熊野前から上中里
日暮里舎人ライナーの熊野前駅から歩き始め、JR尾久駅前をとおり、JR京浜東北線の上中里駅まで、9千歩の散歩です。
● 今朝、散歩に出るとき、妻に『今日はどこへ行くの?』と問われ、『特に決めていないが、どこへ行こうかな?』と返す。 『どこでもいいけど、熊に気を付けてね!』と言われ、『熊か、クマか、そうだ熊に会いに、熊野前に行こう!』と返し、散歩の行先を決めた。、、、、、「熊野前」はJR日暮里駅から日暮里舎人ライナーで3駅目、荒川区にあって、都電荒川線と交差する位置にある。 熊が出没するとは思えない下町の駅である。 駅名の“熊野”は、かつて駅の北側にあった熊野神社に由来する。、、、、、日暮里舎人ライナーの熊野前駅は平成20年(2008)3月30日に開業した。 尾久橋通りの中央頭上に位置する島式ホーム1面2線の高架駅。




● 熊野前から都電荒川線沿いに一駅、隣の「宮ノ前(みやのまえ)停留場」へ向かう。 宮ノ前停留場の名称は、尾久八幡神社の前に位置することによる。、、、、、都電荒川線の前身:王子電気軌道の三ノ輪~宮ノ前~飛鳥山下間が開業したのは、約110年前、大正2年(1913)4月1日である。 昭和17年(1942)に東京市に事業譲渡され、東京市電荒川線となった。

● 宮ノ前停留場の正面に鎮座する「尾久八幡神社」。 尾久八幡神社は応神天皇を主祭神とする。 神社の正確な創建の年は不詳だが、鎌倉時代末期の正和元年(1312)に尾久の地が鎌倉鶴岡八幡宮の神領になった頃と考えられている。 神社に残る棟札から至徳2年(1385)に社殿が建てられたことが確認できる。古くから農工商の神様として尾久の人々に信仰されてきた。、、、、、熊野前駅の近くにあった熊野神社は、明治11年(1878)に当社に合祀された。、、、、、境内のあちらこちらに『七五三詣』の旗が立ち、引き続き正月詣で、神社は超大忙しとなるのかな?

● 都電の線路を挟み尾久八幡神社の向かいに、曹洞宗の寺院「碩運寺(せきうんじ)」(西尾久2)がある。 碩運寺は、慶長元年(1596)に創建されたといわれている。 大正年間に本所石原町から当地へ移転した。 大正3年(1914)に寺内に温泉が湧き、寺の湯「不老閣」の営業を開始した。 ラジウム鉱泉で、周辺には保生館、清遊館、大河亭、小泉園などの旅館も開業し、都電の開通と相まって寺の周辺は温泉街として賑わい、商店街も形成されたそうだ。 
・・・・・・・・・・ ところが、ギッチョン・チョン、話はこれが始まりで、周辺の温泉旅館、商店街の発展は、尾久三業地(現:西尾久、料亭・芸者置屋・待合のあった所)発展の幕開けとなり、色街へと変わって行く。
・・・・・・・・・・ 昭和11年(1936)2月、陸軍将校のクーデターである2・26事件が起きる。 世の中は大きく変わって行くことになる。 その年の5月18日、尾久三業地の待合「満佐喜」で殺人事件が起きた。 粋で鯔背な格好の40歳代の遊び人:名は石田吉蔵と、30代の玄人美人:阿部定が宿泊した。 翌朝、女は外出したが、男は起きてこず、女中が部屋に確認に行くと、蒲団の中で死んでいた。 ナント!男の一物が切り取られ、太股には血で「定、吉二人」と書かれていた。 こうして、猟奇的殺人事件の幕が開いた。、、、、、これぞ有名な阿部定事件である、、、、、この後、事件の顛末は、皆さん自分で調べて!
・・・・・・・・・・ 戦後、尾久三業地は周辺の工業化で地下水を汲み上げすぎて温泉は出なくなり廃業していった。 現在は産業地の面影も消えた!
● 尾久八幡神社の周囲、碩運寺の前などに、江戸時代から大正時代まで、「八幡堀」という石神井川用水が流れていたそうだ。 その水路は今は無くなったが、主に西尾久1丁目・2丁目の裏道が交差する部分にタイルが埋め込まれ水路跡が標されている。 また水路跡は「すいろみち」として整備されている。



● 荒川区西尾久の町を歩き、JR尾久駅前に出てきた。 まだ、体力、時間に余裕があり『もう少し歩いてみよう』と思い、駅前の明治通りを西に向かう。

・・・・・・・・・・ 明治通りが都電荒川線と交差する梶原交差点の手前で、寂れた「上中銀座商店会」を歩き上中里駅に向かう。
● JR上中里駅に到着。 チョイと疲れた!






















































































































































































































