中央区

2020年6月15日 (月)

新川の復興橋

“新型コロナ”の感染者は増えたり減ったり、そしてまた増えた! 今だ、三密避けて、不要不急の外出は自粛。 理屈は判っても、気持ちは外出したくて、チョットだけならイイよね!、、、、今日は、都営浅草線の宝町駅で下車し、中央区新川地区に架かる南高橋、豊海橋の2橋を渡り、箱崎、浜町を抜け我が家(浅草橋)まで、1万3千歩の散歩です。



●体力維持に協力的な駅 ・・・・・・・散歩のスタートは、都営浅草線:浅草橋駅から4駅目の宝町駅である。、、、、駅名の「宝町」は、昭和38年(1963)2月28日、地下鉄開業当時の地名「宝町」を採用。 地名の宝町は昭和6年(1931)、町名の整理統合の際、めでたい名として選ばれ誕生した。 しかし、昭和53年(1978)の住居表示では、隣接の京橋に統合する形であえなく消滅。、、、、駅は相対式ホーム2面2線の地下駅。 西馬込方面のホームには、中央と後方(押上寄り)に改札があり、後方の改札にはエレベーターがある。 中央の改札から出ると、合計90段程の階段を上らないと地上に出ることができない、“コロナ”で体力が落ちた方には足腰を鍛える嬉しい機会を与えてくれる!、、、、【蛇足】宝町で下車した後、同駅で京急の特別塗装列車:新1000形の「KEIKYU YELLOW HAPPY TRAIN」と、600形の「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」のすれ違いがあった。 ラッキー、チョイト嬉しくてパチリ!

202006150737390000

202006150739180000

202006150739540000

202006150741000000

202006150744070000



●橋上は寝床! ・・・・・・・・宝町駅から東に向かうと、昭和35年から昭和40年にかけて埋め立てられた楓川(もみじがわ)に架かる弾正橋(だんじょうばし)がある。 弾正橋の創架は江戸時代の初期、寛永年間 (1624~1643)頃と伝えられている。 橋名の由来は、この橋に近い八丁堀に江戸時代初期に町奉行を勤めた島田弾正 の屋敷があったことから「弾正橋」と呼ばれたそうだ。、、、、現在の「弾正橋」は、大正15年(1926)に架設されたもので、関東大震災の復興橋。 橋の下には首都高が、橋の上にも首都高が、平成の整備で橋に公園も造られ、日中でも薄暗くなった橋上はホームレスの寝床となった!

202006150750230000

202006150751160000



●鉄砲撃った鉄砲洲! ・・・・・・・弾正橋より道なりに東へ向かい、八丁堀交差点から南東方向に歩き、鉄砲洲稲荷神社(湊1)に立ち寄る。、、、、鉄砲洲稲荷神社は、江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきた。 神社は寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東詰に遷りましたが、明治元年現在地に移転し、今日に至っている。 大正12年(1923)の関東大震災により被害を受けた境内は、昭和10年(1935)より復興整備された。 また社殿の右奥には、富士山の溶岩で築いた昭和3年(1928)に築造された富士塚があり、そこを富士信仰の場としていた。、、、、鉄砲洲稲荷神社の「生成太神(いなりのおおかみ)」は、1554年に始まる足利義輝の治世に形成された京橋地区一帯の土地生成の産土神(うぶすなのかみ)です。、、、、「鉄砲洲」の地名は、昔、海岸だった頃のこの辺りの地形が細長~い三角形をしていたので、種子島と呼ばれた火縄銃の形に似ていたので“銕炮洲”と呼ばれ、“鉄砲洲”に変化した。 また寛永12年(1635)に、大筒をつくって幕府に納めていた井上氏、鉄砲方をして仕えていた稲富氏が大筒や鉄砲の試し撃ちをした場所でもある。 

202006150815300000

202006150816440000

202006150820540000



●湊地区のチョイト古い建物! ・・・・・・・中央区湊地区の建物

・・・・・・・・・・・・まずは、地区内に点在するマンサード屋根(腰折れ屋根とも言う。勾配が2段になっている屋根)の木造住宅。

202006150829040000

・・・・・・・・・・・・和洋折衷というより、住居の木造2階建て日本家屋と商売用の3階建て洋風の家屋が同じ敷地に建っている「福隆商事」、、、、昭和2年(1927)の建築といわれている。

202006150830310000

・・・・・・・・・・・・銅板貼りの建物は「日本不動産」、、、、昭和初期の建築か?

202006150833050000

・・・・・・・・・・・・南高橋の橋詰にある籠細工屋さん「籠平」、、、、下見板の木造建築ですが、2階上の部分のデザインは西部劇に出てきそうなモダンな建物。

202006150840350000

・・・・・・・・・・・・鉄砲洲稲荷神社の並びにある「築地警察署 湊交番」、、、、建物は古くないが、昭和4年(1929)に湊地区の住宅街の交番として開設された。 周囲は閑静な住宅街と新大橋通り沿いの中小企業からなる地域です。近年の再開発でマンションの建設が増えています。


202006150814090000



●両国橋の再利用! ・・・・・・・・中央区湊地区と新川地区を結び亀島川に架かる、関東大震災の復興橋「南高橋(みなみたかばし)」、、、、昭和7年の架橋、橋長は63.1m。、、、、南高橋は、関東大震災後、昭和6年に起工し、翌昭和7年3月に竣工した。 震災当時は、南高橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみであった。 大正12年(1923)の関東大震災ののち、街区の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に、新しく橋を架けることになった。 東京市は、多くの橋を改架したため予算も乏しく、そのため明治37年に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の3連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架橋したのである。 都内において、珍しくも明治37年のトラス橋の一部が現在に残ることとなった。 貴重な近代の土木遺産である。

202006150844560000

202006150845380000

202006150852370000

202006150853370000

・・・・・・・・・・・・南高橋から亀島川の上流側を望む、、、、右側が新川地区、左側は八丁堀地区。

202006150851430000

・・・・・・・・・・・・下流側は、隅田川に合流する手前に亀島川水門がある。、、、、水門は只今耐震工事中!

202006150847030000



●私、中国から来ました! ・・・・・・・・南高橋から豊海橋へ抜ける途中、隅田川沿いに「東京住友ツインビル」(新川2)がある。 西館と東館の2棟構成で、21階・24階建て、設計は共に日建設計、竣工:昭和63年(1988)と平成3年(1991)、、、、ビルの前で見上げると巨大な2棟のビルが威圧的に感じる。、、、、ビルには三井住友系の大企業がオフィスを構えているらしい。

202006150856130000

・・・・・・・・・・・・ビルの前で20歳前後の学生風の女性が見上げていた! オヤ、建築に興味あるのかな? にこやかな顔の可愛い女性だ。 『私、中国から来ました!』と話しかけてきた。 しばらく話すと、このビルの中の企業に就職が決まり勤めるそうだ。 私が異国からの就職、一人暮らしを思い『それは良かった、だけど大変だね』と云うと、何やら心配になったのか、『大変なんですか?』と聞き返してきた。 どうやら、就職する企業に問題があると受け止めたようだ。 すぐに気づき誤解は解けたが、私が、余分な心配をかけてしまった。 ゴメン! 日本で頑張って、仕事して、応援してま~す!

202006150858120000



●眺望良し! ・・・・・・・・新川地区から、振り返り佃島のタワマンを望む。 また、行く先には永代橋

202006150909160000

202006150911570000



●窓が並ぶ! ・・・・・・・・永代橋の西詰付近、日本橋川が隅田川に合流する処に、新川と日本橋箱崎を結び「豊海橋(とよみばし)」がある。、、、、豊海橋は、日本橋川の第一橋梁である。 大きな窓が並んでいるようでもあり、枠の幅がある梯子を横にしたような構造は、フィーレンディール橋と呼ばれ、永代橋との景観上のバランスを考慮して設計したそうだ。 シンプルなデザインのなかに鋲止形式という古い形態を残し、重量感のある鉄骨橋梁の代表例として貴重である。、、、、豊海橋は、復興橋として大正15年(1926)5月に着工し、昭和2年(1927)9月に完成した。

202006150919360000

202006150918400000

202006150925110000



●日銀創業の地! ・・・・・・・・豊海橋を渡ると、日本IBMの本社(日本橋箱崎19)がある。 このビルの敷地の一角に、「日本銀行創業の地」の碑が建つ。、、、、明治15年10月10日、日銀の創業はこの場所で、その十数年後に現在地に移転したと碑文にある。 碑面には「創業時の本館」の図が彫られたプレートが取り付けられている。、、、、創業時はこの地でお札を印刷したのか?

202006150937150000

202006150927220000

・・・・・・・・・・・・・・日銀創業の地の近くには、高尾稲荷神社がある。、、、、万冶2年(1659)12月江戸の花街新吉原京町1丁目、三浦屋四郎左衛門抱えの遊女で二代目高尾太夫、傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にして艶名一世に鳴りひびき、和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない全盛をほこったといわれる。 生国は野州塩原塩釜村百姓長助の娘で当時19歳であった。その高尾が仙台藩主伊達綱宗候に寵愛され大金とつんで見請けされたが、彼女にはすでに意中の人あり、操を立てて候に従わなかったため、ついに怒りを買って隅田川の三又(現在の中洲)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ、川中に捨てられた。その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当所そこに庵を構え居合わせた僧が引き揚げてそこに手厚く葬ったといわれる。 高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊高尾大明神を祀り、高尾稲荷社としたのが当社の始まり。、、、、若くして容姿端麗、諸芸に通じておれば、今の世のミスユニバースの優勝候補だ! 19歳で死ぬなんて、ア~~もったいない!

202006150929200000



●車よ、落ちるな! ・・・・・・・・首都高の箱崎ジャンクションの下を歩く。、、、、頭上から車が2・3台、落ちてきそうだ! のんびり歩けず、足早に通り抜ける。

202006150938290000

202006150939310000

202006150940210000

202006150941180000



●・・・・・・・・・・箱崎を抜けると、水天宮・浜町・東日本橋をとおり、浅草橋の我が家に到着!

2020年6月 5日 (金)

向う両国

我が家(浅草橋)から両国橋を渡り、回向院・江島杉山神社に参り新大橋で再び隅田川を越えて浜町に入り浅草橋へ、1万2千歩の散歩です。 




●両国とは? ・・・・・・・・隅田川に架かる両国橋は、あまりにも有名で知らぬは外人だけ! 今は、東詰めは東京都墨田区両国1丁目、西詰は東京都中央区東日本橋2丁目。、、、、江戸時代の両国橋は、現在の両国橋より少々下流に架かっていた。 当時の橋の東詰めは下総国、西詰は武蔵国で、両方の国の境に架かる橋で「両国橋」 解りやすい! もちろん江戸時代の橋は木橋で、流出や焼落、破損により何度も架け替えられた。 木橋としては明治8年(1875)の架け替えまで続いたそうだ。 この明治の木橋も明治30年(1897)8月の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず欄干が崩落してしまった。 木橋の終焉である。、、、、現在の両国橋は鉄橋の2代目で、関東大震災後の昭和7年(1932)の竣工、構造は3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋、施工は石川島造船所/間組、 総工費 987,500円也。 約100万円で橋が架けられた時代は昔の話となった! 

202006050757060000

202006050755430000

・・・・・・・・・・・・両国橋の東側(墨田区両国)には古き歴史を語る説明板、石碑などが多い。、、、、まずは、東詰めにある「両国橋児童遊園」と表示された広場。 一面に砂利がひき詰められ、公衆便所と3本程の桜の若木、そして日露戦争の忠魂碑、赤穂浪士の一人:大高源吾の句碑、さらに観光用と思われる周辺の案内図などがある。 “児童遊園”なのに、子供向けの設備・遊具は何もない、どうなってんだ!

202006050759470000

202006050801080000

・・・・・・・・・・・・両国橋児童遊園の隣りにある建築史上貴重な建物は、「岡田商事」の社屋。 戦前に建てられたものでアールデコ調の美しい建築。、、、、今日は改修工事か? 外壁に足場が架けられていた。 (夕暮れの写真は、2018年10月撮影) 

202006050803030000

1810011654580

・・・・・・・・・・・・岡田商事の建物の隣り、駐車場のフェンスに3枚の説明板がある。 駐車場のこの辺りに「両国橋広小路」があった。、、、、江戸時代の両国橋は現在の橋より50mほど下流に架かっていた。 橋の西側、つまり中央区側の広小路(火避地)は「両国広小路」、東側(墨田区側)を江戸の人は「向う両国」と呼んだ。 西側は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。 寛保2年(1742)頃には1日に20,000人以上が往来したそうだ。

202006050843510001

202006050843090000

・・・・・・・・・・・・そして、もう一枚の説明板「赤穂浪士休息の地」によると、元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士の討ち入り後、泉岳寺への引き上げ前に休息したのがここにあった向う両国の広小路です。吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を通らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。、、、、今の世であれば、地元の町内会で甘酒・汁粉を作ってふるまったかもね! また、野次馬が集まりサインを求めたと思うよ!

202006050843020000



●本当に義賊か? ・・・・・・・・両国にきたら、チョイト回向院鼠小僧次郎吉に手を合わせて行こう!、、、、ところで、鼠小僧次郎吉は俗名中村治郎吉。 実在した人物だそうだ、しかし義賊と云うのはあやしいらしい、盗んだ金は全てパチンコに使い、懐はいつもスッカラカンのステテコテンだったという説もある。 さらに、鼠小僧が生きていたと言われている当時は、犯罪者は墓が建てられないので墓があること自体あり得ない。 墓が建てられたとすれば明治以後のことで、墓自体もあやしいものらしい。、、、、いつの頃からか鼠小僧の墓石のかけらを持っていると、勝負師には「賭け事に勝つ」「運がつく」など、受験生には「するりと入れる」と言われて、墓石を欠き取る人が絶えないらしい。 

202006050805410000

202006050815160000



●縦に流れる堅川! ・・・・・・・両国橋の下流200m程の処から、東に向かいほぼ一直線に旧中川まで堅川が流れている。 竪川は、万治2年(1659)に掘られた運河で、当時、江戸城からみて縦に通じているところから竪川と称したそうだ。 竪川の最初の目的は排水のためであったが、のちに隅田川と中川とを連絡する水路として輸送に大いに利用され、河岸には材木屋も多く木場の続きともなっていた。 一之橋はその堅川で隅田川寄りに最初に架かる橋である。、、、、現橋は3径間鋼桁で、橋長36.9m、昭和54年(1979)に竣工した。 隅田川寄りに、昭和35年(1960)に竪川水門がある。 また頭上には、首都高速7号小松川線が横切る。 チョイト、風情の無い景色となっている!

202006050850020000

202006050849190000

202006050852260000



●蛇の洞窟は怖い! ・・・・・・・一之橋を渡ると、江島杉山神社がある。 江島杉山神社は、鍼術の神様・杉山和一(1610~1694)が五代将軍綱吉から、神社のある本所一ツ目に約1万2千㎡の土地を拝領し総録屋敷を建て、その西隣に弁才天の一社を建立したのが、江島杉山神社の始まりです、神奈川県藤沢市の江ノ島弁財天と、杉山和一総検校が祀られています。 和一は、現在の三重県津市の出身で幼いころに失明し、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである管鍼術を授かった。 その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として活躍した。 この和一の名声を聞いた綱吉は和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせた。、、、、神社は昭和20年(1945)の米軍の空襲で焼失したが、昭和27年(1952)に再建された。 また、境内の奥には、江ノ島の岩屋を模した洞窟があり、中には、杉山検校石像、人頭蛇尾の宇賀神石像が祀ってある。 蛇が大嫌いな私には、チョイト気味の悪い洞窟だ!

202006050855010000

202006050857010000

202006050858200000

202006050858450000

202006050859460000



●モダンな橋! ・・・・・・・・隅田川に架かる新大橋を渡り、中央区日本橋浜町に入る。、、、、現在の橋、構造形式は2径間連続斜張橋、橋長 170.0m、昭和52年(1977)に石川島播磨重工業の施行で竣工した。 黄色の主塔が印象的!、、、、最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1694年)である、隅田川3番目の橋で「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。 江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられている。

202006050920530000

202006050921230000

202006050922540000



●ただいま~ ・・・・・・・新大橋を渡ると、浜町公園・清正公寺・薬研堀不動院をとおり、浅草橋へお帰り!

2020年5月27日 (水)

江戸最大の盛り場

今日は循環器内科の通院日(結果は“変わりなし”)、病院の帰り神田川を越えて中央区東日本橋の町をブラブラ。 「東日本橋」は、隅田川に架かる両国橋の西詰の町。 神田川に架かる浅草橋・柳橋の南詰の町でもある。 都営浅草線の東日本橋駅のある町。 チョイト高齢の方には、「やげんぼり 七色唐辛子」とか、薬研堀のお不動さまで有名な町。 チョイト遊んだ方には、柳橋と浜町、二つの花柳界の間の町。 町は浅草橋と清洲橋を結ぶ清杉通りが南北にとおり、その東側に東日本橋1丁目と2丁目、西側に3丁目がある。 東日本橋駅は清杉通りの地下にある。 隅田川沿いの東日本橋1丁目(旧地名:日本橋村松町・日本橋若松町・日本橋矢ノ倉町・日本橋薬研堀町・日本橋米沢町)と2丁目(旧地名:日本橋両国)はオフィスと店舗兼住宅が混在する町。 東日本橋3丁目(旧地名:日本橋橘町)は日本橋横山町などと隣り合わせの問屋街。、、、、江戸時代には旧地名として、下柳原同朋町、両国西広小路、吉川町などもあった。 “東日本橋”の地名は昭和46年(1971)の住居表示で突然現れた地名である。 “東日本橋”とは味気ない地名になってしまった、“日本橋七色町”とか、“薬研堀不動村”なんて町名にして欲しかったね!




●江戸最大の盛り場! ・・・・・・・明暦3年(1657)の大火で10万人の死傷者を出した江戸幕府は、江戸市民の避難路として両国橋を架けた。 橋の両詰めには、延焼を防ぐため広い空地「火除地」を設けた。 橋は本所(墨田区)・深川(江東区)方面への幹線道路となり、通行人も多く、両橋詰の火除地は“広小路”として整備された。 西側の広小路(中央区東日本橋2)は、いつしか、見世物小屋、茶店などがひしめきあう、江戸で最大の盛り場「両国広小路」(上野、浅草と共に江戸三大広小路)となった。 江戸時代の“歌舞伎町”だ! 両国広小路の賑わいは明治・大正時代にも続いたそうで、明治以降は卑猥な見世物小屋もあったそうだ、私もぜひ一目見てみたかったが残念。


・・・・・・・・・・・・写真は、現在の両国橋(江戸時代の両国橋はチョイト下流側に架かっていたらしい)、心なし道路幅が広く見える現在の西詰、両国橋西詰にある「両国広小路」の碑

202005271454160000

202005271449270000

202005271440310000

・・・・・・・・・・・・両国橋西詰(現:東日本橋2)が“盛り場”なら、裏通りにはお忍びで行ける処があるはず!、、、、あります、ご安心を! 両国広小路の南側には、日本橋矢ノ倉町、日本橋浜町など、料亭、待合などがあった。 今は、それらしき面影を残す建物が数軒あるのみ。

202005271534530000

202005271536510000

・・・・・・・・・・・・“盛り場”なら、アダルトショップもあるはずだ! こちらも、ありました、過去形で!、、、、広小路の南側、米沢町2丁目(現:東日本橋1丁目)に、江戸時代のアダルトショップがあった。 店の名は四目屋(よつめや)で、強精剤の長命丸、女悦丸をはじめ、肥後ずいき、牛角などの淫具なども売っていた。  店頭の招燈には、佐々木氏の家紋である黒地に四目結(よつめゆい)の紋所を染め出したものをかけていた。 店は客に配慮して、店内を薄暗くしていたそうだ。 今も昔も、この手の店は入りにくいからね! 創業は寛永3年(1626)らしい。 この老舗は、ぜひとも営業を続けて欲しかったね!、、、、写真の、現:日本橋中学校の付近にあったと思われるが、それらしき店は現存しない。 中学校前の通りは「御幸通り

202005271502000000

202005271502180000



●コロナで隔離された不動尊!・・・・・・両国広小路からチョイト南へ向かうと、大本山川崎大師東京別院である薬研堀不動院(東日本橋2)の赤い旗が、“おいでおいで”と招いてる。、、、、狭い土地に建てられた鉄筋コンクリート造の舎利塔のような建物が不動院である。 階段下から見上げると、アレ?本堂のシャッターが下りてる! 貼り紙には『新型コロナウイルス感染拡大防止の為しばらくの間 本堂の閉扉時間が早くなります。ご理解の程よろしくお願いします。』と書かれていた。 お不動さまのコロナには弱いらしい、本堂に隔離されたのか?、、、、薬研堀不動院の始まりは、天正13年(1585)、豊臣秀吉の勢が根来寺を攻めて兵火に遭ったが、根来山の大印僧都は、根来寺に安置していた不動尊像を守護して葛籠に納め、兵火を逃れてはるばる東国に下って来た。僧都は、やがて隅田川のほとりに有縁の霊地を定め、そこに堂宇を建立して、この尊像を安置した。これが現在の不動院の開創である。 その後、明治25年(1892)より川崎大師の東京別院となり現在に至る。

202005271527210000

202005271523340000

・・・・・・・・・・・・・この地は、順天堂の始祖と仰がれている佐藤泰然が、天保9年(1838)に和蘭(オランダ)医学塾を開講した場所でもあります。 その後、天保14年(1843)に佐倉藩主に招かれ佐倉に「順天堂」を開いた。  順天堂大学・順天堂病院の聖地で、境内に「順天堂発祥之地」碑がある。

202005271526030000

・・・・・・・・・・・・・もう一つ発祥の地、「講談発祥記念之碑」が建つてる。、、、、元禄の昔、赤松清左衛門は浅草見附(現:浅草橋)辺の町辻で太平記を講じ、江戸講釈の発祥となった。 これが後に「太平記講釈場」に発展して長く庶民に親しまれ、安政年間「太平記場起原之碑」が建てられた。  この碑は、その後当不動院境内に移され、大正12年の関東大震災まで名物となっていた。

202005271525430000



●七色?、七味? ・・・・・・・江戸っ子は、「やなか」といえば「生姜」で「わせだ」といえば「茗荷」で、「やげんぼり」といえば「七色唐辛子」を連想するのだ! その「薬研堀」は、現在の東日本橋1丁目付近にあった米蔵に搬出入するための舟入堀である。 堀の断面がV字形になっているので漢方の調薬道具に見立ててその名がついた。、、、、薬研堀周辺には、不動尊の参詣客目当ての唐辛子屋が集まったのが始まりらしい。 七色唐辛子は、廻船業「えびや」が諸国の産物の中から、七種を選んで混合したのが最初と言われている。 それで薬研堀の唐辛子屋はみんな七色唐辛子を売ったので「やげんぼり」といえば「七色唐辛子」ということになった。 ちなみに、七色(七味)とは、焼き赤唐辛子、乾し赤唐辛子、生姜、紫蘇、罌粟(ケシ)、山椒、陳皮、黒胡麻、白胡麻、麻実、青海苔の内から7種を混ぜ合わせたもの。 「七色」と「七味」の違いは、七色が乾燥唐辛子の粉を使うのに対して、七味は焼き唐辛子、または焙り唐辛子の粉を加えるそうだ。 でも、今の時代その違いはあやふやだ。 ここ薬研堀に現在も営業している唯一の唐辛子屋さん、「えびや」の子孫「大木唐からし店」(東日本橋2)では、七色に固執しているそうだ。、、、、浅草の唐辛子屋さん「やげん堀」も、以前は薬研堀にあったそうだ。、、、、写真は、現在の大木唐からし店。

202005271452300000

202005271457330000



●昔の名前で出ています! ・・・・・・・日本橋中学校の西南角に「矢ノ倉」跡の碑が建っている。 由緒ある矢ノ倉の地名が時代の流れにより失われてゆくことを惜しみ地元住民が建てた碑である。、、、、江戸初期の頃からこの辺りは谷野といわれ、正保2年(1645)徳川幕府が米倉を建てこれを谷之御蔵と称した。元禄11年(1698)火災により焼失、米倉は築地に移された。米倉移転後幕末までこの地域は、北東部が町家に、北西および南部は武家地となり、柳沢出羽守屋敷や幾つかの屋敷に分割され、その後松平壱岐守など諸氏の邸地となった。矢ノ倉町の地名には昔から谷野倉、谷蔵、矢野倉、矢之倉などの字が宛てられたが、明治5年町名設定によって俚俗の称をとり矢ノ倉町と定めた。 昭和46年住居表示の実施に伴う町名変更により東日本橋1丁目となった。、、、、この碑は、昭和50年(1975)に建てられた。、、、、世が変わると地名も変わり、あと50年もすると「東日本橋」も「イースト・ジャパン・ブリッジ」という地名になっているかも? その頃、私は彼の世で嘆いているか、笑っているか、どうでもいいか!

202005271515090000



●商売繁盛で油揚げ大好き! ・・・・・・・ここで、東日本橋の町に祀っられている稲荷を一挙大公開!、、、、江戸の商人は、商売繁盛を願い稲荷信仰に熱心だった。 その名残!、、、、全て、小社で説明は省略!

・・・・・・・・・・・・写真順に、矢ノ庫稲荷神社(東日本橋2)、川上稲荷神社(東日本橋2)、初音森神社(東日本橋2
)、両国稲荷神社(東日本橋2)、玉尾稲荷神社(東日本橋3)

202005271520190000

202005271446170000

202005271604130000

202005271435480000

202005271549160000

2020年3月28日 (土)

外出自粛の散歩

外出自粛要請が出た東京都、私の散歩の多くは完全に「不要不急の散歩」である。 それ故ここ数日、家に籠もっていた。 『今日も我が家で寝てようか?』と思っていたら、昼に妻が『和泉公園のサクラが満開、見てきたら』と一言。 『そうだ!個人的な運動で我が家の近所を散歩するのはOKだ』と、自問自答する。 我が家から半径1km以内のご近所を一人で散歩してきた。 




●我が母校とサクラ・・・・・・・まずは、我が家から直線距離で約200m、関東大震災後に復興公園として大正15年(1940)に開園した柳北公園(台東区浅草橋5)に咲くサクラ。 満開だ!、、、、サクラの後ろの建物は、公園と同時の大正15年に竣工した我が母校:元柳北小学校の校舎。 小学校は平成13年(2001)に、少子化により廃校となり、現在は区で使用している。、、、、サクラは、来週には散ってしまうかも?

202003281228380000

202003281231290000



●いつも行列! ・・・・・・・・柳北公園を抜けて、千代田区神田和泉町に行列のできる店がある。(我が家から直線で約400m)、、、、こちらは平日でも11時ごろから行列ができ、地元の私でも並ばないと入店が難しいラーメン屋さん「饗 くろ㐂」。 “知る人ぞ知る”有名店とのこと! 美味しいラーメンを求め、今日も並ぶお客さん。

202003281235300000

202003281238070000



●感染拡大を止めて! ・・・・・・・神田和泉町2に、赤いのぼり旗と赤い鳥居が眩しい「日通金網稲荷神社」がある。(我が家から約450m)、、、、ここは日本通運の発祥地である。 現在、日本通運は神社の脇で新本社ビルを建設中。 日本通運の先祖は、江戸時代、この地で飛脚問屋を営業していた「京屋弥兵衛」と言う人で、大事な金銭や信書の輸送にあたり事故の起きないよう、正一位稲荷大明神を祀ったそうだ。 京屋は、その後、陸運元会社、内國通運、國際通運、とその名を変え、現在の日本通運となった。 時代が変わっても創業の志を大切に守っていく企業の姿勢が理解できる。、、、、“お稲荷さん”には、筋違いかもしれないが、“新型コロナ”の感染拡大をくい止めて欲しい、よろしく!

202003281239250000



●我が命の病院とサクラ! ・・・・・・・・・金網稲荷神社の隣りに千代田区立「和泉公園」(我が家から約490m)がある。 妻が言ったように、サクラは満開に近い状態であった。 大きなサクラが数本、さすがに今日は宴会する人はいない!、、、、写真、後ろの大きな建物は「三井記念病院」 6年前、私の大動脈を人工血管に置き換えてくれたアリガタイ病院。

202003281240280000

202003281242420000

202003281245220000



●橋の端を歩いて! ・・・・・・・・JR浅草橋駅の南側、JR総武線と並行して流れる神田川に架かる4橋を順に渡り、隅田川へ向かう。

・・・・・・・・・・・・まずは、我が家から直線で約500m、今日渡る神田川4橋の中では最上流に架かる橋。 その名は「美倉橋」、、、、美倉橋は現在の千代田区神田佐久間町と同区東神田を結び、江戸時代に架けられた橋。 近くに三つの倉があったことから「三倉橋」、転じて「美倉橋」と呼ばれるようになった。、、、、現在の橋は昭和4年(1929)の架設、長さ35.35m、幅23.31mの鋼橋。、、、、今日の神田川は、上流で咲くサクラの花びらを運んで流れ下る。

202003281254350000

202003281252460000

・・・・・・・・・・・・次は、約360mの距離にある「左衛門橋」、、、、左衛門橋の、北詰は千代田区東神田3丁目と台東区浅草橋1丁目、南詰は千代田区東神田2丁目と中央区日本橋馬喰町2丁目で、三区を結ぶ橋である。 この橋の創架は、明治8年、東京府の認可を受けた賃取橋(有料橋)として、民間人により架けられた。 この時の許可条件は、有料期間7ヵ年、満期後東京府に上納となっていた。、、、、橋名は、北詰の台東区側にかつて鶴岡藩の酒井左衛門尉の下屋敷があったことから、この付近一帯を左衛門河岸と呼んだことに由来する。、、、、現在の橋は、震災復興事業による復興橋梁で、橋長35.5m、幅員15.0mの鋼製橋で、昭和5年(1930)に架設。、、、、橋の際には、三区がそれぞれ独自に造った公衆便所・小公園などがある。 

202003281301130000

202003281302460000

・・・・・・・・・・・・次は、約400mの処にある「浅草橋」、、、、北詰の台東区浅草橋・柳橋と南詰の中央区馬喰町・東日本橋を結ぶ橋。 江戸時代には、見附の一つで浅草橋御門があった。、、、、現在の橋は、関東大震災後の復興事業として、昭和5年(1930) に架設された鋼製の橋。

202003281313330000

202003281313120000

・・・・・・・・・・・・最後の橋は、神田川最下流に架かる「柳橋」(我が家から約540m)、、、、この橋も復興橋のひとつで、北詰は台東区柳橋、南詰は中央区東日本橋。 昭和4年(1929)完成。 永代橋をモデルにしたと言われる、橋長37.9mの小型のアーチ橋で、全体的に緑色に塗られている。 幕末、明治以降、柳橋は花柳界として名高かったが、私の若い頃である昭和40年代には、バブルの終焉と共に廃れた。

202003281319560000

202003281321200000

・・・・・・・・・・・・浅草橋から柳橋にかけて、神田川には屋形船が並んでいる。 “新型コロナ”でダメージをくらい、チョイト、出番はないようだ! しばらくの辛抱か?

202003281322120000

・・・・・・・・・・・・柳橋の南詰(中央区側)に、昭和初期の建築と思われる「増田ビルがある。 窓の上下に丸み帯びた横線がある、優しい感じのビルで、元は医院だったそうだ。

202003281320200000

202003281323170000



●コロナは居ない! ・・・・・・・・・我が家から約520m、隅田川をチョイト覗いてみた! 川縁には人影がチラホラ、ココなら“新型コロナ”の心配はいらないだろう! でも、チョイト曇って来たな!、、、、横に架かる総武線隅田川橋梁は昭和7年(1932)竣工。

202003281332130000

202003281335030000



●また、自宅隔離をするか! ・・・・・・・・江戸通りに面したJR浅草橋駅東口前(我が家までは約250m)から帰宅。 外出自粛要請が効いたか、人通りは少ない。 特筆すべきは、『外人が消えた!』

202003281343260000

202003281345240000

2019年12月13日 (金)

スタコラ、京葉道路

台東区浅草橋の我が家から中央区の浅草橋交差点に出て、京葉道路をひたすら東へ墨田区、江東区を抜け、江戸川区の中央二丁目交差点で曲がり、近くの大杉小学校前バス停まで、1万5千歩、約10kmの散歩です。




●何処も彼処も“浅草橋”  ・・・・・・我が家から徒歩45秒、浅草橋一二丁目交差点に台東区のコミュニティバス乗り場「浅草橋駅北」がある。、、、、ここから徒歩2分で江戸通りの下を走る都営地下鉄浅草線の「浅草橋駅」、そこから徒歩40秒JR総武線の「浅草橋駅」東口。、、、、さらに徒歩1分で神田川に架かり台東区浅草橋と中央区日本橋馬喰町を結ぶ橋「浅草橋」がある。 「浅草橋」は、江戸通り(=水戸街道)が神田川を渡る橋で、橋の全長と同じくらいの幅員を持つ幅広の橋梁である。 江戸時代初期この場所は、奥州方面から江戸中心部への入口となるため、江戸城の見附「浅草橋御門」が設置され、同時に見附橋としての木橋「浅草橋」が架けられた。 最初の橋は寛永13年(1636)頃の架橋と伝えられている。(私が誕生する以前の話で、本当かどうか知らない!) 現在の橋は大正12年(1923)の架橋で、私の母と同年で、今年で96年目(橋も母も、いまだ健在!)、、、、中央区に側に、京葉道路、靖国通り、江戸通り、清杉通りが交差する「浅草橋交差点」がある。

201912130742250000

201912130746180000

201912130751170000

201912130754100000

201912130753490000

201912130757400000



●京葉道路をスタコラサッサ! ・・・・・・・・今日は10時半までの間、京葉道路をひたすら歩区ことにした。 “10時半”とは、我が家を出てから約3時間、私に疲れが出る頃だ! そして、あまり長く歩くと、靴底の減りも早く、また高価な靴を買うことになるので!

・・・・・・・・・・・・中央区の浅草橋交差点は、新宿から伸びてきた靖国通りの終点で、その延長上を東に向かう京葉道路の始点である。

201912130759160000

・・・・・・・・・・・・両国橋で隅田川を越える。 橋の東詰(墨田区側)には、明日(12月14日)に義士祭が行われる赤穂浪士の一人:大高源吾の「日の恩やたちまちくだく厚氷」の句碑がある。 この句は、討ち入りの夜、向島に住む俳句の師匠宝井其角と両国橋で出会い詠んだものといわれている。 句碑は昭和3年(1928)に建立されたもの。

201912130804450000

201912130808160000

201912130809370000

・・・・・・・・・・・・・・・両国3丁目の京葉道路の歩道上に建っている「本所松坂町跡」の碑。 もともとこの周辺は、吉良邸のあった本所松坂町と呼ばれていたが、関東大震災後の区画整理により町名が消えた。 この碑は「松坂町」を偲んで、昭和7年(1932)に住民によって建立された。、、、近くには、明日の義士祭・吉良祭のポスターもある。 チョイトついでに、吉良邸跡の本所松坂町公園にお立ち寄り!

201912130815170000

201912130816360000

201912130817570000

・・・・・・・・・・・・清澄通り三ツ目通り江東橋と通り過ぎ、錦糸町駅前は我が家を出てから1時間後に通過。

201912130825150000

201912130837080000

201912130841460000

201912130849550000

・・・・・・・・・・・・・・錦糸町と亀戸の間を流れる運河:横十間川を昭和44年(1969)に完成した松代橋で越えて、墨田区から江東区に入る。 亀戸駅の手前で越中島支線(JR貨物)のガードをくぐり、亀戸駅前では歩道橋で交差点を横断し、亀戸七丁目交差点で丸八通りと交差する。

201912130900200000

201912130859160000

201912130905220000

201912130909120000

201912130910050000

201912130921480000

・・・・・・・・・・・・・中川新橋(平成15年完成)で旧中川を越える。 この橋を渡ると江東区亀戸から、江戸川区平井・小松川に入る。、、、、中川新橋では、大勢のユリカモメが私を歓迎してくれた。

201912130940210000

201912130941590000

201912130942350000

201912130944130000

・・・・・・・・・・・・・・旧中川の次は、荒川越えだ! 小松川橋で荒川と中川を一挙に越える。 全長約500mの小松川橋を渡りきるのに15分を要した、長い橋だ! 歩く先には首都高が、振り返ればスカイツリーが見える。、、、、渡り終わると時計の針は10時を回っていた!

201912130957420000

201912131002570000

201912130959560000

・・・・・・・・・・・・・・署員数480名の大きな小松川警察署の前を通り、境川橋を渡る。 境川橋はその名のごとく境川に架かる橋で、昭和15年(1940)に完成した。 只今、橋の下の親水公園と共に修復中。 東小松川交差点の角には、宝くじが良く当たると評判の宝くじセンターがある。 年末ジャンボの時期である、10億円ゲットするには何処で買うか迷うね?

201912131012450000

201912131015300000

201912131018080000

201912131022260000

・・・・・・・・・・・・・・今日の散歩は、京葉道路の「中央二丁目交差点」(江戸川区)までとする。 時刻は10時半を過ぎ、お帰りの時刻となった。、、、、交差点角のチョイト裏側(江戸川区松江3-31)に、昭和初期に建てられたと思われる同潤会の木造住宅が、朽ちて残っている。 おそおらく、いずれ取り壊されると思うね!

201912131032120000



●ラッキー! ・・・・・・お帰りは、何処から乗るか? 新小岩方面に歩くと、「大杉小学校前」バス停にバスが来た。 ラッキー、これで新小岩駅に出ることにした。

201912131041540000

2019年7月26日 (金)

深川の三十三間堂

一気に夏到来、これからは外出時に熱中症を心配しなければならない、暑い暑い夏だ!

今日の散歩は、都営浅草線日本橋駅から、永代通りに沿って地下鉄東西線木場駅までの、1万2千歩です。 




●間違えたら一大事! ・・・・・・昭和7年(1932)、中央通りに東京地下鉄道(現:東京メトロ)の日本橋駅が開業。 昭和38年(1963)2月28日、中央通りと約200m離れて並行する昭和通りに、都営地下鉄1号線(現:浅草線)の江戸橋駅開業。 昭和42年(1967)には、中央通りの日本橋駅と、昭和通りの江戸橋駅を連絡するように永代通りに東西線の日本橋駅が開業する。 これにより、日本橋駅と江戸橋駅は乗換駅となる。 平成元年(1989)都営地下鉄浅草線の江戸橋駅を日本橋駅に改称。、、、、浅草線の日本橋駅は、相対式ホーム2面2線の駅であるが、改札内にはホーム間の連絡通路が無いため、行先により利用する改札を使い分ける必要がある。、、、、我が家のある浅草線の浅草橋駅の隣り駅は東日本橋駅、三越デパートに近いのがJR総武快速線の新日本橋駅、そしてここ日本橋駅。 どれも“日本橋”間違えないように!(大阪メトロにも日本橋駅があるけど、ここと間違えたら悲惨!)

1907260724201

1907260725210

1907260726160

1907260730170

・・・・・・・・・・・・・・浅草線から地上に出ると、昭和通りと永代通りが交差する「江戸橋一丁目交差点

1907260729110

1907260732420



●撤去されずに50年 ・・・・・・永代通りの日本橋駅と茅場町駅の間に、かつて流れていた楓川(かえでがわ)を渡る千代田橋が残されている。 千代田橋の最初の架橋は昭和3年(1928)。 東京オリンピックに間に合うように、昭和37年(1962)に川は埋め立てられ、頭上には首都高が造られ、千代田橋は使命を終えた。 その後今日まで、千代田橋はなぜか撤去されず残されている。 当時、急速に進んだ都市開発の波にもまれ、取り残されたこの橋に悲哀を感じる。

1907260735290

1907260737570



●暑さに耐え、今日もお勤め! ・・・・・・日本橋駅から約500mで隣の茅場町駅。 通勤する人がゾロゾロと地下駅から掃き出されてくる。、、、、亀島川に架かる霊岸橋を渡り、昔の霊岸島、今は中央区新川である。、、、、大手企業の本社ビルが立ち並ぶ、バブルの象徴と言われるビルもその一つ。

1907260746530

1907260747540

1907260755090

1907260757110



●只今、化粧中! ・・・・・・永代通りが隅田川を越える永代橋。 橋の素顔を見たかったが、只今、一年がかりの塗装工事で、暑さ寒さに耐えられるよう厚化粧中だ!、、、、橋から見る、青空の下の隅田川。 画になるね!

1907260801030

1907260803200



●味噌屋の逸話 
・・・・・永代橋を渡り江東区佐賀1の乳熊ビル前に、ちくま味噌(株)の建てた「赤穂義士休息の地」の石碑がある。 赤穂四十七士の一人大高源吾守葉は俳人としても有名であるが、ちくま味噌初代竹口作兵衛本浄とは其角の門下として徘界の友であった。 元禄15年(1702)12月14日本所松坂町(墨田区両国)の吉良邸討入後、大石内蔵助率いる義士達が一ツ目通りを引き上げの途中、永代橋際の乳熊屋味噌店の前にさしかかる。 乳熊屋は上棟の日に当たり、作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労をねぎらった。 大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったそうだ。 ちくま味噌では、現在「元禄浪士あま酒」として販売している。 老舗の味噌屋には、それなりの話が残っているものだね。、、、、ところで、恥ずかしながら、私は今日まで「ちくま味噌」の“ちくま”は“千曲”で信州の会社だと思っていた。 “乳熊”は伊勢乳熊郷の地名であった。 慶安の頃(1648~1651)竹口作兵衛義道が、一旗揚げようと伊勢乳熊郷から江戸へやってきて、日本橋で塗物商を営んでいたが、元禄の初め(1688~)深川永代橋際の現在地で味噌醸造を営み、乳熊屋作兵衛商店といったのが、今の「ちくま味噌」の始まりだそうだ。

1907260809370

1907260808150



●蒲鉾にあらずミカンなり! ・・・・・蒲鉾屋のお稲荷さんと間違えそうな、大和総研(永代1-14)の敷地の東角地にある紀文稲荷神社。 江戸中期(元禄時代)の豪商紀国屋文左衛門が京都伏見稲荷神社より御霊を拝受しこの地に祀ったのが紀文稲荷神社。 紀国屋文左衛門は第5代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保荻原重秀等と結び風浪を冒して紀州よりミカンを江戸に運びまた材木商として明暦の大火に木曽の木材を買い占め数年で巨万の財を築き豪遊して紀文大尽と称せられていた。 その文左衛門の店は八丁堀にあり、下屋敷が深川にあり、船蔵もこの周辺にあり、縦横に伸びた運河によって結ばれていた。 そこで、文左衛門は、この付近時この付近一帯の航海の安全と商売の繁盛を祈ってこの地にお稲荷さんを祀った。、、、蒲鉾屋にあらず、ミカン屋のお稲荷さんだった!

1907260816470



●度々の参拝、建物は見飽きた! ・・・・・・門前仲町駅前をとうり、永代寺深川不動尊深川不動燈明塔富岡八幡宮と、定番の寺社を巡る。

1907260833550

1907260834500

1907260900530

1907260849471

1907260843570

1907260908020



●国産第一号の鉄橋 ・・・・・・
富岡八幡宮の東側に「八幡掘遊歩道」があり、そこには歴史ある人道橋2橋の上部が残されている。

・・・・・・・・・・・・・・江東区木場の大横川(旧大島川)に架かり、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな人道橋。 大正時代、岐阜県から上京し、木場で開業医をしていた新田清三郎さんが、昭和7年(1932)、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める供養の意味を込めて架けた橋である。 当初「新船橋」と名付けられたが、新田医師の亡きあと「新田橋」と呼ばれるようになった。、、、、現在の新田橋はコチラ

1907260922350

・・・・・・・・・・・・・・旧弾正橋は、明治11年(1878)工部省赤羽製作所にて作られた国産第1号の鉄橋。 長さ15.2m、幅3mの単径間アーチ型式。 近代橋梁技術史上において価値の高い橋で、国の重要文化財に指定されている。 昭和4年(1929)に現在地(八幡堀)に移され八幡橋と改称し、人道橋として使用されてきた。、、、、堀は埋め立てられ、橋の下は遊歩道となっている。

1907260919150

1907260926100



●三十三間堂があった! ・・・・・旧弾正橋(八幡橋)を渡り東に向かうと深川八幡東交差点。 この交差点角に「三十三間堂跡」がある。、、、、江戸三十三間堂は、京都蓮華王院に模して、寛永19年(1642)に浅草において建立された。 ここ深川に移されたのは元禄14年(1701)のことである。 深川の三十三間堂は、南北六十六間・東西四間の堂舎であり、本尊は千手観音だったといわれている。 現在でも、京都の三十三間堂において通し矢が行われているが、江戸時代は、この三十三間堂においても、諸士の弓術稽古のために通し矢が行われていた。 深川三十三間堂は、明治5年(1872)に廃棄解体され、本尊は正覚寺(深川2)に移された。 跡地は明治時代に、堂域そのままに細長い深川墓地として利用されたが、大正時代には数矢小学校と住宅に変わった。 その後、数矢小学校は富岡八幡宮の北側の現在地に移転した。、、、三十三間堂が建っていた場所は、明治2年~昭和6年、深川数矢町(かずやちょう)といった。 町名は「三十三間堂が射手数矢を演じたる地なるを以って町に名づくという」ことに因んでいる。 現在は富岡2丁目に含まれ、数矢町は消滅したが、この名は、数矢小学校の校名に残っている。 


1907260928390

1907260929340



●200億円の工事! ・・・・・・東西線の木場駅は昭和42年(1967)9月14日に開業した。 島式ホーム1面2線を有する地下駅である。 深さ22.4mと、東西線で一番深い位置に存在する。 開削工法で掘られた両端部以外は単線シールド工法で掘られたためホーム中央に壁があり、単式ホームを隣り合わせとしたような構造である。この単線シールド工法で建設された駅は日本の地下鉄として初である。このような構造のため、改札口と連絡する階段・エスカレーターはホームの両端にあり、それ以外の位置ではホーム間の行き来はできない。階段はエスカレーターの奥にある。、、、、開業してから50年、狭いホームの改良工事が進められている。 シールドの壁を撤去し、広い空間を造りホームを広げる総工事費200億円の大工事。乞うご期待!

1907260939520

1907260943330

1907260945280

2019年2月 2日 (土)

6車線の京葉道路

我が家(浅草橋)から、両国橋を渡り、錦糸町でJRA場外馬券売り場を覗き、亀戸駅まで、1万3千歩の散歩です。
 
 
 
●まずは隅田川を越える ・・・・・・・・中央区と墨田区を結ぶ両国橋を渡る。
 
・・・・・・・・・・・・・・京葉道路は浅草橋交差点から始まる。 
 
1902020747480
 
・・・・・・・・・・・・・両国橋は、明暦の大火(1657)の大惨事を教訓に万治2年(1659)に、隅田川に架けられた橋。、、、、現在の橋は、昭和7年(1932)に架けられた。 大きな球形がついた親柱は両国橋のシンボル。
 
1902020753130
 
1902020755081_stitch
 
1902020800200
 
・・・・・・・・・・・・・橋の東詰(墨田区両国)には、向島の俳諧師:宝井其角の弟子であった赤穂浪士の一人:大高源吾の句 「日の恩やたちまちくだく厚氷」の碑がある。 この句は討ち入りの夜、師匠宝井其角に両国橋で出会い詠んだものといわれている。、、、、道端で出会い、サッと句を詠むなんて、私にはできない。 カッコいいね!
 
1902020801300_2
 
・・・・・・・・・・・・・大高源吾の句碑の後ろには、大きな忠魂碑。 こちらは、明治37年・38年の戦役での戦病死者、すなわち日露戦争でご出征し、護国の為に身命を捧げられた英霊に、陸軍元帥大山巌筆による表忠碑。、、、、大きく、立派な碑だ。
 
1902020802030
 
 
 
●早く広げて!・・・・・・・・・両国橋を渡ると、ここから錦糸町の江東橋までは、京葉道路は4車線道路である。 現在、東京国道事務所では6車線に拡幅することが計画されている。 地元への説明会なども実施されているようだ。 高架として、混雑の緩和、安全の確保、緊急輸送道路の確保などが見込まれている。、、、、この都市計画が決定したのは、雅万歩の生まれる前の昭和21年(1946)3月だった。 70余年、経過した!
 
1902020810350
 
・・・・・・・・・・・・・京葉道路の歩道上(両国3)に、「本所松坂町址」の碑が建っている。 元来この辺りは、あの吉良邸があったところである。 関東大震災後の区画整理により町名が変更された。この碑は近世史上著名の地「松坂町」を偲んで、昭和7年に建立された。
 
1902020811500_2
 
・・・・・・・・・・・・・京葉道路の両側は建物も新しくなり、歴史を語るものは見あたらない。
 
1902020823080
 
1902020831261
 
1902020838250
 
 
 
●ここからは6車線!・・・・・・・・・・・・・ 江東橋は京葉道路(国道)に架かる橋で、この橋からは6車線となり幅(35m)も広く、橋の長さ(20.8m)に対し倍近くある。 明治31年(1898)創架で、現在の橋は平成8年(1996)に架け替えられた新しい橋だ。、、、、橋の下を流れる大横川は暗渠化され、現在はスカイツリーが眺められる大横川親水公園となっている。
 
1902020842380
 
1902020843510
 
1902020850080
 
1902020845200
 
・・・・・・・・・・・・・・6車線となった京葉道路。
 
1902020854040
 
・・・・・・・・・・・・・・江東橋の東詰に、明治34年(1901)創立の名門:都立両国高校がある。 作家:芥川龍之介の母校。、、、、両国高校の一画に、「国産マッチ発祥の地」と刻まれた 御影石の記念碑がある。 石川県金沢出身の 清水誠はフランス留学から帰国後、明治9年(1876)に, この地に「新燧社」を設立し、本格的にマッチの製造を始めた。 2年後には我が国始めての輸出が行われ、太平洋戦争前まで続いた。、、、、今は、マッチが使い捨てライターに変わり、チャッカマンに変わり、お目にかかることがまれとなった。
 
1902020858060
 
1902020854440
 
 
 
●IT化された! ・・・・・・・・錦糸町駅前のJRA。 チョックラ、朝の場外馬券売り場を覗いてみた。 競馬を止めて50年、馬券の買い方も変わり、面白そうだ! やってみたくなるね。
 
1902020906250
 
1902020909510
 
1902020909560
 
 
 
●工場が消えた! ・・・・・・・・・・・・錦糸町駅前から、亀戸へ向かう。、、、、この辺り、かつては鉄工場などが並ぶ工場地帯だった。 今や近代邸なビルとマンションが並び、世も変わった!
 
1902020921020
 
1902020924350
 
1902020939440
 
1902020944400
 
 
 
●時代ごとに変わる! ・・・・・・・・・・亀戸駅前を通り過ぎ、京葉道路の南側、昭和の時代には第二精工舎の工場があったところ。 平成になり、ショッピングセンター「サンストリート亀戸」に変わり。 次の時代は、25階建ての住居棟と6階建ての商業棟ができるそうだ。 (写真:左側の工事現場)
 
1902020959201_stitch_2
 
 
 
●今日のお帰りは? ・・・・・・・・・・・・亀戸駅の“勝手口”(正式には東口)から。
 
1902021003390
 
1902021011290

2019年2月 1日 (金)

九段の雅万歩

我が家(浅草橋)から、浅草橋交差点、須田町、神保町、九段坂と、靖国通りを歩き、市ヶ谷駅まで、1万2千歩の散歩です。
 
 
 
浅草橋から 九段まで かって知ったる この道を 杖にたよらず 一刻あまり 友よきたぞや 逢いにきた ・・・・・・・・この世に生を受け七十余年、生まれは浅草橋、育ちは神田、通学は靖国通り、大学はチョイト駿河台、勤めは九段上と、何かとお世話になり、ナンダカンダ・鼻かんだと思い出多い靖国通り 。、、、今日も、通り沿いの一軒一軒に思いを馳せ、歩いた。  
 
・・・・・・・・・・・・・我が家に近い浅草橋駅“裏口”(正式には西口と云う)
 
1902010739580
 
・・・・・・・・・・・・・靖国通りの起点:浅草橋交差点。 ホテルの隣りにホテルが建って、裏にもホテル。
 
1902010750000
 
・・・・・・・・・・・・12系統(新宿駅~両国駅前)、25系統(日比谷~西荒川)、29系統(須田町~葛西橋)の都電が走っていた靖国通り(浅草橋交差点付近)
 
1902010755380
 
・・・・・・・・・・・・・清洲橋通りと交差する東神田交差点。 40年程前まで、都電の「豊島町」停留所があり、私も通学時ここで乗り降りしたこともある。
 
1902010800250
 
・・・・・・・・・・・・・ここ岩本町交差点の角にあるビルに、一時、私の机があったこともある。
 
1902010809220
 
・・・・・・・・・・・・・新幹線・東京上野ライン・山手線・京浜東北線のガードをくぐり、中央線のガードもくぐる。、、、、、40年の間に2つのガードが増えた、変化する東京!
 
1902010816470
 
1902010828320
 
・・・・・・・・・・・・・須田町交差点。 写真中央のビルは、弘化3年(1846、江戸時代)創業、宮内庁御用達の果物屋(フルーツパーラー)「万惣」の跡地。、、、、、私も祖母と、よく果物を買いに行った店。 ついでに、フルーツポンチも!、、、、、甘い思い出。 
 
1902010834321_stitch_2
 
・・・・・・・・・・・・・淡路町交差点。 右横をはいると、「神田 志乃だ寿司」がある。 いまだに、おつかいで、稲荷ずしを買いに行かされる雅万歩。、、、移転前の「交通博物館」も、この横にあった。
 
1902010849560
 
・・・・・・・・・・・・・小川町交差点。 交差点から大手町方向に100m程の処に、YMCA本部のビルがあった。 地下のプールでは、フルチンで泳がされた。、、、、恥ずかしい思いで。
 
1902010853400
 
・・・・・・・・・・・・・・駿河台下交差点。 我が母校の校舎が見えるが、ここは文系のキャンパス。 私は理工系で、川崎のキャンパス学んだ。 でも、チョイト可愛い娘(松原智恵子?)に逢いたく、文系の数科目を受講していた。、、、、青いレモンの思い出。
 
1902010901150
 
・・・・・・・・・・・・神保町交差点。 水道橋方向に曲がると、エロ本(知る人ぞ知るH書店)がある。 雨上りに入店し、買ったばかりの高い傘を忘れてきた、後で気がついたが、恥ずかしくて問いかけることもできず。、、、、にがい思い出。
 
1902010910420
 
・・・・・・・・・・・・・九段下交差点。 サラリーマン時代、九段上から坂を下り、交差点裏の雀荘へ、度々負けた!、、、、、頭にきた思い出。 雀荘はなくなっている。
 
1902010925300
 
 
 
●空をつくよな 大鳥居 こんな立派な おやしろに 神とまつられ もったいなさよ 雅万歩は泣けます うれしさに ・・・・・・・・・靖国神社に着きました。 神妙に手を合わせる。
 
・・・・・・・・・・・・・高さ25m、日本一の大鳥居。 昭和49年(1974)、1億6000万円で建てられた。、、、、、鳥居は鋼管で造られているが、内部にコンクリートが充填されている。 
 
1902010934570
 
・・・・・・・・・・・・・・境内の中程には、大村益次郎の像が建っている。 明治26年(1883)に作られた、日本初の銅像。 上野戦争で司令官として彰義隊の立て籠もる上野寛永寺を見つめている姿で、大村と靖国神社の関係は、大村が東京招魂社の設立に熱心だったことによる。、、、、、私とこの像の関係は、社会人になって新人研修があり、近くの市ヶ谷ユースホステルに宿泊していた。 その夜、同期の仲間と飲酒し、翌朝叱責をくらい、この像の台座の上で正座をさせられた。、、、、脚の痛い思い出。
 
1902010936190
 
1902010937350
 
・・・・・・・・・・・・・第二鳥居と神門。 神門の内側に、東京の桜の開花を予測する標本木がある。 今年の開花も早そうだが、まだ蕾を見て予測するには早そうだ。
 
1902010940180
 
1902010941510
 
・・・・・・・・・・・・・・明治34年(1901)に建てられた拝殿、その後ろに明治5年(1872)に建てられた本殿がある。、、、、246万6千余柱の神霊が鎮まる。
 
1902010946150
 
1902010944460
 
 
 
●鳶が鷹の子 生んだよで 今じゃ果報が 身にあまる 泰緬鉄道が みたいばかりに 逢いにきたぞや 九段坂 ・・・・・・・・・靖国神社の境内にある、明治15年(1882)に開館した遊就館は、遺品などを収蔵、展示する施設である。 館内には、靖國神社に鎮まる英霊の遺書や遺品をはじめ、英霊のまごころやその事蹟を今に伝える貴重な史・資料が展示されている。 今日は拝観せずに、ショップで軍歌を収めたCDをチョイト見てきた。
 
・・・・・・・・・・・・・遊就館は、陸軍省経理局建築課 (陸軍技師内藤太郎・柳井平八、顧問伊東忠太) の設計、銭高組の施工で、昭和6年(1931)に竣工した。 戦後は一時、本社の建物をGHQにより接収された富国徴兵保険相互会社(現:富国生命)に、貸し出していた。 その後、昭和61年(1986)に遊就館再開となる。
 
1902010947260
 
1902010957590
 
・・・・・・・・・・・・・ついでに、遊就館入口ロビーに展示している、C56-31機関車(泰緬鉄道として活躍)は、戦時中、泰緬鉄道の開通式に参加した機関車である。、、、、、昭和11年(1936)に日本車輛製造(株)で製作され、戦時中タイで活躍し、昭和52年(1977)に引退した。 引退後、泰緬鉄道を建設に関係した南方軍野戦鉄道隊関係者が拠金してタイから譲り受け、神社に奉納された。
 
1902010948180
 
 
 
●・・・・・・・・・・・・・お帰りは市ヶ谷駅から。
 
1902011015160
 
1902011019250

2019年1月30日 (水)

東京だョおっ母さん

我が家(浅草橋)から江戸通りを南に歩き、日本銀行前に出ると、新旧の常盤橋が三橋ある。 この常盤橋を見て、大手町から皇居前に出て、東京駅まで、1万3千歩の散歩です。
 
 
 
●お勤め御苦労さま!・・・・・・・・・浅草橋、馬喰町、小伝馬町、室町と、江戸通りを歩き、外堀通りと交わる新常盤橋交差点に出る。、、、、時刻は9時前、マフラーとマスクで顔を隠した人が、私を追い越していく。  あせるな いそぐな たまには遅刻で リフレッシュ、、、、、我が家から新常盤橋まで、ブラブラ歩いて50分也。 
 
1901300744330
 
1901300751330
 
1901300756240
 
1901300810470
 
1901300817420
 
1901300826270
 
1901300827440
 
1901300833510
 
1901300851060
 
 
 
●石と皿の“ときわばし”・・・・・・・・・・・日本銀行の西側を流れる日本橋川。 そこに、上流側から、新常盤橋、常磐橋、常盤橋と、「ときわばし」が3橋並んで架かっている。 3橋は千代田区大手町と中央区日本橋本石町を結んでいる。、、、、写真は、免震化工事中の日本銀行本店本館。
 
1901300908430
 
・・・・・・・・・・・・まずは、「新常盤橋」、、、、、この橋は、大正9年(1920)の市電(戦後は三輪橋~都庁前の31系統路線)開通に合わせ、現在の江戸通りの延長線上にに架けられた橋である。 コンクリート造の三連アーチ橋であった。、、、、昭和63年、東北新幹線高架工事に伴い、現橋に架け替えられた。、、、、隣りに新幹線の高架橋、頭上に首都高都心環状線が架かり、橋の全容が見えにくい。
 
1901300902550_2
 
1901300900210_2
 
1901300854340_2
 
・・・・・・・・・・・・・・次は、“元祖ときわばし”であるが、残念ながら落橋の危機にさらされ、只今文化財として修復工事中。 その為、近くに立ち入ることもできない。、、、、ところで、この「ときわばし」は、“盤”と“磐”の違いで、「常磐橋」と書く。、、、、初代は、常磐橋御門の見附橋として、天正18年(1590)の架橋と言われている。、、、、現在の橋は明治10年(1877)に架けられた、石造のアーチ橋である。 多数の肥後(熊本)の石工が集められ、橋の架設に当たったと言われている。、、、、、国指定の文化財で、修復工事は基礎部分から全面的にやり直されていたが、途中で東日本大震災があり、工事中の橋も被災し、工期は大幅に延長されている。 
 
1901300909360
 
・・・・・・・・・・・・・・以下の写真は、7年前、工事着手直前の常磐橋。 全景と親柱
 
2012_0527_0928041
 
2012_0221_092133
 
_20101116_083910
 
・・・・・・・・・・・・・・最後は「常盤橋」である。 上流の「常磐橋」は古くて小さな石橋で、かつ歴史的に貴重な橋であったため、昭和元年(1926)に、主要幹線の橋として隣りに新しい橋を架けた。 これが“磐”を“盤”に変えた「常盤橋」である。、、、、橋のデザインは常磐橋を模した、2連のアーチ橋(不等間隔)として造られた。、、、親柱の隣りにラーメン屋の屋台があった、お品書きは新しそうだ、するとこれは?
 
1901300922190
 
1901300918010
 
1901300909170
 
 
 
●ビルの名も判らない田舎者となった・・・・・・・大手町界隈の再開発ビル群を抜ける。、、、、どのビルも。現代的でカッコイイが、個性の薄れた、不動産屋の安直ビルに思える。 
 
1901300926390
 
1901300927260
 
1901300929020
 
1901300938130
 
1901300939211
 
1901300945070
 
1901300946290
 
 
 
●おっ母さん ここが ここが 二重橋 記念の写真を とりましょね・・・・・・・・・・・必ず記念撮影する皇居正門石橋(二重橋はこの奥にある)、その脇に、懐かしい交番「祝田町見張所」がある。石橋のできた、明治21年(1888)前後にこの交番も造られたようだ。、、、、皇居前広場から農協の団体が消え、修学旅行の学生も消え、はとバスの団体が細々、残るは東南アジアを中心とした外人さん。 時代も変わったね!
 
1901301006010
 
1901301008530
 
・・・・・・・・・・・・・皇居前から見た丸ノ内
 
1901301001291_stitch_2
 
 
 
●おっ母さん ここが ここが 東京駅 記念に写真を とりましょね・・・・・・・・・・・東京駅に赤帽がいた頃が懐かしく思われるのは、年とった証拠かな?
 
1901301026431_stitch_2

2019年1月29日 (火)

浅草橋はどっちの区

今日も北風が吹く寒い日である。 寒さに負けじと散歩に出るか?、暖かい我が家でゴロゴロするか?、、、、悩みに悩み、とりあえず、遠い処に出て行きたくないので、『浅草橋まで散歩しよう』と、浅草橋の我が家を出た。 「浅草橋」を渡り、「浅草橋交差点」でウロチョロしていたら、中国人か韓国人か、可愛い娘がキャリーバックを引いて浅草方向に歩いて行く。 その後ろ姿を見送り、『ヨシ、俺も男だ! 今日は浅草まで歩こう!』、、、、と、云うことで、江戸通りを浅草まで歩いてきた。 1万歩
 
 
 
●元祖:浅草橋とは?・・・・・・・・・・元祖「浅草橋 」は、外堀(神田川)に架かる橋で、台東区浅草橋・柳橋と中央区東日本橋・日本橋馬喰町を結ぶ。 旧江戸郭内の日本橋から浅草・吉原に通じる橋で、かつては浅草見附があった。 橋の北詰に「浅草見附跡」の碑がある。、、、、、浅草橋は江戸36見附の一つ、浅草橋御門として寛永年間に架けられた。 現在の橋は、昭和5(1930)年1月に開通。 
 
1901290817520
 
1901290753520
 
 
 
●“浅草橋”をめぐる、台東区と中央区の三角関係(?)相関図・・・・・・・・・・・・・・・
 
Photo_2
 
 
 
●台東区の“浅草橋”・・・・・・・・・・総武線の浅草橋駅は、昭和7年(1932)の開業当初から「浅草橋」を名乗り、都営浅草線の浅草橋駅も昭和40年(1965)開業時からの駅名である。 さらに、昭和7年(1932)に完成した、総武線のガードは「浅草橋架道橋」である。、、、、しかし、現町名で「台東区浅草橋」を名乗る町は、かつて(住居表示が変わる以前)「浅草〇〇町」と称していた。 雅万歩も出生地は「浅草區浅草新福井町」で“浅草橋”とはなっていない。 さらに、江戸通りを走る都電の駅前の停留場は「浅草橋駅前」であった。
 
1901290826400
 
1901290828070
 
1901290824210
 
1901290825020
 
 
 
●中央区の“浅草橋”・・・・・・・・・・中央区にある交通の要所:「浅草橋交差点」。 ここは、「江戸通り」が南北に走り、「靖国通りが」西に向かい、「京葉道路」が東に向かい、「清杉通り」が南に向かう、幹線道路の五叉路である。 間違いなく昔から“浅草橋”を名乗っていた。、、、、明治30年代に開通した市電では、浅草橋交差点内の停留場名は当初から「浅草橋」である。 市電が都電と変わっても、「浅草橋」停留場名は昭和40年代の廃線まで続いた。(現在は、交差点付近のバス停名として「浅草橋」を使用中)、、、、昭和4年(1929)に浅草橋交差点付近の道路拡張工事の写真が土木学会に保管されている、そこにも“浅草橋付近”と加筆されている。、、、昭和60年頃造られた、交差点の地下道名は「浅草橋交差点横断地下歩道」である。、、、、中央区では、交差点名以外では“浅草橋”を使用していないようだ。
 
1901290811371_stitch
 
1901290803310
 
 
 
●“浅草橋”はどっちのもの?・・・・・・・・・・・・・・“浅草橋”の使用実績からみると、中央区の方が早かったようだ。 しかし現状は、地名、駅名とも台東区で使用中。 コリャ、難しい判定で、両区の引き分けとする。 何が何だか判らんが、メデタシ・メデタシ???
 
 
 
●雨に濡れず冬は暖かく寝心地は良い・・・・・・・・・・さて、浅草橋交差点横断地下歩道について、もう少し書くと、、、、、交差点角から階段を下りて地下道に達すると、ナント「国土交通省」と書いた三角コーンがズラリ並んでお出迎え! 知らない人は『工事で並べたのかな?』 所々に段ボールが置かれている。、、、もう、お判りですね、豆助!、、、、段ボールはホームレスの寝室。 コーンはホームレスの占領を避けるために置かれたもの。 30年ぐらい前は、ズラリ並んだ段ボールで通るのが怖いぐらいだった。 今は、ほんのチョイト改善し、寝泊まりする人も少ない。
 
1901290805110
 
1901290806340
 
1901290806280
 
・・・・・・・・・・・・・・もう一言、、、、、地下道の入口には何も書かれていないのだが、この地下道はJR総武快速線の馬喰町駅に直結しているのだ。 さらには、都営新宿線の馬喰横山駅にもつながっている。 さらにさらに、もう少し地下道を歩くと都営浅草線の東日本橋駅に到達する。、、、、不親切にも、このことは地下道入口にシッカリと明示されていない!(地図上ではつながっているが)、、、、我が家では、子供が幼い頃、雨が降って外で遊べないときには、この地下道で走り回らせた思いでがある。
 
1901290807540
 
 
 
●老舗も多い江戸通り・・・・・・・・・・・地下道から我が家へ戻るかと、浅草橋を渡り、駅前付近に来ると、外人観光客(主に東南アジア系)が目立つ。 特に最近、浅草橋はリーズナブルなビジネスホテルの建設ラッシュで、ホテルの前にホテル、ホテルの隣りにホテル。、、、、皆さん、浅草・銀座・新宿・上野を目指し駅に向かうようだ。 浅草橋はこれらの繁華街に20分で行ける、便利な処!、、、、可愛い娘もいる、つい道を教えてあげたくなるけど、誰も聞いてくれない。、、、、今日の寒さの中、浅草に行く娘もいた。 私もつられて、江戸通りを浅草まで歩いてきた。
 
1901290822340
 
1901290830330
 
1901290902050
 
1901290912060
 
1901290906120
 
1901290915550
 
1901290916540
 
1901290945060_2

より以前の記事一覧