江戸情緒は残っている。、、、、私が知る、戦後の花柳界のあった頃は、暗くなると黒塗りの乗用車が並ぶ町で、芸者さんが人力車で行き交っていた。 路地裏の我が家の前にも、芸者さんを迎えに人力車が入って来た。 美人芸者がイッパイ、あの良き時代に戻りたいね!

・・・・・・・・・・・・塗装工事中の今日の柳橋

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● 柳橋の上流に架かるは「浅草橋(あさくさばし)」、、、、その名のごとく、浅草寺の門前橋であるが、浅草寺までは北へ約2km程ある。、、、、浅草橋は江戸36見附の一つで、浅草橋御門として寛永13年(1636)頃(詳細は不明)に架けられた。 奥州街道の起点となっていたため、徳川時代、神田川に架かる橋としては重要な位置づけを与えられていた。明治7年には見附門の石を利用して石造アーチ橋として架け替えられましたが、これは何故か長持ちせず、すぐに他の形式に架け替えられた。、、、、現在の橋は、これも震災復興橋として、昭和5年(1930)1月に開通した。 右岸は中央区日本橋馬喰町、左岸は台東区浅草橋。 工事費27万7千円、下部工は間組(現:安藤ハザマ)の施工による鋼製アーチヒンジ橋。 アーチ構造の橋ということだが、アーチ(円弧)の形状が緩やかなためか、水平の桁橋に近い印象を受けう極めて単純な橋で、面白味に欠ける。 親柱や欄干などは、お金をケチったのか貧弱で、センスも悪く印象が薄い、存在感が無いね!

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・・・・・・・・・・・・浅草橋南詰(中央区側)に開智日本橋学館中学高等学校がある。 その校舎の一角に、浅草橋御門の石垣の石が発掘され残されている。 貴重な石らしいが漬物石より大きく、一見しただけでは石垣の石には見えないね!

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● 次は「左衛門橋(さえもんばし)」、、、、左衛門橋の上流側は千代田区東神田、下流側右岸は中央区日本橋馬喰町、下流側左岸は台東区浅草橋、なんと三区を結ぶ橋。 さらに地名だけ読むと、“神田”、“日本橋”、“浅草”と、江戸っ子が喜びそうな地域を結ぶ橋。、、、、左衛門橋の北詰一帯(現:JR浅草橋駅西口周辺)に、慶長3年(1598)から明治維新までずっと、徳川譜代大名庄内藩酒井左衛門尉(さえもんのじょう)の下屋敷があった。 橋の由来は、後に、神田川に望むこの地を左衛門河岸と呼んだことにちなむ。、、、、左衛門橋の創架は、明治8年(1875)、東京府の認可を受けた賃取橋(有料橋)として、民間人により架けられたものである。 その後、明治34年(1901)、下路式プラットトラスの鉄橋に架替えられた。、、、、現在の橋は、昭和5年(1930)に、工事費13万5千円で、架けられた鋼製アーチ橋である。(平成12年大規模補修工事が行われた) 次の美倉橋と左衛門橋・浅草橋の三橋は、いずれも似た構造の鋼製アーチ橋で、震災復興橋でもある。、、、、30年ぐらい前の話だと思うが、高度成長期には汚れていた神田川が浄化され、隅田川からボラの大群が上ってきた。 その時は、我が家から最も近い左衛門橋から川を覗いて、水が清くなったことを実感した! いつだったか、クラゲの大群が上がってきたこともあったね!

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● 左衛門橋の上流には「美倉橋(みくらばし)」が架かっている。、、、、美倉橋は右岸の千代田区東神田と左岸の千代田区神田佐久間町に架かる橋。 現在の橋は、昭和4年(1929)2月の架設、長さ35.35m、幅23.31mの鋼製アーチ橋。 工事費は17万9千円也。、、、、神田美倉町はもと佐柄木町・本銀町・紺屋町の蔵地からなり三倉地と呼ばれ、橋の営繕は町の費用で行われていた。 明治2年(1869)に“三”を“美”に改め、町名及び橋名にした。 橋の南詰には、この命名に因んで、倉が三棟建っているが、実体は公衆便所で、男・女・車椅子の各用のトイレ。 味噌を処理する“味噌蔵”だ!

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2020年12月17日 (木)

コロナ避けて平井まで

“3密”を避け、浅草橋の我が家から、歩く人も少ない「蔵前橋通り」を東へ歩きJR総武線の平井駅まで、1万4千歩の散歩です。

・・・・・・・・・・・・・「蔵前橋通り」は、文京区本郷の順天堂病院の北で国道17号(本郷通り)から東に伸び、末広町交差点、蔵前橋、亀戸天神の前を通り、旧中川、荒川を渡って、江戸川区西小岩1丁目で奥戸街道に接続する路線。 その先、奥戸街道をそのまま進むと、市川橋の手前で国道14号(千葉街道)に接続する。 今日、散歩した鳥越神社前から平井駅前まで(約5.5km)は、都道315号御徒町小岩線の一部である。




● 我が家から北に歩いて4分程で、蔵前橋通りに面する「鳥越神社」前に出る。 “道中の無事”と“コロナ撲滅”を願い手を合わせる。 どうも、“コロナ撲滅”の願いは、賽銭が少ないのか、いつまで経っても願いは叶わない!

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● 蔵前一丁目交差点で江戸通りを横断し、家を出発して25分経過、蔵前橋を渡り墨田区に入る。、、、、隅田川の空は晴天、風はなし、気温は寒し、私の懐も寒し!

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● 蔵前橋を渡ったら、チョイト、震災・戦災の犠牲者を悼む東京都慰霊堂にお立ち寄り。、、、、ついでに、厠にもお立ち寄り、冷えると回数も多くなるんです! いずれは、オムツのお世話になりそうだ!

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●東京都慰霊堂前の清澄通り、冷え冷えの寒さの中、小学生が集団登校する。 時刻は朝8時、20人程の元気な子供たちだ!

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● 蔵前橋通りは錦糸町の町の手前で、大横川に架かる法恩寺橋を越える。、、、、現在、大横川は暗渠化され川底は親水公園となっているが、大正14年(1925)に竣工した震災復興橋の法恩寺橋は健在である。、、、、橋長32.8mのアーチ型ラーメン橋台付き鋼桁橋

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・・・・・・・・・・・・法恩寺橋を渡ると、橋名となった日蓮宗の寺院「平河山法恩寺」がある。、、、、法恩寺は長禄2年(1458)大田道灌が江戸城を築城時、丑寅の方角に城内鎮護の祈願所として建立された。 境内には、大田道灌の墓や平河清水稲荷大明神、鐘楼三重塔などがある。 現住所の“太平”は、太田道灌と平河山法恩寺の頭文字から命名された。 蔵前橋通りから入る参道沿いには、4か寺の子院が並んでいる。、、、、本堂の後ろからは、日蓮上人に変わりスカイツリーが参拝人を見下ろしているような寺だ!

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● スカイツリーを正面に見る「タワービュー通り」、錦糸町駅前を通る「四ツ目通り」を過ぎ、横十間川に架かる「天神橋」(橋を渡ると江東区)を渡り、亀戸天神にも寄って行く。、、、、学問の神様:天神さまに、是が非でも年末ジャンボ一等当選が叶うよう手を合わせてきた。 これで、年明けには億万長者になっているかも? その折はブログ『雅万歩』は静かに終わり、私はヨーロッパ旅行で長期不在。

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● 「明治通り」との交差点を過ぎ、東武亀戸線の線路を越えると、旧中川に架かる「江東新橋」を渡る。 橋を渡れば江戸川区なり!、、、、江東新橋の下流250m程には、並行するJR総武線の橋梁が見える。

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● 江東新橋を渡ると平井駅は近い。 “3密”を避けて、鳥越神社前から歩いてきたが、「平井駅出口交差点」で蔵前橋通りから外れ、駅に向かう。、、、、駅も、電車も、空いている。 今日も、コロナに感染せずにすんだようだ!

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2020年11月26日 (木)

知らない浅草寺

三度目の時短要請で、いよいよ勝負の『三週間』に突入する。 何もすることのない年寄りは、『不要不急の外出は避け』家でジ~~ット我慢の子。・・・・・と云うことで、年寄りの一人である私も、家で“朝寝、朝風呂、朝御飯”と思ったが・・・・・『そうは問屋が卸さない』、妻の一声『ゴミ出して!』、もう一声『10時に〇〇(嫁いだ娘)が来るよ!』、ついでに一声『散歩に出るんでしょ!』、いつものパターンである。

今日は『三密』を避ける気持ちで、早朝の浅草寺まで歩いてきた。




● 朝の7時50分、雷門の前に七五三(?)  いやいや違った、早朝から結婚記念写真か(?) プロらしきカメラマンがいる、メイクする人もいる。、、、、近くで拝見すると、美男・美女のカップルだ! 自分の若い時を思い出す(70歳過ぎた今は美爺・美婆のカップルとなった) 若い二人が羨ましい!

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・・・・・・・・・・・・若いカップルの撮影はおわり、人影少ない朝の仲見世をバッチリ!パチリ!

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・・・・・・・・・・・・普段は、建物を撮りたくても、美人に目がいき、ついついトリアージして美人優先。 今日は参拝客・観光客が少なく、今が撮影チャンスだ!

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・・・・・・・・・・・・修復中の本堂天井画、中央の川端龍子の「龍之図」は修復中の足場に隠れ見ることができず、左右に描かれた堂本印象の「天人之図」を見ることができた。 ヤッパリ、“龍”より“美人”か!

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● 今日は浅草寺境内にあるもので、見ても記憶に残らないもの、見ずに素通りしてしまうもの、幾つか紹介する。
・・・・・・・・・・・・まずは、仁王門の右横にある「久米平内堂」、、、、久米平内は江戸時代前期の人で、天和3年(1683)に没した。 その生涯については諸説あるが、剣の道にすぐれ、多くの人を殺めたので、その罪を償うために「仁王坐禅」の法を修行し禅に打ち込んだ。 そして、自らの坐禅の姿を石に刻ませ、犯した罪を償うため、人通りの多い仁王門の近くに埋めて「踏みつけ」させたという。 それが転じて「文付け」となり、のちには恋の仲立ち役の神さまとなって崇拝された。 現在でも、私を含め恋の仲立ちに期待し、願いをこめる人は多い。、、、、現在の堂は昭和53年(1978)に再建されたもの。

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・・・・・・・・・・・・現在、五重塔は仁王門の左手(西側)に建立されているが、かつてはその反対側(東側)に位置していた。 現在は、「旧五重塔跡」と記された石柱が跡地に建っている。 浅草寺の五重塔は、天慶5年(942)平公雅による創建以後、いく度か炎上するもその都度再建されている。 昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により惜しくも焼失した国宝旧五重塔(高さ33m)は、江戸時代の慶安元年(1648)、第三代将軍徳川家光(1604~51)により建立された。、、、、塔のあったこの付近は、修学旅行、ツアー旅行の集合場所。 いつもは、団体さんがウロチョロしている。

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・・・・・・・・・・・・・・お札所の裏側に「鳩ポッポの歌碑」がある。、、、、「鳩ポッポ」の歌は作詞:東くめ 作曲:滝廉太郎である。 東くめが明治34年(1901)に観音さまの境内にて鳩とたわむれている子供らの愛らしい姿をそのまま歌によまれたものだ。 歌碑の建立に際しては、彫刻家:朝倉文夫から鳩の像と題字が寄せられた。 作曲者滝廉太郎と同郷旧知の深いゆかりに依るものと云われている。 歌詞は御存じかな? ♪♪ 鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ ポッポポッポととんでこい お寺のやねからおりてこい 豆をやるから みなたべよ たべてもすぐに かえらずに ポッポ ポッポと ないてあそべ ♪♪ この歌はたちまち全国に広がった。、、、、しかし、10年後の明治44年(1911)、音楽の教科書「尋常小学唱歌」にて歌詞をチョイト変えた「」が登場した。(作者:不明) ♪♪ ぽっ ぽっ ぽっ 鳩ぽっぽ 豆がほしいか そらやるぞ みんなで仲善く 食べに来い  ぽっ ぽっ ぽっ 鳩ぽっぽ 豆はうまいか 食べたなら 一度にそろって 飛んで行け ♪♪ 「鳩」が「鳩ポッポ」を制覇をしてしまった。、、、、この歌碑を見ていて気がついた、境内で糞を落としていた大勢の鳩が、いつの間にか境内で見なくなった! 何処へ行った? 

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・・・・・・・・・・・・鳩ポッポの歌碑の隣りに、「迷子しるべ石」がある。、、、、昔、迷子が出た時には、この石碑でその旨を知らせた。 石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み、右側面に「志らする方」、左側面に「たづぬる方」とし、それぞれに用件を記した貼紙で情報を交換した。 情報未発達の時代には重宝され、江戸市内の繁華な地に建てられたものの一つ。 安政7年(1860)、新吉原の松田屋嘉兵衛が、仁王門(宝蔵門)前に造立したが、昭和20年(1945)の空襲で倒壊したため、昭和32年(1957)に再建された。、、、、“コロナ”の世では、右に求人情報、左に求職情報を貼って、マッチングさせたらどうだろう? 『Indeed』には負けるかも、前言却下!

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・・・・・・・・・・・・・・浅草寺の北側(裏側)、浅草寺病院に隣接する一画に浅草寺の支院が並んでいる、ここを「浅草寺一山支院」と称する。、、、、ここは、関東大震災後に区画整理でつくられた1100坪の敷地に、浅草寺の21の支院が集められ住宅地を形成している。 建物は不燃化のため、鉄筋コンクリート造、2階建て(現在の3階部分は後の増築)とし、基本は2院で1棟とする(入口は正反対になる)形態で設計し、昭和7年(1932)に竣工している。、、、、この建物群の設計は、大阪市中央公会堂、鳩山会館、黒田記念館など多くの名建築を残している岡田信一郎である。、、、、浅草寺参りの観光客も、散歩する近所の住民も、この建物に関心を持たず、ペチャクチャお喋りに夢中で、通り過ぎていく。 『文化財級の建物だよ!』と、教えてあげたいが、住んでいる方の迷惑になっても困るので内緒にしておく。

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・・・・・・・・・・・・本堂の裏は広い駐車場、去年までは中国人ツアーの観光バス、黄色のはとバスなどで、連日満車状態。 この駐車場の北側(浅草寺病院側)に老夫婦の胸像がある。 二人は、戦前は鉄鋼王、戦後はホテルニューオータニの創業者であった:大谷米太郎と妻の大谷さとである。 像は、宝蔵門の寄進建立をはじめ、浅草寺の復興に尽くされた夫妻讃仰のため昭和42年(1967)に造立。「功徳大宝海」の文字は清水谷恭順貫首の筆。 優しそうな大谷米太郎と物悲しげな妻の像に、なにか物語がありそうだ。 、、、、戦後の一時期は、菊池寛実(高萩炭鉱創業)、南俊二(相模鉄道社長)とともに『日本の三大億万長者』と称されたそうだ。 私も、一度でいいから『令和の大富豪』と云われてみたい!

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・・・・・・・・・・・・本堂の西隣にある影向堂(ようごうどう)は、平成6年(1994)に現在地に落慶した、鉄筋コンクリート寄棟造の立派な建物。 その影向堂の西側に小さな「六角堂」がある。、、、、六角堂は、室町時代(16世紀頃)の建立で、木造単層六角型の造り。 都内最古の木造建築なり。、、、、本尊は日限地蔵尊で、日数を決めて祈るとその願いが叶うらしい。 本当に叶うなら、“三週間”の間、“コロナ撲滅”の願いを祈るのだが、信じられない! 

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・・・・・・・・・・・影向堂から南西方向に50m程の処(新奥山の碑群)に「瓜生岩子の像」がある。、、、、「瓜生岩子(うりゅういわこ)」とは? 文政12年(1829)岩代耶麻郡(現:福島県耶麻郡)熱塩村の渡辺家に生れたが、9才の時父を失い、母は岩子を連れて生家へ帰った。 そのため岩子は母方の姓瓜生を称えた。 14才の時会津若松の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を勤める山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引きの防止に関心を持つに至る。 17歳で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。 明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、同22年貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努め東京でも深川と根岸で孤児たちの救護所の設置、助産婦養成や失業救済のため水飴の製法伝習所を開設し無料で講習した。 その製品の売上金は慈善事業に役立てるなどして「仏の岩子」と呼ばれた。 さらに明治26年には「済生病院」を開設するなど社会福祉事業に尽くした功績が認められ、同29年女性では最初の「藍綬褒賞」を受賞したが、翌30年福島で没した。 享年69歳。 生涯を慈善事業に捧げた岩子の善行を賞揚し、同34年(1901)篤志家によって、浅草寺境内にこの銅像が造立された。 フックラ顔で真剣に見つめている像は、『日本のナイチンゲール』です。

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・・・・・・・・・・・・最後は、火除け、盗難除けの狸! 浅草公会堂前(伝法院通り)の伝法院山門の左側に狸が居る鎮護堂がある。 チョイト控えめな山門は素通りしてしまうかも?、、、、明治16年(1883)浅草寺中興第17世貫首唯我韶舜大僧正が、夢告により境内に棲む狸を伝法院の守護としてまつったもので、鎮護堂は伝法院境内脇にある。 現在の堂舎は、大正2年(1913)建立。、、、、境内には、狸だけでなく、水子地蔵、加頭地蔵、幇間塚なども祀られている。

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2020年11月11日 (水)

寄席発祥の地

3ヵ月ぶりに泌尿器科の定期検診で、上野の病院に行ってきた。 数年前に、前立腺肥大の兆候があり診てもらったのが縁で、以来、定期検診を受けている。、、、、私の住む浅草橋駅周辺は、泌尿器科の不毛地帯である。 『泌尿器科 浅草橋』でWeb検索すると、10件程出てくるが、紹介状が必要な大病院が数軒、その他は、スグ診てもらえるがチョイト不安な“何でも屋”(先生一人で、内科、小児科、外科、皮膚科、婦人科、精神科など、全てOK)の診療所ばかり。 “泌尿器科”専門・準専門の診療所が無い! 婦人科・産科・小児科・性病科も、同様に不毛地帯である。 “浅草橋”の住人は、『チンチンの病に罹らず、頑張っても子宝に恵まれぬ、丈夫な体をもち、欲はなく決して質の悪い性病に罹らず、いつも静かに笑ってる、一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ、みんなに“ヨ!旦那!”と呼ばれ、褒められもせず苦にもされず、そういうものに私はなりたい』と思っているのかな?

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・・・・・・・・・我が家から、病院へ、その後東上野のお寺を歩いてきた。 8千歩




● 検診を受け病院を出ると下谷神社(東上野3)がある。 「浅草通り」に面して、大きな一の鳥居が迎えてくれる。 扁額の字は東郷平八郎の書と云われている。、、、、下谷神社は天平2年(730)上野の忍ヶ岡に創建され、寛永4年(1627)寛永寺建立のため山下(現:岩倉高校付近)に移された。 延宝8年(1680)に現在地の北西50m程の処に移る。 その頃、本社は下谷の鎮守として広く信仰を集め、「下谷稲荷社」などとよばれたそうだ。 稲荷町という地名も、本社に由来する。 江戸時代には開帳・人形芝居などがおこなわれ、祭礼の時には盛大な行列がみられた。 明治5年(1872)に「下谷神社」と改称。 関東大震災の後、昭和3年(1928)、区画整理により現在地に移転。、、、、境内では、“梯子乗り”の練習用と思われる梯子が固定されてる。 世の中も変わり、町内の鳶職も少なくなり、後継者不足では? 稀に、落下して救急搬送される人もいるようだ、皆さん注意して!

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・・・・・・・・・・・・・・・・・寛政10年(1798)下谷稲荷社境内に於て、噺の会が初めて有料で催され、これが江戸の寄席の発祥と伝えられている。 子規の句碑「寄席はねて上野の鐘の夜長哉」と並んで「寄席発祥之地」の碑が建っている。


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● 地下鉄稲荷町駅前の交番の隣り(東上野5)に、朝日山願成院永昌寺がある。 永昌寺は永禄元年(1558)下谷長者町にて開創、寛永14年(1637)現在地に移転した。 大正12年(1923)の大震災により当時の建物は焼失している。、、、、講道館柔道の祖である嘉納治五郎が明治15年(1882)境内に12畳の道場を建てたのが講道館の始まりである。 当時の境内は、現在よりも広く2000坪程あったそうだ。 今は面影なし!

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● 永昌寺の北東(松が谷1)に日蓮宗寺院の妙音寺がある。 妙音寺は、安立院日雄聖人(元和5年(1619)寂)が開山、華光院日性霊(俗姓富田半七)が開基となり、慶長15年(1611)馬喰町(現:中央区)に創建、明暦の大火により当地へ移転したと云われてる。、、、、寺は、安産飯匙(しゃもじ)の祖師を祀り、厄除け、安産守りのご利益で信仰を集めている。 手入れの行き届いた境内には大きな池もあり、鯉も悠々と泳いでいる。

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・・・・・・・・・・・・・・境内には、糸・衣の神様として「金色養蚕大明神」が、古くから祀られている。 この「金色養蚕大明神」は、伝説では、インド王姫として生まれた金色姫は、継母にいじめられ、それを不憫に思った王が姫を船に乗せて海に流した。船は常陸の国に流れ着き、漁師の権太夫夫婦に助けられる。併し、金色姫は間もなく亡くなり、その霊魂または死骸が蚕となり、日本で養蚕が始まったという。 現在は、糸問屋組合が祀る神様だ!

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● 妙音寺の斜め向かい(東上野6)に、真宗大谷派の寺院「高龍山報恩寺」がある。 報恩寺は、親鸞聖人法脈第一の直弟で二十四輩の一人でもある性信上人が建保2年(1214)下総国横曽根に創建、慶長7年(1602)江戸に移転、坂東報恩寺と称されていた。 その後市中を三転し、文化3年(1806)当地へ移転した。、、、、この法恩寺には、正月の行事「俎開き」が約800年の永きにわたり続いている。 「俎開き」とは、多分ニュースなどで見たことがあると思うが、下総国岡田郡の飯沼天満宮から献上した目の下1尺許りの鯉二尾を、住職以下役僧が見守る中、烏帽子に大紋の装束を付けた料理人が、大俎の上で箸と包丁を使ってさばいていく儀式。


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● 報恩寺の北200m(東上野6)に浄土宗寺院の五台山文殊院源空寺がある。 源空寺は、天正18年(1590)円誉上人が湯島に創建。 湯島では多くの信者を集めて、徳川家康も円誉に帰依し江戸城に召して法を聞いていたそうだ。 慶長9年(1604)に家康は、寺地と法然上人源空の名にちなんだ源空寺の号を円誉に与えた。 寛永11年(1634)には徳川家光より洪鐘の寄進を受けた。 明暦3年(1657)の大火で類焼し、現在地へ移転。、、、、本堂は鉄骨造で建て直された。

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・・・・・・・・・・・・・・源空寺本堂とは道路を挟んで墓地がある。 墓地には、伊能忠敬(御存知、地図作りの名人)、高橋至時(伊能忠敬のお友達で天文学者)、谷文晁(水墨山水に妙を得た江戸時代の画家)、幡随院長兵衛(江戸初期の侠客)の各墓が並んでる。 (写真は、忠敬、至時、文晁、長兵衛の順)

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● 上野学園の前で、タイミングよく浅草橋方面行きのコミニュティバスが来た!、、、、乗せておくれよ、運転手さん!

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2020年11月 3日 (火)

観光客が戻ってきた!

今日は文化の日。 今朝から、小雨がぱらついたり、どんより曇ったり、落ち着きのない一日となった。 文化の日は、「晴れの特異日」のはずだが、今日は“得意技”を出すのを忘れたようだ!、、、、早朝の散歩は取り止め、昼前に夫婦で昼食を兼ね浅草へ行ってきた。




● しばらく閑古鳥が鳴く浅草であったが、今日は最盛期の半分ぐらいの人出かな?、活気が戻ってきた。 歩いて気付いたのは、中国人ツアーがいない、イスラムのスカーフを巻いた女性がいない、欧米のスマートなカップルがいない。 目立つのは日本人が多いね!、、、、日本人観光客は今がチャンスかも? どこの店も、ちょうど居心地の良い込み具合だ。 マナーの悪い人に気分を害されることもない。 どこの道ものんびりゆったり歩け、“密”の心配不要! 

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● 浅草寺は正月に向け、本堂天井画の修復工事真っ最中。 正月の初詣前には足場も撤去しないとね!、、、、妻『天井にどんな画が描かれてた?』 私『年に何回も来ていて、知らないのか! 龍の画だよ!』 妻『(関心がなく)フ~~ン』 私(心配になり、内緒で、ネットで確認すると、中央に龍、左右に天女)『(声も大きく)記憶力は俺の方が良いね!』 妻『(興味ナシ)・・・・・』

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● 本堂裏に新しくなった「銭塚地蔵尊」がある。 昭和39年(1964)に再建した堂も古くなり、昨年末、鉄筋コンクリート造の新しい堂が完成した。 堂内には、六地蔵尊が祀られ、この像の下には江戸時代の貨幣「寛永通宝」が埋められていると云われている。、、、、その由来は、江戸時代後期に摂津国(兵庫県)に山口貞樹という武士の妻が住んでいて、垣根の修理中に庭先で「寛永通宝」がいっぱい詰まった壺を掘り当てたが、山分けしようとした人夫たちを「銭は働いて得るもの」と諭し、壺を再び埋めてしまった。 二人の息子たちも母の教えを守り、真面目に働いたから山口家は栄え、壺の上に塚を作り地蔵尊を建て「銭塚地蔵尊」と呼ばれた。 正徳3年(1713)息子の一人が浅草で成功し、郷里の銭塚地蔵尊から分祀したものである。正直・質素を旨として商売繁盛の祈願を集めている。 

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● 浅草寺境内(宝蔵門脇)に、「濡れ仏」の名で世に知られる「二尊仏」がある。 ここには、観世音菩薩(右)、勢至菩薩(左)二菩薩の金銅坐像がある。 像の高さは共に2.36m、蓮台を含めれば4.54mにおよぶ。 蓮弁台座銘によれば、願主は上野国(群馬県)館林在大久保村の高瀬善兵衛、かって奉公した日本橋伊勢町の米問屋成井家より受けた恩を謝し、観音像は、旧主善三郎の菩提を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るため、貞享4年(1687)に造立した。、、、、この像も、江戸六地蔵と同じ鋳物師:神田鍋町の太田久衛門正儀の鋳造である。、、、、また、この像と同形で、寄進者・鋳造者も同じ元禄3年(1690)在銘の像が群馬県館林市茂林寺にある。 館林では、チョイト簡単に『像を見に、散歩してくる』と家を出るわけにはいかず、残念!

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2020年10月28日 (水)

六地蔵の六番目の座は?

江戸六地蔵の一番から五番までは現存し、六番は取り壊された。 その空席となった六番目の“座”をチャッカリと占領した地蔵菩薩が、上野の山の浄名院にいる。 今日の散歩は、この地蔵菩薩に会ってこようと、浅草橋の我が家から歩き上野の山へ。 上野駅、両大師、寛永寺と巡り、浄名院で地蔵菩薩とご対面、その後京成本線のトンネルを見て、日暮里駅まで。 1万2千歩の散歩。




● 只今、朝7時15分、我が家を出る、まだ人通りも少なく歩きやすい。 蔵前橋通り、春日通りを横断し、8時、上野駅前到着。

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● 上野駅の北側に架かる跨線橋を行く。 山手線、京浜東北線、東北本線、常磐線、そして引上げ線、多くの線路を跨ぐ橋。 昭和8年(1933)に架けられた橋は、昭和45・46年(1970・1971)に現橋に架け替えられた。 橋は上野公園側に輪王寺両大師堂があることから「両大師橋」と命名された。、、、、上野駅に発着する、東北・信越・上越の特急列車・寝台列車は新幹線に変わり、この橋からは見えなくなってしまった。 チョイト、侘しいね!

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輪王寺両大師堂は、正保元年(1644)に寛永寺開山天海僧正の像を安置する堂として建立。 天海僧正の戒名は慈眼大師で、「開山堂」また「慈眼堂」と称した。その後、天海僧正が尊敬した高僧慈恵大師の像も安置したため、慈眼大師と共に「両大師」と呼ばれるようになった。 開山堂は慶応4年(1868)の上野戦争では焼け残ったが、平成元年(1989)に火災に遭い、天明元年(1781)再建の開山堂と寛政4年(1792)再建の本堂が焼失した。 現在の本堂は平成5年(1993)に再建されたものだ。、、、、寺では、面白いデザインの“疫病退散”護符を授与してくれるので、その案内が貼られていた。 戸口に貼っておくと効果あるかも? インテリアとしてもGood!


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● 東京国立博物館の裏側(北側)を歩き、寛永寺に向かう。 寛永寺霊園の中に、「厳有院殿(徳川家綱)霊廟勅額門」、「常憲院殿(徳川綱吉)霊廟勅額門」の重要文化財が見られる。 300年以上前に造られた門。、、、、もちろん無料!

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・・・・・・・・・・・・寛永寺は、台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。 東叡山寛永寺円頓院と号する。、、、、本堂である根本中堂は、元禄11年(1698)に、現在の上野公園内大噴水の地に建立された。 しかし、慶応4年(1868)彰義隊の戦争にて焼失した。 現在の根本中堂は、明治12年に川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院(現寛永寺)の地に移築し、再建したものである。 間口・奥行ともに7間(17.4m)の正方形の建物である。、、、、本尊は、伝教大師最澄上人の御自刻とされる薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)を秘仏として祀っている。、、、、どこの寺院もコロナの影響で、扉を開き換気には気を使っているが、中には反対に、扉をピッタリ閉めて参拝客とコロナを入れない寺もある。 根本中堂では、若い僧侶が扉を開いて堂内の換気を良くしていた。 

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● 根本中堂からは北へ100m程、言問通りに面して、寛文6年(1667)に寛永寺の一坊として開かれた浄名院がある。 享保8年(1823)に寺号を浄円院から浄名院へ改めたといいます。、、、、境内にはおびただしい数の地蔵菩薩が祀られ、「八万四千体地蔵」の寺として有名である。 これは明治12年(1879)に住職の妙運大和尚が84,000体の地蔵菩薩像の建立を発願したのが起源である。 寛永寺貫首だった北白川宮能久親王を始め、華族や財閥なども賛同して多くの地蔵を奉納した。 地蔵の奉納は、今も続き年々増え続けている。、、、、境内の地蔵さまの数を見ると圧倒される。 明治9年には「地蔵山総本尊」を建立した。 その後「境内六地蔵」、「へちま地蔵」、「水子地蔵」、「あらい地蔵」など、あたかも、寺のコレクションでいろいろな地蔵菩薩を集めているような感じだ! (2018年時点で、約26,000体)

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・・・・・・・・・・・・これだけの地蔵が集まると、コレクターとしては有名な「江戸六地蔵」の一体ぐらいは欲しくなるね!、、、、明治元年に廃仏毀釈で永代寺が廃寺になり、「江戸六地蔵」の一つだった地蔵も破壊されたため、1体の空きができた。 そこで、当院が明治39年(1906)に建立した地蔵を「江戸六地蔵第六番」と称するようになった。 像の脇の「東京(江戸)六地蔵由来」では、六番の永代寺に変わり、堂々と六番浄名院と記されている。 また像の台座には「六番」と彫られている。、、、、この件について世間では賛否両論あるそうだ。 この一件は、誰がどのように決着させるのか? 当初の「江戸六地蔵」の発願者:地蔵坊正元は、彼の世でどう感じているのやら? 『仏のことは、ほっとけ!』


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● 日暮里駅を発車した京成スカイライナーは、R160 の右カーブで車輪を軋ませながら、常磐線・東北本線・京浜東北線・山手線等の線路を次々と越えて、上野の山の地下へもぐり込んでいく。 このトンネルが「上野トンネル」で、もぐると京成上野駅(地下駅)まで一本だ。、、、、トンネル上部には「東臺門」(とうだいもん)の扁額が掲げられている。「東臺門」とは、「上野の山の門」という意味で、具体的には東叡山寛永寺のことを指しています。


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2020年10月24日 (土)

六地蔵の四番目

江戸六地蔵の四番目は日光街道(奥州街道)沿いの東禅寺に安置されている。 今日の散歩は、東禅寺はもちろんだが、旧日光街道の一部であった現在の都道464号線を踏破してきた。 1万2千歩の散歩。

・・・・・・・・都道464号線とは、、、、台東区浅草6丁目(言問橋西交差点)を起点とし、山谷、南千住駅を通り、荒川区南千住7丁目(南千住交差点)を終点とする、2.5km程の都道である。 全線が旧日光街道(奥州街道)の一部にあたる。 なお、台東区側は「吉野通り」、荒川区側は「コツ通り」の愛称がついている。




● 浅草橋(我が家)から都バスで飛ばして、「墨田公園」バス停で下車。 バス停は言問橋西交差点にある。 言問橋方向には、早朝の輝く太陽とスカイツリーが重なり、カメラを覗く目はまぶしい!

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・・・・・・・・・・・・・・交差点から北に伸びる2本の都道。 右は隅田川沿いに汐入・堀切方面へ伸びる都道314号線、左は旧日光街道(吉野通り)の都道464号線

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● 交差点から約200m、チョイト「待乳山聖天」に寄って行く。 仏壇には、数本の大根が供えられていた。、、、、これからの季節、お下がりの大根は“おでん”にするかな?

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● 待乳山聖天付近の都道464号線。 土曜日だから? 早朝だから? 車の少ない旧日光街道。、、、、この付近は『観音さま(浅草寺)の裏』と言ってもいいのだろう、江戸時代の常設芝居小屋である、「中村座」「市村座」「森田座」の猿若三座があった処。 今は、当時を偲んで石碑が建立されている。

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● 都立浅草高等学校の付近で、都道464号線が通っていた「吉野橋」の親柱が道路両側に残されている。 下を流れていたのは山谷堀、上流は北区飛鳥山付近の音無川で、台東区に入ると吉原付近を流れ、吉野橋の先で隅田川に注いでた。 “おだいじんさま”は、“猪牙船”で隅田川・山谷堀と遡り吉原へ通ったのだ。、、、、当時、『 GO TO 吉原! 最大40%オフ』なんてあったら江戸幕府の人気は大いに上がったであろう! 

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・・・・・・・・・・・・山谷堀は埋め立てられ、現在は「山谷堀公園」として、かつての川筋に伸びている。

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● 吉野橋から500m程北へ歩くと、東浅草2丁目に浄土宗寺院の春慶院がある。 春慶院は、月光山覚道寺と号す。 霊厳寺末として寛永5年(1628)に建立した。、、、、寺と云うより、和風住宅と云う趣の建物。

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・・・・・・・・・・・・ここ春慶院に、吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は11人いたともいはれる「高尾太夫」の墓がある。11人の高尾太夫は、いずれも三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女であった。 この墓は、世に万治高尾、あるいは仙台高尾と謳われ、幾多の伝説巷談を生んだ二代目高尾太夫の墓と云われている。、、、、この墓は、初代の高尾太夫のもの。 いやまて、三代目高尾太夫の墓だ! 諸説あるらしい。 いずれにしても、「高尾太夫の墓」である。


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● 春慶院の北西50m程に処、旧日光街道からチョイト脇に入った処に、
洞雲山東漸寺(東浅草2)がある。 東禅寺は寛永元年(1624)に創建された。 寺の正面に、江戸六地蔵の一つ銅造地蔵菩薩坐像が鎮座し、左隣には、アンパンの銀座木村屋総本店:開業者・木村安兵衛妻ブナの夫婦像がある。、、、、本堂・像などを、狭い境内に押し込めたようで、変わった配置の寺だ!

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・・・・・・・・・・・・東禅寺の六地蔵(地蔵菩薩坐像)の高さは2.71m。 品川寺に次いで第2番の宝永7年(1710)に造立された。 他の六地蔵は鍍金が施されているのに対し記録では本像は像の表面を布目条にやすりをかけ、弁柄色の漆を塗った上に金箔を置いたあとが残っていたとそうだ。 永年の風雨により、損傷が著しかったため、平成11年(1999)に修復工事を行った。 また、胎内仏として小形の銅造六地蔵地蔵菩薩坐像等が現存するそうだ。 なお東禅寺は昭和3年に、山谷堀近くの今戸町から現在地に移ってきた。、、、、この像も今戸から引っ越したためか、他の六地蔵と異なり、石の台座が無い!

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● 東禅寺から西へ向かえば吉原はスグソコ! 今日は北へ歩き都道464号線の終点を目指す。、、、、かつてのドヤ街山谷・泪橋交差点を通り南千住駅へ。

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● 南千住に入ると都道464号線は愛称「コツ通り」となる。 “コツ”とは何ぞや? 私は、小塚原刑場跡があるので、“骨”のことかと想像し、縁起でもない名だと思い、調べた。 答えは、地名「小塚原」を略し“コツ”としたそうだ。 “骨”のコツではない。 いずれにせよ、チョイト、気になる名だ!

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● そのコツ通り(都道464号線)が日光街道(国道4号線)にぶつかる南千住交差点が都道464号線の終点である。 南千住交差点には素盞雄神社(すさのおじんじゃ)が鎮座。、、、、賽銭をはずみ(50円)、しっかりと家族(母、妻、娘家族 計8名)の健康・長寿を祈願、安いね!

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2020年8月19日 (水)

夏の墓巡り

今日も暑そうだ、『霊園なら幽霊も居ることだし、“冷園”だから涼しいだろう』と、谷中霊園に行ってきた。 JR日暮里駅から谷中霊園、谷中の寺町を抜け、東京メトロ千代田線根津駅まで、1万歩の散歩です。


JR日暮里駅は3面6線の島式ホームと線路、また4本の通過線を持つ地上駅で、北口と南口の2カ所の改札口がそれぞれの橋上駅舎にある。、、、、日暮里駅は明治38年(1905)4月1日に日本鉄道の駅として開業した。 明治39年(1906)には日本鉄道の国有化に伴い、駅も国有となる。 開業時より駅出入口は御殿坂側(現:北口)にあった。 南口が出来たのは、新幹線が上野方面の地下から地上に顔を出すトンネルの坑口が日暮里駅構内に造られた以降である。(南口橋上駅舎がトンネルの坑口の上に造られてるため) 「南口」の開業は昭和60年(1985)前後と思われる。 緑のトンガリ屋根の南口駅舎は、なんともかわいい造りだ。、、、、駅舎の出入口は跨線橋「紅葉坂橋」の中程で、駅を出て東側に向かうと京成の日暮里駅をとおり駅前ロータリーに出る。 西側へ向かうと「紅葉坂」(階段)を上り谷中霊園である。

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● 紅葉坂を上がると、護国山天王寺がある。 天王寺は、もと長燿山感應寺尊重院という日蓮宗寺院として、鎌倉時代に創建された。 不受不施派に対する禁令により、元禄11年(1698)天台宗に改宗した。 享保年間には富くじ興行が許可され、湯島天満宮、目黒不動龍泉寺とともに江戸の三富と称されるほどに賑わった。 富くじ興行は次第に人気が出て、最盛期には毎月行われたそうだ、ジャンボ宝くじと同じ! 『胴元としてウハウハの丸儲け』で、寺も潤ったかも? しかし上野戦争では、当寺に彰義隊の分営が置かれたことから、本坊と五重塔を残して堂宇を全て焼失、さらに昭和32年(1957)の放火心中事件で谷中墓地の中央にあった五重塔を焼失した。、、、、現本堂は昭和57年(1982)に再建。 平成10年(1998)にはモダンな新山門も新築した。

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・・・・・・・・・・・・境内には、像背面銘文によって、元禄3年(1690)に神田鍋町に住む太田久右衛門が鋳造したと判る「銅造釈迦如来坐像」がある。 日蓮宗時代の鋳造である。 青銅を材料とし、割型の製法で鋳造されたもの。 大きさは像高2.96m。 この像ははじめ旧本堂の脇に建てられ、明治7年(1874)の谷中墓地開設のため、墓地西隅に残されていた。 さらに、昭和8年(1933)現在地に基壇を新築し、修理を加えて移され、基壇には納骨堂が設置された。


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● 谷中霊園は、日暮里駅の南(山手線の内側)に広がる約10万㎡、7000基の墓がある都立霊園。 私を含め地元では谷中墓地(やなかぼち)と呼んでいる。、、、、谷中霊園は、主として天王寺の敷地等を東京府が引き継ぎ、明治7年(1874)に開園した。 現在は、都が管理する部分の他に、寛永寺、天王寺、了俒寺等の墓地が入り交じり、複雑な形状となっているが、一般には全体で「谷中墓地」だ!、、、、谷中墓地には、徳川慶喜(正式には寛永寺墓地)、長谷川一夫、牧野富太郎など著名人の墓が多い。 また、有名人ではないが墓碑を読むと、〇〇大学の〇〇博士、南方戦線で指揮した〇〇中将・〇〇大将、〇〇株式会社の創設者などの墓が、あちらにも、こちらにも建っている。

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・・・・・・・以下は、今日、私がはじめて参った墓を紹介する。
 
・・・・・・・・・・・・東大医学部解剖死体慰霊塔、、、、天王寺墓地の区域に、ひときわ目立つ仏塔がある。 門柱に「東京大学医学部 納骨堂」と彫られてる。 東京大学医学部では毎年、献体され遺体解剖により医学の発展に尽くしてくれた御霊に感謝し、天王寺において「解剖体慰霊祭」を開催している。、、、、なお、この納骨堂のある場所は、明治8年(1875)まで、現:天王寺境内にある銅像釈迦如来像があった処で、納骨堂の基壇は釈迦如来像のものをそのまま再利用しているそうだ。

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・・・・・・・・・・・・彫刻家:朝倉文夫の墓。 この墓も天王寺後にある。 朝倉は大分県大野郡出身で、10歳(1893)で朝倉氏の養子となり朝倉宗家を継ぐ。19歳の明治35年(1902)のとき中学校を中退し上京、実兄の彫塑家:渡辺長男宅(旧下谷区谷中初音町)に住み彫塑を学ぶ。 明治36年(1903)東京美術学校彫刻選科に入学、明治40年(1907)同校彫刻選科卒業。 谷中天王寺町にアトリエを新築し、朝倉塾として子弟養成。 多くの賞を受賞し、彫刻界の重鎮として活躍。 昭和9年(1934)谷中初音町にアトリエを改築し朝倉彫塑塾(現:朝倉彫塑館)とする。 昭和23年(1948)文化勲章を授与。 

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・・・・・・・・・・・・稲垣千穎の墓。 稲垣千穎(いながき ちかい、弘化4年(1845)8月~大正2年(1913)2月9日)と聞いて『ああ、知ってる、あの人でしょ』と判った人は、スゴイ、尊敬しちゃうね!(もちろん、私は知らなかった。墓碑を読んで知った次第なり!)、、、、稲垣千穎は、国学者、教育者、歌人、唱歌作詞者、教科書編集者。 東京師範学校教諭として和文教育を行い、多数の和文教科書を編纂した。 また、音楽取調掛として、日本人ならほぼ全員が知っている『蛍の光』 ♪♪螢の光 窓の雪 書讀む月日 重ねつゝ 何時しか年も すぎの戸を 開けてぞ今朝は 別れ行く♪♪ の作詞者である。
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● 谷中墓地の南側(台東区谷中6)に真言宗豊山派寺院の長久院がある。 長久院は、瑠璃光山薬師寺と号し、慶長16年(1611)に神田北寺町に開山、慶安11年(1658)に現在地へ移転した。、、、、本堂前に、「六十六部造立石造閻魔王坐像及び両脇侍像」が祀られている。 その説明板には、『この石仏は、中央に閻魔王像、右左にそれぞれ司命、司録像を配しています。閻魔王は死者の生前の行いに応じて死後の行き先を決めるという冥界の王で、司命は閻魔王の判決を言渡し、司録は判決内容を記録する従者であるとされています。台座に刻まれた銘文によると、この三躰は六十六部聖(六部聖ともいう)の光誉円心という人物が享保11年(1726)に造立したものです。六十六部聖とは「法華経」を六十六部書写し、全国六十六箇所の霊場に一部ずつ奉納した聖のことをいいます。江戸時代になると経典の奉納の他に、石塔・石仏を各地に造立するようになりました。経典の書写や石塔・石仏の造立を重ねることは、生前の罪障を滅し、死後の往生に近づくこととされたためです。都内に現存する六十六部聖が造立した石仏を調べてみると、地蔵菩薩像が圧倒的に多く、閻魔王像は極めて稀であることが分かります。本像は六部聖が江戸時代の谷中でも活動していたことを裏付けるとともに、希少な石仏として貴重な文化財の一つです。この六十六部造立石造閻魔王坐像及び両脇侍像は平成9年に台東区有形文化財に登載されました。(台東区教育委員会掲示より)』と標されていた。 この閻魔は、にこやかな顔をしており、「笑い閻魔」とも呼ばれているそうだ。


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● 長久院の西側(谷中4)に日蓮宗寺院の瑞輪寺がある。 瑞輪寺は、慈雲山と号し、身延山久遠寺第十七世慈雲院日新上人が身延山の江戸宿寺として天正19年(1591)開山した。 元禄年中には、不受不施派の弾圧により、天台宗へと改宗させられた感應寺(現天王寺)から、江戸十祖師の一つである安産飯匙の祖師を移しています。 その後慶安2年(1649)に現在地へ移転した。 江戸期には、身延山久遠寺末触頭で、善立寺、宗延寺と並び日蓮宗(旧法華宗)江戸三大触頭の一つに連なる名刹です。、、、、本堂横の墓地には、徳川家康の家臣:大久保主水の墓(写真中央)がある。 永禄6年三河の一向一揆との戦いで負傷し、歩行が不自由となる。 天正18年(1590)、家康に命じられ奉行として江戸小石川上水(のちの神田上水)を完成させ主水(もんと)の名をあたえられた。 菓子づくりでも知られ、製品は主水菓子とよばれた。

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・・・・・・・・・・・・瑞輪寺本堂の東側に、除厄・
安産の飯匙祖師がある。、、、、【注】“飯匙”と書いて“しゃもじ”と読む。

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● 谷中1-6の三叉路角に、「みかどパン店」とヒマラヤ杉の巨木がある。このヒマラヤ杉は、戦前、今の店主の祖父の代に鉢植えで育てていたものが、いつの間にか大きくなり、今のような大木になったそうだ。 「みかどパン店」は、谷中に古くからあるパン屋さんで、菓子パンやジュースなどを売っている、町によくある店だ。 建物も古く明治後期に建てられた長屋といわれている。 戦後75年となったが、“戦前”から約100年としても、100年間でこれ程の大木となるとは、成長の早い木だ!


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● ヒマラヤ杉の前をとおり(谷中4)に、赤い山門の日蓮宗寺院の寂静山蓮華寺がある。 蓮華寺は、中山法華経寺第19世寂静院日賢聖人の隠室として創始、第三世常在院日在聖人が寛永7年(1630)当地に創建した。、、、、ここの赤門は、明暦、元禄、上野戦争などの災害を免れたもので建築様式は誠に貴重なものだ。 また、現在の本堂等は、江戸文政年頃大檀越勘定奉行細田丹波守の寄進した建造物で、老朽の美を表しているそうだ。、、、、境内には、新内中興の祖:初代富士松加賀太夫(富士松魯中)の墓もある。 魯中は寛政9年(1797)~文久元年(1861)。


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● さて、台東区谷中1丁目と2丁目の境にある三浦坂を下り、地下鉄根津駅に向かう。、、、、この坂は、長さ約160m、高低差6m程で急勾配で、下りは怖い、上りはキツイ。 坂の名は、三浦志摩守下屋敷の前を下る坂であったから名付けられた。 

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● 東京メトロ千代田線根津駅から電車に乗る。、、、、昭和44年(1969)12月20日、開業。 単式ホーム1面1線上下2層構造の地下駅で、1番線ホーム(大手町、代々木上原方向)の下に2番線ホーム(北千住、綾瀬方向)が設置されている。 一日当たりの乗降客数は3万人程である。

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