日本橋
“年寄の年末は暇だろう!”と思っていたが、今年の年末は医者通いが多く結構忙しい。 12月に入り、循環器内科、心臓血管外科、泌尿器科、耳鼻科のいずれもが、日時指定の検査があり寒くても雨が降っても医者通いさせられた。(さらに合間をぬって、腰痛でリハビリ通い。) これだけ検査したら少なくとも一人の医師ぐらいは、“重症です、手遅れです、余命〇〇日です”と言ってくれてもいいだろう。 どの医者も『検査結果は異状なし、このまま健康を維持してください』と言い、帰りには手土産に大量の薬を処方してくれた。 中には、処方された薬の種類も多く、私が間違えて飲まないように、親切に“一包化”と記した処方箋もある。
今日は妻のお供でデパートへ“御年賀”の品物を買いに行ってきた。 買う物を買ったら『ハイ! お別れ、先に帰って、私はもう少し買い物をしてから帰るから。 ア~~チョイト! これ持って帰って!』と紙袋を手渡され一人デパートを出る。 久しぶりに日本橋に来たので、帰りに“お江戸日本橋”の日本橋を見て帰る。
● 妻と別れたデパートは、高島屋日本橋店。 年末の書き入れ時、1階には大きなクリスマスツリーを飾り客集め。 ジュエリー売場は、クリスマスプレゼントを買う人の行列ができてた。、、、、、 高島屋の創業は江戸時代末期、時を経て日本橋に全館冷暖房装置を備えた店舗を構えたのは昭和8年(1933)のこと。 当時の建物の名称は日本生命館。 日本生命が建設し高島屋が借り受け、一部を日本生命東京総局が事務所として使用していた。 昭和38年(1963)に日本生命が建物から転出した。 戦後復興から高度経済成長期に、建物のデザインを従来の建物のデザインに合わせた増築、改築を繰り返し、昭和40年(1965)には1街区を占める店舗となった。 時が経ち平成21年(2009)、高島屋日本橋店は、百貨店建築初、国の重要文化財に指定された。、、、、、 建物は、中央通りに面したエントランスから続く、1階と2階2層分の大理石の柱が並ぶ吹き抜け。シャンデリアは、戦時中の金属類回収令により供出したため、現在は村野藤吾がデザインしたものになっていますが、創建時同様の豪華な輝きをはなつ。 竣工は昭和8年(1933) 設計は片岡安・高橋貞太郎・前田健二郎 施工は大林組 鉄骨鉄筋コンクリート造8階建て、地下2階。 昭和27年(1952)の増改築は村野藤吾(1891~1984)が担当。、、、、、髙島屋日本橋店は、西欧の歴史様式に日本的な要素を加味した重厚で、繊細なデザインと、近代建築の手法を駆使した村野の設計による増築部分からなり、見ごたえある建物である。


● 頭上を走る首都高を地下(日本橋川の川底)に移し、青空の下で日本橋の姿を見ることができるようにと、首都高の地下化工事が着手された。 日本橋の頭上から首都高の高架橋が撤去され、工事か完了するのは2040年度と予定されている。 その頃、私は90歳を超え青空の中から日本橋を見下ろしているかも(?) 今日は、とりあえず日本橋の姿を目に焼き付けておくことにした。、、、、、中央区の日本橋川に架かる日本橋は明治44年(1911)完成の石造2連アーチ橋。 米元晋一が設計し、妻木頼黄が装飾を担当した。橋長49m、橋幅28m、アーチ径間が21m。 壁石は「切石積み」であり、翼壁上に湾曲形の「袖壁」をめぐらせている。 装飾用材は全て青銅で、橋の中央及び橋台部の4隅に「花形ランプ付方錘柱」を建て、各柱座に麒麟の像を配置している。 ルネッサンス式橋梁の本体に和漢洋折衷の装飾が調和している。 平成11年(1999)には、技術的にも意匠的に優れた明治期を代表する石造アーチ道路橋であることが評価され、国の重要文化財に指定された。 







・・・・・・・・・・ 橋の中央ド真ん中に、国道1号・20号・4号・6号・14号の起点となる道路元標が埋め込まれている。(車道の中央で、死を覚悟しないと見に行けない!) 日本橋北詰「元標の広場」には、その道路元標の複製があり、若いカップル、親子が立ち止まって、話題は『自分の家までここから何キロ?』 「東京市道路元標」の役割を担った物体は、道路元標としてだけでなく同時に東京都電の本通線の架線の柱としても利用されていたが、昭和47年(1972)に道路改修を行った際に「元標の広場」が造られそこに移設され、柱状の元標が撤去された跡には、代わりに(金属プレート製の)「日本国道路元標」が埋め込まれた。、、、、、日本橋は江戸時代から東海道の基点とされていた。 明治6年(1873)、明治政府は各府県ごとに「里程元標」を設けることを定めた。 明治44年(1911)、政府は当時の道路法施行令に基づいて、日本橋の架橋工事を行った際に橋の中央に「東京市道路元標」を設置した。 大正8年(1919)に制定された旧道路法でも「東京市道路元標」の位置は日本橋の中央と定められていた。 さらに、大正9年の道路法にもとづいて認定された「国道の一覧」という文書でも「国道の起点は日本橋」とされている。

・・・・・・・・・・ 道路元標のある「元標の広場」の向かい側に「日本橋魚河岸跡」の碑がある。、、、、、徳川家康が江戸に入府した後、摂津から漁民が佃島に移り住み、江戸近辺で漁業を営む許しを得て、徳川家に魚介類を献上した。 日々上納する鮮魚の残りを舟板の上で並べて一般に販売するようになり、これが日本橋魚河岸の始まりとなった。 大正12年(1923)の関東大震災で被災するまで、日本橋の東側河岸に「魚河岸」があったが、その後は築地に移った。、、、、、日本橋も、夏場はさぞ臭かったことであろう。
● 三越前から宝町・本町・小伝馬町を歩き浅草橋へ帰る。
















































































































































































































