中央区

2022年7月21日 (木)

冷やし中華の発祥地

九段下から靖国通り沿いに歩き浅草橋(我が家)まで、1万歩の散歩です。



● 浅草橋駅から都営浅草線に乗り次の東日本橋駅(=馬喰横山駅)で乗り換え、都営新宿線の九段下駅で下車する。 今日の散歩は「九段下駅」からスタートする。、、、、、九段下駅は、東京メトロ東西線・半蔵門線、都営地下鉄新宿線の駅である。 駅名はその名のごとく九段坂の坂下に位置することに由来する。 昭和40年代頃までは、須田町方面と渋谷方面を結ぶ都電が走っており、30年代には私も通学に利用していた、懐かしの路線。、、、、地下鉄の開通は、昭和39年(1964)12月23日の東京メトロ東西線開通、昭和55年(1980)3月16日の都営新宿線、平成元年(1989)1月26日の東京メトロ半蔵門線が、順次開通した。 ホームは地下2階に相対式2面2線の東西線ホームがある、地下4階には半蔵門線と新宿線のホームが相対式2面2線の間に島式1面2線の構造で配されている。、、、、昭和47年(1972)、私が勤めるゼネコンが九段下駅~市ヶ谷駅間のシールドトンネル工事を施工しており、当時新人の私は、研修で九段下から工事現場に入らされた。 生まれて初めて、恐る恐る、ワクワク・ドキドキ、トンネルの工事現場に入った思い出ある地。

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・・・・・・・・・・・・ 地上に出ると、普段であれば『東西南北どちらに向かう?』と悩むのであるが、今日は、熱中症が心配なので寄り道せずに、靖国通り沿いに浅草橋(我が家まで)まで歩くことにする。、、、、九段下駅を出て、チョイト横丁に入ると、懐かしい構えの住宅(千代田区九段南1)があった。 2階の丸窓、最高!

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● 九段下から神保町に向かうと、まず首都高の下、日本橋川に「爼橋」が架かっている。 橋名の「爼橋(まないたばし)」は難読だ。 名前の由来は、橋が2枚の爼(まないた)を渡したような板橋であったことによるとする説と、近くに存在した台所町との関連で名付けられたとする説がある。、、、、最初の爼橋は江戸時代初期に架けられたそうだ。 関東大震災後は、大正通り(=靖国通り)の拡幅に合わせ、昭和4年(1929)に爼橋も長さ25.6m、幅42.0mの鉄筋コンクリートのアーチ橋に架け替えられた。 昭和42年(1967)上部に首都高が建設され、さらにその後、地下には地下鉄が建設されたのに伴い、昭和58年(1983)に現在の鋼桁橋に架け替えられた。

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● 専大前交差点から駿河台下交差点までは、靖国通りの南側に平行する「さくら通り」・「すずらん通り」を歩く。

・・・・・・・・・・・・ 専大(=専修大学)前交差点の南側「さくら通り」入口前にある、うなぎ専門店「今荘」 玄関は角地を切り欠いて設けられ、正面には唐破風、その上の2階には丸窓、最上部は神社のような破風がある、遊郭のような建物。 昭和初期(昭和8年らしい)の建築。、、、、建物もいいが、蒲焼もいいね!

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・・・・・・・・・・・・ さくら通りの神保町側入り口脇に、社会鍋でおなじみの「救世軍日本本営」の建物がある。 以前の建物は、現在と同じ場所に4階建て(?)の中世のヨーロッパの城のような雰囲気の建物だった。 当時中学生であった私にとっては、軍服を着た人が出入りする建物なので、チョイト怖そうで近寄りがたかった。

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・・・・・・・・・・・・ 白山通りを横断し、すずらん通りに入ると「揚子江菜館」がある。、、、、神保町交差点を中心に、さくら通り・すずらん通り界隈は、明治・大正期から華人が住み中華料理店を営み“中華街”であった。 現在でも約30店の中華料理屋が点在する。 その内の1店が揚子江菜館だ。、、、、夏になると、ここが発祥の店と言われている「冷やし中華」を食べに行く。 今年は、先週末に家族で食べてきた。 旨い!

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・・・・・・・・・・・・ すずらん通りの駿河台下側の入口には、「文房堂(ぶんぽうどう)」がある。、、、、明治20年(1887)神田小川町に創業。 日本で初めて大学ノート、便箋、五線譜などの文房具を製造発売した。 現在は画材関係の店として有名だ! 現在の建物は大正11年(1922)に完成した名建築。

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● 駿河台下からは靖国通りを歩き浅草橋へ・・・・・そろそろ暑くなってきた、熱中症の予防に「ソルティライチ」を飲みながら歩く。 小川町、岩本町を過ぎると浅草橋の交差点。

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浅草橋駅高架下のPCR検査場、予約なし・無料にもかかわらず、いままで閑古鳥が鳴いていたが、今日は行列ができていた。 東京都の感染者3万人超となれば、怖くなったのか!

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2022年5月 5日 (木)

GWの第一京浜

ゴールデンウィークは東京で静かに過ごすつもりだが、昨日のニュースでは都内各所で最高の人出となったそうだ。 今日も五月晴れで、チョッピリ歩いてみたくなり、我が家(浅草橋)から日本橋・銀座・新橋をとおり泉岳寺まで歩いてきた。 1万9千歩の散歩



● 朝7時、『人っ子一人歩いていない』と言いたいが、一人だけ歩く人がいた浅草橋駅前から散歩をスタート。 駅前の国道6号(江戸通り)を日本橋に向かって歩く

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● ゴールデンウィークの真っただ中、人も車も少ない馬喰町の問屋街や日本橋本町のビジネス街、まだ店開きには早すぎる時刻(7時半)に日本橋三越前を通過。 

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・・・・・・・・・・・・今日は『こどもの日』、チョイト前までは『端午の節句』、いずれにしても国民の祝日。 「三越デパート」の玄関先には大きな日の丸が掲げられていた。 昭和の時代頃までは、国民の祝日に一般家庭でも玄関先に国旗を掲揚し祝ったものだが、今の時代は国旗を掲げる家は少なくなった。(我が家もその仲間)、、、、三越の日の丸を見て感動!

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● お江戸の中心「日本橋」に到着。 チョイト「道路元標」を見て行くことにした。 丸いプレート状の本物は橋の中央に嵌め込まれてる(車道中央で写真を撮るには死を覚悟)、複製は橋のたもとにある。 日本橋の頭上を走る首都高にも道路元標がある!

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● 日本橋の「高島屋」では、玄関に国旗の掲揚をしていない。 デパート近くの「日本橋三丁目八日通り」では、街路灯に国旗がなびいてる。 いいね!

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● 時刻は8時、銀座一丁目から八丁目まで営業中の店は無く、キョロキョロすることもなく通過。、、、、資生堂の横の「花椿通り」でも国旗が掲げられていた!、、、、日の丸ではなく旭日旗にすると、韓国人は銀座に来ないかも?

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● 新橋から大門交差点・三田駅前と国道15号(第一京浜)を歩く。 時刻は9時、行き交う車は少なく『ゴールデンウィークだから』と感じる。 

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・・・・・・・・・・・・途中、金杉橋際の「浜松町交番」でも日の丸が出ていた。、、、、連日「ウクライナ侵攻」のニュースを見ていると、国旗への思いが深まり、今まで以上に国旗に敬意を示したいものだ! 

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● 都営浅草線泉岳寺駅の北端に「高輪大木戸跡」がある。 宝永7年(1710)、東海道から江戸府内の入口として、また南の出入口として設けられた大木戸の跡である。 東海道から江戸府内に出入りする人・物を管理するため、道の左右に土塁を設け、その間に柵と門が造られた管理用のゲートである。 その土塁の片側が残されている。

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・・・・・・・・・・・・この土塁の石垣に「几号水準点」がある。 几号水準点は車道側の石垣にあり、チョイと危険なので、見るには勇気がいる。、、、、付近には、清正公山門前西光寺などに几号水準点が残っている

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・・・・・・・・・・・・大木戸跡から高輪ゲートウェイ駅側に10m程行くと、駅前再開発用地を囲むフェンスが目に入る。 その中では、明治5年(1872)にわが国初の鉄道が開業した際に、高輪付近の海上に線路を敷設するために築かれた「高輪築堤」の発掘現場がある。 チョイト、フェンスの隙間からその現場を覗いてきた。 

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● 都営浅草線の「泉岳寺駅」は、昭和43年(1968)6月21日に開業した。 JRの高輪ゲートウェイ駅とは至近で、駅前再開発の最寄り駅となる。 現在はホーム幅の狭い2面4線の地下駅であるが、ホーム幅を大きく広げ、地下コンコースも設ける大改良工事が始まった。

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2021年10月16日 (土)

べったら市は中止

今日は、愛機(カメラ)が壊れ修理中、古いデジカメを持ち出し散歩に出た。 曇り空の中、浅草橋から東京駅方向に歩き始めたが、途中、日本橋三越付近にて雨となり、散歩はココまで! 6千歩。 




● 我が家の氏神さま銀杏岡八幡神社に朝のご挨拶にお立ち寄り。 神社は浅草橋駅の裏にある、知る人は『人形の久月』と江戸通りを挟み反対側、知らない人は『自分で探せ』、、、、銀杏岡八幡神社の由緒では、創建は源頼義・義家の奥州征伐にはじまり、江戸時代には松平家の邸内社となり、享保10年(1725)公収され町内(福井町、=雅万歩の出生地で現在は台東区浅草橋)の産土神となった。

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浅草橋駅(台東区)前をとおり、浅草橋(台東区と中央区の境、神田川に架かる)を渡り、浅草橋交差点(中央区)に出る。

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・・・・・・・・・・・・浅草橋交差点から江戸通りに平行する横山町の問屋街を抜ける。、、、、まだ8時前、どこの店も開いてない、静かな問屋街を歩く。、、、、江戸通りの両側は、衣料品の問屋が並ぶ横山町・馬喰町。 ところで「横山町」の由来は? 町名から察するところ、昔、『村の横に山があった』、『村から横長の山が見えた』などがもっともらしく思えるが、この辺りは扇状地で堆積地、山なんて無かった! 名の由来は、『横山さんが住んでいた』、これが正解。 北条家が支配していた頃、知行していたのが横山氏で、それにちなむ村名(町名)と考えられている。 江戸時代になると、馬喰町・横山町は地方から江戸に来る商人の為の旅籠として栄え、一大旅館街となる。 さらに町は商人の利便のため、呉服・瀬戸物・紙・小間物・塗物・荒物などなどの問屋が集中した。 明治末期あたりから旅館街は廃れはじめ、問屋街は隆盛し現在に至っている。

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● 大伝馬町の裏通りに「宝田恵比寿神社」がある。 社殿は小さな神社だが、毎年10月19日・20日は神社の周辺で開かれる「べったら市」は有名。、、、、江戸時代の中頃から、宝田恵比寿神社の門前で10月20日の夷講にお供えするため、前日の19日に市が立ち、魚や野菜、小宮(神棚)などが売られたのが始まり。 糀をべったりつけた浅漬け大根がよく売れたので「べったら市」と呼ばれているとのこと!、、、、でも、今年はコロナの為、中止と決定したようだ、残念!

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「江戸通り」と「昭和通り」が交差する「本町三丁目交差点、、、、ここまでは、曇り空の下を歩いてきたが、交差点を過ぎると、しっとり濡れてきた。

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● 昭和通りから日本橋三越に向かうと、雨粒が大きくなってきた。 “しっとり”から“びっしょり”に変わった! 「COREDO室町」の裏の「日本橋福徳神社」で雨宿りを期待したが、やすむ場所なし、残念!、、、、福徳神社の創建年代は不詳だが、貞観年間(清和夫皇・859~876)には鎮座していたといわれている。 福徳村と称されていた村の村名から社名を福徳神社と称したといい、源義家・太田道灌など武将からの尊崇も篤く、徳川家康・秀忠も参詣に訪れたそうだ。 明治7年(1874)村社に列格した。 主祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、、、、平成18年(2006)日本橋室町の再開発による建て替えに伴い、4度の遷座を行い。 平成26年(2014)に現在の新社殿が竣工した。 新しく綺麗な神社だが、チョイト雨宿りできる休憩スペースが備えられているとGood! そこでお茶のサービスがあると、なおよろし!

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● 雨は止みそうにない、三越前からバスで帰ることにした。、、、、時刻は8時半、しばらくライオン像の脇でバスを待つ、寂しいね!

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2021年5月31日 (月)

都内最東端の駅

緊急事態宣言下の東京、道行く人の気も大いに緩み、昨日の繁華街の人出は直前4週間の土日平均と比べ、20%増、40%増、60%増とどこもかしこも大幅増! 渋谷スクランブル交差点では86%増!!、、、、高齢者の私も気は緩む、しかし、多少コロナの怖さもある。 今日の散歩は人混みを避け、都営新宿線の篠崎駅(江戸川区)から西に向かい、新中川に架かる鹿骨新橋を渡った江戸川区松本まで歩いた。 9千歩




● 浅草橋駅から都営浅草線に乗り、隣の「東日本橋駅」にて都営新宿線(=駅名は馬喰横山駅)に乗り換える。 多くの通勤通学客の流に逆らって地下道を歩き、電車はすいている本八幡行きに乗る。、、、、「馬喰横山駅」(ばくろよこやまえき)は、中央区日本橋横山町にある、都営地下鉄新宿線の駅である。 連絡通路を経由して、都営浅草線(東日本橋駅)、総武快速線(馬喰町駅)に乗り換えができる。 昭和53年(1978)12月21日に開業。 相対式ホーム2面2線の地下駅。 改札口は地下1階(都営の東日本橋駅に連絡)と地下3階(JRの馬喰町駅に連絡)、ホームは地下2階にある。 3線の地下道が三角形を形どるように地下で連絡している。、、、、昔、娘が幼いとき、冬の寒い日は浅草橋交差点から地下道に入り、JR馬喰町駅、新宿線馬喰横山駅、浅草線東日本橋駅と地下道で巡り、再び浅草橋交差点まで戻り、子供を遊ばせた記憶が残っている。

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篠崎駅で降りる、、、、、馬喰横山から一駅ごとに客は降り、 ガラガラ・スキスキの電車は『コロナ感染、心配ご無用!

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・・・・・・・・・・・・何処といって行く宛のない散歩、終点の本八幡駅の一駅手前「篠崎駅」で下車することにした。、、、、篠崎駅は駅ビルの地下に造られた島式ホーム1面2線の地下駅。 昭和61年(1986)9月14日、船堀~当駅間の延伸に伴い開業。、、、、朝の通勤時間帯、降りる人は少なく、乗る人は多い。、、、、東隣の本八幡駅は千葉県市川市にある、ここ篠崎駅は都内最東端の駅だ!

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● 駅から西へブラブラ歩きはじめる、、、、チョイト古そうだが、こんな標語を見つけた。 『つくろうよ きれいな町と 明るい家庭

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・・・・・・・・・・・・町は汚れているのか? 暗い家庭が多いのか?、、、、きれいな町です、十分です! かつてのドブ川は親水公園に変わり、コイも泳いで恋してる!、、、、家庭の中は判らないが、暗いイメージはなさそうだ。 どこの家にも電灯がある(???)

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・・・・・・・・・・・・駅の西側から北側にかけて、都立の篠崎公園が広がっている。 西側部分は今後も公園として拡張・整備が予定されているようで、住宅地の間に取得用地がある。 これから、公園はもっと大きく成長し、町も美しくなるであろう。 

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● 篠崎公園・柴又街道を横切ると、江戸川区鹿骨(ししぼね)の町。 “鹿骨”は鹿骨1丁目から鹿骨5丁目までと鹿骨町の6地区で、江戸川区の中央から北寄りに位置する。 園芸農家が多く、花と緑の町。

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・・・・・・・・・・・・地名“鹿骨”の由来となった「鹿見塚神社」が鹿骨3丁目にある。、、、、奈良時代(8世紀)、藤原氏によって奈良の春日大社の創建に際し、常陸の鹿島神宮から分霊されたが、その際に多くの神鹿を引き連れておよそ1年かけて奈良まで行ったと言い伝えられており、その途中、鹿が死んだため鹿見塚神社の地に葬った。 これが「鹿骨」の地名の由来とされる。

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新中川に架かる「鹿骨新橋」を渡る、、、、鹿骨新橋は、新中川に架かる橋のひとつで、東岸の江戸川区鹿骨と西岸の江戸川区松本を結ぶ。 平成7年(1995)に道路の築造と共に新設架橋された。 橋長 119.3m、幅員 18.0mの3径間連続非合成箱桁橋。 16億4千万円の工事費にて完成した、橋の上には子供の像があるモダンな橋。

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● 鹿骨新橋を渡ると環七通りに出る、その手前の「鹿本橋バス停」には行列ができていた。 ちょうどバスが来た新小岩駅行きだ、ラッキー!

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2021年5月29日 (土)

23区内最小の客数

予約しました 待つ日が長い 早く刺してよ 長い針、、、、まだワクチン接種していないので、不要不急の外出避けて、チョイト内緒で散歩する。

土曜の今日は電車もすいてるので、都営浅草線宝町駅から八丁堀、中央大橋(隅田川)、佃島、相生橋(隅田川)、東京海洋大学をとおり、JR京葉線越中島駅まで歩いてきた。 1万1千歩




● 前は東銀座、後ろは日本橋、中に挟まる「宝町駅」。 オフィス街の駅だが、今日は土曜日で、さらに在宅勤務もあり、乗降する人は少ない。、、、、改札から地上に出るまで、100段くらいありそうな真直ぐな階段を上る、息はゼイゼイ、辛い!!

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鍛冶橋通りを八丁堀へ向かう。

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・・・・・・・・・・・・頭上にも足下にも首都高、首都高に上下を挟まれた「弾正橋(だんじょう ばし)」。、、、、橋名の由来は、ここに江戸町奉行:島田弾正の屋敷があったことによる。、、、、明治時代まで、弾正橋は木橋であった。 明治11年(1878)、弾正橋は鉄橋に架け替えられることになった。 それが、我が国初の国産鉄骨橋梁で、当時の工部省赤羽製作所が製作した、全長 15.2m、全幅 3.0m の小さなトラス鉄橋であった。 しかし、これが日本の近代工業化の始まりを告げる橋となった。 その鉄橋は、深川富岡八幡宮の東側の遊歩道に、八幡橋と名を変え現存する。、、、、現在の弾正橋は、大正15年(1926)に鍛冶橋通りの拡幅開通に伴って架設された。

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・・・・・・・・・・・・中央区八丁堀の桜橋交差点角に立つビル(現在は小諸そば店)。 昭和5年(1930)の建築。 さりげなく静かに残っているという感じのシンプルなビル。 戦前は「櫻橋ビル」、戦後は「石井電気店」であった。

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・・・・・・・・・・・・こちらは、八丁堀3丁目に残る関東大震災の復興小学校である「旧東京市京華尋常小学校」。(ちなみに、雅万歩が卒業した「京華中学・高等学校」(文京区)とは無縁)、、、、曲面構造が印象的な建物で、昭和4年(1929)完成、設計は東京市、施工は銭高組。 現在は、「京華スクエア」として、早稲田大学の社会人学校になっている。、、、、捕物帖に登場する八丁堀の与力・同心が住んでいたのはこのあたりである。

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● 地名となった「八丁堀」は何処にある?、、、、残念ながら、昭和の時代(60年頃)に八丁堀と称していた桜川が全て埋め立てられ、その堀跡の一部は「桜川公園」となった。 公園に立つと、若干、周囲の道路面より低く、『ここに堀があったのだ!』と偲ばれる。

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・・・・・・・・・・・・桜川公園の片隅に「入一観音菩薩・入一地蔵菩薩」がある、、、、“入一”とは、現地名の“入船一丁目”の略であろう。 三体の内のどれかは不明だが、この内の一体は、ここにあった桜川を埋め立てた際に、廃仏毀釈で川に投げ込まれたものらしい。 その川底から出土した石仏だ。 現在管理は町内会で行っているそうだ。

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● 「南高橋」で亀島川を越え、西へ向かうと「中央大橋」を渡り、隅田川を越えて佃島に入る。

・・・・・・・・・・・・南高橋、、、、明治37年(1904)に架けられた旧両国橋の中央径間を転用した橋。 土木学会選奨の土木遺産。

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・・・・・・・・・・・・中央大橋は、平成5年(1993)8月26日(レインボーブリッジと同じ日)に竣工した、橋長 210.7m、幅員 25.0mの二径間連続鋼斜張橋。 設計はフランスの会社で、デザインには日本の「兜」を意識した特徴的な意匠が施されている。 橋桁製作は石川島播磨重工業横浜工場。、、、、白い主塔のデザイン、シンプルで良いね!

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佃島では、島の東側に並ぶタワーマンションの下を歩き、「相生橋」で隅田川を渡り、越中島に向かう。

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・・・・・・・・・・・・相生橋、、、、、中央区佃と江東区越中島を結ぶ相生橋(あいおいばし)は、明治36年(1903)に架けられた。 大正8年、大正12年、大正15年と連続的に改修された。 しかし、その後の老朽化により、平成10年(1998)に現在の橋長 149.1m、幅員 22.0m、3径間鋼トラス桁橋の相生橋に架け替えられた。、、、、武骨なトラスで、一見して頑丈そうな橋である。

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・・・・・・・・・・・・相生橋を渡り、「東京海洋大学 越中島キャンパス」(旧東京商船大学)の前に出るが、コロナ禍によりよそ者の構内立入禁止! 残念だが、正門前を素通り。

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● 東京海洋大学越中島キャンパスを真中で二分割するように「越中島通り」があり、その地下にJR京葉線の「越中島駅」がある。、、、、ホームは島式1面2線構造で、地下2階にある。 改札口は1ヶ所のみで地下1階にある。 3ヶ所の出口はいずれも、大学キャンパスの前であり、なんとなく大学専用の駅という雰囲気だ!、、、、駅周辺には大学以外は目立った施設もなく、さらに近くには便利な門前仲町駅・月島駅・豊洲駅があるため、東京海洋大学専用駅で『お客様の大半は学生』と思える。 令和元年(2019)度の1日平均乗車人員は5,910人である。 東京23区のJR駅の中では最も利用客数が少ない駅である。 もちろん、駅には売店なし!(自販機はあった!) 

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2021年5月23日 (日)

銀行発祥の地

私の住む台東区では、17日から高齢者向けワクチン接種の予約が始まった。 我が家は、母と私達夫婦の三人の高齢者世帯である。 母のワクチン接種はかかりつけ医が第一回目を今週実施してくれることとなった。 一安心である。 さて私達夫婦の分は、先週二日がかりで電話をかけて、ヤットコサットコ、来月中旬に第一回目の接種予約ができた。 たかがワクチン されどワクチン 予約するまで一苦労!、、、、また連休明けの五月は、母のクリニック通いの付き添い以外に、私自身の診察が多く、泌尿器科の病院、心臓血管外科の病院、循環器内科のクリニック、眼科の病院、整形外科のクリニックと“休む暇なし”。 医者通いで疲れて倒れたら、医者に診てもらえるか心配だ!

今日は天気も良く、早朝から、浅草橋~人形町~兜町~銀座~大門まで歩いてきた。 一週間ぶりの散歩で、足がつった! 1万5千歩




● 雨も上がり青空が見える7時15分、浅草橋の我が家を出る。 江戸通り(=国道6号)は人も車も少ない! コロナの心配は不要かな?

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薬研堀不動院(東日本橋)、笠間稲荷神社(日本橋浜町)、大観音寺(日本橋人形町)と一社二寺に立ち寄って行く。、、、、お不動さまに、お稲荷さんに、観音さま、朝から良いことありそうだ! 御利益期待!!

・・・・・・・・・・・・七味唐辛子の“薬研堀”に川崎大師からお不動さまが単身赴任。

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・・・・・・・・・・・・久松署の前で、笠間の狐が化かし合い。

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・・・・・・・・・・・・大観音寺の本尊:観音さまは、北条政子が京都をまねて、鎌倉の地に「新清水寺」を創建し、その本尊として奉祀したもの。 それが、なぜ?人形町に現れた?

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● 人形町から兜町へ、久しぶりに建物拝見!

・・・・・・・・・・・・昭和レトロな建物が並ぶ人形町2丁目。 木造モルタルの旧神谷商店、和風造りの旧多和田歯科、出桁造りの加島酒店

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・・・・・・・・・・・・チョイト、雨上りの路地(人形町1)へ、店の前には金魚鉢、いいね!

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・・・・・・・・・・・・路地の一軒「よし梅 芳町亭」 建物は国の登録有形文化財。、、、、緊急事態宣言で、今は『お酒は提供できません』

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・・・・・・・・・・・・人形町の隣り、日本橋小網町では、、、、「三田商店 東京支店」は、東京駅を設計した辰野金吾と建築事務所を運営したことで有名な、葛西萬司の建築作品として貴重である。 昭和5年(1930)に竣工。 タイル貼りの外壁、中央塔屋の丸窓などが個性的な外観である。 建物の裏には、かつて東堀留川が流れており、河畔の利を生かした地下1階地上一部3階の鉄筋コンクリート造で、松クイを地下一帯に打ち込み、RC柱を太く、玄関など開口部はすべてスチールシャッターで防火対策を施して建てられたそうだ。 川は空襲のガレキで埋められてしまった。

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・・・・・・・・・・・・「日清製粉 小網町ビル 本館」はチョイト見には、現代のビルに見えるが、大正12年(1923)に日清製粉本社として建造された。 建物の一部は昭和12年(1937)に増築され、5階部分は同26年(1951)に増築された。

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・・・・・・・・・・・・日本橋小網町に残る銅板建築の長屋。 2階の窓の上部に半円形のデザインが施され印象的。

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・・・・・・・・・・・・こちらは洋館風の洋食屋「桃乳舎」 創業は明治22年(1889) 金融の街:茅場町に近く、シャレた店である。 建物は昭和8年(1933)に建てられた。 2階の窓の上には“桃”のレリーフがある。

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・・・・・・・・・・・・日本橋小網町のビルの裏に残る「うなぎ 喜代川」 明治7年創業の老舗。 昭和2年(1927)建築の風情ある木造家屋は国の登録有形文化財。

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・・・・・・・・・・・・日本橋小網町から日本橋川に架かる鎧橋(よろいばし)を渡ると、証券取引所のある日本橋兜町。、、、、

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・・・・・・・・・・・・東京証券取引所の南側に、スパニッシュ風の「山二証券ビル」がある。 建物は西村好時の設計、清水組の施工、昭和11年(1936)竣工、鉄筋コンクリート造3階建て。、、、、平日の営業中に来て、株取引の熱気を感じてみたい!

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・・・・・・・・・・・・山二証券の隣りには、こちらも西村好時が設計した「旧成瀬証券」(現:フィリップ証券)のビルがある。 こちらは昭和10年(1935)の竣工。

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・・・・・・・・・・・・フィリップ証券の南隣のビルは「みずほ銀行 兜町支店」である。、、、、前を通っただけでは、どこの町にも有りそうな普通の銀行建物。、、、、実は、ここは明治6年(1873)渋澤栄一が我が国初の近代銀行である「第一国立銀行」を開業した地である。「国立」という名称だが、これは「国立銀行法」に基づく銀行ということで、完全な民間銀行である。 この当時は開業する全ての銀行に順次番号が付けられ、「第〇〇国立銀行」と命名された。 現在でもこの当時の行名を残している銀行がある。 初代の「第一国立銀行」の建物は、銀行開業前年の明治5年に建てられた「三井組ハウス」であった。 この建物は 清水組(現:清水建設) が建てた和洋折衷のモダンな建物で、錦絵にも描かれている。、、、、「みずほ銀行 兜町支店」の建物の一角には「銀行発祥の地」 のプレートが嵌め込まれている。

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● 日本橋1丁目と日本橋兜町から日本橋1丁目に向かうと、首都高の下に、かつて楓川(紅葉川)に架かっていた千代田橋がある。 楓川は昭和37年に埋立てられ、同39年オリンピックに合わせて開業させる首都高が建設された。 首都高は橋の頭上を通り、川は埋め立てられたままである。、、、、現在の橋は大正15年(1926)に着工し、昭和2年(1927)に竣工した。 橋の橋台は半分ほど埋まっているが、側面からみると橋台桁が現存していることを確認できる。 橋は改修工事が行われているが、石造の親柱、袖柱、袖高欄は竣工当時のままで残っている。、、、、橋脚の半分までが埋め立てられたままの、チョイト可哀そうな橋だ!

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● 開店前のウインドウを覗きながら、銀座1丁目から8丁目まで歩く。、、、、時刻は9時半、まだ人も車も少ない。 コロナの心配は無さそうだ!、、、、“銀座9丁目は水の上 今宵は船で過ごしましょう ~~”は神戸一郎が唄う昭和33年の歌。 9丁目は実在しない!

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● 新橋を過ぎたあたりから足がつり、イテテ! 帰ろう!、、、、大門駅から都営浅草線で帰宅

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2021年1月31日 (日)

銅像を見ながら

体力維持のため、スリムな体型に戻すため、(本音は自粛生活に飽きたため)、今日は我が家(浅草橋)から皇居まで歩いてきた。 1万5千歩

 

● 浅草橋駅前から江戸通り(=国道6号)を日本橋室町方向に歩く。 日曜の朝7時半、歩く人もまばら、コロナ感染の心配なし!

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● 小伝馬町交差点から、チョイト裏道に入り「傳馬町牢屋敷跡」にお立ち寄り!、、、、伝馬町牢屋敷は慶長18年(1613)に常盤橋外より小伝馬町へ移転されたもので、明治8年(1875)に市ヶ谷囚獄へ移転までの江戸の牢獄であった。 面積は2600余坪で、現在の大安楽寺、身延別院、十思公園、十思小学校跡などを含む一帯である。 揚座敷、揚屋、大牢(庶民)、百姓牢、女牢などの獄舎や拷問蔵などがあったそうだ。 定員は350名程度だが、最大700名を収容できたといわれてる。 牢屋奉行には石出帯刀が世襲した。 安政の大獄(1859)では吉田松陰や橋本左内らが収容されていた。

・・・・・・・・・・・・大安楽寺、、、、高野山真言宗の大安楽寺は、明治15年、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かず、大倉喜八郎と安田善次郎が寄進して、受刑者を弔うために創建された。 

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・・・・・・・・・・・・身延別院、、、、明治16年(1883)身延山法主日薩上人が、現在:十思公園となっているところに願満祖師堂を創建し、身延山より日蓮上人木像を移して安置した。 関東大震災後、十思公園の向かいである現在地に、昭和3年(1928)現在の堂宇を建立した。 本堂の前左側には、名優:長谷川一夫が施主となり祀った、商売繁盛の願いを懸ける「油かけ大黒天」を安置した小堂がある。

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・・・・・・・・・・・・十思公園(じっしこうえん)、、、、明治になって牢屋敷跡を払い下げしようとしたが、祟りを恐れ買い手がつかなかった。 一部は、大安楽寺、身延別院となり、震災後、十思小学校が新築され、それに附属する公園として十思公園が開園した。、、、、園内には吉田松陰の終焉地として石碑がある、、、、「石町(こくちょう)時の鐘」として有名な、宝永8年(1711)に鋳造された鐘も残されている。

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・・・・・・・・・・・・旧十思小学校(じっししょうがっこう)、、、、旧十思小学校は明治11年(1878)に開校し、現存する建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎として建て替えられたものである。 表現主義と呼ばれる建築様式で、カーブさせた隅部、アーチ窓、半円形の円柱等の意匠に特徴がある。 正面玄関部分は特にカーブが大きく、全面に小広場があるなど建物の顔となっている。 平成2年(1990)3月の廃校後、改修工事を経て、平成13年(2001)からは区の複合施設「十思スクエア」として区民に利用されている。

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● 「江戸通り」と「昭和通り」が交差する「本町三丁目交差点」、、、、それぞれ道路の愛称名である「江戸通り」と「昭和通り」は、交差点で直交し判りやすいのだが、道路の路線番号はチョイと複雑である。 「国道4号」と「国道6号」は日本橋が起点で、室町三丁目交差点から本町三丁目交差点までの江戸通りの区間は重複している。 本町三丁目交差点から、昭和通りに入るのが「国道4号」、交差点から江戸通りを浅草方面に向かうのが「国道6号」である。 本町三丁目交差点を起点として、昭和通りを大森方面に向かうのが「都道316号」、、、、この説明を書いている自分も何が何だか、混乱してきた、アレレ???

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・・・・・・・・・・・・かつて、本町三丁目交差点の角に、小さな木造の喫茶店があった。 店前には、青地に黄色で鍵と“KEY COFFEE”と描かれた看板を出し、チョイト、ひと休みしたくなる雰囲気の店だった。 いつか珈琲を飲みに寄ろうと思っていたが、いつの間にか店は閉じ、更地となってる。 また、昭和の建物が消えていた!



● 三越前で、チョイト疑問が頭をよぎる。 『三越といえばライオン像』だが、『何でライオンなんだ?』 ライオン像の謂れを知る人は少ないのでは? 私も知らないので、興味が湧いてきた!、、、、日本橋三越本店玄関前のライオン像、後ろの壁に説明板が貼られている。 『ライオン像 三越の正面入口を守る一対のライオン像は、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔下のライオン像を模し鋳造されたものです。〝気品と勇気と度量〟の象徴として、また、ご来店のお客様の守護神として大正3年(1914年)本店のルネッサンス様式建築の本館ライオン口に設置されました。以来、東京名所の一つとして親しまれ、待ち合わせの場所としても有名です。このライオン像は、“必勝祈願の像”として誰にも見られずに背にまたがると念願がかなうと言い伝えられ、特に受験生の間に人気があります。』と記されている。、、、、知ってしまえば、あまり深い意味はなく、客寄せに設置したようだ! パンダでもよかったかも?

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● 三越の斜め向かい、日本橋室町2-3の室町三井ビル(コレド室町2)の裏通りに面した南西角に、ナント・ビックリ! 古河グループ(財閥)の創始者:古河市兵衛の住居跡があり、古河市兵衛胸像がある。、、、、古河市兵衛は天保3年(1832)京都岡崎で生まれる。 行商から身を興し、明治8年足尾銅山を開発して鉱山経営に着手、その強靭な気根と不撓の行動力により幾多の困難を乗り越え「鉱山王」と呼ばれた。 足尾銅山の発展を基盤として多角経営に進出、これが今日における古河グループ発展の基礎となる。 この地は古河が、明治10年住居兼古河本店とし、その後、20年間事業の拠点とした発祥の地である。、、、、三井の発祥地(三越)と古河の発祥地は、ほぼ向かい合わせにあったらしい。

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● 三越と三井本館の間を抜け、日本銀行前を行く。

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・・・・・・・・・・・・日本銀行の西側、日本橋川に東京最古の橋の常磐橋(ときわばし)がある。、、、、常磐橋は、天正18(1590)年の架橋と言われ東京では最も古い橋のひとつ。 常盤橋門の見附橋として活躍した。 現在の橋は明治10年(1877)に建造されたが、老朽化は激しく、東日本大震災以降は立ち入り禁止となり、改修工事が行われている。 歴史的に貴重な橋で、いろいろ調査しながら工事が進められている。 ほぼ、橋の工事は完了したようだが、まだ渡れない!

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・・・・・・・・・・・・常磐橋の下流に架かる、昭和元年に架けられた常磐橋を渡り千代田区大手町に入ると、今年の大河ドラマの主人公:渋沢栄一の像がある。 ここは、面積は僅か1420㎡の常磐橋公園の一角である。 江戸時代に枡形の城門である常盤橋門があったところで、明治8年に財団法人渋沢青淵翁記念会(渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われ、東京市の公園として公開された。 それ故、園内に渋沢栄一の銅像が建っている。 製作者は朝倉文夫。、、、、渋沢栄一については、NHKで麒麟が終わったら、「青天を衝け」を観てね!

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● 東京駅丸の内側、新丸ビル前の広場に「正二位勲一等子爵井上勝君像」がある。、、、、井上勝は天保14年(1843)生まれの長州藩士。 伊藤博文らと共にイギリスに密航し、ロンドン大学で鉱山、土木工学を学び、明治元年に帰国。 帰国後は鉄道敷設に貢献し、「鉄道の父」と呼ばれるようになった。、、、、銅像は大正3年(1914)に設置されたが、昭和19年(1944)に撤去された。 昭和34年(1959)には、没後50年を記念して二代目の銅像が建てられた。 ところが東京駅復元工事の為に平成19年(2007)に再び撤去され、平成29年(2017)、東京駅復元工事の完了とともに銅像も戻って来た。 駅前広場から東京駅舎と変わりゆく大手町のビル群を眺めながら、マスクを着けてコロナに怯え行き交う人々を見守っている。

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● 来ました、着きました、二重橋です! 観光客の人影は見えず、静かな皇居前広場

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2020年12月29日 (火)

浅草橋の三迷橋

コロナの感染者数は『我慢の三週間』から大幅に増え、英国製・南ア製の新型モデルも発表・渡来した。 『不要不急の外出自粛』、『三密の回避』など感染対策の徹底がより強く求められ、雅万歩も今まで以上に自重することにした。 しばらくの間、散歩は我が家の周辺をチマチマ歩くことにする。

雅万歩が住むのは台東区浅草橋。 今日は、地元「浅草橋駅」に近い柳橋・浅草橋・左衛門橋の三橋と、隣りの千代田区に架かる美倉橋の、四橋を歩いてきた。 1万歩には程遠い5千歩の散歩。

日本橋(東京)、錦帯橋(岩国)、眼鏡橋(長崎)の『日本三名橋』に対抗して、誰が言ったか『浅草橋の三迷橋』、、、、とは、誰も言ってない! 雅万歩が勝手に言った! その『浅草橋の三迷橋』は、神田川に架かる三橋のことで、隅田川に注ぐ最下流から、柳橋・浅草橋・左衛門橋である。 左衛門橋の上流に架かる美倉橋は、“付録”とする。




● まずは、神田川が隅田川に合流する手前に架かる「柳橋(やなぎばし)」、、、、現在の橋は、右岸の中央区東日本橋と左岸の台東区柳橋を結ぶ震災復興橋のひとつで、昭和4年(1929)に工事費12万1千円で完成した、長さ37.9m、幅11.0mの鋼製タイドアーチ橋。 永代橋をモデルにしたと言われる小型のアーチ橋で、全体的に緑色に塗られている。(たまたま、今月から来年3月まで、塗装の塗り替え工事中)、、、、初代の柳橋は、江戸時代後期に架設された木橋で、はじめは「川口出口の橋」と呼ばれたそうだ。 「柳橋」の名は、享保年間(1716~1735)の頃、土手の両岸に柳の木が植えられていたことに由来するようだ。、、、、江戸時代から今日まで、橋畔は船宿が並んでいる。 昔は日本堤の遊里、新吉原へはここから隅田川を舟で昇り今戸の山谷堀まで行った。 また、幕末・明治以降、昭和40年代頃までは、柳橋は花柳界として名を馳せた。 現在では、この付近の護岸は非常に高くカミソリ護岸となっているが、船宿に屋形船も繋留されていて、江戸情緒は残っている。、、、、私が知る、戦後の花柳界のあった頃は、暗くなると黒塗りの乗用車が並ぶ町で、芸者さんが人力車で行き交っていた。 路地裏の我が家の前にも、芸者さんを迎えに人力車が入って来た。 美人芸者がイッパイ、あの良き時代に戻りたいね!

・・・・・・・・・・・・塗装工事中の今日の柳橋

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● 柳橋の上流に架かるは「浅草橋(あさくさばし)」、、、、その名のごとく、浅草寺の門前橋であるが、浅草寺までは北へ約2km程ある。、、、、浅草橋は江戸36見附の一つで、浅草橋御門として寛永13年(1636)頃(詳細は不明)に架けられた。 奥州街道の起点となっていたため、徳川時代、神田川に架かる橋としては重要な位置づけを与えられていた。明治7年には見附門の石を利用して石造アーチ橋として架け替えられましたが、これは何故か長持ちせず、すぐに他の形式に架け替えられた。、、、、現在の橋は、これも震災復興橋として、昭和5年(1930)1月に開通した。 右岸は中央区日本橋馬喰町、左岸は台東区浅草橋。 工事費27万7千円、下部工は間組(現:安藤ハザマ)の施工による鋼製アーチヒンジ橋。 アーチ構造の橋ということだが、アーチ(円弧)の形状が緩やかなためか、水平の桁橋に近い印象を受けう極めて単純な橋で、面白味に欠ける。 親柱や欄干などは、お金をケチったのか貧弱で、センスも悪く印象が薄い、存在感が無いね!

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・・・・・・・・・・・・浅草橋南詰(中央区側)に開智日本橋学館中学高等学校がある。 その校舎の一角に、浅草橋御門の石垣の石が発掘され残されている。 貴重な石らしいが漬物石より大きく、一見しただけでは石垣の石には見えないね!

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● 次は「左衛門橋(さえもんばし)」、、、、左衛門橋の上流側は千代田区東神田、下流側右岸は中央区日本橋馬喰町、下流側左岸は台東区浅草橋、なんと三区を結ぶ橋。 さらに地名だけ読むと、“神田”、“日本橋”、“浅草”と、江戸っ子が喜びそうな地域を結ぶ橋。、、、、左衛門橋の北詰一帯(現:JR浅草橋駅西口周辺)に、慶長3年(1598)から明治維新までずっと、徳川譜代大名庄内藩酒井左衛門尉(さえもんのじょう)の下屋敷があった。 橋の由来は、後に、神田川に望むこの地を左衛門河岸と呼んだことにちなむ。、、、、左衛門橋の創架は、明治8年(1875)、東京府の認可を受けた賃取橋(有料橋)として、民間人により架けられたものである。 その後、明治34年(1901)、下路式プラットトラスの鉄橋に架替えられた。、、、、現在の橋は、昭和5年(1930)に、工事費13万5千円で、架けられた鋼製アーチ橋である。(平成12年大規模補修工事が行われた) 次の美倉橋と左衛門橋・浅草橋の三橋は、いずれも似た構造の鋼製アーチ橋で、震災復興橋でもある。、、、、30年ぐらい前の話だと思うが、高度成長期には汚れていた神田川が浄化され、隅田川からボラの大群が上ってきた。 その時は、我が家から最も近い左衛門橋から川を覗いて、水が清くなったことを実感した! いつだったか、クラゲの大群が上がってきたこともあったね!

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● 左衛門橋の上流には「美倉橋(みくらばし)」が架かっている。、、、、美倉橋は右岸の千代田区東神田と左岸の千代田区神田佐久間町に架かる橋。 現在の橋は、昭和4年(1929)2月の架設、長さ35.35m、幅23.31mの鋼製アーチ橋。 工事費は17万9千円也。、、、、神田美倉町はもと佐柄木町・本銀町・紺屋町の蔵地からなり三倉地と呼ばれ、橋の営繕は町の費用で行われていた。 明治2年(1869)に“三”を“美”に改め、町名及び橋名にした。 橋の南詰には、この命名に因んで、倉が三棟建っているが、実体は公衆便所で、男・女・車椅子の各用のトイレ。 味噌を処理する“味噌蔵”だ!

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2020年10月26日 (月)

六地蔵の五番目

江戸六地蔵の五番目は、江東区白川にある霊巌寺の地蔵菩薩。 浅草橋(我が家)から徒歩1時間ほどで霊巌寺に参り、その足で深川の閻魔堂にも手を合わせてきた。 1万2千歩の散歩。




● 朝7時25分、浅草橋駅前から散歩はスタート。 東日本橋駅前から清洲橋通りを行く。 幟はためく明治座前を通過。 どちらも隅田川に架かる、清洲橋通りと新大橋通りが交差する浜町交番前。 そして、正面に清洲橋が見えた!

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● 関東大震災の復興橋として、重厚かつ雄大で男性的な永代橋と対になるように繊細で女性的なデザインを意図して設計された清洲橋を渡る。、、、、清洲橋の構造は日本で唯一の自碇式チェーン吊り橋で、当時世界一美しいと評判だったドイツケルンのヒンデンブルグ橋をモデルとした。 設計は永代橋と同じく太田圓三を中心に鈴木精一が行った。 大正14年(1925)3月に着工、昭和3年(1928)3月に竣工。 長さ186.3m、幅22m。 平成19年(2007)に、勝鬨橋、永代橋とともに、国の重要文化財となる。、、、、橋名の「清洲橋」は、当時の町名、西詰の日本橋区中洲町、東詰の深川区清住町から一字づつとって名付けられた。

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● 清洲橋を渡り清澄通りに出ると、清澄庭園を背にして、昭和3年(1928)に関東大震災の復興事業として建てられた、長屋風のコンクリート店鋪兼住宅の「旧東京市営清澄庭園店舗向住宅」がある。 建物は1階が店舗で2階が住居というもので、6軒程が一つの建物となって建ち並んでいる。 当初は東京市営で賃借だったらしいが、現在は民間に払い下げになったそうだ。、、、、各店舗ではファサードをかなり改装したものもあり、バラバラなデザインとなったが、全体的には、建設当時を偲ぶことができる貴重な建物である。

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● 清澄庭園の東側、深川江戸資料館の隣りに、浄土宗寺院の霊巌寺がある。 江戸時代は御朱印50石を賜わり、区内で最も寺格の高い寺院で、昔は18寮・8庵・11子院を持ち関東18檀林の1つとして、江戸屈指の寺院だった。、、、、寺の初めは、霊巌上人が現在の中央区新川がまだ湿地の葦原だった元和年間(1615~1623)にその地を埋め立てて霊巌島とした。 ここに一寺を建て霊巌寺と称したが、後に明暦の大火に遭い、総てが灰燼に帰し、万治3年(1660)に改めて深川の地に土地を拝領し、ここに寺を移したのが現在の霊巌寺である。 現在の本堂は昭和56年(1981)に鉄筋コンクリート造で建てられた。、、、、朝の山門前は、隣りの幼稚園児のお母さんがたむろし、小心者の私は恐怖を感じ本能的に“ソーシャルディスタンス”を保つ。


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・・・・・・・・・・・・本堂に向かい境内の左側に、江戸六地蔵の五番目の銅造地蔵菩薩坐像が安置されている。 この像は享保2年(1717)に造立された。 像高は2.73mで、かつては鍍金が施され、一部には金箔が残っているそうだ。 また、他の六地蔵に比べ、宝珠を持つ左手の指のうち四本の指が密着した形になっているのが特徴らしい。 丸顔のおとなしそうな地蔵さん!、、、、この像も、袈裟・蓮台・石の台座などに、造立時の多くの寄進者名が読み取れる。

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● 霊巌寺の山門前にある浄土宗寺院の長専院は、不動寺と号し、「深川の出世不動」として親しまれている。 長専院は、德川四天王の一人榊原忠次(寛文五年没1665)が開基、命誉圓壽が開祖となり霊巌島に創建、万治元年(1658)に霊巌寺とともに移転、昭和3年(1928)に不動寺を合併したと云われている。、、、、不動堂は昭和初期(昭和7年?)の鉄筋コンクリート造。

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● 長専院の南隣、浄土宗寺院の成等院には、江戸中期の豪商、紀伊国屋文左衛門が眠る墓所がある。、、、、墓所は仕切られた一画にあるが、立ち入ることが難しい、鉄扉の外からパチリ! 墓を守る有志の活動が休止しているそうで、石碑にミカンの枝が覆いかぶさり、手入れも出来ていないようだ!

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● 『深川ゑんま堂』として知られている真言宗豊山派の寺院「法乗院」にお立ち寄り。、、、、法乗院は、寛永6年(1629)深川富吉町に創建、寛永18年に現在地(深川2)に移転した。、、、、法乗院の閻魔堂は昭和4年(1929)建造の鉄筋コンクリート建築。 近年には、闇魔堂が改築され、お賽銭を入れると、コンピューター制御で、堂内に照明が灯り、スポットライトが回り、願い事に応じてありがたいお言葉が流れてくるのというので、ハイテク闇魔とも呼ばれている。 現在の閻魔座像は平成元年(1989)に作られた。、、、、【蛇足】 寺では『江戸三閻魔』の一つと言ってるが、世間で言う『三閻魔』は「華徳院(杉並松の木)太宗寺(新宿)善養寺(西巣鴨)」である。 ウソついたら、閻魔さまに舌を抜かれるぞ!!

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● 散歩の最後は、閻魔堂の隣りにある臨済宗妙心寺派の寺院「陽岳寺」、、、、本堂は昭和6年(1931)の鉄筋コンクリート建築。 残念ながら、山門が閉まっており境内では見えず、道路の向かいから眺める。

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● お帰りは、陽岳寺の前からバスに乗って・・・・・

2020年6月15日 (月)

新川の復興橋

“新型コロナ”の感染者は増えたり減ったり、そしてまた増えた! 今だ、三密避けて、不要不急の外出は自粛。 理屈は判っても、気持ちは外出したくて、チョットだけならイイよね!、、、、今日は、都営浅草線の宝町駅で下車し、中央区新川地区に架かる南高橋、豊海橋の2橋を渡り、箱崎、浜町を抜け我が家(浅草橋)まで、1万3千歩の散歩です。



●体力維持に協力的な駅 ・・・・・・・散歩のスタートは、都営浅草線:浅草橋駅から4駅目の宝町駅である。、、、、駅名の「宝町」は、昭和38年(1963)2月28日、地下鉄開業当時の地名「宝町」を採用。 地名の宝町は昭和6年(1931)、町名の整理統合の際、めでたい名として選ばれ誕生した。 しかし、昭和53年(1978)の住居表示では、隣接の京橋に統合する形であえなく消滅。、、、、駅は相対式ホーム2面2線の地下駅。 西馬込方面のホームには、中央と後方(押上寄り)に改札があり、後方の改札にはエレベーターがある。 中央の改札から出ると、合計90段程の階段を上らないと地上に出ることができない、“コロナ”で体力が落ちた方には足腰を鍛える嬉しい機会を与えてくれる!、、、、【蛇足】宝町で下車した後、同駅で京急の特別塗装列車:新1000形の「KEIKYU YELLOW HAPPY TRAIN」と、600形の「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」のすれ違いがあった。 ラッキー、チョイト嬉しくてパチリ!

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●橋上は寝床! ・・・・・・・・宝町駅から東に向かうと、昭和35年から昭和40年にかけて埋め立てられた楓川(もみじがわ)に架かる弾正橋(だんじょうばし)がある。 弾正橋の創架は江戸時代の初期、寛永年間 (1624~1643)頃と伝えられている。 橋名の由来は、この橋に近い八丁堀に江戸時代初期に町奉行を勤めた島田弾正 の屋敷があったことから「弾正橋」と呼ばれたそうだ。、、、、現在の「弾正橋」は、大正15年(1926)に架設されたもので、関東大震災の復興橋。 橋の下には首都高が、橋の上にも首都高が、平成の整備で橋に公園も造られ、日中でも薄暗くなった橋上はホームレスの寝床となった!

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●鉄砲撃った鉄砲洲! ・・・・・・・弾正橋より道なりに東へ向かい、八丁堀交差点から南東方向に歩き、鉄砲洲稲荷神社(湊1)に立ち寄る。、、、、鉄砲洲稲荷神社は、江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきた。 神社は寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東詰に遷りましたが、明治元年現在地に移転し、今日に至っている。 大正12年(1923)の関東大震災により被害を受けた境内は、昭和10年(1935)より復興整備された。 また社殿の右奥には、富士山の溶岩で築いた昭和3年(1928)に築造された富士塚があり、そこを富士信仰の場としていた。、、、、鉄砲洲稲荷神社の「生成太神(いなりのおおかみ)」は、1554年に始まる足利義輝の治世に形成された京橋地区一帯の土地生成の産土神(うぶすなのかみ)です。、、、、「鉄砲洲」の地名は、昔、海岸だった頃のこの辺りの地形が細長~い三角形をしていたので、種子島と呼ばれた火縄銃の形に似ていたので“銕炮洲”と呼ばれ、“鉄砲洲”に変化した。 また寛永12年(1635)に、大筒をつくって幕府に納めていた井上氏、鉄砲方をして仕えていた稲富氏が大筒や鉄砲の試し撃ちをした場所でもある。 

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●湊地区のチョイト古い建物! ・・・・・・・中央区湊地区の建物

・・・・・・・・・・・・まずは、地区内に点在するマンサード屋根(腰折れ屋根とも言う。勾配が2段になっている屋根)の木造住宅。

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・・・・・・・・・・・・和洋折衷というより、住居の木造2階建て日本家屋と商売用の3階建て洋風の家屋が同じ敷地に建っている「福隆商事」、、、、昭和2年(1927)の建築といわれている。

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・・・・・・・・・・・・銅板貼りの建物は「日本不動産」、、、、昭和初期の建築か?

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・・・・・・・・・・・・南高橋の橋詰にある籠細工屋さん「籠平」、、、、下見板の木造建築ですが、2階上の部分のデザインは西部劇に出てきそうなモダンな建物。

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・・・・・・・・・・・・鉄砲洲稲荷神社の並びにある「築地警察署 湊交番」、、、、建物は古くないが、昭和4年(1929)に湊地区の住宅街の交番として開設された。 周囲は閑静な住宅街と新大橋通り沿いの中小企業からなる地域です。近年の再開発でマンションの建設が増えています。


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●両国橋の再利用! ・・・・・・・・中央区湊地区と新川地区を結び亀島川に架かる、関東大震災の復興橋「南高橋(みなみたかばし)」、、、、昭和7年の架橋、橋長は63.1m。、、、、南高橋は、関東大震災後、昭和6年に起工し、翌昭和7年3月に竣工した。 震災当時は、南高橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみであった。 大正12年(1923)の関東大震災ののち、街区の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に、新しく橋を架けることになった。 東京市は、多くの橋を改架したため予算も乏しく、そのため明治37年に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の3連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架橋したのである。 都内において、珍しくも明治37年のトラス橋の一部が現在に残ることとなった。 貴重な近代の土木遺産である。

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・・・・・・・・・・・・南高橋から亀島川の上流側を望む、、、、右側が新川地区、左側は八丁堀地区。

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・・・・・・・・・・・・下流側は、隅田川に合流する手前に亀島川水門がある。、、、、水門は只今耐震工事中!

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●私、中国から来ました! ・・・・・・・・南高橋から豊海橋へ抜ける途中、隅田川沿いに「東京住友ツインビル」(新川2)がある。 西館と東館の2棟構成で、21階・24階建て、設計は共に日建設計、竣工:昭和63年(1988)と平成3年(1991)、、、、ビルの前で見上げると巨大な2棟のビルが威圧的に感じる。、、、、ビルには三井住友系の大企業がオフィスを構えているらしい。

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・・・・・・・・・・・・ビルの前で20歳前後の学生風の女性が見上げていた! オヤ、建築に興味あるのかな? にこやかな顔の可愛い女性だ。 『私、中国から来ました!』と話しかけてきた。 しばらく話すと、このビルの中の企業に就職が決まり勤めるそうだ。 私が異国からの就職、一人暮らしを思い『それは良かった、だけど大変だね』と云うと、何やら心配になったのか、『大変なんですか?』と聞き返してきた。 どうやら、就職する企業に問題があると受け止めたようだ。 すぐに気づき誤解は解けたが、私が、余分な心配をかけてしまった。 ゴメン! 日本で頑張って、仕事して、応援してま~す!

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●眺望良し! ・・・・・・・・新川地区から、振り返り佃島のタワマンを望む。 また、行く先には永代橋

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●窓が並ぶ! ・・・・・・・・永代橋の西詰付近、日本橋川が隅田川に合流する処に、新川と日本橋箱崎を結び「豊海橋(とよみばし)」がある。、、、、豊海橋は、日本橋川の第一橋梁である。 大きな窓が並んでいるようでもあり、枠の幅がある梯子を横にしたような構造は、フィーレンディール橋と呼ばれ、永代橋との景観上のバランスを考慮して設計したそうだ。 シンプルなデザインのなかに鋲止形式という古い形態を残し、重量感のある鉄骨橋梁の代表例として貴重である。、、、、豊海橋は、復興橋として大正15年(1926)5月に着工し、昭和2年(1927)9月に完成した。

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●日銀創業の地! ・・・・・・・・豊海橋を渡ると、日本IBMの本社(日本橋箱崎19)がある。 このビルの敷地の一角に、「日本銀行創業の地」の碑が建つ。、、、、明治15年10月10日、日銀の創業はこの場所で、その十数年後に現在地に移転したと碑文にある。 碑面には「創業時の本館」の図が彫られたプレートが取り付けられている。、、、、創業時はこの地でお札を印刷したのか?

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・・・・・・・・・・・・・・日銀創業の地の近くには、高尾稲荷神社がある。、、、、万冶2年(1659)12月江戸の花街新吉原京町1丁目、三浦屋四郎左衛門抱えの遊女で二代目高尾太夫、傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にして艶名一世に鳴りひびき、和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない全盛をほこったといわれる。 生国は野州塩原塩釜村百姓長助の娘で当時19歳であった。その高尾が仙台藩主伊達綱宗候に寵愛され大金とつんで見請けされたが、彼女にはすでに意中の人あり、操を立てて候に従わなかったため、ついに怒りを買って隅田川の三又(現在の中洲)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ、川中に捨てられた。その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当所そこに庵を構え居合わせた僧が引き揚げてそこに手厚く葬ったといわれる。 高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊高尾大明神を祀り、高尾稲荷社としたのが当社の始まり。、、、、若くして容姿端麗、諸芸に通じておれば、今の世のミスユニバースの優勝候補だ! 19歳で死ぬなんて、ア~~もったいない!

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●車よ、落ちるな! ・・・・・・・・首都高の箱崎ジャンクションの下を歩く。、、、、頭上から車が2・3台、落ちてきそうだ! のんびり歩けず、足早に通り抜ける。

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●・・・・・・・・・・箱崎を抜けると、水天宮・浜町・東日本橋をとおり、浅草橋の我が家に到着!

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