中央区

2024年12月24日 (火)

閻魔さまとお不動さま

のんびり我が家(浅草橋)から深川の不動堂まで、年末の御礼詣りに行ってきた。 1万歩の散歩

● 朝9時45分、浅草橋の我が家から歩きだす。、、、、浅草橋駅周辺の人形屋では、クリスマスは飛ばして、雛人形が既に店頭に並んでいる。 季節の先取りかな? 
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● 神田川に架かる浅草橋を渡り台東区から中央区に入る。、、、、浅草橋交差点にある、昭和4年(1929)建築の、装飾付タイル張りの古風なデザインがイイ感じの「玉置文治郎ビル」、1階は老舗の玉置薬局。 外壁のスクラッチタイルの装飾もイイ、1階から3階アーチ窓までの縦の並びもイイね!(一見は百聞に如かず)
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● 10時、都営浅草線の東日本橋駅前を通過。、、、、近くの薬研堀不動院(川崎大師東京別院)にチョイト立ち寄る。 薬研堀不動院は、天正13年(1585)豊臣秀吉による根来攻めに際して、根来寺の大印僧都が不動尊像を背負って東国へ逃れ、当地に創建したと伝えられている。 境内には、順天堂の始祖と仰がれている佐藤泰然(たいぜん)が、天保9年(1838)に和蘭(オランダ)医学塾を開講した場所と記した「順天堂発祥之地」の石碑が建っている。
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● 我が家を出てから30分:時刻は10時15分、明治座前を通過。 東京で最も長い歴史を持つ劇場である明治座は、明治6年(1873)の創業。 昨年は創業150周年を迎えた。 150年の歴史の中では幾たびもの災厄に見舞われながらも、その都度再建され復興を遂げてきた明治座。 現在は、18階建ての「浜町センタービル」の中に劇場がある。
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● 明治座から清州橋へ向かう途中、浜町神社、金刀比羅宮の二社がある。、、、、浜町神社は天明年間(1781~1789)島津家下屋敷に島津稲荷大神を祀ったのが始まり、安政4年(1857)島津家が付近一帯の土地を拝領したとき、一堂を建立して地域発展のために大いに寄与し、以来「島津稲荷」として人々から敬篤された。関東大震災で焼失、昭和5年再建、同20年戦災、同27年再建され名称も浜町神社と改められた。、、、、金刀比羅宮は、天明3年(1783)創建、隅田川往来の船人の守護神として信仰を集めたと言われてる。 今も残る玉垣には、料亭の名や、「葭町(よしちょう、現:人形町)芸妓組合」の文字が多く刻まれている。 きっと、芸者さんの多くも手を合わせた神社かな?
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● 10時30分、隅田川に架かる清州橋を渡り、中央区から江東区に入る。、、、、清洲橋は両岸の町名の日本橋中州と清澄から一字づつとって名付けられました。構造は日本で唯一の自碇式チェーン吊り橋で、モデルは当時美しいと評判だったドイツケルンのヒンデンブルグ橋と言われてる。 関東大震災の復興橋で、橋長 186.3m、幅員 22.0m、昭和3年(1928)3月竣工、設計は鈴木精一(意匠面では建築家の山田守や山口文象の関与があった)。 国の重要文化財。
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● 清澄公園を抜ける。 清澄公園の隣りには清澄庭園がある、こちらは有料の庭園。 かつて、清澄公園と清澄庭園は一体で、三菱の創始者である岩崎弥太郎が明治期に完成させた庭園である。
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● 深川2丁目の心行寺に寄る。 心行寺は深川七福神の福禄寿を祀る寺。 
浄土宗寺院の心行寺は、雙修山養源院と号す。 心行寺は、光蓮社団誉一露屋道が開山、吉川監物殿内室が開基となり、元和2年(1616)八丁堀に創建、寛永10年(1633)現在地に移転したと言われてる。、、、、福禄寿が安置されている六角堂は、正月の“深川七福神巡り”に向けて、準備はOKか?
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 11時、本日の散歩の目的地である“深川ゑんま堂”に到着。 深川ゑんま堂は、真言宗豊山派の法乗院で賢台山賢法寺と号す。 法乗院は寛永6年(1629)深川富吉町に創建、寛永18年(1641)には現在地(深川2丁目)に移転した。 江戸三閻魔の一つらしいが、昔の閻魔堂は戦災で焼けた。 現在は平成元年(1989)に再建された“ハイテク閻魔様”で、賽銭を入れるとコンピューター制御で堂内には煌びやかに照明が灯り、スポットライトが回り、願い事に応じた説教が流れてくる見世物小屋並みの、高さ3.5mの大きな閻魔がある。、、、、、、、笑っちゃいけないが、笑いたくなる、これぞ“笑い地獄”か? 古さを感じることができない、現代風のモダンな寺だ!、、、、知らず・気づかずの悪行を詫びて、『今年も一年、ゴメンナサイ』
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● 閻魔さんの次はお不動さん。 お不動さんが祀られているのは成田山新勝寺の東京別院。 この別院は、元禄16年(1703)に始まった成田新勝寺の出開帳が深川不動の起こりで、明治14年(1881)不動堂が完成した。、、、、勇ましいいでたちの不動明王は仏法を守護し、人々を災いや迷いから救ってくれる有難い仏です。 災い・迷いの少ない私であるが、『来年も、災い迷いの無いことを願い』手を合わせてきた。
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● 閻魔さま、お不動さまに手を合わせ、散歩の終わりは12時だ!、、、、あとはバスで帰るだけ!

2024年11月30日 (土)

有楽町から浅草橋

土曜日の朝、人影の少ない銀座・日本橋の裏通りを歩いて、有楽町駅から浅草橋の我が家まで、1万1千歩の散歩です。



● 我が家から銀座・日本橋には都営浅草線を利用すれば、乗り換えなしの一本。 しかも、東京都のシルバーパスを利用すれば切符を買わなくても乗れる。 故に、もっぱら地下鉄を利用している。 今日は、久しぶりにJR有楽町駅で下車してみた。、、、、有楽町駅は明治43年(1910)6月25日、有楽町~烏森(現:新橋)間開業と同時に設けられた、国有鉄道東海道本線の始発駅である。 開業当初から京浜電車(後の京浜東北線)のみ停車する駅である。 しかし、始発駅としては明治43年9月15日に上野までの電車線が延伸開業するまでの、短命な始発駅であった。、、、、いまは一日の平均乗車人員は約12万人。 この乗客を2面4線の島式ホームでさばいてるラッシュ時の混雑度の高い駅である(今日、土曜日の早朝、混雑していない)、、、、私の若い頃(昭和30,40年代)は、「日比谷映画」「有楽座」など映画館街へ、デパート「SOGO」への買い物、銀座へブラブラ、いずれにしても国鉄有楽町駅を利用していた。 当時、有楽町駅で下車する時は、何となくワクワクしたものだ。 老いた今は、有楽町で下車すると、お上りさん状態、『アレ? なくなった! どっちだ?』
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・・・・・・・・・・ 中央口の脇に、レンガ作りの高架曲線が美しい、有楽町中央口架道橋がある。 明治43年開業時のレンガ造りの高架橋が見える(この上に、現在の山手線・京浜東北線が走っている)、、、、ドイツ人技師ルムシュッテルの設計案をもとに、逓信省技術顧問のバルツアーが市街高架線の設計・施工を指導。 彼はその耐震性について保証しており、大正12年(1923)の関東大震災でもこの区間は無傷だった。、、、、アーチの内側はコンクリートにより耐震補強され、レンガ積みの目地を見ることはできなくなったが、側面の大きなアーチの曲線を見ることができる。、、、、架道橋を抜けると、かっての「SOGO」デパート、今は「ビックカメラ」がある。2411300743490
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● 時刻は7時45分、まだ人影の少ない有楽町駅前から、東京高速道路の下を抜けて銀座通りに出る。 裏通りを歩いても、新しいビルばかり、『俺の知る あの店は何処に?』 裏道では、「並木通り」「銀座レンガ通り」などの道路名を見て、和泉雅子・山内賢が歌う『二人の銀座』を口ずさむ(誰も歩いていないので音痴でもOK) 小さな店は壊され、近代的で綺麗な大きなビルに変身、味の無いつまらなくなった銀座を歩く。
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● 銀座通りから宝町交差点に出て、昭和通りに面して並ぶ「兼松」「清水建設」「味の素」ビルを見ながら裏通りに向かう。
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・・・・・・・・・・ 裏通りには、大学1年の頃のバイト先があった。 20年前には私がサポートする、トラブルメーカの客先もあった。 いずれも新しいビルに変わり面影はないが、何となく懐かしい。
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・・・・・・・・・・ 浅草線の宝町駅から北東へ200m程、楓川の跡(首都高1号線)に陸上橋の宝橋が架かっている。 宝橋の西詰にひっそりと小さな祠があり、「宝地蔵尊」の旗が架かってる。 この宝地蔵尊の由来は『昭和29年(1954)夏の夕刻、当時8歳の児童が楓川に落ちて亡くなったそうだ。 その愛しい子供を供養するお地蔵さまである』 70年が過ぎた今でも、供養は続いているようだ。 私も合掌。、、、、楓川は1964年の東京五輪の際に埋め立てられ、首都高1号線に変わった。
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● 昭和通りに面し江戸橋の南詰に日本郵便日本橋郵便局がある。 ここ日本橋郵便局は「日本の郵便発祥の地」に相応しく、日本近代郵便の父と呼ばれる前島密(まえじまひそか)のブロンズ像が使用口脇に設置されている。、、、、明治4年3月1日(新暦換算:1871年4月20日)、日本における近代郵便制度の創設に伴い、現在の地(東京府豊島郡日本橋元四日市町 = 現在の東京都中央区日本橋1)に、駅逓司(現:日本郵政の前身)と四日市郵便役所(東京中央郵便局の前身)が設置された。 これをもって、この地は「日本の郵便発祥の地」と定められた。、、、、郵便発祥の地としてはブロンズ像だけではなく、郵便の歴史なども説明する、小さな説明コーナーなどが設置されるとうれしいね!
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江戸橋は、日本橋の下流側に架かる橋で、昭和通りを通す。 現在の江戸橋は、震災復興計画の一環として昭和4年(1929) に架けられた鋼製アーチ橋である。 親柱や欄干など、歴史のある江戸橋の名を汚さないようにと、力を入れて架設された橋だ。 しかし戦後、頭上を二重三重に走る首都高のおかげで、昼でも薄暗くその存在感が薄れてしまった。
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● 江戸橋を渡ると、椙森神社のある日本橋堀留町、繊維問屋街の日本橋横山町、そして浅草橋を渡ると我が家までは徒歩数分。 『ただいま!』
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2024年9月25日 (水)

築地ブラブラ

都営浅草線の東銀座駅で下車し、築地の本願寺、築地小劇場跡、築地カトリック教会、鉄砲洲稲荷神社と巡り、宝町駅まで、1万1千歩の散歩です。



● 昭和通りと晴海通り交差する、交差点の直下に東銀座駅(ひがしぎんざえき)がある。 東銀座駅は昭和38年(1963)2月28日、都営地下鉄1号線(現:浅草線)と営団地下鉄(東京メトロ)日比谷線の東銀座駅が同時に開業した駅である。、、、、浅草線の駅は昭和通りの直下にある相対式ホーム2面2線の地下駅であるが、ホームに立っても反対方向行きのホームは見えない。 それは、上下線の線路の間に地下道(昭和通り三原橋交差点のアンダーパス)や駐車場があるため、ホームの向かい側は全面が壁となっているためである。 また、ホーム間の連絡通路は改札外にあり、改札内での上下ホームの行き来はできない。 上下線のホームを間違えると、地上に出るか?、地下のさらに地下にある連絡通路を利用することになり、年寄りには辛く厳しい駅である。
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・・・・・・・・・・ 東銀座駅の泉岳寺方面行改札を出ると、地下で歌舞伎座のビルに入り、歌舞伎座正面玄関前に出ることができる。、、、、現在の歌舞伎座は5代目の建物で、隈研吾の設計による地上29階建ての「歌舞伎座タワー」と一体となってる。 外観は4代目の建物によく似たデザインである。 
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● 歌舞伎座前から横道に入り、「旧日産本社ビル」(現:銀座六丁目スクエア)の前を通る。 懐かしいビルだ! 銀座4丁目の角に、現在の日産ギャラリーができる以前は、このビルの1階にショールームがあった。 加山雄三の若大将シリーズのロケ地でもあった旧日産本社ビル、取り壊されず、まだ残っていたか! 感激!、、、、昭和43年(1968)竣工の17階ビルである。 2009年までは日産自動車の本社ビルであった、その後、読売新聞東京本社の仮社屋として活用されていた。 現在は銀座六丁目スクエアとしてオフィスビルとなっている。
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● 築地の交差点、外人さんがスマホを場外市場に向けてパチリ! 築地市場は豊洲に移転したが、場外市場は今も元気に商い中!
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● 築地に古代インド様式(天竺様式)の建物がある。 “築地の本願寺さん”と呼ばれてるこの寺は、正式には「浄土真宗本願寺派 築地本願寺」と言う。 その発祥は、元和3年(1617)、西本願寺の別院として、JR浅草橋駅の南側:横山町(中央区)にあったことから「江戸浅草御坊」と呼ばれていた。 しかし、明暦3年(1657)の振袖火事で焼失してしまった。 その後、幕府から八丁堀の先の海上への移転が許可された。 そこで佃島の門徒が中心になり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(土地の名は“築地”)、延宝7年(1679)に「築地御坊」として再建された。 その後、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した本堂の再建では、東京(帝国)大学工学部教授・伊東忠太博士の設計による古代インド様式で昭和6年(1931)に起工、3年後の昭和9年に落成され現在に至る。 なお、施工は寺社建築を得意とする松井組(現:松井建設)である。 この建物は、インド様式の石造りで、本堂内は伝統的な真宗寺院の造りとなっている。、、、、広い境内に散見するのは外人観光客と、境内を斜めに横切り通勤する日本人のサラリーマン。
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● 築地本願寺から北へ200m程、NTTデータ築地ビルの外壁に、「築地小劇場跡」の碑がある。 築地小劇場は、土方与志と小山内薫が大正13年(1924)に開設した日本初の新劇の常設劇場である。 劇場の面積は100坪弱、平屋の建物で、客席は400~500席。 電気を用いた世界初の照明室を備えていた。 クッペル・ホリゾント(クッペル=ドーム、ホリゾント=舞台背景の幕)と呼ばれるドーム型の湾曲壁を設け、天井が高く、可動舞台を備えていた。 高度な照明設備と優れた舞台を備えていたため、演劇の実験室としての役割を果たしたそうだ。、、、、“新劇”と言われても、演劇には縁遠い私には“何が何だかさっぱり判らん”。 でも“築地小劇場”の名は知ってるぞ!
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● 築地の隣接する明石町、聖路加病院の隣りに「カトリック築地教会」がある。 カトリック築地教会は東京で最古のカトリック教会。 また当教会の聖堂は平成11年(1999)東京都景観条例により歴史的建造物に選定された。 さらに平成13年には中央区からも文化財に選定された。、、、、築地教会は、明治4年(1871)に鉄砲洲の稲荷橋近くにひらかれた「稲荷橋教会」を前身とし、明治7年に築地居留地(明石町)に移転した。 現在の聖堂は、関東大震災によって明治11年創建の旧聖堂が焼失したため、昭和2年(1927)に再建されたもので、教会としては珍しいギリシア神殿パルテノン風の建物である。、、、、ゴテゴテせずに白を基調とした簡素な聖堂で、落ち着いた雰囲気で祈りを捧げるのもいいね!
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・・・・・・・・・・ 教会の前に「暁星学園発祥の地」の石碑がある。 東京に住む人には、ミッションスクールとして有名な暁星学園を知る人は多いと思う。 その暁星学園の発祥は、カトリック築地教会敷地内に神学校として開設した家塾が母体となっており、設立は明治21年(1888)である。
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● 八丁堀駅方面に歩いて行くと「鉄砲洲稲荷神社」の前に出た。 『チョイト、手を合わせて行くか!』、、、、立派な富士塚もある神社で、御利益を期待して、100円硬貨を投げ入れ、二礼二拍手一礼。 御利益、宜しく!
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● 鉄砲洲稲荷神社から都営浅草線の宝町駅に出て帰宅する。
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2024年1月28日 (日)

東京駅八重洲口まで

寒波の影響で連日東京の気温は10℃に達せず、都心(大手町)では今朝9時の気温は7.7℃、外出するのを躊躇(ためら)う寒さだ! 『今日の散歩は、寒いから近場にしよう!』と思い、我が家(浅草橋)から東京駅まで、1万歩の散歩となった。




● 朝8時、浅草橋駅前をスタートする

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● 浅草橋駅前の「人形の久月」は、天保6年(1835)創業。 江戸時代からの三階建ての大きな土蔵造りの旧店舗は、昭和51年(1976)に現在のビルに建て替えられたが、正面玄関に掲げられている「久月総本店」の看板は昭和初期に作られたもの。 この看板は、当時蔵前の華徳院(現在の浅草橋2丁目付近にあった、閻魔王を本尊とする寺。 関東大震災後、杉並区松ノ木へ移転)の住職でもあった書家、豊道春海師の揮毫(きごう)によるものだ。、、、、私の知る戦後の久月では、土蔵造りの黒光りした重厚な旧店舗に、この看板が掲げられていた。 まさに江戸時代からの老舗である。 

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● 神田川を越えて中央区に入り、中央区日本橋横山町4丁目に「大原第5ビル」がある。 この建物は、昭和4年(1929)、清水組(現:清水建設)の設計施工で竣工した。 現在は、ヘアーサロン、飲食店、ブティックなどが入居しているテナントビルだ。

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● 日曜日の朝、人影のない日本橋富沢町。 日本橋富沢町は、寝具メーカーの「西川」など繊維関係の企業が多いビジネス街。

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・・・・・・・・・・ 日本橋富沢町の一角に残る国登録有形文化財の旧川崎貯蓄銀行富沢町支店(昭和7年(1932)竣工、3階部分は後に増築)。、、、、現在は「ハリオグラス」の所有となっているが、旧川崎貯蓄銀行富沢町支店→旧常陽銀行東京支店→旧常陽銀行堀留支店→ハリオグラスと変遷した。 外観は、明治から昭和初期にかけて多く見られる銀行建築の建物、西欧古典主義様式によるデザイン。 隅切りされた角に正面玄関を配した設計は、この建物を特徴的なものにしている。

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● 日本橋富沢町の隣り、日本橋堀留町に“宝くじの神様”がいる、椙森神社(すぎのもりじんじゃ)がある。、、、、椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれている。 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために伏見稲荷の「伍社の神」を勧請して厚く信仰した神社である。 そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めた。、、、、また、しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当椙森神社の富も人々に人気があった。 早い話、神社で宝くじを発行し、江戸の復興財源とした。 現在でも、“〇〇地震復興宝くじ”などを発売して災害復興支援するのと同じだ。 私も、チョイト協力して宝くじを買わせてもらっているが、チットモ当たらない。 今日も拝殿横にある「富塚」にも手を合わせ、『欲張って10億とはいいません、1億でいいです。 ナニトゾ、ヨロシク』と祈る。

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● 椙森神社のある日本橋堀留町も、日本橋富沢町と同じように繊維・衣料関係の企業が並ぶ商業地である。 地名の“堀留”とは、江戸時代に堀留町に日本橋川から舟運物資の荷揚げ用に堀割がつくられたが、町中の先で堀割が行止まりとなっていたことに由来する。 この堀割(東堀留川)は戦後まで残っていたが、昭和20年の終戦を迎え、戦災で被害を受けた東京を復興するため、戦災で発生した残土・ガラ・廃材などを処分する場所として東堀留川が埋め立てられた。 東堀留川の埋立ては昭和23年(1948)から始まり、翌年には完了した。 埋め立てられた跡地は、現在は堀留児童公園として整備されている。、、、、白黒写真は堀留児童公園にある、東堀留川の説明板に表示されてた、昭和23年の東堀留川

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本町2丁目交差点昭和通りを越えると、日本橋三越前に出る。

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・・・・・・・・・・ 三越本店の建物(国指定重要文化財)は、昭和10年(1935)に完成、ルネッサンス式建築の威容を誇り、当時は国会議事堂、丸ビルに次ぐ大建築物であった。 本館正面玄関には待ち合わせの場所として親しまれる「三越の守護神」とも言うべき「ライオン像」が客を迎える。

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・・・・・・・・・・ 三越の隣りには、こちらも国の重要文化財である旧三井本館の建物がある。 この建物は、米国のトローブリッジ&リヴィングストン事務所が設計、ジェームズ・スチュワート社が施工をする形で大正15年(1926)に着工、昭和4年(1929)に竣工した。 完成した建物はアメリカンボザールと呼ばれ、新古典主義様式による鉄骨鉄筋コンクリート造、地上5階(現在は7階)で地下2階という当時では丸ノ内ビルヂングに次ぐ大きなビルであった。、、、、【余談だが】“新NISA”をやるにあたり、銀行発行の書類が必要となり三井住友銀行の浅草橋支店にもらいに行った。 しかし、三井住友銀行浅草橋支店は昨年から、建物とATMだけ浅草橋に残し、店舗の窓口業務はここ三井本館内の日本橋支店で行うことになっていた。 仕方なく、先週、私はこの建物の中にある日本橋支店に初めて入ってきた。 内部は、高い天井と大きな太い柱が並ぶ広い宮殿のような建物で、ビックリ、感動だった。 これからは、家の近くの浅草橋支店はATMだけの扱いとなり、窓口業務は日本橋支店となりチョイト不便になったが、この建物の内部が見られるのは嬉しいね。

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・・・・・・・・・・ 三井本館の西隣には日本銀行本館がある。 こちらも国の重要文化財。、、、、明治初期、国家の主要な建築物の設計は、お雇い外国人によって行われていた。 日本銀行は、日本人建築家が設計を手がけた最初の国家的な建物である。 日本銀行の設計を担う辰野金吾は、1年間欧米の銀行建築を視察・調査し、コンドルの師であるロンドンのバージェス事務所で計画案をつくった。 建物は、ベルギー国立銀行を参照したともいわれる。 バロック様式をもちながら迫力に欠けた建物とも評されているが、その理由は、大オーダーや軒高欄などバロック様式の要素をもちながらも、基壇にあたる1階部分が高すぎ、大オーダーが小さく見える点にあるらしい。 だが誰が何と言おうとも日本人が最初に手掛けた近代日本の代表的明治建築である。、、、、建物の諸元は建築年:明治29年(1896)、設計者:辰野金吾、構造:煉瓦造・石造、規模:地下1階・地上3階、、、、内部を見てみたいが、日銀総裁か警備員にならないとダメかも?

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● 日本銀行から南へ歩くと、日本橋川に架かる一石橋(いっこくばし) がある。 三週間ほど前に歩いて来た常盤橋の下流側に架かる橋。、、、、江戸時代から存在した橋であるが、大正時代に架けられた石積みの橋も、平成11年(1999)までに現在の2径間連続RC床版鈑桁橋に架け替えられた。 大正時代の橋の面影は現存する親柱だけである。、、、、下流側に架かる日本橋の景観を守るため、一石橋の頭上を走る首都高の撤去工事が始まっていた。 数年後には首都高が無くなった一石橋が見られるかも、生きていたら(?)

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・・・・・・・・・・ 江戸期から明治期にかけて一石橋の付近はかなりの繁華街であり、迷い子が多く出た。 当時は迷い子は地元が責任を持って保護するという決まりがあり、地元西河岸町の人々によって安政4年(1857)に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」が一石橋南詰に建てられた。 しるべの右側には「志(知)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られて、上部に窪みがある。使用法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたという。 この石標と同じようなものが、浅草寺境内や湯島天神境内(奇縁氷人石)に残されている。

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● 一石橋から東京駅八重洲口は近い。 白い大きなテントを張った「グランルーフが見えた。

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・・・・・・・・・・ 駅前から、日本橋、浅草橋経由、南千住車庫前行きのバスで帰ることにした。 『オヤ? 誰も乗ってない、貸し切りか!』 出発間際に年寄りが一人乗って来た、私と同じ『敬老パス』の利用者だ。

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2024年1月 6日 (土)

浅草橋から皇居まで

大変な幕開けとなった令和6年。 夫婦二人暮らしの我が家では、年末に妻が風邪をひき、老々介護のスタート。 クリスマスには私も風邪をひき、夫婦で咳の音色比べ。 そのまま年を越し、除夜の鐘は布団の中で、ゴホン・ゴホン。 元日、娘夫婦と年始を祝う中、能登半島地震のニュースが飛び込みテレビに釘付け、私の咳は止まった、妻の咳はより悪化。 5日には、朝一で内科に駆け込む妻、またまた一週間分の薬をもらい、ガラガラ声で『まだ治らない!』 

二週間程歩いてなかったので、今日は足慣らし。 我が家(浅草橋)から、江戸通り沿いに歩いて、皇居まで1万4千歩の散歩です。




浅草橋駅前から江戸通り(=国道6号)を日本橋室町方向に歩く。 土曜の朝8時過ぎ、歩く人もまばら。

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・・・・・・・・・・ 神田川に架かる浅草橋を渡ると中央区。 中央区の浅草橋交差点角には、年配の方なら見たことがあると思う鷲のマークの「イーグルノート」販売元の建物「イーグルビル」がある。 昭和初期に建てられたらしい?

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● 小伝馬町交差点から、一本裏道に入り十思公園(じっしこうえん)周辺の「伝馬町牢屋敷跡」に立ち寄る。、、、、伝馬町牢屋敷は慶長18年(1613)に常盤橋外より小伝馬町へ移転されたもので、明治8年(1875)に市ヶ谷囚獄へ移転までの江戸の牢獄であった。 面積は2600余坪で、現在の大安楽寺、身延別院、十思公園、十思小学校跡などを含む一帯である。 旗本の士用に揚座敷、士分僧侶用に揚屋、一般庶民用に大牢、百姓用に百姓牢、女性用に女牢など、身分を別けて獄舎や拷問蔵などがあったそうだ。 定員は350名程度だが、最大700名を収容できたといわれてる。 牢屋奉行には石出帯刀が世襲した。 安政の大獄(1859)では吉田松陰や橋本左内らが収容されていた。
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・・・・・・・・・・ 高野山真言宗の大安楽寺は、明治15年、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かず、大倉喜八郎と安田善次郎が寄進して、受刑者を弔うために創建された。 大安楽寺=“”倉+“”田+“楽寺”  現在の建物は昭和4年(1929)の再建。
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・・・・・・・・・・ 十思公園隣りの建物の壁際に「伝馬町牢屋敷石垣遺構」の一部がと逝くように再現されている。 十思公園は、伝馬町牢屋敷の一部があった場所で、実際に発掘調査された結果、石垣等の遺構が発見されている。 大きな石を並んだ石垣跡を見ると、牢屋ではなく、冷え切った監獄のような場所だったと想像できる。 江戸時代には処刑場だけでなく牢屋敷で処刑されることも珍しくなく、吉田松陰もここで処刑されたそうだ。、、、、私の時は、苦痛なくコロリと逝くように電気椅子にして欲しいね!
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・・・・・・・・・・ 幕末の長州藩士・吉田松陰は、幕府の条約調印に関して閣老間部詮勝の襲撃を謀ったとして捕らえられ、安政6年(1859)、ここ伝馬町牢屋敷で処刑された。 松陰は、兵学、洋学に通じ、また萩に「松下村塾」を開いたことでも有名で、木戸孝允、前原一誠、高杉晋作、久坂玄瑞、伊東博文、品川弥次郎らをそこから輩出しました。 「吉田松陰終焉之地」の碑がある。

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・・・・・・・・・・ 十思公園の隣り(伝馬町牢屋敷の跡)に建てられた旧十思(じっし)小学校の校舎が残っている。、、、、昭和3年(1928)に建てられた関東大震災復興小学校の一つである。 表現主義と呼ばれている、カーブ、円、半円などの形状をデザインした建築様式の建物。
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● 中央通りと交差する室町三丁目交差点を過ぎると、「中央区立常盤(ときわ)小学校」がある。、、、、屋上の『祝 常盤小学校開校150周年』、『祝 常盤幼稚園開園127周年』の横断幕が歴史を語ってる。 こちらも、昭和4年(1929)に建て替えられた復興小学校。 十思小学校と同じように、表現主義建築として半円形の窓が特徴的。 両校とも、東京都選定歴史的建造物に指定されている。 震災後の大変な時期であったがあ、中央区・台東区などでは丁寧な設計の建物が多く作られ現存している。、、、、ちなみに、常盤小学校の設立は、明治6年(1863)に日本銀行本店の近くに開校した旧東京市常盤尋常小学校。
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● 日本銀行の西側、千代田区大手町と中央区日本橋本石町を結んで、日本橋川に東京最古の橋の常磐橋(ときわばし)がある。、、、、常磐橋は、天正18年(1590)の架橋と言われ東京では最も古い橋のひとつ。 常盤橋門の見附橋として活躍した。 現在の橋は明治10年(1877)に建造された。 橋は老朽化し人道橋となり、車道橋の役割は、常磐橋を挟むように下流側の常盤橋と上流側の新常盤橋に譲った。、、、、【ここでチョイトややっこしい説明】 日本橋川には、“ときわばし”という名の橋が2つ、“しんときわばし”が1つあり、三つの橋が約100m間隔で並んでる。 上流側に新常盤橋、次は歩道橋となった石橋:常磐橋、下流側に関東大震災後に造られた復興橋:常盤橋が存在する。 そして、三橋を区別するため、石橋の方の「」の字は「般」の下に「石」が用いられ、上下流側の二橋は「般」の下に「皿」を用いた「」である。
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・・・・・・・・・・ 常盤橋は常磐橋(石橋)のやや下流に、昭和元年(1926)、関東大震災の復興計画の一環として新たに架けられた橋。
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・・・・・・・・・・ 新常盤橋は常磐橋の上流側に、大正9年(1920)、路面電車の開通に合わせて架けられた、コンクリート製の3連アーチ橋であった。 昭和63年(1988)に解体して架け替え、全長39.35m、全幅27.00mの鋼製桁橋。
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・・・・・・・・・・ 昭和元年に架けられた常盤橋の千代田区大手町側の橋詰に、小さな常盤橋公園がある。 公園は江戸時代に枡形の城門である常盤橋門があったところで、明治8年(1875)に財団法人渋沢青淵翁記念会(渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われ、東京市の公園として公開された。 それ故に、園内に渋沢栄一の銅像(製作:朝倉文夫)が建っている。 
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● 大手町、東京駅前を通り抜け皇居に向かう
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● “二重橋”の謂れ・定義はどうでもよくて、皇居前広場から正門前の石橋とその奥にある鉄橋を眺め、新年の始まりとする。、、、、今年は波乱万丈の幕開けとなった。 これ以上災いが無いことを祈る。
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2023年8月31日 (木)

夜明けの隅田川

毎日が猛暑・酷暑でドッコイショ! まだまだ日中は暑く、散歩に出る勇気なし! 今朝は4時前に起き、夜明けの散歩に行ってきた。 浅草橋の我が家から、鳥越神社 → 蔵前橋 → 東京都慰霊堂 → 刀剣博物館 → 隅田川テラス → 両国橋 → 柳橋 → 浅草橋駅と、ぐるりと回ってきた。 7千歩




● 昨夜は9時に眠りに入り、今朝は3時45分に目が覚める、眠り疲れたのでそのまま起床。 『そうだ、夜明けの散歩をしよう!』と家を出る。 夜空には星が輝き、まだ暗い。 ご近所さんは熟睡中、静かに我が家をあとにする。

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● 我が家から数分で鳥越神社に到着。 賽銭泥棒が活躍する時刻だ! 間違われないように賽銭を奮発し、堂々と参拝。

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蔵前一丁目交差点、東の空はチョイト明るくなった、そろそろ夜明けかな? 只今の時刻4時31分、国立天文台の計算値では今日の日の出は5時12分、東京の空は日の出の40分程前から明るくなるようだ!

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● 隅田川に吹く風がチョッピリ涼しげな蔵前橋を渡る。 橋から上流側には、夜明けの空にスカイツリーのシルエットが映る。

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● 明日は9月1日、震災記念日だ、『チョックラ、震災記念堂に寄って行こう!』 下町の年寄は“震災記念堂”、今の若い人は“東京都慰霊堂”と呼んでいる。 旧震災記念堂(現:東京都慰霊堂)には、震災、戦災合わせて約163,000体の御遺骨が安置されている。 明日は関東大地震から100年目、大勢の参拝が見込まれるので、私は今日手を合わせていく。 合掌

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・・・・・・・・・・ 東京都慰霊堂前、東の空は赤く染まってきた! 山頂とは違うので、御来光は見えないね!

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● 震災記念堂から隅田川へ出る道沿い(全て墨田区横網町)に、大きな建物がいくつか、、、、写真の順に、①国際ファッションセンタービル(地上25階、第一ホテルが入居)、②NTTドコモ墨田ビル(地上27階、遠くからでも目立つ背の高いビルです)、⓷アパホテル&リゾート 両国駅タワー (地上31階、客室数1111室)

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● 震災記念堂の西側に安田庭園があり、その一角に刀剣博物館がある。 私は、近くに住むからか(?)いまだ、内部見学してません、ゴメン!

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隅田川テラスとは、上流の北区から下流の江東・中央両区まで、隅田川岸両岸に整備された親水テラス(台風が来ると“浸水”テラスになる)、、、、両国国技館前のテラスを歩き、両国橋まで、、、、総武線隅田川橋梁では、5時チョウド浅草橋発の一番列車が通過する、、、、体操で鍛えるお年寄り

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● 今日の日の出時刻の5時15分、両国橋を渡る。 すでに空は明るい。 

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● 「贅沢な人の涼みや柳橋これは正岡子規の句。 チョイト昔は夏の夕涼みができた川岸も、今は日が落ちてもムシムシ、ダラダラ、ベトベトの熱帯夜。 モ~嫌!

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浅草橋駅の到着。 駅裏の銀杏岡八幡神社にも朝の御挨拶、『今日も一日平穏でありますように』、あたりさわりのない言葉で神頼み。、、、、5時35分、我が家に到着。

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2023年8月17日 (木)

夜明けの浅草橋

今日までの東京都心の猛暑日(35℃以上)は20日となり、過去最多を更新してる。 また雨にも悩まされる夏となった。 70代後半の私にとっては、熱中症が怖く日中の散歩は“お預け”。 外出してもデパート、量販店、病院とエアコンのある所ばかり。、、、、そんな夏休み期間中、私の足が退化すると困るので、8月に入ってからは、毎日、早朝の御近所散歩をしている。 朝4時半頃起床し30分程、浅草橋の御近所を歩いてくる。 5時半頃からテレ朝の『グッド!モーニング』(斎藤ちはるアナのファン)を見て、一日が始まる!

今日はカメラ持参で、ご近所の散歩をしてきた。




● 今日の日の出は5時1分、ちょうどその頃我が家を出る。、、、、まだ、皆さん寝てるね、我が妻も熟睡中。

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浅草橋駅は営業開始、一番列車の到着待ち。、、、、駅裏の銀杏岡八幡神社はまだ熟睡中。、、、、日本橋と浅草を結ぶ江戸通り(国道6号)も、車は少ない。

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● 神田川を越えると中央区、中央区側にある浅草橋交差点(江戸通りと靖国通りの交差点)も車は少ない。

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● 昭和4年(1929)完成の現:柳橋を渡る。 欄干の“かんざし”を見ると、多くの柳橋芸者で華やかであった花柳界当時を思い出す。

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・・・・・・・・・・ 橋の脇には柳の木

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隅田川でチョイ休憩!、、、、まだ薄暗いが、川岸は涼しいね!

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● 柳橋の町を抜けて我が家へ戻る。、、、、東京の夜明けだ!

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2023年6月25日 (日)

日曜の朝

沖縄は梅雨明け、東京も梅雨明けしたかのような陽気、朝からギンギラギンの晴天。 今日は浜松町から、銀座、日本橋をとおり抜け、浅草橋の我が家まで、1万4千歩の散歩です。




● 通勤通学客の少ない日曜日の朝8時前、山手線の「浜松町駅」は人影も少ない。 浜松町駅は隣りの世界貿易センタービルの建て替え工事に合わせ、今後の混雑緩和の為、浜松町駅北口、地上3階に橋上駅改札が建設されている。 只今工事の真っ最中、完成まではあと数年、完成が待ち遠しい。

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・・・・・・・・・・ 浜松町駅のホームに立って思い出した! 『最近話題にならないが、あの小便小僧は健在か?』 チョイト御挨拶していこう! 居ました、レインコートを着て傘持って、相変わらず立ち小便してる。 昭和30年(1955)に新橋駅の嘱託歯科医だった小林光氏から寄贈され設置された。 ホームで立ちションをはじめて70年近い、“小便小僧”も“小便ジジイ”に変わったかな? 長い間疲れたでしょう、小便の出はいかが? 出が悪くなったら、泌尿器科で診てもらってね!

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● 浜松町駅から北へ、チョッピリ古いものを見ながら歩き、新橋まで

・・・・・・・・・・ 金井醫院(浜松町1)、、、、すでに閉院してますが、温かみある昭和初期の建物か?

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・・・・・・・・・・ 葵ビル(浜松町1)、、、、昭和52年(1977)竣工のビル

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・・・・・・・・・・ JR東日本 変電所(東新橋2)、、、、大正15年(1926)には存在していた、鉄道省時代の新橋変電所(旧:汐留変電所)

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・・・・・・・・・・ 新銭座ガード(東新橋2)、、、、変電所の脇にある山手線・京浜東北線のガード。 煉瓦造の橋台は明治43年(1910)頃に造られたか?

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・・・・・・・・・・ 左の盛土は東海道新幹線、右の高架橋はゆりかもめ、足の下には見えないが都営地下鉄大江戸線が走る「都道481号線」  正面に見えるは汐留の超高層ビル群。

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・・・・・・・・・・ 日比谷神社(ひびやじんじゃ、東新橋2)、、、、豊受大神・瀬織津比売大神・速開都比売大神・気吹戸主大神・速佐須良比売大神を祀る神社。 創建年代は不詳。 元は現在の日比谷公園内の大塚山に鎮座していた。 慶長年間、江戸城の拡張に当たり、氏子とともに芝口(現在の東新橋)に移され、明治時代、鉄道(東海道線)の敷設に当たり新橋4丁目に遷座した。 さらに、境内地全域が計画道路の予定地にかかっていたことから、平成21年(2009)に東新橋2丁目の国道1号(第一京浜)沿いに遷座した、歴史は古く社殿は新しい神社。

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・・・・・・・・・・ 新橋駅前ビル2号館ゆりかもめ新橋駅(新橋2)、、、、JR新橋駅の東側にある新橋駅前ビル1号館・2号館は昭和41年(1966)にオープンした。 この2棟のビルを中心に新橋駅前(東側)の再開発が予定されており、いずれ取壊しがはじまると思われる。 1号館と2号館の間に割り込むようにゆりかもめの新橋駅がある。

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・・・・・・・・・・ 新橋の親柱(新橋1)、、、、新橋は汐留川に架かる橋であったが、昭和36年(1961)に埋め立てられて姿を消した。 現在残っているのは大正14年(1925)の架け替え時の親柱である。、、、、親柱の脇には銀座の柳(二世)銀座の柳碑がある。 石碑には『植えてうれしい 銀座の柳』で始まる、四家文子(よつやふみこ)が歌って大ヒットした曲が記されてる。 この歌は、昭和7年発売された『銀座の柳』(作詞・西條八十、作曲・中山晋平)で、昭和4年発売のヒット曲『東京行進曲』の続編にあたる歌である。 『東京行進曲』は、『昔恋しい 銀座の柳』という出だしで始まる。 昭和43年(1968)には銀座通りの改修工事によって、柳の街路樹はすべて撤去されてしまった、都電もなくなり銀座の風情が変わった時代だ!

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● 日曜日の朝、8時半過ぎ、人も車も少ない中央通り(=銀座通り)を歩く

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店は開店前の清掃中。 『営業開始は10時30分です!』

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・・・・・・・・・・ 銀座四丁目交差点も静か、まだ眠たそうなライオン像

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・・・・・・・・・・ “銀座”の北端は、1丁目の「銀座一丁目交番」、、、、道路を挟んで交番前に保存されてる京橋の親柱(大正)をモチーフにした交番、いいね!

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● 銀座を抜けて、京橋日本橋を歩く、、、、9時過ぎた、人も車も動き始めたようだ、、、、気温も上昇し30℃。 汗びっちょり、熱中症が心配になってきたが、我が家まではあと30分程、もう一歩き、頑張るぞ!

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室町三丁目交差点で江戸通りに入り、浅草橋の我が家を目指す、、、、我が家の近く「浅草橋駅北バス停」に10時過ぎに到着! 『ただいま~!』 『スゴイ汗、早く、服を取り換えて!』

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2022年7月21日 (木)

冷やし中華の発祥地

九段下から靖国通り沿いに歩き浅草橋(我が家)まで、1万歩の散歩です。



● 浅草橋駅から都営浅草線に乗り次の東日本橋駅(=馬喰横山駅)で乗り換え、都営新宿線の九段下駅で下車する。 今日の散歩は「九段下駅」からスタートする。、、、、、九段下駅は、東京メトロ東西線・半蔵門線、都営地下鉄新宿線の駅である。 駅名はその名のごとく九段坂の坂下に位置することに由来する。 昭和40年代頃までは、須田町方面と渋谷方面を結ぶ都電が走っており、30年代には私も通学に利用していた、懐かしの路線。、、、、地下鉄の開通は、昭和39年(1964)12月23日の東京メトロ東西線開通、昭和55年(1980)3月16日の都営新宿線、平成元年(1989)1月26日の東京メトロ半蔵門線が、順次開通した。 ホームは地下2階に相対式2面2線の東西線ホームがある、地下4階には半蔵門線と新宿線のホームが相対式2面2線の間に島式1面2線の構造で配されている。、、、、昭和47年(1972)、私が勤めるゼネコンが九段下駅~市ヶ谷駅間のシールドトンネル工事を施工しており、当時新人の私は、研修で九段下から工事現場に入らされた。 生まれて初めて、恐る恐る、ワクワク・ドキドキ、トンネルの工事現場に入った思い出ある地。

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・・・・・・・・・・・・ 地上に出ると、普段であれば『東西南北どちらに向かう?』と悩むのであるが、今日は、熱中症が心配なので寄り道せずに、靖国通り沿いに浅草橋(我が家まで)まで歩くことにする。、、、、九段下駅を出て、チョイト横丁に入ると、懐かしい構えの住宅(千代田区九段南1)があった。 2階の丸窓、最高!

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● 九段下から神保町に向かうと、まず首都高の下、日本橋川に「爼橋」が架かっている。 橋名の「爼橋(まないたばし)」は難読だ。 名前の由来は、橋が2枚の爼(まないた)を渡したような板橋であったことによるとする説と、近くに存在した台所町との関連で名付けられたとする説がある。、、、、最初の爼橋は江戸時代初期に架けられたそうだ。 関東大震災後は、大正通り(=靖国通り)の拡幅に合わせ、昭和4年(1929)に爼橋も長さ25.6m、幅42.0mの鉄筋コンクリートのアーチ橋に架け替えられた。 昭和42年(1967)上部に首都高が建設され、さらにその後、地下には地下鉄が建設されたのに伴い、昭和58年(1983)に現在の鋼桁橋に架け替えられた。

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● 専大前交差点から駿河台下交差点までは、靖国通りの南側に平行する「さくら通り」・「すずらん通り」を歩く。

・・・・・・・・・・・・ 専大(=専修大学)前交差点の南側「さくら通り」入口前にある、うなぎ専門店「今荘」 玄関は角地を切り欠いて設けられ、正面には唐破風、その上の2階には丸窓、最上部は神社のような破風がある、遊郭のような建物。 昭和初期(昭和8年らしい)の建築。、、、、建物もいいが、蒲焼もいいね!

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・・・・・・・・・・・・ さくら通りの神保町側入り口脇に、社会鍋でおなじみの「救世軍日本本営」の建物がある。 以前の建物は、現在と同じ場所に4階建て(?)の中世のヨーロッパの城のような雰囲気の建物だった。 当時中学生であった私にとっては、軍服を着た人が出入りする建物なので、チョイト怖そうで近寄りがたかった。

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・・・・・・・・・・・・ 白山通りを横断し、すずらん通りに入ると「揚子江菜館」がある。、、、、神保町交差点を中心に、さくら通り・すずらん通り界隈は、明治・大正期から華人が住み中華料理店を営み“中華街”であった。 現在でも約30店の中華料理屋が点在する。 その内の1店が揚子江菜館だ。、、、、夏になると、ここが発祥の店と言われている「冷やし中華」を食べに行く。 今年は、先週末に家族で食べてきた。 旨い!

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・・・・・・・・・・・・ すずらん通りの駿河台下側の入口には、「文房堂(ぶんぽうどう)」がある。、、、、明治20年(1887)神田小川町に創業。 日本で初めて大学ノート、便箋、五線譜などの文房具を製造発売した。 現在は画材関係の店として有名だ! 現在の建物は大正11年(1922)に完成した名建築。

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● 駿河台下からは靖国通りを歩き浅草橋へ・・・・・そろそろ暑くなってきた、熱中症の予防に「ソルティライチ」を飲みながら歩く。 小川町、岩本町を過ぎると浅草橋の交差点。

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浅草橋駅高架下のPCR検査場、予約なし・無料にもかかわらず、いままで閑古鳥が鳴いていたが、今日は行列ができていた。 東京都の感染者3万人超となれば、怖くなったのか!

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2022年5月 5日 (木)

GWの第一京浜

ゴールデンウィークは東京で静かに過ごすつもりだが、昨日のニュースでは都内各所で最高の人出となったそうだ。 今日も五月晴れで、チョッピリ歩いてみたくなり、我が家(浅草橋)から日本橋・銀座・新橋をとおり泉岳寺まで歩いてきた。 1万9千歩の散歩



● 朝7時、『人っ子一人歩いていない』と言いたいが、一人だけ歩く人がいた浅草橋駅前から散歩をスタート。 駅前の国道6号(江戸通り)を日本橋に向かって歩く

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● ゴールデンウィークの真っただ中、人も車も少ない馬喰町の問屋街や日本橋本町のビジネス街、まだ店開きには早すぎる時刻(7時半)に日本橋三越前を通過。 

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・・・・・・・・・・・・今日は『こどもの日』、チョイト前までは『端午の節句』、いずれにしても国民の祝日。 「三越デパート」の玄関先には大きな日の丸が掲げられていた。 昭和の時代頃までは、国民の祝日に一般家庭でも玄関先に国旗を掲揚し祝ったものだが、今の時代は国旗を掲げる家は少なくなった。(我が家もその仲間)、、、、三越の日の丸を見て感動!

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● お江戸の中心「日本橋」に到着。 チョイト「道路元標」を見て行くことにした。 丸いプレート状の本物は橋の中央に嵌め込まれてる(車道中央で写真を撮るには死を覚悟)、複製は橋のたもとにある。 日本橋の頭上を走る首都高にも道路元標がある!

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● 日本橋の「高島屋」では、玄関に国旗の掲揚をしていない。 デパート近くの「日本橋三丁目八日通り」では、街路灯に国旗がなびいてる。 いいね!

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● 時刻は8時、銀座一丁目から八丁目まで営業中の店は無く、キョロキョロすることもなく通過。、、、、資生堂の横の「花椿通り」でも国旗が掲げられていた!、、、、日の丸ではなく旭日旗にすると、韓国人は銀座に来ないかも?

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● 新橋から大門交差点・三田駅前と国道15号(第一京浜)を歩く。 時刻は9時、行き交う車は少なく『ゴールデンウィークだから』と感じる。 

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・・・・・・・・・・・・途中、金杉橋際の「浜松町交番」でも日の丸が出ていた。、、、、連日「ウクライナ侵攻」のニュースを見ていると、国旗への思いが深まり、今まで以上に国旗に敬意を示したいものだ! 

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● 都営浅草線泉岳寺駅の北端に「高輪大木戸跡」がある。 宝永7年(1710)、東海道から江戸府内の入口として、また南の出入口として設けられた大木戸の跡である。 東海道から江戸府内に出入りする人・物を管理するため、道の左右に土塁を設け、その間に柵と門が造られた管理用のゲートである。 その土塁の片側が残されている。

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・・・・・・・・・・・・この土塁の石垣に「几号水準点」がある。 几号水準点は車道側の石垣にあり、チョイと危険なので、見るには勇気がいる。、、、、付近には、清正公山門前西光寺などに几号水準点が残っている

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・・・・・・・・・・・・大木戸跡から高輪ゲートウェイ駅側に10m程行くと、駅前再開発用地を囲むフェンスが目に入る。 その中では、明治5年(1872)にわが国初の鉄道が開業した際に、高輪付近の海上に線路を敷設するために築かれた「高輪築堤」の発掘現場がある。 チョイト、フェンスの隙間からその現場を覗いてきた。 

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● 都営浅草線の「泉岳寺駅」は、昭和43年(1968)6月21日に開業した。 JRの高輪ゲートウェイ駅とは至近で、駅前再開発の最寄り駅となる。 現在はホーム幅の狭い2面4線の地下駅であるが、ホーム幅を大きく広げ、地下コンコースも設ける大改良工事が始まった。

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